厳しい修行を受けてこそ
昨晩お山で、妙佼先生がお亡くなりになる年の一月のご挨拶の一部を聞いたのですが、それを聞くと、人間の根性というものは、自分で修行しようと思ったって、そのうちに自分のわがままなほうに心が傾いてしまう。そこで道場へお参りをして、支部長さんや先輩のご指導をいただいて常に心に磨きをかける。そういう修行をしていないと、人間はだんだんと楽を好んで堕落してしまう。そういうお言葉が録音の中にありました。
そういう他力本願でなくって、ほんとうに自分で実践していくところに救いがあるんだという心構え、これを皆さんに「そんなことじゃだめだ。そんな修行ではだめだ」とバリバリいわれたわけであります。
ですから、いまの、私どものような甘い考えでいますと、妙佼先生をお慕いするのはけっこうですが、ほんとうのお慕いということになると、朝のご供養を怠けるとか、ご命日の読経の時間に間に合わんというようなことでは、心の構えが違ってやせんかと思うのであります。
それは、たとえば家を捨てて家族というものに執われてはならない。こういうご指導です。ですから、時間がない。手間はない。物はないという時代でも、自分の家業にまた妻子に執われがあったんでは、ほんとうの法華経行者としての考え方ではない。こういう立場をとってビシビシご指導されたわけであります。
ですから、いまは亡き妙佼先生のことを考えますと、ほんとうに慈母のように思われるのであります。そして仰せになったことが次々と実現して、まったくお見通しであった。神さまのみ心を間違いなく伝えてくださるお方であった。このように妙佼先生を思い起こすと後光がさしている。そういう気持ちでございます。
ところが、現在の自分の生活の中に妙佼先生がおいでになったら、「お前たちの修行はなんだ」と、こういうことで顔色を変えて怒りなさると思うんです。そういうことを昨晩の録音から強く腹にこたえたような感じがするわけです。
私ども、だれも、人間の皮をかぶって生きているうちは、どんなに精進したといってもロクなことはできない、たかがしれているんだと、そこで神さまのご指導どおりの行ないをすることが先決だ、救われはそこにあるんだという心の姿勢が大事なのであります。いま妙佼先生がお出ましになって一人ひとりに会われたら、みんな顔を赤らめ仰天するのじゃないかと思うのであります。
そういう意味で、十七回忌を迎えた今日、一人が一人を導くということを考えてみると、たいへんおおらかな無理のない言葉でして、これをソロバンではじくとすぐに倍になる。これは無理かというと一人ぐらいは導けるだろうという安堵感があるのであります。