人間釈尊(65)
立正佼成会会長 庭野日敬
譬喩から思索は限りなく
麻を背負った二人の男
お釈迦さまが祇園精舎で多くの人々にこんな話をなさいました。
――ある所に二人の友だち同士があって、仕事を求めて旅に出た。山を越え野を越えして歩いていると、ある荒野に麻がたくさん生い茂っているのを見つけ、これはお金になると早速それを刈り取り、背負えるだけ背負って故郷へ帰りかけた。
すると途中の山かげにたくさんの銀塊が転がっていた。第一の男は、背負っていた麻を捨てて、その銀塊を袋に入れて背負った。第二の男はそれを見向きもしなかった。
また旅を続けていると、土の中から金らしいものが顔を出しているのを見つけた。第一の男がそこを掘ってみると、金の塊がゴロゴロ出てきた。「これはすごい」と、すぐに銀塊と取り換えたが、第二の男はちょっと欲しそうな顔をしただけで取ろうともしない。
第一の男が――天からの授かりものなのにどうして取らないのか――と聞くと、
「麻をしっかり背負いこんでいて、おいそれと背中から下ろせないんだ」と言う。
「ぼくが手伝ってやるよ」
「いや、このままでいい。せっかく遠方から運んで来た麻だ。いまさら捨てるわけにはいかない」
「愚かなことを言うな。こうしてやる!」
第一の男は強引に友だちの麻の束を解き下ろそうとしたが、あまりしっかり結びつけてあるので、容易に取れない。第二の男は、
「余計なことをしてくれるな。おれに構わず先に行ってくれ」と言う。
仕方なくそのまま家に帰った彼は、莫大な財産を持って帰ったので、家族にも喜ばれ、一生幸せに暮らした。
それにひきかえ、第二の男は家族からは愚か者と呼ばれたばかりか、一生貧乏暮らしをしなければならなかった。
一つの譬喩から拡がるもの
中阿含経に出てくるこの譬え話は、読みようによっては別の解釈もできますが、ここでは善をみつけたら、それまで身につけていた悪を躊躇(ちゅうちょ)なく捨てて、善へ乗り換えよ……という教訓だとされています。
しかし、現代のわれわれがこの譬え話を読みますと、それをヒントとして、いろいろな連想が限りなくひろがっていくのです。
たとえば、ある低俗な信仰にはまりこんでいる人が、すぐれた高等宗教に巡り合ったとき、それに見向きもせず相変わらず迷信にとらわれておれば、一生を迷ったまま過ごさねばならない。
また、たとえば、ある思想を「これこそ真理だ」と固く思い込んでいた人が、それが誤った考えであり、もっとすぐれた思想があることを知っても、以前から背負っている思想を捨てるのは無節操だという無用のこだわりから、誤った思想にかじりつき、かえって世の中に害毒を流す。そのことに気づいて立て直しをしようとしている国が、世界に二つほどあります。
また、たとえば、金権政治と官僚主義を背中に固く結びつけている一国の指導層が、自由自在で創造的なやり方が目の前にあっても、勇敢にそれに乗り換えることをせず、国民をほんとうに幸せにできない国もどこかにある。
また、たとえば、二千年前の宗教上の恨みを麻の束のように捨てようとせず、いまだに争いを繰り返し、お互いが不幸になっている国々が中東にある。
このように、一つの譬え話から、思いは限りなくひろがっていき、そこから正しい道がおのずから見えてくるものです。ですから、仏典に出てくる譬え話を一概に無知の人のためのものと決めつけてはならないのです。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎
立正佼成会会長 庭野日敬
譬喩から思索は限りなく
麻を背負った二人の男
お釈迦さまが祇園精舎で多くの人々にこんな話をなさいました。
――ある所に二人の友だち同士があって、仕事を求めて旅に出た。山を越え野を越えして歩いていると、ある荒野に麻がたくさん生い茂っているのを見つけ、これはお金になると早速それを刈り取り、背負えるだけ背負って故郷へ帰りかけた。
すると途中の山かげにたくさんの銀塊が転がっていた。第一の男は、背負っていた麻を捨てて、その銀塊を袋に入れて背負った。第二の男はそれを見向きもしなかった。
また旅を続けていると、土の中から金らしいものが顔を出しているのを見つけた。第一の男がそこを掘ってみると、金の塊がゴロゴロ出てきた。「これはすごい」と、すぐに銀塊と取り換えたが、第二の男はちょっと欲しそうな顔をしただけで取ろうともしない。
第一の男が――天からの授かりものなのにどうして取らないのか――と聞くと、
「麻をしっかり背負いこんでいて、おいそれと背中から下ろせないんだ」と言う。
「ぼくが手伝ってやるよ」
「いや、このままでいい。せっかく遠方から運んで来た麻だ。いまさら捨てるわけにはいかない」
「愚かなことを言うな。こうしてやる!」
第一の男は強引に友だちの麻の束を解き下ろそうとしたが、あまりしっかり結びつけてあるので、容易に取れない。第二の男は、
「余計なことをしてくれるな。おれに構わず先に行ってくれ」と言う。
仕方なくそのまま家に帰った彼は、莫大な財産を持って帰ったので、家族にも喜ばれ、一生幸せに暮らした。
それにひきかえ、第二の男は家族からは愚か者と呼ばれたばかりか、一生貧乏暮らしをしなければならなかった。
一つの譬喩から拡がるもの
中阿含経に出てくるこの譬え話は、読みようによっては別の解釈もできますが、ここでは善をみつけたら、それまで身につけていた悪を躊躇(ちゅうちょ)なく捨てて、善へ乗り換えよ……という教訓だとされています。
しかし、現代のわれわれがこの譬え話を読みますと、それをヒントとして、いろいろな連想が限りなくひろがっていくのです。
たとえば、ある低俗な信仰にはまりこんでいる人が、すぐれた高等宗教に巡り合ったとき、それに見向きもせず相変わらず迷信にとらわれておれば、一生を迷ったまま過ごさねばならない。
また、たとえば、ある思想を「これこそ真理だ」と固く思い込んでいた人が、それが誤った考えであり、もっとすぐれた思想があることを知っても、以前から背負っている思想を捨てるのは無節操だという無用のこだわりから、誤った思想にかじりつき、かえって世の中に害毒を流す。そのことに気づいて立て直しをしようとしている国が、世界に二つほどあります。
また、たとえば、金権政治と官僚主義を背中に固く結びつけている一国の指導層が、自由自在で創造的なやり方が目の前にあっても、勇敢にそれに乗り換えることをせず、国民をほんとうに幸せにできない国もどこかにある。
また、たとえば、二千年前の宗教上の恨みを麻の束のように捨てようとせず、いまだに争いを繰り返し、お互いが不幸になっている国々が中東にある。
このように、一つの譬え話から、思いは限りなくひろがっていき、そこから正しい道がおのずから見えてくるものです。ですから、仏典に出てくる譬え話を一概に無知の人のためのものと決めつけてはならないのです。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎