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...幹部の姿勢 一 初めて道を開こうとするときには、とても人間業とは思えないような、超人的な修行もしなければならないのです。私にも、この立正佼成会にも、そういう時代がありました。また、そういう時代を超えてきたからこそ、二百万人の会員を持つ教団に成長したのだと思います。ところが、そうした昔のままの修行を、今の人達にあてはめようといたしますと、かえって導きのブレーキになってしまいます。かつての時代はプラスの役目を果たしていたものが、マイナスに変わってしまうということがあります。と言って、形ばかりを重んじていたのでは効果もあがりません。 「聞きたくはないんだけれど、支部長さんがいるうちは帰るわけにもいかないし」ともじもじして、家のことばかり考えているようでは、どんなにいい説法も認識できるわけがありません。それよりも早く家に帰してあげて、翌日また張り切って道場に出て来られるようにした方がよほどいいのです。そのように信者さんが喜んで出て来られて、みんなが喜んで集まることができ、喜んで説法が聞かれるというような信仰の雰囲気を生み出していかなければならないと思います。それには、こちらできちっと節度を持って、相手が聞きたいと考えていることを、ぴしっと腹の底までたたき込むことができる、ということがたいせつです。そういうことを心掛けることによって、生きた説法が心の中から次々に生まれてきます。 今後は、自由の中にもはっきりとした戒律があり、だれにも納得のいく修行方法がとられていることが、人々に信仰を呼びかけていくための、私どものとるべき姿勢であると思います。 (昭和35年03月【会長先生の御指導】) 幹部の姿勢 二 物事に疑惑を持つような人は、それだけすばらしい頭の持ち主なのです。「わからない人だ」「困った人間だ」と考えずに、「なるほどそれだけの疑問を持って物事を見ようとしているのはたいしたものだな」と受けとり、その疑問を仏さまがお与えくださったものと解釈して、慈悲の気持ちで接していくことです。それによって相手の人も次第に仏さまのお役を務めることができるわけです。 (昭和38年12月【会長先生の御指導】) 下から突きあげられる原因を考えてみますと、それはどうも、指導する者の言行が一致していないことにあるようです。法座主を信頼するからには死なばもろとも、一緒に心中しよう、というくらいの気持ちになりきって、壮年部も、青年部の指導者に対しても、一切を自分にしょい込むつもりで信じるのです。そうすれば、法座主にしても壮年部や青年部などの指導者も、「支部長さんがあれほど信じていてくださるんだから、努力しないではいられない」という気持ちになっていきます。煎じつめて言えば、全体をまとめていくために一番大事なのは、リーダーである長たる者の頭の置きどころです。 (昭和42年05月【速記録】) 千古不磨の兵法書といわれる《孫子》に、将たる者の資格を次のように言ってあります。 〈将は智・信・仁・勇・厳なり〉 これは、軍隊における将ばかりでなく、あらゆる社会に通用する至言であると思います。そこで、これを、信仰者のリーダーとしての場合にあてはめて、一つ一つ考究していくことにしましょう。 第一の〈智〉、これは仏教でいう智慧とは少々違って、分別智のことです。物事を正しく判断し、最も適切な行動手段を考えだす力です。とりわけたいせつなの、外界のさまざまな情報を整理し、記憶し、必要なときに必要なだけのものを取りだして活用する能力です。(中略) しからば、どうすればそのような智を養うことができるかと言いますと、視野を広くし、常に世間から多くのものを学びとろう、という積極的な心構えを持つことです。そして、それらの物事を、我のない心で、ありのままに見る努力をすることです。要は、勉強です。仏法に教えられている如是の心をもって、世法を見る勉強です。それ以外に方法はありません。 第二の〈信〉、これは、まごころという意味です。自分をも、人をも、天をも欺かず、常にまごころをもって事にあたるのです。それがひいては、衆に信頼される結果ともなるのです。(中略) 第三の〈仁〉、これは、平等な愛情ということです。慈悲の心です。この〈平等な〉ということがたいせつなのであって、愛情の念が強く、えこひいきをするような人は、名将とはなれません。率いられる大衆に、ほんとうの和が生じないからです。 それならば、すべての人に平等な愛情を持つには、どうすればいいのでしょうか。いつも言うように、愛というものは、愛そうと努力しても、なかなかわいてくるものではありません。そこで、理解ということがたいせつになってくるのです。それぞれの人の表面の性格・行動などによって決定的な評価をくだすことなく、その奥にある真実をつかみ、あるいは長所・短所をひっくるめたバランスをもってその人を見る、という見方とを、理解と言うのです。 このようにして、すべての人を理解しようと努力すれば、そこからひとりでに愛情がかもしだされてくるのです。こうしてすべての人に平等な愛情をそそぐことができるようになれば、衆は必ずその人に心服し、そこに絶大な和の力が生じます。このような人こそ、真の名将と言いうるのです。 第四の〈勇〉、これはつまり実行力のことです。衆の先頭に立ち、どんな困難にも立ち向かっていく精神力です。(中略) とくに信仰者の集団における名将は、常に自分自身の向上をはかって、みずから多くの人々の模範となり、常に先頭に立って進む人にほかなりません。すなわち、自分の後ろ姿で他を教化できる人です。他の人々のぼんのくぼばかりを見ていたのでは、絶対によきリーダーとはなりえないのです。 第五の〈厳〉、これは、強い意志力を持ち、万事に緻密で、キチョウメンであることです。粗放な人は、せいぜい豪傑止まりで、名将とはなりえません。とくに、現代のような複雑な構造の社会においては、粗放な豪傑ではどうにもならないのです。(中略) どうか、皆さん、右の五箇条をよくよく胸にかみしめて、正法の名将たるべく、志していただきたいものです。それも、決してあせってはいけません。(中略) 志は大きく持ちながら、常に脚下照顧、きょうをたいせつにし、現在の仕事を着実に果たしていかねばなりません。いや、志を大きく持っておれば、おのずからそこに新鮮な創意工夫が生みだされますから、現在の仕事も、ただ充分にではなく、十二分にも十五分にも、価値を拡大することができるのです。それが、大志を持つ者と、持たざる者との違いです。 世法も窮るところは仏法に一致し、仏法もいきつくところは世法の完成にほかなりません。もしあなたが、信仰者の世界において名将となることができれば、一般社会においても名将となりうることは必至です。私が太鼓判をおして保証します。 (昭和42年02月【躍進】) 幹部の姿勢 三 幹部はほんとうの幸福を信者さんに与えてあげなければなりません。貧乏な人は金持ちになるように導き、家庭が不和の人には、家中が円満になるように導くのです。そうなれば自然に商売にも精を出しますから、家業も繁盛し安泰になっていきます。自分の身の回りのことにさえ困っている人に、「布施をしなさい」「奉仕をしなさい」と言っても、それは無理な話です。営業が成り立つように、商売が繁盛するように指導して、喜んで布施ができ、奉仕もできるような、法則にのっとった生活をさせてあげることが先決条件であります。間違ったことをさせてはいけません。そこから出てくるのは、間違った結果だけです。すなわち善因善果、悪因悪果であり、これはもはやわかりきっています。 さらにまた、一歩踏み込んで「こういうことをすればいい」「こういうことはしてはならない」と指導をしていけば、皆さんが真剣にやろうとする境涯になれるのです。毎日道場へ参拝するような人の家の財政がおかしくなり、家庭が不和になって、やろうとしてもできないような境涯にさせてしまってはならないのであります。皆さんが喜々とした顔でやってこられて、「このたびはおかげさまで儲けさせていただくことができました」「商売もこうして繁盛しています」という話を持ってこられるような指導をしていけば、活動にも力がつき、皆さんも隣近所の人達に「うちの教団の人達は、こんなに繁盛しています」と、呼びかけていかれるようになるのであります。 (昭和35年03月【会長先生の御指導】) 幹部の姿勢 四 今の社会では、教育者も労働者のひとりとして扱われておりますが、本会の幹部の皆さんが、もしそのような気持ちになり下がってしまうようなことがありますと、これはたいへんな誤りと言わなくてはなりません。われわれはいやしくも仏さまのみ教えをいだき、それをすべての人に伝えさせていただく「聖職者」であります。その自覚を持って、お役をいただいている自分を誇りとすることができなくてはならないのです。物質的にはたとえどんなに貧しかろうと、常に心が豊かで、ほんとうの精神生活ができる人間でなければならないのであります。皆さんはそこのところをよく自分自身に銘記していただきたいと思います。 (昭和37年12月【会長先生の御指導】) 人はたくさんおりましても、仏教の教えにある八万の大士のような選ばれた人間は、それほど無数にいるわけではありません。また、ほんとうに手本になるような人が、各地域ごとに一人か、二人いただけでも、世の中のいろいろな不安をなくし、人々の焦燥をやわらげ、争いの芽の伸長をだんだんに弱めていく力として、大いに役立つものであります。 (昭和35年11月【速記録】) 幹部の姿勢 五 日蓮聖人は「法は人に困って貴し」とおっしゃいましたが、そのとおりで、法を説くことに対しても、その任を得た人でないと、教えを受ける人も、有り難いと言う気持ちにならないものです。相手の人がそういう気持ちになるには、支部長さんが人格者になるよう、努力しなければなりません。支部長さんに心の中を打ち明けたら、神さまに申し上げたのと同じような気持ちになり、もう罪が消えて、救われたような晴れやかな気分になって、さっぱりとした顔で家に帰っていくことができる、と喜ばれるような幹部でなくてはならないと思うのです。 (昭和42年05月【速記録】) 自分は幹部なんだ、特別の存在なんだと、形の上の優位さだけでものを考えていると、ほかの人達が抵抗を感じるようになってしまいます。そうではなくて、ともに修行していくんだという隔りのない平等観に立って幹部はものを考え、そういう思想をいつも持ち続けていなければなりません。むしろ幹部は人に率先して骨の折れること、人のいやがることをしなくてはなりません。人よりもよけいに犠牲を払わなければだめなのだ、ということが頭に入っていると、温かで親切な言葉も出てくるし、人もついてくるようになるのです。 (昭和38年09月【速記録】) 幹部の姿勢 六 信者さんから学んでいこうという謙虚な考えを持っていることが大事です。「私が教えてあげるのだ」というような大それた考えですと、だんだん突き上げられて「どうもうちの支部長は型が古い」とか「現代的でなくてだめだ」とか、いろいろと批評のタネになると思うのであります。それと反対に支部長さんが、謙虚な気持ちで信者さんに触れ合っていると、向こうから頼られるようになり、そういう気持ちで指導していれば、みんなも救われるのです。 (昭和42年05月【速記録】) 支部長さんの心の中に、案外盲点があるようです。それは皆さんが、信仰をはばみ、組織活動をはばもうとするものを持っているということです。自分が権力の座、勢力の座というものに座っているために、またその地位をなんとかして保持しようとしているために、みんなが望んでいることをなんとかしてかなえてあげようとする気持ちが、どこか欠けている……それが大きな盲点になっているのです。 創立当時の立正佼成会がどんどん伸びたのは、「あの人にご法の話を聞かせて幸せにしてあげよう。この人も救ってあげようと」みんなが一生懸命になったからで、権力の座に座ろうという人など、ひとりもいなかったものです。その気持ちが立正佼成会を大きく伸ばしたのだと思います。 (昭和39年11月【会長先生の御指導】) 幹部の姿勢 七 支部長さんや幹部の皆さんは、有識者の人達が入会してこられたとき、それらの人を失望させないだけのものを持っていなくてはなりません。腹の底から、仏教徒であることの喜びにあふれているとともに、整然とした理論を身につけており、しかもそれをきちんと、道理がとおるように話すことができるようでないと、有識者を指導していくうえで、困る場合があります。 ですから「われわれは仏さまのみ教えを、このような順序で正しく理解させていただいている。それはこんなに有り難いことなんだ」と、自信を持って説くとともに、自分自身に仏さまのお慈悲があふれているような人間になることが最も肝要なことであります。 (昭和37年12月【会長先生の御指導】)...
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...教勢の発展 一 私は妙佼先生ご存命中から、いつも申していましたように、立正佼成会を始めた当時から、今日のような二百万の会員にふやそうなどと、計画を立てて布教してきたのではないのであります。ただ、この有り難い法華経の教えに人さまをどうしてもお導きさせていただかないではいられない、悩める人々をお救いさせていただかずにはいられないという、止むに止まれぬ熱情に駆られたためにほかなりませんでした。 その結果として、当時予想もしなかったような急テンポをもちまして教勢の発展をみたのであります。これには私ども自身が驚いたのでありますが、それと同時に、非常に重大な責任と自覚のもとに布教活動を推進せざるを得なかったのであります。それゆえに支部長、幹部の人々とともに正しい信仰者として、だれにも指弾されることのない自行化他に励むことができたのであります。その間に集まりました多数会員の皆さまの真心からなる貴い浄財は、社会のためにこれを有効に活用させていただくこともできるようになったのであります。すなわち、東京にある教団本部の第二、第三修養道場や地方道場をはじめ、病院、図書館、霊園、学校、幼稚園、保育所というように、立正佼成会におきましては、年々歳々建設工事の槌音の絶える時はないような状態を続けているのであります。 このように、教団の財政の許す範囲におきまして、諸種の建設計画が立てられ、会員の皆さまの浄財は悉く、世のため人のために活用させていただいているのであります。これらの建設事業が次々に実現されていますことに、私どもは陰のご守護を信じておるのであります。世間では、私どもの活発な継続的建設状況を目にして、立正佼成会には何か魔術でもあるかのような見方をし、“宗教企業”と言うような偏見にみちた言葉を使っている人もあるように伺っていますけれども、私どもは決して営利を目的として建設しているわけではないのであります。多数会員の福祉はもとより、社会一般の人々のために少しでもお役に立たせていただくために、すでに学校、病院、図書館などを建設し、さらに身寄りのない気の毒な老齢のかたがたのために、妙佼先生のご遺志を体して無料の養老園の施設をも整えたのであります。(中略) このように私どもは、常に国家があり、社会があり、個人の生活があっての宗教であるという意味からしましても、もはや一教団の施設というような観念を改める必要を自覚しているのであります。さらに進んで、今日では宗教団体自体でも、既成とか、新しい教団とかのセクショナリズムの考えではなく、小異を捨て、大同につくという大乗的見地に立って、すすんで実践して行かなくてはならない時機に来ていると、私は思うのであります。 (昭和33年08月【交成】) 教勢の発展 二 昭和三十一年に立正佼成会が、読売新聞からたて続けの攻撃を受けたことは、皆さんも覚えておられることでしょう。それは誤った見方から出発した批判であって、それだけに誤解はその後すっかり氷解いたしましたが、振り返ってみますと、教団の教勢が急速に伸び続けていた段階であったために、私どもの気持ちが少したかぶっていて、何もかもが自分の思いどおりになるものだ、というくらいに考えていた面も多少はあったように思われます。そこで仏さまは、このまま“うわっすべり”をさせてはならない、とお考えになって、大きな鉄槌を振りおろして、私どもに反省を迫られたのでした。そしてこの試練を経験させていただいたおかげで、立正佼成会はますます地歩を固め、より多くの信者さんを教団に迎えることができました。 立正佼成会にかぎらず、こうした試練は戦後になってからも多くの宗教団体が何度も経験しています。そして、中にはそのために受けた傷からなかなか立ち直れずにいる宗教教団もあります。しかし、幸いなことに立正佼成会は半年間、九十回にもわたった新聞の攻撃を受けながら少しもゆるがず、その試練を教勢の発展に生かすことができたのであります。 (昭和34年04月【速記録】) 教勢の発展 三 正しい法を護る、ということから申しますと、初めに、お釈迦さまが国城妻子を捨てて出家され、そして悟りを開かれた後、生国へお帰りになって、身内の人や国内の多くの人々をお弟子にされました。もちろん、その中には、奥さまも喜んで加わられ、お釈迦さまを育てられたおばさんも入会をされています。このように国内の多くの人が出家してお弟子になりましたので、一時期、周囲からたいへんな攻撃を受けられたわけでありますが、親戚のかたがとにかく先に入会をしてお弟子になられています。この点、立正佼成会の皆さんはどこへ行っても自慢できると思うのであります。 私の実家の方も、一時は親戚こぞって反対をしたのであります。ところが今はどうかというと、実家の人達も親戚のおじさんやおばさんもみんなが入会して、私を「先生」「先生」と呼んでくれます。おじさんやおばさんから、先生などと言われると、なんだかくすぐったいような気がいたしますが、そうやって身内の人々がそろって、ご法を護るために一生懸命になっていてくれるのです。妙佼先生のご実家の方では、それ以上に、菩提寺のお坊さんまでが入会をされています。 皆さんもまた同じで、ひとりが入会されると親戚縁者のかた達が次から次へと、立正佼成会に入会しておられます。「また、思いもかけないところに信者さんができたなあ」と思っておりますと、皆ご親戚からご親戚へと伝わっていって、ご法を弘めていかれた結果であることがわかって、そのたびに私は心強さを感じるのであります。 (昭和34年04月【速記録】) 教勢の発展 四 わずか三十年前、私と妙佼先生、それに三十人にも足りない信者の人達によって出発した立正佼成会は今や百万世帯、三百有余万人の信者を擁する教団に発展いたしました。仏さまのみ教えを口に唱え、身で実行し、仏さまが願っておられる理想の世界を実現しようと、ひとりびとり、それぞれに精進を重ねてきた結果が今日の立正佼成会をなさしめたのであります。 (昭和43年09月【速記録】) 教勢の発展 五 宗教の歴史をたどってみますと、あらゆる宗教が発展と衰微の波を繰り返してきております。ローマの法王庁では、さすがに長い伝統を持っているだけに、世界の宗教団体を学問的な面や、思想的な面から、あるいは活動や実践の分野から、実によく調査しておられますが、その教団の中でも、たかだが三十年ほどの間に、三百万、四百万もの数多い信者さんを持った宗教教団ができた例は歴史上、皆無ということであります。その法王庁の調査の中で立正佼成会を非常にほめてくださっています。 「立正佼成会では仏教の教えが柔軟なかたちで浸透して、それが信者の心を潤し、喜びを与えている。その教えがこれほど急激にすみずみにまで弘まった例は珍しい」というのでありますが、さらにこの浸透と教勢の伸びについて、カトリック自身の現状を振り返って「われわれは過去百年間、組織と多くの資材を投入して日本に対して布教を続けてきたが、それでも信者の数は五十万人くらいにしかなっていない。ところが、名もない人間によってつくられた立正佼成会は、その創立者が生存している間に、それほど数多い信者を持つようになった。これは奇跡だ」というように言われています。立正佼成会が三十年の間に積み上げてきたこの大きな成果を、伝統のある世界の宗教教団が注目し、一つの奇跡としてとらえて、発展の背景についていろいろと判断しているのであります。 (昭和43年09月【速記録】) 教勢の発展 六 立正佼成会がこのように大きく発展したことについて、外部の人々は驚かれるとともに、また異口同音に、その秘訣はなんであるか、と質問されるのが常であります。ところが、この質問に対して“なるほど”と思っていただける特別の方法があったわけではないのです。ただひたすら会員の皆さんとともに仏の教えを実践しようと努めてきただけであるとした申しあげようがありません。 (昭和44年04月【佼成新聞】) 教勢の発展 七 教団創立当時、私は牛乳屋の主人、副会長・長沼妙佼先生は氷屋兼焼きイモ屋の主婦であり、宗教者としての世間の信用など、毛筋ほどもありませんでした。 そのような小さな小さな集まりが、なぜ四十年足らずの間に現在のような大教団に成長したのか、その間の経過は昨年(注・昭和五十一年)刊行の『庭野日敬自伝』に詳しく述べましたが、一言にして言えば、法が偉大であったからです。私どもの集まりは、ほんの一しずくの水滴のようなものでしたけれども、元は三千世界をおおう大雲から降ってきたものです。一滴の水にも大雲のいのちがこもっていたのです。そのいのちを、私どもが大事に大事に守り育ててきたからこそ、それに吸い寄せられるように、多くのしずくが集まってきて、小さな流れを成し、やがて谷川となり、次第に多くの流れを集めて、今ようやく田畑をうるおすほどの流量を持つようになったのです。 (昭和52年02月【佼成新聞】) 三十九周年の記念日を迎えるに当たって、私はこの成り行きをもう一度しっかりとかみしめたいと思っています。「ここまできたのは、決して自分の力ではない。法が偉大であったからである。だからと言って、自分を卑下してはならない。ささやかな存在である自分にも大雲(法)のいのちは脈々として生きていたのだ。自分は自分なりに、そのいのちを大事に守り育てていたからこそ、同じいのちを持つ人達が自然に集まり、参じてきたのだ」このような認識こそが、私自身にとっても、同じ流れの水である皆さんにとっても、何よりたいせつなことではないかと思うのであります。 (昭和52年02月【佼成新聞】)...
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...道場観 一 道の場と書いて道場──字というものはなかなか深味を持っていて、その意味するところをそのままに表わしています。私どもが毎日あげている経巻の最初に「道場観」が出ておりますが、そこには「是の処は即ち是れ道場なり。諸仏此に於いて阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏此に於て法輪を転じ、諸仏此に於て般涅槃したもう」とあります。ここで“是の処”と言っているのは私達が生きているこの娑婆を指します。つまり“是れ道場なり”の道場は建物としてつくられた場所ではなくて、私どもが生活の場として住み、そして生きているこの世界のことであります。 ですから、皆さんがたがどこにおられても、そこは“即是道場”なのです。家庭におられるときはそこが修行の場所であり、職場もまたそのための道場です。ですから、立正佼成会の道場に入ったときはまじめで殊勝な心掛けでいるけれど、家に帰るとたちまち夜叉になってしまったり、いろいろ愚癡ばかりこぼしている、というのはそこが修行の場所であることを忘れているためです。また、とかくそうなりやすいのが私達です。お釈迦さまが理想とされたのは、家庭にいるときも職場にいるときも、常にそこを道場と考えて真剣に生き、回りの人々をも啓発してそれぞれが力を発揮して精進しようと、呼びかけていく人間です。私達はそのようなお役をおのおのが持っているわけです。 仏教はそのように、家庭も職場も、その他いずれの場所も、私達が生存する場のすべてが道場である、という考え方をします。そのような仏教であれば、あえてお金をかけて、別に道場を建てる必要などないような気がいたしますが、どういうわけで道場を建てるのか、と言いますと、何よりもその道場には、清らかな修行を続けてこられた皆さんの先輩がいます。そして、支部長さんをはじめ、幹部の人達も一緒になって修行していらっしゃる。皆さんがそういう所へ参りますと、おのずからお互いが競い合って「善いことをさせていただこう。みんながいい心掛けをもって幸せになりましょう」と言うように修行に専念します。皆さんがそうやって、家を離れて、お互いが真剣になって切磋琢磨し合うところに、道場の必要性と意義があります。 これは仏道の修行だけにかぎりません。剣道でも柔道でも、また華道や茶道も、その道場へ出かけていって、お師匠さんについて、姿勢をあらため、心身を正し、そうして精進を続けて初めてその道を成ずることができるわけであります。このような意味で道場の建設は私達の人格の陶冶ということからも非常にたいせつなことなのであります。 (昭和43年10月【速記録】) 道場観 二 〈教え〉こそ教団の中心です。しかしそこに道場があり〈修行の場〉と自覚できたとき、初めて心を修行に向けるのが凡夫の常ではないでしょうか。心を整えることが先決であり、形にとらわれることはないと申しましても、形が整って初めて心が整ってくるのが人間であります。ですから〈教え〉が中心であって、道場など必要ない、ということにはなりません。むしろ立派な道場を求める会員の気持ちこそ自然だと言えましょう。この大学はどの程度の内容か、この会社は経営がうまくいっているかを第三者がみるとき、そこの建物をみて判断することが多いのです。宗教団体の場合でも同じです。教えが立派で日に日に信者がふえていると言っても、その寺院、本部が貧弱であれば、人は外見から判断して、その言葉を素直には信じないでしょう。 (昭和37年03月【佼成新聞】) 道場観 三 この道場において和合僧(僧伽)を形成していく──、私どもが、仏さまのお説きになった、法門どおりの、争いのない生活を人生の指針とし、正しい人生観に目覚めて、菩薩行に立ち上がっていくことを目的に建設されました。たくさんの人の中には、私は道場に行かなくてもわかっているんだとか、お経は読まなくても仏さまの教えは承知しているんだと言うかたもいらっしゃいますが、非常に危険な考え方だと思います。キリスト教の聖書の中に“麻の中の蓬”という教えがあります。草餅に入れるあの蓬は、道端などに一本だけ生えているときは、枝ばかりがくねくねと繁って上のほうに伸びていきません。ところが麻畑の中に生えている蓬は、麻が成長していくにつれて、素性よくまっすぐに背をそろえて伸びていきます。節と節との間も長くなって、枝や葉の形もスマートになります。 この教えからもわかりますように、仏さまの説かれたことを自分勝手に解釈し、お経に書かれていることを自分でいいように受けとって、わかったような気になっていると、勝手な気持ちがとれないで、理屈ばかりを言うようになり、道端の蓬と同じようによけいな枝が出てくることになります。ところが道場では、みんなが真剣になって神聖な修行をしています。自分勝手によけいな枝を出そうとする人はいませんし、みんなが行儀正しくと心がけ合っています。そしてまた、有り難いお話を聞くと“南無妙法蓮華経、有り難うございます”と、感謝し合います。つまり、麻の中でともに育つ蓬と同じように、集まって来られる皆さん全体の素性がよくなっていくのです。それに、そういう修行を永い間続けておりますと、世間の人々から「あの人は信仰する以前に比べてだいぶ変わった、あの人の言うことには、ほんとうに胸を打たれる」「あの人が歩いているところなど、後光がさすようだ」と尊敬されるようになってきます。ですから、道場の目的は周囲の人達とともに肩を並べて、どこまでも伸びていくことができる、というところにあるのです。 (昭和40年05月【速記録】) 道場観 四 道場というものの性格を皆さんがはっきりつかんで、そうして修行していただかなくてはなりません。仏教の本質、教義の本質的なことから言うと、本来は道場などあってもなくてもいいのである、と言うこともわきまえておいていただかないと、なんでもかんでも道場がなければ、お導きもできないんだというようなことになります。そういう道場一辺倒のような考え方ではならないのです。 (昭和40年05月【速記録】) 仏法はだれもが、踏み行なうべき人の道です。それを行ずるための道場ですから、会員であるなしにかかわらず、広く利用されていいわけです。“道場は会員だけのもの”と言った狭い考え方であってはなりません。要はひとりでも多くの人が仏法を守り、真理に沿った生き方をするために役立てばいいのです。 (昭和40年06月【佼成新聞】)...
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...導きの親と子 一 お導きによる親子の間柄は、家族の中の親子のつながりと少しも変わりありません。いつになってもほんとうの親と子なのです。だから導きの子に対して「あなたが子を産めば親になるのだから、しっかり努力してごらんなさい」と、すすめて教化していくのも、一つの方法だと思いますし、導きの子はまた、なんとかして自分の子どもを産み、一人前に育てあげていこう、という努力によって、親としての資格を自分でつくるのです。このような慈悲を生かして、私どもは親しい人や知っている人すべてに法の燈を与えて、みんなが立派な法の親になるようにしてあげたいものであります。 法の親子の関係というものは実に不思議なもので、同じ性格の人、同じ運命を持つ人が、互いにまつわり合っています。そういうつながりの不可思議を体験することによって、運命とは心の色なのだ、ということもわかってきますし、自分の心の色が万象を現わしているという一念三千の理もわかってくるのです。 (昭和39年12月【会長先生の御指導】) こうしてお互いさまに仏教徒として縁を結び合うということは、私どもが前世から仏さまにご縁のあった人間同士であるということなのです。私どもはきのう、きょう知り合ったように思っておりますが、お経をよく読んでみますと、決してそうではないことがわかります。つまり今現在、私達が導きの親、導きの子という関係にあり、また導きの系統という関係にありますのも、お互いの心の底に捨てることも流れることもできない宿命的なものが、そこにあって導かれているからです。その点、ごく一般的な人と人とのお付き合いでは、何か少し感情的におもしろくないことがあると、せっかく知り合いながら不仲になってしまうということがあります。 ところが、信仰の道ではつながりができると、なかなか離れられないものです。導きの親ごさんからきついことを言われて、いっそもうやめてしまおうかと腹を立てたりしても、どこかしら惹かれるもの、離れられないものがあって、いつしかまた足を運ぶようになるというのも、そこに仏縁の絆に結ばれているからです。それというのも、きついことを言われたときは、「実の親でさえ、そんなひどいことは言わないのに、ご法を笠に着て叱るなんておもしろくもない」と考えるのですが、よく思いかえしてみると、その人が、実の親子や兄弟でさえも言わないことを言って叱ってくださるのも、幸せにしてやろうという慈悲なのだとわかります。そう気づくと腹を立てるどころか、これはたいへん有り難いことなのだと、感謝の念がわいてまいります。仏さまのご縁によって結ばれた法の親子とはそういう間柄なのです。たとえ厳しい言葉で叱咤されても腹を立てて顛倒するようなことがあってはならないのです。 (昭和51年06月【速記録】) 導きの親と子 二 ブロック制になってからというもの立正佼成会に対する社会の評価は、非常に高まってきました。信者さんや一般の人達から、私が耳にしております範囲でも、実によくなってきたと、皆さんがおっしゃる。そのように望ましいかたちに変わったわけですが、全部が全部よくなったというわけではなくて、そこにはまだいくつかの問題が残っているようです。と、申しますのもブロック制になって以来、担当の責任者のかたにすべてをお委せしたのですが、たくさんの人の中には、それが他のブロックの信者さんであっても、「私が以前に導いた子なのだから……」と、自分がまだ指導しなければならないように考えている人がいらっしゃるようです。 最も、こう申し上げると「私は別にそんな気持ちは持っていない」と言われるかも知れません。ですから、無意識のうちに過去の惰性でそうなっているのかも知れません。しかし、今後そうした残された問題をなくしていくために、これからはお委せした支部長さんに、その人が張りついていけるようにしていただきたいと思います。また、中には「元の幹部は、私が赴任先から帰ったときぐらい家に顔を見せたらいいだろうに……」などという考え方もこの際、持たないようにしていただきたいと思います。そういうことを言っている人には、赴任先の支部の子どもさんも張りつかないという状態が出てくるものです。ところが、反対に赴任先の支部で、真剣になって愛情をそそいでいる人のところへは、どんどん信者さんが集まってくるので、毎日が大忙しです。よけいなことを考えている暇などはとてもありません。 そのように、ほんとうにいい支部長さんには赴任先の信者さんがちゃんと張りついてくるのです。それでいて以前に自分が指導した子ども達からも好かれるものです。それにまた赴任先から帰ってきたときでも、後継ぎの指導者が元の子どもさんたちのめんどうを、ちゃんと見ていてくださるのですから少しも心配はないのです。ともかく、ブロック制になってからも、昔の導きの親として子どもさんに対する権威を持ち続けていたいといった気持ちを、まだ捨てきれない人がいるとしたらほんとうに残念なことです。それは子どもさんにとって気の毒であるだけではなく、そうした支部長さん自身にとっても、まことに気の毒なことです。このような考えはぜひ頭を切り換えていただかなければなりません。 (昭和35年12月【会長先生の御指導】) 子どもを産んでも、その子をすぐにお嫁にやることはできません。おとなに育てあげるまで、親は責任を持たなければならないし、そうやって育てあげたあと、初めてお嫁にやることができるのです。教化活動もそれと同じことで、まず導きの子自身が「私もご法のためにしっかりとした活動をしていきたい」という自覚を持つまでに育てることが肝心です。そこまでいくと子どもの方は、自分にとって身近な組織の中で活動したいという気持ちに自然になるものです。そろそろお嫁に行きたくなっているわけですから、親がそのときをみはからって手放してやると、子どもは行った先で喜んで活動もしますし、居ごこちがいいので落ち着きもするのです。 自分から進んで嫁入りしたいと思うような気持ちが起きるように、子どもをしっかりと育てあげる、それが親の務めです。この任務を実現するためにも、皆さんは子どもの手をとって、親子の関係を立派に生かしていただきたいものです。 育った子どもからは必ず自分の近所で活動したいという注文がきます。しかし、そういうとき「この子はよくお導きするから手許に置いておきたい」とか「よく布施もするし、ほかの支部にやるのはもったいない」などと欲ばって、子どもをいつまでも手許につなぎ止めてしまうような親であってはいけません。そんなことをしていると、みすみすお嫁に出し損ねてしまって、せっかくの持ち前を、だめにしてしまいます。親の慈悲とはそういうものではありません。育てながらお嫁に行きたくなる気持ちを起こさせる下地ごしらえをし、なるべく早いうちにお嫁にやろうと、親自身も考えることが、子に対するほんとうの慈悲であります。 (昭和39年12月【会長先生の御指導】) 導きの親と子 三 私は、導きの親子の因縁は、肉身の親子の因縁よりも、もっと深いものだと思っています。なぜならば、もともと三十六億の人類中の離れ離れの一対一だったものが、仏法によって結ばれるとはよくよくの因縁があればこそだからです。しかも、この場合、人間の霊性と霊性が結ばれたわけですから、これはもう永遠に断ち切れないものであり、また無限の展開の可能性を持った結ばれかたなのです。 ですから、実の親子の関係よりもずっと深いのです。このことをよくよく心に刻んで、導きの親は導きの子のことをいつも念頭に置き、その信仰活動を見守っていなければなりません。導きの子は導きの親の対して、常に“師”としての尊敬と、“同信の友”としての親しみを懐いていなければなりません。 こうした小さな一対一の結ばれが強固にできてこそ、仏さまとの大きな一対一の結ばれも強固になっていいくのです。このようにして、仏さま(仏)に対する信、教え(法)に対する信、僧(同信の師友)に対する信が深まり、それを口に言い表わす日々の行を怠らずに勤めておれば、そこに真の救いがおのずから成就してくるのです。 (昭和48年11月【佼成】)...
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...三者一体の活動 一 本来、僧伽なるものは一体でなければならないものです。老いも若きも、男も女も長老も新発意も、出家も在家もすべての成員が仏さまのもとに一体であり、法のために同心であるのが本然のあり方です。したがって、その力が外部へ動きだしていくときも、すべてエネルギーが渾然一体となって働いていくのが理想の姿と言えましょう。 導きの対象は千差万別です。年齢・性別・職業・階層等々が、ひとりびとり違います。そういう複雑な対象に向かって単一な力でぶつかって行っても、効果は薄く、ロスの多いことは理の当然です。 老人には、同じく世の辛酸をなめつくした老人がなんと言っても話が合います。壮年には、現実に実社会の厳しさを闘いつつある壮年がやはり共感を呼びます。女は女同士で、心の微妙な通い合いがあり、青年は青年同士で打てば響くような魂の共鳴があります。 そう言った同質のものの牽引力だけではありません。人間の心理は複雑なもので、反対に異質のものに惹かれる一面もあるのです。自分にないものにあこがれをおぼえ、自分にないものを吸収しようとする心理です。ですから、老人にとってみずみずしい青年達が魅力をもつ場合もあり、青年には生活に鍛えられた壮年が頼もしく感じられることもあるわけです。 人間のこのような心理をよく洞察するとき、同質のものの牽引力に異質のものの魅力をからみ合わせた、言うところの三者一体の活動が、導きの最も理想的な方式であることがハッキリ浮かび上がってくるはずです。 (昭和42年10月【躍進】) 三者一体の活動 二 青年は未成熟の力です。それだけに、失敗の危険をも蔵しています。だからと言って、そのあふれ出るエネルギーに蓋をするようなことをすれば、会の生々発展はそこで止まってしまいます。立正佼成会は、決して固定した存在ではありません。すでに老化した既成教団でもありません。常に若く、常に流動的で、常に伸展していく僧伽です。ゆえに少々の試行錯誤など意に介してはならないのです。古い人は、新しい人材を発掘し、育成し、それを自由自在に活動させる底の、大きな包容力をもたねばなりません。それがほんとうの〈年の功〉と言うものです。 青梅での練成は、青年達に廻心の契機を与え、精神に一本の筋金を入れるための電気ショックのようなものです。それによって何ものかが完成したように考えるとしたら、もとより、たいへんな誤解であり、錯角であると言わなければなりません。青年達は、各支部(教会)に帰り、実社会へ帰って、のちの実践行動のなかでこそ、ジックリと完成への道を歩んでいくのです。 ですから、これを迎え入れる人々は、あるいはとまどいを感じることもありましょうが、そのとまどいにうち負かされることなく、寛容大度をもって青年達を包容し、信頼し、広い活動の場を与えることによって、かれらを大きく育てあげていただきたいのであります。 そうしてこそ、立正佼成会はいよいよ発展し、本来の使命を達成していくことができましょう。青年達が自分を追い越して進んでも、無私の精神をもってそれを喜ぶような心境になって欲しいのです。そういう人こそ、諸行無常の理を身に体した真の信仰者と言えましょう。常に移り変わりつつ進展する、これが諸行無常の真理なのですから。 一方、いくら青年達が実践行動のうえで追い越していっても、長老や中堅たるものの価値はすこしも失われるものではありません。舎利弗の智慧、目連の神通、富楼那の弁舌、阿難の人気があろうとも、大迦葉はやはり大迦葉でした。釈尊教団における隠然たる大長老でした。移りゆくもの、変わりゆくもののなかにも、やはり不変の価値というものは存在します。信仰者について言えば、それは徹底した〈信〉であります。古い人達は、この点において大いなる自負を持ち、ゆうゆう自在の境地にいていただきたいと思うのであります。 (昭和42年10月【躍進】) 三者一体の活動 三 本来は、壮年部が立正佼成会の柱なのですから、奥さんが幹部で、ご主人が立ち上がったということは、いわばあたりまえのことが出てきたということです。だから、今までがあたりまえでなかったということなのです。私の理想とする線が一応出て来たわけです。ですから、前に声明したように、これから伸びて来る青年部というのはあるが、壮年部はそれ自体が会の本来の姿なのですから、新たなものを作るようなことはしません。壮年というのは一家の主人であり、家庭をはじめ国家を治めるのが仕事ですからことさら独立してどうこうという必要もないのです。支部活動において、とくにご主人だけで研修会や法座をしたいという要望があれば、だんな会でも壮年会でも、名称はなんでもよいから作るのもよいでしょう。しかし、それも正課ではなく、あくまでもクラブ活動ということです。 (昭和37年07月【佼成新聞】) 古今東西を通じて、婦人は陰の役割を果たしてきました。すべて、ほんとうに物事を動かすものは、この陰の力なのです。とくに婦人が立ち上がらないと宗教団体は大きな力を発揮することができません。青・壮年はすばらしい活動力を持っているが、実践力や説得力は中年婦人の方が勝っています。そうした婦人層の人々が、教えを認識し信をつかめば、青年層にも壮年層にもそして老年の人々も、絶対に教化できます。豊富な体験を持つ婦人は社会のあらゆる方面に進出し、積極的に活動を展開していただきたい。 (昭和39年07月【佼成新聞】)...
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...青年部の育成 一 次の時代を担うのは青年であり、また最も自分を厳しく錬磨できるのも青年です。青年時代に身につけたものは、やがてそれが年輪を加えるごとに内側から輝きを増してきます。日ごろふと思うことの源をたぐっていくと、しばしば青年時代に吸収した知識や思想にぶつかることが少なくありません。信仰を身につけた青年が、やがて社会のリーダーとして第一線に立ったとき、この世はいったいどんな姿に変わるか、思っただけで胸がはずむのをおぼえます。 (昭和41年11月【佼成新聞】) 青年部の育成 二 立正佼成会が、二十世紀後半の現代にあって、釈尊の慈悲を、正しく具現すべく、さらに成長し本会創立の目的達成に邁進することができるか否かは、ひとえに、次代を担う青年諸君の今後の精進にかかっていると言えます。 いわば、青年部リーダーのひとりひとりが、釈尊の理想達成のための目標、すなわち、是が非でも達成しようとする目標を、はっきりと胸に刻み、部員にそれを明示する能力を持っているかどうかが、立正佼成会の今後を占う、分岐点となるのです。(中略) 青年部活動の目標は、すなわち立正佼成会の目標であり、将来を築きあげる目標とは、身近なものを遠大なものへ、現在を将来へ、個人を組織へ、そして組織の利益を国民の福祉へと関連づけることであって、そこに、大きな社会的意義と使命を見い出すことができます。 すなわち、現代の文明を裏づける宗教として、物心一如の哲理を現代人に分かち与え、個の尊厳を確立し、広い意味での福祉国家、福祉世界を建設していくことこそ、立正佼成会の究極の目標であり、使命なのです。 さて、理想を実現し、成長力ある青年部組織たらしめる究極のものは何かと言えば、それは、信心に基づく活力あふれる人材にほかなりません。ここで言う活力とは、創造的、かつ進取的な活動、そして他からの強制によらず、正しいがゆえになさんとする内的要求を意味する強い信仰的責任感であります。 そこで、活力を持つ人材を、責任ある地位につけなければならないし、また、すべての人が、それぞれの立ち場で、活力を増大できるような組織と活動方針を持たなければなりません。つまり、理念と信念の裏づけに基づいて、個人の集まりである組織を形成するに際しては、個々人の特性を認めて、それを十二分に発揮し、活動せしめることがたいせつであり、個人の価値を確立させる青年部活動を展開する必要があります。これが、人間尊重の組織であり、人間尊重に留意する組織は、必ずや発展するものです。 (昭和39年12月【躍進】) 青年部の育成 三 私が、宗教青年に望むことは、社会の指導者になって欲しいということです。今、日本には国家的利益という考え方はあっても、国家的目的というものがありません。現在のように、国内の意見が分裂したままでは、何が日本にとって利益なのか、という根本問題についてさえ、大きな食い違いがあります。それでは国際舞台に出ても、持つ力の何分の一しか発揮できないでしょう。日本のクセは、外ばかり見て内を忘れることです。これではいけません。やはり自分の大義名分なり、原則なりをはっきり持たなければなりません。そして、それは、仏教の慈悲に基づいたものでなければならないのです。 国内的にみても、企業に目的がなく、学校に理想がありません。したがって、国民ひとりひとりはどこへ行ってよいのか、皆迷っています。青年が社会の指導者になって欲しいという意味は、こうした迷える日本を正しく導く大きな責任が、青年の双肩に課せられているからです。(中略) 青年は、人の後についていくのではなくて、自分の歩む道を、自分で求め、人の先んじて前進するパイオニア精神の持ち主であって欲しいのです。 (昭和39年12月【躍進】) 青年部の育成 四 青年時代は、養分になるものはなんでもガムシャラに吸い取り、自分の目標に向かってガムシャラに突進すべき時期なのですが、もし、心のよりどころがグラグラしたものであれば、突進も、とかく鈍りがちで、思い切ったことができないものです。ですから、どうしても自分の心を内から支え、自分の体を後ろから押してくれる何物かが必要なのです。 と言っても、何も難しく考えることはありません。青年の心は鋭敏であり、しかも一本気ですから、よく古人や先輩などの片言隻語(短い言葉)に感激して、それを心の支えとして吸収し、一生を生き抜く原動力とするものです。私自身も、孔子の「朝に道が聞かば夕に死すとも可なり」という言葉を初めて知ったのは十六、七歳のころでしたが、実に感激しました。そして、五十年近く経った現在まで、心の底にコビリついて離れません。今でも、この言葉を思い出しますと、心の奮い立つのを感じます。 湯川秀樹博士は、旧制高校生のころアインシュタイン博士の講演を聞き、よくはわからないながら深い感動を覚え、その場で物理の道へ進もうと決意されたのだそうです。一夕の感動が、博士の一生を決定したのです。ですから、心のアンテナさえピンと張り詰め、敏感に保っておれば、見聞触知、皆菩提に近づくことになるのです。 (昭和47年03月【躍進】) 青年部の育成 五 青年時代の私は、なかなかのきかん坊でしたから、人が何かを押しつけようとしても、やすやすとは承知しなかったものです。自分のやりたいことを、どこまでもやりとおしていく。ただし、それは正しいことにかぎっていて、間違ったことは絶対にしないという信念で青年時代を生きました。そうした私自身の生き方からも思うのですが、青年の人の顔ばかりを見て、何かをやっているようではいけません。自分の思ったことをズバリと、存分に発表するくらいの気概を持っていてこそ、まことに青年らしい若さだと思います。 ですから、青年部にしても各支部に元気のいい若者がいて、大いに活動し合うという方が発展性があっていいのです。また、そういう意気込みで仏道修行に入ってきた青年は、感受性も人一倍強いので、こちらから言わない先に「副支部長さんが言われたあの言葉は、どう解釈すればいいのでしょうか」「支部長さんがこういうことを教えてくださったが、それを生かすにはどうすればいいか」と、積極的に取り組んでくるものです。それに若い人は純粋な気持ちを持っていますから、何かのことで「それはいけない」と言われたり「間違っている」と教えられたりすると、なぜいけないのか、なぜ間違っているのかをどこまでも追究していこうとします。ですから、指導にあたる人が、その若者達のわかっていないところをいい加減にしたまま“それより修行が先”といったかたちをとっていると、青年達は納得できずに、フラフラしてしまいます。指導するときは、そうした若者の気持ちを充分に汲み取って、疑問を残さないように筋道をとおして話をし、一生懸命にやろうとする気持ちをかき立て、そして認めるということを忘れてはなりません。 (昭和33年10月【速記録】) 青年部の育成 六 青春時代の迷い・悩み・混乱・挫折などは、自分の精神を鍛錬し、また一生の道を発見する前提として、たいへん貴重なものだと、私は信じます。ですから、大いに迷いなさい、悩みなさいと、若い人達にすすめたいのです。 しかし、そこで、たいせつなことは、ただ漠然と迷ったり、悩んだりするのではなく、迷い悩んでいる自分を厳しくみつめてみることです。また、苦しみそのものをジッと凝視してみることです。そういう努力が、どれほど人間に厚みをつけ、深みを養うかわからないのです。 そうした精神的は闘いをすることなく、若い情熱やエネルギーを安易なハケ口に流してしまうことほど大きな損失はありません。 (昭和47年03月【躍進】) 私達の人生に、花開く楽しい日を持つためには、いろいろな人生苦を経験しなければならないものなのです。梅は寒い国ほど美しく、香り高いと言われます。あの清らかな香りは、雪や霜やみぞれを耐えしのんでこそ生まれるものだと思います。ちょうどそのように、人生の重みを味わえば味わうほど、その人に美しい人格の香りがついてくるのです。 苦難は、単に無意味にそこにあるのではないのです。なぜなら、人の世の不幸や矛盾は、仏が与えた試練としてあるからです。本会では、このことを一口に「修行」と呼んでいます。修行が人格を形成するための欠くことのできない条件であるのですから、困難にめげず、おくせず、それに向かって堂々と体当たりしてください。 (昭和38年02月【佼成】) 青年部の育成 七 信仰者は法を依りどころとして生きるものです。身の回りに起こるすべての物事を法に照らして判断し、法に従って処理するのが、信仰者の信仰者たるゆえんなのです。いわゆる「法に依りて、人に依らざれ」です。このことを行住座臥に忘れないことです。人に何かをされたり、言われたりしても、それに対して感情を動かすことなく、すぐ仏法という大きな世界に心を放ってみるのです。すると、普通ならば腹の立つようなことでも、「ハハア、これが私の成仏(人間完成)のための因縁なんだな」と受け取ることができます。そして、よしんば相手がほんとうに意地悪でやったことだとしても、それより一段高い境地に立って、大きくそれを容認することができるのです。提婆達多は恨みや妬みからほんとうにお釈迦さまを害し奉ろうとしたのですが、そんなチッポケな感情の世界を飛び超えた境地におられたお釈迦さまは、「提婆達多のおかげで、私も悟りを開いたのだ。提婆達多も未来世には必ず成仏する」と、大きく包容してしまわれたのでした。 法に照らせば、目の前の現象より、ずっと広い世界が見えてくるのです。ずっと先のことまで見えてくるのです。だから、自然に心が目の前の現象にこだわらなくなるわけです。人間関係を和やかにする秘訣はこれよりほかにないのではないでしょうか。 単に人間関係ばかりではありません。世の中のすべてのことが、これによってこそ正しく動き、進むようになるのです。今の世の中がどうしようもなく乱れ、人々みんなが苦しんでいるのは、みんながエゴに基づく感情によって、物事を感受し、処理するからなのです。そうではなく、すべての物事を法に照らして正しく受け取り、宇宙法に従って、正しい行為をしていこうではないかというのが仏教です。それが、われわれの運動なのです。これよりほかに世直しの道はありません。これよりほかに苦滅の道はないのです。 そういう大きなところへ目を向けてください。そうすれば、身近な小さな問題など心中からケシ飛んでしまいましょう。そして、世直しのために挺身する日々の暮らしが楽しくてしかたがなくなってくるはずです。それが経文にある「道を以て楽を受け」の境地です。日蓮聖人が仰せられたように「人間に生を受けて、是程の悦は何事か候べき」なのです。 (昭和50年10月【躍進】) 青年部の育成 八 皆さんは、たとえば恋愛をして、あの男性と、またはあの女性と、どうしても結婚したいという気持ちになったとき、全身全霊をあげてそれに打ち込まれるでしょう。あるいは、いい就職口を世話してくれる人、いいお得意さんになってくれそうな人の所へは、お百度参りでもするでしょう。 そのような熱意を法の弘通に注いだとしたら、ひとりやふたり導けないなどということは絶対にありません。ところが、正直な話、人間なかなか利己の殻は脱ぎ捨て切れないもので、何か、目の前に現実の利害がブラ下がっていなければ、積極的な活動を起こそうとしない人が、やはり多いことと思います。そんな人は、利己心の場を少しずつ拡大することを心がければいいのです。自分自身を愛するように、家族全体を愛する。子や孫のことを親身に考える。これぐらいなら、だれにだってできるでしょう。また、一か月先の利害を忖度(推量)する心を、一年先、十年先へと延ばしてみる。これもそれほど難しいことではありますまい。 このようにして、視野をだんだん拡大し、関心の対象を広くしていくならば、必ず「世の中がこのままでは、どうにもならないぞ」という、居ても立ってもおられぬ気持ちが起こってくるに違いありません。 仏法は、もはや個人の心の救いのみを目ざすものではありません。お導きといっても、個人の不幸を救うことにとどまるものではないのです。ひとりひとりの心を改めることによって、全人類を危機から救うための一大キャンペーンでなければならないのです。 真理は、知識として知っているだけでは、なんにもなりません。心の底の底から「そうだッ」と悟り、その真理へおもむくやむにやまれぬ心が動き出してきたときにこそ、初めて価値を生ずるのです。その真理を、心の底の底から悟らせるもの、そして、真理におもむくやうむにやまれぬ心を発動させるもの、それが信仰であります。 (昭和47年12月【躍進】) 日蓮聖人は、蒙古襲来の危機に際し、みずからの身命を賭して《立正安国論》を時の最高権力者に差し出されました。現代のわれわれに、あの十分の一、百分の一の気魄があるかどうか。ここ二十年ばかりのダラけた世相に慣らされ、われわれ信仰者も安逸の気風に染まってしまっていはしないか、猛省すべきだと思います。 《日妙聖人御書》にあるように、薬王菩薩は法華経のおん前にて臂を七万二千年の間焼いて燈明とされました。常不軽菩薩は、仏性礼拝のゆえに無量無辺の四衆に罵詈毀辱され、杖木瓦石で打たれました。須頭檀王は法華の大法を得るために千年の間、阿私仙人に仕え、身を以て仙人の腰掛けとなるほどの苦労をされました。これに比べて、われわれの修行はあまりにも安易に流れてはいなかったでしょうか。 立正佼成会の会員はおとなしいというのが定評のようです。しかし、おとなしいということは気魄がないということではありません。行動力がないことではありません。常不軽菩薩が、いかなる迫害や困難にもくじけることなくひたすら礼拝行を続けられた、あのすさまじいほどの気魄と行動力を内に秘めたおとなしさ……これでなければならないのです。 とりわけ、私は青年に期待します。 青年はみずみずしい精神を持っています。きたるべき時代を敏感にとらえる不思議な触角を持っています。そして、心にとらえたものを、すぐさま行動に移す率直さをもそなえています。 とにかく、なんでもやれるのが青年です。人に笑われようが、眉をひそめられようが、かまうことなく前進できるのが青年です。それだけの生命力があるからです。よしんば間違いをやっても、それを取り返すだけの復原力があるからです。 ましてや、法華経を世に弘めるという仕事は、この世で最高の聖業です。何の躊躇するところがありましょうか。 ガムシャラにやってごらんなさい。バカになってやってごらんなさい。それが国を救う道であり、自分を救う道でもあるのです。 (昭和50年01月【躍進】) 青年部の育成 九 私は、今の青少年達に真の生命力を吹き込むことが、今後の日本の立国の基礎だ、と確信しています。「逞しい生活力(生物としての生命力)」と、「道義の精神(人間としての真の価値)」この二つを育成し、鍛え上げねばならないのです。それも、小手先でやったのではなんの効果もありません。人生の先輩であるおとな達が、みずからの行動を正して世相を改め、その正しい世相を、子ども達の心身に反映させなければ、実効は上がらないのです。直接の指導は、兄貴分である青年達に任せることです。そして、大自然の中で跳んだりはねたりのうちに、人間らしい人間に育て上げるのが最も望ましい方法だと思います。わが会でも青年部や少年部の育成には力を入れており、今年(注・昭和52年)は本部や各地で鼓笛隊、少年野球、練成会、少年団参、青年部の結集大会などを催し、大きな成果をあげました。今後も、この面に大いに力を注ぎたいと思います。 (昭和52年12月【佼成新聞】)...
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...文書布教 一 法師品を拝読しますと、「五種法師」に、法華経を弘める者の大切な“行”が五つにわけて説かれております。受持・読・誦・解説・書写の五つです。この中で、読・誦と言いますのは、教えを正しく理解し、自分のものにするうえで、きわめてたいせつなことです。口伝ですと、どうしても物事が誤って伝えられ、教えがゆがめられて受けとられがちです。その意味からすると、活字によって、はっきりと正確に表現された文書の価値は、きわめて大きいと言わねばなりません。機関誌や出版物は、正しく教えが伝わり、正しく理解されるために編集、発行されているものです。法座で、幹部さんから指導を受けるとき、「よくわかった」と頭では納得しますが、実際は、自分の心の中で消化されない場合があります。また、法のもつ意味を、自分の都合のいいように解釈して、独りよがりに早合点してしまうことはないでしょうか。そんなとき、経典を読み返したり、機関紙誌を開いてみたり、出版物を読むことによって、正しい法の理解を深めてほしいと思います。実践行や体験を積みながら、一方では、その裏づけとして教学や文書に親しんでいく態度、教えに対する信頼が深まれば深まるほど、繰り返して読誦し、学びなおす態度がたいせつです。全国に道場のない町や村は、まだたくさんありますが、郵便局のないところはないでしょう。どんな山間へき地へも機関紙誌は必ず届けられます。毎週、全国いたるところに、会のニュースや活動を伝えられるのは、現代でこそなし得るのです。現代はマス・コミの時代です。電波、活字の使用によって何十万、何百万という大衆に、一つのことをすみやかに知らせ、広めることができます。その意味で、これからの布教活動は、文書による伝道をますます重要視し、活用することがたいせつであると考えられます。 (昭和39年06月【佼成新聞】) 文書布教 二 仏教は、“聞法”というので、まず、聞くことが大事であると言われています。ところが、耳で聞くということは、何人かの人に順々に伝えていくうちに、初めのこととは、だいぶ違ったものになってしまう、ということがよくあります。たとえば、テレビなどで「言葉のリレー・ゲーム」をやっていますが、それを見ていますと、司会者から出題された「言葉」が、次々と伝えられていくうちに、どこかが抜けていたり、余分な言葉が加わったり、時にはまったく逆の意味になっている──といったことがあります。ゲームなら、こうしたことが、かえって“笑い”のたねになり、楽しくするのでしょうが、私どものような、仏の教えを正しく、間違いなく伝える、という重大なお役の場合には、こんなことになったらそれこそ大変であります。しかし、なんと申しましても、人間のやることですから、私どもの布教上にも、これと同じことがないとは言えないでしょう。会員の数も増え、組織が大きくなりますと、このようなことが起こらないとはかぎりません。こうした欠点をくいとめてくれるのが、文書伝道であります。法華経の中には“五十展転”と言って「五十人の人の間に教えが伝わるうちに、たとえ感銘が薄れていっても、それを聞き、実践した人は、はかりしれない功徳がいただける。また、同じように、これを伝えた人にも功徳がある」──と説かれています。 このように、仏の教えを正しく、間違いなくそのまま伝えることができる「文書布教」というものは、それほど多くの人に功徳を与え、また、みずからにも、もたらしていただけるか、はかりしれないほど大きいのであります。しかし法華経には、いろいろの功徳が説かれていますが、決して無条件にいただけるものではありません。必ず「これこれのことをなせば……」という条件がついています。言うまでもなくどんなよいことが書かれている文書(機関紙誌・図書)でも、相手に読んでもらわなくては、成果をあげることはできません。ましてや、相手の人がそれを受け取るだけで読まずに“積ん読”されているとしたら、功徳どころか、物の殺生にさえなってしまいます。“すばらしい宝石”であってもそれでは路傍の石と変わりありません。ですから、「文書布教」の功徳は「人智でははかりしれないほど大きなもの」と申しましたが、それは「読んでいただいてこそ」という条件がそこにつくわけです。 (昭和47年05月【速記録】) 先日、私は茨城と福島の二つの「明社大会」に出席しました。そのとき、大会委員長を引き受けてくださったふたりのかたとそれぞれお会いしたのですが、どちらの大会委員長も地元の新聞社の社長さんでした。これまでですと、こうしたマス・コミ関係のかたが私どもの「明社大会」の委員長として協力してくださる、といったことはあまりなかったのですが、おふたりの話によりますと、二、三年前から、地元の教会長さん、幹部さんを通じて本会の出版物を贈られていたそうです。それによって本会に対する理解を深め、この度の大会委員長も二つ返事で引き受けた、と言うのです。こういうことは、一、二回の話や説明を聞いたぐらいでは、とてもそういう心境になれるものではありません。それはたびたび届られた出版物を繰り返し読むことによって、そうした心境になれた──と、おふたりとも異口同音に語っておられましたが、まったく、そのとおりだと思うのです。私はふたりのお話を聞き、うれしく思うと同じに、やはりこれも地元の教会長さんを始め、幹部さん達の根気強い、ねばりのある「文書布教」の成果だと痛感したのであります。 (昭和47年05月【速記録】) 文書布教 三 私も、まだ霊友会の会員であったころ、機関紙を信者さん達に配布したものです。タブロイド版の新聞でしたが、それをただ届けるだけでなく、まず自分が目をとおして、「ここにいいことが書いてありすよ」とか、「ここのところはぜひお読みなさい」というように大事なところを教えてあげるのです。 これは非常にたいせつなことです。ただ、ばく然と届けただけでは、よく読まない人も出てくるでしょうし、どこをどうかみしめたらよいのか、わからない人もあるでしょう。どこをどのように読み、そのなかから何を汲み取って、どう実践するか、そこまで手をとってあげる慈悲の気持ちが幹部にはほしいと思うのです。 (昭和42年06月【佼成新聞】) ほんとうの布教は法座だけにあるのではありません。教学だけを学べば法が理解できるというものでもありません。法座も教学もたいせつですが、それに文書活動が加わり、相互に協力し一体となって活動を進めることによって、ほんとうの成果が期待できるものを考えます。法を説くことと機関紙誌やそのほかの文書を読み、その中から学ぶこととは表裏一体であることを忘れてはならないでしょう。出版活動は、布教活動に協力し、それを促進するためにあるわけですから、布教関係者と出版関係者の相互の緊密な連絡、協力は最もたいせつなことです。その意味で、出版活動の最先端にある出版会計(注・現文書布教部長)の使命は、きわめて大きく、重要なものです。支部長、主任などの幹部とともに布教の第一線にある、という自覚が望まれます。単に文書配布の責任者といった考えでなく、生きた布教を側面から推進する大きな使命を自覚して事に当たってほしいのです。機関紙誌を配布するにも、その内容を一般会員が充分にそしゃくできるよう、たえず、かみくだき、解説してあげる心づかいが必要です。熱心に法を求める人達の中でも、毎日、法座に出られるような人ばかりとはかぎりません。そういう人々にとって、文書は生きた布教師であり、指導者ともなります。少しでも法を理解しよう、と機関紙誌の配布されのを心待ちにしているかも知れません。そういう人々の求めに応じられるように、少なくとも文書を配布する人は、充分に法を認識し、法を説き、文書を生かすだけの力と慈悲心をもっていることが大事だと思います。このため、出版会計ばかりでなく、支部長、主任が相互に和を図り、一致協力する体制をつくってほしいと考えます。ほんとうの布教は、そこから出発するのです。 (昭和39年06月【佼成新聞】) 文書布教 四 入会してこられた人からよく聞くのは「立正佼成会の出版物を読んで、こういうすばらしい教団があることを初めて知った」という話です。私のところにはまた「印刷物を読んでほんとうに感激した。ぜひ入会させてほしい」といった手紙もたびたびまいります。 そういうことから考えますと、「人があまり熱心にすすめるものだから、気が進まないけれど」と言うようなことで入会された人は、いつしかまた抜けていってしまう一面を持っているのですが、出版物を読んで「立正佼成会はいい教えを説いている」と、自発的に入会してこられた人にはそれがまったくありません。何事があっても、教団の軌範にしっかりと沿って修行を続けるのは、そういう人達であります。 (昭和47年05月【求道】) 文書布教 五 およそ、物事を知ったり学んだりする方法には、「見る」「聞く」「読む」の三つがあります。読むと言うことになりますと、いつでも、どこででも、自分の知りたいことを、自由に学ぶことができるのです。三十分の時間があれば三十分だけ、一時間のヒマがあれば一時間だけ、好きなように読んでいいのですし、わからないところや、記憶したいところは、何度でも繰り返し、繰り返し読むことができます。 もっといいことは、読んでいるうちに心に強く感じ入ったことがあったら、そこでしばらく読むのを止め、その事柄についてアレコレと思いをめぐらしたり、深く考えてみたりすることができるのです。この思索ということは、精神的に成長するためにたいへんたいせつな頭の働きなのですが、講演・放送などを聴いている最中には、これができません。読書の際だけに許された特権だと言っていいでしょう。 テレビの普及によって、近ごろの人々は、単に「情報を知る」ことだけに満足している向きがあります。それも「見る」「聞く」という、どちらかと言えば受動的な、受け身の方法に頼りたがります。これでは「考える」という能動的な働きは育たず、世界でも最優秀と言われる日本人の頭脳もだんだんに衰えていくのではないかと心配されます。 こういうわけですから、せめて、本会の会員四百万人からでも、「読む」ことを大いに促進したいと思うのです。 (昭和47年07月【佼成】) 文書布教 六 小さな親切運動本部で出している雑誌に『小さな親切』というのがあります。この運動の提唱者であり推進者である茅誠司さんにお会いして以来、私はときどき、この雑誌を手にしますが、なかなかよいことが書いてあります。病気がちの隣人を世話した人のことや、電車の中でお年寄りの荷物を持ってあげた話、旅先に忘れたレインコートが無事に戻ってきてうれしかったということなど、小さな親切に向ける人々の努力や体験、または、それらをたたえながら紹介している文章が、短く、要領よく大勢の人達によってつづられているのです。それらはごく些細なことであり、あたりまえのことでもあります。しかし、読んでいるとほのぼのと心温まるものを感じますし、感銘させられることも少なくありません。私はこの『小さな親切』が菩薩道そのものであると思います。だれでもできること、だれでもしなければならないこと、しかし大勢の人がそれをしないでいる──そうしたことをみんなに呼びかけ、善行の輪を大きく広げていこうとする運動は「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」という七仏通戒偈の精神につながります。(中略)コミュニケーションという言葉は、もともとは、幾人かの人々が集まって「一つカマのめしをたべる」という意味であったそうです。とすると、コミュニケーションとは、別な人の耳や目にとどくだけでなく、独りの人間が他の人達と何かを共有して、共通の活動をすることであり、同時に、その人達の間の共通性を強化しようということになります。コミュニケーションを訳した「通信」の「通」の字にも、もともと「共同」という意味があったとされています。マスコミの典型である新聞は「作る側」と「読む側」があって、ニュースが一方通行するというようなあり方ではなく、このように本来は“みんなのもの”なのですから、編集者はできるだけ読者との一体感を持ち、読者はまた積極的に紙面に参加するという努力が必要なわけです。その意味で、佼成新聞が、月一回「読者のページ」を設けたり、毎号、ブロック版に、ひとことずつ読者が発言するコラムをつくっていることは非常によいことだと思います。私が佼成新聞を読むのは、主として会長室ですが、車のなかでも読みますし、家に持って帰って丹念に目をとおします。私の気持ちや願いが、どのように会員の皆さんに伝わっているか、ということと同時に、全国の教会や支部ではどのような活動をしているだろうか、支部長や幹部や、そしてまた会員のだれだれはどのような考え方をしているか、ご法をどのように受けとっているか、ということが佼成新聞を読むことによってわかります。ですから「布教随想」をはじめ、いろいろなコラムや支部長、幹部の発言は、他のおもな記事とともに、私もよく目をとおしています。吉川英治さんは、「自分以外は皆師」という謙虚な心で、生涯を送られましたが、その心が常に新しいものを作り、名作のかずかずを生んだのだと思います。 「立派な人の話なら聞こう」という姿勢ではいけません。乞食の話にも耳を傾け、そこから何かを吸収しようという心がけがたいせつなのです。佼成新聞に紹介される会員の体験や活動も、だれでもできるようなあたりまえのことが少なくありません。私が皆さんにお話しすることも、人間として踏み行なうべき当然のことばかりです。しかし、要はそのだれでもできることを毎日続けられるかどうかということにあります。卑近な例を引くならば、早起き一つにしてもそうです。朝早く起きることはだれにでもできますが、それを常に一貫して続け、きちんとご供養をし、そのすがすがしい気持ちで、一日を明るく過ごし「きょうも善いことをしたなあ」というあと味のよさで一日を終るということは、それほど簡単なことではありません。毎日を笑顔で過ごすこと、一日に一つ、何か善いことをすること、そうしたことも長く続けていくことによって、しっかりと身につき、いつのまにかその修行によって人格的にも向上してくるのです。精進とは「たゆみなく努力すること」で、繰り返し繰り返し行なって、悔いのない時間を過ごしていくことがたいせつです。きょうも一日楽しく送ることができた。有り難かった。あすも善いことをさせてもらおう───こうしたことの繰り返しが磐石の人生観を築く土台になるのです。前の晩、寝るときのしめくくりがよくできていないと翌日の出発もうまくいきません。朝起きるという、まことにささいな一事も、このように大きなことにつながっています。 (昭和42年06月【佼成新聞】)...
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...国際布教 一 「海外布教」ということがあります。しかし、その実践は、あくまでも本質的かつ漸進的でなければなりません。今の段階においては「相互理解」によってその基礎を固めることを本位とすべきでしょう。すなわち、「世界のあらゆる宗教の個性を認めながら、その奥にある共通の本義を理解する一方、素直な心でわれわれの信じている宗教の本義を広く発表し、またその実践を通じて世界の理解と共感を呼ぶ」ことに心がけるべきです。 (昭和39年01月【躍進】) 国際布教 二 去る(注・昭和43年)一月に国立京都国際会館で行なわれた《平和についての日米諸宗教者京都会議》において、私は冒頭の挨拶をしたわけでありますが、そのなかで私は、「人類平和という問題が今ほど痛切にせまってきている時代はなく、ヒューマン・ファミリー(人間家族)という言葉が現実になりつつある時代でもあるわけです」と述べました。〈人間家族〉というのは、全人類がひとつの家族のようにありたいという悲願をこめた言葉であります。 その席上、神道のほうの高原美忠さんは、〈八紘一宇〉という言葉の意味が誤解されていることを説かれ、「一宇というのは一つの家という意味であり、八紘一宇〈世の中が一軒の家のなかのように仲よくしていく理想〉を述べられたものである」と説明しておられました。 また、メソジスト派の僧正であり、先に行なわれたニューデリーの国際平和会議議長を務められたジョン・ウェスレー・ロード博士は、同会議の開会にあたってインド大統領フセイン博士のなされた演説の要旨を話されましたが、そのなかに次のような言葉がありました。 「この世紀の大きなチャレンジは、科学と宗教の進歩を利用して、世界をいかにひとつのものにするかにかかっている。われわれは、躊躇することなく世界連邦をめざし、世界の法律・世界連邦裁判所・世界警察により、各国の自治を尊重しつつ、同時に暴力と紛争を防ぐような道に進まねばならない」 その他の出席者の言説をも総合してみますと、ほんとうの宗教者や真に心のある人は、例外なく〈すべては一つ〉という理念を持ち、それを願いとされていることがわかるのであります。実際には、これからの世界は、この境地をめざして進まないかぎり、絶対に救われようがないのです。 こういう観点から見るとき、われわれ法華経に帰依する者は、これからの世界を建設し、これからの人類を救う、選ばれたる戦士であることがはっきりするのであります。 われわれの根本理念は、〈すべては一つ〉ということであります。われわれのビジョンの最大なるものは、〈世界の人類を一つの人間家族とする〉ことであります。 すべての現代人の心の隅には、〈一つの世界〉というものに対する希求が強く潜んでいるのです。見解の相違によって分裂し、利害の背反によって対立し、それらのために生ずる人間同士の抗争はついに果てることはないのではあるまいかという絶望感を、多くの人が懐いているのも事実です。 しかし、その絶望感の奥に、まだまだ一筋の希望は残っているのです。いつかはみんなが和合できる、いつかは仲のよい〈人類家族〉の理想世界がつくられる、そういったかすかな燈が消え去ってはいないのです。そのかすかな燈を、太陽のごとく燃えあがらせるのが、われわれ法華経行者の使命であります。〈もともと人間は一つの大いなるいのちに生かされているのだ〉という真理を示し、それゆえに〈その一つの大いなるいのちに帰命することによってみんなが一つ心になろうではないか〉というビジョンをかかげ、人類の進むべき正しい道をすべての人の心に確立するのが、われわれの務めなのであります。 (昭和43年04月【躍進】) お釈迦さまのような大宗教家は、二千五百年も前から、さまざまな教典の中で理想社会のビジョンを、はっきりと示しておられるのです。 たとえば、法華経の譬喩品の舎利弗への授記のお言葉の中で、「其の土平正にして清浄厳飾に、安穏豊楽にして天・人熾盛ならん。瑠璃を地となして、八つの交道あり。黄金を縄と為して以て其の側を界い、其の傍に各七室の行樹あって、常に華果あらん」とあります。 また、授記品においては、須菩提が仏となるべき世界の人民のありさまを「諸の菩薩多く、皆悉く利根にして、不退の輪と転ぜん。彼の国は常に、菩薩を以て荘厳せん。諸の声聞衆、称数すべからず」、「諸天・人民、数恒沙の如くにして、皆共に合掌し、仏語を聴受せん」とあります。 五百弟子受記品においては、富楼那が仏となるべき国土の人民を「其の国の衆生は常に二食を以てせん。一には法喜食、二には善悦食なり」と予言されており、そして、如来寿量品では、「衆生劫尽きて、大火に焼かるると見る時も、我が此の土は安穏にして、天人常に充満せり。園林諸の堂閣、種々の宝をもって荘厳し、宝樹花果多くして、衆生の遊楽する所なり」とお示しくださっておられるのです。 私は、こうした人間の全的肯定・人間完成必定の教えである法華経を真底から信じていますので、常にこのような真・善・美・聖の具足した世界をビジョンとして描き、その実現を確信し続けているのです。ですから、時にはあまりにも楽天的過ぎるとか、現実離れした夢想家だ、などという批判を受けることもあります。しかし、私は、お釈迦さまのお弟子であるかぎり、法華経の行者であるかぎり、どこまでもこのような理想を追い、その現実化に努力していくのが仏教徒であると信じますし、私は、それを貫きとおしていく覚悟なのです。 私は昨年の暮れ(注・昭和52年)、シンガポールで開かれた「アジア宗教者平和会議継続委員会」に出席させてもらいましたが、その会議の最終日に、こんな話をさせていただきました。 「今、ここにアジアの宗教者が一堂に参集して、互いに心を開き合って平和のために献身するおのおのの役割を自覚され、真剣に努力されておられる姿は、神道で言うならば、やおよろずの神が高天が原に集まった姿、仏教的に言うならば、天人常充満の極楽の姿、キリスト教的に言うならば天使の舞う天国の姿、と言ってもよろしいでしょう。仏教で言う極楽とは一切の繋縛から離れた世界のことでありますが、アジアの平和、人類の平和のために献身される皆さんの姿が、私には天人の姿に見えるのです」 現代の人達が、とかく、あれも困った、これも困ったと、悪い面だけ、困ったことばかりをあげつらうのですが、それがとらわれた心であり、そうしたとらわれた心に極楽はないのです。(中略) こうした理想国・極楽浄土の姿は、現代人にとっては夢物語とした思えないかもしれません。しかし私は、これまで繰り返し繰り返し、それを申し上げ続けてきたのです。(中略)今、私はどうあるべきか”その決意一つで、こういう世界は必ず実現するのです。理想は、完全にそこへ到達したときに初めて実現するものではなく、そこへ向かって踏み出す第一歩から現実はすでに始まっているものなのです。 その出発点で、一番たいせつなことは、「仏さまが約束されていることは必ず可能なのだ、それを成し遂げる力を自分達ひとりびとりが仏さまから与えられてこの世に生まれてきたのだ」と信じ切ることです。それがほんとうに信じ切れれば、不思議な力がわいてくるのです。不思議な助けが現われるのです。ひとりびとりが信じ切って、一歩を踏み出したら、それはどれほど大きな力となることでしょう。 われわれが日々の信仰活動に励み、また「明るい社会づくり運動」や「世界宗教者平和会議」などに精を出すのも、すべてその第一歩なのです。光明と希望に満ちた第一歩です。 (昭和53年01月【躍進】) 国際布教 三 世界中の人々の心がバラバラになり、利己心と利己心をむき出しに、衝突させている現状を救うためには、大衆の心の指導者である宗教者のすべてが、まず、虚心担懐になって自分達の手を握り合わねばなりません。そして、世界はただ一つと言うことを、実践のうえにおいて、そのヒナ型を打ち出して見せなければなりません。 そうしてこそ、初めて世界の人々も納得し、心を動かしてくれるのであります。 このようにして、ひからびきった現代人の心に人間らしい潤いを回復し、譲り合い、許し合いの温かい精神を取り戻させることが、とりもなおさず神の愛・仏の慈悲を現世に実現するものであると信じます。それ以外に宗教の使命というものがどこにありましょうか。そして、宗教以外にそういう機能を持つものがどこにありましょう。 (昭和45年06月【佼成】) 国際布教 四 人間関係の出発点は、何よりもまず出会いということであります。出会いがあってこそ、語り合いも可能です。語り合ってこそ、お互いの理解も生まれます。理解し合ってこそ、信頼も生じ、愛情もわきます。そして、相互に信頼し、愛情によって結ばれるようになれば、そこに、おのずから強い協力の態勢ができ上がるのであります。 この出会い↓語り合い↓理解↓信頼↓愛情↓協力という人間関係の深められる順序を、われわれはそのとおり踏んだわけであって、それはたいへん迂遠のように見えますけれども、正しい順序であるだけに、必ず、将来の大きな成果の基礎を固めたものであると、私は確信するのであります。 (昭和45年12月【佼成】) 先日(注・昭和45年)、永平寺の副貫首で禅の最高峰のひとりであられる山田霊林老師にお目にかかる機会がありました。アメリカで五年間、布教された経験を持っておられ、老師を慕うアメリカ人もたくさんいると聞いていましたので、たまたま海外布教の話になったとき、「先生は英語も達者でいらっしゃいますから……」と申し上げました。すると、「言葉の問題ではありません。人を導くのは、何よりも自分の修行ですよ」とキッパリおっしゃったのです。(中略)まことにそのとおりでありまして、信仰というものは学問ではありません。教義を学び理解することもたいせつではありますが、それはまだ心に仏法の種子をまいたというだけの段階です。それから先のさまざまな修行がなければ、その種子は育たないのです。 (昭和45年04月【佼成】) 国際布教 五 日本は、これまで世界各国から富をも、文化をも吸い取るばかりで、相手に与えることをしませんでした。これからは心機一転して、施す立ち場にならなければなりません。何を施すのか。相手国の事情に応じて、あるいは物資を、あるいは資金を、あるいは技術をと、目に見える援助をすることも必要ですけれども、何よりたいせつな施しは法施ではければなりません。その法施の中でも最大のものは、全人類に真の幸福と平和をもたらす仏教の広宣流布でなければならないと確信するのであります。 そして、その聖なる任務を双肩に担っているのが、私ども、立正佼成会の会員にほかならないのです。 (昭和48年03月【佼成】) 従来は、宗教の行なう援助と申しますと、とかくチャリティ(慈善)といった、物だけの恵みとか、戦火の後始末が中心でしたが、今後は独立自尊の精神を植えつけ、農業開発に力を入れなければならないと思います。 見聞するところでは、援助物資と申しましても、中にはきわめて売名的なものもありますし、ただ物資を送りつけるだけで、現地の人々が真に望んでいるものが送られていなかったり、手渡されるべき、ほんとうに困っている人達には品物が届かず、それが横流しされている場合もあります。せっかく、日本から送られながら、実際には使えないために、雨ざらしになっている大量のカヤの山などもあると聞きます。 一九七〇年に、私がベトナムを訪れたときには、そういう片手落ちのことがあってはならないというので、南ベトナム解放軍の支配下にあるという地域まで入り込み、現地の農民に直接、物資を配った経験もあります。携行しました物資は、ごく些少なものではありましたが、ほんとうに困っている人達に直接、手渡すという、心の触れ合いと励ましこそがたいせつなのであって、物資の数量ではないことを、如実に体験しております。 とにかく、立正佼成会といたしましても、ここ当分の間は、従来どおり援助物資を送りはいたしますが、それにとどまらず、有為の人材を養成し、自立を助ける必要性から、カンボジアの医師ならびに看護婦を佼成病院および看護学校に招いて、面倒をみる手はずがすでに整っております。さらに、工業技術習得希望者を、立正佼成会の会員宅に数年の間、お世話いただいて、養成することも計画いたしております。 また、立正佼成会青年部の熱意ある青年を、ベトナム、カンボジアに立正佼成会が確保している各地へ派遣し、模範農場を建設してもらいたいとも考えております。これらの一連の計画のためには、開発途上国の困窮民衆救済と文化交流の促進を主な目的とする「開発途上国協力委員会」を本会のなかに設け、積極的に取り組んでおります。 (昭和47年05月【平和への道】) 化他行のない仏教は仏教ではありません。自分だけ救われればいいというような信仰は、エゴイスティックな信仰であり、きわめて低次元のものです。七月十二日付(注・昭和49年)の佼成新聞の〈私の信仰観〉という欄に中村元先生が「ラーマクリシュナが『宗教は、教義のうちにあるのではなく、他人への奉仕のうちにある』と言ったのは明言である。その究極の真理を、言葉で説いたのが、普遍宗教または世界宗教の開祖と呼ばれる人である」と書いておられました。(中略) なぜ、他人への奉仕が不可欠であるかと言いますと、他人のために尽くせば、第一に、自分の心が平和になります。明るくなります。と同時に、その奉仕を受けた人にも「有り難い」という温かい感情が胸にわいてきます。こうした美しい感情のやりとりが、お互いの人格を高める源泉となるのです。そして、初めは一対一であっても、それが一対三となり、十となり、それぞれの人が他人への親切行を行なうことによって十掛ける十となり、百掛ける百となるというぐあいに、奉仕と感謝の輪が広がっていきますと、いわゆる平和境が、だんだんと現実のものになってくるわけです。 (昭和49年09月【躍進】) 国際布教 六 一番たいせつなことは、すべての人の心に、人間の真の豊かさとは何か、という真の価値観を学びとってもらうことなのです。かけがえのない地球を生かしていく根本精神が示されている仏教の原理をつぎ込んでいくことなのです。 恐ろしい火宅で遊びほうけている子ども達を救い出すために、仏さまが羊車や鹿車や牛車を与えられたのも、尽きるところは一仏乗の精神をすべての人の心につき込むためでした。その一大運動を展開しなくては、私達のかけがえのない地球は救われません。そして、そのためには、だれかが、苦をもって苦を捨てようとばかりしている物欲中心の誤った価値観から離れ、自分さえ豊かになればいい、という考え方を捨てて、無私の奉仕の精神に徹して立ち上がらなくてはなりません。 とりわけ信仰を持った若い青年諸君こそ、地球を救い、人類を救う、この無私の奉仕に取り組んでいただきたいものです。 (昭和47年08月【躍進】) 今日の危機は“真実の仏法”によってこそ救われるのだという思いを深くするのです。それかあらぬか、世界の心ある人々は、渇した者が水を求めるように仏教を求めているのです。アメリカ・西ドイツ・韓国などから、私の著書を翻訳・出版したいという申し出がぞくぞくと来ていることからも、そうした渇望の一端をうかがい知ることができましょう。 (昭和48年03月【佼成】) 国際布教 七 お釈迦さまは、四十余年の布教生活の最終段階において、(中略)対立的存在を認めない、したがって(中略)闘いもない、真実最高の救われ方をお説きになったのです。それは「この宇宙は仏の世界だ。あなたも仏、隣の人も仏、みんなが仏。山川草木もみな仏。仏以外に何物もない」という悟りです。これを一仏乗の教えと言うのです。だれしもこの教えを聞いたら、一瞬、キョトンとしてしまうでしょう。「そんなバカな……」と思うでしょう。なぜならば、仏と聞けば、すぐお釈迦さまを頭に思い浮かべるからです。あらゆる徳をそなえた完全無欠の人間としてのお釈迦さまの像を心に描くので、「あのお方と自分が同じであるはずがない。ましてや山川草木も同じ仏だなんて……」ということになってしまうのです。 そうではなく、この場合の仏というのは宇宙の永遠のいのちということなのです。しかし、当時の一般民衆にとっては〈宇宙の永遠のいのち〉などという抽象的な言葉を使ってもおそらくチンプンカンプンだったのでしょう。そこで、ずいぶんご苦心なさって、「この私の本体」という表現をされたものと推察されます。そして、「目には見えぬ根源の本体においては、私もみんなと同じなんだよ」とお説きになったのです。 それでも、大部分の人はやはりこの〈仏〉という文字にこだわって、その奥の真実を悟らないままに、今日に至りました。今日でもまだ〈仏〉という文字にひっかかっている人がたくさんいます。しかし、その仏とは〈宇宙の永遠のいのち〉にほかならないのだと説明しますと、たいてい即座に理解してもらえるようです。 私は、「世界宗教者平和会議」などの関係で世界中の代表的宗教者と膝をつき合わせて会談する機会が頻繁にありますが、この一仏乗について話をしますと、さすがに、そんな人達はたちまち目を輝かせて、「ああ、それこそ人類を救う究極の教えだ」と感嘆されるのです。われわれが信奉している法華経は、この一仏乗の教えにほかなりません。それゆえ、私は「法華経こそ、国家や民族の枠を超えた世界宗教である」と確信しているのです。その確信が近来いよいよ深くなるのを覚えるのです。 (昭和51年01月【躍進】) お釈迦さまは、二千五百年も前に、全人類が真の幸せと、平和を得るための設計を法華経によって示されました。しかし、どうしてもほんとうの智慧をつかむことのできなかった人類は、長いあいだ無数の試行錯誤を繰り返し、苦悩の時代を過ごしてきました。そして今日に至り、人間総ぐるみの存亡の危機にさしかかることによって、ようやく真の目覚めの兆しを見せてきたのです。 今こそ時期であります。お釈迦さまの青写真により、世界平和の大建築を現実に打ち建てるべきときが来つつあるのです。そして、その急先鋒となるべき者がわれわれ法華経の行者であることは言うまでもありません。どうか右に述べた各条をジックリとかみしめられたうえで、新しい仏道修行への一歩を力強く踏み出していただきたいのです。二十世紀に生きた人間としての、真の役割を果たすために……。歴史に残る人類文化の大記念塔を打ち建てるために……。 (昭和45年07月【佼成】)...
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...儀式の意義 一 宗教法人法によりますと、宗教団体は、儀式・教義・布教の三つの条件を備えていなくてはならないことになっております。 (昭和39年04月【佼成】) 宗教においては、儀式というものが大きな役割を演じております。これは既成宗教、新宗教を問わず、荘厳な宗教的な雰囲気を醸成することにより、より精神的な面を高めることができるのであります。ある場合には、信仰の形式である儀式が内容を規制するほどの影響を与える場合もあると言い得ると思うのであります。 (昭和33年06月【佼成】) 儀式の意義 二 大聖道には、仏さまがいつもましまして、皆さまのひとりびとりに、人間の生活のルールを教えてくださっています。近代的ないろいろな装置が設けられているのも仏さまの荘厳なお住まいを、かたどらせていただいたためです。夏は冷房がきいて涼しく、冬にはまた暖房が入って体を温めることができるのですから、ここは極楽そのままの理想的な場です。しかもこの中には、教えが満ち満ちています。だから一度でもお参りに出かけて、仏さまの感化を受けますと、家に帰ったとき、皆さんはすでに如来さまになっていらっしゃるのです。そこで初めて、仏さまのお住まいである大聖堂の名に恥じない参拝者になれるのであります。 (昭和39年04月【速記録】) 「信は荘厳より起こる」と昔から言いますように、世界中どこの国の神社仏閣も、その時代、時代の建築の粋を尽くしてそれは立派なものが建てられています。そこか汚げな道場に出かけましても信心する気には、なかなかなれないものです。やはり荘厳さがあってこそ、信心が起こってくるのです。 (昭和51年06月【求道】) 立派な大聖道ができ、久遠本仏のご尊像をご安置申し上げたことによって、ここを訪れるかたがたの多くは、「信は荘厳より起こる」という言葉どおり、感激と言いますか、胸を打たれると言いましょうか、比較的に楽な教化ができると思います。 (昭和39年04月【佼成】) 精進を続けてこられた人達がこんなにもたくさん、この大聖道の中に満ち満ちていらっしゃいますと、信仰の霊気とでも言いましょうか、ここの漂っているのは何者をもこれを冒すことのできないすばらしいエネルギーであります。 (昭和42年09月【速記録】) 儀式の意義 三 人間は自然法に随順して欲望をコントロールしなければならぬ、という教えは、もはや反論の余地すらない大倫理であることが、(中略)ようやく人々にわかってきました。いや、倫理と言うよりは、もっと直接的な、人類が生き残る道であるということが身にしみてわかってきたのです。 ところで、そのコントロールの仕方を具体的に教えられたのが、ほかならぬ八正道であります。コントロールと言っても、決して消極的な抑制ではなく、人類の正しい生き方を軌道に乗せて、絶対幸福(成仏)への道を前進させる積極的な教えなのであります。ですから、これを日々の生活の上に実行していくことこそ、現代人の仏道修行の本筋であると、私は信じます。 もう一つ大事なことは、仏さまの悟りを〈無意識界〉にまでもしみ込ませて身につける修行を、決して怠ってはなりません。朝夕の礼拝・唱題・読経などがそれです。これを欠いては、宗教の宗教たるゆえんがなくなります。なぜならば、〈無意識界〉までが清まらなければ、人間は、決して苦からは解放されないからです。 (昭和45年12月【躍進】) 儀式の意義 四 「おそれる」という言葉は、おそろしいものに対してこわがるという感じを含んでおります。しかし「畏れる」ということと「恐れる」ということとは根本的に違うのです。前者の「畏れる」という言葉は神仏、すなわち宇宙の大生命であり、宇宙の真理である根本道理をうやまい、おそれるということであります。この見えざるものを畏れる心こそ、悪を行なおうとする心を抑えるものでありましょう。そしてこの見えざるものを畏れ、あがめる心をつくるものこそ宗教よりほかにないのです。神を拝み、仏を拝むということも、つまりこの「畏れる」──真理をあがめ、それに帰依し、真理に従う気持ちの現われにほかなりません。すべての人が、この心を持ってこそ美しい社会が生まれるのです。 (昭和42年11月【佼成新聞】) この間、ラジオを聞いていて、ドイツの大哲学者ヘーゲルが「根源をつきつめ、驚きを感ずる人間にならねばならぬ」という意味のことを言っているのを聞いてウーンと唸ってしまいました。お釈迦さまが菩提樹下で悟りを開かれたとき、「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生ことごとく皆、如来の智慧・徳相を具有す」と思わずつぶやかれたと申しますが、お釈迦さまは、天地万有の根源が宇宙の大生命(仏性)であることを、この瞬間に悟られ、それが仏眼にアリアリと写し出されたので、「不思議だ、不思議だ」と驚かれたのです。 この驚きは、喜びに満ちた驚きです。物の根源をつきつめ、実相を悟ったときにおぼえる歓喜の驚きです。ヘーゲルが言った驚きも、この歓喜の驚きに違いありません。 アインシュタイン博士の言葉の「神秘に対して驚きと畏れを懐く」というのは、いわば入口です。だからと言って、決して低いのではありません。入口がなければ奥へは到達できませんから、これも実にたいせつな、尊いことなのです。拝む心もそれと同じで、神秘なものに驚きと畏れをおぼえて、われ知らず、それを拝む……これが入口です。 それからだんだん奥へ進みますと、まだはっきりとはわかりませんけれども、自分を生かしてくださっている大いなる存在を心のどこかに感じとるようになり、「有り難い」という感動が起こります。 西行法師の「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」というような気持ちです。そしてただ有り難いという純粋な感動を持って、その見えざるものに手を合わせるのです。ここまで来れば、拝む心も相当に深まっていると言えましょう。 そして、ついに到達する最奥の須弥壇、それが実相の悟りであり、根源のいのちの発見です。ここまで来ますと、言い知れない大歓喜とともに、その根源のいのちを拝まずにはいられなくなります。それがほんとうの拝む心であり、拝む心の極致だと思います。 (昭和48年02月【躍進】) どなたでも新年を迎えると“よし、今年こそ頑張るぞ”という気持ちを懐かれることと思います。ところで大小の差はあれ、祈りの対象となるものは一つの理想であると言えましょう。その理想実現のために座して祈っているだけではなんにもなりません。祈りとは正しい行動力を伴った現実への積極的な働きかけの中においてこそなされるべきものなのであります。 (昭和40年01月【佼成新聞】) 儀式の意義 五 私は、去る(注・昭和48年)十月二日に執り行なわれました伊勢神宮式年遷宮祭に、とくに招かれて参列させていただきました。午後六時を過ぎると、参道はすっかり夜の帳に包まれます。参道の二か所に、かがり火が赤々と燃えているばかりです。午後八時、いよいよご神体が旧正殿から新正殿へと遷御される式典が始まりますと、そのかがり火も消され、太古のままの浄闇そのものの世界となります。私は、闇の中を粛々と進む行列の後尾に従いながら、深い深い感銘を覚えたのです。 小さな理屈などはどこかへケシ飛んでしまい、民族の大祖をしのび敬う気持ちだけが惻々と胸に迫ってくるのでした。そして、千三百年の昔からこのような祭典が連綿と続いているとは、なんというすばらしいことかと、感に堪えなかったのでありました。 翌三日、新正殿で執り行なわれました奉幣の儀にも参列しましたが、その帰途、引きも切らず詰めかける一般参拝者の大群を眺めながら、ふと「日本人はまだ大丈夫だなあ」という気持ちが胸に突き上げてきました。なぜ大丈夫と感じたのか……と今、その思いを分析してみますと、つまりは、日本人にはまだ〈敬う心〉が大きく残っているからだ……ということだと思います。 (昭和48年12月【佼成】)...
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...立正佼成会のめざすもの 一 立正佼成会発足の当初は、特別に施設や教団をつくるということではありませんでした。ただ普通の店のすまいの中に、本部を置いてささやかに発足したのであります。ところが日に月に、年々に大きくなり、現在のようになったわけです。 最近は、世界中の宗教研究家がおいでになります。いろいろとお話を聞いていますと、いずれの宗教も、やはり初めは、そうした状態でできるものだそうです。 先月も、新しい宗教を研究して世界中を回っている、アメリカのマーカス・バッハ博士(宗教学者)がおいでになりましたが、そのかたの話でも、私どもが歩んできた道と、過去の宗教家が歩んだ道は変わりなく、どこの宗教も始まりは同じであるということでした。 (昭和34年03月【速記録】) 立正佼成会のめざすもの 二 私は信者でない、いろいろの人にお会いする機会も多いのですが、そのたびごとに「立正佼成会は無計画の会でございます」と、無躾に申し上げているのであります。それはどういうことかと申しますと、立正佼成会は発足以来、会をどういうことにするとかしないとか、自分たちの才覚で物ごとをきめたことがないのでありまして、いっさいの才覚を抜きにし、すべてを神さまのご指導のままに、その自然の歩みのままに、ただ一生懸命に真心をもってご法に精進させていただくということのほかには何もなかったのであります。(中略)本会ではいっさいのことは計画してやろうと考えずに、ただ赴くままにみなさんと共に真心をもって仏さまのみ教えを布教させていただく──こういうことであります。(中略) このように私どもはなんの計画も方針もないのですが、ひたすらにお釈迦さまの遺されたところの、このご法を正しくお守りさせていただき、仏さまのみ教えのままに一歩一歩進ませていただいているのであります。 立正佼成会は、このようにして一年一年と発展いたしてまいったのでございます。 (昭和29年05月【佼成】) 立正佼成会のめざすもの 三 私たちは凡夫的な考え方を、根本的に、仏さまの考え方にだんだん変えていかなければならないのですが、当初はそこまでの考えはなく、ただ「ありがたい、ありがたい」という気持ちでいっぱいでした。 法華経というのはありがたいものである。先祖のご供養はありがたいことである。仏教の教えというのは、どこから考えてみても、どう味わってみても、まことに味わいのあるものである。そういうことで、これは一生懸命行じさせてもらわなければならない、という考えで始めたのです。 そして、だんだん味わってみればみるほど、行じてみればみるほど、そのつど、いろいろな形で神さまのご降臨があり、いろいろのご指導があったのです。私自身は凡夫で何もわからないのですが、神さまのほうから、そういうふうにお導きがあり、立正佼成会をつくることになったのです。仏さまのご指導によって、いろいろ修行をさせていただいたわけです。 立正佼成会の創立から約十年ぐらいというものは、ひじょうに不思議なことばかりでした。つぎからつぎへと神様からご指導の言葉があって、事が運ばれたのです。それを一つ一つ吟味しますと、ことごとく適切なご指導で、如実にあてはまることばかりでした。 そして私たちの人生のさまざまな悩みが、仏さまの教えに照らして考えたとき、どういうものであるかということに、心をこらし、一生懸命に修行したわけでございます。 (昭和34年03月【速記録】) 立正佼成会のめざすもの 四 私どもの立正佼成会が出発した意義は何であったか。これまでもいろいろの宗教団体があるのに、なぜ立正佼成会ができなくてはならなかったのか。神さまがどうしてもそういう会をつくらせようとなさった、その神さまの意図は何であったのか。そうしたことを私どもが、かえりみることもたいせつです。 宗教はたくさんあります。法華経だけを考えてみましても、まずお釈迦さまがお説きになって、竜樹菩薩とか、この経典を漢訳した鳩摩羅什とか、天台宗を創立した智顗(天台大師)とか、この天台宗を弘めた湛然(妙楽大師)とか、そういうかたがたが年代をおいて世の中にお生まれになり、この法華経につぎつぎと帰依して法門をお伝えになったのです。 日本では伝教大師、さらに日蓮聖人というように伝えられております。日蓮聖人がお出ましになって初めて、とくに法華経に関心が深まってきたものです。 しかし千四百年前、日本に仏教が入ってきたとき、聖徳太子がまっ先にとり入れられたのも法華経でした。そして太子は、在家の男性の心がけとして大切な維摩経、勝鬘夫人を題材とした勝鬘経、この三つの経典を、日本人にわかるように解釈して、注釈書(『三経義疏』)をお書きになっています。これが日本文化の一番の根本となったと申し上げても言い過ぎではないと思います。 日本という国は、仏教によって文化が大きく発展してきた国です。仏教文化を取り去ってしまったら、日本の文化はなくなってしまうと申し上げてもいいほどです。これはみなさんも十分にご存じのところでありましょう。その根本となったのが法華経です。 立正佼成会ができなくても、ずっと昔から法華経の教団がたくさんあるのに、あえて新たに立正佼成会を創立せよ、という神さまのお告げはいったいなぜなのか。神さまは何を考えていなさるのだろうという疑問がありました。私はただ神さまの命ずるままに、素直に会を創立したものの、私自身にも合点がいかない気持ちでした。 (昭和42年03月【速記録】) 立正佼成会のめざすもの 五 世界の宗教家たちが、宗教のあり方を、だんだん研究していく中で、日本の宗教のあり方を注目するようになりました。まずキリスト教によって、世界中が本当に円満になる道をさぐってみたが、どうもバイブルには無理なところがある。矛盾するところがあって、どうもうまくいかない。 そこで、どこかに救いはないかとさぐった結果、仏法に行きつく。仏法は、つまるところは大乗仏教の理論になる。それをたずねようとして、順々に道をたどると、大乗仏教が完全に生きている国は日本だけしかない。世界中に日本だけなのです。 そこで日本にやってきて、その大乗仏教の精神を精神として、自分たちの生活の要諦として、大乗仏教を実践している教団はどこかということになる。そのような教団は立正佼成会しかありません。 そういうことになりますと、立正佼成会が根本になって、世界万国に大乗仏教の精神、法華経の精神が弘まることが明らかになってくると思います。このことは私が考えるより、みなさんで考えてもらわなければなりません。無理に考えろといっても仕方がありませんが、これからだんだん勉強していただけば、おのずから明らかになってくると確信いたしております。 このように、立正佼成会が生まれた意義はきわめて大きなものがあります。それは人類に大きな福音をもたらした、と私は思っております。 (昭和36年05月【速記録】) 創立このかた、今秋(昭和四十五年)の世界宗教者平和会議までの歩みを振り返って、今さらのように、深いご神示の意味と、立正佼成会に課せられた使命の重大さを、ひしひしと感ぜずにはおられません。また、たびたびの外国旅行と外国の宗教者との対話を通じて、西洋思想、なかんずくキリスト教の行きづまり、それを救うものとしての彼らの仏教への期待の大きさを知り、私たちの責務の重大さを痛感しております。 まさに仏教は世界を救う力をもつものであり、立正佼成会の教えは真正の仏教を継ぎ、世界宗教たりうるものであるという誇り──うぬぼれではなく、その自覚をもっていただきたいと思います。 (昭和45年03月【求道】) 一つ申し上げておきたいことは、立正佼成会はたんに霊友会から分離した教団だというような、単純なとらえ方ではいけないということです。今日の私があるのは恩師、新井助信先生のお導きによるものです。法華経に下種結縁をいただいたのは霊友会のおかげであります。 しかし、当時の霊友会はたんに題目を唱え、天照皇大神宮を拝むだけであって、新井先生から教えられた法門に照らしてみても、教相に合わず、肝心の菩薩行もない状態であったのです。 今も私に忘れられない新井先生の言葉があります。「私は庭野さんに法華経の真実の意味をすべて教えた。それに照らして今の霊友会を見たときに、あなたが疑問を持つということは当然であろう。私はあなたに本当のことを教えたのだから、私はあなたが脱会して新しく会を設立する気持ちを持ったとしても、とめるわけにはいかない」ということでした。 けっして個人的な感情で霊友会をやめて立正佼成会を創立したのではなく、ただひたすらに菩薩道を行ずる教団でなければならないという熱情からであった、ということを知っていただきたいのです。 したがって、きわめて素朴ではありますが、この菩薩道の実践こそが、第一念であり、それこそが、創立のエネルギーでもあったのです。それを忘れ、それを捨ててしまって、立正佼成会を存続しなければならない意義は、はたしてどこにあるといえましょうか。 (昭和45年03月【求道】) 立正佼成会のめざすもの 六 私は「創立精神に帰れ」ということを会員のみなさんに呼びかけます。ところが、その本当の意義を理解せず、行法すべてを挙げて草創期に帰ることであるかのように思い違いする人もあるようですので、そこのところをハッキリさせておきたいと思います。 昭和十三年にわずか三十人ばかりで発足し、会員が増えたといっても百の単位で数える程度だったころの、それも病苦・貧苦から救われたいという目前の利益を願っての入会者がほとんどだった時代へ、そっくりそのまま帰れと言ってみても、できるはずはありませんし、よしんばできたとしても、一面において大きな逆行となることはまぬがれえません。ですから、当時の信行の中からその核心となる精神をしっかりととらえ直し、噛みしめ、それを現在の行法の中に生かしていくことが肝心なのです。それこそが、創立の精神に帰ることであると信じます。そこで、そうした問題をつっこんで考えてみたいと思います。 わたしがこの会を創立した目的は、ただ一つ「人を救ってあげたい」ということでした。今もってそれは変わりはありません。その救いの「深さ」と「広さ」が大きく増しただけのことで、根本精神にはなんらの変化もないのです。では、救いとはいったい何なのでしょうか。せんじつめれば、その人の心に安らぎを与え、生きる希望を持たせてあげることである。とわたしは信じています。したがって、救いの形も、方法も、人により、場合によって千差万別であることは当然です。草創期においては、入会者の願いが「病苦貧苦から救われたい」というきわめて現実的なものであったために、救いの形もとりあえずはそれに相応した方便を用いたわけです。 (昭和51年03月【佼成】) 私が立正佼成会を創立したのは、現実に人を救い、世を立て直そうという熱意のゆえでありました。しかも、本当に人を救い世を建て直すためには、法華経にこめられている真の仏教精神をひろめるほかにはないという確信を得たからでありました。(中略)現実に人を救わないのでは宗教として無価値です。どんなりっぱな教義も人を救わないかぎり、文字と頭と口とのあいだを堂々めぐりをする空論にすぎません。また逆に、現実に人を救っても、それがほんの一時の現象的な救いにとどまるならば、あたかも穴のあいたバケツで水をくむように、救いと迷いのイタチごっこを繰り返すばかりで、世の中は永久に浄化されません。 宗教というものは、あくまでも真理によって人びとの精神に覚醒をあたえなければならぬものであります。真理の鐘を鳴らし、法の鼓をうって、人びとの目を覚まさせなければならないものであります。それこそが正しい救いであり、根本的な救いなのであります。 (昭和43年01月【躍進】) 私たちはけっして初めから僧侶の子としてこの世に生まれてきたわけではなく、お寺で得度したわけでもありません。凡夫として在家に生を受け、ついこの間まで、怒り、泣き、欲にとらわれていた人間だったものが、今まさに忽然として、法華経流布の僧伽の幹部として存在している宿命というか、因縁に深く認識しなければなりません。その深い法縁と使命を、喜びと自覚を持って認識しうるかどうかが、真の幹部たりうるかどうかの分かれ目である、と私は思います。 したがって立正佼成会の幹部たる者は、すべからく創立の精神と神示による指導を、しっかりと腹に納めていただくことがまず第一です。そして「我が如く等しくして異ることなからしめん」(法華経・方便品第二)と経文にあるように、友情をもって「凡夫の悩みをそのままにはしておけない」という気持ちで、慈悲行を実践していただきたいのです。しかもけっして高いところからものを言うような態度であっては、なりません。 (昭和45年03月【求道】) 立正佼成会のめざすもの 七 望んでやまないのは、会員のみなさん──とくに青年の人たち──が、もっともっと視野を広くし、スケールの大きな理想をもってもらいたいということです。すなわち、「世界平和実現のために人類の精神を改造することこそわれわれの使命である」という自覚を深め、そこから今後の活動の構想を出発させていただきたいのです。 そういう大理想を思えば、もはや「わが教団」「わが宗教」などという狭い枠の中にうごめいている時代ではありません。どの教団も、どの宗教も、お互いが理解し合い、手を取り合って、人類全体の幸福のために力を結集しなければならないのです。そうした協力の結集というものは、一の力が十集まって十の力となるというような、単純な算数で割り出されるものではありません。同じ理想へ指向する火のような情熱が一つに結集すれば、その力は百にも千にも増大するのです。同志はネズミ算的に殖え、その実践力には加速度がつき、その結果は、何十年何百年などという長年月を待つことなく、世界平和の基礎をつくり上げることができましょう。 その大事業の先駆をなすものが、われわれ立正佼成会の会員です。人類の「精神復興」の聖火をかかげて先頭に走らねばならぬのがわれわれです。 (昭和39年01月【躍進】) 法華経の精神は、個人の救済や個人の真理へのめざめ(悟り)だけをめざすものではなく、社会の正法化を究極の目的としているのです。それは、法華経のあちこちに見られる「仏国土を浄む」という言葉によく象徴されています(中略)国土を浄められるということは、この世以外に仏さまの住まわれる世界というものがあるはずがなく、かといって、現実の汚れた姿のままでは真理は行なわれない。だから、真理を迎え入れ、真理を世に充満させるためには、どうしてもまず国土を清浄なものにしなければならないからです。 「この世は、もともと仏国土であるから、(自分が)心の悟りを開きさえすれば、そのまま寂光土となるのだ」という主観主義が、信仰の世界にはよくあります。それは、極言すれば「自分さえ悟れば、自分さえ心の幸せを得れば……」という利己的な信仰につながるということができましょう。 法華経は、人間が幸せになるためには、個人の心の悟り、家庭の幸せのみでなく、さらに一歩進めて国土(社会)を浄めなければならないとするのです。社会を正法化しなければならないのです。現実から逃避するのでなく、あくまでも現実に体当たりして、これを清浄なものに変えていこう──と努力するのが、法華経の精神なのです。 (昭和47年05月【平和】)...
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...法華経の護持 一 私が青年時代に宗教の道にはいり、まもなく法華経に出遇ってその偉大さにうたれたのは、この現代社会の行きつくおそろしい世界を、釈尊が二千五百年も前にすでにはっきりとみとおされ、その人びとを救う道を明らかにお示しくださっていることを知ったためでありました。 (昭和43年03月【躍進】) 人間の心の中の争う気持ち、いろいろのことに対してこだわる気持ち、愚痴をいう気持ちなど人間の本質的な三毒からあらわれる悪い煩悩の火を滅すべく、お釈迦さまが二千五百年も前にこれを予言され、こういう時代こそ法華経が弘まる時代であると申されておるのであります。日蓮聖人はこのことをさらにわかりやすく説かれ、とくに日本民族に対して大使命のあることを叫ばれたのであります。 (昭和29年05月【佼成】) 法華経の法門には、この宇宙の森羅万象の一切があてはまり、この法則からはみ出すものは一つもありません。この広大無辺で、個人も社会も国家も、すべてのものを救いとる真理の教えを見出したとき、私ははっきり心を定めたのであります。 (昭和43年03月【躍進】) いやしくも法華経を唱える私どもは、一切を仏さまにおまかせいたし、仏さまのご指示のままに精進させていただくことによりまして、なんらの屈託もないのだという気持ちをみなさまにお教えしなければならない。それだからといって自分だけがよい気持ちでお題目を唱え、自分の家が幸せになり病気も治ってしまった、まただれとも争う気持ちがないというだけではいけないのであります。 法華経の教相を見ますると、声聞、縁覚というようなひじょうに清浄な行ないをされて、もうふたたび迷いの起こることのないような人でも、悟りの中にとどまっているということは罪悪であるから、自分の現在悟った境界にさらに拍車をかけ、一切衆生を救うために精進しなければならないということをお釈迦さまはハッキリとお教えくださっているのであります。 (昭和29年05月【佼成】) 法華経の護持 二 七百年前、日蓮聖人がわが国に植えつけられた法華経のタネが、みごとに開花し、実を結ぶときが到来したのです。 (昭和43年03月【躍進】) 顧みまするに、昭和十三年三月といえば、血なまぐさい二・二六事件が起きてから二年目に当たり、また前年の昭和十二年七月には、北京郊外蘆溝橋で起こった銃声と同時に、中国に対する日本の武力侵略が全面的に開始され、国内では国家総動員法の公布をみた十三年のことで、政治の主導権は軍部が握り、政党はあって無きがごときありさまでした。 (中略) 昭和十六年十二月八日、米英に対する宣戦布告という運命の日を迎えたのです。しかも緒戦の華々しさに反して年を追い月を追って、戦局はわれに利あらず、開戦後五年にしてついに無条件降伏という冷厳な一大試練を受けたのです。 日本の永い歴史のうちのわずかな年月の間に、このように急転直下の悲運にみまわれた体験例はないのですが、この短い四半世紀の間における立正佼成会の歩みもまた、日本の宗教史上まれに見るものがあったということができましょう。 私どもとしては、法華経を所依の経典として、ひたすらに寝食を忘れて菩薩道の実践にはげみ、立正佼成会を正法宣布の根本道場にさせていただこうという大願をたて、世の中の混乱と矛盾を救おうという烈烈たる気魄をもって布教に挺身した結果が、知らず知らずのうちに今日の教勢の基礎を築いたともいえるのです。 (昭和37年03月【佼成】) 法華経の護持 三 年々ご法を信じ熱心に教えのとおりに行ずる人が多くなりまして、つぎからつぎへと不思議な現証が現われ、今日の盛大を見るに至ったのでありますが、立正佼成会の創立当時のことを回想いたしますと、まことに感慨無量なるものがあります。したがいまして、こういうような道場を建てるということはぜんぜん想像もいたしませんで、会員のかたは妙佼先生の家と私の家に集まって、お互いにこの正法をたてようという熱烈な気運にみちみちていたのであります。まったく私はお経を拝読するたびごとに考えることですが、そこには「一大事の因縁」があったのだと、このように考えるしだいであります。 法華経の「方便品」の中を見ますると、「……諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したまう」と説いてあります。つまり仏さまが世においでになることは一大事の因縁であるというのでありますが、やはり仏さまのみ教えを信奉するところの正しいこの会が生まれるということにも、一大事の因縁があったのではないかと、私はお経を読むたびに考えるのであります。「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に世に出現したまう」と説いてありますが、みなさまが今までにいろいろと迷ったり、争い合ったり、いろいろに悩み、病気をしたり災難にあった結果、このご法に導かれる機縁ができて、そこにはじめて自分が仏さまの真の弟子であるということを悟り、各々が正しいことを行じようと努めておるのであります。 毎朝ご宝前に香華をそなえ、緊張した気持ちで読経三昧にはいってご供養申し上げ、一日の生活をほんとうに意義あらしめるべく、りっぱな行ないをしようというお気持ちになって精進をされるのであります。そして一家がひじょうに円満になり、こんな結構な境界があったのに、今まで知らずにおったというので感激し、いつのご命日にもその感激の説法がたくさんあり、説法者の数も制限されている状況であります。私はこれを現実に見まするときに、仏さまの世に出現し給うた一大事因縁と、立正佼成会という会の誕生したところの一大事因縁とはまったく同じような因縁ではないか、と思わざるを得ないのであります。 (昭和29年04月【佼成】) 会員のみなさもお互いさまこのご法は結果が出ますと言っているようですが、ご法の縁というものの一大事因縁をもって立正佼成会が生まれ、そのご法を守るところのみなさんが、やはり同じ一大事の因縁のつながりによりまして、悪世末法の現代にご法を弘めるところのお役のかたがたが、今日お導きをされまして、異体同心となってお互いに手を携えて修行しているのであります。 こういう意味におきまして過去、現在、未来──はじまりもおしまいもないいわゆるこの無量劫にわたるところの生命の間に、私ども各々が修行することになったご縁のかたがたがここに集まっているわけであります。 (昭和29年04月【佼成】) 私どもは、お題目を唱えて先祖を拝んでいればそれでよいというような、そんな安易な信仰ではもの足りないのです。どこまでも、法華経の内容をひとりひとりが行じて、人格の完成をめざして精進するのでなければ、本当の菩薩行をやるのでなければ、意味がないと考えるのです。 ここのところに立正佼成会の出発があったわけであります。 (昭和35年03月【速記録】) 法華経の護持 四 法華経は濁悪末法の時代に流布されるとはお釈迦さまのお言葉でありますが、七百年のむかし、大導師日蓮聖人も法華経の教えこそお釈迦さまのご本旨であると喝破され、殉難六十年のご生涯をただ法華経の行者として終始されたのです。 私ども後陣の者も、またこの釈尊のみ教えに対する日蓮聖人のご確信をもととして、仏説をたんに観念的に取り扱うことなく、より具体的に、より行動的に解釈しこれを実生活の上に生かすことによって、未来往生の念仏思想の消極的な考えでなしに、この現世をして“我此土安穏、天人常充満”の希望にみちた世界にすることができると信ずるものです。 (昭和37年03月【佼成】) 法華経の護持 五 理想社会を、たんに夢の世界のように考えてはなりません。その世界へ一歩でも近づく努力をするのが、宗教人・信仰者に与えられた使命なのです。そして、理想というものは、それが完全に達成されたときにはじめて価値をあらわすものではなく、それをめざして進む一歩一歩のなかに、すでにその価値が実現していくものです。 われわれが法華経の教えに広宣流布にいのちをかけているゆえんは、ここにあります。法華経とは、なにもとくべつな教えではありません。理想社会建設のための努力と方法とを教えたものにほかならないのです。 (昭和43年03月【躍進】) 今後の新しい日本を築き、新しい日本人をつくり、そして人類全体に新しい幸福をもたらすのは、正しい明るい宗教でなければならないのです。 正しい明るい宗教とは、人類のすべてが希求するものに対して大光明と大目標を与え「ここへ来たれ」と指し導くものでなければなりません。その指導原理とは、いうまでもなく法華経の教えであり、一仏乗の精神です。そこで、われわれ法華経の行者は、人生の指導者・人類の導師なのであります。われわれはそういう誇りをもち、胸を張って世の先頭に立たなければならないのです。 (昭和39年01月【躍進】)...
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...創立のとき 一 ながい冬がようやく終わりを告げ、暖かい光がさんさんと降りそそぐ春がやってまいりました。土は黒ずみ、草は萌え、鳥は歌い、虫たちも動きだしてきました。まことに天地万物が新しい躍動を開始するときであります。お釈迦さまもこの季節にお生まれになりました。立正佼成会もこの時期に誕生しました。 なにも意識的にこの季節をえらんで創立したわけではないのですが、今振り返ってみますと、なにかそこに、運命の糸のつながりを感じざるをえません。おろそかならぬ仏意を直覚せざるをえないのであります。 (昭和43年04月【佼成】) 立正佼成会が呱々の声をあげたのは、昭和十三年三月五日。当時、中野区神明町にあった自宅の牛乳屋の二階を本部に、妙佼先生とともに「大日本立正交成会」を創立したのでした。信者といえばわずか三十人たらず、日中戦争がいよいよ激しくなる世情のなかで「法華経を学び、それを日常生活の規範としてともどもに幸せになろうではないか」というのが発会の動機でした。 (昭和43年03月【佼成新聞】) 創立のとき 二 立正佼成会の発会式は、妙佼先生の家で挙げました。当時、どこでやるかということになり、相談の結果、妙佼先生の家の近所に信者がいちばん多かったため、信者の時間をなるべくたいせつにするということで、妙佼先生の家にきまったわけです。 妙佼先生は、隣近所を片っ端から一軒一軒全部導いていたので、妙佼先生の近所は信者がいちばんまとまっていたのです。 そのころはまだ経巻もできていないので、大急ぎでガリ版刷りをして、各自がそれを貼りつけて経巻をつくり、なんとか発会式を挙げたしだいでした。 (昭和51年04月【求道】) 創立のとき 三 妙佼先生の家は焼芋屋さんで、普通のしもた屋を二軒買って、一軒は全部を土間にし、そこにサツマイモが積まれていました。そして大きな、ちょうど、この台(註・大聖堂の演台)一つぐらいの、芋を焼く釜があって、冬は芋を焼き、夏はその釜の上で氷をかき、かき氷を売るというような店でした。 住まいは四畳半と六畳というような、まことに狭いもので、現在、教会にお手配があっておかれている連絡所にも及ばない、畳数を全部合わせても十何畳、二十畳までもない狭い家でした。したがって、芋を積む土間にも、みなさんが立っているという状態でした。もちろん、人数は少なかったのですが、まことに在家仏教教団の発足としてふさわしいものでした。当時のことを思い起こしますと、感慨無量であります。 こうして法華経を依り所として、みなさんとともに誓い合って精進をさせてもらうことになったのであります。 (昭和52年05月【求道】) 創立のとき 四 立正佼成会が産ぶ声をあげたときのことを振り返ってみますと、お経の中に「お釈迦さまが法華経の説法をなさるとき、地が六種に震動した」とありますが、当日説法をしている最中に、ちょうど、地震があったのです。まことに小さい地震でしたが、「これが六種に震動するということかな」などと喜んだものでした。 しかし、お経をよく読んでみますと、これは地震があったというようなことではありません。われわれの六根、つまり眼、耳、鼻、舌、身、意に、完全にお釈迦さまの教えが行きわたったということです。その六根に真に響かなければ、説法の値打ちがないのです。 お釈迦さまのお言葉は、二千五百年前にお説きになったことが、今日の私どもの六根にも響いているのです。そして私どものすべての行動、すべての判断に影響を与えているのです。お釈迦さまの教えに従えば、どのように過去に業のある人でも、即座に問題は解決する。しかし人間の本能のままに行動しますと、ややもすると三悪道にまっさかさまに堕ちてゆく──そえが私どもの実際の姿です。 このように考えてきますと、六種に震動するというあの言葉は、ひじょうに大きな意味を持っていると考えるべきではないかと思います。ともあれ、立正佼成会の発足の日に、ちょうど地震がありましたので「これが地が六種に震動したことだ」と、私どもはたいへん喜んだものでした。 (昭和36年03月【速記録】) 創立のとき 五 約三十人の会員で出発したんですけれど、命がけでやっているのは私と妙佼先生のふたりくらいのもので、ほかは、みんなぶら下がっていたのです。 (昭和53年03月【躍進】) 当時、私は牛乳屋をしておりました。そして妙佼先生は焼芋屋、夏は氷を売っているという在家の者でした。 このふたりが中心になって会を始めたのですから、海のものか山のものか、いったい教団ということになるのか、ならないのかわからなかったのですが、名前のほうは「大日本立正交成会」という、たいへん活発な名をつけたのでした。 (昭和52年05月【求道】) 立正佼成会の”立正”は、正法──正しい教え──ということで、佼成というのは、人びとの交わり合いのなかで人格を完成していこう──人間同士が本当の語り合いをしよう──という意味で、この字をつかったわけです。 (昭和43年03月【佼成】) 戦争が終わる少し前のことですが、“大”というような字をつけるのは、どうもかんばしくないというので、“大日本”をとって「立正交成会」としたのです。 (昭和52年05月【求道】)...
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...八白中宮の年に 一 立正佼成会が創立された昭和十三年は、八白の寅年でした。 (昭和49年04月【躍進】) 八白中宮というのは、いわば竹の節に相当いたします。つまり変わり目であって、きょうが終わり、あすが始まる夜明けの意味であります。また人間一代について言えば、親に代わって子どもが跡を継ぐという意味合いをもっております。 (昭和39年12月【佼成】) 八白中宮の年に 二 昭和十三年といえば、前年に日中戦争(支那事変)が起こり、その年の一月あたりから、いよいよ長期戦となる見通しとなりました。「国民政府を相手にせず」などという政府声明が出され、日本は世界の孤児的な様相をいよいよ深めつつあったのです。 そして四月には、経済も、国民生活も、すべてをあげて戦争に集結・動員さるべきことを法的に決めた国家総動員法が、議会を通過しました。 (昭和49年04月【躍進】) 資源の極端に乏しい日本は、大陸への侵略を始め、やがては石油・ゴム・錫等を求めて南方への進出をめざしました。物資の輸入はドンドン減り、当時の国民的衣料だった綿の使用も制限されるようになり、銅・ガソリンなども軍需に関係ない使用はほとんど禁止されました。予算の膨張はインフレをもたらし、物価は騰貴し、儲けるのは軍需会社ばかりで、庶民の生活は窮乏におもむく一方でした。 このような時代に、立正佼成会は、学問も、地位も、名もない一介の青年の手によってつくられたのです。 (昭和49年03月【佼成】) 八白中宮の年に 三 立正佼成会が発足した当時の、世の中の声、人びとの要望していたことを考えてみますと、現在とはだいぶようすが違っております。 当時の立正佼成会は、現実に表われたものを一つ一つとらえて、たとえば、その日の天気が悪いこと、病気になったこと、気分が悪いということ、また色情の因縁があって隠しておいたことがさらえ出されたなどといった、すべての現実に表われたことをとらえて、これがどういうわけで、どういう関係からそうなったか、という原因を深く追求いたしました。そして解決策を──私どもは“結び”という言葉を使っておりますが──先輩からいろいろ解説していただいたのであります。 ところが、当時の宗教界、一般社会の声を聞きますと、このような結果にとらわれている宗教は、まことに下劣な宗教である、下等な宗教であるというのが、だいたいの世評でありました。 (昭和28年02月【速記録】) 立正佼成会を創立したころは、三十名あまりのささやかな集まりにすぎず、めいめいの心のなかにこそ法華経の教義への理解と深い帰依はありましたけれども、世間に示しうるほどの教学体系などはまだできあがっていませんでした。 教団としての背景もなければ、実績もありません。したがって、世間の信用などあるはずはありません。一般の人びとは「牛乳屋のおやじと芋屋のおばさんが、病気治しや商売繁盛の信仰をやっているそうだ」ぐらいにしか見ていなかったのです。外部の人は法を見ず、表面の形体しか見ないのですから、きわめて当然のことだったわけです。 (昭和43年11月【佼成】) 八白中宮の年に 四 新しい宗教団体はとかく世間からいろいろと批判の対象となります。しかし一般的に言って新しい宗教団体のいちばん力としますところは、どなたにも分かるような平易な教えで、どなたにも納得のいくような話ができるということで、これがまた特徴だと思います。仏教はだんだんにお経というものから教学的な形につくられまして、ひじょうに難しく、ちょっと読んでも分からんようなところが多いのであります。もっとも人の分からんようなものがありがたいんだ、分からなくてもいいんだというような行き方が、今日、仏教がだんだんに一般民衆の生活から遊離していった原因じゃないかと思うのであります。それではお釈迦さまのご説法がそんなに難しいことばかりであったかというと、本当はそうではなかったように思われるのであります。 (昭和30年09月【佼成】) お釈迦さまは、一切衆生を済度しようと思い立たれました。宗教家が宗学をどんなに身につけて、一生懸命に勉強しましても、人びとを済度するということに目が向かないと、その勉強はぜんぜん生きてこないのです。ご法は死んでしまうのであります。 (昭和32年12月【速記録】) 八白中宮の年に 五 仏教学者で新しい宗教をもひじょうに理解されておる渡辺楳雄博士は、宗教関係指導者の集まりにおきまして、大体つぎのようなお話をされたのであります。すなわち、徳川時代には仏教において現世の問題に触れることを許されなかった。そこでお坊さんたちはみな来世の問題だけを説いたのである。また明治時代になりますと排仏毀釈が行なわれて、神道がしだいに国家の権威を背景に勃興し、いわゆる敬神崇祖が強調され、神詣りなどが奨励されたが、これも形だけの信仰に過ぎなかった。その結果既成仏教はたんなる葬式仏教に終わり、神道も魂の抜けた礼拝神道に堕してしまった。というような意味のお話をされましたが、まことにそのとおりでありまして、仏教の本筋の中にはぜんぜん狂いのないハッキリした光があり、仏教の教えこそ私どもの生活の規範であることが明らかなのでありますが、既成宗教ではそれを大衆の中に積極的に伝達することを怠っていたことがおのずから分かるのであります。 (昭和32年01月【佼成】) 八白中宮の年に 六 仏教は、死んでから仏になるためのものではありません。生きているうちに目ざめるため教えなのです。目ざめることによって、普通の人と変わらぬ生活をしながらも、心がノビノビと自由自在になり、苦しいことも苦しく感じなくなり、することなすことがひとりでに法則にかなうようになり、本当の意味の、幸福な人間になるための教え……それが仏教なのです。 このような仏教の本質を知らない人が、仏教は厭世的なもの、抹香臭いもの、あの世のためのものといった誤解を抱くのであって、そのような誤解を一掃して、本当の仏教を日本中の人に、いや世界中の人に知ってもらうことが、立正佼成会の一つの大きな使命であるといってもいいでしょう。 (昭和44年06月【佼成】) 仏教とは生活そのものです。生きがいのある生活をいかに営むかを教えるものです。したがって、徹底して生活指導が行なわれておれば、そこには当然、感謝報恩の念が生まれ、自然に導きということになって現われてくるのが本当です。 わたしの影をふむ者が、わたしにいちばん身近な人間であると思ってはいけない。たとえ百年、千年の後であっても、わたしの説のとおり実践する者が、わたしにいちばん身近な者である、と釈尊は申されております。 (昭和45年03月【求道】) 八白中宮の年に 七 人びとによびかけて、本当の仏教を知らない闇の世界から、明るい世界に導いてあげる。一軒ずつ、みんな節をつけてあげる。今まで知らなかった人に知らせてあげるということは、これは一つの節をつけることです。今まで暗かった人を、明るくしてあげる───これが八白の星であります。 (昭和39年11月【速記録】) 八白中宮の年、いわば竹の節のようなもので闇から夜明けを迎え、新しい方向へ動く時節です。その意味で、私どもが新しい心構えで、暗い心で迷っているかたがたを明るい仏の慈悲の光によって照らすのも節、今まで法を知らなかった人びとに法を知らしめて転換するのも新しい節であるわけです。 (昭和39年12月【佼成】)...
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...創立の頃 一 私が立正佼成会を創立したのは、現実に人を救い、世を立て直そうという熱意のゆえでありました。しかも、本当に人を救い世を立て直すには、法華経にこめられている真の仏教精神を弘めるほかないという確信を得たからでありました。そして、わずかばかりの同志とともに、死物狂いともいうべきお導きの行の挺身しました。 (昭和43年12月【佼成】) 私たちは、「これは仏さまのみ心にかなうことだ。よいことだ」という固い信念をもって、体当たりの菩薩行をつづけました。ただひたすら行ずるのみ……といった明け暮れでした。ほかに誇りうるものはなにもありませんでしたけれども、鳥窠禅師が「八十の翁も行じえず」といったことをとにもかくにも行じえたということだけは、自信をもって言いきれるのです。 (昭和43年11月【佼成】) そのころの私自身を追憶してみますと、目はまだ世界へ大きく開いてはいませんでしたが、法華経によって人を救うのだ……という気概だけは、当たるべからざるものがあったように思います。とにかく、法に対する帰依の純粋さと、「よし、この法のためなら、どんなことでもするぞ」という勇気とは、いま思い出しても身が引き締まるような感じがします。そして、何とも言えぬ懐かしさ覚えます。 (昭和49年03月【佼成】) 創立の頃 二 立正佼成会が始まったころは、すべてがささやかなものでした。私のうちの二階が本部ということで、ご宝前といっても普通のご仏壇があっただけです。そういうところでも、ご法はけっして小さいものではないのだと、私どもはひじょうに大きな希望を胸に描いて、会を発足させたのでした。 その当時は、あまり天下国家を論じたりすると、あれは少し左巻きじゃないかと、おそらく世間の人が笑ったろうというような、そんな時勢でした。そこで私どもは、手近なところ、いろいろな生活に困っている人を目当てに、活動を始めました。 あそこは不幸だ、あそこは病気で苦しんでいるといった、つまり経済的に困っている人、精神的、肉体的に悩んでいる人、そういう難儀をしているところを、まず目標とし、その人たちをいっときも早く救わなくてはならない、それが急務だと考えました。 いつも私が、幹部指導のときにこの話をして、みなさんを笑わせるのですが、お産があると言えば引っ張り出され、臨終だと言えば呼ばれ、葬式は無論のことでした。もう人事百般のすべてのことに関係しなくてはなりません。 当時、私は牛乳屋を商売としておりまして、大みそかの日などは、集金とお正月の一日、二日分の牛乳を配達するので、まあ普段の三倍も四倍も仕事があるのです。 ところが、その大みそかの日に、たまたま信者のかたが亡くなられ、だれか行ってくれないかといったけれども、だれも行き手がないのです。みなさん、今のように時間の余裕のある人が、まことに少なかったのです。 しかし大みそかの日にお葬式を出さないと、これは正月まで持ち越しになってしまいます。そこで、四人前も五人前も働かなくてはならない私でしたが、その信者の家に行き、導師をし、お葬式をしなくてはならない。とても礼装をしてはおれませんから、牛乳配達に出かけるときに、配達車の引き出しに、たすきとお数珠、経巻を入れて持って行き、引導を渡して葬式を出し、また数珠や経巻をしまって、さっそくつぎの配達というような状態でした。みなさんが忙しくてだめだというなかを、私も忙しいけれども、ちゃんと仕事は自分でやってきた経験があるのです。 (昭和46年12月【速記録】) 創立の頃 三 今は昔と違って、サラリーマンが多くなっております。昔は自分で商売する人が多かったようです。自分で商売しているのですから、時間も余裕があるかわり、きまった勤務時間で、きまった収入があるというような安定した人は、きわめて少ない時代でした。立正佼成会が始まった三十八年前(昭和十三年)は、そういう意味で不安定な時代でした。 私がもう何回もお話をしたことですが、中野の坂上に職業安定所がありました。そこへみなさんが五時には整列しなければならないので、奥さんは三時に起きてお弁当をつくって、旦那さんを送り出すわけです。そこに集まる人は、全部でざっと五百人。ところが一日に就労できるのは百人から百二十人です。五分の一ぐらいの人は仕事にありつくが、あとの人は「ごくろうさんでした」と断わられ、弁当を持ったままうちへ帰る。そんなふうに職業難の時代だったのです。そうした時代に立正佼成会は始まったのです。 立正佼成会の発足三年目の十六年には、太平洋戦争が始まったのです。戦争をひかえて、いろいろな無理なことが社会に横行しておりました。太平洋戦争に入る前から、早い人は召集令状が来ておりました。宣戦布告で戦争を始めたときは、一挙に半年でアメリカをやっつけてしまおう、そういう計画なんですから、たいへんな野望を胸に、社会の青写真も戦争にまっしぐらに進んでいました。 私どもは、そういうことは知るよしもないのですが、国がそういう状態でした。このため私どもの身辺は、着物のしまが縦であろうが、横であろうが、斜めであろうが、そんなことは構わない。ひざに穴があけば、継ぎをして着なければならない。そういう時代でした。 経済状態がよくない。栄養が不足している。そして心も不安定となると、病人はどんどん増える一方でした。当時、肺病患者が多かったのは、こうした栄養の不足、ひじょうに不規則な生活、不安定な心理状態が、大きな原因であったと思います。 (昭和51年09月【速記録】) 創立の頃 四 人びとは実際に栄養が足りないために、どんどん倒れてゆきました。肋膜炎や肺病などという病気は、栄養をとって養生しておれば治るものです。ところが、栄養が足りないうえに、労働しなければならない。戦争に向かってまっしぐら、一億総動員で働かなくてはならない時代で、人びとは追いまくられておりますから、どんどん病気で倒れていく条件の中にあったわけです。 そういった悪条件の中でも、それを乗り越えて信仰するような、すばらしい心を持った人びとは「衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現じたもう」(法華経・如来神力品第二十一)とお経にあるように、どんどん病気が治ったものです。 ですから、心を直すということが、いかに大事なことかということを、そのときも、私どもは体験しているわけです。 (昭和50年08月【求道】) 創立の頃 五 長い病気、とくに肺結核で苦しんでいる人が多かった。現在のような健康保険などありもしないし、結核にかかれば必ずと言っていいほど貧苦に追い討ちをかけられた。だから、信仰の形も、教えの本質へじっくり食いこんで行くよりも、もっと直接的なものが求められていた。(中略) 宣伝力も、大衆動員力もない、発足したばかりの小さな宗教団体にとって、最初から抽象的な理想だけを説いてはおられない。庶民大衆の切実な願望に応える〈方便〉の教えからはいらざるをえなかった。 それで、取りあえずは霊友会の信仰活動を踏襲して、〈病気治し〉を主たる活動としたのであった。 こういう時代に、私の片腕として妙佼先生がおられたということは、じつに尊いことであった。その強い霊能は、数えきれないほどの人びとの病気や不幸を救ったし、また女としてあらゆる苦労をなめつくした体験からにじみ出る人生指導は、同じような悩みを持つ婦人たちに、大きな共感をもって迎えられた。 書斎にこもって議論や著述ばかりしておれば事のすむ学者や宗教評論家などは、そうした活動をきびしく批判されるけれども、その人だって、いま現実に街頭に出て、本当に人助けの行動をすることになったとしたら、はたして高遠な理想ばかりを説いておられるだろうか。 まずもって、現実の苦しみを救う。それは方便である。世の中にはいろいろな人がいる。頭脳も、心境も、境遇も千差万別である。それらの人をもれなく救うには、釈尊のお言葉にもあるとおり〈万億の方便〉が必要なのである。その〈方便〉のみを見て、現世利益追求などと批判するのは、見方が浅いと言わざるをえない。 まず現実の苦しみを救うという〈方便〉からはいって、だんだんに仏道の〈真実〉へすすむ。すなわち人間としての正しい生き方を教え、自他の人格を完成することによって、この世に絶対の平和境をうち立てるという理想をめざすように導く……これが大衆を救ってゆく正しい順序ではないだろうか。 方便の〈方〉というのは〈正しい〉という意味である。〈便〉というのは〈手段〉という意味である。究極の〈真実〉だけを見て、それに達するまでの〈方便〉を見ないのは、片手落ちの偏見であり、空論といわねばならない。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 創立の頃 六 お釈迦さまは悩み苦しむ一切衆生を救うために五十年間ひじょうに尊い智慧と深いお慈悲で、どういうふうにしたならば人びとを幸せにできるかというので、いろいろのご法門を説かれたのであります。国王の身にお生まれになりながら出家をされて、三十歳にして得度され、お悟りを開いて五十年間説法を続けられたということになっております。しかも、そのご法門は八万四千という厖大なものでありまして、お釈迦さまご一代に遺されたお言葉を全部まとめますと、馬に七駄もあるというほどのお経だということであります。 それではなぜお釈迦さまは最初から私どもの信奉している法華経をお説きにならなかったかということになると思いますが、それは端的に申しますならば、本当の正しいご法をお説きになるという機が熟さなかったためだろうと思います。三部経をお読みになっているかたはご存じでしょうが、お釈迦さまは私ども人間の本質というものを分からせるために、五十年間説法をされたということが法華経の中に書いてあります。その順序をハッキリと示され、仏眼を開いて仏さまの悟りの状態の一部始終をお説きになられ、もう少しも隠すところなく全部打ち明けられたのであります。 こうなりますと、お釈迦さまのお弟子として四十年間も従って来たかたがたでさえも、どうも、今まではなんでも自分の問題を持ってくればただちにそれを結んで、こういうふうにすればいい、ああいう風にするんだということをお説きになったが、お経の始まりを見ますというと、「方便品」にありますように、口を結んで説かれないので、どうしても説いていただきたいと舎利弗尊者が三度にわたってお願いをした結果、やっと口を開かれたとありますが本当のことを言うとたいていの人なら疑惑を持ってしまいます。そこで説いても疑惑を持たないような信仰状態になるまでは、真実が説けなかったということであります。 つまり聴く人の機根が整わないうちに説くよりも、順々に機の熟するのを待って五十年間方便でもってお弟子の機根を順々に引き上げた上で初めて真実をお説きになったと解すべきでありましょう。 (昭和30年12月【佼成】) 要するに、人間にはだれひとりとして悩みのない者はないのでありますから、その悩みを解決するためには、物質面と精神面とを問わずあらゆる方法手段をもって方便とする場合が多いのは当然でありますが、その方便に固執して真実を失うことのなきよう戒心すると同時に、みずからも正し、人を正す宗教の使命目的にそってつねに方便は真実でなければならぬのであります。 私ども法華経の大法を信奉する仏教徒は、あくまでも完全円満なる人格者たる仏身を成就する方法を教えられた法華経を身に読んで、その意味を深く味わい、つねにみずからを反省懺悔し、菩薩行を実践してゆくことを根本目的としなくてはならぬ、と確信いたしているしだいであります。 (昭和29年10月【佼成】) ...
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...本部・中野区神明町 一 発会式に参加したのは二十五、六人でした。発会式に来なかった人たちでも、こちらから行くと、「それじゃ、わたしもやろうか」と入会する人もあり、そうこうしているうちに、たちまち会員は三百人ぐらいになりました。 ご命日に七十人も来ると、本部である私の家は、もう入りきれません。二階が四畳半と六畳、それに廊下があって、裏に物干し台がありましたが、どこもいっぱいになり、看板の裏まで人がいるありさまでした。大勢の人の重みで、二階の床が下がり、階下の押し入れの戸がぜんぜん動かなくなりました。下の六畳に子どもを寝かせていましたが、眠っている子どもの間を、みんなが抜き足さし足で二階に上がってくるのですから、たいへんだったわけです。 (昭和54年01月【速記録】) 本部・中野区神明町 二 発展期の修行のようすは、今の人たちには本当にはわからないと思います。さまざまな配慮が必要でした。 今は在家とはいえ、朝から晩まで法だけを専心している人もいます。女性の教会長の場合でも、家には陰役のお手伝いさんがいて、お勝手などぜんぜんしなくてもすむようです。 しかし当時の支部長は、店も、お勝手もみんな片づけて、なおかつ支部長の役目を果たすのですから、その人の奉仕の限界がどれくらいなのかということが、支部長にする場合のたいせつな基準になったのです。 ですから、「一日か二日家を空けられるような人を支部長にしなさい」といったくらいで、ともかく仕事にさしさわりのないようにと考えて、布教をしました。 (昭和54年03月【速記録】) 初めは多くの信者を導いた人を中心に、その導きの子・孫といった系統で支部を形成し、長沼支部、松沢支部、井桁支部、丸山支部、福田支部というふうに支部長名を冠していた。しだいにその数が増えてきたので、昭和十八年から二十年には第一(富樫)第二(森田)第三(長沼)第四(有路)第五(鎮野)第六(寺尾)第七(岡部)第八(保谷)と数字で呼ぶようになった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 本部・中野区神明町 三 草創期には発展も速いかわり、新宗教の特徴として、脱落者も多いのです。入会して、熱心に活動していると思っているうちに、音頭取りのひとりが脱落すると、たちまち、右へならえというありさまです。なにぶん、本部が手薄なため、その人に任せていたせいもあるでしょう。流動的なのです。それがひじょうに激しいのです。現在は、そんな流動性がないので、どうしても既成教団くさいところが出てくるのです。 そのころは、パーッとお導きをすると、三十人や五十人はすぐできる。ところが中のだれかひとりが、落ちると、他の人もつづいて落ちてゆく。たくさんの入会者のあるときは、一方ではむやみと落ちる。そうしたことを、さまざまに繰り返しているうちに、少しずつ残る人が増えてくるのです。 家に病人があって、どうしようもないようなときには、信仰に頼って会に日参する。そういうときには病気のほうもぐんぐん快方に向かってゆくので、それを見た周囲の病気もちの人たちが、たくさん入会してくる。そして、その人たちも治ってくると、病気治しの信仰ということで、続々と入会してくる、といったあんばいです。 ところが病気が治ってしまうと、それまでは借金をして、電車賃をつくってまで通ってきた人たちは、来なくなってしまうのです。「病気のうちは治りたい一心で、なんとか来るけれども、病気が治ってしまうと来られないのだな」と、悪口を言ったこともあるくらいでした。 ですから病気治しのときは続々と入会するが、一方では脱落する人も多いという経験を、さんざん繰り返したわけです。 私どもは、まるでお医者さんの回診のようなもので、病人にとってみれば、毎日でも来てもらいたいのだから、まったく暇がとれません。こちらが真剣になって治してあげると、来なくなるのです。年中、賽の河原の石積みをしていたようなものでした。 (昭和54年03月【速記録】) 本部・中野区神明町 四 当時は自転車を使うなどということは、容易にできないものですから、私が、自転車の後ろに妙佼先生を乗せて、ふたり乗りでほうぼうに出かけたものでした。不思議なことに、神さまが私たちに行じさせてくださるように、しくみができていたのでしょうか、こんなことがありました。 忙しい日々の中でも、どうかすると一日中、どこも特別来てくれという家がない、といったときがありました。そこで、もう二年も三年も、映画も芝居も見たことがないので、きょうは一度映画を見に行きませんか、と妙佼先生が言うのです。私の店は角店で、人のたくさん来るところでしたから、映画館のポスターを貼る、そのお礼に、いつも無料入場券が来ていたものです。「そうだな、きょうは一つ行ってみようか」と、自転車に乗って、当時はまだ幡ケ谷三丁目にいたのですが、成子坂の富士館という映画館に行こうと出かけました。 ところが映画館に着く前に、お巡りさんにつかまってしまいました。ふたり乗りの現場を見つかったわけです。お導き、祀り込みに行くときには、時には荻窪のほうまで、途中交番を五つも六つも越して行くのですが、不思議なことに、交番の前を通るときでも、いつもお巡りさんが内のほうを向いていて、一回も見つからないですんだのでした。 ところが映画館へ行こうと出かけたら、たちまち「こらっ」と見つかってしまう。「しまった」と、すぐ妙佼先生を降ろして「どうもすみません」「こんな暗い道で、ふたり乗っちゃいかんぞ」と言われて、平身低頭というありさまです。「どうも縁起が悪い。もうやめちゃおう」と、せっかく途中まで来たけれど、映画館には行かずに帰ってしまいました。 (昭和34年09月【速記録】) 本部・中野区神明町 五 その時分は私も貧乏でした。信者が多くなるので道場を建てたい。しかし生活のために、まず商売をしなくてはならない。漬物屋を牛乳屋に変えたのは、よくよくのあがきでした。 そのころ、私のところに集まったお賽銭は、今月は陸軍省に、今月は海軍省にと、1か月おきに献金することになっていました。十三円から十六円ぐらいを、中野の警察署にまとめて持って行ったものです。 (昭和54年01月【速記録】) 信者には、一か月二十銭の会費だけを納めてもらっていた。お経巻と過去帳が五十銭、お数珠が一円三十銭だった。 そのお数珠もまとめて仕入れてくることもできず、立正佼成会よりすこし前に霊友会から別れて独立していた思親会に行って、少しずつ分けてもらっていた。 入会して来る人は、難病に苦しんでいるとか、家族に気の狂った人がいるとか、それも、経済上その他の事情で満足に医者にもかかれない、という人が圧倒的だった。 なにしろ世間から見れば、牛乳屋のおやじと芋屋のおばさんが牛乳屋の二階でやっている“えたいの知れぬ信仰”だったのだから、ワラにでもすがりたい切羽詰まった人でなければやって来るはずがなかった。 向こうから入会して来る人は何でもないが、こちらから出かけて行って導くのはじつに骨が折れた。私は正攻法で攻めてゆき、自分の意志で入信するように導くのが主義だったが、妙佼先生には「とにかくはいらなければありがたさはわからない」といった独特のひたむきさというか強さがあった。理ぜめで法を説くというよりも「牛乳屋さんがいい話を聞かせるから行ってみなさい。あんたの病気なんかすぐ治るよ」という調子だった。しかし、確信をもって言われるその言葉には、人を動かさずにはおかぬ大きな力があった。 極貧の家庭で、お経巻やお数珠や過去帳などを買うお金もないと見ると、妙佼先生は机の下にそれに相当するお金をそっと入れて帰られたものだ。 ところが、そういう病人とか精神異常者などが、入会するとどんどん治っていくので、当人が親戚や知人などを引っ張って来たり、治ったうわさが口から口へ伝えられたりして、みるみる信者の数はふえていった。 ふえたと言っても、まだ百という単位で数えるほどだったころは、入会者へのアフターケアともいうべき〈手取り〉などは、じつに行き届いたものだった。信者のほうからも、何かと言えば来てくれという要請があり、私たちも気軽に出かけて行ったものだ。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 本部・中野区神明町 六 教義のうえで疑問が起これば、すぐ新井先生の所へ教わりに行った。それは、昭和二十四年に老衰でお亡くなりになるまで続いた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】)...
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...質屋通い 一 大日本立正交成会というりっぱな名前の会を創立はしたものの、私はあいかわらず牛乳屋の主人であり、妙佼先生は氷屋と焼芋屋の主婦だった。 両方とも商売していたので、ふたりで自腹を切って、発足したばかりの小さな会を守り育てていった。(中略) お導きの活動も、たいていふたりのコンビでやった。一日に五軒も六軒も、お導きのために訪問した。なにしろ、私も忙しい身体だったが、妙佼先生は商売の用事のうえに主婦の務めまであったのだ。そのわずかの間を利用したり、一日の仕事をすませてから歩くのだから、たいへんな強行軍だった。 私はまだ三十代の働き盛り、妙佼先生はもう初老の婦人、それに私は背丈が人並みより高く、妙佼先生は五尺そこそこの人だった。それで、ふたりが一緒に歩くと、どう加減してもつい私が先になってしまう。妙佼先生は、懸命に追いつこうとする。そのようすがいかにもほほえましいので、 「あんたは、歩くとき、よく手を振りますね」 とからかうと、妙佼先生は、 「せめて手で泳がなければ、とても先生には追いつきませんよ」 と、相変わらず手を振って歩いたものだ。 まわる家が多くて、歩いてばかりでは間に合わなくなると、自転車の荷台に妙佼先生を乗せて走りまわった。こうして、一日に二十数軒も訪問したことがあるが、そのときなど、妙佼先生の足はすっかり冷えきって、血の気がなくなり、しばらくは歩くこともできないのだった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 質屋通い 二 そうこうしているうちに、信者はどんどん増えていった。一か月に二倍ずつぐらい、いわゆるネズミ算的にふえていった。それなのに、指導者は相変わらず私と妙佼先生のふたりだけだったから、それこそ目のまわるほど忙しかった。 朝早く起きて牛乳を配達して帰り、お経をあげているころにはもう信者がやってくる。話をしてあげる。すると、どこそこに病人が出たから行ってほしいと言ってくる。自転車に乗って出かける。 帰って来ると、こんどは妙佼先生とふたりで〈手取り〉や〈お導き〉に出かける。昼間はお屋敷町をまわって、夜九時ごろ商店が店を閉めてから商店街をまわる。帰宅するのはたいてい十二時。 ほっとしていると、病人が苦しんでいるから……と迎えに来る。行ってお経をあげ、お九字を切り、病人がすやすや眠りにはいったので帰って来ると、もう夜中の二時……というありさまだった。 それから二時間ぐらい寝て、四時には牛乳配達に出かける。八時ごろ帰ってそれからお経をあげるのだが、真夏などはその時刻ごろからだんだん暑くなり、それにろくに寝ていないから、堪え切れないほどの睡魔が襲ってくる。 十六番あたりまであげると、意識がもうろうとしてくる。二十番あたりまでいくと、もう正体がなくなり、ばたっと後ろへ引っくりかえる。畳の上にどしんと倒れたショックで目が覚め、びっくりして起き上がり、また読経を続ける。またひっくり返る。そんなことがよくあった。 もちろん、愚痴や懈怠の心がぜんぜん出なかったわけではない。 ある冬の寒い朝、眠い目をこすりこすり起き出して牛乳配達をしながら、つい、人がまだぐうぐう寝ているのに何の因果でこんな難儀をしなければならないのだ……という気持ちになったことがある。 そのときふと見ると、日雇い労働者の人たちが仕事を求めて長い列を作っているのだ。私はすぐ考えた。あの人たちの三分の二は、一日の仕事にあぶれて帰って行くのだと聞いた。それにくらべると、自分はなんとか食べていかれるし、余った時間はたっぷりあるし、それで人助けの布教ができるのだ。何を不平不満を言うことがあるか……と。 そう思い直すと、気持ちはすぐさっぱりし、新しい勇気がわいてくるのだった。 しかし、人助けに夢中になればなるほど、生活は苦しくなってきた。牛乳の配達はきちんきちんとしていたけれども、新しい注文を勧誘してまわる暇がない。だから、自然と売上げは先細りになる。売り掛けの集金も百パーセント取れるわけではない。 勢い、一家七人を養っていくためには、よく質屋のご厄介になった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 質屋通い 三 三十歳までは、多少貯金もありました。ところが、法華経の道に入ってから、どうしても自分は人びとの指導者として立っていかなくてはならない、と考えたのです。私の商売も、真剣にやっておれば、毎月多少の貯金ができる程度の収入にはなったのです。 しかし、毎日毎日、うちのことは少しもかまわないで、導きにばかり出かけておりました。 (昭和33年05月【速記録】) 貯金は全部おろしてしまい、最後には着物もみんな質に入れてしまって、一生懸命でお導きをしていました。そんなとき、電車賃もなくなって、結婚式のときつくった羽織、袴などを質屋に持っていったものです。その羽織、袴は、七年ぐらいも質屋に入れたり出したりしました。 そんな生活ですから、「こう夢中になっては困る」と、家内が反対する。信仰がいけないということではなく、私がまじめなことはよく知っているし、ひじょうに他人に親切で、いい人だというは知っているのだけれど、ちっとも家業を考えないで毎日出ていくことに対して、家内は反対したわけです。 (昭和33年04月【速記録】) 質屋通い 四 川本質屋というのが川島町にあった。その川本さんによくご厄介になった。 結婚したときにつくった羽織・袴が最高の質草だった。これには二十五円貸してくれた。とてもそんなに値打ちのある物ではなかったが、絶対に流さないので奮発してくれたのだ。 いつもは着古したジャンパーにつんつるてんのズボンをはいているのだが、勧請式などがあるとその羽織・袴に威儀を正さなければならなかった。それで、前の晩には必ず受け出しに行き、式が済むとまた入れに行った。その他いろいろな世帯道具をよく持ち込み、ついにはへこ帯まで入れたこともあった。あまり出し入れがひんぱんなので、質屋の主人が通帳を作ってくれた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 質屋通い 五 こうして七年間も質屋に通った功徳が、いかに大きかったかは、現在、自分が何も財政面のことを考えなくてよい、本当に人さまの幸せだけ考えていればよい、という境遇にならせてもらって、はじめてよく分かりました。それまでは食べるのに困ったこともあり、ことに戦争直後の物のないときには、もう炊くものも食べるものもないような状態でした。 そうしたとき、質屋に行くのは、ふつうでは悲愴なものです。しかし、こと信仰のためというおかげで、そのときは悲愴とは思わず、人の目を避けて、大急ぎで質屋に行ったものです。何しろ、質屋の前がみんなうちの信者ですから、質屋ののれんをくぐるのがたいへんでした。これも一つの見栄なのでしょう。やっぱり虚栄があったのでしょう。 今なら「私はこれから質屋へ行く」と、大いばりで言うかもしれないが、当時は質屋に行くのが恥ずかしくてしようがない。店のそばまで来ると、まず遠くから、店の前にだれかいないか見ておいて、まるで質屋ののれんを射撃するようにねらって、のれんの中へ自転車のまま走り込んでしまうのです。のれんの中に入ってから、自転車のスタンドを出す。そして風呂敷包みをおろして、質屋からお金を借りたものです。 (昭和41年01月【速記録】) 質屋通い 六 何年か後に、質屋の主人も信者になって本部にやってきました。私の顔を見てキョロキョロ、キョロキョロしています。「あんた川島の川本っていう質屋さんでしょう」と言ったら、「どうして知っていますか」「いや、さんざんお世話になりました」ということになりました。その質屋に、七年通ったわけです。 質屋が、常連に渡す通い帳をくれたものです。質札というのがありますが、常連には、札ではなく通い帳をくれたのです。うちには、今もちゃんと金庫に入れて、大事に保管してあります。紫がかった色をしています。 うまくできたもので、それさえ持って行けば、利息をちゃんと計算して、いくらか貸してくれる。いちいち品物は出し入れしません。出しても、またすぐ入れるからです。 当時、私の羽織と袴で、二十五円貸してくれたのです。何回も利息をとって、元金ぐらいは、とっくにとっているのですから、何度も着て、古くなり、汚れていたりしていても、持って行きさえすれば、すぐに二十五円貸してくれたものです。よその質屋へ行ったら、おそらくそれだけ貸してくれなかったでしょう。 立正佼成会が、だんだん大きくなってからのことですが、妙佼先生から「会長先生はまだ質屋へ行っているのですか」と聞かれて、「今でも行っていますよ」「みっともないから、およしなさい」ということで、妙佼先生から二十五円振る舞っていただいて、質屋から借金することをやめたのです。それも今になってみると、楽しい思い出、一つの語り草ですけれど、当時はたいへんでした。そのたびに利息を払わなくてはならない。 ひと月のうちに二度出し入れすると、二か月分の利息を払わなくてはならない。通い帳があるんだから、連続して貸してくれそうなものですが、そうはいかない。二か月分だと二割五分も利息をとられたものです。 (昭和41年01月【速記録】) 質屋通い 七 人さまをお助けしなければならぬというノッピキならぬ使命感から日夜お導きや手取りに奔走していましたので、家計はいつも火の車で、借金や質屋通いは毎度のことでした。 それが苦しかったかといえば、案外そうではなく、そうした心身の苦労そのものの中になんともいえない喜びがありました。しかも、必要なだけの財物はいつしか身辺に集まってくるようになりました。わたしが求めなくても、仏さまがお手配くださったのです。 法華経「薬草諭品」にお説きになった「現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受け……」の境地をまさしく身に体験させていただいたわけで、ただありがたくてたまりませんでした。(中略) 『華厳経』に「仏子らよ。自我を忘れるものは、やがて一切のものを、わがものとすることができる」とおおせられているように、自分というものから離れなければ、本当の功徳は得られるものでないことだけは、よく胸に刻んでおいていただきたいものです。それゆえにこそ、昔のひたむきは修行者はみんな出家したのです。 (中略) このように、一時的にせよ、われを忘れ、自分というものから離れる行を繰り返し、積み重ねていくうちに、しだいしだいに「人さまのために」という精神が身についてきます。そして日常生活の場においても、自分勝手な欲をむさぼることもなくなり、人から慕われ尊ばれるような人柄ができ上がっていくのです。この境地が在家の出家の妙境にほかならないのです。 また、そういう境地が至れば、不思議に物質的にも不自由することがなくなり、過不足のない清らかな生活を楽しむことができるようになるものです。すなわち「現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受け」るわけです。在家の出家の功徳ここに尽きるといわなければりません。 (昭和46年11月【佼成】)...
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...神が勇む 一 法華経の中に此経難持(此の経は持ち難し)とございます。「若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す 諸仏も亦然かなり」(見宝塔品第十一)とおっしゃっておられるのであります。そこで私どもがこのご法を持つということは、仏さまがここに歓喜されるのでありまして、諸天善神悉くご加護くださるということがお経の中に書いてございます。 (昭和32年02月【佼成】) 神が勇む 二 仏種は縁によって起こると申しますが、私どもはよく縁起が悪いとか縁起が良いとかいうことを申しまして、良いほうにも悪いほうにも縁起があるわけであります。この会にお導きを受けたことも縁があれば、反対にこの会をケナしたり、また入会しながらもケナしたりする人があるとしても、それはやはりお経にもありますとおり“若しは信若しは謗、共に仏道を成ず”で、一つの縁につながっているということができると思います。 (昭和32年05月【佼成】) 神が勇む 三 立正佼成会が発足したころ、ひじょうに不思議なことがつぎからつぎへとありました。これを私どもは“神さまが勇んでいる”と言っております。立正佼成会が発足しなければならない、立正佼成会が発展しなければならないという、大事な時期に、神さまが勇んで、いろいろのことを教えてくださいました。 どこの宗教でも発足のころは、みなそうなのです。われわれが疑ぐればこうだぞ、信ずればこうだぞという結果を、明らかに見せてくださるのです。 その時代、つまり創立から昭和二十年、終戦の年のころまでは、本当に神さまが勇んでおった時代だと申し上げてもよいと思います。 ことごとく、神さまのいろいろのお告げがあったものです。今あのときのような指導をしたら、法座主をなさっているかたなど、反ぱつをくって、頭にコブがなくならないかもしれません。集まった人びとも腹を立てて、家に帰ってしまうかもしれません。 幸い最近では、だんだんと教学が浸透し、証明者がたくさんできまして、数多くの人が、この道で救われている現実を見ておりますから、創立当時のように、一つ疑い出すと、その雲が晴れないというようなことが、なくなってきたのであります。 ところが、立正佼成会ができた当時は、その会長が牛乳者のおじさん、副会長が焼芋屋のおばさんなのです。私は小学校六年は普通に出席して、卒業しましたが、妙佼先生は小学校も満足に出ていない。妙佼先生は私より十七年も先の人ですから、今ほど義務教育が徹底しておらず、毎日正常に登校して勉強しなくても、それで済んだ時代の人でした。 そういうふたりが中心になって、信仰団体の会長、副会長ということだから、世間の人の眼で見ると、そんな者の言うことが定規になるかということです。疑ぐる人の立場にも、一面の理はあるわけです。 ですから、これはなんとしても、神さまの神力によって、または法門によってみなさんを制するというより、もうほかにないわけです。 われわれふたりは、まことに微々たる存在で、教育者とか、宗教家とか、人さまの先に立てるような経歴は、微塵もないのです。そのふたりの後に、みなさんがついて来ようというのだから、疑惑を持つのは、これは当たり前で、持たないほうがどうかしていると言ってもいいくらいなのです。 (昭和41年09月【速記録】) 神が勇む 四 妙佼先生は、霊友会のときから神がかりの状態になりました。霊友会がいくつかに分派した原因は、神がかりになる人を幾人もこしらえたからです。そうでなければ、あれほど分かれなかったと思います。 神さまのご降臨では、新井先生の奥さんが、じつにきびしい、いい指導をしてくれたのです。そのころ、妙佼先生は神さまのご指導を伝える役をいただいており、実際にもできたのですが、それほど迫力はありませんでした。ところが立正佼成会を創立したら、俄然すごくなってしまったのです。私はこのことを、神さまが勇むと言っていたのですが、すごい迫力があるし、言うことが以前とすっかり変わって、別人のようになってしまいました。 以前はご降臨があるという場合に、妙佼先生がお題目を一生懸命唱える。私も後について助題目を唱えながら、一生懸命、神さまがご降臨になるように祈っているのですが、なかなかご降臨にならない。時間も相当かかるのでした。 ところが会を創立してからというもの、お題目を三度か四度唱えただけで、神さまが下がってきて、えらい勢いでズバズバ言うようになりました。 (昭和54年01月【速記録】) 神が勇む 五 毎日ということでもないのですが、神さまのご降臨になってしまつが悪い、と言っていいくらいの状態でした。ほとんど五、六年というものは、神の世界でした。たとえば、信者の家にお祀り込みに行ってお経をあげていると、いろいろなものが見えたとか、すぐに霊感が出て来て、パタパタ始まってしまうのです。 そういったことに対し、どう解釈するか、ということを私が調べるわけです。神さまからのいろいろなお言葉やご注意を、どのようにみなさんに聞かせて、疑惑なしに、どう納得してもらうかということが、私の役割でした。私は神さまと人間の間にはさまったような形で、始終そういう役目を受け持っていたわけです。 こうした中で、ひじょうにいろいろな不思議が、つぎからつぎへと顕われるわけです。 一つ一つその体験を積んでいくうちに、確かにこういうふうな気持ちになって、このようにいかなければならないという、その経路や理論は、あとからだんだんくっつけたもので、その場はとにかく、不思議があらわれて、病気も治ったのです。そして九星・六曜などいろいろの法則論もやりましたが、そのうちに、集中的に神さまがご降臨になる状態になりましたから、こんどは、法則論なんてものは、ほとんど返上し、神さまのお言葉に従って、一生懸命修行してみました。 ところが、そうしているうちに、われわれも人間ですから、妙佼先生の眼が悪くなったり、血圧が高くなったりして、あまり修行に集中してばかりいると、身体の具合が悪くなるというようなことで、また逆もどりして、こんどは法則論に返り、何か悪いことがあるのではないかと、三年、五年、六年と前のことを調べたりしました。そういう状態で、妙佼先生と私は、ともにやってきたわけです。 今になって考えてみますと、そうした問題を、いつも法則論に拘泥してしまうのでなく、また、ただ盲目的に信ずるというのでもいけない。とかく世間には、信じさえすれば良くても悪くてもかまわない、といった例もあるようですが、私どもは、それではいけないと考えました。ともかく妙佼先生の、あの神がかりの状態は、七、八年続いたのであります。 (昭和32年01月【速記録】) 神が勇む 六 私は、昭和十六年までは自分で商売をしておりました。商いから帰ると、自転車をおさめて、いくらお腹がすいていても、まずご供養申し上げ、ご供養をすませてから、ご飯を食べることにしていました。 ところが食事がすむと、こんどはお迎えが来る。すぐかけ出す。そして夜はたいてい十二時、一時までほうぼうを歩く。遅く帰って来ても、商売の関係上、朝四時になると起きて仕事を始める。仕事が終わるとご供養申し上げる。ご供養のあと、ご飯を大急ぎでかき込んで、またお導きに出かける。そういう修行をつぎからつぎへと重ねてきたわけです。 これは仏さまにやらせられたのだと思います。だから何の不平も不満もなく、ただひたすら、人さまが救われるということが楽しみでした。あそこにこんな結果が出た、こちらの精神的な病いが治った、こちらの家庭がひじょうに円満になった、どこそこの人がご法のとおりやったら、商売が大繁盛した──そういう報告を楽しみに、二十二年間というもの、苦しみよりも、楽しみのほうが多かった毎日だと思っております。 (昭和34年03月【速記録】) 神が勇む 七 入会しても、ただばくぜんと一年たってしまったとか、三年たっても功徳が出ないという人がよくあります。 しかし、そのような人は、一年あるいは三年の間に、お経の意味がどれだけ分かったか。それをどれだけ実行したか、を考えてみなければなりません。そのことを考えてこそ、一日一日が楽しみになり、生きた生活への指針を発見することができるのです。 自分の生き方を自覚しないで、他人さまに自分を活かしてくれる道をもってきてくれ、というのでは見当違いです。仏教は、根本的には私どもの生き方、身の処し方を教えたものであるからです。 (昭和28年06月【速記録】)...
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...御旗制定 一 立正佼成会の創立を契機として、私たちふたりは「日敬」「妙佼」と、それぞれ法名を名乗ることにしました。 本会創立の翌々年、急に妙佼先生の眼が悪くなり、電灯の光も見えなくなって、医師からはもうなんとしても治らないと宣告されました。 これには、よほどの原因があるに違いないと思い、啓示をいただいたところ、 「本尊の眼を出していないではないか、気をつけさせるために目を見えなくした」というご指導をいただきました。 さっそく恩師新井先生からご指導をいただき、本会としては、はじめての新しいご本尊の表現形態を制定したのであります。そのときのご本尊の形式は、中央に「南無妙法蓮華経」その向かって右側に「天壌無窮」左側に「異体同心」と謹書したものでした。 (昭和43年03月【本尊観】) 御旗制定 二 その意義は、法華経に示された真理を帰依の対象とし、その真理が時間的にも空間的にも永遠普遍(天壌無窮)であること、また異体同心をもって本会会員の修行の規範とすることを表示したものです。 この新しいご本尊の表現形態を、御旗の形式をかりて勧請したのが、昭和十五年四月五日でありました。当日は前日来の雨もからりと晴れあがって、幡ケ谷にあった妙佼先生の自宅と私の家までの間を、その御旗を先頭に行進をして広宣流布の決意を固めたのであります。 (昭和43年03月【本尊観】) 御旗制定 三 発会してまだ日も浅いため、わずかな人数でしたが、当時神さまから、この御旗をもって、四海帰妙の大先達として、汝らは立たなければならない、と命じられたのです。今日では、立正佼成会の存在も、この天壌無窮・異体同心の御旗に対しましても、ある程度認識が広まり、不思議な会だ、ひじょうに秩序整然としている、というようなことが言われております。こうした行動が、ひじょうに訓練されてできるようになった、と解釈しているかたもあるようですが、訓練は、いつもぜんぜんしていないのです。ただみなさんは、仏さまのお示しになった妙法蓮華経を、この悪世末法の時に弘める土台石になろうとしているところから、諸天善神のご加護をいただいているのです。三世諸仏のご守護のもとの行動によって、すべてのことから成就しているわけです。 したがって、訓練はしなくとも、練習はしなくとも、この異体同心の御旗の下には、完全な菩薩道を行ずるかたがたが、宿縁を熟して集まったのですから、必ず一糸乱れない行動ができるのです。 (昭和28年10月【速記録】) 御旗制定 四 この御旗が私どもが奉持いたしました以上は、どこまでも妙法蓮華経、この法華経の意味に徹した異体同心でなければならないのです。異体同心と言いましても、悪いことをするほうの異体同心になられたのでは、これはたいへんな問題になります。 私どもは、中央にお題目を掲げ、天地とともに窮りなく、異体同心の御旗のもとに、正しいご法を弘めなければならない役目があるのです。ただ口にお題目を唱えれば、人を納得させれば、はたして、法華経の真理に徹する心構えが完全にできるのかどうか、ということになりますと、これはなかなか難しいことであります。 私どもは十分に修養し、精進によって、この御旗の意義を完全に表わさなければならない大使命があるという心構えをもって、さらにいっそうの精進をお願いしたいのであります。 (昭和28年10月【速記録】)...
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