心に歓喜をもって精進を
私どもは一生懸命お題目を唱え、そして人さまをお導きさせていただく、このことによって自分の業障さもよくわからせてもらうし、人さまの因縁ということが、信行の実践によって救われていくという形態も、つまびらかに目の前に現われて、真直ぐに信じて精進する人はみるみるうちに救われていく、疑惑を持ち不平をいっている人は一向に救われない。お題目を唱え、朝夕のご供養も怠けないで、お導きもしている。しかしあの人はよく信じてない、どこか心がいつもとげとげして突き当ってくる。そういう人は中々救われない。
一方、あまり理屈はわからないが、ありがたいありがたいとまっしぐらに菩薩行をする。ああしろといわれればありがとうございます。こうしろといわれればありがとうございます。小言をいえばご功徳をちょうだいしたというんで、何でも感謝でもってもりもり進んでいく、こういう人が救われていくんですね。これをみてると法華経というものは生きているんだ、仏説というものは生きていて、呼吸をしてるんだということを、皆さんが味わっていらっしゃると思うのです。これは導きをした人ですよ。お導きもしないで、きょうは妙佼先生の十七回忌、ありがたい先生のご命日だからお参りしましょうというので、首に縄つけて引っ張って来られる思いで来られた方もあるかと思いますが、そういう方でも、お参りに来れば来ただけの功徳はあります。
ですが、心に歓喜を持った人と、不平を持った人とでは、そこに差が出てきている。こういうふうに法華経は全く生きているわけです。そういういろいろのことを体験してみますと、これはもう、疑ぐりなさいといっても疑ぐる余地はないわけですね。信じるよりほかに道にないということになります。
──口にいい表わして救いとなる──
昨日、五時半からラジオの放送を聞いておりますと、増谷文雄先生のお話しがあったわけです、先生は生まれながらにお寺の長男として生まれている。ですからすべての儀式とか法則にのっとって小さいときから仏教の影響を受けてるわけですけれども、お参りしていても信じられない人がいるように、因縁をかなぐり捨てて、お寺の坊主をきらって東大へ入学したのであります。
それは、どうも念仏宗が南無阿弥陀仏を称えていれば極楽往生するという。そんなことをいうからお寺の坊主はきらいだと、どうしても好きになれなかったというのです。
ところが、師事した姉崎先生から何をやるかというのでせんさくしたときに、仏教とキリスト教の比較対照学をやることになったんです。そうしているうちに、称名念仏という安易な成仏論に疑惑があったもんですから、仏になるという体質は、とても凡夫の手に届かないところであるという気がするんです。われわれは罪悪深重で、罪が深くてどうにも救いようのない人間だというふうに増谷先生は、少年から青年時代にそういう気持ちが非常に強かったのであります。