第1章 第1節「文化の殿堂」の誕生——普門館ができるまで
「国民皆信仰とは、信仰や宗教に関心をもつ人たちだけを対象とするのではなく、社会のあらゆる階層の人たちに、人間としての真実の生き方、みんなで平和に幸せに暮らせる生き方をしってもらう呼びかけだった。それが「普門の心」にほかならない。」(庭野日敬『この道』1999年 p.157より)
「大聖堂」の落成から2年後の1966年。庭野開祖より、教団創立30周年記念事業と「国民皆信仰・宗教協力」を進める拠点として、前例のない「文化の大講堂」の建設計画が発表されました。外観は二つの円を交らわせた双環形で、5000人を収容しうる多目的ホール。当時の枠を結集して築かれた圧巻の空間は、まさに文化の殿堂でした。こけら落としには、春日八郎や森進一らが華を添えました。誕生までの5年間の歴史を振り返ります。
昭和40年
1965
昭和41年
1966
教会長指導会の席上、庭野日敬会長(現・庭野開祖)から「文化の大講堂」として建設計画が発表される。
教団創立30周年を記念し、庭野日敬会長より「国民皆信仰・宗教協力」運動の拠点として、一般社会への開放も視野に入れた教団初の画期的な取り組みとなった。
建設施工業者に「錢高組」を指名。
庭野日敬会長より1967年度の活動方針として「国民皆信仰運動の展開」「普門会館の建設」の2項目を打ち出す。
昭和42年
1967
教会長会議にて普門会館の建設事業計画を発表。
錢高組が西稔氏へ普門会館の設計を依頼。
普門会館建設敷地である、佼成グラウンドにて普門会館の地鎮祭を挙行。
式典には、立正佼成会職員、銭高組関係者をはじめ在京支部三役、地方団参会員ら約700人が参列。
記録映画「普門会館建設シリーズ第1編」の制作が決定し、撮影を開始。
普門会館の起工式が行われ、工事開始。
建設施工会社錢高組の仕事始めとして行われ、ご供養、清めの儀は工事関係者の手で進められた。一連の儀式が終わると、長さ10メートル余のH鋼が打ち込まれ、工事開始の合図が告げられた。
昭和43年
1968
教団事業部門として佼成文化協会が設立。
(中略)昭和43年、技術的には充実されてきたが、さらに運営の内容をたかめるためと、また社会への積極的な文化の興隆を促進する意味において、ここで態勢の脱皮がはかられた。
今まで儀式課音楽担当の一部門であった吹奏楽団、合唱団を分離して、「佼成文化協会」の名のもとに、教団の事業部門のひとつとして新たな発足をみたのである。(『1969年佼成年鑑』p264より)
鉄骨の組み立てを開始。
外郭鉄骨の組立が終わり、双環形の全容が整う。
大聖堂と普門会館をつなぐ跨道橋「波羅蜜橋」の工事が始まる。
屋上に三基の「三法印相輪塔」取り付け完了。
昭和44年
1969
普門会館の上棟式を挙行。
庭野開祖、2代会長をはじめ、教団役職者など約1000名が出席。
四方清めの儀の後、佼成合唱団による『普門の首途』が披露された。
廻り舞台の取り付け工事。
普門会館準備委員会は普門会館使用基本原案を発表。
普門会館は、“文化の発展に寄与する”ことを基本姿勢に運営されることが決定した。
普門会館運営委員会の設立が常務理事会で決定、荒木健三郎初代館長ら8人の委員を発表。
外壁タイル120万枚張り付け工事完了。
昭和45年
1970
大ホールに第一緞帳、第二緞帳が取り付けられる。
第一緞帳「富士」は画家・河辺保恵氏、第二緞帳「法輪」は普門館設計室長・西稔氏によって描かれた。共に幅36.5m、高さ12.2mの大緞帳となる。
電子オルガン「オーケストロン」設置。
跨道橋「波羅蜜橋」開通式、普門館通電式を挙行。
普門館落成式式典を開催。
落成式典では、合唱や献灯の儀、庭野日鑛2代会長導師による読誦が行われ、庭野開祖、2代会長、次代会長の手により緞帳が披露された。
フェスティバル第1部、心のふる里「日本の郷愁」には美空ひばり、春日八郎、森進一、草笛光子、中村郁子、ダーク・ダックスが出演。
第2部は、劇団「青年座」による民話音楽劇「京ぼたんの里」を上演。
フィナーレでは、複数の舞踊団による演武が披露され、宗教儀礼から芸術・芸能にわたる多彩なプログラムで施設の落成を盛大に祝した。