メインコンテンツに移動
ユーザーアカウントメニュー
ログイン
Toggle navigation
Main navigation
ホーム
コレクション
お知らせ
規約について
お問い合わせ
利用ガイド
全資源タイプ
機関紙誌
教団史
動画
音声
写真
法話(テキスト)
貴重書
検索
すべて
メタデータ検索
全文検索
リセット
表示件数
18
30
60
90
120
並び順
関連度
作成日 昇順
作成日 降順
タイトルヨミ 昇順
タイトルヨミ 降順
詳細検索
コレクション
- すべて -
『庭野日鑛会長のこころ』~つれづれに想うこと~
『庭野日鑛会長のこころ』~書初めから~
法話選集
年頭法話
庭野日敬法話映像作品集(平和への願い)
心に生きる開祖さま
庭野日敬法話映像作品集(仏教三大行事と釈尊伝)
心が変われば世界が変わる
仏教者のことば
経典のことば
法華三部経の要点
庭野日敬法話映像作品集(教団史)
人間釈尊
お会式
スポーツ
立正佼成会映像作品集
らしんばん
e-story
- すべて -
庭野日敬の世界
資源タイプ
- すべて -
Text
Image
MovingImage
Sound
タイトル名
作成者
公開責任部署
- すべて -
アーカイブズ課
伝道メディアグループ
開祖顕彰資料室
佼成図書館
作成日(西暦 or 和暦)
地理空間情報
ヘルプページ
1673 件中の 307 件目~ 324 件目を表示
リスト
サムネイル
65
...成道 一 仏さまが悟られました、その内容というものは「諸法の実相を究尽したまえり」と方便品にありますように“諸法の実相”そのものなのです。 そして仏さまは「常にここに住して法を説く」と言われていますように、特定の形のようなものがあるわけではありませんが、永遠の生命の中にはっきりと生き続けている、とおっしゃっておられるのです。そしてまた、われわれはこの娑婆に独り立ちしているのではなくて、いろいろな人との持ちつ持たれつの中で、世の中ができているのだということ、いろいろな問題が起こってくるのは、出会いや触れ合い、かかわり合いなどの縁起によるものだということを教えてくださっているのです。 つまり、そういう大いなる生命が、ちゃんとした法則にのっとって、われわれひとりびとりの人格の尊厳さを最高度に認めていることを、仏さまは教えられているのです。ですから、その悟りの内容をよくよくかみしめてみると、なんとすばらしいことをお釈迦さまは、お悟りになられたのだろう、と思わずにはいられないのであります。 (昭和51年12月【速記録】) 成道 二 お釈迦さまが悟られた内容は、むしろ科学が進めば進むほど、はっきりと明らかになってきます。仏さまとわれわれとの間にある微妙なもの、仏さまと私どもの現在とが、もはや離れることのできないものであり、仏さまの悟りの内容である、自然の法則の中にわれわれが生かされているということが、はっきりしてきますので、そこになんとも言えない安心感が生じてきます。いわゆる実証的な安心が得られるわけであります。ですから、私どもが自分独りで「おれが、おれが……」と言ってもそれはとおらないのであるということがわかってくるのです。 お互いがそういう気持ちになって、いさめ合っていくことによって、なるほど世の中はこんなにもすばらしい荘厳の世界なんだな、仏の世界そのものなんだな、ということがわかります。世の中には、がむしゃらにおのれ独りで生きているんだと思っている人がいますが、「仏の世界に自分は生かされている」という、存在の本質がわからないとだめなのです。この娑婆には、そういう仏さまの教えが、躍動しているのです。 (昭和51年12月【速記録】) 成道 三 お釈迦さまが悟りを開かれて、すばらしい境涯に到達されたその本は何かというと、それは大慈悲心から出てくるところの求める心です。慈悲がなければ成道はなりません。頭がよくて、いくらおれは秀才だ、などと言っておっても仏にはなれません。けれども、深い慈悲心と真心があれば、たとえバカと言われた周梨槃特のようでもいいわけです。ちゃんと成道することができるのです。 (昭和52年06月【求道】)...
66
...転法輪 一 お釈迦さまが悟りを開かれて、初転法輪に至るまでの間のことにつきましては、いろいろなことが説かれていますが、悟りは開かれたけれども、かくあるべきだということを、一般の人々に説いても果たしてわかってもらえるかどうかが、一番たいへんな問題であったと言われております。それもそのはずで、信仰というものはその人その人の信じ方であって、神さまと言い、仏さまと言っても私どもの肉眼では見ることができません。心で見れば見えるのですが、普通の人間の眼には見えないわけであります。その見えないものを信ずるのですから、これはなかなかたいへんなことであります。 そこで、お釈迦さまは悟りを開かれたのち、永い間、菩提樹下に端坐されて、どのように説いたなら、すべての人々にわかってもらえるだろうかと考えられたのです。そのときお釈迦さまは、こんなことを説けば、かえって神さまや仏さまをののしるような者も出てくるのではないだろうかと考えられて、人々にわかってもらえないのであれば、これは説くべきではない、いっそ説かないでおこうと消極的になられたり、いや積極的に説くべきだとお考えになった、ということであります。 このことは、自分でお導きをさせていただこうという気持ち──つまり、法輪を転ずる立ち場に立ちますと、よくわかります。「どこそこの家は今たいへん幸せだけれども、どうもこのままではとおらないように思える。だからあの家が永遠に幸せであるように、お導きをさせてもらおうと考えてはみるものの、さてそれにしても聞いてくれるかどうか、どうもあそこの家のおやじさんは頑固だから……、奥さんがうるさいから……」といろいろと考えて、説き出すのに私どもも躊躇することがあります。 そういう心境を考えてみましても、お釈迦さまの場合は、かつて、だれひとり到達したことのないところを悟られたわけですから、「これはなかなかたいへんな問題だ。どうしたものだろうか」とご心配になったのは当然のことだと思うのであります。 やがてお釈迦さまは梵天の願いを入れて、いよいよ「説こう」と決意され、哲学者や宗教家など聞く耳を持った人達のいる当時の文化都市、鹿野苑へ向けて、決定も新たに二百キロ以上もの道を遠しとせずに歩かれ、そこで初めて法を説く〈初転法輪〉ということになるのであります。 (昭和48年01月【求道】) 転法輪 二 お釈迦さまが鹿野苑で初めて法を説かれたのは、かつて、修行を共にした五人の比丘の前でした。この五人の比丘達は、あれほどすばらしく聡明であった太子が、厳しい修行をしたにもかかわらず、苦行を捨ててすっかり堕落してしまった、と思ってあきれていたのです。ですから、そのうちここへもやって来るだろうが、来ても絶対に口をきくまい、と約束していたわけです。 ところが不思議なことに、お釈迦さまがお出でになると、だれとはなしに声をかけてしまいました。そして声をかけたというよりも、自分達が悩んでいるいろいろな問題を問いかけますと、お釈迦さまはどんなことでも、はっきりとわかるようにじゅんじゅんと説かれる──そこでとうとう五人の比丘は、皆お釈迦さまに帰依したのです。そのときまで「沙門ゴータマが来ても口なんかきくまい」と、強情な心で申し合わせていたのに、だれ破るともなしに、五人ともわれ識らずのうちに約束を破ってしまったわけです。 こうして五人の比丘達は、お釈迦さまの教えを受けてそれが全部わかり、大歓喜を生じてお弟子になったのですが、そのことから学者の人達は、「仏教は成道の時ではなく、この時に初めて始まった」と言っているわけであります。 (昭和43年10月【速記録】) 転法輪 三 お釈迦さまは、お弟子達に対しても常に〈一対一の教化〉をされています。お弟子達が修行しているところへ、よく手どりにお回りになったのです。守籠那という弟子が、教団中随一という厳しい修行をしながらも、解脱の境地に達せられず、悩んでいるのを見抜かれたお釈迦さまは、わざわざ林の中の守籠那のところへ足を運ばれて「琴の糸は緩すぎてもいけないが、また、強く張り過ぎてもいい音は出ないんだよ」と教えを説かれて、信仰の危機を救われたこともありました。 また、阿(少+免)楼駄(注・阿那律)という弟子は、説法を聞きながら居眠りしているのを、お釈迦さまに注意されたことに発憤し、夜も眠らぬ行を続けて、ついに失明してしまいました。ある時、阿(少+免)楼駄が精舎の中に独りいて、衣のほころびをつくろおうとしていました。しかし、盲目の彼は針に糸をとおすことがなかなかできません。そこで思わずつぶやきました。「もろもろの世間の福を求める者よ。私のためにこの糸をとおして、功徳を積むがよい」。 すると、彼の側に歩み寄ってきた人があって「さあ、その針と糸をよこしなさい。功徳を積ませてもらいましょう」。その声はまさしくお釈迦さまだったのです。阿(少+免)楼駄が恐縮して、ひらにお断りし「仏さまは、もう功徳はすっかり積んでいらっしゃるではありませんか」と申し上げますと、お釈迦さまは「いや、世間の人は残らず幸福を求めているが、私ほど真剣に、それを求めているものはないのだよ」と、おおせられたと言います。 このお釈迦さまのご行為とお言葉が、どれほど阿(少+免)楼駄の救いとなったかは、察するに余りあります。〈一対一の教化〉とは、これを言うのです。 (昭和48年11月【佼成】) 転法輪 四 お釈迦さまのお説きになりましたご法は、何千年を経ようとも不変の教えであります。しかも、私どもが「仏さま」と呼んでいますそのお釈迦さまは、八万法蔵と言いますから、あらゆるご法門をお説きになっています。そこでお釈迦さまを、一大法門を説かれたかたであると、こう私どもが考えてお経をだんだん読んでいきますと、さにあらずで、お釈迦さまは「我一語も説かず」と言っておられる。 どうもこれは不思議だなと思って、法華経をさらにだんだんと読んでみますと、日月燈明如来が二万仏も出現して、その仏は三千年に一仏ずつ生まれてこられて法を説いた───そして、威音王如来という如来さまがまた、次から次へと生まれてきた──大通智勝如来というような仏さまも、やはり何回も何回も大通智勝如来として生まれた、と説かれています。 そのように、三千塵点劫という非常に永い間、多くの仏さまが入れ代わり、立ち代わりお出ましになってご法を説かれた。お釈迦さまは、その説かれてきたご法を継承したのであって、自分では一語も説いてはいないと、こう言われるのであります。 お経を読んでみても、このあたりの解釈はたいへんにややこしい。ですから、わからなくなりがちですけれども、そこに説かれておりますのは、この宇宙の大法則はいつになっても、変わるものではないということで、真理に到達されたお釈迦さまの悟りの内容も、同時に過去において説かれてきたご法も一つであるということです。しかも、仏さまの説法の順序次第はちゃんと決まっているのであるということを、お釈迦さまご自身の説法の次第によって証明されているわけであります。 (昭和33年11月【速記録】)...
67
...涅槃 一 ヴェーシャリーの町で重い病に罹られ、ほとんど絶望かと思われたお釈迦さまが、幸い小康を得られたとき、常随の弟子・阿難が「世尊がお亡くなりになるかと思いますと、四方が暗くなるような思いでございました。これから先、比丘僧伽はだれを頼りにしていけばいいのか……」という意味のことを申し上げますと、お釈迦さまは「私はすでに、内外の区別なく、ことごとく私の悟った法を説いたではありませんか。阿難よ、そなた達は、今でも、私が死んだ後でも、自らを燈明とし、自らを依処とし、法を燈明とし、法を依処としていけばいいのです。そのような人こそ、最高の比丘と言うべきです」とお諭しになりました。いわゆる自燈明・法燈明と呼ばれる万世不滅の理性の教えであります。 それから、ふたたび北へ向けて布教の旅に出発されましたが、途中バーヴァーという町で、熱心な信者であるチュンダがご供養申し上げた食事の茸に中毒され、ご容体がにわかに悪化されました。胸をかきむしって後悔するチュンダの様子を聞かれたお釈迦さまは、お傍で看病している阿難に「チュンダの供養した食事が、私の最期を早めたからといって、何も悔むことはない。私が成道する前に、スジャータという娘が食事を供養してくれたが、今入滅しようという際に供養してくれたあの食事も、それと同じように大きな功徳があるのだ」とおおせられました。なんたる寛容、なんたる慈悲──お言葉を伝える阿難も、承るチュンダも、ともどもにむせび泣いた、と言うことです。 いよいよご寿命が終わりに近づいたことを、お覚りになったお釈迦さまは、最期の地をクシナガラとお決めになり、そこまで数キロの道を二十五回もお休みになりながら、たどりつかれました。そして、町はずれの二本の沙羅の木の間に床を用意させられ、北を枕にして静かに横になられました。 その夜半、スバッダという年取った異教の行者が、教えを請いにきました。阿難は、ご臨終に近い世尊をわずらわしてはならぬと思い、固く断りました。その押し問答を聞かれた世尊は「阿難よ、道を聞きに来た人を拒んではならぬ。とおしなさい」と命じられました。スバッダが、ごあいさつもそこそこに「世の宗教家はみんな自分で悟りを開いたと言っていますが、ほんとうにそうでしょうか」と、お聞きしますと、お釈迦さまは「そういう問題に思いわずらう必要はありません。真の悟りに至る道は、正見、正思、正語、正行、正命、正精進、正念、正定の八つの聖なる道しかないのです」と、正しい実行の教えをお説きになりました。そのお言葉によって、スバッダは目が覚めたようになり、その場で三宝に帰依しました。これが、ご存世中の釈尊最後の弟子となったわけです。 (昭和49年02月【佼成】) 涅槃 二 涅槃についてわかりやすく言いますと、一つには、ちょうどろうそくが全部燃え尽きてなくなり、ともされた火がひとりでに消えていくように、スウっと終わるということであります。そう申しますと、全部なくなってしまうことのすべてが〈涅槃〉ということになりますが、この言葉はほかの人の場合にはあまり使いません。と言うことは、涅槃と呼ぶに値するような、なすべきことを全部なし尽くしたということにならないからだと思います。しかし、この涅槃という言葉には二通りの解釈があります。 その一つが、今申し上げました燃え尽きて消えたろうそくのように、寿命がもうすっかり尽きて亡くなられたことを涅槃と言う──これが一番わかりやすい。ところが仏教で言うところの涅槃は、それだけのことではないのです。 では、どういうことかと言いますと、煩悩をなくした──つまり、生きながらにして悟りを開いた──というその状態を涅槃と言います。したがって、「悟り」という意味と、「肉体がなくなった」という意味の両方があります。今日とくに、そうしたこの二通りの意味を思い起こしてみたとき、それではお釈迦さまはなくなってしまわれたのかと言うと、そのほんとうの意味の本体は、われわれ一切衆生に、永遠に光明を与えてくださっているのです。ですから八十年の生涯を閉じられて、その肉体は涅槃に入られましたけれども、仏さまの精神は永遠不滅のものであって、そのお心、その魂は、私どもの身の回りに今も生き続けておられるのです。すなわち「常にここに住して法を説く」と、お経文にもありますように、私どもは常にお導きをいただいているのです。 (昭和42年02月【速記録】) 涅槃 三 “仏教の力は失われた”と言うようなことを、書いたり、説法したりする人が、ときにはあるようでございます。これからは神の時代であって、仏の時代じゃない、と言っている人も中にはいます。ずいぶん勝手なことを言う人がいるわけでありますが、しからば仏教は死んだのかと言うと、決してそういうことはありません。仏教の本質を味わってみれば、それはもうなくなったとか、あるいは今、勃興しつつあるとか、そんな刹那的な問題ではないことがわかります。お釈迦さまは、インドにお生まれになって、五十年間説法をなさった。それが現在経典になって遺っているわけでありますが、そのご説法の記録だと申しましても、現在のように速記録というようなものがあったわけではありませんし、またテープレコーダーのようなもので残されたのでもないのです。ですから、勢いお釈迦さまのお徳をいただいた多くの人達が、それも、お徳を受けていればいるほど、私はみ教えをこのように受け取りました……私は、このように伺った……というように、いろいろと語ったことがまとまって、だんだんとお経のかたちができたわけでありますので、ほんとうに記録したものとは違って、永い間に変わってきているのであります。 しかもインドの言葉が翻訳され、その翻訳である漢文で書かれたものが日本にきて、それをまたわが国では日本流に直して読んでいます。国柄の違うところ、言葉の違うところを何か国も経て、日本に伝わってきているのでありますから、お釈迦さまのほんとうの精神が伝わるということはなかなか難しいのであります。 まあ、これは余計なことで、こんなことを申し上げると、皆さんはかえって頭の中で混乱されるかも知れませんが、そのようなことを常識として、あらかじめ仏教の伝わり方を的確につかみ、仏教のあり方、本物をしっかりとつかんでいただきたいと思うのです。ですから、教えの説かれ方も時と処と次第をちゃんと判断したうえで、興るべくして興り、勃興すべくして勃興し、またすたるべくしてすたっていくわけであります。また、お釈迦さまはそうした問題について、非常に明快に、現在の世の中をお見とおしになって、説かれているのであります。 そのことがわかりませんと、たとえば、阿弥陀経にしても、この経はお釈迦さまが亡くなられてから百年も百五十年もたってできたのではないか、あれは非仏説、つまり仏さまが説かれたご法じゃない、などと言うことになります。そうなりますと非常に問題が起こって、そんなことを言う大学教授を首にしろというようなことで、けんけんごうごうの騒ぎになったりします。けれども、阿弥陀経を読まれたかたが、このお経の文章が現代の私どもを救うはっきりとした根拠があり、今に生き続けているところをつかんでいれば、またそのことがはっきりとしていれば、お釈迦さまがお説きになられようが、後の学者が書こうが、そんなことには頓着しないでいいわけです。要するに、お経の内容に触れて、自分が有り難く拝読することこそたいせつであると思うのであります。 (昭和34年10月【速記録】)...
68
...生活に即した仏教 一 仏教というと、とかく非常に難しいもの、お経は専門のお坊さんでなければわからないものと、お互いさまに思いがちでありまして、それが“生活の要諦としての教えである”というようには、普通あまり考えません。けれどもお経を読ませていただいておりますと、私どもと同じように、人間として、この娑婆にお生まれになったお釈迦さまが、人間はどうあるべきか、と考えられたそのことが根本であるということが、だんだんとわかってまいります。お釈迦さまは、その方法をみずから悟られて実践されたのでありまして、実践のその記録が現在の経文であり、仏教はお釈迦さまの五十年にわたる説法がもとになって成り立っているのである、と申し上げてよいと思うのであります。 (昭和40年03月【速記録】) 生活に即した仏教 二 仏教というものを、ごく平易に申し上げますと、それはきわめて私どもの身近にあって、どうしても守らなくてはならない、しかも、それによって幸せになれる、という教えであります。逆に、私どもが不幸せになることもまた身近にありますが、仏教の法則をよく取り扱うか悪く取り扱うかによって、善因善果、悪因悪果と分かれてまいります。私どもが幸福になろうとすれば、〈道場観〉に説かれていますように、今いるここが道場である、自分の家庭が道場である、という生き方にならなくてはなりません。 この道場に来て先輩の前にいるときだけ「ほんとうに悪い人間でございまして……」と言って懺悔をする──あんなに心から泣いて懺悔していったのだから、家に帰っていい奥さんになるだろうと思っておりますと、家の玄関を入るとすぐに魔性がついたように夜叉に変わってしまう──そんな例もあります。道場に来て、せっかく如来さまのような心にしてもらっても、家に帰るとたちまち夜叉に変わるということでは、何回やっても、行ったり来たりの繰り返しでなんにもなりません。ですから、道場へ来て悟らせていただきましたならば、如来さまそのままの気持ちをいつまでも持ち続けていくことです。そうしていただきますれば、お導きもたくさんにできると思いますし、家庭内のいざこざや災難ということにつきましても「なるほど、この原因は自分の心の中にあったのだ」ということに気づいて、ますます有り難いご法である、という認識も確立すると思うのであります。 (昭和33年09月【速記録】) 毎日の生活、これが仏教です。法門の言葉は難しいですが、簡単に申し上げますと、因縁を悟り、悪因縁を積まないように、悪因縁の解決に向かって毎日毎日、善根功徳を積み重ねていく、そして生きがいを感じながら毎日を生きていく──それが仏教だと思うのであります。 (昭和48年07月【求道】) 生活に即した仏教 三 お釈迦さまは八十年の生涯を、一切衆生が自分と同じようになって欲しい、という理想を掲げて生きられました。一切衆生がみんな成仏しないうちは、私も楽々としてはいられない、とお考えになっていました。ご自分の一切の地位を捨てて出家され、みんなが平和に明るく、心柔らいで生きていくには、どういう方法をとればいいか、ということを真剣にお考えになった。その結果、悟られたのが仏の境界であります。そしてお釈迦さまはご自分が悟られた過程をさらに深く考えられて、だれもがこうなれるのだから、皆さんも私と同じように悟って成仏してくださるように、と願われて遺されたのが仏教であります。ですから、私どもは決して自己流にやってはいけません。これは踊りでも歌でも、相撲やゴルフなどのスポーツをするときでも同じで、自己流では上達しないのであります。自己流の宗教を持ち、それによって信念を強くしていくとか、自分なりに修養を積むことも一つの方法ではあります。しかし、それも方法の一つだとは言いながら、そうした自己流の方法でなんとかして安心できる立派な大境涯を獲得しようと考えても、そこまで到達するにはなかなか時間がかかりますし、へまをしますと、自我が出て別の方向に進んでいってしまうかもしれません。そういう危険なことは、避けるべきでしょう。 とにかく、ここにお釈迦さまが完成された完全な手本があるのです。そして、あなたの苦しみはこういうところからこういうわけできている、あなたが今楽しんでいるのは過去にこういう善いことをした功徳によるものだ、ということが非常に明確にされている。だから、心の中をちゃんと整えさえすれば、自分が悟ったのと同じ状態、自分と同じような境涯に、だれもがなれるのだということを、お釈迦さまはだれが聞いても納得のいくように、理論にきちっと合うように説き明かされているのです。「さあ、このとおりやって、みんな幸せになりなさい」と、こう仏さまが教えられたのが、仏教の経典なのであります。 (昭和38年05月【速記録】)...
69
...根本仏教 一 過去において法華経を信奉した人達はとかく「四諦の法門や、あるいは八正道とか十二因縁ということは、小乗仏教の教えであって、愚かなものだ」と考えがちでありました。ですから、もうひとっ飛びに「南無妙法蓮華経さえ唱えればいいんだ」というようなことを言っていたわけです。なんでも南無妙法蓮華経さえ唱えれば仏になれる……南無妙法蓮華経と言いさえすればもう仏なんだと、こういう、まことに簡単に即決してしまうところの信仰をやっている人達は、なんでもかでも直感でいきなりそこへいってしまうわけです。しかし、果たしてそれだけでよいのでしょうか。 それは確かにお釈迦さまも直観によって悟りを得られたのですが、その直観による悟りを人に説いてわかってもらえるかどうかについて、なおかつ苦労されてしばらくの間、菩提樹下にお座りになったわけです。そしてまた、幾日もかけて二百キロ以上の道を歩いて説法に出かけられたのです。ところが、行ったその場所には、お釈迦さまが来ても口もきかないと約束し合っているような人達が待っている。そこへ出かけて、いよいよ説法しようというのですから、これはなかなかたいへんなことです。 われわれがお導きに出かけたときでもそうで、話をしても先方はなかなか話を聞いてくださらない。そこをどんなふうに説けば聞いてもらえるか、わかってもらえるか……、どうしてなかなか苦労なことです。皆さんがお導きがなかなかできない原因もそこにあるのだろうと思います。相手の人が今、何を考えているか、それに対してどう説けばいいかというこの対機説法の態勢が、私どもの心の中に十分にできていれば、相手の人も戸惑うこともなく「なるほど、わかった」と、こうなるのですが、話の順序になかなかそういう筋道をとおしていけないところに導きの困難さがある──と、こういうことであります。 お釈迦さまもやはりその苦労をなさって、遠い道を歩いて行かれて説法をされたのでした。 (昭和46年12月【速記録】) 私は仏教徒ですから、仏教の理論で言えば、まず根本仏教ないしは原始仏教を学んでから法華経を咀嚼し、その法華経の精神をとおして見ていくならば、すべてのものを生かしていけるのです。仏の法門というのは、そのようにあらゆる宗教の教義の違ったものまでも、それを生かす法がはっきりとしています。さらに、科学の進歩とともに法門の解明が容易になったのはほんとうに有り難いことです。 (昭和43年10月【佼成】) 根本仏教 二 宗教が宗教であるゆえんは、いったいどこにあるのでしょうか──。われわれの帰依している仏教について、この問題を考えていくと、当然まず根本仏教の要諦である〈四諦〉〈八正道〉〈六波羅蜜〉などの法門が頭に浮かんできます。 〈四諦〉は、「人間の存在はすべて苦であることを悟り、しかもそれから逃げかくれしないで、その苦の実態を見つめよう(苦諦)」次に、「苦の起こった原因を探求し、反省し、それをはっきりと見究めよ(集諦)」「苦の根本原因である無知と煩悩を滅すれば、苦は必ず滅せずにはいないのである(滅諦)」「その滅諦にいたる道は、八正道、六波羅蜜を行ずることである(道諦)」という教えであります。まことにすばらしい智慧の教えと言わなければなりません。 ではその〈八正道〉とはどんなものであるかと言えば、つまり「ものごとを正しく見なさい(正見)」「ものごとを正しく考えなさい(正思)」「正しいことを言いなさい(正語)」「正しい行為をしなさい(正行)」「正しい生活をいとなみなさい(正命)」それらのことを成就するために「正しい努力をしなさい(正精進)」「心をいつも正しい方へ向けていなさい(正念)」「常に心を正しくおいて動揺させないようにしなさい(正定)」という戒めです。 完全な道徳の教えであると言っていいでしょう。 次に〈六波羅蜜〉というのは、「精神的・物質的・肉体的のあらゆる面から、人のために尽くしなさい(布施)」「仏の戒めを守って心の迷いを去り、正しい生活をし、自分自身の完成に努力することによって、他を救う力を養いなさい(持戒)」「他に対しては常に寛容であり、自分に対しては高ぶる気持ちを厳しく抑えなさい(忍辱)」「たいせつな目的に向かって一心不乱に努力しなさい(精進)」「真理に対して精神を集中し、雑念を去る修行をしなさい(禅定)」「諸法の実相を見とおす、ほんとうの智慧を持ちなさい(智慧)」という〈精神生活と行動の基準〉です。 八正道よりもっと深く、そして対人性・対社会性が濃厚になった、これまた非の打ちどころのない知性と倫理の教えと言わなければなりません。 (昭和39年03月【躍進】) 根本仏教 三 根本仏教では、人間がなんのために苦しみ、なんのために悩んでいるのか、そして、それはどういうことのための苦しみであり、悩みであるかを明らかにして、その原因をなくそう、そうして、苦しみ悩むことのないようにしよう、ということを中心にしたものです。 それでは、それをなくするには、どのようにしなくてはならないかと言いますと、諸法の実相をつかむことです。つまり、生まれてきた私達が今現在、置かれている実際の姿、ほんとうの姿をちゃんとつかむことです。そうすれば、苦しむことなどまったくなくなるわけです。しかし、ただ単に諸法の実相ということだけを言ったのではわかりにくいわけです。そこでこれをさらに追求していくと、十二因縁の法門に到達することになるわけです。 (昭和41年04月【速記録】) 根本仏教 四 仏教の教えというのは、まことに簡単に、よくわかるようにできていると思います。私は二十八歳のときに法華経に導かれ、四諦、八正道、十二因縁、六波羅蜜という仏教の因果説、因縁説を聞いて「これだッ」と思いました。そのとき私は「もうこれでなくてはいかん、生活はこの教えでいかなくてはならない」と直感したのであります。 今の若い人であれば、立正佼成会の教学を半日ほども聞けば、仏教の原理や理論は全部わかってしまうことだろうと思います。学校へ十三年も十五年も行って、先生から道について教えを受けてきているのですから、仏教の法則がわからないようでは、よほど理解力のない、アホウと言うほかないことになりましょう。 (昭和51年01月【求道】) 若いときですと、四諦、十二因縁、六波羅蜜の法門などは、半日も聞けば覚えてしまうものです。そうしますと、何人もの“お釈迦さま”ができることになりますが、問題はそれを実践することの如何にあります。理論はわかっても、さて実践するとなりますと、腹が立ったり、迷ったり、悩んだりしてなかなかすっきりとは、いかないわけです。それが凡夫の浅ましさと言うものです。 (昭和39年01月【会長先生の御指導】) 私は学校へは六年しか行っていないのですが、このご法を聞いて「よし、これだ」と、直感するとともに、思いましたのは、これで生きていかなくてはならないということでした。それまで十五年くらい、いろいろな信仰や法則を勉強してみて、「なるほどすばらしいものだ」とわかったのですが、だんだんと深くやってみると百発百中というわけにはなかなかいきません。当たりもあれば、はずれもある。先日もそのような予言者を集めた放送がありました。霊能者の日本一、世界一という人達が集まっての放送でありましたが、そういう人達の発言でさえ、当たるものもあれば、はずれるものもあり、これではあまり信頼が置けないと思ったのでした。 ところが、お釈迦さまの悟られた内容は、当たるかはずれるか、それとも救われるか救われないか、わからないというようなものではありません。百発百中の結果がちゃんと出てくるのであります。 (昭和50年01月【求道】)...
70
...四諦・八正道 一 私どもとしましては、なんといっても、まず一仏乗の法華経の中の四諦の法門をかみしめなくてはならないのです。これはご承知のとおり、お釈迦さまが悟りを開かれて一番最初に、五人の比丘にお説きになったときに始まり、いろいろの教えをお説きになった最後に、法華経をお説きになるまで、一貫してあらゆる機根の人々にわからせようとされたご法門だったのです。すなわち、苦集滅道の論旨を完全に把握させようというのが、お釈迦さまのお考えだったと思います。このご法門をよく認識させるためには、三世輪廻の法則であります十二因縁の教えに基づかないと、因縁の道理をよく説き明かすことができないのです。 また、方便品の中に説かれている十如是の原理は、あるがままの現実の姿を説明しているのですが、自分が現在置かれている条件、力、働きというようなものの因縁因果をはっきりと理論的に理解しないと、仏教の根本法則とも言うべき四諦の法門もよくわからないのです。自分達が、今いろいろと悩んでいること、苦しんでいること、時には楽しんでいることもありましょうが、ともかくも、自分でどうしても解決しなければならないたくさんの問題を解決するには、〈四諦の法門〉の苦集滅道の道理を知ることが前提となるのです。この道理をよく理解できると、色情の問題にしても、経済的な問題にしても、またそのほかの個人対個人の感情問題にしても、自分の眼前に現われる現象を的確にとらえることができますから、それがまた反省の糧ともなり、さらに精進の糧ともなるのです。 (昭和36年03月【佼成】) 四諦・八正道 二 立正佼成会の会員の皆さんは道場の中で、なぜ輪をつくって話を聞いているのかと申しますと、それはすなわち“四諦の法輪”を説いているわけであります。それを四諦の法輪とは言わずに、皆さんが持っておいでになる悩みをこういう順序──たとえば、先ほど会員のかたの体験説法にもありましたように、だんなさまに捨てられて、何回も何回も再婚しなくてはならないというような人でしたら、現在の状態というもの、つまり自分の置かれている状態を諦らかに観じて、中途半端な逃げかくれをせず、その苦の状態を苦と悟るのが〈苦諦〉であります。 そして、その苦はどういう原因によるものか、どんな気持ちからそういうことになったのか、ということをだんだんと追求していって、諦らかにするのが〈集諦〉です。では、そうした苦をどうすればなくすることができるか、滅することができるかをきわめなければなりません。それが〈滅諦〉です。そこで道場の中で皆さんがご指導をしていただいていることは、あなたがこういう修行をすればお宅の悪因縁果報は解決するんですよ、ということを教えられているわけです。ですから苦・集・滅・道という法門によって人間の苦を解決するための教えが説かれ、因縁因果の法門によって、身・口・意の三業を皆さんに悟らせてくださるのであります。ですから立正佼成会が今、それを行なっている四諦の法門は、お釈迦さまによって始まったことなのです。 (昭和34年11月【速記録】) 四諦・八正道 三 「道」ということについて申しますと、八正道ということが一番先に頭に浮かんできます。最も、仏教では八正道なのですが、私どもの身近なところに、書道や画道を学ぶとか、茶道を習うなど、いろいろの「道」があります。それに剣道や柔道などもそうですが、その人のすばらしい持ち前をそれぞれが完全に現わすために道を修行するのです。そして、その中でももっともたいせつな、それこそもう動かすことのできない原則とも言えるものが、仏教の〈八正道〉であると、私は思うのであります。 仏さまが八正道について説かれたとき、まっ先に言われたのは〈四諦の法門〉でした。それは何かと言うと、「生老病死というような四苦、そしてまた八苦というような苦しみを人間は持っているが、それはいったいなぜなのか、続けて深く調べていくと、自分が過去世から持ってきたいろいろなものと今生に自分が身につけたものや心がある。そういうものを根底から救わなければ幸せにはなれない。そして心というものを安泰にしていくためには“道を行ずる”ことだ」と教えられているのであります。 ですから、仏教は抹香臭いものではなく、人間の生活をあたりまえのかたちでほんとうに直くし、みんなを幸せにしていくためのものであって、そのためにどうしても守っていかなければならない原則と言うべきものが、八正道であると思うのであります。道というものは、歩くためのものなのです。人間道もまた、人生の歩みです。仏教はそれをはっきりと教えているのですから、八正道を勉強していきますと、なるほどこのように心を正しく持って、ちゃんと道にあてはめていき、その道を行じていけば、それによって苦が滅するのであるということが、一目瞭然なのであります。 (昭和51年03月【速記録】) 四諦・八正道 四 八つの正しい道、〈八正道〉は、その一つ一つが別々に分かれているのではなく、正しい道の一つの部分であり、同時に互いに関連し合い、つながり合っているのです。もちろん六波羅蜜や、他の法門とも密接なつながりをもっていることは言うまでもありません。 この八正道と六波羅蜜こそ、私達人間がそれぞれ人格を完成し、お釈迦さまが説き示された〈滅諦の境地〉へいたる「最も正しい手段、方法」なのです。 つけ加えて申しますと、四諦の法門の〈道諦〉にはいって歩む実行力は、〈集諦〉のところで、正しく苦の原因探究が行なわれていたか、いないかで決まるということです。「自分が自分自身を苦しめていたに過ぎなかったのか」と、因縁因果の相関関係がわかると、さらに進んで「自分は、いかに人さまを苦しめてきたか」までわかり、心から“申しわけない”という気持ちが起きてきます。そして、そういう心が支えとなって〈八正道、六波羅蜜の実践に励む〉ということになるのです。 (昭和38年06月【佼成新聞】)...
71
...十二因縁 一 「諸法実相」をもっと深く理解させるために、別の角度から説かれた教えが「十二因縁の法門」です。 この法門は、人間の肉体の生成にも十二因縁の法則があり、心の変化にも十二に分かれた因縁の法則があるという教えです。前者を外縁起と言い、後者を内縁起と言いますが、その内容は「私達人間の肉体がどのような過程を経て生まれ、成長し、老死にいたるかということを、過去、現在、未来の三世にわたって説き」、それに伴って千変万化する人間の心のありさまを示されたものです。 そこで、初めに外縁起について、かいつまんで説明することにしましょう。 十二因縁の一番初めに出てくるのは“無明”です。無明というのは、字のとおり「明るくない」とか無知ということです。私達の魂が両親の体に宿る以前は、全然なんにもわからないし、感じもしません。 その魂が、夫婦生活という“行(行為)”によって母の胎内に宿り、“識”が生まれます。識というのは「生物らしい性質のもの」という意味ですが、不完全ながらも人間らしいものがここでできてきたわけです。要するに、私達の出発点は〈無明〉から始まるのです。 さて、不完全な識がだんだんかたちを整えてくると“名色”になります。名とは無形のもの、心のことで、色はその逆の有形、つまり肉体を指します。したがって、名色というのは、魂の入った人間の心身ということです。名色が発達すると“六入”となり、眼、耳、鼻、舌、身、意、すなわち六根が調うということです。ここではまだ母の胎内にあるので、まだまだ不充分です。私達はお互いさま、こういう段階のところでこの世に生まれてきたのです。五つの感覚と一つの心がもっと発達してくると、ものの形、色、音、におい、味、さわった感じなどをはっきり感じられるようになります。ここまでくると“触”です。 ところが、そうなってくると、感受性が強くなってきて、好ききらいの感情がでてきます。この状態を“受”と言うのです。 人間の年ごろで言えば、六、七歳ごろを指しますが、さらに成長すると“愛”が生じます。この愛にはいろいろな意味がありますが、ここでは異性に対する愛情と考えてください。異性への愛情が芽生えると、その人を自分のものにしようという所有欲、独占欲がでてきます。それが“取”であり、次に“有”となるのです。ここまでくると、人生のほんとうの苦しみというものがいろいろな形で襲いかかってきます。 そして、それは一生続いて、最後に“老死”にいたるわけです。 以上が、私達人間の肉体を中心とした外縁起による十二因縁ですが、次に心の成長を中心とする内縁起について、考えてみることにしましょう。 まず初めに“無明”。これは正しい世界観や人生観を知らないか、知っていても無視することです。間違った不幸な人生を送っているのは、すべてのものを支配する真理(法則)を無視した行ないをしているからです。仏の教えを信じ、法門が身についていれば、どういう心構えで生活すればよいかもわかるし、万一、悪い方向へ進んでも、教えに照らして反省ができ、すぐに正しい方向へ向かうことができます。 無知(無明)のために、今まで真理(宇宙の法則=お釈迦さまの教え)にはずれた行ないばかりしてきた、これが“行”です。ただ、この場合の“行”は、自分自身だけの行ないという解釈にとどまらず「人間が永い間、積み重ねてきた過去の行ない」ということも含まれています。よく世間で「親の因果が子に酬い」などと言いますが、これなど単的に表現したものと言えるでしょう。 次の“識”は、私達が物事を知り分ける根本の力や働きのことです。外縁起で述べた眼・耳・鼻・舌・身・意の六入全部に影響を及ぼす働きをもっているのです。 生まれたとき、私達の識の中には、前世の業(行為)が、意識や潜在意識の中に働いています。したがって、前世によくない行ないをしてきた人は、今世に生まれたときの識も、無明の識と言えます。 この過去を背負った識から出発して、新しい今生の行ないが積み重なるのですから、その人の人格はおして知るべしです。 私達人間が、生存するということを考えてみましょう。 私達は皆、心と体を持っています。そして眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの器官が同じようにあるわけです。そのうちの「意」を除く五つは、普通感覚と言われています。そして、それらの感覚によって、あらゆるものをとらえる「意」を、知覚と呼んでいます。私達は、この感覚と知覚の働きによって生活を営んでいるわけです。“識”と“名色”と“六入”は、同時に互いに依存し合っている関係で結びついているのです。 心が発達するにつれて“受”が生じます。人間はひとりひとり、ものの受け取り方、感じ方が違います。主観の相違による欲求の相違です。こうした主観とか感受性の相違は、それぞれの過去の経験がそうさせるのですが、十二因縁に照らして考えると、過去の“無明”と“行”の違いからくる“識”の相違が、物事についての考え方を変えさせていることがよくわかります。 苦楽に対する考え方がでてくると、自然、ものに対する“愛”が起こります。愛というと、愛情と考えがちですが、ここでいう愛とは、愛着心と考えてください。言い換えると、一つのものを好ましく思う心。そのものに執著(とらわれること)するということです。 お経文に“諸苦の所因は貪欲これ本なり”(譬諭品第三)という言葉があります。「もろもろの苦の原因は、貪欲なのだ」ということです。貪欲と言うのは、自分の欲望にまかせて執著する心を指します。したがって、苦楽とか好ききらいに対する考え方が激しければ激しいほど、愛したり憎んだりする心も強く現われるのです。 「あの人は盲目的だ」と言われる人は、たいてい執著心の強い人です。 “愛”を感じますと、そのものを放すまい、いつまでも自分のものにしておきたい、と考えます。その心が“取”です。つまり“取”は、愛憎の心から起こる強い取捨選択の心です。この心が強烈になると、身の危険を冒してまで手に入れようとします。いや、危険か危険でないか、悪いか悪くないかを考える余裕すらないと言ったほうが当を得ているかもしれません。お釈迦さまが、その教え(法華経)の中で“深く愛欲に著せる、此れ等を為ての故に苦諦を説きたもう”(譬諭品第三)と説かれているのは「こうした悪行悪徳の原因を除かなければ、人間の幸せはない」ということを、知らせるためなのです。 “取”があると、人間はそれぞれ異なった考えや主張がでてきます。それが“有”です。有とは、自己中心の心がもたらす差別の心です。 好きなものとは進んで親しみ、きらいなものは排斥する──これが、私たち人間世界の姿です。 このような差別する心があるために、人間同士の間に対立や争いが起こります。争っては苦しみ、対立しては苦しむ人生──そういう人生を“生”と言うのです。そして目先のできごとで喜んだり、悲しんだり、苦しんだりして生きているうちに“老い”の苦しみがやってきて、ついには“死”を迎えるということになります。 以上が十二因縁の概略的な説明ですが、私達はこの十二因縁の教えを自分自身の人生に生かし、世の中のほんとうの姿、そして「その世の中に生きている自分はどのような心構えで生きていかなければならないか」を、しっかり把握すべきだと思うのです。 (昭和38年06月【佼成新聞】) 十二因縁 二 物理学に「エネルギー不滅の法則」というのがあります。たとえば、高い所にある水のエネルギーは、落下することによって運動のエネルギーに変わり、それが発電機を回転させて電気エネルギーとなり、それがまた電気ストーブを仲立ちとして熱エネルギーとなり、われわれの部屋を暖めてくれます。そういうふうに姿を変えても、初めからあったエネルギーの総量は、いつまでも不変なのです。 部屋を暖めてくれた熱エネルギーが百%その家の人を利益するわけではありませんが、部屋の隙間などから逃げていった熱エネルギーも決して消滅することはなく、そのあたり一帯の空気をほんの少しでも暖めているのです。それが、この家からも、あの家からもと、たくさん集まれば、見えないところで大きな結果を生み、都心の気温が郊外よりも三度も五度も高いという、あの原因の一つになるのです。こういう見えない働きは、後に述べる業の働きと同じことですから、心によく留めておいてください。 われわれの現実生活においては、寒くなったからストーブをつける、暖かくなったから消す、といったように、目の前のことしか考えないのが普通です。その熱エネルギーがどこからきたのか、どうなっていくのか……といった、過去や未来のことまではまず考えません。しかし、考えようが考えまいが、遠い過去から現在まで、エネルギーの変化のお世話になっていることは間違いがなく、それをわれわれが使用した後の未来の姿においても、空気や草木や昆虫や鳥や、ほかの多くのものに影響を与えていることも間違いありません。その影響が回り回って自分の身にもまた還ってくることは必至なのです。 人間の行なう行為(すなわち業)も、これと同じなのです。業にも不滅のエネルギーがあるのです。現在の瞬間におけるわれわれの状態は、過去の業の集積した結果であり、今われわれが為す業のエネルギーも決して消滅することなく、未来において必ずそれにふさわしい結果と影響を生むのです。 ただ、人間の業は、身で為す行為だけでなく、口に出す言葉も、心の中で思う考えも、みんなその中に入りますし、そのうえたくさんの人々がつくる社会的な業──先の熱エネルギーが、あの家からも、この家からも出てきて、集まった結果を思い出してください。人間が身・口・意につくる業も、たくさん集まれば社会的な業、すなわち〈共業〉というものになります──その共業も絡んできますので、その働きは非常に複雑微妙であって、どの原因がどの結果を生んだのか、つかみ難いことが多いのです。 ですから、「善因善果、悪因悪果」という厳然たる法則を教えられても「ほんとかな?」と疑ってかかったり、また「信仰してほんとうに功徳があるのだろうか」とか「世の中にはとくにいいことをしないでも、立派に生活している人がいるのはなぜか」といったような、疑惑を持ったりするのです。 つまり、近視眼的に目の前のことしか見ないから、業の原因・結果の法則がわからないのです。長い目で見れば必ずそれが見えてくるはずです。 (昭和52年05月【躍進】) 十二因縁 三 今こうして生まれてきてしまったが、器量が悪い、これじゃしようがないじゃないかと、悲観をしてしまう人も出てくることだろうと思います。しかし、悲観する必要は少しもないのです。どういうことかと言いますと、器量が好いとか悪いとか言っても、鼻はだいたい顔の真ん中にくっついておりますし、その上の方には目玉が二つあるわけですから、そんなに変わった顔の人はいないのです。しかし、これだけ大勢の人が集まっていますけれども、同じ顔の人はただの一人もいません。それは、ひとりひとり、いくらかずつ因縁が違っているからです。同じお父さん、お母さんから生まれた子どもの兄弟姉妹であれば、同じように生まれそうなものですが、その人の前世からのいろいろな約束も、また行動も違っておりますから、兄弟の中にも、なりの小さい人もいるし、大きい人もいる。鼻の高いのもいれば、低いのもいる。そうかと思うとあぐらをかいた鼻もあれば、ツルハシのようにつんとしているのもあるというふうに、いろいろの問題が関係して出ているのです。 仏さまは、そういうことをこまごまとお説きになられて、今現在が一番大事なんだと言われています。過去の因縁が、現在を決めていることは事実ですけれども、私達にとってたいせつなのは、未来への向かい方なのです。と言いましても遠い先のことではなくて、あすからでも、いや、きょうからでも、これから先のこと、まだ来ないことはみんな未来です。その未来を規定するのは現在なんだ、ということを悟らせるために、お釈迦さまは五十年間も説法されたのです。そして、自分の現在を最もたいせつにしなくちゃならないということを教えられたのが、法華経であります。 これを教えるには、過去のいろいろの問題からもってこないと、なかなか納得がいかないわけです。そこで立正佼成会では、お釈迦さまが教えられたとおりの因果説を説いて、「あなたはこういうことをしたから、今こういう苦しみがきているんだ」「あなたは、こういう徳を積んだからそうやって幸せになることができたんだ」とだれもがよくわかり、納得できるように因縁因果の法則を説いているのであります。 たくさんの皆さんが、方々で立正佼成会にどんどん入会してこられるのも、そのためであると私は思っています。 (昭和34年04月【速記録】)...
72
...三法印・四法印 一 今、世界はどんどん変わっていっておりますが、仏教には〈三法印の法門〉という非常にすばらしい教えがあります。調和ということの根本を説かれたもので、この法門の最初に出てくるのが〈諸行無常〉の“変化”ということです。諸行無常の一面には、生あるものとして、人間は一度は死ななければならないという悲しいこともありますが、その一方には進歩、発展というよろこばしい建設的な変化もあります。 今年はこうでも、来年はもっと進歩し、そして発展していくという変化、このような考え方の中心になっていますのが、諸行無常という“変化の法則”であります。 要は、生あるものは死し、形あるものは崩れると言うのが仏教の説く諸行無常の法則です。ですから、科学がどんなに進んでも絶対に間違いのない法門だと思うのです。 さらに、これに続くのが〈諸法無我〉の法門でありますが、これは、持ちつ持たれつということです。人間、独りで生きている者はありません。それは社会のおかげ、皆さんのおかげです。一番近いところで言えば、自分が生まれて今日こうしておとなになったのも、親ごさんの愛情のおかげですし、教育ということになりますと、これを教えてくださった先生のおかげです。それにまた、いろいろの食物を食べ、着物を着て満足に生活できるのも、有り難い社会の恩恵を受けているからであります。ですから「自分の…」「おれの…」と言うようなものは、この世の中にはないのです。皆さんの恩恵によって培われて、今日の自分があるのです。そのように自分というものの〈我〉を張らないで、持ちつ持たれつの連繋によるところの恩義を説いたのが、諸法無我の法門であります。 (昭和43年02月【速記録】) 最後にくるのは〈涅槃寂静〉です。涅槃について明確に言いますと、それはろうそくがともり切って燈が消えたようなもので、つまり人間が一代ですべてをともし切って、命を終えたという意味、つまり二月十五日の涅槃会は、お釈迦さまが八十年の生涯をともし切られて、その一代を終えられた日でありますが、命終という意味での言い方もありますが、仏教で言う涅槃はそういうことよりも、〈迷いがなくなって煩悩の炎が消えた〉ことを指すのであります。 ですから、命がなくなったことを言う涅槃と、生きながらに煩悩をなくして入る涅槃の境地の二つがあるわけです。したがって涅槃ということは寂静であって、動揺することなく、来るべきものが必ず来ていること、そしてまたそこには、大調和の原則があることを言っているのであります。 (昭和48年【求道】特別号 2) 三法印・四法印 二 仏教の大法則は根本的には涅槃寂静でありまして、われわれがいただいているお恵みは、すばらしく調和のとれたものであり、だからお互いみんなが楽しく、手をつないでいけるような条件の中にあるんだ、ということを言ってあるわけであります。非常につじつまの合った教えです。ところが、人間の考え方が間違っており、四苦八苦というような、避けることのできない人生苦を苦と諦らないでいますと〈四法印〉ということになって一切皆苦が加わります。大自然がわれわれに恵みを与えてくださっているということがスキッとわかりませんと、人生は一切皆苦になってしまうのです。 子どものうちは学校が苦になり、これからいよいよ出世しようというのに、嫁さんをもらっても住まいがない、物価は上がるのに月給は安い、それらがみんな苦になる。そして歳を取るというと、またそれが苦になる。ですから、そうしたことを一面だけから考えますと、みんな苦になってきて、この娑婆にはさっぱり楽しいことがない、というふうにも考えられてくるのであります。ですから、お釈迦さまは、その苦からどのようにして抜けていくかということについて、それにはやっぱり人間の方に一つの規定が必要だ、と言われているのです。それは国民のすべてがこれから幸せになっていくためには、それぞれが国民としての義務を果たすということを、忘れてはならないのと同じであります。 (昭和42年02月【速記録】)...
73
...仏教の立ち場 一 私どもは仏教徒でありますから、新しい宗教として発足したと言いましても、仏教から離れてしまっては意味がありません。したがって、どうしても仏教による本質的な救われ方を体得しなければならないと思うのであります。新しくできた教団なのだから、専売特許とも言えるような、何か突拍子もないことを発明して、それによってやっているんだろうと、そんなふうに考えている人もあるようですし、立正佼成会には何か非常に特異な神力か、加護力があって、入会するとすぐに救われるところなんだ、と考えている人もおられるようです。 それはたしかに、その人の縁が熟していれば入会してすぐに救われることもあるのですが、また一向に救われないという人もいるわけであります。 (昭和34年03月【速記録】) 仏教の立ち場 二 仏教の功徳は、人が行じてくれてそれを自分に与えてくれる、というようなものではありません。自分自身が行ずるか行じないかによって、その人の分が決まってくるのであります。 ですから私が、皆さんに幸せになってもらいたい、と祈ることは祈っておりましても、私が幸せにしてさしあげることはできないのです。皆さんが仏さまの教えを守ってくだされば、幸せになれるのであります。そういう意味で、非常に力強い体験談がありましたが、その人の今日の幸せは私が与えたものではなくて、自分で努力し、精進を重ねて、仏法の因果の理法によってかちとられた幸福なのであります。 そのように、自分で努力することによって幸せを得ることが仏法の法則であります。そこがまた、仏教がほかの宗教と違うところでもあります。われわれは因縁によって同じように今世に生まれ、その因縁によって生かされています。その今生に、善因を積めば善果が生じ、悪因を積めば悪果が生じるのであって、皆さんのどなたでも、仏さまのみ教えを素直に受け取り、仏さまがお示しくださったとおりに行じていかれれば、ごく簡単に幸せになれるのであります。その方法を〈仏法〉と言うのです。そして法という字が示しておりますのは、ただ普通の教育的な教えと言ったものではありません。だれがそれを用いても、同じように結果が出てくるからこそ、法というのであります。 (昭和41年11月【速記録】) 世間一般の人々は宗教──とくに新しい宗教には、マジック的な要素が多分にあるように思いがちのようです。たとえば、キリスト教などにおいても「全智全能の神がこの世界を創造し、また人々の魂の救い主として存在する」と説いています。したがって、神は造物主であり、また救世主として人類に幸福をもたらしてくれるという福音思想なのですから、その縁につながれば、だれでも必ず救われるという結論なのです。しかし、仏教の方ではどのお経を読んでみましても、自分が何もせずにいて、棚ボタ式にほかから幸福がころげ込んでくるという教えは見当たらないのです。教えの根本でありますところの、四諦の法門をまず学んでみても、また十二因縁の法則というものをみても、またさらに六波羅蜜の修行方法によっても、ほかの宗教の考え方のように、自分はジッとしていながら、向こうから何か特別なものをこしらえてくれるようなことはないのです。仏教の方では自分の心が改まり、仏さまの教えの法則どおりに素直に行じなくてはならないのです。考えようでは、ほかの信仰と違い、たいへんに厄介な信仰であるということにもなるのです。つまり善いことを自分で実行しないことには、結果がいただけないという現実的な正しい教えなのです。 (昭和34年08月【佼成】) 仏教の立ち場 三 仏教の根底をなす「根本仏教」の法則については、皆さんはすでによくご存じでありますが、それに加えてもう一つ説明しておかなければならないのは、私ども宗教者の“信仰”のよりどころとしている「三宝帰依」についてであります。「三宝」とは、仏教徒であればだれもが心のよりどころとする三つのものを、釈尊が伝道をお始めになって間もないころ、弟子達にお示しになったもので、このうえもなく尊いものですから「三つの宝」と言うのです。 これを〈仏・法・僧〉と言います。“法”についてはすでによくご存知のとおりです。そして“仏”とは釈尊(久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊)を指します。 最後の“僧”ですが、これは普通に言う「僧侶」や「お坊さん」のことも含みますが、仏に仕え、仏の説かれた法を学び、実践しようとする人々を指します。 そして僧は個々の人間を指すばかりではなく“僧伽”つまり、法を実践する人々の集まり、共同体を言うわけです。したがって、私どもの立正佼成会もその僧伽となり、法を実践してまいりました。 人間はとかく独りでは弱いものです。法が正しくとも、仏さまが尊くとも、私達、独りでは、それを実践することは至難のわざと言えます。つい、わがままがでてしまい、悪い方向へ知らず識らずのうちに走ってしまわないとはかぎりません。ですから共同体を組み、その中で多くの人々が練磨・研鑽し、常にすべての人とともに前進していくことが、何よりも理想であり、正しいと言えましょう。この意味から、私どもは教団をつくったのであります。 この三つが私どもに備わって、それをみずからの心のよりどころとしていくことが、仏教の“信仰の世界”と言うわけです。これは原始仏教の時代から、現在もなお続いております。 自ら仏に帰依したてまつる。 自ら法に帰依したてまつる。 自ら僧に帰依したてまつる。 と、朝夕私どもはみずからの心に誓い、あすへの精進の支えにしております。 釈尊の教えを理論づけ、それを日常の生活の中で僧伽を組んで、具体的に教化し、育成し、活用し、そして実践しているのは、現代の宗教の中でも立正佼成会をおいてない、と宗教学者・増谷文雄博士も認めてくださっています。 先に長々と述べてまいりました法を、私どもすべてが心のよりどころとして、その正法を護持するために、ともに“僧伽”となって相集い、相寄り合って世界の平和、国内の平和に貢献したいものだ、と心から祈願しているものであります。 (昭和40年11月【佼成新聞】)...
74
...大乗仏教の精神 一 すべての正しい宗教は、それが興った国土・民族・時代といった因縁の違いによって、考え方のニュアンスやその表現の仕方に相違はありますけれども、根本の教えは大筋において同じなのです。キリスト教の《愛》も、仏教の《慈悲》も、神道の《マコト》も、すべて宇宙の大生命の真理がそのまま純粋に現われた人間感情であって、根源において変わりはありません。マコトは真言(言葉は心のひびきですから、真言と真心は同意)であり、それが仏教の真言と相通じているところなど、興味深いものがあります。 そういうわけですから、すべての宗教の信仰者が、自分の宗教の本義を深く深く究めていけば、表現のうえのさまざまな相違を突き抜けた奥に、必ず「人間は一つ」という真理が語られ、「だから仲よく暮らすのが真理に合致した生き方である」という教えが説かれていることを発見できるはずです。 そのようにして、地球上のすべての人間が、それぞれの宗教によって人間存在の根本の真理をつかみ、これまで差別観の方に片寄っていた心を一体観の方へ立て直すことができたとき、はじめてこの世に平和が訪れ、ほんとうの幸福がやってくるでしょう。 (昭和44年05月【佼成】) 大乗仏教の精神 二 無量義経の中に、その「無量義」ということのいわれが問答のようなかたちで説かれています。数えきることができないほどたくさんの数、それが無量ですが、ここにはその無量も、もとを正してみると一法、つまり、たった一つのものから現われ出たものであると説かれています。ですから、その一法をいろいろに解釈していくと「一の義から百千万を生じる」ことになるのですが、実はそれも「百千万の義を縮めてまた一となす」で、根本はただ一つなのであります。 日本には今、宗教法人法によって届け出されている宗教教団が、十八万にものぼると言われます。これほどたくさんの宗教法人がある国は、世界にもないと聞きましたが、私はそのことからもこの無量義経の「義異なるが故に衆生の解異なり」という言葉を思い浮かべるのです。義が異なるから、解釈の仕方も違ってくる。またそれぞれの因縁が違うから、立ち場によって考え方が異なり、解釈の仕方も異なってくるのであって、無量義経にはそのことがはっきりと説かれているのであります。 (昭和44年03月【速記録】) 大乗仏教の精神 三 この日本の国は、大和と言うその名のとおり、和をもってみんながほんとうに仲よくし合っていくことを建国の精神にしてきました。仏教でいう大乗の精神であります。大乗という言葉も、みんなが人さまとともに一つの乗り物に乗って、ともに幸せの境涯へ進んでいくことを意味したものです。仏教が渡来してからわずかの間に、国中に弘まっていったのも、日本人が生まれつき大乗の精神を持った国民であったからです。しかも、大乗仏教は理論的、合理的であり、また倫理的にも日本人の思想とぴったりと合っていて、非常に普遍的、人間的な説明がされているために、どなたもたちまちこの教えに飛びつき、それが仏教の広がりに結びついたのであります。 (昭和43年09月【速記録】) 仏教が日本に入ってこの国に根をおろし、花を咲かせ実を結んだのも、その土壌に神道の思想があったからだと私は思います。やおよろず(八百万)の神と言いますように、そこでは山も川も石も木も、すべてが祈りの対象です、偉大なるありとあらゆるものを拝み、祈りをささげるのが、わが国の神道の思想です。 この八百万神という考え方を、法華経においては、私ども人間だけにかぎらず、すべてのものに役があることを教えた「三草二木の譬」にうかがうことができます。万物それぞれにあるすばらしい役を充分に認識するとともに、役割を全うするよう心掛けているかどうかということが、自己の人生に大きくかかわり合っているのです。したがって、私どもは、やおよろずのもののいのちをそのごとくに発現していかなければなりません。 (昭和51年03月【求道】) 大乗仏教の精神 四 われわれが、朝夕読誦する《経典》の最初にある「三帰依文」を、もう一度読み直してみてください。ここに現代語訳をかかげてみます。 私は、宇宙の大生命である仏さまに、全身全霊をあげて融け入り、すべてをお任せいたします。そして、世のすべての人達と一緒に、宇宙の真理を魂でつかみ、究極の目覚めの世界に達しようという心を起こしたい、と心から願うものでございます。 私は、仏さまのお説きになった真理を、心の底からよりどころにし、全身全霊をあげて、それに従います。そして世のすべての人達と一緒に、み教えの奥にある根本真理をしっかりとつかみ、大海のように広い、ほんとうの智慧を得たいと、ひたすら願うものでございます。 私は、私ども信仰者の結合体を、真実心のよりどころとし、全身全霊をあげて、それにお任せいたします。そして世のすべての人達と一緒に、分け隔てなくむつみ合いつつ、その結合体を盛り上げ前進させることによって、世の幸せを増進しうるような、自由自在の力をこの身に得たいと、ひたすら念願するものでございます。 どの項も「世のすべての人達と一緒に」という精神に貫かれていることをよくよく心に留めていただきたいと思います。これが法華経の精神であり、この精神でなければ世は救われないのです。 (昭和48年03月【躍進】) 世界は今、私どもの僧伽の活動に注目しています。私どもは常に率先・垂範して、この世界が、そして人類が求めている大乗仏教の精神を、仏さまが本願とされた出世本懐の義を、大きく弘めていく大使命をもって生まれてきたことを、今こそしっかりと認識し、猛精進していかなくてはなりません。 (昭和50年04月【求道】)...
75
...菩薩道 一 菩薩道と言っても、特別の道があるわけではありません。立正佼成会でいう菩薩道とは、人間としてあるべき本質的な道を歩み続けることであります。 (昭和34年03月【速記録】) 仏教の世界観から言いますと、自分を整えようとする人を声聞と言い、仏さまが教えられた因縁を悟って、「悪いことはできないな」と、正しい行ないだけをしている人を縁覚と呼んでいます。人さまのために、住んでいる町のために、ひいては日本のため、世界のために明るい社会をつくろう、人と人との間をよくしていかなければならない、という考えを持つのは声聞の段階です。菩薩と言うのは自分を整えることもさることながら、まず人さまによくなってもらいたいというような考え方で積極的に活動するのです。こういう人を菩薩と呼ぶのであります。在家にあって夫婦仲よく子どもを育て、人間としての喜びや楽しみを味わいながら、世間のために、地球上の全人類のために、互いに手を合わせ力を合わせて、世の中を明るくし、みんなが仲よく生きがいを感じ合って、未来永劫この世界を平和で豊かなものにしていこうと努力する、それが菩薩行であり、また菩薩としての定義になっているのであります。 (昭和48年11月【求道】) 菩薩道 二 自分が仏さまの子であり、仏性を持っていることを、まずはっきりと意識する、そうすれば仏性開顕になるわけです。ではそうなるためにどうするかと言うと、菩薩行の実践をするのです。菩薩行は在家であり、凡夫である私達にもできる仕事です。経典にみられる菩薩さまは、まだ仏さまのところにまでは到達しておりませんが、仏さまに一番近いところにいらっしゃいます。ある意味からすれば、仏さまの教えを身をもって実行し、仏さまの化身として、その代わりをしながら毎日を生活しているのが、菩薩さまと言っていいでしょう。皆さんもどうかその菩薩さまになってください。 そして、大慈大悲の気持ちで、人の悲しみを心に痛く感じ、たとえば、どこかの町で大火があったと聞いたら、自分の家が焼けたかのように心配して“焼け出された人はたいへんだろうな、なんとかしてあげたい”と思い“焼け跡から早く立ち直るにはどうすればいいか”と考え、行動の起こせる、そういう大慈悲心をいつも働かせて生きることであります。 (昭和51年12月【求道】) 菩薩道 三 他人への奉仕と言えば、たいていの人は何か大げさなことを考えがちです。やるのに強い決意を要するような、際立った行為を思い浮かべます。だから、なんとなくおっくうになってくるのですが、そうではないのです。日常のホンのささいなことでもいい、人が喜ぶようなことをすればいいのです。いや、するというところまでいかなくても、顔つきや態度を和やかにしているだけでも、他人への大きな奉仕になるのです。 仏教に〈無財の七施〉という教えがあります。まるっきりお金や物を持たない人でも、人に奉仕できるものを七つも持っていると言うのです。第一は“眼施”と言って、おだやかな眼で人を見るという布施です。第二は“和顔悦色施”と言って、和やかな顔とニコニコした表情を、人に布施することです。第三は“言辞施”と言って、相手の魂を喜ばせるような言葉を布施することです。愛情のこもった言葉、相手を理解していることを伝える言葉などがそれでしょう。第四は“身施”と言って、体を使ってする親切行です。雨に濡れている人に傘をさしかけてあげるといった個人的な親切から、グループで町の清掃をするとかまで、ケースは無数にあります。第五は“心施”と言って、感謝とか、同情とか、慈悲の念いをジッと相手に贈ることです。そういう善念は必ず電波のように相手に伝わります。それだけでも大きな布施だというのです。第六は“牀座施”と言って、もともとは説法の座で、後から来た人に座席を分けてあげることを言ったのですが、現代では乗り物の中で、お年寄りなどに席を譲ってあげる親切行など、いろいろな場合が考えられます。第七は“房舎施”と言って、行き暮れた旅人を泊めてあげる布施です。今日でもそうですが、インドの田舎に行くと旅館などほとんどありませんから、これが非常にたいせつな奉仕だったわけです。現在の日本では、まるっきり事情が違いますけれども、その精神は、いろいろな形で生かされなければなりますまい。このような善根を積んでいますと、ひとりでに心が和やかになり、温かになります。ということはつまり、その人の人格が高まってきたことにほかなりません。また、そうした親切行は相手の心をも和ませ、温かにします。そこに明るい平和の燈がともるわけです。ホンの一隅を照らす燈かもしれませんが、しかし、その小さな燈が無数に集まれば、世の中全体が明るくなるのは必至です。ですから、すべての宗教は奉仕・布施・親切行を説いているのです。 それは自利即利他、自行即化他であり、相互循環的に自他を高め、幸せにしていくものです。 (昭和49年09月【躍進】) 菩薩道 四 成田の不動さまにお参りに出かけると、米屋のようかんがみやげ店に並んでいますが、先日その米屋の先祖が成功した秘訣を、知り合いの床屋さんから聞いてたいへんおもしろく思いました。 それによりますと、このようかん屋さんは成田で商売を始めたのですが、初めのうち、どうもうまくいかなかったと言います。そして、とうとうどうにもならなくなって、身動きがとれなくなってしまった。そこで、悩んだ米屋の主人は、物知りの人を訪ねて、どうすれば店が繁盛するようになるだろうか、と聞いたと言うのです。 そうしますと、物知りの人は、「私の言うとおりにすれば必ず繁盛するようになるが、今から教えることを守るかどうか、まず私に約束しなさい」と言う。むろん店の主人は言われるままに「どんなことでも守りますからぜひ、そのコツを教えてください」とお願いをしました。 こういう教え方ができるというのは、なかなか偉い人です。皆さんも、結びをするときに、そういう確約をまずかわしたうえでなさるといいと思います。さて話を戻して、その物知りの人が、米屋の主人に約束させたうえで何を言ったかと言いますと、ようかんを甘くし、そして大きくして、値段を安くすれば売れるようになる、と教えたと言うのです。だれが聞いてもあたりまえの話で、これなら売れないはずはありません。びっくりしたのは店の主人です。確かにそれは売れるかも知れないけれど、そんなことをしたら、ますます商売が成り立たなくなるというので、とうとう泣きべそをかいてしまった。 すると相手は「それならなぜあなたは私に繁盛の方法を聞いたんだ。大きくして甘くしたうえ、安い値段で売る。秘訣はそれ一つしかないんだ」という。米屋の主人はそこで考え直して、約束した以上はそのとおりにしようと、言われたことを実行したと言います。それこそもう、儲けなんて全然ない、ぎりぎりのところまで大きくして、しかも甘くしたのですが、とたんに、ようかんはどんどん売れ始めました。じゃあ、ますます損をしたか、と言いますとそうじゃない。売れに売れるものだから、それまでは現金でないとアズキは売ってくれない、砂糖は届けない、と言っていた問屋が値引きしたそのうえに「お金はいつでもいいから……」と次々に言ってくる。そしてまた「私のところはもっと安くアズキを売ります」「砂糖も負けます」と言って、あちこちから卸問屋がやってくる、というようなことになって、原料代は安くなる一方だし、そこでまた、ようかんを大きく甘くするものだから、売れ行きがぐんぐんよくなるというわけで、米屋は大繁盛して店も大きくなったと言うことです。 皆さんはなんだつまらん話だなとお考えかもしれません。そんなあたりまえのことを、会長はどうして感心して聞いてきたんだろう、と思っている人もあることでしょう。しかし、世の中の秘訣、秘法と言うのは、およそそれくらいのものなのです。だが、考えてみますと、自分で一生懸命になって安い原料を仕入れ、あんを煮て、安くて甘くて大きいようかんを一生懸命で作ったこの主人の生き方は、まさに菩薩道だと言っていいでしょう。人に喜んでもらおうということで作り続けたのですから、それは立派な社会奉仕的な商いだと言えると思うのです。 (昭和35年02月【速記録】) 菩薩道 五 物質文明の影響で、現代の私達は際限もなく欲望を満たしていくことを、まるでそれが本能であるかのように覚えてしまいました。しかも、ごくわずかな間に、人間が本質的に持っている仏性をすっかり忘れてしまって、いい着物が着たい、大きくて立派な家に住みたい、洗たく器も欲しい、掃除機も欲しいと、物質欲にばかりとらわれて、自分が楽になることばかりを考えています。そうして次から次へと文明を追いかけて、欲望を満たそうとしている人々の生き方のもとになっているのは貪欲です。それが心をねじ曲げています。これでは人間の本性がだんだんくすぶっていくばかりです。むろん、周囲の人も同じように欲望に駆られて戦戦恐恐と毎日を送っているのですから、世の中も物騒になっていく一方です。その世の中の物騒さが感じられる人ならまだいいのですが、多くの人はお釈迦さまがお経の中に説かれていますように、なお花園の中でのんびりと遊んでいるのが現状であって、欲望がもたらす自分の身の上のことを少しも感じていないのであります。 (昭和34年03月【速記録】) 一生懸命になって人さまをお導きし、自分の都合など考えてみようともしないで、人さまのお役に立つこと、人さまを幸せにすることを、明け暮れ考えて生きる、これが菩薩の心意気です。自分のことだけ考えるのが凡夫であり、その反対に、人のために役立ちたい、とそればかりを考えて生きる人が菩薩です。そういう人達がどんどん出てこないかぎり、この地球は“もうおしまい”になると思うのであります。 (昭和49年02月【求道】) 菩薩道 六 フランスの作家ラシーヌの言葉に、「幸福は分かち合うようにつくられているもののようだ」というのがあります。実にいい言葉だと思います。自分の幸福を独り占めにしていたのでは、それはすぐしぼんでしまいます。ところが、他の人にも分けてあげて、ともに喜んでもらいますと、不思議にもその幸福感は二倍にも三倍にも膨れ上がるものです。この事実は、皆さんも体験されたことがあると思います。 もし世の中のすべての人が、そういう幸福の分かち合いの習性を身につけるならば、この世は必ず住みよい、楽しい所になるでしょう。ですから、分ければ分けるほど大きくなるという不思議な、この“幸福の数学”は、そのまま“社会福祉の数学”につながると言うことができるのです。仏教的に言えば“菩薩の数学”です。 立正佼成会の会員の皆さんは現代の菩薩にほかなりませんから、この数学の不思議さはたびたび経験しておられることと思います。(中略) 立正佼成会は、草創の時代からこうした活動を手がけてきました。そして現在は、「明るい社会づくり運動」として大きく発展させています。それは「是の経は本諸仏の室宅の中より来り、去って一切衆生の発菩提心に至り、諸の菩薩所行の処に住す」という無量義経の教えと、「仏種は縁に従って起る」という方便品の金言に基づく、最もたいせつな仏事であり、そして教団の性格にもよく合った活動の分野でもあります。どうか、こうした矜持(誇り)を胸に秘めて、大いに日常的な奉仕活動に精進してください。 (昭和48年10月【佼成】)...
76
...六波羅蜜 一 「六波羅蜜」と言うのは、菩薩の修行をする者の行ないについて六つの標準を示されたもので、すなわち「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」の六つです。 菩薩というものは、声聞や縁覚と違って、自分だけ迷いを離れれば充分だと言うのではなく、他を救うのがその働きなのですから、「六波羅蜜」はすべて他を救うことが前提となっています。 まず第一は「布施」ですが、これには「財施」と「法施」と「無畏施(身施)」があります。「財施」と言うのは金銭や物質を他人に施すこと。「法施」と言うのは人に物事の正しいあり方を教えること。「無畏施(身施)」と言うのは、自分の骨折りによって他の人の心配や苦労を少なくすること。この三つのうちの一つもできないと言う人は、おそらくいないでしょう。たとえ、ギリギリの生活をしている人でも、その心さえあれば、自分より困っている人達のために、あるいは、公の仕事のために、どんなに小さくてもいいから喜捨することができるはずです。よしんば、どうしてもそれのできない境遇の人でも、自分の体を使って、他人や世の中の役に立つことはできましょう。また豊かな知識や智慧のある人は、金はなくても、体は使わなくても、人にものを教えたり、導いてあげたりすることができます。 そんなに偉くなくても「法施」はできるのです。自分の信仰体験を人に話してあげることだけでも、立派な「法施」です。あるいは、おいしい漬物の漬け方一つ教えてあげたとしても、編み物の仕方一つを手ほどきしてあげたとしても、やはりそれは「法施」なのです。 このうちのどれでもいいのですから、自分にできる「布施」を実行して、人の役に立つことが肝心です。もちろん三つともできれば、それに越したことはありません。とにかく、「布施」ということが菩薩行の第一条件とされているのは、たいへん意味深いことと言わなければなりません。 第二の”持戒”。これは、「仏から与えられた戒めによって、自分の心の迷いを去り、正しい生活をして、自分自身の完成に努めなければ、ほんとうに人さまを救うことはできない」と言うことです。ただし、ここで誤解してならないことは、「自分はまだまだ完成していない人間だから、とても人などを導くことはできない」という考えを持ってはならない、ということです。自分だけの正しい生活に閉じこもっていたのでは、かえって「自己の完成」はできないのです。「人のために尽くす」ということも「持戒」の大きな要点なのです。人のために尽くすことによってそれだけ自分も向上し、自分が向上することによってそれだけ人にも尽くせるようになる、この二つは無限に循環していくものなのです。 第三は“忍辱”。これは、現代の人間にはとくに必要なことだと思います。釈尊はあらゆる徳を備えたかたでしたし、修行によって仏になられたかたですから、一つの徳だけをとりたてて、あれこれ申すのはもったいないことですが、人間としての釈尊の最大の徳は、実に「寛容」であったと思います。お釈迦さまのどんな伝記を読んでみても、どんなお経を読んでみても、お釈迦さまが立腹された、というようなことは、一つだって書いてありません。前後の様子で、このときは立腹されたらしいと推察できるようなときでさえも、微塵も立腹されていないのです。どんなに迫害されても、あるいは弟子達が背き去っても、恨みに思われるどころか、かえって「ああ、かわいそうだ」と哀れみ慈しむ心を起こされているのです。 もし、現世的なことしかわからない人から、ただ単に、人間としての釈尊というかたの性格を一言にして説明してくれと尋ねられたとしたら、私はためらうことなく「徹底した寛容の人」と答えることでしょう。ですから、私どもが、何かにつけて腹を立てたり、人を恨んだり、しかもその怒りや恨みを相手にぶっつけるようなことをするくらい、お釈迦さまを悲しませる行為はないと思うのです。まず何よりも、これだけはお互いやめにしていきたいものです。 “忍辱”と言うのは、つまり寛容ということです。それも人に対してだけでなく、だんだん修行を積んでいくと天地のあらゆるものに対して腹を立てたり、恨んだりすることがなくなります。私どもは、ややもすれば、雨が降ったら降ったで、うっとうしいとブツクサ言い、天気が続けば、今度は、埃が立つと言って不平を言います。ところが、修行を積んで心がほんとうにゆったりしてくると、雨が降れば降ったで「おお、いい雨だ」と感謝し、天気になればなったで「太陽の光は実にいいなあ」と賛嘆できるようになります。つまり、周囲の変化に心がとらわれぬようになるのです。さらに進んでは、自分に損害や侮辱を与えたり、自分を裏切るような相手に対しても、単に怒りや恨みを覚えないだけでなく、積極的にその人を救ってあげたいという気持ちが起きるようになります。また反対に、「汝は仏なり」というようにおだてられても、有頂天にならず、じっと自分を省みるのも、また少し物事がうまくいったからといって、優越感を持つことなく、さがる心を持するのも、これらはみな「忍」の心なのです。 こういう境地が「忍辱行」の極致だと言えましょう。そこまで一足飛びにはいけなくても、無理なことをしてくる相手に対して「仏の教えを知らない、かわいそうな人だ」と考える程度までは、案外早く到達することができるものです。せめてこれぐらいの境地にまでは進みたいものであります。もしこの“忍辱”という精神的習慣がある程度、世界中の人々にできてきたら、それだけでも世界の平和は大いに保たれることでありましょう。それだけでも、人類は見違えるほど幸福になることができます。 第四の“精進”ですが、この「精」という言葉は「まじりけのない」という意味です。たとえ一生懸命に学んだり、修行したりしても、頭の中や行ないにまじりけがあっては、精進とは言えないのです。余計なつまらないことはうち捨てて、たいせつな目標に向かって、ただ一筋に進んでいくことこそ、精進なのです。 しかし、そうして一心にやっていても、どうもいい結果が出てこなかったり、かえって逆の現象が現われたり、あるいはその修行に対して、外部から水をさすようなことがらが起こってくることがあります。けれども、そういうものは、大海の表面に立ったさざなみのようなもので、やがて風がやめば消えてしまう幻に過ぎません。ですから、こうといったん心に決めたら、退くことなくひたむきに進むことです。それこそほんとうの“精進”なのです。 第五は“禅定”です。「禅」とは「静かな心」「不動の心」という意味です。「定」と言うのは心が落ち着いて動揺しない状態です。ただ、一生懸命に精進するばかりではなく、静かな落ち着いた心で、世の中のことをジックリと見、そして考えることがたいせつなのです。そうすると、物事のほんとうの姿が見えてきます。そして、それに対する正しい処し方もわかってきます。その正しいものの見方、物事のほんとうの姿を見分ける力が、第六の“智慧”です。“智慧”がなければ、人を救うことはできません。(中略) たとえば、道端に青い顔をして横たわっている乞食のような青年がいたとします。その青年を一目見てああかわいそうだと思い、前後の考えもなく相当のお金を恵んでやったとします。ところが、その男は軽い麻薬中毒患者だったとしたら、どうでしょう。彼は「これ幸い」とそのお金で麻薬を買い入れて注射を続けるでしょう。そのために、とうとう救うことのできない重症の患者になってしまうかもしれません。もし、この患者にお金を与えるかわりに、警察の手に渡したら、病院に入れられて、更生したかもしれないのです。「布施」したつもりでも、道を誤ればこんなことになってしまいます。これは極端なたとえですけれども、世の中にはこれとよく似たようなことが大小無数に起こっています。 このように、われわれが人のために役立つとか、人を救うという立派な行ないをするにも、ほんとうの“智慧”をもってしなければ、せっかくの慈悲心も有効な働きをしないどころか、かえって逆の結果になりかねないのです。ですから、菩薩行にとって“智慧”は絶対に欠くことのできない条件として、あげられているわけです。 (昭和35年04月【佼成】) 六波羅蜜 二 どんなに機械化の時代になっても、いやそんな時代になればなるほど、宗教は人間にとってなくてはならない尊いものであります。とりわけ仏法は、天地の法則に随順して生きることを教えると同時に、人間らしい美しい情緒を豊かにはぐくむ、完全無欠の教えであります。 六波羅蜜の法門一つを取り上げてみても、そのことがよく現われています。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という字面を見ますと、いかにも古くさい感じがしますが、その本質は決して古くさいものではなく、常に新鮮な人間向上の道なのです。(中略) この六つを身につけた状態が人間の理想だと言うのです。まことに、どのような時代になろうとも新鮮さを失わぬ、永遠の大理想ではありませんか。われわれは、このように尊い仏法を世に弘める役割を持って、この世に生まれて来たのです。なんというスバラシイ人生でしょう。なんという生きがいのある人生でしょう。 どうか皆さん、日々の生活にも、仏法宣布のためにも、大いなる意欲を燃やし、創造力をフルに働かせて、惜しみなく努力してください。 失敗などを恐れてはなりません。どんな障害があっても、それは仏さまから与えられた試練だと心得ることです。それらを乗り越えてこそ、新しい時代を拓き担う人間に育つことができるのであります。 (昭和44年09月【佼成】)...
77
...大慈大悲 一 仏教を信奉する者は、仏さまのお心を自分の心とし、すべての人々にその仏心による慈悲の働きかけをしていかなければなりません。慈悲心についてはいろいろに解釈されていますが、一番わかりやすく言うと、それは〈抜苦与楽〉の四文字に尽きます。苦をなくしてあげると同時に楽を与えてあげる。この二つのことが、仏教徒として一番たいせつであって、人さまを導くことも抜苦与楽の菩薩行にほかならないのであります。 (昭和49年01月【速記録】) 大慈大悲 二 仏さまはたいへんなご修行をされて悟りを開かれましたが、悟りはすなわちみずからが目覚めたことですから、ほんとうの意味での自覚であります。しかし、悟りを得た人は、自分で自覚するだけではなく、その目覚めをほかの人々に伝えてこそ“真の自覚”であります。お釈迦さまもそのために五十年間にわたって説法を続けられ、実践を重ねられました。仏心とはそういうものでなくてはならないのであります。「みずから目覚めた」「信仰に入ったことによって救われた」「自分には今なんの苦労もない」と言うのは、それぞれに立派な自覚であって、お互いに仏さまからすばらしい功徳をちょうだいしているのですが、そのままでいては真の目覚めにはならないのであって、自覚を得たのちは〈覚他〉つまり、ほかの多くの人々をも目覚め導くことが慈悲心の願行であります。 (昭和49年01月【速記録】) 大慈大悲 三 法華経の方便品第二の最後の言葉が私は一番好きなのでありますが、「心に大歓喜を生じて、自らまさに作仏すべしと知れ」と結んであります。この大歓喜、「毎日が有り難くて、きょうもこうして人さまにお会いすることができ、いい出会いがありました。きょうもまた功徳を積ませていただきました」という大歓喜です。それを感じて生きることが、人間にとって何よりの喜びなのです。私達は心に大歓喜を生じて「自分はほんとうの成仏をするんだ」という確信に立たなければなりません。成仏を実現するのは自分自身です。人がさせてくれるわけではありません。 信仰が楽しくてしようがない。仏道を歩める自分がうれしくてしようがない。だからこの喜びを知らない人を見かけると気の毒でならなくなり、いっときも早く、この道へ導いてあげたいと思う心の境涯に、どうか皆さんもなっていただきたい。「方等経は慈悲の主なり」とありますように、慈悲心が人を救うのです。自分の気持ちの中に大慈悲心をわきたたせて道を歩まなければ、人はついてきません。どうか、そういう気持ちで精進をお願いします。 (昭和51年04月【求道】) 大慈大悲 四 あらゆる人間関係には、真理の厳しさと人情の温かさが、車の両輪のようにそろっていなければなりません。前者が不足すれば、白を黒と言ってもとおるような、混乱した、締まりのない世の中になります。後者が不足すれば、砂漠のような味もそっけもない、住みにくい世の中になります。 今の日本には、どうやらこの両方とも不足しかけているのではないでしょうか。(中略) また、「自分さえよければ……」という風潮が人々の間にしみわたり、「人のために尽くす」とか、「世のために犠牲を払う」という人情や心意気が、日ごとに薄れていっているのではないでしょうか。 この危機に、われわれ仏教徒がウカウカしているようでは五五百歳、つまり末法時代を憂えられたお釈迦さまのみ心に背くことになります。どうしてもわれわれ自身が、まず自分を正さなければなりません。 まず僧伽の中だけでも、せめて真理に基づき、真理に従い、真理に違うことを恐れる生き方に徹しなければなりません。そうしますと、ひとりでにゴマカシもなく、オベッカもなく、ありのままの自分をさらけ出しながら、しかも堂々と胸を張り、自信を持って生きていけるようになるのです。 つまり、その人は法に光り輝く人となるわけです。そういう人々で満たされた法座や道場は、すべてあけっぴろげで、明るく、平和と向上の雰囲気に輝く、理想社会のヒナ型の様相を呈するでしょう。したがって、外部の人がそういった雰囲気に接すれば、「こんな世界もあったのか」と、心から驚き、気持ちがいっぺんに明るくなって、必ずまた、ほかの人を誘ってたずねて来てくださるようになるでしょう。 このようにして、だんだんと僧伽の輪が広がるにつれ、世の中は、しだいに光明化され、住みよく、楽しい場所に変わっていくことは必定です。 (昭和47年04月【躍進】)...
78
...仏法と世法 一 法師功徳品の中に、見逃してはならない言葉があります。それは〈若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん〉と言う一句です。現代語に訳せば、「もしその人が、日常生活についての教えや、世を治めるための言論や、産業についての指導を行なっても、それはおのずから正法に合致するものでありましょう」と言うことです。 正法というものは決して、単に精神的な、個人的なものではなく、必ず社会への広がりを持っているものです。そして、世法を正しく生かすものです。そうでなければ、究極において人類全体を救うことはできないのです。このことは、よくよく胸に刻んでおきたいものであります。 (昭和43年09月【新釈十巻】) 信仰者としての社会性とは、いったいどんなことでしょうか? ほかでもありません。信仰によって自分を高め、浄化し、その影響を周囲へ推し弘めていくことです。(中略)信仰者のなすべきことは、まず第一に、根本的な法(宇宙と人間の真理)を学び、理解し、それを信念となるまでに深めることです。と同時に、その信念を、生活の場において実践することです。法に従って生き、法に従って実践すれば、必ずその理想は次第に現実生活に現われてくるのです。それが、とりもなおさず〈法の現証〉にほかなりません。しかも、この法の現証というものは、どんなに小さなものであってもいいのです。いかに片々たるものであっても、真理から生じたものであるかぎり、高い価値を持っているのであります。永遠のいのちを持っているのであります。 このようにして、片々たるものでよいから〈法の現証〉を一つずつ積み重ねていき、そういう実践者が広く何十万、何百万、何千万とふえていくことによって、初めて、ほんとうの人類の幸福、世界の平和は築きあげられるのであります。 宗教の〈法〉の本質は愛であり、慈愛でありますが、その愛なり慈愛なりから、おのずからほとばしり出る社会的行動があります。たとえば、魂の教育のために学校を建てるとか、困窮者のために医療を施すとか、さまざまな社会奉仕をするとか、世界平和、核禁止のアピールをするとかの行動であります。 これらは、宗教の本質的なものからほとばしり出た純粋なものでありますから、これこそ信仰者にふさわしい社会活動なのであります。 それに対して、政治活動のようなものは〈力〉と〈才覚〉と〈多数〉と〈妥協〉とによって成り立つものでありますから、そのような活動はそれにふさわしい人々に任せるべきであって、宗教人はもう一段、高い次元から、間接的に、政治をはじめとする一般社会活動の方向を正し、高めていくようにするのがほんとうの道であることは、今さら言うまでもないことです。 信仰者といえども、常に社会のあらゆる問題に関心をもたなければなりません。研究もしなければなりません。しかし、その関心と言い、研究と言っても、ただ現象のみにとらわれた、常識的なものであってはなりません。 そういう取り上げ方をする役目の人は、ほかにいるわけです。 われわれ信仰者は、もっと深いところから物事を見、根本を掘り下げて考えなければなりません。すなわち、仏法(宇宙と人間の真理)に照らして、物事の奥の奥にある真相をつきとめ、その病巣から根本的に直していくことに心をひそめ、献身的な努力をしていかなければならないのです。 (昭和40年09月【躍進】) 仏法と世法 二 不信の時代、断絶の時代、疎外の時代といった言葉が最近しきりに流行しています。その不信とは何一つ信じられない、ということであると同時に、物事の処し方すべてにわたって相手との関係のたいせつさを考えようとしないで、自分の都合ばかりを中心に行動することを意味しています。 お釈迦さまは世の中がこうなることをすでに予言されていました。もちろんご在世中にも、世の中にはいろいろと問題があったのでありますが、「これから二千五百年もたつと、まだまだこれ以上にたいへんな世の中になる」と言われているのです。 それはどういうことかと言いますと、「人間の頭がだんだんよくなり、利口になればなるほど、自分にばかり都合のいいことを考えるようになっていく。だから、はたとの問題がまずくなるために、これは一つなんとかしなくてはならんということで、教育だとか道徳の問題をいろいろと手をつけていく。ところが思想はだんだん混乱していくばかりで、繰り返しいくら努力しても解決することができない。そういう困った時代の中で、人間は自分で実行することを忘れてしまって、理屈ばかりを言うようになる」と、こうお釈迦さまは予言されたのです。また「こうして私が説いている法は、世の中がそうなってどうにもならなくなったときに、広く求められることになるだろう」とも言われているのであります。 そのお言葉を考えましても、私どもは仏教の経典をよくかみしめて読まなければならないと思います。おそらく物質面において今日ほど豊かな時代は、日本開闢以来のことでしょう。ところが、その豊かさの中にあっても、自殺する人があり、悪人がはびこる、というような様々の問題が起こっています。それは交通事故一つをとってみてもそうで、自分だけ人よりも早く進もうという考えを起こさず、迷惑を人さまに及ぼすまい、と考える持ちつ持たれつの気持ちがあれば、不幸な事故などはたちまちなくなるはずです。交通法規に定められているのも、お互いの間の関係の法則です。 そうした世法にしても仏法にしても、法と言うものは常に正しく守ることを前提にしたものであって、私どもはその法の重みを、ここでよく考えなければならないのであります。 (昭和46年02月【速記録】) 仏法と世法 三 私達には、何よりもまず天地の道理というものを先行させ、その天地の道理を世俗的生活に浸透させていこう、という理想と信条を持つ宗教というものが、どうしても必要になってきます。 われわれ宗教者は、こういう根本のところを、常にしっかり腹の底に据えて、すべての事に当たらなければなりません。政治に対処する場合には、とりわけそれが大事であります。それについてのいいお手本が仏伝の中にありますので、ご紹介しておきましょう。長阿含経巻二に、次のような実話が出ています。 お釈迦さまがマガダ国の霊鷲山にいらしたとき、国王の阿闍世が跋祇(ヴリッジ)国を討とうという企てを起こしました。そして、大臣をお釈迦さまの許へ参らせ、討つべきか否かの教えを請いました。その時、お釈迦さまは、後ろから扇で風を送っている阿難に対して、お尋ねになりました。「阿難よ。跋祇の国では、人々がしばしば集会を開き、正しく事を議していると言うが、そんなことを聞いたことがあるか」。 阿難は「はい、聞いております」とお答えしました。すると、お釈迦さまは「そうだとすれば、その国は久しく安穏で、繁栄するであろう」と仰せられました。 続いて、お釈迦さまは次のようなことを順々に、お尋ねになりました。 「跋祇国の人々は、上下和合し、敬い合っているだろうか」 「法律をよく守り、忌むべきことをよく知り、礼儀正しいかどうか」 「父母に孝行を尽くし、師長に従順であるかどうか」 「祖先の宗廟を尊び、神々を敬うだろうか」 「婦女子が純潔で、戯笑の中においても、邪なことを言わないだろうか」 「宗教家達をよく尊敬し、供養を怠らないだろうか」 阿難がその一つ一つに、 「そのように聞いております」と、お答えしますと、お釈迦さまはその一つ一つに対して「そうだとすれば、その国は久しく安穏で、繁栄するであろう」と仰せられました。それを伺っていた大臣は、早々におん前を下がり、結局、侵略は取りやめになりました。 どうです。お釈迦さまは、「それは不利益だからおやめなさい」とか、「戦ったら損ですよ」などとは一切、仰せられていません。もっと一段も二段も高い所にお立ちになり、道理の上から考え直さざるをえないようにお導きになっています。われわれが拳拳服膺しなければならないところは、ここなのです。常に道理を先行させること──これさえ忘れなければ、どんな世俗の渦中に入っても、誤ることはないはずであります。 (昭和49年06月【躍進】) 今後の人類は、これまでのような分裂・闘争の生きざまから、和合・協力の方向へと転回していかなければならないように運命づけられているのです。それは歴史の必然なのです。その必然に反すれば、地球は破滅におもむくことになります。私どもは、今こそ大きく目を見開き、全地球的なこの歴史の流れをしっかりと見て取らなければなりません。そして、その大きな流れにそう生き方を考えなければならないのです。天地万物、もともと「すべては一つ」なのですから、これまでの分裂・離反の過ちを改め、「すべては一つ」へ帰るべく百八十度の転回をしなければならないのです。その大転回の最大の決め手は教育にあります。 (昭和51年04月【佼成】) 私ども法華経行者には「この地球上に仏国土をつくるんだ。その実現のためにまず日本という国を救わなければならない、という使命がある。この日本がほんとうに軌道に乗ったら、世界中の人々がこれに学んで、必ず世界平和が実現する」というので、法華経をその根本の教義として頂戴をして、精進しているのであります。したがって、異体同心を根とし、人類皆仏子を幹として、手を握り合ってこの娑婆国土をほんとうの楽土にしなければならないのであります。私は必ずできると確信しております。 (昭和51年12月【求道】)...
79
...寂光土建設 一 お釈迦さまの究極のご理想は、この世を寂光土とすることでした。今の言葉で言えば、真の世界平和を完成するということです。後世の仏弟子である私どもの理想もやはり、そうでなければなりません。その理想達成のためには、それぞれの立ち場によって、いろいろな行動をしなければならないのですが、すべての基本となるものは、自分を含めてひとりびとりの人間の心を救い、真理の道へ導くことであります。 (昭和47年01月【佼成】) もしも今、戦争が始まって原水爆が使われることになりますと、アメリカもソ連もいっぺんに吹き飛んでしまいますし、そればかりか地球上の全人類が、ことごとく破滅に追い込まれることになります。そういう危機の中で生きている現代の私どもにとって、だれもがほんとうに円満になり、幸せを分かち合える平和な世界を実現する道は、人類ことごとくがお釈迦さまのみ教えを守って、精進し合うところにこそあります。そしてお互いがそのための修行に入ることに目覚め、懸命になって過去の業を解消していかなければ、私達は真に平和な日々を迎えることができないのです。 (昭和35年03月【速記録】) 寂光土建設 二 こうしてお互いに生きている私達であれば、だれにとっても生命は大事です。ですから自分の国の人とも、隣の国の人とも、そしてそのまた隣の人とも仲よくし合って、朝になれば起きて働き、みんな分け合って食べ、夜になったら、きょう一日を心から感謝して、仏さまを拝んで楽々と休めるような条件を全体のためにつくり出すことが、人よりも早く仏教に導かれた私達の使命であります。 (昭和51年02月【速記録】) 寂光土建設 三 凡界のごまかしの自己満足にひたって、いい気になっていることの愚かさ、しかも自分のエゴのために苦しんでいる愚かさを、皆さんは早く悟って、ご法の偉大さ、神仏のはからいの偉大さに目覚めていただきたいのです。「自分のこのエゴを捨てよう。神さまや仏さまに、一切のことをおまかせして、みんな一緒に生きていかなければならない時代なんだ」と、早く自覚して欲しいのです。 世界中の人が、お互いに秩序を守り、それぞれが自分に与えられた役割を果たしていけば、また、そういう理念に基づいて政治が行なわれていけば、あすにも、この地球は極楽になります。しかし、その極楽をすぐ前にしていながら、今、世界の各地では鉄砲を撃ち合ったり、飛行機を乗っ取ったりの争いが絶えません。あげくの果ては二百カイリ時代ということになって、国境のなかった海までが、どこまでも自由に行かれるというわけにはいかなくなってしまいました。そのことで一番青くなって騒いでいるのは日本ですが、二百カイリの是非は別として、日本は周りを海に囲まれている国です。まこと、広い海が周囲にあるのに、まだよその国の海へまでも出かけていかなくちゃ困るという欲望を捨て切れずに騒ぎ回ることの愚かさ──これからの日本人は、そういうものをほどほどに考えられるような人間でなくてはならないのです。 また、そう考えていきますと、僧伽という試験管の中で、菩薩道に生きる私達は、何もここでジタバタとあわてることはないのです。すべてを仏さまにおまかせして、安心して生きていればそれでいいと思うのです。「これが悪い」「あれがだめだ」と、てんでに言い合っていては混乱は募るばかりです。だれもが仏さまのお使いとして仏性を持っているのですから、自分に反発する者、逆説を唱える者を、善知識として受け入れ、気持ちの中に引き入れて仏道修行に精進していく。お釈迦さまがご自身に手向かう提婆達多を、これが大慈大悲だと言われたような気持ちになりきることができるまでに精進していかなければ、この世に極楽浄土をつくることは望めないのです。 (昭和51年【精・2号】) 寂光土建設 四 お釈迦さまは「為さざれば受くることなし」とおっしゃっているのであります。みずから菩薩道を実行もしないで功徳がいただけるはずはないのであります。 (昭和33年04月【佼成】) 自由主義だ、社会主義だ、共産主義だと、主義主張ばかりをいつまでも言い合っているのは愚かなことです。〈世界は一つ〉という考えのもとに、人類の幸福のためにお互い同士が自己のエゴから脱皮し、和をもってひと固まりになれば、地球上にはすぐにも極楽が招来できます。そのためのお手本をつくるのは、大乗仏教国であるこの日本の私達一億一千万の国民です。そして私達がまず第一歩を踏み出していく、そこに〈寂光土のお手本をいつまでにつくりあげることができるかどうか、また、平和で幸せな時代を早く招来できるかどうか〉のすべてのカギがあるのであります。 (昭和51年【精・2号】) 会員綱領にありますように「多くの人々を導きつつ自己の練成に努め、家庭・社会・国家・世界の平和境(常寂光土)建設のため、菩薩行に挺身する」ことこそが、すべての基本なのであります。 (昭和47年01月【佼成】)...
80
...煩悩即菩提 一 ご法に導かれて話を聞いたり、修行したりしているときは、「有り難いことだ」と思っておりましても、懺悔しなければならないことが起きたりしますと、それだけでもうがっかりして、「なるようにしかならないんだ」と捨て鉢になってしまうようなことがあります。しかし、そういう気弱なことではいけません。やはり人間なのですから、しくじるときもあっていいのですが、「きょうもしくじった」「昨日もしくじった」の繰り返しで、その度に「しようがないや」と、簡単にすませてしまってはいけません。仏さまはそのしくじりの多い私達人間に、〈煩悩即菩提なんだ〉と、救いの言葉を説いてくださっています。そう教えていただくと、いいかげん頭の悪い私達でも、「へたなことをやったな」「あれは失敗したなあ」とわかって、立ち直るにはどうすればいいかに気づきます。 間違ったことをしてしまったならば、お返しにその倍、いいことをしようという気持ちで、バーンと一つ自分の思いを飛び越すのです。こんなときは普通の静かな歩み方をしていてはいけません。この思いを踏み台にして跳躍台に乗ったからには、思い切って精進するのです。煩悩即菩提ですから、そこでまた、ちゃんと立ち直ることができます。仏さまは一切衆生、すなわち、あらゆる機根の人達を救おうとされて八万法蔵をお説きになられたのです。精進すれば精進したなりに、怠ければ怠けたなりに、こうすればこうなるということを教えられているのです。その八万法蔵の中でも一番大事なものを煮つめ、ギリギリのところにあるものを、わかりやすく説かれたのが法華経なのです。 (昭和50年07月【求道】) 煩悩即菩提 二 私どもは心の中に、だれでも仏になれるすばらしい仏性を持っています。しかし同時にまた、迷いの道に少しでも入っていくと、邪心が入って鬼の姿に変わってしまいます。ですから、おなかの中は非常に立派な仏さまのような心と、悪魔のような心とが同居している状態にあるわけです。仏教でいう煩悩即菩提です。この“即”と言うことは、〈生死即涅槃〉と言うような言葉にもありますように、これはまったく反対の言葉が合わせられておりますが、それは紙の裏表のようなもので、切り離すことのできないものと言ってもいいのではないかと思います。 したがって、お互いさまに心の中に、〈われは仏の子である〉という仏性を自覚し、自信を持つことが大事なのです。非常にすばらしい良心と、偉大な生命力を私達は持っているのですけれども、どちらかと言うと、とかく邪心の方が幅をきかせてしまう、鬼心に左右されて良心が隠れてしまう、というように、信仰を持たない人の場合は、常にそういう状態が、日常生活の中に交差し合っています。 その迷い、つまり間違った悪い心を目覚めさせる方向へ、仏さまの教えによって、だんだんと磨きをかけていくと悟りへ到達することができるのです。そう考えますと、迷いや欲張りなどの煩悩の根本は、やはり“貪欲これ本なり”なのですが、それは使い方によってすばらしい結果につながるということになります。第一、なんにも欲のない人間になってしまうと、働く意欲もなくなって、まるで気の抜けたラムネのように“無用”のものになってしまいます。そうなってしまっては意味がありません。欲望があるからこそ、人間は生きているのです。その欲望を善の方向に切り替えようと努力をする、菩提に近づけようと修行することによって人間は向上し、発展するのであります。 (昭和38年02月【速記録】) 煩悩即菩提 三 この世に生きているわれわれは、金が欲しいとか、名誉が欲しいとか、あるいは楽がしたいとか、目の前に現われてくるいろいろな変化にとらわれて迷いを起こします。そして、もろもろの迷いが目の前にちらつきもします。しかし、その迷いが深ければ深いほど、仏さまは迷いを転じて悟りを開くことができる、と教えられているのです。 ところで、人間は迷いがないようになれるかと言いますと、そんな人は、お釈迦さまおひとりと申しても過言ではないでしょう。この地上に生まれて悟りを開かれ、ただの一歩も退転することのなかったのは、お釈迦さまをおいてほかにありません。 (昭和42年02月【速記録】) 煩悩即菩提 四 凡夫のいないところに仏はなく、また仏のいないところに凡夫もいない、と言われるように、仏と凡夫とは切り離せないものです。それは“凡夫即仏、仏即凡夫”と言われますように、互いに離れることのできない仕組みになっている、つまりそういう宿命にあるのであります。ですから、仏さまはこの娑婆世界にいつでもいらっしゃるということになるのであります。 (昭和52年05月【求道】) 煩悩を持っているからこそ、人は菩提を求める活力を生ずることができるのです。ですから、煩悩も悟りも別々にあるのではなく、ものの考え方、現わし方によって、煩悩ともなり、悟りともなるのであります。ですから、立正佼成会に入会してこられた人に対しては、これまでの人達の場合と同じように、その場で、煩悩を即菩提に切り替えて、悟りの方向に導くという私どもの努力が必要なのです。 (昭和48年01月【求道】) たとえば、色情の因縁を積んでしまったというような、間違ったことをしたとき、やってはならないことをしてしまったのだからもうだめだ、と言ってしまうと救いがありません。そのように救いのない教えは仏さまの教えとは言えませんし、ご法そのものがなんの役にも立たないものになってしまいます。 そうではなくて「色情の過ちを一つしてしまった」「一度どろぼうをしてしまった」という、その自分の非道さ、強欲さをほんとうに悟り、もう二度とそういう間違いをしないと心に決するとともに、人さまをお導きして、そうした正しい生き方ができるように、正しい観念の持てるように働きかけていく──そこまで発展させていくことがたいせつなのです。仏さまが願っておられるのは、心の転換なのです。ですから、仏さまは罪は罪としてありのままに受け入れ、決してその人を見殺しにはなさいません。 また、そういう罪があり、過去の業障があればこそ徹底的に精進し、無垢清浄の気持ちになって自分だけでなく、他の人までも正しいことに心を転換するよう、導くことを仏さまは願っておられるのです。この法は、ですから懺悔滅罪の法門と言われますように、修行によってそうした気持ちに心が転換したとき、いかなる業障をも、過去の罪は必ず消滅するのである、と教えられているのであります。私どもが信仰するゆえんも、そこにあります。 (昭和33年10月【速記録】)...
81
...「成仏」ということ 一 仏教には非常に大きな功徳がありますが、「益とは成仏なり」と言われるように、成仏することが、最も大きな功徳であります。 (昭和50年03月【求道】) 教団に来られたある人から、「お経の中にある作仏とはどういうことを指すのでしょうか」という質問をいただきましたが、作仏とは仏に成ること、つまり、成仏するということであります。そして、私ども仏教徒にとりましては、その作仏こそが信仰の最終目的であります。作仏するために、仏に成るために一生懸命に精進を続けることによって、今度は立正佼成会としますと、その名に表わされているように、人と人との交わりが成ってまいります。このように〈佼成〉を、そのまま交わり成ると言い換えますと、お互い同士の間に交際や、心の交わりが成就するということになるわけでありまして、このことは成仏の道を語っていて、非常におもしろいと思います。この仏さまのように成る、人間らしく成ることは、だれと交際しても、またどういう関係にあっても間違いのない、ほんとうの社会人に成ることであり、しかも立派な人格者に成ることです。お互いさま、ひとりびとりがすべての人々と信頼感を持って交際できるほんとうの人間にならなければならないと思います。 (昭和34年01月【速記録】) 「成仏」ということ 二 人間が、自分のこの世における存在価値と言いますか、役目と言いますか、そうした持ちまえのものを真剣に追求し、思う存分に果たしていきますと、その努力と実践の中で、人格というものが次第に磨かれていきます。だんだんに磨かれていって、ついに行きついた境地が、現代語で言えば人格の完成であり、仏教語で言えば成仏にほかならないのです。ですから、どんなに性格が違い、体力が違い、才能が違い、職業・地位が違っても、自分の持ちまえを完全に発揮していきさえすれば、ひとりの人間としての価値を完成(成仏)するという点においては、まったく平等なのです。 (昭和47年06月【佼成】) 「成仏」ということ 三 それぞれに持って生まれた天分を充分に発揮し、持って生まれた使命を充分に果たして、人さまのお役に立ちさえすれば、それが成仏にほかならないのです。 ところが、実際にはなかなかそうはいきません。なぜいかないかと言えば、利己心と貪欲があるからです。そうした濁った心が、自分の天分と使命を見とおす眼をくもらせ、他の領分を侵すことが自分の生きるすべであるかのように錯覚させるからです。そして、人間みんながそんな錯覚を持って他の領分を侵し合うために、みんなが傷つき、迷い、みずからの天分と使命を発揮できず、したがって世の中に争いが絶えず、ほんとうの意味の進歩を遂げることができないのです。 人間と自然との関係においても、同様のことが言えます。空気は空気、水は水、土は土、植物は植物、それぞれありのままのすがたを保ち、ありのままの天分と使命を果たすことが、「草木国土悉皆成仏」にほかならないのです。 それなのに、人間の利己心と貪欲は、こういった自然物の成仏を大きく妨げているのが現状です。しかも、人間も自然の中の一員なのですから、草木国土の成仏を妨げることが、人間自体に跳ね返ってきて、病み、苦しみ、死滅へ向かおうとしているわけです。 こう考えてきますと、この世界を救うには、仏さまの教えを一刻も早く、ひとりでも多くの人に弘めるほかはない──ということが、心の底からわかってくるはずです。しかも、その大任を仏さまから託されているのは、私ども立正佼成会会員にほかならないのです。 (昭和47年10月【佼成】) 「成仏」ということ 四 私どもは〈成仏〉という言葉を、これまで何か非現実的に解釈していたきらいがあると思います。「仏に成る」と言えば、お釈迦さまのように最高の悟りを成就し、完全円満な人格を完成することとのみ思い込んでいたのではないでしょうか。たしかに、それが人間成仏の極致ではあります。しかし、極致だけに価値があって、それに達する段階は無価値だと言うのでは、現実的な意味をなしません。 「一寸坐れば一寸の仏」です。「一寸悟れば一寸の仏」です。仏にも無数の段階があり、形相があるのです。いみじくも薬草諭品に説かれているように、野菊が美しい花を咲かせたならば、野菊としての成仏であり、柿がおいしい実を実らせたならば柿としての成仏です。人間とても同様であって、それぞれの持って生まれた天分を充分に発揮し、持って生まれた使命を充分に果たして、人さまのお役に立ちさえすれば、それが成仏にほかならないのです。 (昭和47年10月【佼成】) 「成仏」ということ 五 どうすれば大安心が得られるか、どうすればいつも安らかな心で生きていくことができるか──と言いますと、「自分は仏さまに抱かれているのだ。宇宙の大生命に生かされているのだ」という信念を心の底の底までしみこませるよりほかに道はありません。形あるものは、必ずいつかは滅します。現象として表われている物事は、必ずいつかは変化します。したがって、そんなものに頼っていたのでは、決して大安心は得られません。頼りになるのは永遠不滅の大生命たる仏さまのみです。永久不変の大真理たる仏さまのみです。ですから、「仏さまに生かされている」という信念に徹することができさえすれば、心は大盤石のごとく、まわりに起こるさまざまな物事に心配することもなく、動揺することもなく、大安心の境地に達することができるのです。 それならば、どうすればそのような信念に徹することができるか、が問題になりましょう。これは、人により、機根によって違います。たいへん質直柔軟な人ならば、「あなたは仏さまに生かされているのですよ」と教えられたら、「そうですか。有り難いことです」と、すぐ一念随喜してその場で、即座に救われてしまいましょう。事実、そんな例はたくさんあります。ところが、科学的な教育を受けた現代人の大部分は、ただ「仏さまに生かされていると信じなさい」と言われても、なかなか受け入れません。したがって、理論的に説く教学というものが、どうしても必要になってくるわけです。 幸い、仏法は科学的真理とも合致するものですし、科学的な考え方で追求する現代人をも、決して失望させることがありませんから、時間こそかかるでしょうが、そういう道筋をとおっても、ついには同じところへ到達せしめることができます。ただここで忘れてならないのは、たとえ理論から入ったにしても、行きつくところは全身全霊でつかむ〈絶対の信〉であると言うことです。そこまでいかなければ、人間を変える力とはなりません。したがって、信仰とは言えないのです。 どの登山道を登っても富士山の頂上は一つであるように、信仰への入り口は違っても、到達するところはただ一つ「宇宙の大生命たる仏さまに生かされているという徹底した自覚」であり、その自覚によって得られる大安心なのであります。 (昭和45年11月【佼成】)...
82
...人生苦と信仰 一 たいへん失礼なことを申し上げるようですが、お経というものはどなたにとりましても、その意味がよくわかるというところまでは、なかなかまいりません。何回お経をあげさせていただいても、そこに説かれていることがらのすべてを汲みとるのは、はなはだ難しいことであります。 ところが、たとえば観音経にいたしましても、お子さんを亡くされた方は、読誦していて「童男・童女の身を以て得度すべき者には、即ち童男・童女の身を現じて為に法を説き」というところまでいくと、声が詰まって泣き出してしまわれる。亡くなった家の子は、私ども、父親や母親に菩提心を起こさせるために生まれてきてくれたのであった、と思うと、そのお経の言葉が心にしみて、声が出なくなってしまうのであります。 しかし、なんの障りもないときには、せっかく大事な経文を読ませていただいても、うっかり素通りしてしまうことの方が多いものです。自分の身にあまりぴんとこないわけです。それだけに、お経をよくわかるように読むのは、たいへん難しいことなのであります。 (昭和33年09月【速記録】) たとえば、小学生が花嫁学校へ行ったのでは、それがなんのためにあるのやらわからないでしょうし、むしろおかしいことであります。しかし、縁談があって、お嫁に行く前の娘さんが花嫁学校へ行くと、習うことを、それは海綿が水を吸うように、残らず吸収してしまいます。このように必要なあらゆることがちゃんと聞かれるような状態になっているとよくわかるし、それを汲み取ろうとするのです。 (昭和33年09月【速記録】) 人生苦と信仰 二 だれしも生まれてきた者は、必ず一度は死ななければなりません。だれもがだんだん年寄りになっていくのですし、若いからといって、死がまだ先のことなのではなく、病気して死ぬ場合もあります。そこで、人間いかに死ぬべきかということになるのですが、日蓮聖人は「先ず臨終の事を習うて後、佗事を習ふべし」と、教えておられます。死ぬ時のことを初めに心得てから、人生百般、自分の行ないをしなさいと言われたわけで、実に端的ないい言葉だと思います。 死ぬときのことをまず考えるなんて、そんな縁起でもないことを、と思いがちですが、よく考えてみますと、「なるほどそういうことだなあ、いかに死ぬかが仏教徒の一番大きな命題なんだなあ」とわかってきます。最も、立正佼成会で救ってもらおう、ということで信仰に入られたばかりの人は、「そんなめんどうな理屈より、私はいま腹が痛くて困っているのだから、それを治す話を先に聞かせて欲しい」と言われるかも知れません。ですから、聖人のその教えはいろいろなことをやってみて、初めてわかることなのです。宗教に生きようとするには、やはりそうした哲理も一応わかっていなくてはなりません。宗教は普遍的で、しかもどこまでいっても狂いのない永遠なものでなくてはならないのです。 また、そうでないと「一生懸命にやってみたけれど、どうもたいした結果が出ないものだから、もうやめちゃったよ」などということになって、入会してせっかくお手配をつけていただいても、なんにもならなくなってしまいます。そういうことではいけませんから、私どもは、生まれてきてやがて歳をとり、そして死んでいく人間であれば、〈どう死ぬかということはすなわち、どう生きるか〉ということでありますから、自分の人生というもののあり方をじっくりと考えてみなければならないわけです。それが仏教に生きる者にとっての一番大事なこととなるわけであります。要するに大往生したいものだと願って、死ぬときまで正しい精進を続けることです。 さて、人間は死んでまた生まれ変わってくるというと、中には「しるしがつけてあるわけではないし、生まれ変わってきた人など見たこともない。そういうことを言ってごまかそうとするから、おれは信仰が嫌いなんだ」と言う人があります。死んでからのことはわからないと言うのであれば、それなら、ここはひとつ、生きている間のことをしっかり考えてみてはどうだろうと私は思うのです。 (昭和34年03月【速記録】) 人生苦と信仰 三 信仰生活に入って修行しておりますと、次第に人間が変わってまいります。以前は短気で、すぐに腹を立てた人が、怒らなくなってきます。もっとも、本人はきょうもまた腹を立てずに過ごせたということにあまり気づいておりません。毎日、そうした生活をしているものですから、それに酔ってしまって腹を立てずに暮らせることを、たいして有り難くもないように思っているのですが、それが三年、五年と続いて、たまに親戚の人などがきたとき「あなたは随分腹立ちっぽい人だったのに、近ごろすっかり変わって、家の中も円満になったねえ」などと言われると、ちょっと気恥ずかしいような思いをするものですが、改めて、自分自身をふり返ってみると自分の顔が如来さまのようになっているのです。顔というものは、生まれたときからそのままで、鼻があぐらをかいた人の鼻は、いつまでたっても、あぐらをかきっ放しなのですが、素直な気持ちが、表面に表われてきますと、顔の相が変わってくるのです。 ですから、鼻があぐらをかいていればいるほど、かえって福々しく見えるということになりますし、鼻の高い人は高いなりに、すっきりしたいい顔になってくるものです。ところが、心の中が曇っておりますと、鼻はあぐらをかいたままで、どうもみっともないということになってしまいますし、高くとがっていると、あの人は美人だけれど顔に険がある、ああいう女性は冷たいんだ、と言われてしまいます。 したがって、信仰を持って修行した人は、はたの人から「以前とは違った。よくなった」と言われて、振り返ってみて初めて、嫁にきたばかりのころと比べてみるなどして、「子ども達はみんなまじめにやっているし、自分が子どものころやったような取っ組み合いのけんかもしない。それにせがれの嫁も親切に尽くしてくれる」ということに気づいて、「なるほどこれは、たいへんに救われているんだなあ」と感じるのであります。自分が一つ心がけを直したことが、一代のうちに次から次へと、いいことになって現われてくるわけで、これはもう皆さんが、ご承知のとおりであります。 (昭和34年03月【速記録】) 人生苦と信仰 四 「諸苦の所因は貪欲是れ本なり」と、仏さまは教えられていますが、「貪欲を滅すれば依止するところなし」で、貪欲を離れてしまえば、まったく心配がなくなります。反対に貪欲で物事を考えていきますと、こんなに救われていて、戦争などありそうにない、今の日本の国に住んでいましても、どうも安心していられない、ということになってしまいます。そういう人が、日本にはまだまだたくさんいるようです。 お医者さんの話によりますと、日本人にはたいへん病人が多いのだそうですが、なぜ病気になるのか、その原因を探究してみますと、心の悩みからきている病気が非常に多いということです。 私どもがこの立正佼成会を創立したのは、昭和十三年でした。その当時は生きていくうえでたいへんに生活条件の悪い時代で、栄養が足りないために、たくさんの人達がどんどん倒れていきました。そのころ多かったのは、肋膜や結核の病人でしたが、これは栄養をとって養生していれば治るのです。ところが、栄養が足りないうえに、戦争のために一億総動員で働かなくてはならない時代でしたから、結局は追いまくられて倒れてしまうような条件の中に、みんなが置かれていたわけです。 しかし、そうした苛酷な条件の中でも、それを乗り越えて、信仰するような気持ちのすばらしい人は、どんどん病気が治ったのです。「衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現じたもう」と、お経にあるとおりで、いかに心を直すことが大事かを、私どもはその時代に身をもって体験しているのであります。 (昭和50年08月【求道】)...
ページ送り
先頭ページ
«
前ページ
‹‹
…
Page
14
Page
15
Page
16
Page
17
カレントページ
18
Page
19
Page
20
Page
21
Page
22
…
次ページ
››
最終ページ
»