開祖さまご法話テキスト『一心』 1979年
テンプルトン賞受賞祝賀会式典
宗教の尊さを人々に伝えるための賞
皆さま、本日は釈迦牟尼仏ご命日、まことにおめでとうございます。私共仏教徒が、仏さまのご命日に参加できるということは、大変に素晴しいことであります。お参りをしたくても事情が許されない方々がたくさんあるはずです。ところが、信者になられて一生懸命朝夕のご供養を怠らずやっているような信心のある方には、極めて当たり前に参拝のお手配を頂戴しているわけであります。
先ほどから竹村君が、微に入り細にわたり話をしてくださいましたが、今度のテンプルトン賞というものを図らずも頂戴するということになりまして、本当にびっくりしたのであります。賞金もありましたが、少しもお金なんてもらおうと思ってはいませんでした。お金の三千五百万円くらいは、稼げばできるということにもなりましょうし、企業家にすれば、それくらいのことはすぐ儲かるかもしれません。しかし、私共宗教家にとっては、お金の高ではなく、そのくださる主旨が大事であります。
テンプルトンご夫妻は非常に信心深い方であります。今の世の中は住みにくいなどと言っている愚か者がたくさんいるわけですが、今までこんなに幸せな時がなかったのにもかかわらず、あまりにも周囲が幸せになり過ぎたためか、生きがいさえも感じないという愚かな人間がはばをきかせている現代――そういう時代に宗教の尊さを人に知らしめる方法はないかということで、テンプルトン氏はこの賞をつくられたわけです。まだお年は私より六歳若いのですが、もうご子息さんに会長を譲られて、後見人という形になっているのですが、今回の式には、ご夫婦共、宮殿においでになっておられました。賞を頂いた後の対談で伺ってみますと、宗教の偉大さというものを、信仰あるなしにかかわらず伝えていくために、また、科学者にはノーベル賞を出しているのに、宗教家にはだれもそういう賞を出していなかったのは、まことにおかしなことだということから、宗教者に対して、こういう賞を設けられたということでした。
今日は、学歴偏重なんて言われて、学校に入れないと死んでしまう、というような愚か者が出る時代なんですね。
学校へ行く時間があるということがどれほど尊いかということが、分からないわけですね。何かというと学校に入らなければならないということだけで、あくせくしているから、学問をやっても学問の価値が分からないわけです。何のために勉強しているのか、人生観もはっきりしていない、こういうおかしな空気が漂っているのです。在家の信者に力を入れられた仏さま
仏さまは二千五百年前に、後五五百歳の時代になると、みんな頭でっかちになって理屈ばかり言って実行しなくなる。口は一人前であるけれども行いができない、そういう状態では幸せはこない。しかし、その時にこそ、この法門をみんなが信奉するようになるであろう、とおっしゃっています。それも僧侶だけでなく、優婆塞、優婆夷も含んだ四衆がことごとく実行するであろう、とおっしゃられたのです。特に優婆塞、優婆夷の在家の者に、仏さまは非常に力を入れられてお示しになっています。
テンプルトン賞の資格の話が先ほど出ましたが、当たり前の人というのがその一つで、金らんの衣を着ているような者にはテンプルトン賞にあまり向かないかもしれません。泥くさい本当の生活を自分の腕でしていく――そういう考えをもち、しかも、信仰に燃えて神仏のみ心にかなった行いをしている。また、自分でやっただけではだめで、人さまがそれをマネしたら、みんなそのようになったという状態でなければならないというように、いろいろ条件があるのだそうです。人類が皆手をつなぎ極楽浄土建設を
テンプルトン賞の審査員は九人いらっしゃるのですが、そのうち三人ずつが三年ごとに交代していくようになっているということです。審査員の時は推せんができないのだそうで、私を推せんしてくださった西本願寺の大谷光照先生は、審査員を終わったところで、私を推してくださったということです。過去の宗教の因縁からいくと、新興宗教と既成教団ということで、何かそこにひとつのカベがあるような気がしていたのでありますが、審査員になるような人ですから、そんなカベなんていうようなことを、少しも考えません。私はヨーロッパに出かける前に京都へまいりましたので、お目にかかってお礼を述べたのでありますが、「いやいや、日本にはあなた以外にテンプルトン賞に推せんする人はいないよ」と、あっさりおっしゃられたのです。これは本当にもったいない話です。仏教徒の中からということになれば、ご自分たちの仲間に、仏教に貢献のある素晴しい方がたくさんいらっしゃるにもかかわらず、私を推せんしてくださったのでございます。
頂戴してまいりましたものを皆さんにお目にかけたいと思います。このメダルは、木の葉が伸びている状態のようになっていて、十文字になっているのです。そして、その葉の先が全部重なり合っているわけです。これは全く諸法無我を形に表したと言ってもよいと思います。伺いましたら、世界中の人類が皆手をつないだ状態を表現したのだということでありました。次に賞状ですが、これは字も絵も一つ一つ手で書いたものです。十六万六千四百ドルの小切手は、昨日、理事長に渡しました。時差で少し目がショボショボしていますが、極めて元気で、あすはまた静岡へ、明るい社会づくり推進大会に出かけることになっています。
やはり、明るい社会づくり運動のように、宗派を超え、そしてまた、信仰だけでなく、あらゆる階層の方々がこのメダルにあるように、手をつなぎ合わせ、社会を明るくし、平和な世界をつくっていかなければならないわけであります。われわれ仏教徒が言うならば極楽浄土をつくるということです。日蓮聖人のお言葉を借りれば、『天下万民諸乗一仏乗となりて、妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝を鳴さず、雨壌を砕かず、代は義農の世となりて、今生には不祥の災難を払ひ、長生の術を得』また、『汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば即ち三界は皆仏国なり、仏国それ衰へんや。十万は悉く宝土なり』ともおっしゃっています。〝人さまのために〟との気持で活動を
テンプルトン氏から、政治とのかかわりをどのようにしていますか、と尋ねられました。そこで日蓮聖人の言葉を引用し、『汝信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ』というつもりで政治家に説法いたしております、と答えました。そうしたらビックリした顔をしていましたが、特に政治というのは影響の大きいものでありまして、政治の悪いところは諸天善神が皆どこかへ行ってしまって、悪神がこれに代わってくると日蓮聖人もおっしゃっています。仏教の因果説というのは、そういう論説なのであります。因縁というのはいつも輪廻して、生きて動いているものですから、善因の方に行くか悪因の方に行くか、どちらかに動いているわけです。
ですから、われわれは、何か一つでも、人さまのために世のために、お役に立とうという気持で、真心を込めて活動させてもらうのです。このことが善因となり、諸々の善根功徳を積ませてもらっていくから、仏さまのみ心のとおりに、順々とお手配がついていくわけです。いいことをやるか悪いことをやるかということで大きな違いが出てまいります。しばらくもとどまることなく因縁果報が輪廻しているわけです。ですから、入会して先祖の供養を真心からして、今日あることに対し、毎日、朝夕のご供養の時にお礼を言上し、ありがたく読経三昧に入られる。また、そういうお導きをいただいたお導きの親ごさんのお慈悲というものに、常に感謝するような気持で毎日を暮らしますと、いいことばかり、後から後から出てまいります。ところが、ご供養も何もしないのでは、そうはいきません。
このご法に縁があったということのありがたさ、幸せの心にならせていただき、人さまのことを真剣に考えている自分の状態を、何とありがたいことだろうと考えるようになるところに、宗教の値打ちがあるわけです。どうか、このテンプルトン賞に恥じないような信者になって、それと同時に、迷っているたくさんの人を救っていくために、しっかりとお役に立たせてもらおうということを、ここでお誓いして帰っていただきたいと思います。
(テンプルトン賞受賞祝賀式典から)