このように戦争がたけなわになって危険になればなるほど、時間もなければ手間もないのに、さきほど玉村(杉並教会長)さんがおっしゃったように、ご命日というと、不便の中を皆さん時間までにおいでになって、とにかく家の中へ入りきれず外にいるような状態であったわけです。
時間がなく、国民が一億一心で戦争に全力をあげなくちゃならんというときも、皆さんに、ちゃんとお参りをきちんとするようでないとご守護がいただけないんだと、こういうことですからたいへんな要求であったような気がするのであります。ところが無理な要求のようではあるけれども、その当時の人はそれをちゃんと信じてやってきたのであります。
きょうは、妙佼先生のご命日だから少し耳の痛いことを申しあげたいと思いますが、ご命日の九時の読経の始まったときには、この聖堂の四階がいっぱいでなくまばらであるということは、いまの信者数、そして組織、そして皆さんの教学、こういういろいろの整ったときにあたり、また自分で車を持っている方もいれば、時間もあり余ってその使い方をどうするかという時代であります。したがって自分の心意気によってどういうふうにでもなると思うのであります。そのように考えますと、現在はいかに堕落しているか、やっぱり信仰心がゆるんでいるということがいえると思うんであります。それをゆるんでいるというようなことを教会長さんがおっしゃらないところが、現在の状態だと思うんです。
そこで、ご命日のお参りにちゃんとご供養の時間までに来ないということは、ほんとうの信者とはいえないですね。物もなければ時間もない、手間もない、どうしようもないという時代にそれを皆さんが実行していたんですね。
ですから、昨晩お集まりくださった方々は、いま教会長でご苦労してくださっている方々でして、私とだいたい同じくらいの年輩の方々は、子どもさんから、うちの親は薄情でどうにもならないと、いまの時代なら追放されるくらい、子どもというものを忘れて精進された方々なのです。