人間釈尊(63)
立正佼成会会長 庭野日敬
異端者をも追放されず
プレイボーイ迦留陀夷
迦留陀夷(かるだい)は、浄飯王の師であるバラモンの子で、美ぼうと才気と弁舌で知られた貴公子でした。浄飯王はシッダールタ太子に出家の気配があるのを察し、快活明朗な彼を太子の侍者とし、太子の気持ちをなんとか現世の快楽へと引き戻そうとされましたが、結局その効はなかったのでした。
太子が出家された後、迦留陀夷はカピラ国の大臣となり、友好国の舎衛国によく出かけ、ハシノク王にもしばしばお目にかかっています。舎衛国の大臣・密護とも親友の間柄でしたが、いつしか密護の奥さんとも不倫関係に陥るというプレイボーイでした。
お釈迦さまが成道されてから、浄飯王は何度も使いを送って帰国を促されましたが、使いの者はみんなお釈迦さまのもとで出家してしまい、一人として帰って来ません。浄飯王は最後の手段として迦留陀夷を使者として出されたのですが、彼もどうしたわけか出家してお弟子になってしまいました。
しかし、迦留陀夷は「ぜひ一度お帰りになるように」とお釈迦さまを説得しましたので、お釈迦さまも老父王を慰めに行こうというお気持ちになられ、歴史的な帰国となったのでした。ぜんぜん違った性格と思想の持ち主なのに、どこか気の合うところがあったのではないかと推測されるのです。
家庭教化の名手でもあった
迦留陀夷は比丘となってからも相変わらずやんちゃぶりを発揮していました。六群の比丘という暴れ者仲間のリーダーとなって、祇園精舎の森のカラスを何十羽も射落としたり、少年比丘たちを引き連れて町を練り歩き、人々をからかったり、いたずらをしたりしました。
王宮にも自由に出入りできたのですが、ある時フト末利夫人の裸体を見たことから、祇園精舎に帰って「おれは王妃の裸を見たぞ」と触れ回ったこともありました。そのほか、比丘尼や町の女性と問題を起こしたことも度々あったのです。
もちろん、その都度、お釈迦さまは彼を呼びつけ厳しく叱責されたのですが、戒律の定めでは、ある違反を初めて犯した時は「教団からの追放」という最大の罰は与えないことになっていましたので、その規則の通りいつもお叱りだけにとどめられたのでした。
そうした問題児だった一方では、酸いも甘いも噛み分けた、いわゆるワケ知りだけに、親子・夫婦のいざこざを納めるのが上手で、家庭ぐるみ教化して仏法へ導いた数が舎衛城だけで九百九十九家に達したといいます。
ところが、最後に教化しようとしたある主婦が、ひそかに情を通じていた盗賊の首領との仲を割かれるのではないかと思い、その男をたきつけて迦留陀夷を殺そうとたくらんだのでした。そして、迦留陀夷が女の招きによってその家に行って法を説き、夜道を帰るところを、一刀のもとに斬り殺されたのでした。じつに壮烈な殉教だったのです。
翌日、全比丘の集会がありましたが、迦留陀夷の姿が見えないのでみんなが不審に思っていると、お釈迦さまは神通力で昨夜の殉教を知っておられ、
「迦留陀夷とわたしは若い時分からの親しい友であったが、ああ、いまついに別れることになった」
と、悲しげにおおせられたといいます。
この一語に、お釈迦さまの迦留陀夷に対する特別なお気持ちがうかがわれるように思います。単なる師弟という間柄を超えた人間的愛情をそこに感じとっても、仏さまに対する冒瀆にはならないのではないでしょうか。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎
立正佼成会会長 庭野日敬
異端者をも追放されず
プレイボーイ迦留陀夷
迦留陀夷(かるだい)は、浄飯王の師であるバラモンの子で、美ぼうと才気と弁舌で知られた貴公子でした。浄飯王はシッダールタ太子に出家の気配があるのを察し、快活明朗な彼を太子の侍者とし、太子の気持ちをなんとか現世の快楽へと引き戻そうとされましたが、結局その効はなかったのでした。
太子が出家された後、迦留陀夷はカピラ国の大臣となり、友好国の舎衛国によく出かけ、ハシノク王にもしばしばお目にかかっています。舎衛国の大臣・密護とも親友の間柄でしたが、いつしか密護の奥さんとも不倫関係に陥るというプレイボーイでした。
お釈迦さまが成道されてから、浄飯王は何度も使いを送って帰国を促されましたが、使いの者はみんなお釈迦さまのもとで出家してしまい、一人として帰って来ません。浄飯王は最後の手段として迦留陀夷を使者として出されたのですが、彼もどうしたわけか出家してお弟子になってしまいました。
しかし、迦留陀夷は「ぜひ一度お帰りになるように」とお釈迦さまを説得しましたので、お釈迦さまも老父王を慰めに行こうというお気持ちになられ、歴史的な帰国となったのでした。ぜんぜん違った性格と思想の持ち主なのに、どこか気の合うところがあったのではないかと推測されるのです。
家庭教化の名手でもあった
迦留陀夷は比丘となってからも相変わらずやんちゃぶりを発揮していました。六群の比丘という暴れ者仲間のリーダーとなって、祇園精舎の森のカラスを何十羽も射落としたり、少年比丘たちを引き連れて町を練り歩き、人々をからかったり、いたずらをしたりしました。
王宮にも自由に出入りできたのですが、ある時フト末利夫人の裸体を見たことから、祇園精舎に帰って「おれは王妃の裸を見たぞ」と触れ回ったこともありました。そのほか、比丘尼や町の女性と問題を起こしたことも度々あったのです。
もちろん、その都度、お釈迦さまは彼を呼びつけ厳しく叱責されたのですが、戒律の定めでは、ある違反を初めて犯した時は「教団からの追放」という最大の罰は与えないことになっていましたので、その規則の通りいつもお叱りだけにとどめられたのでした。
そうした問題児だった一方では、酸いも甘いも噛み分けた、いわゆるワケ知りだけに、親子・夫婦のいざこざを納めるのが上手で、家庭ぐるみ教化して仏法へ導いた数が舎衛城だけで九百九十九家に達したといいます。
ところが、最後に教化しようとしたある主婦が、ひそかに情を通じていた盗賊の首領との仲を割かれるのではないかと思い、その男をたきつけて迦留陀夷を殺そうとたくらんだのでした。そして、迦留陀夷が女の招きによってその家に行って法を説き、夜道を帰るところを、一刀のもとに斬り殺されたのでした。じつに壮烈な殉教だったのです。
翌日、全比丘の集会がありましたが、迦留陀夷の姿が見えないのでみんなが不審に思っていると、お釈迦さまは神通力で昨夜の殉教を知っておられ、
「迦留陀夷とわたしは若い時分からの親しい友であったが、ああ、いまついに別れることになった」
と、悲しげにおおせられたといいます。
この一語に、お釈迦さまの迦留陀夷に対する特別なお気持ちがうかがわれるように思います。単なる師弟という間柄を超えた人間的愛情をそこに感じとっても、仏さまに対する冒瀆にはならないのではないでしょうか。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎