帰依三宝こそ導きの原点
この間、富山県で明るい社会づくり大会をやりまして、そのあとで北陸三県の教会長さん教区長さんと、いろいろの現況をお伺いしたわけでございます。そのとき福井の教会長さんが、最初にこのスローガンを聞いたとき、会長先生から、「導きというのはたいへんだ、と、そういう考え方で行くと中々入会してくれない。全力をあげてやってみようと、うのみに信じてしまって、自分の心の中にひっかかるところなく、パッと出ていくと導ける」とご指導いただいたのですが、どうも導きができないのでゆうつになり、だからスローガンを出されるたびにヒヤヒヤということで、腹の中でもんだそうでございます。
そして、聞いてみるとよそさんでは導きがあるようだ、ということでたいへんな悩みになってしまいました。そこでじっと反省してみると、会長先生があのときおっしゃったのはこれだな、「たいへんだと思ったら、子どもが全然動きませんよ」と前杖をつかれているんだ。これだ、私がいたらないために信者さんがご守護をいただけない。これは自分が仏さまのお光りをエボナイトになって止めている。これはたいへんだというので、支部長さんに集まっていただき、懺悔をしたのです。
私がこういう根性であったもんだから、導きができないのは私の責任でした、と支部長の前で涙を流して懺悔したのです。
そうしたところが、支部長さん全部が、いや教会長さん、私どもがいたらないために、教会長さんにそんな切ない思いをさせて申し訳けありません、懺悔をして歩きます。というので支部長さんが信者さんところへ懺悔して歩いたそうです。そうしたら、昨年は十八世帯ぐらいしか導けなかったのに、懺悔をしたらたちまちに百八十世帯導けた。そして次の月には二百世帯導けたということです。
そういうことで話しがにぎやかになり、お蔭さまで向こうのほうの教会では、先生のいわれたように、一人が一人を導くというこの軌道に乗って、各教会が去年の導きの十倍ぐらいの成績が上がりそうですからご安心ください、ということでございます。
私はほんとうに救われて帰ってきましたが、私はそこでこういう話しをさせていただきました。「支部長さん、あなたのおっしゃったことがちゃんと法華経に書いてございます。懺悔滅罪ということがいわれているが、われわれの業があるためにお導きができない。自分の精進もできない。そういう人間はほんとうの導きも出てこない。そこで懺悔するならば、『端坐して実相を思え衆罪は霜露の如し慧日能く消除す』、ほんとうの懺悔をして自分がそこへ行ったら、朝露が、お日さまが上ったら消えるようにちゃんと消えて、あなたのいわれることは、ちゃんとお釈迦さまはお見通しですよ、ほんとうにありがたいですね」というので、一生懸命ご奮闘くださることを約束して帰ってきたのであります。