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法華三部経の要点26

向上は反省と下がる心から

1 ...法華三部経の要点 ◇◇26 立正佼成会会長 庭野日敬 向上は反省と下がる心から 反省にもとづく求道心こそ  譬諭品は、前の方便品の説法を聞いて大歓喜した舎利弗の「今世尊に従いたてまつりて、此の法音を聞いて心に踊躍(ゆやく)を懐き、未曽有なることを得たり」という感激の言葉から始まります。  なぜそれほど歓喜したかといえば、これまで自分は仏の悟りとはかけ離れた境地に低迷しているとばかり思って「終日竟夜(ひねもすよもすがら)毎(つね)に自ら剋責(こくしゃく)しき」と自分の至らなさを責めていたのが、方便品の説法で、仏さまの教えはただ一仏乗であって声聞も縁覚もなく、自分もたしかに成仏への道程にいることがわかったからです。  ここで見逃してならないのは、舎利弗ほどの大秀才がつねに自分の至らなさを反省していたという事実です。釈尊教団では「智慧第一」とたたえられ、多くの経典に現れているように、お釈迦さまもつねに「舎利弗よ」「舎利弗よ」と呼びかけて法をお説きになっていました。その舎利弗がけっして有頂天にならず、威張ることもなく、いつも現在の自分を反省し、さらなる向上への道を求めていたわけです。これが譬諭品の第一の要点だと思います。  ほんとうに偉くなる人は、必ずそうした精神的欠乏感ともいうべき、反省にもとづく求道心をもっているものです。イエス・キリストが「さいわいなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」と言われたのも、そこのところなのです。 心の素直な人は「下がる」  舎利弗は、はじめ王舎城付近で世間の尊崇を集めていたサンジャヤという宗教家に弟子入りしました。わずか七日間(一説には三日間)で師の教えをすっかりマスターし、たちまち二百五十人の弟子を指導する師範代に任ぜられたのでした。それでも舎利弗は、より高いものを日夜求めつづけてやみませんでした。  たまたま王舎城の街頭で立ち居振る舞いの見事に端正な一修行者に出会い、一目でその人に引きつけられてしまいました。そして、「あなたの師は何というお方ですか」と尋ねたところ「釈迦牟尼世尊と申す正覚者です」との答え。「その師の教えはどんなものですか」と問えば「この世のすべての現象は因と縁との和合によって生ずるとお説きになります」という答え。 ――ああ、これこそ自分が求めていた最高の法である――と感動し、二百五十人もの弟子を持つ師範代の地位を惜しげもなく捨てて、お釈迦さまのもとにはせ参じたのでした。  入門してほどなく、さきにも述べたように舎利弗はお釈迦さまの弟子の中で「智慧第一」となったのですが、それでもけっして増長することはありませんでした。こんな話があります。  お釈迦さまの一行が王舎城から祗園精舎への旅の途中、ある精舎に泊まったときのことです。翌朝早くお目ざめになったお釈迦さまは、庭の一本の木の下で夜を明かしたらしい舎利弗をみつけられました。「なぜそんな所にいるのか」とお尋ねになりますと「昨夜は宿坊がいっぱいでございましたので」との答えです。若い比丘たちがわれ先にと部屋を占領してしまったのです。最長老の一人ですから、一声で部屋を空けさせることもできたのですが、舎利弗はそれをしなかったのです。その人格の崇高さにはただもう頭が下がります。  人間、有頂天になればそれで行き止まりです。方便品の説法を聞かずに退席して行った五千人がそれです。また、信仰上のことだけでなく、「平氏にあらずんば人にあらず」とうそぶいた平氏一門もそれです。頂点を極めて間もなく平家は転落の一途をたどり、ついに滅んでしまいました。  ともあれ、「智慧第一」の舎利弗が「終日竟夜毎に自ら剋責」したことを、われわれも時に応じて思い出したいものであります。                                                         ...

法華三部経の要点27

【機関紙誌】

信仰の種子は前世に播かれた

信仰の種子は前世に播かれた

1 ...法華三部経の要点 ◇◇27 立正佼成会会長 庭野日敬 信仰の種子は前世に播かれた 人との出会いは宿縁による  前回に、舎利弗の求道の苦悩と、ついに至上の法を得た喜びの告白について述べましたが、それをお聞きになったお釈迦さまは驚くべきことを言い出されました。「舎利弗よ。わたしは長い前世においてもそなたを教化しつづけてきました。そして仏の悟りを求めるように指導してきたのです。そなたはそれをすっかり忘れ、現世においてわたしの弟子になっても、ただ自身の解脱のみを願って修行していたのです。わたしは今、仏の本願によってそなたが過去世に行じたことを思い出させるためにこの法華経を説くのです」とのおおせです。  これは、われわれ後世の信仰者にとっても非常に大事なことですから、ここでじっくり考えておきましょう。  お釈迦さまのこのお言葉には、二つの真実がこめられていると思われます。  第一は、現世における人と人との出会いは、けっして偶然ではなく、前世の宿縁によるものだということです。  こんな例があります。天台大師が若いころ慧思禅師という高僧に学ぼうとして訪ねて行ったとき、慧思禅師は、  「おう。懐かしい。そなたとは前世に霊鷲山において共に法華経を聞いた。その宿縁によって今またわたしの所へやってきたのだ」と喜んだそうです。  つまり、この世で師弟となったり、友人となったり、夫婦となったりするということは、前世からの深い因縁の糸に結ばれているのだということです。ですから、そのような人との縁はけっしておろそかにできないものなのであります。 いま法華経を学ぶわれらは  第二に、この世におけるわれわれ人間の心というものは、その大部分は父母・兄弟その他の環境によって培われたものですが、その心の本質の部分は、やはり前世における経験や修行によって育てられているのだということが、このお釈迦さまのお言葉から察することができます。  たとえば、宗教のことなどにぜんぜん耳をかさない人があります。神社やお寺の前を通っても素知らぬ顔です。それに対して、道端の野の仏を見ても手を合わさずにはおられない人もあります。その違いはどこから来たのでしょうか。言わずともおわかりでしょう。  ましてや、仏教書を買って読もうとか、説法を聞きに行こうかとか、あるいは信仰者の仲間に入ってみようかとか思う人は、よくよく仏さまの教えに縁の深い人なのです。  わたし自身の幼時をふりかえってみても、朝は必ず神棚を拝んでから学校へ行きましたし、学校への途中にある諏訪神社や子安観音さまの前を通るときも、大日如来と刻まれた石碑の前を通るときも、必ずおじぎをして通りました。それで、村の人たちからは「あれはおかしな子だよ」といわれたものです。  ひとつには、校長先生の「人には親切にしなさい」「神さま仏さまを拝みなさい」という教えを素直に守ったせいもありましょうが、わたしの兄弟や他の生徒たちがいっこうにしようとしないことをわたしだけがしたというのは、やはり何か前世からの宿縁があったのだろうと、今になってつくづくと思われます。  とりわけ、いま法華経を学ぶわれわれは前世においても法華経を聞き、修行したのであるということをお釈迦さまのお言葉によって知るとき、たとえようのない深い感慨を覚えざるをえません。                                                        ...

法華三部経の要点28

【機関紙誌】

ひとの仏性を見ることの大切さ

ひとの仏性を見ることの大切さ

1 ...法華三部経の要点 ◇◇28 立正佼成会会長 庭野日敬 ひとの仏性を見ることの大切さ 誰でも「仏」を内在している  「法華経は授記経である」といわれています。授記というのはお釈迦さまが「そなたは将来かならず仏になることができる」という保証を与えられることです。その授記を法華経の中で受けた第一号が、譬諭品における舎利弗です。すなわち、「舎利弗、汝未来世に於て無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干千万億の仏を供養し、正法を奉持し菩薩所行の道を具足して、当に作仏することを得べし」とおおせられています。  これは譬諭品だけでなく法華経全体の要点中の要点ですから、ここでよくよく吟味しておきましょう。  ここに、仏となる三つの条件が述べられています。(一)多くの仏さまに遇(あ)いたてまつって供養申し上げること。(二)正法をしっかり守ること。(三)菩薩行を実践すること。この三つです。  まず(一)の条件ですが、これを、お釈迦さまのような仏さまに千万億人もお遇いすることと受け取れば、何百遍生まれ変わろうとも不可能だと思われます。  ところが、人間という人間すべて久遠実成の仏さまの実の子なのですから、表面の姿はどうあろうともみんな必ず仏としての性質、すなわち仏性を持っているのです。ですから、その一人一人の仏性を、一人一人の仏と考えればいいのです。  そして、日常の暮らしの上で出会うすべての人の本質である仏性を見つめ、それを拝むように心がければ、それがとりもなおさず仏さまを供養することになります。したがって、一日に十人の人に出会うならば、十人の仏さまに遇いたてまつることになるわけです。  第一の条件をこのように受け取れば、千万億の仏に遇いたてまつることもあながち不可能事ではないことがわかり、うつぼつたる勇気がわいてくるではありませんか。 この理想は現実につながる  (二)の「正法を奉持し」ですが、仏教ではいろいろな正法を説いており、そのすべてを持(たも)たねばならないと思えば、これまた凡夫にとっては不可能だとさじを投げたくなりましょう。ですから、これを仏教のギリギリの根本法である「縁起」に絞ればいいのではないかと思うのです。すなわち、この世の万物万象はすべて他との持ちつ持たれつの関係の上に成立しているという真理です。この真理をつねに頭において、他の人を大切にし、自然をそこなわず、すべてのものとの調和を心がけておれば、そうした生き方がひとりでに仏に近づいていくわけです。  (三)の菩薩行ですが、これは「縁起(もしくは諸法無我)」という真理を実践に現す行為です。すなわち、あらゆる面においてひとを幸せにする行為を積極的に行うことです。いわゆる布施行です。中でもとくに大事なのは、人を本質的な意味において幸せにする法施でしょう。物質的な布施はおおむね一時的な効果しかありませんが、積極的な布施である法施(仏法を説くだけでなく、人を仏道に導くことも)は、永久にその人を幸せにする次元の高い行為であって、これが最高の菩薩行であります。  こう考えてきますと、仏(目覚めた人)になるということは、われわれ凡夫にとって及びもつかぬことではないことがわかってきましょう。  法華経はすべての人間が仏になることを理想としてかかげているわけですが、それはけっして夢のようなことではありません。右の三つの条件に一歩でも近づく人がこの世に増えてくればくるほど、確実にこの世界が平和に、幸せになってくることは間違いないからです。その意味で、法華経はまったく現実的な教えなのです。                                                                      ...

法華三部経の要点29

【機関紙誌】

古びた屋敷とは今日の地球か

古びた屋敷とは今日の地球か

1 ...法華三部経の要点 ◇◇29 立正佼成会会長 庭野日敬 古びた屋敷とは今日の地球か 心も手入れをしなければ  法華経は文学性においてもあらゆる仏教経典中の随一といわれていますが、中でも譬諭品『三車火宅の譬え』の偈は二十八品中の圧巻でありましょう。その冒頭にこう述べられています。  「ここに長者があって、大きな屋敷をもっていたとしましょう。その家はたいへんに古び、こわれかかっていました。建物は高くそびえてはいますが、柱の根は砕け腐り、梁(はり)や棟は傾きゆがみ、石段は崩れ、垣根や壁は破れ、壁土やしっくいは剥(は)げ、屋根をふいた苫(とま)も乱れ落ち、垂木(たるき)や庇(ひさし)は抜けかかり、屋敷のまわりの土塀は曲がりくねっていました」  これは末世の人間の心のありさまを描写したものです。家屋敷は、住んでいる人が手まめに掃除したり手入れしたりしておれば、古くなってもそれなりの風格を保っているものです。世界でいちばん古い木造建築である法隆寺の、あの底光りのするような美しさがそのことをよく物語っています。  ところが、住んでいる人が掃除や手入れを怠っていますと、当然この文章にあるように荒れ果ててしまいます。人間の心も同様です。ですから、絶えず正しい教えを聞いたり読んだりして、それを日々のくらしの上に実践し、過ちや至らないところがあったらそれを反省して、コマメに掃除や手入れをすることが絶対必要なのです。 一般人の自覚と行動こそ  そうした心の荒廃ばかりでなく、実際にわれわれが住んでいるこの地球が、二十世紀末の今日、この文章にえがかれているように荒れたものになりつつあるのではないでしょうか。法華経は五五百歳後の世への警告の経典だという説もありますが、その説が当たっているふしも大いにあるように思われます。  「建物は高くそびえてはいるが」というのは、文明というものが高く大きく発達したことを象徴していると考えていいでしょう。しかし、残念ながらその土台は腐っているのです。いわゆる文明のおかげで、人類は「より早く」「より楽に」「より大量に」交通したり、生活したり、生産したりできるようになりました。ところが、そのような生き方は、半面、大気・水体系の汚染や、地球の温室化や、酸性雨による森林の立ち枯れや、化学肥料による土壌のやせ細りや、砂漠化の進行など、人類の運命そのものにかかわる恐ろしい事態を引き起こしつつあります。  一部の心ある人びとはそうした事態に危機を痛感して何とか打開の道を講じようとしていますが、大部分の人びとは相変わらず「より早く」「より楽に」「より大量に」の生き方を当然のように享受しているのです。あたかも古びた大きな屋敷の中で遊び戯れている子どもたちのように。このままではいつ「大火(決定的な事態)」が起こって人類自滅ということにもなりかねません。  もちろん、進歩に進歩を重ねる科学技術も、国の政治も、国際機関も、けんめいにそうした危機防止の手段を考究しているでしょう。しかし、人類の大部分を占める一般人に、そうした自覚と、反省と、少欲知足の生き方への転換がなければ、この滔々(とうとう)たる大勢を食い止めることは不可能でしょう。さきごろテンプルトン賞を受賞されたヴァイツゼッカー博士も「(過去の歴史においても)まったく禁欲しない社会は数世代で滅びてしまった。最低限の禁欲、富の放棄ということは、文化の安定性に絶対に必要である」と語っておられました。  火宅の中の子どもたちも、自ら門外に走り出ることによって救われました。この教訓を二十世紀末のわれわれも、腹の底にしっかりと受けとめなければならないのではないでしょうか。   ...

法華三部経の要点30

【機関紙誌】

火宅の動物たちは人間の煩悩

火宅の動物たちは人間の煩悩

1 ...法華三部経の要点 ◇◇30 立正佼成会会長 庭野日敬 火宅の動物たちは人間の煩悩 高慢・怒り・愚かさ  譬諭品の『三車火宅の譬え』には、さまざまな動物の生態にことよせて、人間の煩悩の醜さ、汚さ、いやらしさが、これでもかこれでもかといわんばかりに描かれています。読んでいて胸がわるくなる思いがします。しかし、そんな思いがそのまま反省のよすがとなり、懺悔のきっかけになるのですから、性根を据えて読まねばなりますまい。  さて、古びて崩れかかった大きな屋敷の上をわがもの顔に飛びまわっているクマタカやカラスやワシなどの鳥は「慢」の象徴です。高い所から他を見くだしている高慢な心です。他の生物が地上をはいまわっているのに対して、自分は空中を自由自在に飛びまわっているのですから、よほど自省しないかぎりこのような驕(おご)りが生じやすいのです。いま世界一の経済力を誇る日本人には、このような驕りが生じつつあるのではないでしょうか。  つぎに、マムシやサソリやムカデなどが住みついているとあります。これらは他を刺したりかんだりして害を与える毒虫で、「瞋(しん)」すなわち「わがままな怒り」を象徴しています。自己中心の心から起こる怒りは、個々の人間関係をそこなうばかりでなく、それが民族的な「瞋」となると、長いあいだ中東あたりにくすぶりつづけているような戦争や紛争の元凶となるのです。「怒り」が慢性化すると「恨み」に変化するから恐ろしいのです。  また、イタチやタヌキやネズミなどが横行しています。これらは夜行性の動物で、智慧の光をきらい、やみにうごめく愚かな心「痴」を象徴しています。これらの動物に譬えられる人は、いちおうは利口なんです。利口は利口でもいわゆる小利口であって、コソコソした世渡りは上手だけれども、天地の理にかなった大きな智慧に欠けているために、たとえば一時の利益のためにやった贈収賄などが白日のもとにさらされると、小利口がじつは「痴」にすぎなかったことが露呈されることになります。心すべきことでしょう。 すべての苦しみは貪欲から  不浄物がいっぱい流れており、その上にクリムシの類がたかっている汚らしい光景がえがかれています。このクリムシは何を象徴しているかといえば「疑」の心です。心性の下劣な人は、えてしてうさんくさい物事にかかわり合うものです。したがって、何事にもまず疑ってかかります。こうして「疑う」のが心の習慣になりますと、心性はいよいよ下劣になっていくのです。  ですから、人間にとっていちばん大切なのは、いつも言うことですが、正直ということなんです。正直というのは何も難しいことではない。あたりまえのことを話し、あたりまえの行いをすればいいのです。多くの人がそうなれば、当然「疑」は人びとの心からしだいに消えてゆき、人と人との間に美しい信頼関係が生じてきます。そうなってこそ世の中はほんとうに寂光土化されるのです。  つぎに、いろいろなケモノが食をあさっていがみ合うあさましい姿がえがかれています。これは凡夫の心「貪欲」の象徴です。欲望というものは「生存」そのものと密着しているものであって、全面否定はできません。しかし、それが必要に応じたほどほどのものであり、そのほどほどに満足しておれば問題はないのですが、ともすれば「もっと、もっと」と限りなく肥大させがちです。それを貪欲というのです。  「もっと、もっと」と限りなく肥大しつづける貪欲が完全に満足されることはありえません。だから、そんな人はいつも欲求不満で心がイライラするばかりでなく、それによって病気を引き起こしたり、人間関係をそこなったり、犯罪に走ったり、いいことは少しもありません。まさにこの偈(げ)の中に喝破してあるように「諸苦の所因は貪欲これ本なり」なのであります。                                                       ...

法華三部経の要点31

【機関紙誌】

人類がほんとうに救われるには

人類がほんとうに救われるには

1 ...法華三部経の要点 ◇◇31 立正佼成会会長 庭野日敬 人類がほんとうに救われるには 人間性の立て直しこそが鍵  ハーバード大学のソローキン教授はその名著『人間性の再建』の中でこう言っておられます。  「世界永遠の平和のためには、人間性を立て直さなければならない」  まさにそのとおりだと思います。いま世界先進国の首脳たちによって核兵器の削減や、貿易の自由化や、開発途上国への援助等々について毎年のように話し合いが持たれています。たいへん喜ばしいことだと思います。  しかし、よくよく考えてみますと、そういった「物」や「金」についての相談や約束がいくらできても、肝心の「人間の心」が変わらないかぎり、権力のせめぎ合いや、富の奪い合いなどがやむことはなく、したがってこの地球上から暴力・殺りく・貧困・飢餓という不幸が消え去ることはないでしょう。  ですから、世界永遠の平和の根本方策はまさしく「心の立て直し」しかなく、それを遂行してこそ人間みんなが幸せになれるのです。 聞き、考え、実践する  法華経は、全巻その「心の立て直し」の教えにほかならないのですが、譬諭品の「三車火宅」の譬えにはその方策が最も端的に、そしてまとまった形で示されているのです。  衆生を火の家から脱出させるために、仏さまは「門の外に羊車・鹿車・牛車があるからそれに乗って遊びなさい」と誘いをかけられます。それはつまり「物や金や快楽だけにドップリ漬かっていないで、精神の喜びにも目を向けなさい」という誘いにほかなりません。  羊車というのは声聞の境地、鹿車というのは縁覚の境地、牛車というのは菩薩の境地なのですが、それだけ聞いたのでは現実離れがしているようで、現代人にとってはなじめないものと思われましょう。  そうではないのです。声聞というのは、いい本を読んだり、いい話を聞いたりすることなのです。そして、「なるほど」と理解する。感動する。その理解と感動が声聞の境地なのです。  縁覚というのは、つまり「考えてみる」ことにほかなりません。最近の多くの人たちは氾濫(はんらん)する情報の洪水に押し流されて、自分の頭脳・自分の心で「考える」ことをあまりしなくなっています。どんなにいい本を読み、いい話を聞いても、それについて自分なりに考えをめぐらしてみなければ、けっして「自分のもの」として定着せず、一過性の、ただの情報として右の耳から左の耳へと通過するだけに終わりかねません。  瞑想(めいそう)とか思索とかいえばいかにも高踏的(こうとうてき)で普通の人間にはできそうにないと感じる人があるかもしれませんが、なにもそう難しく考えることはありません。まず、「これはいったいどんなことかな」と考えてみればいいのです。考えてみて「うーん、そうか」と魂に響くものを覚えたら、それが縁覚の境地であり、それだけ精神的により高くなったわけなのです。  菩薩というのは、声聞の境地も縁覚の境地も兼ねそなえているうえに、「多くの人々との連帯」を考える境地です。ただ考えるだけでなくそれを実践に移す。実行する。それが菩薩の境地です。  ですから、声聞といい、縁覚といい、菩薩といっても、けっして現実から遊離したものではありません。人間の心を改造し、人間性の立て直しをするための、順序・次第を踏んだ着実な道程なのです。そして、われわれ一人一人が自らその道程を歩まなければ、人間としてのほんとうの幸福に達することはできず、世界永遠の平和も達成することは不可能なのです。  譬諭品のここのくだりは、そのように受け取らねばならないのであります。                                                       ...

法華三部経の要点32

【機関紙誌】

この三界は我が有である

この三界は我が有である

1 ...法華三部経の要点 ◇◇32 立正佼成会会長 庭野日敬 この三界は我が有である 宇宙と一体になられた釈尊  譬諭品の最大の要点は、というよりは法華経全巻の要点、いや全仏教経典の中で最も尊くありがたいお言葉、それは左の一句でありましょう。  「今此の三界は皆是れ我が有(う)なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難(げんなん)多し。唯我一人のみ能く救護(くご)を為す」  この宇宙はすべてわたしのものだ。その中の生きとし生けるものはすべてわたしの子だ。この世(宇宙)にはさまざまな苦しみや悩みが充(み)ち満ちている。それを救うのはわたし一人しかいないのだ……とおおせらているのです。  この「宇宙はわがもの」というのは、ふつうに考えられるような「わたしが所有するものだ」というのではありません。「わたしは宇宙そのものだ」と、お釈迦さまは自覚されておられるのです。「我(が)」というものがまったくなく、そのためにご自分が宇宙全体と完全に一体になっておられるのです。  元禄時代の名僧盤珪(ばんけい)禅師は、この「三界は我が有」ということを、きわめてやさしいことばで次のように解説しておられます。  「心に何もなきときは、どこへでも固うならずにおられる。それが自在じゃ。自ら在るのじゃ。心に一物(注・一物とは「我」のこと)もなきときは、わが家で自在であるのみならず、どこへいっても、遠慮せずに、自在じゃ。お釈迦さまは心に一物も持っておられなんだによって、三界はわがものと、世の中の主(あるじ)になられたのじゃ。どこでも自由に寝起きされたのじゃ」  まことに名解説だと思います。われわれ凡夫はお釈迦さまほどの徹底した「無我」にはなれないでしょうが、たまには夜空に輝く無数の星を眺めて無限の思いにひたったりした時、あるいは、ひとりの悩める人を幸せにしてあげたいと真剣に取り組んでいる時、ふと、そういう自分を顧みたりすれば、いつしか「我」が薄れていくのを実感することができましょう。そのひとときの自由自在な気持ちが、どれぐらいわれわれの人生を快いものにするか測り知れないものがあると思います。 大慈悲と責任感と自信と  さて、宇宙がわがものであれば、その中に住む生きとし生けるものはすべてわが子であります。お釈迦さまはそのことを心の底から実感しておられたからこそ、苦しみ悩んでいる者には救いの手をさしのべずにはおられなかったのです。それが仏の大慈悲にほかなりません。  それにしても「一切衆生を救うのはわたしだけしかいないのだ」というお言葉は、聞きようによっては思い上がった、ひとりよがりの考えのように受け取れるかもしれません。  けっしてそうではないのです。これは大きな責任感の表白なのです。「わたしがやらなければだれがやるのだ」という、やむにやまれぬ責任感からのお言葉なのです。  仏とは、宇宙と人生の真理にめざめた人のことです。最も深く、最も明らかにめざめた人です。そのような人は歴史上お釈迦さまよりほかになかったのです。だから、この「唯我一人のみ能く救護を為す」というのは、大いなる責任感と同時に、大いなる自信から発せられたお言葉なのです。「わたしにはできる力があるのだ」という大自信の表白でもあるのです。  お釈迦さまよりほかに、だれがこれほどの大慈悲と、責任感と、自信を持ちえた人がありましょうか。  われわれは人間の歴史始まって以来の、そうした第一人者の教えを学んでいるのです。受持し、信仰しているのです。われわれこそはこの世でいちばんの幸せ者といわなければなりません。日蓮聖人が譬諭品のこの一節から、「主・師・親の三徳」を説かれたり、白隠禅師が同じここのくだりを読んだとき思わず声をあげて号泣したというのも、その無上のありがたさにむせんだのでありましょう。 ...

法華三部経の要点33

【機関紙誌】

信仰心は人間の本質

信仰心は人間の本質

1 ...法華三部経の要点 ◇◇33 立正佼成会会長 庭野日敬 信仰心は人間の本質 宗教への目覚めこそ  信解品に入ります。この品は、前の譬諭品で舎利弗に仏となる保証を与えられたことに感激した同じ声聞仲間が申し上げた『長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え』が中心となっています。  大富豪の実子であった窮子は、幼いときに父の家からさまよい出て諸国を放浪する身となりました。大富豪とは久遠実成の本仏さまのことであり、窮子とはわれわれ衆生のことです。  われわれの大部分は、本仏さまの実子であるという真実を知らず、ただ物的な欲望のおもむくままに、その本来の自分にふさわしくない生活を送ります。それが「父の家からさまよい出て諸国を放浪する」ということの意味にほかなりません。  しかし、そうした生活を送っているうちにも、いつとはなく故郷の家に引かれる思いが生じ、放浪の足も自然とふるさとのほうへ向いて行くのでした。  ここのところがじつに尊いことではないですか。われわれは宇宙の大生命ともいうべき本仏さまの子であることをぜんぜん知らなくても、ある年齢に達すると、なんとなく本仏さまのような見えざる存在に心を引かれるようになってくるものです。わかりやすくいえば、宗教への目覚めであります。信仰心のきざしであります。この目覚め、このきざしを逃(のが)さぬ人こそがほんとうに救われる人なのです。なぜなら、その目覚めこそが人間の本質である仏性の目覚めなのですから。 黙して之を識る  この物語の窮子は、それとも知らず父の邸宅の門前にさしかかりました。奥のほうを見ますと、おおぜいの侍者に囲まれた見るからに尊げな長者がおられます。あまりにも豪勢なその様子に恐れをなした窮子は「とてもこんな邸(やしき)で雇ってもらえるはずがない」と思って、すぐ立ち去って行きました。奥のほうからその姿を見ていた長者は、ひと目でそれが長年探していた自分の子であることを知りました。経文には「黙して之を識(し)る」とあります。  この一句に本仏さまの慈悲の広大無辺さがしみじみと表現されているのです。久遠の本仏さまは、この宇宙のあらゆる所に充ち満ち、あらゆる生あるものを見守っておられます。すべての生あるものがご自分の実子であることをちゃんと知っておられるのです。それが「黙して之を識る」です。  大乗仏教では、言葉を尽くしてそのことをこんこんと教えているのですけれども、説かれる仏の世界があまりにも高遠なのでたいていの人が「とうてい自分たちの及びうる世界ではない」と考えて、ついついその教えから遠ざかって行くのです。布教者にとってこれは非常に大切なポイントで、この信解品にもその対策が述べられていますので、次回にそのことについて解説することにしましょう。  さて、われわれ凡夫がどこへ立ち去って行こうとも、久遠の本仏さまは相変わらずわれわれのそばにおられるのです。わが子として温かく見守っていてくださるのです。  われわれは早くそのことに気づかなくてはなりません。気がつけば、それまで本仏さまのほうからわれわれを「識る」という一方通行だったのが、今度はわれわれのほうからも仏さまを「識る」ことになり、そこにいわゆる「感応道交(かんのうどうきょう)」という宗教や信仰ならではの妙境が生まれるのであります。  信解品の窮子は、その妙境に達するのに二十年かかりました。しかし、二十年かかろうとも、それこそが人間としての最大の幸福であり、人間として生まれた最高の意義であると知るべきでありましょう。                                                        ...

法華三部経の要点34

【機関紙誌】

法華経は最微者をも見捨てない

法華経は最微者をも見捨てない

1 ...法華三部経の要点 ◇◇34 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経は最微者をも見捨てない 「賃金は倍もらえるぞ」  前回に書いたように、父の長者の大邸宅の門前に来ていながら窮子はそこを立ち去って行きました。経文には「如(し)かじ貧里に往至して、肆力(しりき)地(ところ)あって衣食得易からんには」とありますが、つまり「自分は貧しい環境の所に住むのが気楽だし、賃仕事ももらい易いだろう」ということです。  これも大切な要点です。長い年月のあいだ物的な欲望のみを追ってその日暮らしをしていますと、精神を高めるとか、人格の向上とかいったむずかしいことはどうでもいい、そんなことは自分にふさわしくない、と思うようになります。「如かじ貧里に往至して云々」というのは、そういう凡夫の心理をじつによくうがっています。  長者は使いの者をやって窮子を連れて来させようとしましたが、窮子は父の心も知らず、恐ろしさのあまり気を失ってしまいます。父はそれでもあきらめず、子が逃げ去って住んでいる貧しい街に汚い服装をした使いを出し、「いい仕事がある。賃金は普通の倍もらえるぞ」と誘いをかけさせます。  ここも非常に大事なところです。精神世界のすばらしさなどになんらの関心もない人に、いきなり宗教や信仰のよさを理論的に説いてみたところで、なかなかその人の心は動きません。それどころか、ますますそういった世界に背を向けるようにもなりかねません。そこで、相手が現在いる所まで降りて行って(汚い服装をして)、その上「賃金は倍もらえるぞ」と、現実の利益でもって誘うのです。 弱い愚かな人間にも救いを  よく「現世利益(りやく)で信仰に誘うのは不純である」と説きます。たしかに純粋な信仰のあり方からすれば、そうでしょう。しかし、それがその人を真の信仰へ導くキッカケになるならば、それは大いに意義あることなのです。  どのような世界的な宗教といえども、現世利益とまったく無縁であることはありませんでした。その奥底にはりっぱな哲学や世界観があったとしても、表面的には現世利益によって信者が増えていったことはまぎれもない事実です。  たとえばイエス・キリストも、患者の頭を撫(な)でられただけで病気を治したり、足の不自由な人に「立って歩め」という一言で即座に歩くことができるようにされたことが聖書に明記されています。  お釈迦さまも、伝道の手始めに、優楼頻羅迦葉(うるびんらかしょう)という拝火教の教主の家にわざわざ泊まりに行き、神通力によって火堂の中の毒蛇を手なずけることによって、たちまち千五百人の信者を獲得された……と仏伝にあります。  今日の世界的な宗教においては、もちろん、教祖や聖者の人格に引きつけられた人もありましょうし、教えのすばらしさに傾倒した人もありましょうけれども、ごく普通の大衆はその教祖や聖者の持つ不可思議な力に魅せられて後について行ったことも、否定できない事実です。  法華経は、「仏と成る」という究極の理想をかかげながらも、弱い人間、愚かな人間をけっして見捨てはしない。どんな人間にも救われの道をひらいている。そこが法華経のありがたさです。それが「賃金は倍もらえるぞ」の一語に象徴されているのです。  ですから、昭和初期における最も行動的なキリスト者であった賀川豊彦師もその著『生活としての宗教』の中にこう書いておられます。「最微者(最も弱小な凡夫)に対する跪拝(きはい)!  その心持ちでゆく人が法華経行者の最大のものであることを知って、私は自分が必ずしも法華経の道に背いているものではないことを知った」と。  わたしはけっして現世利益を説くことだけを勧めているのではありません。ただ、凡夫の心理というものをおろそかにせず、「いかにしたら正しい救われの道へ導いてあげられるか」ということを、いつも考えていくことが大切であるということを言いたいのです。          ...

佼成新聞1989年10月20日お会式

【機関紙誌】

2年ぶり、平成年次初、第二の草創期幕開けを記念するにふさわしい盛大なお会式万灯行進が繰り広げられ、参加者は法華経広宣流布の誓願を新たにした。

2年ぶり、平成年次初、第二の草創期幕開けを記念するにふさわしい盛大なお会式万灯行進が繰り広げられ、参加者は法華経広宣流布の誓願を新たにした。

法華三部経の要点35

【機関紙誌】

神仏は信仰者を飢えさせない