宗教の尊さを人々に伝えるための賞
皆さま、本日は釈迦牟尼仏ご命日、まことにおめでとうございます。私共仏教徒が、仏さまのご命日に参加できるということは、大変に素晴しいことであります。お参りをしたくても事情が許されない方々がたくさんあるはずです。ところが、信者になられて一生懸命朝夕のご供養を怠らずやっているような信心のある方には、極めて当たり前に参拝のお手配を頂戴しているわけであります。
先ほどから竹村君が、微に入り細にわたり話をしてくださいましたが、今度のテンプルトン賞というものを図らずも頂戴するということになりまして、本当にびっくりしたのであります。賞金もありましたが、少しもお金なんてもらおうと思ってはいませんでした。お金の三千五百万円くらいは、稼げばできるということにもなりましょうし、企業家にすれば、それくらいのことはすぐ儲かるかもしれません。しかし、私共宗教家にとっては、お金の高ではなく、そのくださる主旨が大事であります。
テンプルトンご夫妻は非常に信心深い方であります。今の世の中は住みにくいなどと言っている愚か者がたくさんいるわけですが、今までこんなに幸せな時がなかったのにもかかわらず、あまりにも周囲が幸せになり過ぎたためか、生きがいさえも感じないという愚かな人間がはばをきかせている現代――そういう時代に宗教の尊さを人に知らしめる方法はないかということで、テンプルトン氏はこの賞をつくられたわけです。まだお年は私より六歳若いのですが、もうご子息さんに会長を譲られて、後見人という形になっているのですが、今回の式には、ご夫婦共、宮殿においでになっておられました。賞を頂いた後の対談で伺ってみますと、宗教の偉大さというものを、信仰あるなしにかかわらず伝えていくために、また、科学者にはノーベル賞を出しているのに、宗教家にはだれもそういう賞を出していなかったのは、まことにおかしなことだということから、宗教者に対して、こういう賞を設けられたということでした。
今日は、学歴偏重なんて言われて、学校に入れないと死んでしまう、というような愚か者が出る時代なんですね。
学校へ行く時間があるということがどれほど尊いかということが、分からないわけですね。何かというと学校に入らなければならないということだけで、あくせくしているから、学問をやっても学問の価値が分からないわけです。何のために勉強しているのか、人生観もはっきりしていない、こういうおかしな空気が漂っているのです。