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...創立のとき 一 ながい冬がようやく終わりを告げ、暖かい光がさんさんと降りそそぐ春がやってまいりました。土は黒ずみ、草は萌え、鳥は歌い、虫たちも動きだしてきました。まことに天地万物が新しい躍動を開始するときであります。お釈迦さまもこの季節にお生まれになりました。立正佼成会もこの時期に誕生しました。 なにも意識的にこの季節をえらんで創立したわけではないのですが、今振り返ってみますと、なにかそこに、運命の糸のつながりを感じざるをえません。おろそかならぬ仏意を直覚せざるをえないのであります。 (昭和43年04月【佼成】) 立正佼成会が呱々の声をあげたのは、昭和十三年三月五日。当時、中野区神明町にあった自宅の牛乳屋の二階を本部に、妙佼先生とともに「大日本立正交成会」を創立したのでした。信者といえばわずか三十人たらず、日中戦争がいよいよ激しくなる世情のなかで「法華経を学び、それを日常生活の規範としてともどもに幸せになろうではないか」というのが発会の動機でした。 (昭和43年03月【佼成新聞】) 創立のとき 二 立正佼成会の発会式は、妙佼先生の家で挙げました。当時、どこでやるかということになり、相談の結果、妙佼先生の家の近所に信者がいちばん多かったため、信者の時間をなるべくたいせつにするということで、妙佼先生の家にきまったわけです。 妙佼先生は、隣近所を片っ端から一軒一軒全部導いていたので、妙佼先生の近所は信者がいちばんまとまっていたのです。 そのころはまだ経巻もできていないので、大急ぎでガリ版刷りをして、各自がそれを貼りつけて経巻をつくり、なんとか発会式を挙げたしだいでした。 (昭和51年04月【求道】) 創立のとき 三 妙佼先生の家は焼芋屋さんで、普通のしもた屋を二軒買って、一軒は全部を土間にし、そこにサツマイモが積まれていました。そして大きな、ちょうど、この台(註・大聖堂の演台)一つぐらいの、芋を焼く釜があって、冬は芋を焼き、夏はその釜の上で氷をかき、かき氷を売るというような店でした。 住まいは四畳半と六畳というような、まことに狭いもので、現在、教会にお手配があっておかれている連絡所にも及ばない、畳数を全部合わせても十何畳、二十畳までもない狭い家でした。したがって、芋を積む土間にも、みなさんが立っているという状態でした。もちろん、人数は少なかったのですが、まことに在家仏教教団の発足としてふさわしいものでした。当時のことを思い起こしますと、感慨無量であります。 こうして法華経を依り所として、みなさんとともに誓い合って精進をさせてもらうことになったのであります。 (昭和52年05月【求道】) 創立のとき 四 立正佼成会が産ぶ声をあげたときのことを振り返ってみますと、お経の中に「お釈迦さまが法華経の説法をなさるとき、地が六種に震動した」とありますが、当日説法をしている最中に、ちょうど、地震があったのです。まことに小さい地震でしたが、「これが六種に震動するということかな」などと喜んだものでした。 しかし、お経をよく読んでみますと、これは地震があったというようなことではありません。われわれの六根、つまり眼、耳、鼻、舌、身、意に、完全にお釈迦さまの教えが行きわたったということです。その六根に真に響かなければ、説法の値打ちがないのです。 お釈迦さまのお言葉は、二千五百年前にお説きになったことが、今日の私どもの六根にも響いているのです。そして私どものすべての行動、すべての判断に影響を与えているのです。お釈迦さまの教えに従えば、どのように過去に業のある人でも、即座に問題は解決する。しかし人間の本能のままに行動しますと、ややもすると三悪道にまっさかさまに堕ちてゆく──そえが私どもの実際の姿です。 このように考えてきますと、六種に震動するというあの言葉は、ひじょうに大きな意味を持っていると考えるべきではないかと思います。ともあれ、立正佼成会の発足の日に、ちょうど地震がありましたので「これが地が六種に震動したことだ」と、私どもはたいへん喜んだものでした。 (昭和36年03月【速記録】) 創立のとき 五 約三十人の会員で出発したんですけれど、命がけでやっているのは私と妙佼先生のふたりくらいのもので、ほかは、みんなぶら下がっていたのです。 (昭和53年03月【躍進】) 当時、私は牛乳屋をしておりました。そして妙佼先生は焼芋屋、夏は氷を売っているという在家の者でした。 このふたりが中心になって会を始めたのですから、海のものか山のものか、いったい教団ということになるのか、ならないのかわからなかったのですが、名前のほうは「大日本立正交成会」という、たいへん活発な名をつけたのでした。 (昭和52年05月【求道】) 立正佼成会の”立正”は、正法──正しい教え──ということで、佼成というのは、人びとの交わり合いのなかで人格を完成していこう──人間同士が本当の語り合いをしよう──という意味で、この字をつかったわけです。 (昭和43年03月【佼成】) 戦争が終わる少し前のことですが、“大”というような字をつけるのは、どうもかんばしくないというので、“大日本”をとって「立正交成会」としたのです。 (昭和52年05月【求道】)...
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...八白中宮の年に 一 立正佼成会が創立された昭和十三年は、八白の寅年でした。 (昭和49年04月【躍進】) 八白中宮というのは、いわば竹の節に相当いたします。つまり変わり目であって、きょうが終わり、あすが始まる夜明けの意味であります。また人間一代について言えば、親に代わって子どもが跡を継ぐという意味合いをもっております。 (昭和39年12月【佼成】) 八白中宮の年に 二 昭和十三年といえば、前年に日中戦争(支那事変)が起こり、その年の一月あたりから、いよいよ長期戦となる見通しとなりました。「国民政府を相手にせず」などという政府声明が出され、日本は世界の孤児的な様相をいよいよ深めつつあったのです。 そして四月には、経済も、国民生活も、すべてをあげて戦争に集結・動員さるべきことを法的に決めた国家総動員法が、議会を通過しました。 (昭和49年04月【躍進】) 資源の極端に乏しい日本は、大陸への侵略を始め、やがては石油・ゴム・錫等を求めて南方への進出をめざしました。物資の輸入はドンドン減り、当時の国民的衣料だった綿の使用も制限されるようになり、銅・ガソリンなども軍需に関係ない使用はほとんど禁止されました。予算の膨張はインフレをもたらし、物価は騰貴し、儲けるのは軍需会社ばかりで、庶民の生活は窮乏におもむく一方でした。 このような時代に、立正佼成会は、学問も、地位も、名もない一介の青年の手によってつくられたのです。 (昭和49年03月【佼成】) 八白中宮の年に 三 立正佼成会が発足した当時の、世の中の声、人びとの要望していたことを考えてみますと、現在とはだいぶようすが違っております。 当時の立正佼成会は、現実に表われたものを一つ一つとらえて、たとえば、その日の天気が悪いこと、病気になったこと、気分が悪いということ、また色情の因縁があって隠しておいたことがさらえ出されたなどといった、すべての現実に表われたことをとらえて、これがどういうわけで、どういう関係からそうなったか、という原因を深く追求いたしました。そして解決策を──私どもは“結び”という言葉を使っておりますが──先輩からいろいろ解説していただいたのであります。 ところが、当時の宗教界、一般社会の声を聞きますと、このような結果にとらわれている宗教は、まことに下劣な宗教である、下等な宗教であるというのが、だいたいの世評でありました。 (昭和28年02月【速記録】) 立正佼成会を創立したころは、三十名あまりのささやかな集まりにすぎず、めいめいの心のなかにこそ法華経の教義への理解と深い帰依はありましたけれども、世間に示しうるほどの教学体系などはまだできあがっていませんでした。 教団としての背景もなければ、実績もありません。したがって、世間の信用などあるはずはありません。一般の人びとは「牛乳屋のおやじと芋屋のおばさんが、病気治しや商売繁盛の信仰をやっているそうだ」ぐらいにしか見ていなかったのです。外部の人は法を見ず、表面の形体しか見ないのですから、きわめて当然のことだったわけです。 (昭和43年11月【佼成】) 八白中宮の年に 四 新しい宗教団体はとかく世間からいろいろと批判の対象となります。しかし一般的に言って新しい宗教団体のいちばん力としますところは、どなたにも分かるような平易な教えで、どなたにも納得のいくような話ができるということで、これがまた特徴だと思います。仏教はだんだんにお経というものから教学的な形につくられまして、ひじょうに難しく、ちょっと読んでも分からんようなところが多いのであります。もっとも人の分からんようなものがありがたいんだ、分からなくてもいいんだというような行き方が、今日、仏教がだんだんに一般民衆の生活から遊離していった原因じゃないかと思うのであります。それではお釈迦さまのご説法がそんなに難しいことばかりであったかというと、本当はそうではなかったように思われるのであります。 (昭和30年09月【佼成】) お釈迦さまは、一切衆生を済度しようと思い立たれました。宗教家が宗学をどんなに身につけて、一生懸命に勉強しましても、人びとを済度するということに目が向かないと、その勉強はぜんぜん生きてこないのです。ご法は死んでしまうのであります。 (昭和32年12月【速記録】) 八白中宮の年に 五 仏教学者で新しい宗教をもひじょうに理解されておる渡辺楳雄博士は、宗教関係指導者の集まりにおきまして、大体つぎのようなお話をされたのであります。すなわち、徳川時代には仏教において現世の問題に触れることを許されなかった。そこでお坊さんたちはみな来世の問題だけを説いたのである。また明治時代になりますと排仏毀釈が行なわれて、神道がしだいに国家の権威を背景に勃興し、いわゆる敬神崇祖が強調され、神詣りなどが奨励されたが、これも形だけの信仰に過ぎなかった。その結果既成仏教はたんなる葬式仏教に終わり、神道も魂の抜けた礼拝神道に堕してしまった。というような意味のお話をされましたが、まことにそのとおりでありまして、仏教の本筋の中にはぜんぜん狂いのないハッキリした光があり、仏教の教えこそ私どもの生活の規範であることが明らかなのでありますが、既成宗教ではそれを大衆の中に積極的に伝達することを怠っていたことがおのずから分かるのであります。 (昭和32年01月【佼成】) 八白中宮の年に 六 仏教は、死んでから仏になるためのものではありません。生きているうちに目ざめるため教えなのです。目ざめることによって、普通の人と変わらぬ生活をしながらも、心がノビノビと自由自在になり、苦しいことも苦しく感じなくなり、することなすことがひとりでに法則にかなうようになり、本当の意味の、幸福な人間になるための教え……それが仏教なのです。 このような仏教の本質を知らない人が、仏教は厭世的なもの、抹香臭いもの、あの世のためのものといった誤解を抱くのであって、そのような誤解を一掃して、本当の仏教を日本中の人に、いや世界中の人に知ってもらうことが、立正佼成会の一つの大きな使命であるといってもいいでしょう。 (昭和44年06月【佼成】) 仏教とは生活そのものです。生きがいのある生活をいかに営むかを教えるものです。したがって、徹底して生活指導が行なわれておれば、そこには当然、感謝報恩の念が生まれ、自然に導きということになって現われてくるのが本当です。 わたしの影をふむ者が、わたしにいちばん身近な人間であると思ってはいけない。たとえ百年、千年の後であっても、わたしの説のとおり実践する者が、わたしにいちばん身近な者である、と釈尊は申されております。 (昭和45年03月【求道】) 八白中宮の年に 七 人びとによびかけて、本当の仏教を知らない闇の世界から、明るい世界に導いてあげる。一軒ずつ、みんな節をつけてあげる。今まで知らなかった人に知らせてあげるということは、これは一つの節をつけることです。今まで暗かった人を、明るくしてあげる───これが八白の星であります。 (昭和39年11月【速記録】) 八白中宮の年、いわば竹の節のようなもので闇から夜明けを迎え、新しい方向へ動く時節です。その意味で、私どもが新しい心構えで、暗い心で迷っているかたがたを明るい仏の慈悲の光によって照らすのも節、今まで法を知らなかった人びとに法を知らしめて転換するのも新しい節であるわけです。 (昭和39年12月【佼成】)...
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...創立の頃 一 私が立正佼成会を創立したのは、現実に人を救い、世を立て直そうという熱意のゆえでありました。しかも、本当に人を救い世を立て直すには、法華経にこめられている真の仏教精神を弘めるほかないという確信を得たからでありました。そして、わずかばかりの同志とともに、死物狂いともいうべきお導きの行の挺身しました。 (昭和43年12月【佼成】) 私たちは、「これは仏さまのみ心にかなうことだ。よいことだ」という固い信念をもって、体当たりの菩薩行をつづけました。ただひたすら行ずるのみ……といった明け暮れでした。ほかに誇りうるものはなにもありませんでしたけれども、鳥窠禅師が「八十の翁も行じえず」といったことをとにもかくにも行じえたということだけは、自信をもって言いきれるのです。 (昭和43年11月【佼成】) そのころの私自身を追憶してみますと、目はまだ世界へ大きく開いてはいませんでしたが、法華経によって人を救うのだ……という気概だけは、当たるべからざるものがあったように思います。とにかく、法に対する帰依の純粋さと、「よし、この法のためなら、どんなことでもするぞ」という勇気とは、いま思い出しても身が引き締まるような感じがします。そして、何とも言えぬ懐かしさ覚えます。 (昭和49年03月【佼成】) 創立の頃 二 立正佼成会が始まったころは、すべてがささやかなものでした。私のうちの二階が本部ということで、ご宝前といっても普通のご仏壇があっただけです。そういうところでも、ご法はけっして小さいものではないのだと、私どもはひじょうに大きな希望を胸に描いて、会を発足させたのでした。 その当時は、あまり天下国家を論じたりすると、あれは少し左巻きじゃないかと、おそらく世間の人が笑ったろうというような、そんな時勢でした。そこで私どもは、手近なところ、いろいろな生活に困っている人を目当てに、活動を始めました。 あそこは不幸だ、あそこは病気で苦しんでいるといった、つまり経済的に困っている人、精神的、肉体的に悩んでいる人、そういう難儀をしているところを、まず目標とし、その人たちをいっときも早く救わなくてはならない、それが急務だと考えました。 いつも私が、幹部指導のときにこの話をして、みなさんを笑わせるのですが、お産があると言えば引っ張り出され、臨終だと言えば呼ばれ、葬式は無論のことでした。もう人事百般のすべてのことに関係しなくてはなりません。 当時、私は牛乳屋を商売としておりまして、大みそかの日などは、集金とお正月の一日、二日分の牛乳を配達するので、まあ普段の三倍も四倍も仕事があるのです。 ところが、その大みそかの日に、たまたま信者のかたが亡くなられ、だれか行ってくれないかといったけれども、だれも行き手がないのです。みなさん、今のように時間の余裕のある人が、まことに少なかったのです。 しかし大みそかの日にお葬式を出さないと、これは正月まで持ち越しになってしまいます。そこで、四人前も五人前も働かなくてはならない私でしたが、その信者の家に行き、導師をし、お葬式をしなくてはならない。とても礼装をしてはおれませんから、牛乳配達に出かけるときに、配達車の引き出しに、たすきとお数珠、経巻を入れて持って行き、引導を渡して葬式を出し、また数珠や経巻をしまって、さっそくつぎの配達というような状態でした。みなさんが忙しくてだめだというなかを、私も忙しいけれども、ちゃんと仕事は自分でやってきた経験があるのです。 (昭和46年12月【速記録】) 創立の頃 三 今は昔と違って、サラリーマンが多くなっております。昔は自分で商売する人が多かったようです。自分で商売しているのですから、時間も余裕があるかわり、きまった勤務時間で、きまった収入があるというような安定した人は、きわめて少ない時代でした。立正佼成会が始まった三十八年前(昭和十三年)は、そういう意味で不安定な時代でした。 私がもう何回もお話をしたことですが、中野の坂上に職業安定所がありました。そこへみなさんが五時には整列しなければならないので、奥さんは三時に起きてお弁当をつくって、旦那さんを送り出すわけです。そこに集まる人は、全部でざっと五百人。ところが一日に就労できるのは百人から百二十人です。五分の一ぐらいの人は仕事にありつくが、あとの人は「ごくろうさんでした」と断わられ、弁当を持ったままうちへ帰る。そんなふうに職業難の時代だったのです。そうした時代に立正佼成会は始まったのです。 立正佼成会の発足三年目の十六年には、太平洋戦争が始まったのです。戦争をひかえて、いろいろな無理なことが社会に横行しておりました。太平洋戦争に入る前から、早い人は召集令状が来ておりました。宣戦布告で戦争を始めたときは、一挙に半年でアメリカをやっつけてしまおう、そういう計画なんですから、たいへんな野望を胸に、社会の青写真も戦争にまっしぐらに進んでいました。 私どもは、そういうことは知るよしもないのですが、国がそういう状態でした。このため私どもの身辺は、着物のしまが縦であろうが、横であろうが、斜めであろうが、そんなことは構わない。ひざに穴があけば、継ぎをして着なければならない。そういう時代でした。 経済状態がよくない。栄養が不足している。そして心も不安定となると、病人はどんどん増える一方でした。当時、肺病患者が多かったのは、こうした栄養の不足、ひじょうに不規則な生活、不安定な心理状態が、大きな原因であったと思います。 (昭和51年09月【速記録】) 創立の頃 四 人びとは実際に栄養が足りないために、どんどん倒れてゆきました。肋膜炎や肺病などという病気は、栄養をとって養生しておれば治るものです。ところが、栄養が足りないうえに、労働しなければならない。戦争に向かってまっしぐら、一億総動員で働かなくてはならない時代で、人びとは追いまくられておりますから、どんどん病気で倒れていく条件の中にあったわけです。 そういった悪条件の中でも、それを乗り越えて信仰するような、すばらしい心を持った人びとは「衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現じたもう」(法華経・如来神力品第二十一)とお経にあるように、どんどん病気が治ったものです。 ですから、心を直すということが、いかに大事なことかということを、そのときも、私どもは体験しているわけです。 (昭和50年08月【求道】) 創立の頃 五 長い病気、とくに肺結核で苦しんでいる人が多かった。現在のような健康保険などありもしないし、結核にかかれば必ずと言っていいほど貧苦に追い討ちをかけられた。だから、信仰の形も、教えの本質へじっくり食いこんで行くよりも、もっと直接的なものが求められていた。(中略) 宣伝力も、大衆動員力もない、発足したばかりの小さな宗教団体にとって、最初から抽象的な理想だけを説いてはおられない。庶民大衆の切実な願望に応える〈方便〉の教えからはいらざるをえなかった。 それで、取りあえずは霊友会の信仰活動を踏襲して、〈病気治し〉を主たる活動としたのであった。 こういう時代に、私の片腕として妙佼先生がおられたということは、じつに尊いことであった。その強い霊能は、数えきれないほどの人びとの病気や不幸を救ったし、また女としてあらゆる苦労をなめつくした体験からにじみ出る人生指導は、同じような悩みを持つ婦人たちに、大きな共感をもって迎えられた。 書斎にこもって議論や著述ばかりしておれば事のすむ学者や宗教評論家などは、そうした活動をきびしく批判されるけれども、その人だって、いま現実に街頭に出て、本当に人助けの行動をすることになったとしたら、はたして高遠な理想ばかりを説いておられるだろうか。 まずもって、現実の苦しみを救う。それは方便である。世の中にはいろいろな人がいる。頭脳も、心境も、境遇も千差万別である。それらの人をもれなく救うには、釈尊のお言葉にもあるとおり〈万億の方便〉が必要なのである。その〈方便〉のみを見て、現世利益追求などと批判するのは、見方が浅いと言わざるをえない。 まず現実の苦しみを救うという〈方便〉からはいって、だんだんに仏道の〈真実〉へすすむ。すなわち人間としての正しい生き方を教え、自他の人格を完成することによって、この世に絶対の平和境をうち立てるという理想をめざすように導く……これが大衆を救ってゆく正しい順序ではないだろうか。 方便の〈方〉というのは〈正しい〉という意味である。〈便〉というのは〈手段〉という意味である。究極の〈真実〉だけを見て、それに達するまでの〈方便〉を見ないのは、片手落ちの偏見であり、空論といわねばならない。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 創立の頃 六 お釈迦さまは悩み苦しむ一切衆生を救うために五十年間ひじょうに尊い智慧と深いお慈悲で、どういうふうにしたならば人びとを幸せにできるかというので、いろいろのご法門を説かれたのであります。国王の身にお生まれになりながら出家をされて、三十歳にして得度され、お悟りを開いて五十年間説法を続けられたということになっております。しかも、そのご法門は八万四千という厖大なものでありまして、お釈迦さまご一代に遺されたお言葉を全部まとめますと、馬に七駄もあるというほどのお経だということであります。 それではなぜお釈迦さまは最初から私どもの信奉している法華経をお説きにならなかったかということになると思いますが、それは端的に申しますならば、本当の正しいご法をお説きになるという機が熟さなかったためだろうと思います。三部経をお読みになっているかたはご存じでしょうが、お釈迦さまは私ども人間の本質というものを分からせるために、五十年間説法をされたということが法華経の中に書いてあります。その順序をハッキリと示され、仏眼を開いて仏さまの悟りの状態の一部始終をお説きになられ、もう少しも隠すところなく全部打ち明けられたのであります。 こうなりますと、お釈迦さまのお弟子として四十年間も従って来たかたがたでさえも、どうも、今まではなんでも自分の問題を持ってくればただちにそれを結んで、こういうふうにすればいい、ああいう風にするんだということをお説きになったが、お経の始まりを見ますというと、「方便品」にありますように、口を結んで説かれないので、どうしても説いていただきたいと舎利弗尊者が三度にわたってお願いをした結果、やっと口を開かれたとありますが本当のことを言うとたいていの人なら疑惑を持ってしまいます。そこで説いても疑惑を持たないような信仰状態になるまでは、真実が説けなかったということであります。 つまり聴く人の機根が整わないうちに説くよりも、順々に機の熟するのを待って五十年間方便でもってお弟子の機根を順々に引き上げた上で初めて真実をお説きになったと解すべきでありましょう。 (昭和30年12月【佼成】) 要するに、人間にはだれひとりとして悩みのない者はないのでありますから、その悩みを解決するためには、物質面と精神面とを問わずあらゆる方法手段をもって方便とする場合が多いのは当然でありますが、その方便に固執して真実を失うことのなきよう戒心すると同時に、みずからも正し、人を正す宗教の使命目的にそってつねに方便は真実でなければならぬのであります。 私ども法華経の大法を信奉する仏教徒は、あくまでも完全円満なる人格者たる仏身を成就する方法を教えられた法華経を身に読んで、その意味を深く味わい、つねにみずからを反省懺悔し、菩薩行を実践してゆくことを根本目的としなくてはならぬ、と確信いたしているしだいであります。 (昭和29年10月【佼成】) ...
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...本部・中野区神明町 一 発会式に参加したのは二十五、六人でした。発会式に来なかった人たちでも、こちらから行くと、「それじゃ、わたしもやろうか」と入会する人もあり、そうこうしているうちに、たちまち会員は三百人ぐらいになりました。 ご命日に七十人も来ると、本部である私の家は、もう入りきれません。二階が四畳半と六畳、それに廊下があって、裏に物干し台がありましたが、どこもいっぱいになり、看板の裏まで人がいるありさまでした。大勢の人の重みで、二階の床が下がり、階下の押し入れの戸がぜんぜん動かなくなりました。下の六畳に子どもを寝かせていましたが、眠っている子どもの間を、みんなが抜き足さし足で二階に上がってくるのですから、たいへんだったわけです。 (昭和54年01月【速記録】) 本部・中野区神明町 二 発展期の修行のようすは、今の人たちには本当にはわからないと思います。さまざまな配慮が必要でした。 今は在家とはいえ、朝から晩まで法だけを専心している人もいます。女性の教会長の場合でも、家には陰役のお手伝いさんがいて、お勝手などぜんぜんしなくてもすむようです。 しかし当時の支部長は、店も、お勝手もみんな片づけて、なおかつ支部長の役目を果たすのですから、その人の奉仕の限界がどれくらいなのかということが、支部長にする場合のたいせつな基準になったのです。 ですから、「一日か二日家を空けられるような人を支部長にしなさい」といったくらいで、ともかく仕事にさしさわりのないようにと考えて、布教をしました。 (昭和54年03月【速記録】) 初めは多くの信者を導いた人を中心に、その導きの子・孫といった系統で支部を形成し、長沼支部、松沢支部、井桁支部、丸山支部、福田支部というふうに支部長名を冠していた。しだいにその数が増えてきたので、昭和十八年から二十年には第一(富樫)第二(森田)第三(長沼)第四(有路)第五(鎮野)第六(寺尾)第七(岡部)第八(保谷)と数字で呼ぶようになった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 本部・中野区神明町 三 草創期には発展も速いかわり、新宗教の特徴として、脱落者も多いのです。入会して、熱心に活動していると思っているうちに、音頭取りのひとりが脱落すると、たちまち、右へならえというありさまです。なにぶん、本部が手薄なため、その人に任せていたせいもあるでしょう。流動的なのです。それがひじょうに激しいのです。現在は、そんな流動性がないので、どうしても既成教団くさいところが出てくるのです。 そのころは、パーッとお導きをすると、三十人や五十人はすぐできる。ところが中のだれかひとりが、落ちると、他の人もつづいて落ちてゆく。たくさんの入会者のあるときは、一方ではむやみと落ちる。そうしたことを、さまざまに繰り返しているうちに、少しずつ残る人が増えてくるのです。 家に病人があって、どうしようもないようなときには、信仰に頼って会に日参する。そういうときには病気のほうもぐんぐん快方に向かってゆくので、それを見た周囲の病気もちの人たちが、たくさん入会してくる。そして、その人たちも治ってくると、病気治しの信仰ということで、続々と入会してくる、といったあんばいです。 ところが病気が治ってしまうと、それまでは借金をして、電車賃をつくってまで通ってきた人たちは、来なくなってしまうのです。「病気のうちは治りたい一心で、なんとか来るけれども、病気が治ってしまうと来られないのだな」と、悪口を言ったこともあるくらいでした。 ですから病気治しのときは続々と入会するが、一方では脱落する人も多いという経験を、さんざん繰り返したわけです。 私どもは、まるでお医者さんの回診のようなもので、病人にとってみれば、毎日でも来てもらいたいのだから、まったく暇がとれません。こちらが真剣になって治してあげると、来なくなるのです。年中、賽の河原の石積みをしていたようなものでした。 (昭和54年03月【速記録】) 本部・中野区神明町 四 当時は自転車を使うなどということは、容易にできないものですから、私が、自転車の後ろに妙佼先生を乗せて、ふたり乗りでほうぼうに出かけたものでした。不思議なことに、神さまが私たちに行じさせてくださるように、しくみができていたのでしょうか、こんなことがありました。 忙しい日々の中でも、どうかすると一日中、どこも特別来てくれという家がない、といったときがありました。そこで、もう二年も三年も、映画も芝居も見たことがないので、きょうは一度映画を見に行きませんか、と妙佼先生が言うのです。私の店は角店で、人のたくさん来るところでしたから、映画館のポスターを貼る、そのお礼に、いつも無料入場券が来ていたものです。「そうだな、きょうは一つ行ってみようか」と、自転車に乗って、当時はまだ幡ケ谷三丁目にいたのですが、成子坂の富士館という映画館に行こうと出かけました。 ところが映画館に着く前に、お巡りさんにつかまってしまいました。ふたり乗りの現場を見つかったわけです。お導き、祀り込みに行くときには、時には荻窪のほうまで、途中交番を五つも六つも越して行くのですが、不思議なことに、交番の前を通るときでも、いつもお巡りさんが内のほうを向いていて、一回も見つからないですんだのでした。 ところが映画館へ行こうと出かけたら、たちまち「こらっ」と見つかってしまう。「しまった」と、すぐ妙佼先生を降ろして「どうもすみません」「こんな暗い道で、ふたり乗っちゃいかんぞ」と言われて、平身低頭というありさまです。「どうも縁起が悪い。もうやめちゃおう」と、せっかく途中まで来たけれど、映画館には行かずに帰ってしまいました。 (昭和34年09月【速記録】) 本部・中野区神明町 五 その時分は私も貧乏でした。信者が多くなるので道場を建てたい。しかし生活のために、まず商売をしなくてはならない。漬物屋を牛乳屋に変えたのは、よくよくのあがきでした。 そのころ、私のところに集まったお賽銭は、今月は陸軍省に、今月は海軍省にと、1か月おきに献金することになっていました。十三円から十六円ぐらいを、中野の警察署にまとめて持って行ったものです。 (昭和54年01月【速記録】) 信者には、一か月二十銭の会費だけを納めてもらっていた。お経巻と過去帳が五十銭、お数珠が一円三十銭だった。 そのお数珠もまとめて仕入れてくることもできず、立正佼成会よりすこし前に霊友会から別れて独立していた思親会に行って、少しずつ分けてもらっていた。 入会して来る人は、難病に苦しんでいるとか、家族に気の狂った人がいるとか、それも、経済上その他の事情で満足に医者にもかかれない、という人が圧倒的だった。 なにしろ世間から見れば、牛乳屋のおやじと芋屋のおばさんが牛乳屋の二階でやっている“えたいの知れぬ信仰”だったのだから、ワラにでもすがりたい切羽詰まった人でなければやって来るはずがなかった。 向こうから入会して来る人は何でもないが、こちらから出かけて行って導くのはじつに骨が折れた。私は正攻法で攻めてゆき、自分の意志で入信するように導くのが主義だったが、妙佼先生には「とにかくはいらなければありがたさはわからない」といった独特のひたむきさというか強さがあった。理ぜめで法を説くというよりも「牛乳屋さんがいい話を聞かせるから行ってみなさい。あんたの病気なんかすぐ治るよ」という調子だった。しかし、確信をもって言われるその言葉には、人を動かさずにはおかぬ大きな力があった。 極貧の家庭で、お経巻やお数珠や過去帳などを買うお金もないと見ると、妙佼先生は机の下にそれに相当するお金をそっと入れて帰られたものだ。 ところが、そういう病人とか精神異常者などが、入会するとどんどん治っていくので、当人が親戚や知人などを引っ張って来たり、治ったうわさが口から口へ伝えられたりして、みるみる信者の数はふえていった。 ふえたと言っても、まだ百という単位で数えるほどだったころは、入会者へのアフターケアともいうべき〈手取り〉などは、じつに行き届いたものだった。信者のほうからも、何かと言えば来てくれという要請があり、私たちも気軽に出かけて行ったものだ。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 本部・中野区神明町 六 教義のうえで疑問が起これば、すぐ新井先生の所へ教わりに行った。それは、昭和二十四年に老衰でお亡くなりになるまで続いた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】)...
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...質屋通い 一 大日本立正交成会というりっぱな名前の会を創立はしたものの、私はあいかわらず牛乳屋の主人であり、妙佼先生は氷屋と焼芋屋の主婦だった。 両方とも商売していたので、ふたりで自腹を切って、発足したばかりの小さな会を守り育てていった。(中略) お導きの活動も、たいていふたりのコンビでやった。一日に五軒も六軒も、お導きのために訪問した。なにしろ、私も忙しい身体だったが、妙佼先生は商売の用事のうえに主婦の務めまであったのだ。そのわずかの間を利用したり、一日の仕事をすませてから歩くのだから、たいへんな強行軍だった。 私はまだ三十代の働き盛り、妙佼先生はもう初老の婦人、それに私は背丈が人並みより高く、妙佼先生は五尺そこそこの人だった。それで、ふたりが一緒に歩くと、どう加減してもつい私が先になってしまう。妙佼先生は、懸命に追いつこうとする。そのようすがいかにもほほえましいので、 「あんたは、歩くとき、よく手を振りますね」 とからかうと、妙佼先生は、 「せめて手で泳がなければ、とても先生には追いつきませんよ」 と、相変わらず手を振って歩いたものだ。 まわる家が多くて、歩いてばかりでは間に合わなくなると、自転車の荷台に妙佼先生を乗せて走りまわった。こうして、一日に二十数軒も訪問したことがあるが、そのときなど、妙佼先生の足はすっかり冷えきって、血の気がなくなり、しばらくは歩くこともできないのだった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 質屋通い 二 そうこうしているうちに、信者はどんどん増えていった。一か月に二倍ずつぐらい、いわゆるネズミ算的にふえていった。それなのに、指導者は相変わらず私と妙佼先生のふたりだけだったから、それこそ目のまわるほど忙しかった。 朝早く起きて牛乳を配達して帰り、お経をあげているころにはもう信者がやってくる。話をしてあげる。すると、どこそこに病人が出たから行ってほしいと言ってくる。自転車に乗って出かける。 帰って来ると、こんどは妙佼先生とふたりで〈手取り〉や〈お導き〉に出かける。昼間はお屋敷町をまわって、夜九時ごろ商店が店を閉めてから商店街をまわる。帰宅するのはたいてい十二時。 ほっとしていると、病人が苦しんでいるから……と迎えに来る。行ってお経をあげ、お九字を切り、病人がすやすや眠りにはいったので帰って来ると、もう夜中の二時……というありさまだった。 それから二時間ぐらい寝て、四時には牛乳配達に出かける。八時ごろ帰ってそれからお経をあげるのだが、真夏などはその時刻ごろからだんだん暑くなり、それにろくに寝ていないから、堪え切れないほどの睡魔が襲ってくる。 十六番あたりまであげると、意識がもうろうとしてくる。二十番あたりまでいくと、もう正体がなくなり、ばたっと後ろへ引っくりかえる。畳の上にどしんと倒れたショックで目が覚め、びっくりして起き上がり、また読経を続ける。またひっくり返る。そんなことがよくあった。 もちろん、愚痴や懈怠の心がぜんぜん出なかったわけではない。 ある冬の寒い朝、眠い目をこすりこすり起き出して牛乳配達をしながら、つい、人がまだぐうぐう寝ているのに何の因果でこんな難儀をしなければならないのだ……という気持ちになったことがある。 そのときふと見ると、日雇い労働者の人たちが仕事を求めて長い列を作っているのだ。私はすぐ考えた。あの人たちの三分の二は、一日の仕事にあぶれて帰って行くのだと聞いた。それにくらべると、自分はなんとか食べていかれるし、余った時間はたっぷりあるし、それで人助けの布教ができるのだ。何を不平不満を言うことがあるか……と。 そう思い直すと、気持ちはすぐさっぱりし、新しい勇気がわいてくるのだった。 しかし、人助けに夢中になればなるほど、生活は苦しくなってきた。牛乳の配達はきちんきちんとしていたけれども、新しい注文を勧誘してまわる暇がない。だから、自然と売上げは先細りになる。売り掛けの集金も百パーセント取れるわけではない。 勢い、一家七人を養っていくためには、よく質屋のご厄介になった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 質屋通い 三 三十歳までは、多少貯金もありました。ところが、法華経の道に入ってから、どうしても自分は人びとの指導者として立っていかなくてはならない、と考えたのです。私の商売も、真剣にやっておれば、毎月多少の貯金ができる程度の収入にはなったのです。 しかし、毎日毎日、うちのことは少しもかまわないで、導きにばかり出かけておりました。 (昭和33年05月【速記録】) 貯金は全部おろしてしまい、最後には着物もみんな質に入れてしまって、一生懸命でお導きをしていました。そんなとき、電車賃もなくなって、結婚式のときつくった羽織、袴などを質屋に持っていったものです。その羽織、袴は、七年ぐらいも質屋に入れたり出したりしました。 そんな生活ですから、「こう夢中になっては困る」と、家内が反対する。信仰がいけないということではなく、私がまじめなことはよく知っているし、ひじょうに他人に親切で、いい人だというは知っているのだけれど、ちっとも家業を考えないで毎日出ていくことに対して、家内は反対したわけです。 (昭和33年04月【速記録】) 質屋通い 四 川本質屋というのが川島町にあった。その川本さんによくご厄介になった。 結婚したときにつくった羽織・袴が最高の質草だった。これには二十五円貸してくれた。とてもそんなに値打ちのある物ではなかったが、絶対に流さないので奮発してくれたのだ。 いつもは着古したジャンパーにつんつるてんのズボンをはいているのだが、勧請式などがあるとその羽織・袴に威儀を正さなければならなかった。それで、前の晩には必ず受け出しに行き、式が済むとまた入れに行った。その他いろいろな世帯道具をよく持ち込み、ついにはへこ帯まで入れたこともあった。あまり出し入れがひんぱんなので、質屋の主人が通帳を作ってくれた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 質屋通い 五 こうして七年間も質屋に通った功徳が、いかに大きかったかは、現在、自分が何も財政面のことを考えなくてよい、本当に人さまの幸せだけ考えていればよい、という境遇にならせてもらって、はじめてよく分かりました。それまでは食べるのに困ったこともあり、ことに戦争直後の物のないときには、もう炊くものも食べるものもないような状態でした。 そうしたとき、質屋に行くのは、ふつうでは悲愴なものです。しかし、こと信仰のためというおかげで、そのときは悲愴とは思わず、人の目を避けて、大急ぎで質屋に行ったものです。何しろ、質屋の前がみんなうちの信者ですから、質屋ののれんをくぐるのがたいへんでした。これも一つの見栄なのでしょう。やっぱり虚栄があったのでしょう。 今なら「私はこれから質屋へ行く」と、大いばりで言うかもしれないが、当時は質屋に行くのが恥ずかしくてしようがない。店のそばまで来ると、まず遠くから、店の前にだれかいないか見ておいて、まるで質屋ののれんを射撃するようにねらって、のれんの中へ自転車のまま走り込んでしまうのです。のれんの中に入ってから、自転車のスタンドを出す。そして風呂敷包みをおろして、質屋からお金を借りたものです。 (昭和41年01月【速記録】) 質屋通い 六 何年か後に、質屋の主人も信者になって本部にやってきました。私の顔を見てキョロキョロ、キョロキョロしています。「あんた川島の川本っていう質屋さんでしょう」と言ったら、「どうして知っていますか」「いや、さんざんお世話になりました」ということになりました。その質屋に、七年通ったわけです。 質屋が、常連に渡す通い帳をくれたものです。質札というのがありますが、常連には、札ではなく通い帳をくれたのです。うちには、今もちゃんと金庫に入れて、大事に保管してあります。紫がかった色をしています。 うまくできたもので、それさえ持って行けば、利息をちゃんと計算して、いくらか貸してくれる。いちいち品物は出し入れしません。出しても、またすぐ入れるからです。 当時、私の羽織と袴で、二十五円貸してくれたのです。何回も利息をとって、元金ぐらいは、とっくにとっているのですから、何度も着て、古くなり、汚れていたりしていても、持って行きさえすれば、すぐに二十五円貸してくれたものです。よその質屋へ行ったら、おそらくそれだけ貸してくれなかったでしょう。 立正佼成会が、だんだん大きくなってからのことですが、妙佼先生から「会長先生はまだ質屋へ行っているのですか」と聞かれて、「今でも行っていますよ」「みっともないから、およしなさい」ということで、妙佼先生から二十五円振る舞っていただいて、質屋から借金することをやめたのです。それも今になってみると、楽しい思い出、一つの語り草ですけれど、当時はたいへんでした。そのたびに利息を払わなくてはならない。 ひと月のうちに二度出し入れすると、二か月分の利息を払わなくてはならない。通い帳があるんだから、連続して貸してくれそうなものですが、そうはいかない。二か月分だと二割五分も利息をとられたものです。 (昭和41年01月【速記録】) 質屋通い 七 人さまをお助けしなければならぬというノッピキならぬ使命感から日夜お導きや手取りに奔走していましたので、家計はいつも火の車で、借金や質屋通いは毎度のことでした。 それが苦しかったかといえば、案外そうではなく、そうした心身の苦労そのものの中になんともいえない喜びがありました。しかも、必要なだけの財物はいつしか身辺に集まってくるようになりました。わたしが求めなくても、仏さまがお手配くださったのです。 法華経「薬草諭品」にお説きになった「現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受け……」の境地をまさしく身に体験させていただいたわけで、ただありがたくてたまりませんでした。(中略) 『華厳経』に「仏子らよ。自我を忘れるものは、やがて一切のものを、わがものとすることができる」とおおせられているように、自分というものから離れなければ、本当の功徳は得られるものでないことだけは、よく胸に刻んでおいていただきたいものです。それゆえにこそ、昔のひたむきは修行者はみんな出家したのです。 (中略) このように、一時的にせよ、われを忘れ、自分というものから離れる行を繰り返し、積み重ねていくうちに、しだいしだいに「人さまのために」という精神が身についてきます。そして日常生活の場においても、自分勝手な欲をむさぼることもなくなり、人から慕われ尊ばれるような人柄ができ上がっていくのです。この境地が在家の出家の妙境にほかならないのです。 また、そういう境地が至れば、不思議に物質的にも不自由することがなくなり、過不足のない清らかな生活を楽しむことができるようになるものです。すなわち「現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受け」るわけです。在家の出家の功徳ここに尽きるといわなければりません。 (昭和46年11月【佼成】)...
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...神が勇む 一 法華経の中に此経難持(此の経は持ち難し)とございます。「若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す 諸仏も亦然かなり」(見宝塔品第十一)とおっしゃっておられるのであります。そこで私どもがこのご法を持つということは、仏さまがここに歓喜されるのでありまして、諸天善神悉くご加護くださるということがお経の中に書いてございます。 (昭和32年02月【佼成】) 神が勇む 二 仏種は縁によって起こると申しますが、私どもはよく縁起が悪いとか縁起が良いとかいうことを申しまして、良いほうにも悪いほうにも縁起があるわけであります。この会にお導きを受けたことも縁があれば、反対にこの会をケナしたり、また入会しながらもケナしたりする人があるとしても、それはやはりお経にもありますとおり“若しは信若しは謗、共に仏道を成ず”で、一つの縁につながっているということができると思います。 (昭和32年05月【佼成】) 神が勇む 三 立正佼成会が発足したころ、ひじょうに不思議なことがつぎからつぎへとありました。これを私どもは“神さまが勇んでいる”と言っております。立正佼成会が発足しなければならない、立正佼成会が発展しなければならないという、大事な時期に、神さまが勇んで、いろいろのことを教えてくださいました。 どこの宗教でも発足のころは、みなそうなのです。われわれが疑ぐればこうだぞ、信ずればこうだぞという結果を、明らかに見せてくださるのです。 その時代、つまり創立から昭和二十年、終戦の年のころまでは、本当に神さまが勇んでおった時代だと申し上げてもよいと思います。 ことごとく、神さまのいろいろのお告げがあったものです。今あのときのような指導をしたら、法座主をなさっているかたなど、反ぱつをくって、頭にコブがなくならないかもしれません。集まった人びとも腹を立てて、家に帰ってしまうかもしれません。 幸い最近では、だんだんと教学が浸透し、証明者がたくさんできまして、数多くの人が、この道で救われている現実を見ておりますから、創立当時のように、一つ疑い出すと、その雲が晴れないというようなことが、なくなってきたのであります。 ところが、立正佼成会ができた当時は、その会長が牛乳者のおじさん、副会長が焼芋屋のおばさんなのです。私は小学校六年は普通に出席して、卒業しましたが、妙佼先生は小学校も満足に出ていない。妙佼先生は私より十七年も先の人ですから、今ほど義務教育が徹底しておらず、毎日正常に登校して勉強しなくても、それで済んだ時代の人でした。 そういうふたりが中心になって、信仰団体の会長、副会長ということだから、世間の人の眼で見ると、そんな者の言うことが定規になるかということです。疑ぐる人の立場にも、一面の理はあるわけです。 ですから、これはなんとしても、神さまの神力によって、または法門によってみなさんを制するというより、もうほかにないわけです。 われわれふたりは、まことに微々たる存在で、教育者とか、宗教家とか、人さまの先に立てるような経歴は、微塵もないのです。そのふたりの後に、みなさんがついて来ようというのだから、疑惑を持つのは、これは当たり前で、持たないほうがどうかしていると言ってもいいくらいなのです。 (昭和41年09月【速記録】) 神が勇む 四 妙佼先生は、霊友会のときから神がかりの状態になりました。霊友会がいくつかに分派した原因は、神がかりになる人を幾人もこしらえたからです。そうでなければ、あれほど分かれなかったと思います。 神さまのご降臨では、新井先生の奥さんが、じつにきびしい、いい指導をしてくれたのです。そのころ、妙佼先生は神さまのご指導を伝える役をいただいており、実際にもできたのですが、それほど迫力はありませんでした。ところが立正佼成会を創立したら、俄然すごくなってしまったのです。私はこのことを、神さまが勇むと言っていたのですが、すごい迫力があるし、言うことが以前とすっかり変わって、別人のようになってしまいました。 以前はご降臨があるという場合に、妙佼先生がお題目を一生懸命唱える。私も後について助題目を唱えながら、一生懸命、神さまがご降臨になるように祈っているのですが、なかなかご降臨にならない。時間も相当かかるのでした。 ところが会を創立してからというもの、お題目を三度か四度唱えただけで、神さまが下がってきて、えらい勢いでズバズバ言うようになりました。 (昭和54年01月【速記録】) 神が勇む 五 毎日ということでもないのですが、神さまのご降臨になってしまつが悪い、と言っていいくらいの状態でした。ほとんど五、六年というものは、神の世界でした。たとえば、信者の家にお祀り込みに行ってお経をあげていると、いろいろなものが見えたとか、すぐに霊感が出て来て、パタパタ始まってしまうのです。 そういったことに対し、どう解釈するか、ということを私が調べるわけです。神さまからのいろいろなお言葉やご注意を、どのようにみなさんに聞かせて、疑惑なしに、どう納得してもらうかということが、私の役割でした。私は神さまと人間の間にはさまったような形で、始終そういう役目を受け持っていたわけです。 こうした中で、ひじょうにいろいろな不思議が、つぎからつぎへと顕われるわけです。 一つ一つその体験を積んでいくうちに、確かにこういうふうな気持ちになって、このようにいかなければならないという、その経路や理論は、あとからだんだんくっつけたもので、その場はとにかく、不思議があらわれて、病気も治ったのです。そして九星・六曜などいろいろの法則論もやりましたが、そのうちに、集中的に神さまがご降臨になる状態になりましたから、こんどは、法則論なんてものは、ほとんど返上し、神さまのお言葉に従って、一生懸命修行してみました。 ところが、そうしているうちに、われわれも人間ですから、妙佼先生の眼が悪くなったり、血圧が高くなったりして、あまり修行に集中してばかりいると、身体の具合が悪くなるというようなことで、また逆もどりして、こんどは法則論に返り、何か悪いことがあるのではないかと、三年、五年、六年と前のことを調べたりしました。そういう状態で、妙佼先生と私は、ともにやってきたわけです。 今になって考えてみますと、そうした問題を、いつも法則論に拘泥してしまうのでなく、また、ただ盲目的に信ずるというのでもいけない。とかく世間には、信じさえすれば良くても悪くてもかまわない、といった例もあるようですが、私どもは、それではいけないと考えました。ともかく妙佼先生の、あの神がかりの状態は、七、八年続いたのであります。 (昭和32年01月【速記録】) 神が勇む 六 私は、昭和十六年までは自分で商売をしておりました。商いから帰ると、自転車をおさめて、いくらお腹がすいていても、まずご供養申し上げ、ご供養をすませてから、ご飯を食べることにしていました。 ところが食事がすむと、こんどはお迎えが来る。すぐかけ出す。そして夜はたいてい十二時、一時までほうぼうを歩く。遅く帰って来ても、商売の関係上、朝四時になると起きて仕事を始める。仕事が終わるとご供養申し上げる。ご供養のあと、ご飯を大急ぎでかき込んで、またお導きに出かける。そういう修行をつぎからつぎへと重ねてきたわけです。 これは仏さまにやらせられたのだと思います。だから何の不平も不満もなく、ただひたすら、人さまが救われるということが楽しみでした。あそこにこんな結果が出た、こちらの精神的な病いが治った、こちらの家庭がひじょうに円満になった、どこそこの人がご法のとおりやったら、商売が大繁盛した──そういう報告を楽しみに、二十二年間というもの、苦しみよりも、楽しみのほうが多かった毎日だと思っております。 (昭和34年03月【速記録】) 神が勇む 七 入会しても、ただばくぜんと一年たってしまったとか、三年たっても功徳が出ないという人がよくあります。 しかし、そのような人は、一年あるいは三年の間に、お経の意味がどれだけ分かったか。それをどれだけ実行したか、を考えてみなければなりません。そのことを考えてこそ、一日一日が楽しみになり、生きた生活への指針を発見することができるのです。 自分の生き方を自覚しないで、他人さまに自分を活かしてくれる道をもってきてくれ、というのでは見当違いです。仏教は、根本的には私どもの生き方、身の処し方を教えたものであるからです。 (昭和28年06月【速記録】)...
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...御旗制定 一 立正佼成会の創立を契機として、私たちふたりは「日敬」「妙佼」と、それぞれ法名を名乗ることにしました。 本会創立の翌々年、急に妙佼先生の眼が悪くなり、電灯の光も見えなくなって、医師からはもうなんとしても治らないと宣告されました。 これには、よほどの原因があるに違いないと思い、啓示をいただいたところ、 「本尊の眼を出していないではないか、気をつけさせるために目を見えなくした」というご指導をいただきました。 さっそく恩師新井先生からご指導をいただき、本会としては、はじめての新しいご本尊の表現形態を制定したのであります。そのときのご本尊の形式は、中央に「南無妙法蓮華経」その向かって右側に「天壌無窮」左側に「異体同心」と謹書したものでした。 (昭和43年03月【本尊観】) 御旗制定 二 その意義は、法華経に示された真理を帰依の対象とし、その真理が時間的にも空間的にも永遠普遍(天壌無窮)であること、また異体同心をもって本会会員の修行の規範とすることを表示したものです。 この新しいご本尊の表現形態を、御旗の形式をかりて勧請したのが、昭和十五年四月五日でありました。当日は前日来の雨もからりと晴れあがって、幡ケ谷にあった妙佼先生の自宅と私の家までの間を、その御旗を先頭に行進をして広宣流布の決意を固めたのであります。 (昭和43年03月【本尊観】) 御旗制定 三 発会してまだ日も浅いため、わずかな人数でしたが、当時神さまから、この御旗をもって、四海帰妙の大先達として、汝らは立たなければならない、と命じられたのです。今日では、立正佼成会の存在も、この天壌無窮・異体同心の御旗に対しましても、ある程度認識が広まり、不思議な会だ、ひじょうに秩序整然としている、というようなことが言われております。こうした行動が、ひじょうに訓練されてできるようになった、と解釈しているかたもあるようですが、訓練は、いつもぜんぜんしていないのです。ただみなさんは、仏さまのお示しになった妙法蓮華経を、この悪世末法の時に弘める土台石になろうとしているところから、諸天善神のご加護をいただいているのです。三世諸仏のご守護のもとの行動によって、すべてのことから成就しているわけです。 したがって、訓練はしなくとも、練習はしなくとも、この異体同心の御旗の下には、完全な菩薩道を行ずるかたがたが、宿縁を熟して集まったのですから、必ず一糸乱れない行動ができるのです。 (昭和28年10月【速記録】) 御旗制定 四 この御旗が私どもが奉持いたしました以上は、どこまでも妙法蓮華経、この法華経の意味に徹した異体同心でなければならないのです。異体同心と言いましても、悪いことをするほうの異体同心になられたのでは、これはたいへんな問題になります。 私どもは、中央にお題目を掲げ、天地とともに窮りなく、異体同心の御旗のもとに、正しいご法を弘めなければならない役目があるのです。ただ口にお題目を唱えれば、人を納得させれば、はたして、法華経の真理に徹する心構えが完全にできるのかどうか、ということになりますと、これはなかなか難しいことであります。 私どもは十分に修養し、精進によって、この御旗の意義を完全に表わさなければならない大使命があるという心構えをもって、さらにいっそうの精進をお願いしたいのであります。 (昭和28年10月【速記録】)...
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...身延・七面山参拝 一 日蓮聖人のご遺文の中にもありますように、法華経を末法の世に弘める大使命を受けた日蓮聖人は、『大集経』に説かれた五箇五百歳の、第五の五百歳の中の百七十一年目にお生まれになって、法華経を弘めるお役目をちゃんと果たされたわけです。 では、その後はどういうことになるか、法華経の経文をごらんになればわかりますように、私どもはひたすら法華経を行ずればよいのです。末法万年のこの法華経行者を、法華経のご文にたがわず、守護するのは、ほかならぬ七面大明神である、といわれているのであります。 (昭和30年12月【速記録】) 末法の世になってから、法華経行者には、さまざまな難儀が押し寄せて来ます。また、その行をまっすぐに行ずるということは、なかなか困難なことでもあります。法華経に「此経難持」とありますように、この法は、なかなか保ちがたいものです。 その行者を守って、本当の法華経の修行をさせてくださるという役目を、七面大明神さまは、日蓮聖人の説法を聞いて悟られ、その役目を引き受けるお気持ちになられたのであります。 (昭和30年12月【速記録】) 身延・七面山参拝 二 草創時代には、春は小湊の誕生寺から清澄山、秋は身延の久遠寺から思親閣、七面山、そして九月には鎌倉の竜口寺への参拝が年中行事のようになっていた。 中でも七面山参拝がもっともひんぱんに行なわれ、一時期には一年に何回もお参りに行ったものである。(中略) お参りの人選にはいった人は、まず二十一日間、魚類・肉類・卵・牛乳の類を食べず、精進潔斎する。味噌汁のダシのカツオブシさえ忌むのである。それどころか、日常使っている鍋にはそうした不浄が染みついているとして、新しい鍋を買って使った。それで、「お山へ行くたびに鍋がふえる」と、よく言ったものだ。 出発の一週間前から水行をする。前の晩から水を汲んでおくのだが、その器も四斗樽(七二リットル)などを塩でゴシゴシ洗って浄めたもので、いつも洗濯をしているタライなどを使うと、てきめんに何か〈お悟り〉を頂戴した。 着用する白衣には、私がいちいち墨でお題目を書いたものだが、その一枚ごとに新しい水を入れたコップをご宝前に供えておく。すると、精進を怠った人や心がけのよくない人のときは、コップの水にぷくぷくと泡が生ずるのだ。そんな人には、「あんたは今度はだめ」と、参拝を中止させた。それほどきびしい潔斎をするようになったのは、第一回のときにたいへんな〈お悟り〉をいただいたからである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 身延・七面山参拝 三 初参拝は昭和十五年のことでした。たしか十九名だったと思います。 あのときにイチジクの懺悔が出たのです。 出発した翌日身延に着きました。その日はたいへんむし暑い日でした。妙佼先生はゲタばきでみんなと一緒に元気でトコトコ登りはじめました。ところが、途中でのどが渇いてきたのです。さいわい身延の総門の近くに井戸があったので、みんな暑くてこれを飲みに行ったのです。 たまたまそこにイチジクがなっていた。それをだれかが失敬してしまったわけです。身延の沢でどしゃぶりの雨に降られてしまい、ようやく宿屋に帰ってくると、Mさんのお母さんが腰がぬけて歩けなくなった、というのです。さっそく神さまのご降臨を願ってうかがったらおこられました。 “霊山において泥棒をするとはなにごとだ。そんな心で明日の七面山には登れないぞ”というので、みんな腰をぬかさんばかりに驚いてしまいました。そばにいたMさんは平伏してしまっている。私はなにが泥棒なんだかさっぱり分からずに、聞いてみると、そんなわけなのです。夜の十一時をすぎていましたが、全員で懺悔経(仏説観普賢菩薩行法経)をあげておわびしました。 (昭和34年03月【佼成新聞】) 翌朝は三時に起きて出発したが、快晴のお山日和だった。奥の院をまわって、追分へ出て、赤沢で昼食をし、それから七面山へ登った。 その夜は宿坊に泊まり、翌朝早く見晴らし台へ出て、霊感修行をした。みんな砂利の上にすわり、東の方へ向いて朗々を読経する。山の霊気に心身共に引き締まって、何ともいえない気持ちだ。そうするうちに、東方の霊峰・富士の頂上の雲の際が赤々と染まってくる。次第次第に色が変わり、金色に輝き始める。と見るうちに、そこからパッと矢のような光芒を放ちつつ太陽が姿を現わす。その瞬間、修行する者の感激と歓喜は絶頂に達するのだ。それが春秋の彼岸には真の頂上から上がるから、その美しさといったらない。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 身延・七面山参拝 四 お山参拝と言っても、だれでもが参加できたわけではない。修行の段階が、あるところまでいっていなくてはだめなのである。 こんなこともあった。現在、荒川教会の信者だが、みんなが行く七面山にどうしても参加したい。しかし、支部長が許可してくれないのだ。おまけにご主人にも信仰を反対されていた。七面山参拝は夜行列車だったので、夜、ご主人と子どもを寝かせてから、いい奥さんになりますからぜひ行かせてください、と書き置きを残して、白衣やわらじを窓から外に投げ、そっと我が家をしのび出て駅に駆けつけた。そして発車間際の列車にとび乗り、便所にかくれて、列車が走り出してみんなの前に出て行って、どうしても連れて行ってください、と頼んだのであった。 お山参拝は当時のきびしい修行の一つだったから、参加者は何日も前から無事に行けますように、と水行をして仏さまにお願いをし、〈南無妙法蓮華経〉と唱えながら登ったのである。 小湊から清澄山、身延から七面山というこの団体参拝は、たんに信仰的に大きな感銘を受けただけでなく、僧伽の結束を固めるうえでも、また社会人としての修養を積むうえでも、多大の効果があった。 身体の弱い人や年寄りの人がいると、その人の荷物(主食が配給制になっていたのでみんな米まで持参した)を背負ってあげる、へたばった人は肩につかまらせて登らせる、あるいは綱をつけて引っ張る、杖で後ろから押す……という具合に、みんなが助け合う気持ちになった。自然にそうなってしまうのだった。 また、汽車の中では、──たいてい幾車両かを借り切っていたが──けっして高声を出して騒ぐことなどせず、お経をあげ、法座を開いて静かに語り合っていた。弁当の殻や紙くずなどを散らかすようなことは絶対にしなかった。それどころか、下車する前には必ず列車中をきれいに掃除しておいた。 旅館に着いても、お客づらをしてはいけないというわけで、食事の後片づけ、布団の上げ下ろし、部屋の掃除など、全部こちらでやった。便所もきれいに掃除しておいた。 信者にとって、じつにいい修養だった。また、旅館の人はもちろん、伝え聞いた町の人びとも好感以上のものを覚えたらしく、身延の町から入会者が続出した。旅館や土産物店の人はほとんど全部入会した。 後年、会員が数十万という数になり、しかも信者が全国に分布するようになったので、そういう形のお山参拝は不可能になり、本部中心の団参に切りかえた。 それにしても、これらの霊跡参拝は草創時代の懐かしい思い出であり、また大いに意義あるものであった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 身延・七面山参拝 五 人間というものは家の中に閉じこもっておりますときには、どうしても子どもに対しての煩悩が湧いたり、経済的な迷いが起きたりいろいろの面で「とらわれた生活」におちいりがちであります。 そこで暇をつくっては本部に出てくることも、あるいは白衣を身にまとって身延山の登山参拝、誕生寺の参拝に行かせてもらうことも、そのことが信仰ではなく、一つの方便でありますけれども、その方便によって、たとえば道場で輪を作って話をうかがい、そしてまた、時には二日でも三日でも、身延山、思親閣へ参拝して同じ白衣を着た心を通じ合って、お互いが弱い人を助け後から押してやり、強い人は人さまより余計に骨を折って、山に登り川を渡って行ってくるところに、異体同心の標語が実際の生活に生きて気持ちの納得が互いに行き交うのであります。家の中に閉じこもっていては分からない教えの尊さが一回より二回、二回より三回というように分かってくるのであります。 そういう意味におきまして、人さまを大勢引っ張ってきたとか、何人導いたとか、あるいは身延参拝に何人連れて行ったとか、そうした方便を信仰と思うことなく、いろいろの体験によって、自分もこれだけの順序を教えていただいた以上は、どうしても功徳を積ませてもらわなければ申しわけない、だまってはいられないという、止むに止まれぬ気持ちから、人さまを自分と同じこの境地に導いてあげるという慈悲の気持ちがたいせつであります。 なるほど私どもは正しいことを心がけて、一日にたとえ一つでも半分でも、良いことをこの世の中に残さなければならない、行なわなければならないという気持ちを持ってお導きをし、またお山参拝にも、つとめて多くの人を連れて行くということをよく認識いたさなければなりません。 (昭和27年12月【佼成】) ...
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...行ずるということ 一 お釈迦さまは、貪欲が人間のわざわいの根元であり、これが三世を貫いてどのように現われているかということを教えておられます。まことに今日、新聞の社会面を賑わしている犯罪のすべての根元が、お釈迦さまの戒められた貪欲の心であります。 私どもは仏道修行者といたしまして、年中行事としての盂蘭盆にしても、これを宗教的に解釈いたしますならば、目連尊者の母親でなくても、たいていの人はやはり知らず知らずの間に、自分の欲の心からこの世にわざわいの種を蒔いていることをいくらかでも悟ることができるのであります。私ども人間は極端に申しますならば、罪障の権化のような存在であると自覚することによって、大慈大悲のお釈迦さまの教えにいくらかでも添うことができるのであります。 私ども仏道修行者が目標としておりますのは人格の完成でありますけれども、少なくとも現在の修行の段階におきましては、これまでやってきたことがすべて正しいことであるなどと己惚れてはならない、むしろ反省懺悔を通じて浄らよかな心を持ち続けるよう努めなくては、法華経の教えが嘘になるのであります。 お釈迦さまが私どもの仏心を開発させるために、五十年という限られた年月の間にお説きになった教えを素直に行じるときに、私どもはなんら取柄のない存在ではありますけれども、自分の根元悪を肯定することができ、牛歩のような遅々たる歩みではありますが、「善」に近づくことができると考えるものであります。すなわちお釈迦さまの教えを信じ自己の罪障を肯定し懺悔を繰り返すことによりまして、少しずつではありますが内なる善が開発され、そこに仏心を成ずる種が芽吹き成長してゆくと思うものであります。 (昭和32年08月【佼成】) 行ずるということ 二 仏教はお釈迦さまの五十年間の説法ですが、因果経と申したほうが早いほど、因縁因果の理というものを私どもに教えられたものであると考えられるのであります。人間というものは、とくに信仰者というものは正直な心を養ったなら必ず幸せになるのであります。正直者が馬鹿を見るなどと世の中では申しておりますが、そんな気持ちに惑わされて、ともすると悪のほうへころがり込もうとするのが人の心であります。(中略) カリントウはどんなふうになっているかと申しますと、甘い砂糖で隣とくっつき合っております。お互いさま、欲でもってからみ合って、あの人と付き合ったら少しは得がとれるのではないか、こいうことをやったら少しは儲かりはしないかと、ちょうどカリントウのように上っ面のよごれたものが絡み合う。心の中には仏性という尊いものがあるのにもかかわらず、眼に見えるものだけを見るというと、いろいろの気持ちが出てくるのであります。 (昭和28年06月【佼成】) 行ずるということ 三 だんだんと自分の現実というものをよく見つめてみますと、お金がないときにはお金さえあれば浄い気持ちになれると思うのであります。ところがお金ができますというと、こんどは遊び癖がついて、かえってつぎからつぎへと苦を増すということになります。家がないときにはどうか家が欲しい。住居がちゃんとしておればと思うのですが、さて家ができてみるというと、あれも足りない、これも欲しいということで、だんだんにりっぱな調度品を揃えたいというようなことで気持ちがけっして楽にならない。こう考えてみますると、私どもは成仏を西方十万億土の極楽浄土に求めても、はたして楽な所があるかどうか分からない。けっきょくは、私どもが現在のような気持ちを持ち続けたのでは、楽はのぞめないと思うのであります。自分そのものの心が変わらない以上、金ができれば金が邪魔になり、家ができれば家が厄介なものになり、嫁をもらえば嫁が苦労の種になり、孫が生まれればその孫によって苦労が増すというのが私ども凡夫なのであります。そこで、この煩わしいものをどう処理するかということが法華経の中は教えてあるのであります。 (昭和30年12月【佼成】) 行ずるということ 四 あるふたりの友人が久し振りに会って酒を呑んだ。いい気持ちになってしまったところが、公用が出来て片ほうが急いで行かなければならなくなった。そこで酔って眠っている友だちの着物の襟裏に、一生涯食べても食べ切れないほど貴重な宝石を縫い込んでいった。それから三、四年たって会って見たところが、やはりその友人はボロを着て乞食のような生活をしているので、そんなに苦しんでいなくてもいいはずだと訊いたところが、食うにも困る、泊まるところもない状態だという。そこでそんなはずはないと言って着物の襟裏を探してみたところ、チャンと宝石が裏にくっついていたという譬えが法華経の中に説いてありますが、それは私どもがどんなに目の前の表面だけの現象にとらわれているかを教えたもので、私どもの欲の容れ物は底なしですから、それによってかえってつぎからつぎへと苦が増してくるだけで一つも楽にならないというのと同じ順序なのであります。 自分が酔っぱらって知らないうちに、着物の襟には仏さまから仏性という宝物を縫い付けてもらったのでありますけれども、それを発見して生かして使うことを知らないで、さまよっているというような浅はかな私どもなのです。そういうことをハッキリとお釈迦さまはお説きになっているのであります。 こういう貴い法華経を拝読してみまするというと、楽とか幸せとかいうものは、自分そのものが本当に自覚するということ、すなわち仏眼を開くということより他にないということが分かるのであります。 (昭和30年12月【佼成】) 行ずるということ 五 一つの例ですが隣合って住んでいる二軒の会員で、一軒のほうは借金をして店を持ったのですが、真剣に先祖のご供養をし、また先輩のかたがたのお言葉を素直に聞いて心をやさしくして家中を円満にし、商売にも誠実に熱心になり、お客さまに心から親切にしますというとたいへんに繁盛して、四、五十万の借金をして商売を始めたのですが、すっかり借金を返済して幸せになった。ところが隣のもう一軒のほうはやはり同じくらいの借金をして、商売を始めたのでありますが、家を捨てて立正佼成会に来いと支部長さんに結んでいただいたというので、毎日のように当番とかなんだとか言って道場に出ていたのであります。ところがいよいよ店がどうにもならなくなったのであります。 同じ信者でありながらいったいこれはどういうことであるかと申しますと、後者は毎日のように当番とか交通整理だとかに来るのでありますけれど、支部長さんや先輩から結んでいただいたことをよく噛みしめて心から修行し行じようとするのでなくて、ただ形だけ本部に来ておれば、いつかは救われるだろうという考え方で、ひじょうに依存的なのであります。 交換条件を持って、しかも余りにも教団に頼り過ぎて自分の置かれている立場を考えないで、ただ本部に来ればよいという考えで、家を構わず来ておったので、腹の中では不平不満をもっていたのでありますから、結果が出るはずはなかったのであります。これは私どももよく考えてみなくてはならないことであります。 信仰に入った以上、本当に素直な気持ちで自分たちが教えられたとおりの修行を、感謝をして実行することができると、これは仏法では物心一如といいますから、心と自分の身体というものが一致して、正しい方向に向かって行くのでありますから、病気も治るし商売も繁盛するということになるのであります。 ところが形はとにかく、毎日来ていても心の中では少しもありがたいと思わなければ感謝もなければ、教えのとおり実行もせず、ただこんなことを結んでもらったから、支部長がこんなことを言ったからと、支部長の言葉に責任を持たせて自分の義務というものを考えないで、支部長の言葉だけを楯に取って、なにかそのうちに良いことが来るんだろうと他力本願の気持ちでやっていることになると、いちばん肝心の心を元としている信仰というものが、ぜんぜんダメになるのであります。 身体だけ毎日毎日道場に来ていても、心のほうが逆に動いているのでありますから、結果が出ないのであります。 (昭和31年07月【佼成】) 行ずるということ 六 自分の身の処し方が、実際に仏道修行者としての行ないをしているかどうか、つねに自分自身を反省して、この法華経を拝読しなければなりません。 日々のすべてのことに対する自分の行ないを、このお経の鏡に照らす。つまり朝晩のお経は、仏さまに向かって読経するだけではなくて、自分の身にこれを読む。自分はどこが間違っているか、さらに、どのように精進しなければならないか、人さまには、どういう心意気で説かなくてはならないか、というようなことを、つねに反省して、拝読しなければならないと思うのです。 (昭和30年11月【速記録】) 私どもは仏さまのみ教えの全部が分かったかというとそうではありません。これはお経にもありますとおり“仏と仏とのみ究尽したもう”ことで、私どもはひたすらに仏弟子として、一生懸命法華経の教えの一つ一つを実践させていただいているに過ぎない。要は真のお釈迦さまのご理想であるみ教えの実行であり、ひとりひとりが本当に仏心に通ずるようなりっぱな、天地に恥じない行ないをするよう、お互いさまに精進することであります。 (昭和32年04月【佼成】)...
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...行と信 一 人間はいろいろのことに迷って、精神的な束縛を受けますから、身勝手にことを行なうというわけにはゆかないのであります。すなわち一応の規制があるわけでありまして、人間には五欲煩悩とか、自分の思うようにならない嘆きがあり、世事万般矛盾だらけのために、迷うまいとしても、迷わざるを得ないのが実状であります。 ところが、この五欲煩悩や心の迷いや精神的な束縛から完全に解脱されたかたこそ、釈尊なのであります。この世に生をうけた私どもは、たとえ病気をしなくても年をとれば自然に死んでしまうので、それを思い煩っているのでありますが、釈尊は生死を超越して悟りを開かれ、われわれ衆生に煩悩欲を棄てさせ心の自由をもたせたいという大慈大悲から、御みずから出家して五十年間というもの難行苦行され、その体験を基にして衆生を教え導き救ってくださったのであります。 釈尊は人間世界の、この生死無常を超越して悟りの境涯を得られるところの、すべての方法を因果説、四諦の道理とか縁起の法則によってお説きになったのでありますが、世の中の万事は持ちつ持たれつの相関関係でありまして、お互いに相寄り相扶け合って初めて社会生活もできるのであります。ひとりぼっちでこの世に生きていかれる人間なんてけっしていないのであります。 きわめて卑近な例でありますが、私が道場へ参りますには、近いので歩いても来られるのでありますけれど、遠隔の地方のかたは、やはり汽車や電車やバスを利用し、いわゆる近代的な交通機関のおかげを蒙ってくるのであります。しかし一方、料金を支払う人があるので俸給もいただけるというふうに、人間社会のことはすべて相互関係と有無相通ずる関係に置かれているわけであります。 お釈迦さまはそういう因果の法則とか、相互関係を細かに衆生に教えてくださり、しかもそのあり方を本当の意義あらしめるように、身をもって体験を通してお示しになったのですから、私ども仏教者は、そのみ教えを正しく行じて体得すれば本当に幸せになれるのであります。これが立正佼成会でいうご法であります。 (昭和32年05月【佼成】) 行と信 二 お釈迦さまは、人間生活の根本は信であり、「信は道の元にして、功徳の母なり」(『大方広仏華厳経』)とおっしゃっています。私どもが信じられないということは、「道を知って道を行かず」にいることで、道を知っていても、歩き出さないでいると、けっして目的地には行けないわけです。 ところが道を知らなくとも、たとえば、本部をぜんぜん知らなかったかたでも、どなたかの案内で「こういうふうに乗って、どこそこでどう乗り換えていけば本部に行ける」と教わり、そのとおりに乗り換え、乗り換えしてくれば、一つも迷わずに本部へおいでになれると思います。これは道を知らないので、本来なら自分で行くことはできないのですけれど、人さまの教えのとおりに道を行ったから、本部まで来られたのです。 言葉のうえでは「道を知って道を行かず」「道を知らず道を行く」などと、簡単に申しますが、私どもはうっかりしますと、道を知って道を行かないのであります。たとえば、朝早く起きればいいのだということはわかっていても、朝になると、寒いからもう少しと、ふとんをかぶったまま亀の子のように動かず、なかなか起きられない。これはやっぱり道を知って道を行かず、なのです。 また、主人が少しきょうは顔色が悪い。そういうときには、主人にさからってはならないと思っていながら、ちょっと何かのはずみで、つい荒々しい言葉を主人にかけたりすれば、主人のほうは、少々面白くないところへ妙なことを言われたのだから、横ビンタがとぶ、ということにもなる。 主人の顔色が悪いときは、さからってはいけないと分かっていながら、ご機嫌をとればいいと知っていながら、自分の都合で応対すると、これが喧嘩に発展することにもなるのであります。 このように、きわめて私どもの身近なところにも「道を知って道を行かず」ということが、たくさんあるものです。 ところで、仏さまの境界、悟りを開いて解脱した境地などというのは、私どもにはとても分からないことですが、お導きを受けて、素直な気持ちで、仏さまのお説きになったこの法華経を読みなさいと言われて、素直に読経してみる。そして仏さまに対し、自分のご先祖さまに対して、こういうふうなお給仕をするのですよと教えられ、そのとおりしてみる。 そうすると、どんなふうになるのか先のことは分からないけれども、素直に、その道を行くと、自然に功徳が現われてくるわけです。別に自分が手をかけて直したのではないのですが、信仰するようになってから、子どもがちっとも病気をしなくなったとか、不良の子どもがまじめになったとか、自分では何年も治らない病気だと、あきらめていた病気が治った、といったいろいろな功徳が現われてくるのです。 お経の中にある言葉のとおり、素直に教えを聞いて、その道を歩んでいるうちに、つぎからつぎへと結果が出るわけです。功徳が出てくるのです。ですから、お釈迦さまは第一番に「信は道の元にして、功徳の母なり」とおっしゃったのであります。 私どもは信ずることによって、教えに素直に従うことによって、はじめて道を行くことができるのです。本当の人間としての道、道徳としての道、私どもが歩まなくてはならない生活の道が、そこにはっきりとあるわけです。その信を元として、いよいよ功徳が現われてくるのです。「功徳の母なり」というのですから、お母さんが子どもさんの気持ちを満たすように、功徳はいくらでも出てくるのです。 そして私どもが信をもって、真心をもって行じてみますと、ご法というものが、なるほどそういうものであったか、ということが分かってくるのです。信仰する前は、因縁などという言葉を聞いただけで、おかしく感じたり、縁起などというと、「縁起でもない」「縁起が悪い」といった言葉から、悪いほうのことばかり考えていたのが、実際はそうではないことが理解できるようになってくるのです。 そして、たとえば何か不幸があっても、その人が強い信仰の持ち主であれば、万事すらすらとうまく行くことになるのです。 (昭和32年03月【速記録】) 行と信 三 朝のラジオ番組の「人生読本」の時間に、『菜根譚』という書物にこういうことが書かれているという話を聞きました。「人を信じてばかを見たり、ひじょうに損をしても、疑うよりはましだ」とあるそうです。 とかく“人を見たら泥棒と思え”と、人なんか信じられないというのが、この娑婆の常であります。この『菜根譚』の教えは仏教ではなく、道教の教えなのですが、ばかばかしい目に遭わせられたり、損をしたりしても、信じているほうが、疑っているよりまだ幸福だというわけです。 これはひじょうに興味深い問題だと思います。みなさんは先輩から「信じなさい」「信じなさい」と言われるのですが、なかなか信じられないでいます。信じようと思っているけれども、目の前のこと、つまりわが身がかわいいから、なかなか自分を捨てきれず、そのために信じきれないでいる。信じていないようでもあり、少しは信じているようでもあり、けっきょく、本当に信ずるというところまで行っていない状態なのです。 ところが、「疑うよりは信ずるほうが、たとえその結果、ばかを見ようとも、損をしようとも、そのほうが得なのだ」──こういうことがみなさんの気持ちの中に、腹の中に、ぴったりと鉄則として入っていますと、疑わなくなるのではないかと、その「人生読本」の話を聞きながら考えたのであります。 神明町に本部があったころ、私は「ばかばかしいことをたくさんすることが菩薩行なんだ。菩薩行というのは理屈じゃない。人間、ばかばかしいことを一生懸命やればいいのだ」と言ったことがあります。 ところが、そういうことを言う自分自身が、どちらかというと、ばかばかしいことは嫌であり、自分に都合のいいほうにものごとを考え、ああでもない、こうでもないと言って、悟りきれないで、あたかもドジョウのように、ぐねぐね、まがりくねって、長い年月、むだに過ごしてしまったわけです。 本当に、信ずるということは、疑うよりも得だということが、なかなかわからないものであります。 (昭和30年11月【速記録】) お経を読んでみますると、仏弟子中智慧第一という舎利弗尊者のような、あれだけの人でさえもお釈迦さまの教えられたお言葉をよく聞いて、本当に仏さまのことを一途にありがたく信じて、理屈なしに信じたことによって悟れたんだということがお経に書いてあります。このように私どもはなんとしても人さまを信じ、一切のことを信じて素直な気持ちで行くということが幸福の鍵をつかむゆえんであると悟るべきであります。 (昭和30年12月【佼成】) 行と信 四 私どもは、仏さまの陰のご守護に、本当に心から感謝して、お慈悲の手の伸びていることを、心から信じて、一生懸命にやってさえいれば、まったく何の心配もないのです。 私どもが、まだまだ本当に悟りきれない間は、妙佼先生がよく言われるように、「なま身の身体でいるうちは」「人間の皮をかぶっているうちは」つまり生きているうちは、つぎからつぎへと目の前に現われるいろいろなことに、自分勝手な解釈をしがちなものです。その勝手な解釈の結果が苦となり、難儀となり、もめごとになってわけです。 自分が真に仏さまに帰依し、ご法のとおりに、自分の気持ちを捧げきっているならば、何ひとつ疑惑は起きないし、本当に何の苦もないという状態になるのであります。 (昭和30年11月【速記録】) 信仰というものは数学だけで、理屈だけがりっぱなだけで指導できるものではありません。その根本にはどうしても本当に仏さまの教えなり、神道でいうならば、神さまのお気持ちなりを私どもが自分のものにして、みずから行じて、絶対の信をもって行動することでなければ宗教ではないと思うのであります。 (昭和29年06月【佼成】)...
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...お役とお手配 一 私はいま説法しております。それは私ひとりでやっているのではありません。電気や拡声機があり、またみなさんが聞いてくださるというように、すべての条件が整って、はじめて私の説法が、みなさんのところまで届くわけであります。 このように、すべてのことが、私だけでできるのでもなければ、みなさんがただけでできるものでもない。お互いに持ちつ、持たれつで、自分の力を最大限に発揮するためには、他の力を借りなければなりません。私どもは、つねにこうして生きているのです。ご飯が食べられるのは、お百姓さんの努力の結果であり、漁師さんが身を挺して海に行き、いろいろ骨折ってくださった結果頂戴できるのです。 こう考えてきますと、自分ひとりがよければいい、自分さえよければ、といった考えは許されないということも、社会の関係を総合して考えてみますと、おのずからはっきりと分かってくるわけであります。 私どもは、とにかく自分のできる範囲内のことを、最大限生かしていくということがたいせつになってきます。そこまで理解できれば、お嫁さんは、お姑さんにどう仕えるべきか、姑さんはどういう心掛けで、孫のお守りをしてお嫁さんを励ましていくか、一家の主人は外へ出てどういう心構えで勤めるべきか、月給をもらったら、どのような気持ちで家に持ち帰ればよいか、すべてひとりひとりの役目があることが分かってきます。 その各々の役目を完全に悟って、その役目を最大限に生かすということが、諸法実相の意味なのです。 (昭和28年06月【速記録】) お役とお手配 二 長沼理事長さんが若かったころ、ひじょうに大勢の参拝者が来るものですから、尾籠な話ですが、ご不浄の肥を、いつも外に汲み出す仕事をしてもらいました。そういう陰役をさんざんされたものだから、いよいよ会が法人になったとき、理事長となって、その重責を果たされるようになったのです。 自分では理事長になるとか、指導者になるとかいう考えはまったくなく、人さまがたくさん来て、ご不浄がたまるから、それを一生懸命、畑をうないながら片付けるということをやってきた。そして、自分では知らない間に、「あなたはこういう役をしてください」といったお膳立てができてきたわけなのです。 これと同じようなことが、法華経の「信解品」を読んでみますと出てまいります。 (昭和32年02月【速記録】) お役とお手配 三 「信解品」というお経を拝読いたしますと、私どものように迷い迷っている凡人について、つぎのような譬え話を説かれています。 長者の息子が、幼い時に家を出て、五十歳近くなるまで流浪の旅をしておりました。長者は「わたしはすっかり年老いた。多くの財産を持ちながら、譲るべき子がいない。せめて幼いときに家を出たあの息子がいたら、どんなにか安心だろう」と思いつづけていました。 そこへ日雇い人夫として、転々と人に雇われて働いていた息子が、偶然、父の屋敷の前にやってきました。しかし、高貴な人びとのいる屋敷の中のようすに恐れをなして、急いで立ち去りました。 長者は門前でふとその男を見て、すぐ息子であることがわかり、そばの者に命じてつかまえさせました。ところが息子のほうは驚きおびえて「自分は何も悪いことをしていないのに、こうしてつかまるからには、きっと殺されるに違いない」と、恐ろしさのあまり気を失ってしまいました。 長者はそのようすを見て、長い貧乏生活で、息子は心が卑屈になりきっていることがわかり、真実を打ち明けないで、放させました。 そこで長者は、なんとか息子を近くへ引きつけたいと思い、顔形、身なりもみすぼらしいふたりの使いを、息子のところへやり、「いい働き場所がある。賃金は良い。仕事は便所やドブの掃除だ」とさそわせました。案の定、こんどは喜んでついてきました。父の長者は息子の働く姿を見ると、ふびんでなりません。そこで自分もわざと汚れた姿になって息子に近づき「しっかり働くんだ」などと励ましました。そして「おまえは、わたしの息子の年ごろだ。これから先、おまえをわが子のように思うから」としばらく仮の子にしました。 しかし息子の卑屈な根性は抜けません。そこで長者は二十年間の長い間、やはり汚い仕事を続けさせました。二十年たって、息子もすっかり落ち着いたころ、長者は「わたしは莫大な財産を持っている。それを全部おまえに任せよう。しっかりこの宝を守っておくれ」と申し渡しました。 しばらくして息子の心がひろびろとなり、この大きな邸宅と財産を取りしきってやれることが、父の目にもはっきりしてきました。長者の病気が重くなり、臨終が近づいたとき、親族や、国王や大臣や、かねて交際していた人びとを集めさせ、長者は、その男が実子であることをはじめて公開し、「一切の財産はみんなこの子の物です」と告げたのでした。 放浪の身であった息子が、収入の道を得、衣食住に事足りる状態になるという方便によって、安心して長者の家にやとわれ、最後には、望みもしなかった財産を、全部親から渡されたわけです。 「信解品」に説かれているこの譬え話は、お釈迦さまはすべての徳という財宝を、私どもにたくさんくださろうとなさっていることを説いたものです。 しかし、息子が長者と自分との関係が分かってから、孝行させてもらおうと申し出ても、息子にこの財宝はいかなかったでしょう。自分に与えられたご不浄掃除を、喜んで二十年間もしているうちに、一切の財宝がみないただけることになったのです。 つまり、はじめから自分のソロバンに合ううまい仕事をしようという考えでなく、本当に人さまのために、与えられたお役を果たすことに真心をこめ、精進することによって、求めずして、一切の財宝を長者からいただくような、ご功徳がいただける、ということなのです。 (昭和32年04月【速記録】) お役とお手配 四 つい先月のことです。寒修行で、私が朝早く起きてお経をあげておりますと、どうも喉の具合がよくありません。そこで佼成病院に行きまして、内科の伊藤先生に、喉を少し焼いてもらったのです。 そして先生といろいろ話をしているうちに「会長先生はレントゲンを撮ったことがありますか」と聞かれました。最近は職員もみな健康診断で、年に一度レントゲンも撮っている。しかし、私は健康診断の機会がなかったので、一度も撮ったことがない、と話しましたところ、「健康状態のときに一度お撮りになっておくのも、よいのでは。幸いきょうは空いておりますからいかがですか。二十分もすれば、ちゃんとごらんに入れることができます」ということでした。 そのくらいの時間ならと、先生のおっしゃるままに、レントゲンを撮っていただきました。すると、肺の中はきれいではなく、すでに一回感染して、治っている。私は肺病を患った覚えはないのですが、写真に写すとくもっているのです。しかし伊藤先生は「私なども肺病をやつた覚えはないのだけれど、会長の肺よりもっと汚れています。先生もいつか感染なさっていたのですね」と、うまく説明されました。 若い時分から宗教に志して、肺病のかたのところへは、とくに足しげく出かけ、亡くなられるという寸前のかたのところへも行って、いろいろ世話をやいたり、病人をなぜてやったりしたこともあります。自分ではそうしたことを少しも怖いとも、なんとも思わないで今日までやってきましたが、そんなときにいつか感染して、知らないうちに治っていたのです。 これは、考えてみますと、まったくご守護によって働かせていただいているからにほかなりません。そのことを深く感謝しなければならないと思います。 (昭和32年03月【速記録】) お役とお手配 五 毎日本部に出て修行している幹部のうちにも、まだ自分自身が本当に安心して、すべてを仏さまにおまかせしているという境界の人は幾人もいないのではないかと思うのであります。ただこのご法にお役のあるかたは不思議なことに、本部に出なくなると家には病人が出る、またお悟りをいただくというふうに、いろいろの現象によって仏さまのお慈悲がかかることが分かりますので、怠けることができないのであります。これももちろん結構なのであります。 よく考えて見ますと、親鸞聖人や日蓮聖人のおっしゃったことはなんべん繰り返し読んでも同じなのですが、その真意を味わうときに私どもは仏さまの大慈大悲の中に綱をつけて縛りつけておかれているようなものなのですが、ただ自分ではそれに気がつかないでいるのであります。仏さまのほうではこの人間はいくらかでも精進のできる人間であり、お役のある人間であると思えばこそ、しっかりと温かい手の中においてくださるのであります。 ところが、こんなことをしていてどうなるんだろうと疑惑をもって後退りしたり、また思い返して前進したり、年中行ったり来たりしているのが大部分のかたの状態ではないかと思うものであります。ですから、本当に仏さまの大慈悲に身をまかせて、かたい信念をもって歩ましていただこうというところまで行かないでおって、それで人を導くんでは導かれた人もフラフラするのも当然であります。 私どもは仏さまを心から信じて、そのお慈悲の中に飛び込んでもう縦横無尽に正しいことに対して、ありたけの力を出してみる以外に道はないのであります。 (昭和30年08月【佼成】) 私どもは日常の行ないにおいて信仰人としての誇りをもって、信仰人としての使命をすべてのことに生かしていったなら、必ずみ仏さまがご守護くださり、思うこと、考えること、なすことが万事うまくお手配いただけるのであります。 (昭和27年07月【佼成】)...
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...菩薩の行 一 私どもは在家の仏教者であります。菩薩道を行じております。お互いさま、世間並みの家庭をもちながら、無理のない修行を行なっているのです。しかも、戒律はしっかりと守って、仏道を行じているのです。菩薩行は、特別な修行ではないのであります。私どもがごく自然な生活を続けながら、正しい道を一歩もふみはずさず、修行を進めていく。これが私たちのあり方であります。 特別の境遇に自分をおいて、たとえば、単身山の中に入って、坐禅を組んで、三昧に入ったり、あるいは滝に打たれる。これは外からのいろいろな支障はありませんから、案外その修行を達成するのは容易なことなのです。自分ひとりだけの気持ちを静かに修めるということは、これは容易です。 ところが、家庭にあっての修行というものは、たとえばお経をあげているうちに、赤ん坊が泣く。よく落語でやりますが、赤ん坊がそそうをする、ご飯がこげつく──と、さまざまなものが、眼に入り、耳に入ってきます。そうした中で動揺しない、しっかりした心を持つというのは、なかなか難しい。 私どもの仏教は、そういう面を持っているので、つねに、自分だけ楽しいとか、自分の解釈はもう十分だという考え方をしたら、ややもすると危険なのであります。つねにお経を読み、お経に示された教えを、どう感じ、どう行じているかを、つねに反省し、懺悔して修行を続けないと、はっきりした解釈は得られないと思います。そういう修行を続けている人が偉いのであります。 私どもは周囲の環境の影響を受けて、さまざまな愛着心や欲望にとらわれ、ことごとに気持ちが変わりがちです。そうした環境の中にあって、すっきりした間違いのない仏道修行の道を進もうとしても、自分の才覚だけでは、とうてい行けないのであります。 そこで本日、みなさんがご勧請なさいました本尊というのは、自分の修行の目標にするための本尊なのです。その本尊が、徳を集めてくるわけでもなければ、金を寄せてくれるわけでもありません。私どもが進路を誤らないように、この本尊を目標として朝に夕に、端坐して読経三昧に入り、教えを自分の行ないにダブらせて、お経に示された行ないを一つ一つ実践してゆくことが、私どもの修行でございます。 (昭和28年06月【速記録】) 菩薩の行 二 人間の心には神さまのような、菩薩の心があるかと思うと、畜生のような心もあります。まるで神さまと畜生とが人間の腹の中に一緒に住んでいるようなものです。 他人の不幸なようすを見ると、助けてあげたいという慈悲心があるかと思うと、一方では、他人を蹴落としても、自分だけは幸せになりたいという心もあります。こういう根性を持っているのが人間です。 その間違ったほうの畜生の心を捨てて、美しい心の人間に、人間らしい人間になるということが、宗教の本質的な役目であり、私どもが言う人格完成ということです。人間完成などという言葉が面倒であれば、日ごろみなさんが使っている成仏という言葉でも同じです。 成仏という言葉は、仏さまのような人になりたいということなのですから、これがすなわち人格完成であります。 では、仏さまのような人になるには、どうすればよいのかというと、菩薩の道を歩まなくてはなりません。菩薩の道というのはどういうものかといいますと、六波羅蜜といって六つの徳目があり、まず最初に布施ということが出てきます。 つぎに持戒、さらに忍辱、精進、禅定、最後に智慧となっています。 仏知見を授かるためには、まず第一に、布施をしなければならない。また持戒、つまり戒律を守らなければならない。要するに規範、会の教えを守らなければならない、ということです。 つぎに、忍辱のよろいを着なければなりません。この忍辱ということですが、今日のようにいろいろ誹謗の多いときには、どこまでも忍辱のよろいを着なければならないというのが、仏道修行の定則であります。 仏道修行者の忍辱のよろいの中で、もっとも難しいものは何でしょうか。 人にけなされても動揺せず、頭をいきなりひっぱたかれて、「あなたの手が痛みませんか」と言うぐらいのことは、まだなんとかできるのです。いちばんできないのは、人に褒められたときです。すぐ、いい気になってしまう。「あなたはよくご信仰なさいますね」などと言われると、自分がろくな信仰もしていないのに、偉いものになったような気になってしまいます。 人さまにおだてられて、いい気になってはなりません。けなされても腹を立てない、褒められても有頂天にならないというのが、本当の忍辱なのです。 つぎに精進であります。みなさん、毎日毎日精進しろ、精進しろと言われていて、よくご存じでしょうが、一時でも怠けてはならないのです。 ところが、忙しいのでお経はあげられないという人にかぎって、煙草を吸うときには悠々とやっております。お茶でも入ったというときなどは、「お茶を飲もうよ」と隣の人までさそったりします。そういう時間は、三十分でも、一時間でも、少しも惜しくないのに、お経をあげる三十分がなかなか出てこない。 これは、精進をしていない証拠なのです。精進をする人なら「お茶を飲もうよ」と声をかけて歩く間に、お経があがるわけです。心構え一つで、精進はちゃんとできるわけです。 精進のつぎは禅定です。仏教では、この禅定の解釈もいろいろ面倒なことを言っているようですが、わかりやすく言うと、私どもの気持ちが動揺しないようにすると考えればよいと思います。泰然自若としていることです。忍辱ともつながりがありますが、褒められようが、けなされようが、少しも動揺しない。 自分の家に何かちょっと事が起こると、「支部長さんにお願いしたい」などと、押しかけてきます。なんでもないときですと、「資部長さんは、行けばすぐ、『懺悔ですよ』『精進しなさい』『お導きをしなさい』、などというから面白くない」といっているくせに、都合のいいときだけ、支部長さんのところへ「結んでください」と言ってくる。 また、「資部長さんが、私の都合のいいことを言ってくれればいいが、都合の悪いことを言われると困る。だけど、子どもが熱を出しているから、結んではもらいたいし、そうかといって、もし自分の心を直しなさい、などと言われたら大変だ」と、門から玄関の間を、ふらふら行ったり来たりしている。そういう状態では、けっして禅定とはいえないわけです。 これは、禅定の気持ちがなく、動揺しているから、年中お世話をかけるということになるわけです。自分が、しっかり精進しておりますと、すべてのことにきちんと筋道が立ってきます。 つねに、仏さまを念じ行じていますと、仏さまの前に端坐しただけで、こういう懺悔をすればいいんだ、といったお諭しがちゃんとあるものです。ピンとくるものです。そういうピンとくるものがないから、やたらと支部長さんのところへ押しかけることになるのです。 さて、その禅定をきちんとおさめて、最後の徳目が智慧ということになります。智慧というのは仏智、つまり仏さまの智慧と同じように、すべてのことが表われることです。自分の目の前に現われたこと、家庭に現われたこと、また世間に現われたことについて、一つ一つ誤りもなく、ちゃんと見通しがつくことです。したがって、何ごともちっとも心配がなくてすむわけです。 朝、夜が明けて、日が暮れるまで、何ごとも間違いなく、すべてのことが正しく処理できるようになれば、それは智慧があるということになります。 (昭和31年04月【速記録】) 菩薩の行 三 信仰にはそれぞれ教義の点に特徴がありますが、私どもの立正佼成会はいわば特徴がないとも考えられます。あるいは絶対的にきわだった特徴ばかりだとも考えられるのでありますが、おそらく骨の折れる教えであります。すなわちお釈迦さまの本然の教え“菩薩行”であります。これは自分よりも人のためということです。しかし、これは言うには易しく実行はなかなか困難であります。よほど決定がないとできないのであります。 自分のほうを先にするか、他人のことを先にするか、そのどちらが良いかと考えてみると、人さまのためと考えるほうが間違いのないことが当然であり、またそうするほうが物ごとも成就するし、また心が楽であることが分かります。やっぱり釈尊の教えは人さまのことを先にしているということが、教えを実行して体験を積むことによって悟れるのであります。私などもいつもこのことで神さまからお叱りを受けているのですが、体験をいろいろ積むことによって、金米糖の角がとれて円くなってくるので、一生懸命人さまのために働かせていただきたいと念願しているのであります。 (昭和27年06月【佼成】) 菩薩の行 四 私ども立正佼成会では、自分ということよりもまず人さまを──ということをモットーにしているのであります。 この夏(昭和三十年)、佼成学園男子部円型校舎建築作業場で、会員の方々に勤労奉仕に出ていただいたときに、円型校舎の設計者である坂本鹿名夫という技師のかたが、その勤労奉仕に出た人びとの愛汗精神の発露を目撃いたしましてひじょうに感動されたというのであります。奉仕のみなさんが流汗淋漓モッコを担いであの炎天下に駆け足で立ち働いているのに一驚を喫したらしいのであります。 坂本さんのおっしゃるのに、本職の職人はゆっくりと担いでいるから土をドッサリ入れるというのです。奉仕の人たちが二へんも三べんも歩く時間に一ぺんぐらいしか歩かないのであります。これが普通のテンポなのでありましょうが、奉仕のかたがたが担ぐとすぐに駆け足になるのであります。駆け足で馴れない仕事をするのですからみなさんはもう骨が折れて、玉の汗を流すのは当然なのでありますが、顔をみますると勤労奉仕の人びとはみな言い合わせたようにいずれもエビス顔をしていたと、こう申されたのであります。普通の人ならばこういう忙しい突貫工事の場合などには、みな殺気立った顔になるものだそうでありますのに、立正佼成会の奉仕作業員は精神的にゆとりがあるとでも申すのでしょうか、と言って坂本技師がひじょうに感心されたということであります。 私自身もこの円型校舎の工事場へまいりまして奉仕作業を拝見したのでありますが、なるほどみんなニコニコして働いているのであります。汗をかいて、まるでもう真っ黒になって泥人形のようになっていますけれど、みるとみんな笑顔なのであります。二百人以上の人が仕事の上手な人も下手な人もお互いに真剣そのもので奉仕作業をしながら、ひとりも不平そうな顔をした人がいないのであります。 中にどなたかが『小休止!』と怒鳴った人がありました。すると一生懸命やっている人が、今のはいったいなんだと言って反対に怒鳴って頑張って仕事を続けている人もあったのであります。こういう風景はおそらく今の世の中ではめったにみられないのではないでしょうか。坂本技師も「どこの作業場でもこのような風景は見たことがありませんね」と言って、しきりに感心されたようすでありました。 (昭和30年11月【佼成】) お会式行事の際の奉仕のかたがたについても私どもは多くの教訓を得たのであります。(中略) 大行事がすんでお帰りになった後で、本部におきましては十四、十五日の両日にわたり延べ人員一四〇名の奉仕員のかたを在京支部の幹部さんの中から選抜していただき、撤収作業を行なったのであります。 ところで、この特設便所の撤収に当たりましては、じつに涙ぐましい奉仕作業があったのであります。この仕事はもしも銭金の代償を得てやる仕事であれば幾らいただいても出来ぬのであります。便所でありますから汚物が充満しております。その場所を元通りにキレイにする作業でありますから作業員の身体は汚くなります。汚物でよごれた板や丸太を引き抜いたりこれを運搬して所定の場所に納めなくてはならないのですが、人のいやがる汚い仕事をだれひとりとしていやな顔をせず、泥や汚物で身体をよごしながら、敏速に撤収作業を続け十一か所の特設便所を二日間でキレイに元通りにしてしまったのでございます。 これこそ立正佼成会の奉仕精神でなくてなんでございましょう。しかもこのいちばん汚い奉仕の作業によりまして、奉仕の人びとはさらにご法精進のうえに力強い体験を得たばかりでなく、その中に玉の如く光る何物かをおつかみになったことと私は確信するものであります。 以上のような逞しい奉仕精神もけっきょくは敬虔な信仰心を通して発露するのでありまして、一般社会から見ればあるいは無駄骨を折っていると思われるようなことのなかにも、私どもといたしましては精神的な支えとなる物を、貴い肉体的体験を通じて見出すことができるのであります。 (昭和30年11月【佼成】) 菩薩の行 五 この間、東大の中村先生の話の中でしたか、「精神衛生」ということを言われましたが、自分の周囲の環境が自分そのものの行ないによって変わるというのです。 たとえば陰気な顔をして、フクレ面をして、起きるとブスッとしておって、お母さんの炊いたご飯をモグモグ食べて、大きな顔をするようではいけないのであります。これと反対に、お母さんのお寝みになっているうちに早く起きて、ご飯を上手に炊いて真心をもって一生懸命やればお母さんも喜んで、今まで娘だと思ってガミガミ言ったお母さんも、どうしても優しいお母さんにならないわけにはいかないのであります。これはどこからくるかというと、もとはやはり自分であって自分がそういう行ないをすることによって、自分の周囲も変わるというわけであります。 今、私どもの環境を見ますると、新聞、ラジオで報道されますとおりに、人殺し、母子心中、泥棒というようにロクでもないものだらけで、夜などはうかうか歩けないという状態なのであります。ところが立正佼成会のような人たちばかり充満すると警察などは用がなくなるのであります。それほどに、濁悪世の現代にはむだなことが多くあるのです。 みなさんのように整然とお参りに来ますと、昨年の皇居前の大参事(註・昭和二十九年一月二日・皇居参賀者が二重橋で大混乱、死者十六名を出す)のようなことは起こりようがない。今年も皇居参賀には警官を大動員して整理に当たり、幸い事故がなかったようですが、しかしこれが立正佼成会員だったら、そんなことをしなくても自治的に行動しますから、お会式などのあんな人出にも警官がおっても用がないくらいであります。自分たちが道を守るか守らないかによって、これほどの差が生ずるのであります。 (昭和30年02月【佼成】) 菩薩の行 六 菩薩行という六波羅蜜の教えは現在立正佼成会で規範としている教義なのであります。 お釈迦さまは人間の真の心の持ち方、たとえば虚栄を張ったり、学問をしてかえって捌け口のない人間をつくることに、汲々としているような私どもを戒め、そして人生観の根本となるものを悟らせ、各々がどなたから見られましても、どこへ出されましても恥ずかしくないひじょうに自信にみちた、ソツのない人間をつくることを教えてくださっているのであります。 ところが今日では形の上だけはできても、心の修行を真に徹底させるというような仏教は伝わっていないのであります。お寺はたんにりっぱな七堂伽藍をそなえ、金襴の袈裟や衣を身にまとったお坊さんにご供養させることを唯一の仕事であるというふうに考えるようになったのですから、仏教が大衆からだんだん浮き上がったのも当然の結果なのであります。正・像二千年を過ぎて末法に入って、日蓮聖人がおっしゃったとおりに現在の世の中はまさに濁悪世になっており、世の中が苦だと言いながらも娯楽的なものがたくさんあって、さほど苦とは考えられない状態なのであります。ところが第二次世界大戦の末期に入るや原爆ができ、さらに水爆というまことに恐るべき科学兵器が出来るに及んで、いくらか悪世末法の現世であることに気のつく人もできてきたのであります。 そこで私どもは遠い昔、お釈迦さまがお説きになったような順序で、仏さまのご本心を行じなければならないと、みなさまと共々精進いたしておるものであります。すなわち理屈などにこだわらずに、仏さまのみ教えの本質的な問題を真剣に考え、そして行じなければならない時が来ていることを認識していただきたいのであります。 現在(昭和三十年)、立正佼成会には約百万の信者がいるのであります。そこで、百万の信者が本当に真剣にこの世の中を考えて、お釈迦さまのお説きになったご趣旨をハッキリと認識して布施に起き上がったならば、国家社会に対して必ずや大きな貢献ができると信ずるものであります。(中略) 悪世末法の今日、「百千万劫にも遭遇たてまつること難し」(開経偈)と言われる法華経を行じさせていただいているのですから、りっぱな等正覚を成じて、末代までも人さまに敬まわれるような仕事を残していくというのが、使命だと教えているのであります。どなたも仏さまと同じような資格があるのですから、ただ自分たちの修行とか心構えとか、また実践方法等に間違ったところがいろいろと批判されるのであります。 お釈迦さまも日蓮聖人も人の子であります。その人間があれだの千古不磨の教えの金字塔をお立てになったのですから、私どもも及ばずながら一生懸命に精進して、多くの悩んでいるかたを救わせていただき、現代のような原水爆の恐怖におののくような世の中をなくするよう努めなくてはならないと思うものであります。 (昭和30年09月【佼成】)...
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...お山修行 一 私どもが身延山に参拝することに対して「立正佼成会は独立教団だから、身延山に行かなくともいいのではないか」というような説が、ややもすると出ます。 しかし私どもは今日、いきなりこの法華経を聞けるようになったというのではないのであります。ご法は、先師・先哲のおかげで、綿々と伝わって来たものです。さらに私どもに縁の深い日蓮聖人が、六十年の生涯を法華経に捧げられ、私どもに分かりやすく、行じやすいように、ご法の根本をお示しになったおかげであります。 (昭和32年04月【速記録】) お山修行 二 日蓮聖人は、当時の幕府の執権をいさめ、そのためご苦難されました。どんなに叫んでも、聖人のご意見が用いられなかったため、身延山にお入りになり、未来永劫、このご法がくつがえされることのないように、教義の根本を確立されたのです。末代の、七百年後の今日の私どもにも、はっきりとご自身のお考えを伝えようとされたのであります。 ですから、あのお山へ行きますと、まったくご遺文にあるとおり「吹く風も、ゆるぐ木草も、流るる水の音までも」(『波木井殿御返事』)すべて妙法の音に包まれていて、また次の機会に参拝したい、このように大勢でお参りしたいと、そう思うのです。涙の出るほど迫った気持ちで、そう思えてくるのです。 (昭和31年01月【速記録】) ご遺文にありますように「庵室には四壁が氷、軒につららが下がり、雪は中まで積もっている。道は雪でふさがり、来る人は誰もいない」(『秋元御書』)という身延山も、いまでは自動車が入っていきます。当時はほんの、縄のような細い道で、食糧も乏しいところだったに違いありません。日蓮聖人は末長く法華経の真の精神を伝えるために、お弟子さんたちをそこに集めて、教化されたのであります。 このような先師のご努力のおかげで、私どもはのんびりと畳の上でお経を読むことができるのです。少しばかり修行をすることによって、話を聞いてくれる人がたくさん集まり、またお互いが、心ばかりの精進をすれば、すべてのことがすぐ幸福に変わって行くのであります。 (昭和31年01月【速記録】) お山修行 三 私どもが七面山とか身延山へ修行に行ったときには、もう一切のことを投げ捨てて神仏におすがりし、緊張して修行させていただきました。 (昭和30年01月【速記録】) 身延山に行きますと「立正佼成会はひじょうにお行儀がいい。よくこれほどまでにしつけたものですね」と言われます。 私どもは別にみなさんに行儀をよくするためというような訓練をしたことはございません。しかし、みなさんが身延山に参拝するまでには、立正佼成会の教義に触れて、生活の中に信仰を持ち、信仰の中に生活して、脈々と信仰に生きてこられたのです。 そういうかたがたの集いですから、指導しなくとも、号令などかけなくとも、きちんと一糸乱れぬ態勢がとれ、数百人参加したときでも、出ていった後は、紙くず一つ落ちていないことになるのです。こうした結果を見てお山のほうでは、ひじょうな訓練をして、本山に来るときは、特別に優秀な人だけを選んで来たのだろう、というわけです。 (昭和28年06月【速記録】) お山修行 四 法華経というものはどんなものかと申しますと、宇宙の法則、大自然の法則に適った、因果の理法に則ったところの間違いのない教えなのであります。ですから私どもが日々行じていることが間違っているかいないかを第一番に考えてみればよいのであります。(中略) またお山参拝をするのはなんのためかと一つ一つ考えてみますというと、すべて間違っていないことなのであります。列車の中でゴミ掃除をするにしても──ああ馬鹿々々しいことだな、汽車賃払って鉄道員のやる仕事をしている、また旅館へ泊まればお膳を運ぶことから布団の上げ下ろしもする、馬鹿らしい話だな、これは番頭さんの仕事だ、私は宿賃をちゃんと払っているんだと思う人が出てきます。一応ごもっともでありますが、なんのためにこんなことをするのかということを考えてみるのがたいせつなのであります。 遊んでいても同じことなら出来うるかぎりの奉仕を喜んでする、宿屋さんに対しての奉公ではなく、衆に対する奉公であるという満足感をもって奉仕したならば、その功徳は必ずもどってくるのであります。 (昭和27年12月【佼成】) お山修行 五 現在までご法の生活を知らなかったかたが直ちに信仰に入ってみて、ご法のあり方というものを実際に体験し、このご法を守ることによって神仏の加護も頂けるのだということが分かれば、大きな収穫であると思うのであります。また、私どもの人生観や生活の基盤をこのご法におかねばならぬということが分かったならば、これで大丈夫なのであります。(中略)本当の法の種が骨の中に芽生えたかたならば、少しは我儘を言ってもある場合には本心にかえって、悪かったことを反省できるのであります。(中略) 卑近な例ですが、立正佼成会では、便所の簀子を見てもいつもピカピカ光っております。こういうことは、みなさんが真心をもって身でもって功徳を積ませていただこうとしているからであります。しかし、また、どんな真心をもっていても少人数では広い所をキレイに短時間に掃除ができませんし、また大勢来ても、真心がなければナメてもいいほどにキレイにできるものではない、また一方、使用するかたも感謝で汚さないように、お互いが注意することによってつねにキレイになっている──これが立正佼成会の教えのあり方の一端を示すものであります。 (昭和29年06月【佼成】)...
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...寒修行 一 とくに寒修行などはすさまじいほどのものだった。一月から二月にかけての三十日間、毎朝四時に起きて水をかぶる。それも、前夜から四斗樽に汲んでおいたのを、表面に張った氷を割って頭からざんぶとかぶる。三杯ぐらいかぶって、つぎにつるべで井戸の水を汲み、二十杯、三十杯とかぶる。 それから三部経をあげ、青経巻をあげる。信者はそれぞれ自分の家で、主体的にこの行をやったものだ。 だから、霊感を受ける人も続出した。お九字の能力のある人もたくさん生まれた。家族が風邪をひいたとか、腹が痛いとか、それぐらいのことなら、エス・エスとお九字を切って、たちまち治してやったものだった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 本部修養道場ができてからは、寒修行もそこでやった。大勢が集まってやる修行だから、規律と時間にはとくにきびしくした。時刻に遅れた人は、門の中にもはいれなかった。 そのころ、新宿や中野からのバスはまだなかった。だから、最寄りの駅から徒歩で通うのが普通だった。肌を刺すような早暁の風の中を、みんなひたひたと歩いて来た。 遅れそうになると、ゲタを脱いで、カンカンに凍った道を走る。そして、やっとの思いで道場に着くと、無情にも、もう木戸は閉まっている。門の外で三部経をあげ、寒さに震えながらとぼとぼと帰って行く。これが当時の修行だった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 寒修行 二 信仰は体験を通さないと本物になってきません。理屈を聞いて、ややわかったような気がします。しかし、なるほどそうしなければならないのだという理屈はわかっていても、なかなか実践できないものです。信仰というものは、諭していただいたこと、いいと思ったことを徹底的に実践しなければならない、そういうものです。ただ理論がわかったというのではなく、そのことを実践に移すというのが信仰なのです。 まずその手始めとして、この寒修行などは、いちばんいいことなのです。霊感をいただいたとか、九字のご利益があったとか、人さまの話を聞いても、どうもピンとこないものです。 ところが実際に自分がやってみると、不思議に身体に霊感があらわれる。まったく前後も何もわからない状態の中で、あの九字をいただくのであります。 (昭和30年01月【速記録】) 初めは、耳のそばでガヤガヤ言っているな、という感じですが、その声がだんだん激しくなって、自分でも、わけが分からない状態になっているうちに、霊感を頂戴する。だれかに肩をたかれ、止めていただいて、はじめて本心に返り、不思議なものだなと思う。 霊感というのはそういう状態だと思います。 (昭和30年01月【速記録】) 寒修行 三 下腹に力を入れ、背筋をまっすぐに伸ばし、姿勢を正しく正座して、ぴったりと合掌の姿になり、真剣にお題目を唱えないと、霊感は出てきません。最初からふらふらしている人は霊感をいただけないのです。 応援のみなさんは目の肥えた先輩たちですから、九字のようなかっこうをして、前のほうで手つきだけチョコン、チョコンと真似てみても、だれも構ってくれません。応援もしてくれません。放っておかれます。だからけさあたりは、九字をいただいたつもりで、自分ではチョコン、チョコンと手を前へ出すけれど、だれも応援もしないし、「よし」とも言わないものですから、涙をポロポロ出している人がありました。 しかし、「どうしても九字をいただかなくてはならない」といった欲望で修行していたのでは、やっぱりだめなのです。「いただこう」という熱心さは結構なのですが、「なんとしても、五日間でいただかなくてはならぬ」というものではけっしてありません。そんなふうにきまっていたのでは、かえっておかしなものです。そういう考えは、何か物を運搬でもするのと同じだと思っているわけで、何時間かけたら、これだけの重さの物を、どこそこまで運べるというのと同じ考え方です。信仰、霊感というのは、けっしてそんな形のものではありません。 だから、自分が本当に無我になれば、今すぐにでも、九字をいただくかも知れません。霊感をいただいて帰り、「ひとつ近所の人を驚かしてやろう」とか、「家へ帰ったら、主人をひとつへこましてやろう」というような気持ちで霊感修行をしてもだめです。 そうしたことを少しも考えないでただ一心にお題目を唱えるところに、はじめて力をいただくことができるのです。 (昭和30年01月【速記録】) 寒修行 四 お互いに、何の目的で霊感修行をするのでしょうか。 私たちは、他人を信ずるどころか、自分さえも信じられないような、おろかな人間ばかりです。ところが、神仏に一切をお任せして、真剣になってみたとき、自分にもちゃんと霊感があって、九字もいただけることがわかってきます。いろいろ災害に遭遇したときには、その九字で不思議な結果を頂戴します。 そのような体験をしてみると、自分は愚かな信じられない人間だけれど、神仏の感応があって、やはり仏の子である、神の子でもあるのだということが信じられるようになるわけです。 自分の至らぬところを反省することが、信仰の一番の要諦ですが、口先の懺悔よりも、身をもって体験し、本当に心に刻み込んだ瞬時も疑う余地のない信仰こそ、本当の信仰です。 「まったく不思議なものだ」「本当に妙な法だ」などとよく言われますが、それを自分自体が悟り、自覚を得るために、この霊感修行に来ているのです。 (昭和30年01月【速記録】) ...
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...初期の法座 一 法座は立正佼成会のいのちである。信仰活動の核心である。発足当時から今日まで一貫して行なわれている。といっても、初めは一定の形があったわけではない。随時随所において法座がもたれたのである。 私が牛乳配達を終えて帰って来る途中に、井桁さん(のちに井桁支部の支部長)の店があった。駄菓子を売っていた。その前を通りかかると、話を聞きたいという人が必ず五、六人待っていた。そこで話をしたり、悩みごとを聞いて結んで(法に照らして解決方法を指導する)あげて、帰って来ると妙佼先生の店があり、そこにも七、八人の人が、待っている。妙佼先生とふたりで話を聞いたり指導したりして、自分の店にたどりつくと、二階の本部にまた七、八人の人が待っている、というありさまだった。(中略) そのころ家内の思い出を聞くと、子どもたちが泣いたり騒いだりして法座の邪魔をしないようになだめすかすのに、たいへん苦労をしたとのことだ。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 初期の法座 二 昭和十七年に、二十五坪の本部道場(杉並区和田本町)ができました。この道場ができるまでは、私は牛乳屋をしていたのです。ですから、二十五坪の道場ができた時分には、しばらく牛乳配達の車を二台ばかり、車をはずして、上の箱を道場に置いて、物入れにして使っていたこともあります。 ところで、いよいよその道場ができ、宗教活動に踏み切ったときは、牛乳屋をやっていたころとは、すっかりようすが変わり、大勢の人が集まりました。たちまち二十五坪の道場の中などではどうにもならず、今のこの本部の敷地、約七百坪の地所の中に、むしろを敷き、夏はよしずを張って、そこが青空法座所となったのです。 道場が建つと同時に、外へ、庭へ、信者の信仰体験の法座の輪がひろがっていったのです。 終戦後の昭和二十三年に、現在の本部道場ができましたが、このときも、道場のできた当初から、どうにも本部の中だけではおさまらないで、やはり庭にむしろを敷いて、同じように法座をつくったのであります。 (昭和39年03月【速記録】) 初期の法座 三 そのころの信者は、当番の奉仕を奪い合うようにして勤めたものだった。九時に法座が始まるとすれば、五時か六時ころやって来て、待っている人もあった。掃除をしたり、ゴザを敷いたり、それが終われば法座の中にはいって法を聞く。三時に終わると、あと片づけをし、掃除をする。 じつにたいへんな仕事だったが、それをわれ先に争ってやり、遅れてきた人は、幹部の人を拝み倒すようにしてやっとのことでさせていただくというふうだった。 とにかく功徳を積みたいという一心だった。そういう一心があったから、そのころの人はすばらしい現証を得た。奇跡としか言いようのないような結果を現わしたのであった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 初期の法座 四 創立当時のことですが、古い幹部はみな妙佼先生にどぎもを抜かれるほどきびしく指導され、ふるえ上がったものでした。しかし、ふるえ上がりながら、やっぱり妙佼先生についてくるのです。言葉は荒いが、その言葉の中に義があるのです。本義があるわけです。だから、どんなにきびしく言われても、その言葉を守らなければ救われないので、寄ってくるのです。 妙佼先生の言葉どおりに言うと、昔はよく「あんたはもう来なくてもいいよ」と、こんなふうな言葉を使ったものです。今の幹部は、「来なくてもいい」などということを言っているかどうか知りませんが、創立当初は、いくら言っても聞かない人には「あんたが来て座っていると、ひとりだけ席がふさがるんだから、来なくていいよ」などと言ったものです。 なにしろ、当初は私の牛乳屋の二階の四畳半と六畳しかなかったので、大勢の人が入りきれない。ですから、言うことを聞かない人は、来てもらわないほうがいい。「こんなにたくさん聞かしてもらいたい人がいるのだから、聞きたくないものは来るな」と、こう言ったものです。 もし語によったら、「もう宗教はやめだ、立正佼成会は脱会だ」ということになる。ところが、語によらないで義によっているから、そういって叱られれば、叱られるほど、みな熱心にやってきたのです。 それが今日の立正佼成会にまで発展したのです。 (昭和52年01月【速記録】) 初期の法座 五 自分自身が反省をしよう、悪い点を直そうと考えても、自分の目から見ただけでは完全ではありません。他の人に見ていただいて、だれが見ても、あの人は間違ってはいない、というところまでいかなければならないと思います。道場の必要性も、連絡所の必要性も、そういう意味から出てくるのです。 各々が自分の家で先祖のご供養をします。在家仏教であるから朝晩、家でお経をあげていればいいというのであれば、道場の必要はありません。教団で必要と思うものは、パンフレットにして回し、その趣旨を理解した人が、自分の家で、先祖を供養していけば、それでことは足りるわけです。 ところが、立正佼成会は、財政の許すかぎり各地に道場を建て、お互いに道場に集まって、いろいろな角度から、多くの人に自分の個性を見ていただく。そして悪いところをお互いに諫め合い、教えていただいたことを、素直にありがたく受け、心を清めるのです。 自分が今日まで正しいと思い、後生大事にしてきた考え、たとえば、家をまず大事に、子どもをりっぱに育てるといったことも、ただ、それがあまりにも自分勝手に、自分の家だけとか、自分の子どもだけを考えていたのではいけません。 道場へ行ってみなさんとともに修行してみますと「なるほど、それだけではいけなかったんだ」「もう一歩進んで、周りの人をも同じように考えて、本当に異心同体となって、仏さまが示されたご法を正しくお弘めしなければならない」と考えるようになってきます。 こういう気持ちになれるのは、なかなか一朝一夕にはまいりません。みなさんが道場へおいでになって、いろいろの人の姿を見、いろいろの立場から批判をされ、聞きにくいようなことも、たくさん耳にすることによって、初めて「ああ、自分というものは、なるほどこういう癖があるんだ」と分かってくるのです。 他の人に言われても、自分の癖がまだ分からない人は、お導きをしてみると、自分と同じ性格の人をお導きするものです。自分と同じ問題にぶつかって悩んでいるのを見ると「あの人の悩みは、あの一つの癖のために起きている」「いろいろのことが気になったり、苦になったりしているのは、あの癖が悪いからだ」「あの一つの我を折りさえすれば、すぐ楽になれるのだ」といったことが分かってきます。 その人をお導きするという縁によって、自分自身を省みることになります。自分では、今までぜんぜん気のつかなかった問題が、自分を省みることによってわかってくるのです。 「あなたは虚栄心が強い」と言われても、自分では「私は虚栄心なんかない」と思っていた。「虚栄心を張るから骨が折れるんですよ」と言われても、さほど見栄を張っているつもりはなかった。そんな人が、三年、五年と同じことを言われているうちに、「なるほど、自分のいま苦しんでいることは、こういうところに欠陥があったのだ」「これも虚栄を張っていたからだ」ということが分かってくるようになると思うのです。 なかには「あなたはその強情がいけない」などと言われると、すぐ逆に考える。自分の考えていることが間違っているとは思わない。私どもは本能的に動いているときには、けっして悪いとは思わない。 ところが悪いと思わず、個性のままに行動していることが、他の人との間に摩擦を生じさせたり、相手の心に痛くひびくような強い言葉を使ったり、なにかとんでもない横着をきめ込んでいたりするものです。それを一つ一つ、よく考えてみると、「なるほど、こういう点が自分はいけないのだ」と気づくわけです。 信仰に入って五年も、七年も経っているかたの場合、根本的に悪いと思っていることはやるはずがないわけなのであります。 また円満な人柄で、あまり人の気に障るようなことは言わず、いつも穏やかな気持ちの人もあります。こういう人にも難点はあるようです。 この種の人は案外、物ごとを真剣に考えない。物ごとを、いいかげんに、甘くぼやっと考えているので、意外に他人に対する親切心が薄い。また、本当に自分がひとはだぬいで骨折ってみる、というような慈悲の心が足りない。 そうしたことも、多くの人と付き合い、人を見ることによって気づくわけであります。 さらに、わがままで怒りっぽいけれど、一方では、人のできない親切をやってのける人もあります。 そういうさまざまな短所と長所をもった人が、道場でお互いに磨き合うのです。お互いの心を清めるための修行をするのです。その修行をすることによって、はじめて自分の個性の欠点や、自分の因縁から生ずるすべてのことを、一つ一つ分からせていただき、そして一つ一つ悪いところを捨てていく。そのために道場というものが必要なのであります。 (昭和31年04月【速記録】) 初期の法座 六 信仰は「病気だから入会した」とか、「災難が片づいたから、もう信仰の必要はない」といった、そういうものではないと思うのです。私どもは、どこまでも法則に則って行動するという心構えで、つぎからつぎへと、日々夜々精進を続けなければなりません。 そうすることによって、世の中にどんなことが起きても、磐石のようにゆるぎない強い心を持つことができるのです。今日のような不安の時代には、私どもはいよいよ声を大にして、叫ばなければならない使命が、各々にあることを自覚してもらいたいのです。 法華経を信じているといっても、止まっていれば、ちょうどたまり水にボウフラがわいて、水が腐ってしまうのと同じように、その信仰も腐ってしまいます。 自分では精進しているつもりでも、自分のご先祖さまにだけ、ぼそぼそとお経をあげていればそれでよい、と思っているとたいへんな間違いです。 生きているものは伸びる性質をもっています。また衰微する性質も持っているものです。そのままじっとしていると、だんだん衰微していくわけです。やせていくわけです。年をとってだんだん小さくなった、などと言います。小さくなるわけではありませんが、年をとって、あまり活力がなくなると、小さくなったように見えるのです。同じようにご法というものも、もともと伸びていくものなのであります。 日蓮聖人が「一天四海 皆帰妙法」と言われたことは、そこなのです。一天四海を皆帰妙法にしなくてはならない使命があるということを、私どもお互いが考えなければなりません。 そういう考えに立つと、私どもが「朝寝坊したい」とか、「寒修行に行くのはつらい」とかいった気持ちは、ふっとんでしまいます。私どもが、それだけの使命を帯びて、時を同じくしてこの世に生をうけたということは、これは何かのご縁で、前世から正法を持って布教しなければならない生まれ合わせを、お互いが持って来ているわけです。 ですから、お互いにご法の親子という言葉を使って、親しく、いとおしんで、このご法のために精進しなければならないのです。こういうことを私は強く呼びかけているのであります。 (昭和31年01月【速記録】)...
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...懺悔に次ぐ懺悔 一 私どもがつねに第一番に修行として考えなければならないことは、反省であります。懺悔であります。立正佼成会は、ひじょうに酷だという評判があるほど、徹底的に自分の罪悪に対して懺悔をさせるのであります。 お経を読んでみますと、懺悔経(仏説観普賢菩薩行法経)の中に「五体を地に投じて」とありますように、どこまでも私どもは高ぶってはなりません。本当に自分の心を下げに下げて修行しなければならないということが、教えられているのであります。 (昭和31年03月【速記録】) 懺悔に次ぐ懺悔 二 お経を精読いたしますと、人間というものはいろいろの因によりまして、離れてみたり、寄ってみたり、離合集散のつねならぬ永い年月を経ましても、最後の願いとして悪世末法の時に世の中に出て、極楽世界の安楽の立場を捨てて、みずから望んでこの本の誓願を成就させるために悪世に生まれる、ということが書いてあります。 会員のみなさまの中には、不幸や災難や悲しみから入会したかたも多いと存じますけれども、私たちの本旨といたしましては、ひたすらに法華経を持ち、法華経を弘め、法華経を行じなければならないという宿命のあることを悟らなくてはならない。すなわち前々の世から因縁がそなわっているところの同士がここに集まって、懺悔をしているのが立正佼成会の状態なのであります。 (昭和31年02月【佼成】) 懺悔に次ぐ懺悔 三 法華経を熟読いたしますと、自分の持って生まれた因縁というものが、今世におきまして、善事を為したか悪を為したかということにとどまらず、過去世からのいろいろの因縁を背負ってきているということが分かるのであります。そのゆえにこそ、私どもは、人間としてのりっぱな意義をこの現世において認識し、自覚いたしまして、時々刻々自分の目前に現われてきますところの問題を、処理していく心構えがたいせつなのであります。 (昭和32年08月【佼成】) 懺悔に次ぐ懺悔 四 言うことだけはりっぱでも、自分の行ないが教えの規範にのっていなかったり、教えと反対であったりしたなら、人を教化することはおろか、自分自身の安心立命さえも得られないのであります。 妙佼先生が支部長さんがたに、強い鞭を与えて叩き直さなければいけないというお考えから、毎朝支部長さんがたに対して指導が続けられているのであります。 こう申しますと「支部長さんはどんな悪いことをしているのだろう」と思う人があるかもしれませんが、お互いさま持って生まれた個性は、直ったようでもなかなか直らないものですが、その悪い個性をきびしく叩いて叩き直されて、つらい言葉、痛い言葉を心から喜んで受けることができるから、支部長さんがたは偉いのであります。 (昭和27年07月【佼成】) 懺悔に次ぐ懺悔 五 とにかく、信者をけっして甘やかさなかった。信者のほうもそのきびしさに堪えて、修行を積んでいった。その顕著な一例を挙げてみよう。当時の空気の一部分を感じ取ってもらいたいと思うので、これは私自身が語るよりも、この話の主人公である井草啓予さん(最古参会員の一人で、現在の板橋教会長井草通之さんの母堂)ご本人の口から聞くことにしよう。 (昭和四十二年八月四日開催、在京支部長回顧座談会【速記録】より抜粋) いま二十五になる息子が四つのときのことです。七面山にお参りするように言われて、すっかり準備をしていたんですが、出発の前の晩になって〈お試し〉をいただいたんです。 その子が四十度ぐらいの高熱を出しまして、一晩中寝ないで頭を冷やしてやったんですけれども、朝がたになっても下がらないんです。さあ困ったとは思いましたが、信仰を放り出しちゃいけないと決心しまして、白衣に着替えて出かけたのです。まだ四時ごろの暗いうちです。 すると後から「お母さん帰って……」と長女が呼ぶんです。「なあに」と聞くと、「ヨシハルが引きつけたの」と言いますので帰って戻ってみると、目を白黒しているんです。さあたいへんと、第二支部長(森田育代さん)の所へとんで行ってご相談したら、支部長さんは向こうを向いたっきり返事もしてくださらない。私の心に懺悔しようという気持ちが起こってないのを見通されたのですね。 見かねた旦那さんが、「しようがない。一汽車遅れて行ったらいいだろう」と言われるので、そうしようと思って家へ帰り、金剛杖を取って出かけようとしたら、またキュキューッと引きつけたんです。 これじゃきょうはだめだとあきらめて、朝を待ってお医者さんに来てもらいましたが、原因がわからないんです。疫痢かもしれないが、もう少しようすを見なければ……っておっしゃるんです。 そのうち気分が少しよくなったようですから、九時ごろからご本部へ行きましたら、第一支部の田中さんがおられて「どうしたの」と聞かれるから、こういうわけで行けませんでしたとお話ししたら、「第二支部の戒名はたくさんあるから、あんたそれを書いておわびしなさい」と結んでくださいました。 そこで一生懸命おわびをしながら戒名書きをして、昼に帰ってみますと、子どもはもうぴんぴんしちゃって、元気に遊んでいるんです。ああ、やはり〈お試し〉だったんだ……と、そのとき悟りました。 それから毎日ご本部へ行っては戒名書きをしました。あのころの七面山参りは三泊四日でしたから、四日間毎日毎日行って、戒名書きをしました。 しかし、まだまだ真心が足りなかったんですね。戒名書きをして子どもが治った、それで万事すんだような気になっていたんです。自分の〈法の子〉のことをうっかり忘れていたんです。身延へ電話でもかけておけばよかったのに、そこまで頭がまわらなかったわけです。 ですから、みなさんが身延から帰ってこられたあくる朝がたいへんでした。ご本部に幹部クラスのかたが三十人ぐらい集まっていましたが、私は両先生に一生懸命おわびして、大勢のいちばん後ろに小さくなっていました。すると、突然、妙佼先生が、 「この中に馬鹿者がいる。自分の子どもばかりにとらわれて、法の子を何日もお山へやりっ放しにしていたうえに、陰役を務めたとか何とか言っている。馬鹿者っ」 あのお身体のどこから出るかと思われるような大音声で、二十五坪のご本部がぶっ裂けてしまいそうなお声なんです。私はぶるぶるっと震え上がってしまいました。もう怖くて、怖くて、真っ青になってしまい、ただうつむいているばかりでした。 やがて幹部の集まりが解散になり、こんどは庭にむしろを敷いた所で法座が始まる段取りとなっていました。私はお役をいただいていて、法座で話をしなければならないんですが、今はそれどころではありません。なんとか妙佼先生の所へ行っておわびをさせていただこうと、そればかり念じておりました。 そこへ岩船第五支部長さんが出てこられましたので、「妙佼先生におわびしなくては、法座でお話もできませんので、連れて行ってくださいませんか」と頼みますと、「いいんだよ、それが修行、修行」と、取り合ってくださらないんです。 それでもぜひ……と拝むようにしてお願いしますと、「じゃ、おいで」って、新しくできた十畳か八畳の間に連れて行ってくださいました。 第五支部長さんが、そって襖を開けて、「先生、井草さんがおわびにとか言ってきましたが、いかがでしょう」と聞かれると、会長先生が「うん。そうか、そうか。じゃおはいり」と言ってくださいました。そこで、畳に頭をすりつけ、泣き泣き懺悔させてもらいました。そのとき、何かすーっと先生のお心に通ずるものがあったように感じました。 すると、妙佼先生が、「よし。その気持ちならよし」とおっしゃり「これもお役で言うんだからね。これから一生懸命やんなさいよ」と励ましてくださいました。そして、「第五さん、第五さん。井草さんに干柿持ってきてあげなさい」と言いつけられました。それを頂戴し、お茶をごちそうになって帰りました。 しかし、それですんだわけではありません。こんどは第二支部長さんからの“修行”なんです。「妙佼先生がだめだっておっしゃった人間はだめだ。あんたなんか知らないよ」って、二か月以上も捨てられちゃったんです。 朝行って「おはようございます」ってあいさつしても、向こうを向いて知らん顔をしておられるのです。まるっきり口をきいてくださらない。法座でも、いつもこっちにお尻を向けておられるのです。 辛いの辛くないの。どんなに叱られてもいい。叱られたほうがすかっとするんだけど、口をきいてもらえぬほど辛いことはない。毎日懺悔経(仏説観普賢菩薩行法経)をあげて、懺悔懺悔で暮らし、ようやく少しずつ口をきいてくださるようになりましたが、あの修行は骨身にこたえました。 私は業が深いから、なまじっかのことではすぐ元へもどってしまう。そこで、徹底的に腹の底から洗い直してくださったわけですね。 それ以来、一度も〈お試し〉は出なくなりましたが、それにしてもあのときは本当に辛い、情ない、寂しい思いをしました。あれほど身に沁みたご功徳はありませんでした。 このようなきびしい修行を堪えきるとは、井草さんもじつに偉い人だったと思う。いや、このような人がほかにもたくさんいたのだ。当時の立正佼成会では、こんな禅味のある修行がむしろ日常茶飯のことだったのだから。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 懺悔に次ぐ懺悔 六 お経を読んでみるとわかるように、お互いのためになったり、なられたりすることが必要であると思います。こういう心構えでおりますと、毎日法座において共に語り合ううちにも、全身を耳にして聴く──すなわち支部長さん幹部さんをふくめた信者さんたちの血のにじむような体験を、本当にありがたく聴けるようになるのであります。 ところが、理屈が先に立つと“きょうの話もまた同じじゃないか、常識論ではないか、そのくらいのことなら自分でも分かっている、主人に下がれと言われて下がれるくらいなら、立正佼成会に来なくともいいのだ、私には私の流儀があるんだ”というような人は、いつの間にかお説法を聴くときに耳に風穴があいている。たいせつな話をしているのに本気で聴こうとしない、こんな具合ですから、三日四日と道場に足を運んでも結果が出ない、そのうちに“どこの信仰もみな同じようではないか、たいへん信者が大勢来ているけれども、別にどう救われるというわけでもなさそうだ”などという人もあるのであります。 これはたいへんな間違いでありまして、本当にお互いに体験したところの過去を心から反省懺悔することによりまして、仏さまの無量劫からのお慈悲にあやかることができるのであります。 仏教では煩悩即菩提とか、娑婆即寂光土とかいう言葉をよくつかいますが、そのような悟りとか迷いとかを即座に一ぺんに、あたかも電気のスイッチを切り換えるように変えることはできません。すなわち私どもの心のもちかた、心の中の整え方一つで迷いともなり、悟りともなることを分からせていただくのであります。 煩悩といい菩提といい、自分の我でもって勝手の解釈をしているところに迷いがでてくる、反対に神さまや仏さまのご趣旨に私どもが素直に入ると、たちまちにして迷いがなくなり、悟りがスーッと入って来るものであります。それこそ電気のスイッチを切り換えたように、迅速に心の転換ができるのであります。 (昭和29年03月【佼成】)...
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...きびしい心の大手術 一 立正佼成会ではまず各自の悪い個性を直すために、ときにはきびしい指導もします。入会したばかりの人の中には、悪いことばかり指摘されるというので腹をたてたりする人もあるのです。 けれどもご法を大きくするためには、たとえ腹をたてる人があっても、遠慮なく単刀直入に悪い点はどこまで悪いとして、心の大手術をします。その人を救うには、痛かろうなどといった斟酌はしていられない場合が多いのです。これが立正佼成会の特徴です。 これをよく考えて、せっかく入会されたかたは、自分の悪いところを教えてもらう痛さを喜んで受けて早く幸福になっていただきたいと思います。 (昭和27年04月【佼成】) きびしい心の大手術 二 私どもの心の現われというものは、すべてこのことに関係しているのであります。人が見ていないからと、内緒ごとをしていると、どんなに表面をつくろっても、頭かくして尻かくさずの諺どおり、尻からばれて、格好がつかないことになるものです。 とくに立正佼成会に入会されて、いよいよ修行の道に入りますと、それまで信仰していなかったときには、内緒ごとも少々はかくせたのですが、信仰に入ってからはどうもかくせなくなった、といったことを、みなさんすでに体験されているのではないかと思います。 これはちょうど鍛冶屋さんが曲がったものの癖を直す場合、まっすぐな鉄床の盤の上に載せると、わずかな狂いでも分かるのと同じです。この道場にみなさんがお集まりになることは、ちょうど、鉄床の正しい盤の上に曲がったものを載せて直すようなものです。曲がったところを叩かれることは、曲がったもののほうから見ればたいへんなのでしょうが、これはどうしても叩いて直さなければなりません。 私どもは生まれながら、人間の本性として、ひじょうに尊い仏性を持っているのですが、過去の長い間にいろいろの業を積んでおります。その業のかたまりが人間であるといってもいいほど、いろいろな罪を重ね、我を張っているのです。それがいよいよ正しいご法のもとに入りまして、道場に参りますと、片っ端から悪いところがとれてくるのです。 ですから、業の深い人ほど、道場に来てご指導をいただくと、痛いところばかり突かれるのであります。最初入会するときは、先祖のご供養とか、病人が治るとか、商売が繁盛するとか、たいへん条件のよい、うまい話でお導きを受け、「そんなけっこうな信仰ならやってみようか」と、お入りになったと思います。ところが入ってみると、あまりけっこうではない気持ちになります。 道場に行くと「懺悔をしなさい」「こういう病気になるのは、こういう因縁のためだ」とか、「その因縁を背負っているあなたの心は、こういうところに欲がある」とか、「色情の因縁があるから、そういうところがかゆくなるんだ」あるいは「痛くなるんだ」とか、自分に現われたいろいろな問題をとらえて、立正佼成会ではちくり、ちくりと針を刺すように言われます。 ですから道場に来ると、どうも居心地がよくない。「宗教団体なのだから、せっかく集まったときぐらい気持ちのいい話をしてほしい。なるべく道場に長居ができるような、気持ちのいい話をしてくれるといい」といったつもりでおいでになると、立正佼成会は、思いに反して、ほめることはいっこうにしない。叱ったり、文句を言ったりするわけです。 いいところはだれもほめなくても、自分自身で分かっていて、増上慢になっているのだから、悪いところだけ叩いてあげれば、それで事足りるという考えからです。 ともかく今の世の中、万事スピード時代というではありませんか。そんなに、あれもこれもやっていると、物ごとの片がつきません。いいところは、構わなくとも、みんな得意になっているのですから心配がない。そこでスピード時代に対応して、もっぱら悪いところだけ叩く、悪いほうだけを申し上げるのです。 それをどうかすると、錯覚を起こし、道場に行くと徹底的に悪いところばかり突っつかれ、て「自分はもう、さっぱりいいところがないのだろうか」と悲観している人があります。けれども、そんなことではけっしてないのです。みんなりっぱな人なのです。 現われた問題を検討してみますと、いま少し心を変えれば、さらに幸せになる、といったことが先輩のかたの目に、すぐ映るわけです。正しい鉄床の盤の上に上げられた鉄のように、道場に参りますと、その人の癖がすぐに分かってしまうのです。 あまりにもはっきりと見えるものですから、幹部のかたが、それをすぐにとらえて「あなたの気持ちはこういう気持ちだから、いま子どもさんがうるさいのですよ」とか、「旦那さんが、あなたが道場に来るのに反対するのは、あなたがご法を聞いて、得意になっているからですよ」などと指導することになるのです。旦那さんがご法に反対するのは、旦那さんに対する心づくしが、本当に真心から仕えた結果でないからです。 ご法が分かって、自分がたいへん物ごとでも分かった気持ちで家に帰り、旦那さんに説法調子で「ご法というものはこういうものですよ、あなたの気持ちは間違っているんですよ」と、得意になって旦那さんの欠点だけを言う。そして自分の行ないは、さっぱり直っていない。こういう場合は、旦那さんは、なかなかご法に入らないのであります。 ところが、自分自身が、今までの悪い癖を直して、素直なおとなしい人になり、自分が失敗をしたようなとき、すぐにごめんなさいという、やさしい言葉が出るようなかたですと、旦那さんのほうでそれに気づいて「これは不思議な教えだ。結婚して十五年、二十年の生活の中で、かつて『ごめんなさい』なんていう言葉は口に出したことがない。どう間違ったのか知らないが、立正佼成会の道場に行って帰ってくると、やさしい言葉が出るようになった。これは、どうやら道場の教えがいいらしい。自分が聞きに行かないまでも、教えがりっぱなようだから、道場にとにかく行ってくれ」ということで、旦那さんが喜んで奥さんを送り出す。そんな例もたくさんあると思います。 (昭和32年12月【速記録】) きびしい心の大手術 三 私どもは生まれながらにして持っている性分でもって、自分では悪いと意識せずに、勝手気儘の振る舞いをしている場合がひじょうに多いのであります。人さまからその欠点なり悪い個性なりを指摘されますと、馬鹿に刺戟が強く感ずるのであります。 ご法の上でなく普通に交際している人であれば、相手の欠点などはハッキリと指摘することのないのが常でありますが、立正佼成会の道場に参りますというと、まず第一番にその人の欠点を真っ向から指摘するのであります。心というものは眼に見えないのですから隠せば隠せるのでありますけれども、法則に当てはめて心の動きをハッキリ言われますと、かえって押し隠そうとしてカモフラージュするのが私ども凡夫の常であります。 ところが逆にこんどは自分にはこういう癖があるということをチャンと意識していて、しかもそれを大勢の前でこういう気持ちのためにこういう結果になったということを、法則に当てはめて日々懺悔し、心の転換をはかって精進をしますならば、姓名学や方位の関係から見て、どんなに悪い因縁の人出もドンドン良いほうに因縁の切り替えができるのであります。 これは私ども多年の体験に照らしまして顔を見ただけでもハッキリと分かるのであります。自分をさらけ出して良心に恥じない正しい行ないをするようになれば、顔色もよくなり皮膚にも光沢があるようになり、立正佼成会で申しますいわゆる“因縁顔”をしていた人でもたちまち明るい顔になってくるのであります。 ところが図星をさされても自分の心の持ち方を改めず、法則にも従いたくないという人は、他人に指摘されたことだけを悪意に取りたがるのであります。あなたは九画で孤独の因縁ですと言われたことを頻りに気にいたしまして、そういう孤独の心境になるのは、みずから招いて孤独になるのでありまして、こういう人は人さまと融和しようと努力みもしないで、自分の悪い個性なりひねくれた心を変えようとしないのであります。 あなたは山カンだと言われても、ははアこういうことが山カンなのか、ああいうことがいけなかったのかと、自分の心の色を振り返って反省すればよいのでありますけれども、つぎからつぎへと山カン的なことばかりやったり考えたりしておいて、その心を直そうとせず、何かいうと山カンと言われたことにだけこだわるようでは、なかなか立正佼成会の教えの真髄をつかめない、どなたでもその法則に対しては一応考え方を改めなくてはならないのであります。 (昭和31年03月【佼成】) きびしい心の大手術 四 修養の書物にはすべて反省を説いてあります。道徳的には一応の常識としてりっばな指針を示してあります。ところがなるほどと納得はするのですが、これらの書物を読んで実際に認識を身につけることはほとんど不可能であります。 仏教では「悟」という言葉をつかっておりますが、釈尊の教えによって因縁因果の理を悟り、自分自身の正体をしっかりつかんでこそ、しみじみと心の中に忘れることのできない、離れることのできないものを把握することができ、自分自身の周囲に起きる問題をどのように解決してゆくかという解答も得られるわけで、真の反省はそこから生まれると思うのであります。 私どもは「あなたはそこが悪い」と非を衝かれますと「申しわけありません」と口では簡単に言って頭を下げますが、その際、自分の非を非と認める真の反省がだれにでもあるかというと、これは怪しいもので、その証拠には三度も五度も言われると「もう分かった、うるさいな」という気持ちが起きます。本当にご法に縁のある人に対しては、仏さまが「腹の底から下がる心」になれるよう、また「真の懺悔」をさせるべく、あるときは精神的な苦しみを与え、あるときは眉間に傷を受けるようなお目玉をくださる等、折にふれ、時にふれてあらゆる面からお導きくださるのであります。 つねには目の中へ入れても痛くないような仏さまのお慈悲に包んでいたただいて、間違った行ないや考えをしたたびごとに制裁を頂戴することは本当にありがたいご守護です。このご守護を信じないものは、たとえば頭を打ったときにも痛いと思う気持ちと、傷を治す薬のことだけに心が集中するのでありますが、教えをいただいている私どもは「どういうわけで頭に怪我をしなければならなかったか」を考え、みなさまの前で、法座の中で懺悔させていただく心になれるのであります。 小さな事柄からでも一つ一つ心得違いを改めさせていただこうという「昼夜常精進」の気持ちになれるのであります。 (昭和27年07月【佼成】)...
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...一つ聞いたら一つ説く 一 正しい信仰というものは、自分自体が本当に道場に行ってお話を聞かせていただき、そして聞いたことを即座に実行することなのであります。聞いたことを体験して実行するという気持ちで、みなさんが本会の中軸となって正しいこの信仰を弘めていただきたいのであります。 (昭和31年07月【佼成】) 自分だけ悟ればよい、自分さえ往生すればよい、自分さえ我慢ができればいいという行き方は本会でいう菩薩道ではないのであります。 自分が(中略)体験によって、ハッキリと救われるという筋道が分かったならば、自分が分かっただけのことを一言半句でも人さまにただちに教えてあげることがたいせつで、これが本会でいうお導きでありまして、自分だけ救われればよいのだというのではなく、悟って体験したことを即座に人さまに分けて、その順序をつけることが菩薩道のいちばんたいせつなところであります。 (昭和32年04月【佼成】) 一つ聞いたら一つ説く 二 よく聞く話でありますが、立正佼成会に入会した奥さまがお経をあげたり仏壇の掃除はするが、主人をご法で押えつけたりするというのです。このようなことではいくら信仰に入ったといっても救われないどころか、かえって堕地獄になるのであります。 そこで仏教を行ずる者は自分の苦しみ、人の悩み、人との争いなどの根本がどこにあるかを、因果の法則や四諦の道理などに照らしてこれを理解させ解決させるのであります。ただ病気を治すためとか、金儲けをしたいためとかのご利益信仰では、真のご法ではありません。 私たちの目的は仏教の道に入って人間世界の生死無常を超越して、心の自由であるところの悟りを得るよう日々の精進が必要となってくるのであります。 立正佼成会では、法座におきまして支部長や幹部が、人間の行なうべき道を平易な表現で指示し、この教えを生活の依り所として指導しているわけであります。 (昭和32年05月【佼成】) 一つ聞いたら一つ説く 三 真にご法を悟ったとき、自分という一個の人間がいかに小さい存在であるかが分かります。小さい自分にとらわれて、尊いご法を小さくしてはなりません。 自分の心を忘れ、自分を離れてみ教えのとおりに精進してゆくときに、お釈迦さまの説かれた教えは正しい、やっぱりそうなのだと、噛みしめられるような結果がどんどん現われてきます。信ずることの結論が目の前に現われてきます。三年、四年、五年、十年、十五年とたつうちに、そんなにあくせくしないでも事業もうまくゆき家庭内も幸せになっています。(中略) 因果律、自然の法則をよくよく味わいますと、こういうふうにすれば幸せになる、こうすればこんなことが起こるということがよく分かってきますので、私たちはみなさまにそれを伝えさせていただくのです。分かっている範囲のこと、自信のあることを真っすぐに親切に言わせてもらうという気持ちがたいせつなのであって、その気持ちで話をすれば、どんな人でも聞いてくれるものなのです。 要するに、法を説くものに私心は禁物であることと、人によく思われたい、自分をりっぱに見せたいなどという小さな感情をいっさい捨てることがたいせつであるという点と、また教えるものも教えられるものも、ともに大きな豊かな包容力が絶対に必要であるという意味におきまして、(中略)みなさまがたの今後のご精進をお願いいたすしだいであります。 (昭和27年04月【佼成】)...
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...聞くこと全てが己れの色 一 私どもは仏教の説く意味を、一つ一つ味わってみなければなりません。とかく私どもは、つらいところだと逃げ出したくなったり、いやなことだと聞きたくなかったり、しゃくにさわることがあると、いつまでも恨んだりするものです。 しかし、そんなことではこの世で生活できなくなりますから、すべての現象には、自分の過去の因縁所生があることをよく理解し、本質、実相をしっかりつかんで、それになりきっていけば、もう何ごとにも苦労がないわけです。いつでも、どんな場合でもにこにこした和やかな気持ちでいられるわけです。 ところが、とかく私たちは何かものを見れば欲しくなったり、ちょっと気に入らないことを言われると、腹を立てて顔色を変えたり、胸がどきどきしたり、といったさまざまな反応を起こすのが常です。 そのようなことでは、せっかく仏教に志して、いろいろな知識を学んでも、効果はありません。みなさんが日々精進して、こうして多くのかたがお集りになっておりますが、世の中は持ちつ持たれつであるということをはっきり理解し、人さまとの調和がいちばん大事なことである、という気持ちを忘れないようにしてほしいものです。そしてこの思想を世界中に弘めていかなければなりません。 いつも申し上げますように、私どもは同じ時代に、同じような姿で、一つの教えの中につながって、このうよに一堂に会し、お互いにいろいろのことを語り合っています。この因縁は、簡単に生まれる問題ではありません。 そうした宿縁が結ばれて、お互いに導かれたり、導いたりしているわけで、私どもの関係は、どこまでも諸法無我であります。自分がいくらがんばっても、本来、自分という領域などは、まことに小さなものなのであります。 (昭和31年01月【速記録】) 聞くこと全てが己れの色 二 みなさんはこの法華経を唱えまして、先祖のご供養を申し上げ、また法華経に示されたところの行ないをいくぶんでも実践させていただき、その実践によりましてどれだけ自分が救われてきたか、また感謝の面を考えてみまするときに、あれにも感謝しなければならない、これもありがたかった、これもご功徳であるということが分かるのではないかと思うのであります。 たとえて申しますならば、みなさんが道場においでになって、仏さまの教えを聞くというところの境界にしていただいたということをひじょうにありがたく思い、または自分はわずかばかりの修行ではあるけれども、自分の家ではご先祖さまから伝わるところの、どうしても断ち切れぬ色情の因縁があったとか、または非業の死を遂げたような因縁があったとか、さらに簡単な例を言いますというと、やっと子どもを妊娠したと思うと三か月くらいでいつも流産してしまうとか、いろいろの過去の罪障がたくさんあった。 ところが信仰するようになってから満足に子どもも生まれるようになったとか、あるいはまたどうにもならん問題も楽に突破できたかとかいろいろのことを考えてみますと、あれも功徳、これも功徳、これも修行のおかげ、これも導きの親御さんの強い鞭のご功徳であるというふうに考えられるのではないかと思うのであります。 ところが、仏道修行というものは楽ではないのでありまして、ただいま述べましたことをこんどは逆に言いますと、導かれたとは言いながら、見ず知らずの人にちょっとのご縁でお導きを受けて入会したので本部へ行く、本部へ行くというと導きの親風を吹かしていちいち人さまの面前で自分の行動について批判をし、あなたにはこういう悪い個性がある、この因縁があなたにはまだ切れていない、まだ顔に出ているというようにいちいちずけずけと言われる、これには不安もまたたくさんあると存じます。 それをよく考えてみますと、自分の個性を衝かれたのがよかったのか、それともおだてられ、ほめられておったのがよかったのか、そういうことをもう一度考えてみますると、やっぱりこれも自分というものが生まれて三十年なり四十年なり、それだけの罪障をもってすべてのことに対してきた、また人さまにもいろいろの問題で迷惑をかけ、またいやな思いもさせたことに、自分で気がつき自戒自粛するようになれて、しかもその修行をさせていただくことによって、まことに自分でも明るい気持ちになって生き生きしたところの生活ができるということなりますと、このずけずけ言われることも、こういうことは親身の親でも言ってくれなかったことであって、本当に自分の本性というものを知っているのは導きの親御さんだ、その人が本当に自分を救おうと思えばこそこれほど強く叱咤してくれるのだと、こういうように考えれば、叱咤されることに対して、むしろ心から感謝もできるわけであります。 これは考え方一つでありまして、心の持ち方によりまして、悪意にも善意にもとれるのです、そういうように私どもが本当に懺悔をして自分はまことに至らない者である、人間というものはまったくいろいろな罪障の権化のようなものであると分かるのであります。 (昭和29年08月【佼成】) 可愛い子に慈悲の鞭を加えるのはけっして憎くてするのではないのであります。要は間違った心、違った了見、強情な気持ちを直してやりたいという仏さまの慈悲によって、本会でいうお悟りもいただくのであります。 こう考えてみると、なるほど「今此の三界は皆是れ我有なり、その中の衆生は悉く是れ吾が子なり」(法華経・譬諭品第三)とお釈迦さまはおっしゃっているのであります。 私どもがいつも勝手気儘な行ないをしてなんら反省の気持ちかないので、仏さまはなんとかして反省懺悔の道を教えてやろうというお慈悲で、病気、災難を与えてくださる、それによって私どもはどうしてこんなに悪いのだろうという気持ちになり、何かの機会に目覚めてご法に入る、そうしてだんだん教えを聞いて見るとなるほど仏さまは、そういうお慈悲で私どもにお悟りをくださったということが分かるのであります。 (昭和31年12月【佼成】) 聞くこと全てが己れの色 三 「此の経は持ち難し 若し暫くも持つ者は 我即ち歓喜す 諸仏も亦然なり」(法華経・見宝塔品第十一)と説かれております。この法を持たなければならない。忘れてはいけないのです。 ところが私どもは何かお願いするときは「神さま」「妙佼先生」などと言っているけれども、時がたつと、もうそんなことはさっぱり忘れてしまって、自分の本領を発揮してしまい、功徳の種を逃がしてしまうのです。いつでも正しいご法をしっかり持って、つねに正しい魂を持続しなければ、功徳が出ないと示されているのであります。 信仰に入って何年もたつ間には、お互い人間ですから、感情の行き違いなどがあったりして、もう道場なんかに出たくないというような気持ちになることがあるものです。 ところが相当長い間、体験を積んでおりますと、自分の身の周りに起こってくる問題に接したり、また子どもがわがままを言い出すのを聞いていると「これは自分が怠けているからだ」と悟ることができます。「子どもだ、子どもが悪いと思っていたけれども、仏さまが子どもに入れ替わって言っていてくれているんだなあ」と、胸にピンとくるのです。子どもがひょいと吐く言葉からも教えられるわけです。 さらに、表に出ると、すぐそこの道に邪魔ものがあったり、いろいろなことに触れることによって「これは私に、もう少し正しい道を求めて歩む決心をしなければならない、と教えてくださっているのだ」と反省をいたします。 このように、自分自身で悟って道場に足を運ぶようになるのです。そうしたことを何度も繰り返さないと、なかなか本当の信仰にならないのであります。 (昭和32年12月【速記録】) 聞くこと全てが己れの色 四 家庭の不和ということに対しても、奥さんがただ「主人が悪い。主人は頑固だ。金を使う。愛人をつくった」という現象の一部分だけで考えると、どうしても解決がつかないのです。 ところが、どうしてこういう縁になったかを考えますと、主人はじめ、主人の親、兄弟に対して、奥さんのほうにやはりなにか至らない点があるということが、必ずはっきりいえるのです。 そういう点を分からせていただいて、はじめて原因は主人にではなく、自分にあったのだということが分かります。 奥さんの心が変わると、旦那さんの心も変わってきて「たいへんわがままをして苦労をかけ、気の毒であった」ということになり、問題は根本から解決することになるのです。 (昭和35年05月【速記録】) 聞くこと全てが己れの色 五 親の気の持ちようが変わったことで、子どもの不良が直ったとか、親がご法をよく聞いて、本当に素直な気持ちになったときに、背中におぶっている子どもがよく眠るとか、法話を聞いて奥さんが悟ったら、子どもの夜泣きがその日から直ったとか、あたたかい気持ちで、仏さまにご供養申し上げたら、子どもの寝小便が止まったといったことは、実際にあることです。 この宇宙にあるすべてのものは、ぜんぜんつながりのないものは一つもないのです。みんな相互に関連し合っているのです。 「一匹狂えば千匹の馬も狂う」という諺があります。一軒の家にひとりでも間違った人がいますと、家中がたいへんに暗くなってきます。たとえば、ひじょうにわがままなお嫁さんが来たとします。今まで親子水入らずで、ひじょうに幸せで明るかった家庭が、わがままで、勝手気儘な嫁がただひとりまじったために、一家の生活がたちまちまっ暗闇になるということになります。 またそれとは正反対に、親子だけでなかなかうまくいかなかった家庭で、こんなところに嫁などもらったら、どんなことになるかというようところへ、信仰心のあるりっぱなお嫁さんが来ますと、その人がひとり入ったことで、一家がにわかに明るくなることもあります。 「ああ、なるほどうちの嫁には感心させられる。私が嫁に来たときは、あんな気持ちはなかった。それだからこそ、気の合わないこういう息子ができたのだ。亭主にも、こういうことをされたのだ」 と、お姑さんが、嫁さんの行動で、みずから悟り、家の中が急に明るくなったという例もたくさんあるのです。 (昭和28年05月【速記録】) 聞くこと全てが己れの色 六 特別に神さまのようにならなくとも、人間らしい気持ちになって、自分の欠陥を素直に見いだし、懺悔するようになりますと、一家の和合はたちまち完成いたします。 たとえば不良の子どもがおりましたならば、その子の状態を見て、自分の若いときのいろいろなことや、そのころ言われたことや、自分が現在行なっていることをよく考えてみますと、なぜそういう子どもができたかという筋書きがはっきりとあることが分かってくるのです。 (昭和30年05月【速記録】) 聞くこと全てが己れの色 七 お互いさま、道場に集まりまして懺悔をし、腹の中のことをみんな打ち明けてしまわないと、結果が得られないということは、これはひじょうに大きな仏さまの慈悲が道場に注がれているからだと思います。この宇宙の大生命といいますか、本仏といいますか、神さまの大きな功徳につつまれているのを感じます。 本当に自分の心が生まれ変わって懺悔をしたときに、おばあちゃんにも、お嫁さんにも、息子さんにも、一家が円満になれる働きが、すぐに展開されるのです。その気持ちを、隣の人にお話ししますと、すぐにもその人が「お参りに行ってみようか」と、道場においでになります。 このように、各々が、自分の持っている間違いを懺悔して解け合うと、そこにはもう何とも口で言い現わせないよう極楽浄土が、できるわけであります。 (昭和31年06月【速記録】)...
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...懺悔は実行 一 法華経の中に「生老病死を度し涅槃を究竟せしめ」(法華経・序品第一)とあり、また昔からこの世は苦の娑婆であると言っているにもかかわらず、お互いさまに案外この世の中の状態をそんなに深刻に考えないのであります。しかし、本当に苦ではないだろうかというと、そうでもないのであります。 またお経の中に四苦八苦ということがございます、生老病死という四つの苦の他に、私どもはまだ自分の欲しい物がなかなか手に入らないとか、自分の煩悩に悩まされるということもあれば、また好きな人にいつまでも会っていたくても一緒にいられないということもあり、また会いたくない人にも会わなくちゃならんということもあるわけであります。 大別してそれらを四苦八苦と仏教では言っているのでありますが、その他にも苦はたくさんあります。そういう苦というものの根本を調べてみますると、この四苦八苦という問題の原因もじつは、自分たちで作っていることがハッキリするのであります。 みなさんはよく法座で懺悔をなさいます。親を親と思わなかったとか、結婚をしても夫に対して勝手なことをしておったとか、親が選んでくれた夫を気に入らないでこういうことをしたとか、あるいはご主人のほうで二号さんを持ったとか、いろいろのケースによりまして、みずからその苦の原因を作っておるのであります。 さらにまた、私どもは煩わしい名誉欲とか憍慢の欲に翻弄されて、やはり苦の原因を作りみずから苦しんでいるのであります。 (昭和30年09月【佼成】) 懺悔は実行 二 仏法の因縁説の法則に従って、自分の日々の行為なり言動なりを懺悔し、自分そのものがつねに正しい行ないをして行けば、幸福は来てもらっても困るというほどに来るのであります。 ところが(中略)とかく私どもは、法則というものに対してまことに不忠実なのであります。たとえば仏教徒として法を曲げてはならぬと言い、人さまにも説いている人でも本当に法則にそった生活態度でいるかというと、法則に従順でない人がたくさんあるのであります。 昔からよく、坊さんの不信心とか医者の不養生とかいう諺があるのもこれがためであります。長らくご法をやっていながら割合に救われない人があるのはやはりこれがためであります。これは結局、法というものの法則に対して忠実でないことによるのであり、われわれが数学に忠実であるように、ご法の法則にもっともっと従順になり、仏さまのお説きになった教えどおりの歩みをして本当に幸せにならなければならないのです。 (昭和31年03月【佼成】) 懺悔は実行 三 昨年の正月から今年の正月にかけまして、妙佼先生は“本当に真の懺悔に行くならば、そこに実がいただけるのです。花を咲かして実をいただく、良い実をいただくのにはお互いが、真の懺悔にならなくてはならない”ということをお話しくださいましたが、まったくそのとおりでありまして、いろいろの結果が出るということは、これは過去の自分の積んだところのものが、善いにつけ悪いにつけ、それが実を結んだわけであります。 しかし、たいへん困難な問題が起こりましても、これは考えようによりましては、自分というものが偽り切れない、かくし切れない、これが自分の真の姿であったということになりますと、しかもそれによりまして、さらに大反省するところの一つの転機を得ることになるのであります。 お釈迦さまのお説きになられたお言葉の中に、人間のわざわいの根元は、“貪欲これ本なり”(法華経・譬諭品第三)とあります。貪欲というものを私どもがいかに処理していくか、その処理の方法がどういう形になって三世を通じて表われるか、その表われたことによってどういうふうに解釈をするかという問題が、盂蘭盆の説話の中にもあります。すなわち目連尊者のお母さんの話がそれであります。 これは目連尊者のお母さんばかりでなく、つねに私どもがそういう根性をもって今世───世の中へ出てからほとんど過去を振り返りますというと、欲のために働き、欲のために苦労を重ね、欲のために罪をおかした、いろいろのことを考えてみますと、その悉くが自分の貪欲から出て、すべての問題にわざわいをきたすと申し上げても過言ではないと思うのであります。 ところが、その貪欲というものも解釈の仕方によりまして、因縁をいくらかでも悟って罪障を軽くさせていただく糧にすることができるものであります。腹の立つような問題、またつまらない感情の対立でなんとしても夜も寝られぬような問題、こうしたすべての問題の根本にさかのぼると、何かそこに欲があることが分かるのであります。(中略) 私どものほうはまことに業障の権化でありましてなんらの取り柄がない存在であることを自覚して、自分の悪というものを肯定して切るということは、一切において完全な善に近づくことになるのであります。いわば仏さまと同じような性質を持っている者であるというがために、自分の業なるものがハッキリと現われてくると言えるのであります。 言葉を換えますならば、罪を肯定し懺悔することによりまして、内なる善が発見され、そこに仏心を成ずる種が芽吹いて出るということなのであります。これは理屈になるようでありますけれど、仏教の言葉はまことに簡単であります。 たとえば“煩悩即菩提”ということは、私どもがお導きをして体験をしてみまするならば、そのことが即座に分かるのであります。それはどういうことかと申しますと、欲の強い人、この欲が強いということは、えてして努力型の人に多いのであります。なんとかして金をためようというので努力をする、こういう人に道を施すのはなかなか難しいのでありますが、そういう努力をして金をためるような欲のある人に真にこのご法を認識させますと、必ず救われる場合が多いのであります。 自分の罪障というものは、自分が精進すれば必ず消滅するのだということが分かると、その努力というものが、善い欲に色を変えてただちに精進修行に向かった場合、かえって欲の深い人ほど精進が徹底するものであります。 私なども欲の権化でありまして努力においてはだれにも負けない、朝も四時起きして一生懸命に稼いだこともありますが、それはなんとか一旗揚げたいという欲望からの努力でしかありませんでしたが、ひとたびこの欲を仏道修行という方向に転換いたしましたときには、もう金もいらなければ財産にも執着がなくなり、ただ自分というものが、生を今世にうけたことに感恩報謝すべきであると考え、同時に自分の過去のいろいろの罪障を考え、これが全部解決できるのだということが分かりますと、もう捨身弘法に徹することもできるのであります。 こういう意味の欲の転換、よい意味の欲の考え方を思いますときに、“煩悩即菩提”という言葉も私どもは欲が強ければ強いだけ、仏道修行に精進することにプラスになり、ご法によっていかに自分が気楽になり、いかによい境涯にしていただけるかということが分かり、これからはどうしても精進しないではおられない、怠けてはいられなくなるのであります。 (昭和29年08月【佼成】) 懺悔は実行 四 日蓮聖人の『聖愚問答鈔』を拝読しますと、その一節に「誠に生死を恐れ涅槃を欣ひ、信心を運び渇仰を致さば遷滅無常の昨日の夢、菩提の覚悟は今日の現なるべし、只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば、滅せぬ罪やあるべき、来らぬ福や有るべき。真実なり、甚深なり、是を信受すべし。……所有一切衆生の備ふる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、されば一遍此の首題を唱へ奉れば、一切衆生の仏性が皆呼ばれて茲に集る時、我が身の法性の法報応の三身倶に引かれて顕はれ出る、是を成仏とは申すなり」とあります。 自分の身の法身仏、報身仏、応身仏、これは立正佼成会の創立当時、妙、体、振という言葉で説いたこととよく似ておりますが、本当に仏さまの三身が必ずお題目を唱えて、みなさまが本当に念ずるところに、初めて一切衆生の仏性がみな呼び出されて集まるという、ここにこそ私はひじょうに深い意味があるのではないかと思うのであります。 また私どもが真に法華経を唱え奉り、無我の境地になって法華経に帰依することになりますれば、大聖人の申されましたとおり、「滅せぬ罪やあるべき来らぬ福やあるべき……」で、福が来ないということはないし、また罪が消えないということもないと信ずるものであります。 一切衆生……多くの人びとの幸福、平和国家社会実現のために、お互いが自分の因縁だけを解決しようというような、そんな小さい心からさらに百歩も千歩も進めて、一切衆生に向かって仏性を呼び出させるところの功徳があらわれなければ、いうところの仏国土すなわち平和世界を作り上げることはできないのであります。 (昭和29年12月【佼成】) 懺悔は実行 五 お互いさまに迷うというのは欲が多いからであります。努力もせずに幸せになれるというように考えているからであります。ご法というものはそんなに甘いものではありません、自分の心の中が信仰にならずしてただ仏さまが糸を垂れて私どもを引き上げてくれるものではありません。 自分の心が仏さまの教えに副ったところの崇高な気持ちになり、自然に逆らわない、「天地の法則に則った行ない」にまで到達してはじめて悟りが開けるのでありまして、外から来て救ってくれるのだろうという考えでは真の仏教徒ではないと存じます。 (昭和27年12月【佼成】) ...
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