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法華三部経の要点78

法華経を説きひろめることが最高の人生

1 ...法華三部経の要点 ◇◇78 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経を説きひろめることが最高の人生 大慈・大悲の心を持とう  第四の「誓願安楽行」についてはこう説かれています。  まず「仏法が忘れ去られようとする末の世において法華経を受持する菩薩は、在家・出家の人びとに対して、その人びとの幸せを願う大きな心(大慈)を持たなければならない」とあります。これはもう解説の要はないでしょう。  次に「みずからの人格完成ばかりのために仏法を学び、世の人のために仏法をひろめる努力をしない人(菩薩に非=あらざ=る人)に対しては、どうしてでもその人を救いたいという大きなあわれみの心(大悲の心)を起こして、つぎのように決意しなければなりません」とあります。  それはどういう決意かといいますと、「このような人たちは、仏の方便・隨宜の説法(それぞれの人と場合に即したケース・バイ・ケースの説法)の真意が法華経に集められ、結晶されて説かれていることを知らないのだ。それを聞こうともしないし、したがって覚えることもない。尋ねようともしないし、したがって信ずることもない。しかし、たとえ今はこの法華経の教えを聞かず、信ぜず、理解しなくても、もし自分が最高の悟りを得たならば、どんな土地にいようとも、神通と智慧の力をもってそのような人たちを導き、この教えにはいらせずにはおかない」という決意であるべきだ……というわけです。 「入信即布教者」これぞ菩薩  この誓願の中でひとつ気になるのは、「もし自分が最高の悟りを得たならば」という前提です。当時はそれぐらい法華経を理解し布教するというのは難しかったのでしょう。見宝塔品に「須弥山(しゅみせん)を手に取って他の世界へ投げるよりもこの法華経を説くことは難しい」というような「六難九易」の法門が説かれているぐらいですから。  しかし、現在は事情がたいへん違ってきています。とくに大乗相応の国といわれている日本では、聖徳太子このかた人びとの魂の底に法華経精神が深く沈んでいますし、また一般に教養のレベルが高くなっていますから、それほど難事ではなくなっています。また、法華経のくわしい解説書も市販されていますし、その他の文書布教の媒体もそろっています。ですから、昨日法華経に触れた人でも、ほんとうにその教えに感動を覚えた人ならば、今日からでもそれを人に伝えることも可能になってきました。ですから、当時と違って「入信即布教者」――これが現代の菩薩の条件であることを、ここであらためて知ってもらいたいと思います。  最後に、以上の四つの安楽行を成就する人は、神々が必ず守護されるであろうと説かれています。とくに「人あり来って難問せんと欲せば、諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護し、能く聴者をして皆歓喜することを得せしめん」という一節、これはわたし自身がつねに体験してきた事実です。菩薩である会員の皆さんも、しばしばそういう実感を得られていることと思います。ほんとうにありがたいことです。  とにかく、至上の真理の教えである法華経を説きひろめることこそが人生の最も価値ある行いであることを、ここで再認識いたしましょう。 ...

法華三部経の要点79

【機関紙誌】

佼成会会員は現代の地涌の菩薩

佼成会会員は現代の地涌の菩薩

1 ...法華三部経の要点 ◇◇79 立正佼成会会長 庭野日敬 佼成会会員は現代の地涌の菩薩 人間の教化は人間の手で  従地涌出品に入ります。  世尊が安楽行品の説法を終わられますと、この娑婆世界以外の国土から来ていた菩薩たちが、「わたくしどもは世尊の滅後もこの地にとどまりまして、この教えを説きひろめたいと存じますがいかがでしょうか」と申し上げます。  それをお聞きになった世尊は、「お志はありがたいが、その必要はありません。この娑婆世界にはずっと昔から無数の菩薩たちがおり、法華経を説きひろめる役目はその人たちがやってくれますから」とお答えになります。その瞬間、大地に無数の割れ目ができ、そこから、ほとんど仏に近いような吉相を具えた菩薩たちが無数に湧(わ)き出してきたのです。その菩薩たちは、一人で一千万人の弟子を引き連れている者もあれば、百万人から一万人までの弟子を従えている者もあり、千人ないし百人、あるいは五人・四人・一人の弟子を連れている者もありました。  その中の指導者格である上行(じょうぎょう)・無辺行(むへんぎょう)・浄行(じょうぎょう)・安立行(あんりゅうぎょう)という四大菩薩が世尊の前に進み出てごあいさつを申し上げますと、世尊はずっと前からの知り合いのように親しそうにそれにおこたえになりました。  その様子を見ていた弥勒菩薩をはじめとする娑婆世界の菩薩たちは不思議でたまりません。弥勒菩薩が「いったいこのりっぱな菩薩方はどういう因縁の方々でしょうか」とお尋ねしますと、世尊は「わたしが悟りを開いてから教化した者たちで、これまで娑婆世界の下の虚空に住していたのである。しかも、さらに真実のところを言えば、はるかな昔からわたしが教化してきた者たちなのである」と答えられます。いよいよわからなくなりました。  これもお釈迦さまの一つの方便で、次の寿量品で仏の本体を明らかにされるその前提としてこういう不思議なことをおおせられたわけなのです。仏さまそのものについては寿量品までの宿題として、大地から湧き出してきた菩薩とはどんな人たちであるかをあらまし説明しておきましょう。 大地を潜り抜けてこそ菩薩  世尊は「この菩薩たちは娑婆世界の下の虚空に住して悟りの境地を楽しんでいた者たちである」とおおせられています。ということは、法華経の根底である「空」の悟りに安住し、その悟りを人間世界救済のために発動せずにいた人たちのことなのです。たとえば、「人間の本質は平等な仏性である」ということを心底から悟ってはいるのだけれども、内にその悟りを楽しみ、どの人を見てもそんな気持ちで眺めているだけの、円満ではあるが行動力に欠けた人です。  ところが、どんな聖者でも、賢者でも、そうした内心の悟りに安住しているうちは、世の中を救う力とはなりえません。どうしてもいっぺん大地をくぐり抜ける必要があるのです。すなわち、現実社会の生活を体験し、煩悩の汚れと濁りの中であえいでいる大衆の中に飛び込み、その苦しみ悩みにジカに触れてみる必要があるのです。これが地涌の菩薩にほかなりません。立正佼成会会員の皆さまも、まさにこの地涌の菩薩なのであります。  つまり、この世ではじめて仏法に触れたようですが、じつは過去世において仏さまの教えを聞いており、その仏縁によってまたこの世でも法華経に遇いたてまつったのです。「はるかな昔からわたしが教化した者たちである」というお言葉は、このように受け取っていいと思います。 ...

法華三部経の要点80

【機関紙誌】

釈尊は今も生きておられる

釈尊は今も生きておられる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇80 立正佼成会会長 庭野日敬 釈尊は今も生きておられる 求めればどこにでも示現  方便品第二と共に法華経の二本の柱の一つとされている如来寿量品第十六に入ります。なぜそんなに大切な章であるかといいますと、ここで仏さまの本体を初めてハッキリと示されるからです。当時のインドの大衆は、仏さまといえば現在法を説いてくださっている釈迦牟尼世尊とばかり思っていました。ところが、じつはそうではなく、世尊が入滅されるということは、根本の真理(真如)そのものである法身の仏(本稿66回参照)と一体になられることであり、必要とあらばいつでもどこにでも示現してわれわれを教化してくださるのだということを、ここでハッキリとお説きになったのです。   このことは、現実のわれわれにとってじつにありがたいことです。釈迦牟尼世尊は今も生きておられて、われわれが熱烈にその教化を求めれば必ず救いの手を差し伸べてくださるというのですから。そのことは「衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に一心に 仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず」という偈文によって明らかです。          この霊鷲山というのはインドの特定の山ではなく世界のあらゆる場所であることは、これも偈文の「餘国に衆生の 恭敬し信楽する者あれば我亦彼の中に於て 為に無上の法を説く」によって明らかです。  このことが寿量品の要点の第一であり、このことを心の底から信じられれば、ほんとうにこの上ない救いを得られるのであります。 仏様の分身に会う有り難さ  この霊鷲山がインドのある特定の山だけをさすのでないのと同様に、世界中の至る所に示現されるお方もまた特定の応身仏としての釈迦牟尼世尊だけなのではなく、法身仏となられた釈迦牟尼世尊の分身であるさまざまな仏さまであることにも留意しなければなりません。見宝塔品に「釈迦牟尼仏の所分の身の百千万億那由他恒河沙等の国土の中の諸仏、各各に説法したまえる」とあるように、お釈迦さまの分身は十方世界のあらゆる所で法を説いておられるのです。それが寿量品の要点の第二です。  わたし自身の信仰体験からしても、法華経に導いてくださった新井助信先生も釈迦牟尼世尊の分身だったに相違ありません。また、わたしの宗教協力の精神をいよいよ確固たるものにしてくださった教皇パウロ六世もやはりそうでありましょう。  そのほか、清水寺の大西良慶師、比叡山の山田恵諦師、中国佛教協会会長の趙樸初師、アメリカのユニテリアン・ユニバーサリスト協会会長グリーリー博士、イギリスのカンタベリー大主教だったラムゼー師等々、わたしにとっての釈迦牟尼世尊の分身は数えきれないほどです。佼成会の信者さんの体験説法を聞いていて「ああ、この人もやはり仏さまの分身だなあ」と感ずることがしばしばあります。  現世で触れ合った方々だけでもこのとおりです。ましてや、前世に、前々世に、長い長い過去世に会いたてまつることのできた分身仏は、経文にあるように無量百千万億でありましょう。こう考えてきますと、自分の身の幸せをつくづくとかみしめざるをえません。皆さんも、どうかこのことに深く思いを致して頂きたいものです。 ...

法華三部経の要点81

【機関紙誌】

衆生ほんらい仏なり

衆生ほんらい仏なり

1 ...法華三部経の要点 ◇◇81 立正佼成会会長 庭野日敬 衆生ほんらい仏なり 仏の世界は常住不滅  寿量品のもう一つのありがたさは、仏さまの世界の常住不滅とその美しさ安楽さを説き示してくださっていることです。すなわち、偈の中にこう仰せられています。  「衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり 園林諸の堂閣 種種の宝をもって荘厳し 宝樹花果多くして 衆生の遊楽する所なり」  「劫尽きて」というのはこういうことです。古代のインドでは、一つの世界が成立し、継続し、破壊し、次の世界が成立する経過を四つに分けて考えていました。  成劫(じょうこう)――地球のような天体が成立し、そこに植物や動物などの生命あるものが生まれる時期。  住劫(じゅうこう)――その世界が大体そのままの形を保って続いていく時代で、現在はその時代に当たります。  壊劫(えこう)――破壊期です。まず生命あるものが死滅してゆき、つぎに大地がこわれ、一切が無に帰する時期。いま地球はこの心配をかかえています。  空劫(くうこう)――形あるものが一切なくなった時代。  この空劫が終われば、また成劫が始まり、住劫・壊劫・空劫と続き、こうして宇宙は永遠に新生と死滅を繰り返していく……というのです。そこで、前述の偈を現代文に訳せば「衆生の目から見れば、この地球が現在のような状態で存在する時代が終わって世界全体が大火に焼かれてしまうと見える時代が来ても、仏の国土は安穏で天上界の者や人間界の者がいつもたくさん集まって住み、楽しい生活を送っているのである。美しい花園もあれば、静かな林もあり、美しい建物がたくさんあり、それらは光り輝く宝玉によって飾られている。美しい木々には花が咲き乱れ、実が豊かにみのっており、その下で衆生が何の憂いもなく遊び楽しんでいる」。  不安と恐怖に充ち満ちたいまの世の中においても、この偈をよくよく味わえば、なんともいえない安らかな思いがわき上がってくることでしょう。その大安心が胸中に常住するようになれば、寿量品の説く至高の境地にはまだ達し得ないにしても、信仰者ならではの法悦の中に生きていくことができるでしょう。 われわれの本質は仏と共通  それでは、寿量品の説く至高の境地とはいったいどんなことでしょうか。それは、この現実の世界に現れた「応身の仏」釈迦牟尼世尊は、宇宙の大生命ともいうべき久遠実成の釈迦牟尼世尊(本仏)の示現にほかならず、その本仏こそ、不生不滅の永遠の存在であるというギリギリの真実を完全に悟ることです。  ところで、振り返ってわれわれ衆生の身の上を考えてみますと、われわれも仏になりうる仏性を持っているわけですから、われわれの本質であるその仏性も、やはり仏さまと同じく不生不滅であるということになります。それが法華経全体を貫く真実であることを、ここで改めてかみしめたいものです。 ...

法華三部経の要点82

【機関紙誌】

寿量品の究極は自由自在の人となること

寿量品の究極は自由自在の人となること

1 ...法華三部経の要点 ◇◇82 立正佼成会会長 庭野日敬 寿量品の究極は自由自在の人となること われわれの仏性も不生不滅  前回に、われわれ衆生が仏さまと共通の不生不滅の仏性を持っているという真実について述べました。といえば、いかにも畏れおおい気がしますが、それはわれわれが「仏」という名にこだわり、仏といえばすぐ応身の仏のお釈迦さまを思い出すからでしょう。  ところが、この寿量品で明らかにされたように、仏というもののギリギリのところは、久遠実成の本仏にほかならないということなのです。 本稿49回にくわしく書きましたように、この宇宙は、百五十億年前のビッグバンによって生成したというのが定説となっていますが、その時に飛び散った放射線からさまざまな元素が生じ、それがさまざまに結び合って諸物質となり、もろもろの生命体となったわけです。  では、そのビッグバンを起こしたのは何かというと、それはもはや科学的に証明できるものではなく、学者たちもお手上げの状態です。ある学者によれば、それは宇宙意志ともいうべきものだというのです。宇宙意志といえば一種の「心」です。「根源のいのち」といってもいいでしょう。そういう存在を、ある民族は「神」と呼び、ある民族は「天」と呼びました。われわれ仏教徒はそれを「久遠実成の本仏」と呼んでいるわけです。  これも第49回の処で書いたことですが、一九八七年二月十四日に大マゼラン星雲中に発見された超新星の光の分析をしたところ、その元素の配列が人間の体を構成している元素の構成比と全く同じであることがわかったそうです。このことからも、人間が宇宙の星々と共通のいのちを持っており、宇宙の大生命ともいうべき久遠本仏の分身であることがわかるでしょう。  ですから、前回で解説したように「衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時」も、本仏さまの国土は安穏なのです。つまり、不生不滅であり永遠のものなのです。  したがって、その分身であるわれわれの本質の仏性も不生不滅で永遠のものなのです。現象としてあらわれている肉体は滅んでも、根源のいのちである仏性は滅びるということがないのであります。 久遠本仏の水中にいるわれら  このことを心底から悟ることができれば、心はつねに自由自在であり、肉体や環境がどんなに変化しようと、泰然としておられるのです。徳川時代の名僧・白隠禅師は法華経によって悟りを開かれた方ですが、その著『坐禅和讃』の中でこううたっておられます。  衆生本来仏なり  水と氷のごとくにて  水をはなれて氷なく      衆生の外に仏なし  まことにこのとおり、われわれは久遠本仏という水の中に浮かんでいる氷のようなものなのです。氷だから水とは別物だと思っているのですが、じつは同じ水なのです。その真実を、ここで静かにかみしめたいものです。 ...

法華三部経の要点83

【機関紙誌】

身辺のマイナス現象をもプラスに

身辺のマイナス現象をもプラスに

1 ...法華三部経の要点 ◇◇83 立正佼成会会長 庭野日敬 身辺のマイナス現象をもプラスに 「他事を示す」とは何か  寿量品には重要な句がいろいろあります。その中でも特に大切なものの一つはこれです。  「如来の演(の)ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり。或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す」  衆生を迷いから解脱させるためには、まず仏について説くのにもいろいろな説きかたをするのだ……というのです。あるときは、仏の本体(己身)について説くこともあれば、あるときは特定の相をとって現れる仏(たとえば阿弥陀如来や薬師如来等)について説くこともある。また仏は、あるときは仏の身(己身)として現れることもあれば、いろいろな聖人・賢人(他身)として出現することもある……というのです。  次の己事と他事については諸説がありますが、「仏の救いをそのままの形(己事)で示すこともあれば、マイナスの形(他事)を示して救いの手を差し伸べることもある」と解するのがいちばん実際的だと考えます。  たとえば、こういうことです。食中毒を起こせば発熱・吐き気・腹痛・下痢といった症状が現れます。すると、さっそく薬を飲んだり、医者にかかったりしてそれを治すでしょう。もし、なんらの症状も起こらなければ、腸内のサルモネラ菌なり病原大腸菌なりがドンドン増え、ついに死に至るに相違ありません。ですから、発熱・吐き気・腹痛・下痢というイヤな症状が起こればこそ助かるのであって、このようなのが他事の救いなのです。 「他事」をも素直に受け取れば  この「他事」はわれわれの暮らしの中によく起こってきます。大は政治・外交から、小は事業の経営や家庭内の問題まで。  たとえば外交問題の場合、諸外国からさまざまな非難を浴びたり、無理難題とも見える要求をつきつけられたりすることはしょっちゅうです。  その場合、ムキになって反発したり、敵対行動あるいは報復行為をしたりすれば、そこから事はコジれてきて、どうにもならぬ事態になってしまう恐れが十分にあります。ですから、一歩踏みとどまって、自国が過去になした行為や現在の政策にわがままや過ちがないかを反省すれば、そこから互譲と融和の道が開けてくるでしょう。  事業の経営にしても、業績が不振に陥ったのをきっかけに、目が覚めたようになって方針を改め、人事を刷新し、生産性を高め、かえって従前より繁栄におもむいた例はたくさんあります。これも「他事」の救いにほかなりません。  家庭の問題にしても、子供の登校拒否とか、主人の浮気とか、姑と嫁の葛藤(かっとう)といった悲しむべき事態が起こったとき、親なり、夫なり、妻なり、姑なり、嫁なりが、心の誤りに気づいてそれを直したために、以前よりはるかに温かい家庭となった例は、立正佼成会には数え切れないほどあります。  とにかく、この「他事を示す」ということの意味をしっかりと悟れば、それがあなたの人生にどれほどの幸せをもたらすか、計り知れないものがありましょう。 ...

法華三部経の要点84

【機関紙誌】

信仰の功徳は人生全体に及ぶ

信仰の功徳は人生全体に及ぶ

1 ...法華三部経の要点 ◇◇84 立正佼成会会長 庭野日敬 信仰の功徳は人生全体に及ぶ 仏寿無量を知る真の功徳  分別功徳品に入ります。この品は、前の如来寿量品で説かれた「仏の本体は、宇宙の万物を生かしている宇宙の大生命ともいうべき久遠実成の本仏であり、無量の寿命をもたれて常にわれわれと共にいてくださるのだ」という真実を心底から悟ることができた信仰者が得る功徳を十二項目に分け(分別し)て説き、併せて信仰者の心がけについて説いた章です。十二に分けて詳しく説いた功徳については『新釈法華三部経七巻』で読んで頂くとして、ここでは現代のわれわれにふさわしく、わかりやすくまとめてみましょう。  まず第一に、仏さまが無量の寿命をもたれていて、いつもわれわれと共にいてくださることを確信することができれば、「ああ、ありがたい」という喜びがわき起こってくるはずです。この喜びこそが信仰者でなくては得られない功徳なのです。  さらに進んで、仏さまのご寿命が無量であれば、その仏さまと本質的に同じである自分の仏性も、無量の寿命をもっていることを理解することができます。仏寿無量という真実は、そこまで読み切って初めて無限の功徳となるわけです。  ところが、自分ひとり内なる心にそのような功徳を得ても、世の中の多くの人びとが相変わらず迷いの中にあって我(が)の角突き合いをしているのでは、その争いは必ず自分の身にも及んでくるわけで、結局はほんとうの幸せを得ることはできません。ですから、自分がつかんだ真実を一人でも多くの人のために説き、その幸せをおすそ分けしなければならないのです。 身体にも生活にも現れる  さて、この「分別功徳品」の後にも、「随喜功徳品」「法師功徳品」と、信仰の功徳について説く章が続いています。したがって、ここで功徳ということについてあらまし考えておくことにしましょう。  心に得る功徳については先に述べた通りですが、心が変われば身体にも影響がないはずはなく、人生全体にも変化が起こることも常識からしても理解できることです。  身体に及ぼす影響は、近年大いに発達した「心身医学」が臨床的に証明していることで、心配事があれば食欲がなくなり、恐怖を覚えれば心臓がドキドキするぐらいはだれにもわかることですが、心とは一見なんの関係のなさそうな目の病気や皮膚疾患やぜんそくやじんましんなどでも、その原因が精神作用にあることの多いことが実証されています。  また、信仰生活に入って心の持ち方が変われば、自分の仕事や生活に対する態度も変わり、人生そのものが上向きになりますから、物質的にも恵まれるようになるのはごく自然な成り行きです。  伝教大師がいみじくも言われたように「道心に衣食(えじき)あり」なのです。  以上に述べたような功徳は、信仰の結果として自然に現れてくるものですから、素直にありがたく受け取ればよいのです。なにも「信仰は心だけの問題だから、その他の功徳は一切不要だ」などとこだわることはないのです。 ...

法華三部経の要点85

【機関紙誌】

入会したらすぐ布教者に

入会したらすぐ布教者に

1 ...法華三部経の要点 ◇◇85 立正佼成会会長 庭野日敬 入会したらすぐ布教者に 感動あってこそ進歩がある  隨喜功徳品に入ります。隨喜というのは、教えを聞いて感激し、歓喜し、心の底から「ああ、ありがたい」と思うことです。この感動こそが信仰の出発点でもあり、また究極のゴールでもあって、信仰は感動に始まって感動に極まると言ってもいいでしょう。  実生活においても、感動することのない人は、おおむね向上の意欲に欠け、広い意味での成功のきっかけをつかむことの少ない人です。また「ありがたい」と感ずることの少ない人は、たいてい心が狭く、利己的で、ひとに嫌われて寂しい一生を送る傾向が多分にあります。  反対に、何事につけても「ありがたい」「ありがたい」と言い言いして暮らす人は、それだけでも幸せな人であり、境遇はどうあろうとも、心豊かな一生を送る人なのです。江戸末期の国学者橘曙覧(たちばなのあけみ)の歌に「たのしみは朝おきいでて昨日まで無(なか)りし花の咲ける見るとき」とか「たのしみはまれに魚(うお)煮て児等(こら)皆がうましうましといひて食う時」などというのがあります。日常の何でもないようなものごとにも楽しみを覚え、ありがたいと感じる人の典型ともいうべきでしょう。お互いさま、こうありたいものです。 まず「教え」に触れること  さて、隨喜功徳品の要点は「五十展転」の法門に尽きると言っていいでしょう。お釈迦さまはこうお説きになっておられます。  「もしある人が説法の座で法華経の教えを聞いて『ああ、ありがたい』という喜びを覚え、他のだれかに、自分の力でできる程度でいいから、いま聞いたばかりの話をしてあげたとしよう。それを聞いた人もまた同じような隨喜の心を起こし、同じように他の人に伝えたとしよう。こうして五十回も転々と伝えられたとして、その五十番目の人も『ああ、ありがたい』という感動を覚えたとしたら、その五十番目の人の得る功徳は、大富豪が一生のあいだあらゆる布施を行ったために得る功徳に、はるかに勝る価値があるのである。ましてや、最初に説法の座でこの教えを聞いて他の人に伝えた人の功徳となると、まことに無量無辺なのである」と。  立正佼成会において、「今日入会したら、明日から布教者になりなさい」と説き、創設以来それが実践されている根拠は、じつにここにあるのです。そして、実際に無量無辺の功徳としての救いが実現しているのです。  つぎに、隨喜にまでは至らなくても、説法の座でほんの少しの間この法華経の教えを聞いただけでも、その功徳は大きく、また、説法会であとから来た人に、身をずらして座らせてあげただけでも、その功徳はじつに大きいのだ……と説かれています。  これらはつまり、「縁」というものの大切さを言ってあるのです。われわれはすべて仏性を持っているのですが、縁あってその仏性が目を覚まさなければ、救いに達することができません。ですから、何よりもまず教えに触れることが大事なのです。  われわれは幸いにしてその縁に触れることができました。そのありがたさを一人でも多くの人に分けて差し上げなければ仏さまに申し訳ないのです。この品の結論はそこにあると知るべきでしょう。 ...

法華三部経の要点86

【機関紙誌】

法華経は世間万事の指針

法華経は世間万事の指針

1 ...法華三部経の要点 ◇◇86 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経は世間万事の指針 菩薩の四無畏について  法師功徳品には、前の隨喜功徳品に登場する人よりさらに信仰が進んだ五種法師(受持・読・誦・解説・書写の五つの行を積極的にそして持続的に行う人)が目や耳や鼻や舌や意(こころ)に受ける功徳の極致を説いてあります。超人的な能力とも思われる機能を持つようになることが述べられていますので、われわれとは直接関係のないことのように思う人もおりましょう。しかし、われわれは、こうした記述の奥にある「心が変われば環境も変わる」という真実をくみ取らなければなりません。それが、こうしたお経文の受け取り方の第一義なのです。そういうことから、この品では、その中にある重要な語句の解説にとどめることにしましょう。  まず、眼の功徳の項の偈にある「無所畏の心」という語です。「おそれはばかることがない」という意味で、古来「菩薩の四無畏」として次の四ヵ条があげられています。  一、学んだ教えをすべて記憶しておれば、どんな人に法を説くにもおそれはばかることがない。  二、医師が患者の症状に応じて薬を処方するように、相手の性質や、教えを受け取る能力や、何を求めているか等々をよく見極めれば、心配なく法を説くことができる。  三、法の根本をよく心得ておれば、相手からどんな質問を出されても正しく答えることができる。だから、堂々とした気持ちで法を説くことができる。  四、法華経は広大無辺の教えだから、解釈の仕方でさまざまな疑問が出てくる。それらの疑問にはっきりした断定をくだすことができれば、おそれはばかるところなく法を説くことができる。  ただし、この四ヵ条は菩薩としての理想の境地ですから、初心の人は前の「五十展転」の法門にあったように「力に隨って」法を伝えていけばよいのです。そうした実践を重ねているうちに自然と法が身につき、こうした自由自在な布教者になることができるわけです。 説くことすべて正法に合致  もう一つの重要な語句は、意の功徳の項にある「若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」です。現代語に訳せば、「もしその人が、日常生活についての教えや世を治めるための言論や、産業についての指導などを行っても、それらはおのずから正法に合致するであろう」というのです。  まさにこれは法華経の要点中の要点であり、名句中の名句であると言っていいでしょう。  法華経精神をしっかりと身につけておれば、例えば子供の教育について質問を受けても、「子供は仏さまからの預かりものだ」という真実にのっとってその指針を示しますから、大筋において誤ることなく答えられましょう。  また、例えば湾岸戦争後の外交や経済政策を論ずる場合も、譬諭品にある「諸苦の所因は 貪欲これ本なり」という教えにのっとれば、決して道を踏み違えることはありますまい。  このように、現実の世法に生かされるところが法華経のありがたさなのです。また、こうして世法の上に生かさなければ、法華経の真価は発揮されないものと知らなければなりません。 ...

法華三部経の要点87

【機関紙誌】

仏性を認め合い拝み合ってこそ