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人間釈尊32

おおらかな阿難の人柄

1 ...人間釈尊(32) 立正佼成会会長 庭野日敬 おおらかな阿難の人柄 他教の信者とも隔てなく  外道(げどう)という言葉があります。「仏教以外の宗教およびその宗教を信仰する人」をいう意味ですが、いつしかそれが侮蔑や憎しみをこめた意味に使われるようになったのは、残念なことです。  仏教の始祖であるお釈迦さまは、そんな偏狭な気持ちは少しもお持ちにならず、バラモン教やジャイナ教、その他さまざまな教えの人たちともなんらの隔てもなく意見を交換され、法の話をされたことが、初期の経典にはたくさん出ています。  こんなこともありました。ヴァイシャーリー国の実力者であったシーハ将軍は著名なジャイナ教徒でしたが、お釈迦さまの説法を聞いて心から感服し、改宗を宣言しようとしました。お釈迦さまは「あなたのような有名人が軽々しく立場を変えるのはよくありません」と注意され、それでもシーハが仏教徒となることを決意すると、「では、ジャイナ教の僧たちをもこれまでどおり供養しなさいよ」と諭されました。  阿難も常時おそばにいただけあって、その感化を強く受けていたらしく、たいへんおおらかなところがありました。ロージャ・マルラという在俗の友だちがいましたが、仏法を信じようともせず僧を敬おうともしない男でしたけれども、いい人間だったので仲よく付き合っており、お釈迦さまも別に交際をお止めになることはありませんでした。  ある時、お釈迦さまは千二百五十人のお弟子たちと共に仏教徒の多いバーヴァリー城にいらっしゃることになりました。城中の人びとは大喜びで、その日に世尊一行をお迎えに出ない者からは、金百両の罰金を取るという取り決めをしました。  さてその日になって、阿難が世尊に従って城内に入ろうとすると、ロージャが仏教徒たちといっしょに出迎えに来ているのです。阿難がそのわけを聞きますと、「百両の罰金を出すのがいやだったから」ということでした。阿難がお釈迦さまにその話をしますと、「かわいそうな男だ。いっぺんわたしの所へ連れてきなさい」と言われるのでした。 衣服をもらいに行った阿難  ロージャがいやいやながらお釈迦さまのもとへ参りますと、まるで息子の友人が来たように親しくお迎えになり、いろいろ世間話をなさりながらだんだん仏法の話をお聞かせになりました。すると、ロージャはいっぺんに仏法の素晴らしさに敬服し、在家の信者にならせて頂きました。  そうなると、阿難とロージャとの友情はますます深まり、阿難にとってロージャの家はまるでわが家同様の気持ちになってしまったのです。俗人の間ではよくあることですが、出家修行者の世界では珍しいことでした。  ある日、阿難はロージャの家に衣服をもらいに行きました。あいにくロージャは留守でしたので、奥さんにそう言いますと、奥さんもすぐ衣類の箱を出してきました。阿難はその中からいちばん古いのを取り、「これをもらって行きますよ」と言って帰りました。  あとでロージャが阿難の所へ来て、  「なんだい。君はいちばん粗末な服を持って帰ったそうじゃないか。どうしていいのを取らなかったんだい」  と聞くと、阿難は、  「いや、上座の人たちのために顔や手を拭く布を作って差し上げようと思ったのだよ。いいものなんかもったいないよ」  と答えました。  教団の一部の人びとの間に、阿難のこのむとんじゃくな行為を非難する声が上がりましたが、お釈迦さまはそれをお取り上げにならず、なんのおとがめもなかったそうです。  ちょっといい話ではありませんか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊33

阿難はこうして侍者となった

1 ...人間釈尊(33) 立正佼成会会長 庭野日敬 阿難はこうして侍者となった それまでの侍者たちは  順序が逆になりましたが、ここで阿難が常随の侍者となったいきさつについて述べておきましょう。  それまでは、いろいろな比丘がお身の回りの世話やお使いなどをしていましたが、どれもこれも思わしくありませんでした。  ナーガサーラーという比丘などは、こんないたずらをしたのです。雨の降る夜でした。お釈迦さまは雨が降っても夜の経行(歩きながらの瞑想。座禅などの疲れをとるためにも行われる)を怠られることはありませんでしたが、その夜も雨具をつけて経行しておられました。  ナーガサーラー比丘は早く自分の房に帰ってゆっくりしたいので「もうおやめになっては……」と再三申し上げましたが、世尊は黙ってお続けになり、夜が更けてもいっこうおやめになりません。そこで彼は子供じみた一策を案じ、衣を頭からかぶって暗闇の中にかくれ、「ウォー、ウォー」と気味の悪い声を出して妖怪の真似をしたのです。もちろん、それにびっくりされるような世尊ではなく、彼の企ては失敗に終わったのでした。  また、ある比丘はお釈迦さまの用具(カミソリとか、鉄鉢とか、水こし袋など)を勝手に使うくせがありました。ある時など、外へ持ち出していたところを盗賊に襲われ、その用具を奪われてしまったばかりか、頭をさんざんなぐられて死にそうになったこともありました。  これが近い動機になり、老年にもなられたこともあって、常随の侍者が欲しいとお考えになりました。そして、王舎城の竹林精舎で上座の比丘たちを集めてご相談なさいました。憍陳如・阿説示・舎利弗・目連・摩訶迦葉・摩訶迦旃延といった十数人の長老たちでした。 阿難が出した三つの条件  まず憍陳如が「わたくしがお仕えいたしましょう」と申し出ました。彼は世尊の苦行時代からご一緒した者で、鹿野苑で教化された五比丘の一人でした。「いや、そなたはわたしより年上で、もう老境に入っている。自分一人のことをやれば十分です」とおおせられました。  その他の人々も、「わたくしが……」「わたくしが……」と申し出ましたが、「そなたたちは、わたしと共に教えを広めることに力を尽くすのが役目です」と言ってお断りになります。  教団の総世話役ともいうべき立場にあった目連は、ふと阿難のことを思い出しました。まだ年は若いし、性質はいいし……そう考えて世尊に申し上げると、「あれならいいだろう」というお答えでした。  そこで目連は阿難の所へ行ってその旨を伝えました。阿難は、「わたくしのような者が……」と、何度も何度も辞退しました。しかし、目連は、「世尊は東の窓から差しこむ朝日のようなお方です。その光は必ず部屋の西の壁を照らします。あなたはその西の壁のように直接世尊のみ光を受ける身になれるのですよ」と言い、とうとう阿難を説得しました。  阿難は三つの条件をつけて承諾したのでした。それは、  (一) 世尊の新旧の衣や食物を頂戴しないこと。  (二) 世尊が在家信者に招待される時は、必ずしもお供しないでよいこと。  (三) いつでも世尊のおそばに行ってお給仕できること。  (三)は当然のことですが、(一)と(二)は条件としては逆のように思われます。ここに阿難の清潔な人柄がよく表れているとは思いませんか。  こうして、爾来二十五年にわたる親子のような師弟の生活が出発したのです。時に世尊が五十五歳、阿難が二十七歳でありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊34

仏道の門を女性にも開く

1 ...人間釈尊(34) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏道の門を女性にも開く 出家を決意した貴婦人たち  お釈迦さまの仰せには何事でもハイ、ハイと従っていた阿難が、生涯にたった一度だけつよく反論し、ついに世尊を説得してしまったことがあります。それも女性に関することでしたから、やはり生来のフェミニストだったのでしょう。  お釈迦さまの成道から五年後、父君の浄飯王が亡くなられました。王の後添いであった摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)は、天涯孤独ともいうべき境遇になってしまいました。  というのは、赤ちゃんの時から成年に至るまで愛育した太子(のちの釈尊)は早く出家しておられましたし、浄飯王との間に出来た実子の難陀も、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた孫の羅睺羅(釈尊の実子)も、すでに出家してしまっていたからです。  俗世でのいきがいをすっかり見失ってしまった彼女は、王の葬儀をすませるとすぐ世尊のもとへ行き、出家してお弟子になりたいと申し出ました。が、世尊は頑としてお許しにはなりませんでした。  泣く泣く王宮に帰るには帰ったものの、どうしても思い切れません。嫁の耶輸陀羅(やしゅだら)妃も、夫と愛児に出家されて寂しい人生を送っていましたので、摩訶波闍波提の決意を聞いてパッと顔を輝かせ、「ぜひお供を……」と言うのでした。その話はすぐ一族の女性たちの間にひろがり、「わたしも」「わたしも」と、十数人の同志ができました。  みんなはそろって黒髪を剃りおとし、黄衣を身につけ、素足のままで住みなれたカピラバスト城を後にしました。そのとき世尊がおとどまりのヴァイシャーリーまでは二百数十キロの道のりです。  それまでは王宮の奥深く住み、外出には美々しい輿(こし)に乗り、世間の人に顔を見せたこともない貴婦人たちが、石ころだらけの道をはだしの足に血を滲ませながらの旅です。昼間は烈日の下を沿道の人々の好奇の眼にさらされ、夜は冷えこむ路傍で着のみ着のままの野宿。それでも必死に耐え忍んだのでした。 阿難の懸命のとりなしで  一行がお釈迦さまのおられる精舎の門前にたどり着いたのは日暮れどきでした。異様の女たちが来たと聞いて阿難が出てみると、埃にまみれてよろめいているその人たちはまぎれもなく世尊の養母摩訶波闍波提、かつての妃耶輸陀羅をはじめ一族の人たちです。  「どうしたのです。そのお姿は……」  「世尊のお弟子にさせて頂きたいと決心し、家を捨ててまいったのです」  阿難はすぐさま世尊のもとへ参って、そのことを申し上げました。世尊は、  「それはならぬ。女人は出家の修行には耐えられない。それに、教団の規律が乱れる恐れがある。追い返しなさい」  と、非常に厳しいご態度です。阿難は、この時ばかりは、思い切って言葉を返しました。  「世尊はいつも人間はすべて平等であるとお説きになります。み教えに従えばすべての人間が仏の悟りを得られるとお説きになります。それなのに、女人をそれから除外されるのは矛盾ではございませんでしょうか」  「うむ。……それはそなたの言うとおりだが、出家者として教団の人となるには規律を厳守しなければならぬ。女人にはそれが不可能なのだ」  「それでは、もし規律を厳守することを誓えばお許しくださいますか」  世尊は黙然としておうなずきになりました。  阿難がすぐさま門外に出てその旨を伝えますと、一同は感極まって泣くばかりでした。  これが比丘尼教団の発端なのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊35

錯乱の女も長老尼に

1 ...人間釈尊(35) 立正佼成会会長 庭野日敬 錯乱の女も長老尼に 素っ裸の顛倒の女性に…  祇園精舎のひるさがりでした。  お釈迦さまは涼しい森の木陰で、多くの在俗の人びとに囲まれて説法をしておられました。そこへ、どこから迷いこんだものか、一人の若い女が素っ裸のままやってきました。  「あっ、あの頭のおかしいバターチャーラーだ」  「世尊のおそばへ行かせてはまずい。止めろ」  二、三人の者が女の前に立ちふさがりました。それを見られた世尊は  「止めるな。好きなようにさせるがよい」とおっしゃり、女がおそばに近づくと、  「妹よ、気を確かに持て」  と声をかけられました。その一言で、女はたちまち正気に返り、裸の姿が恥ずかしくなって、その場にうずくまってしまいました。  「だれか、この女に着物をあげなさい」  という世尊のお言葉。群集の一人が一枚の布を投げてやりますと、女はそれをまとって世尊の前に進み出てひれ伏し、  「尊いお方。どうぞわたくしの力になってくださいませ。わたくしの子供も、父も、母も、みんな死んでしまいました」  世尊は静かにおおせられました。  「妹よ。そなたは家族が死んだといって嘆き悲しんでいるが、遠い遠い昔から今日まで、数えきれないほどの人たちが子供や親に死なれて流した涙は、世界中の海の水よりまだ多いのだよ」 捨てた水のゆくえで悟る  この女性は、わずか十数日のうちに夫は毒蛇にかまれ、上の子はおぼれ死に、赤ん坊は鷹にさらわれ、実家は暴風雨で倒壊して父母と弟を失い、そのショックで気が狂わんばかりになってしまったのでした。  彼女はお釈迦さまのお言葉を聞いているうちに、自分だけが不幸な身ではないということが胸にしみてわかってきました。世尊は重ねて、  「自分自身が死に臨んだ時のことを考えてみなさい。家族も、親戚も、なに一つ頼りになるものはないのですよ。ただ、この世の道理を悟り、清らかな生活を送れば、不死という理想の境地に達することができるのです」  とお説きになりました。彼女はたちどころに仏法への信を起こし、出家・入門をお願いしてお許しを得たのでした。  比丘尼教団に入って熱心に修行していた彼女は、ある日、足を洗った水を捨てたところ、すぐ地中に吸いこまれてしまいました。もう一度水を流してみたところ少し先まで流れ、さらにもう一度流してみるともっと先まで流れて行きましたが、ついにはやはり地中に消えてしまいました。  彼女はじっと考えました。(人間も、最初に流した水のように早死にする人もあり、二度目のように中年で死ぬ人もあり、三度目のように長生きする人もある。いずれにしても死ぬことに違いはない)。  その思いが世尊のみ心に通じたものか、世尊のお声が耳もとに聞こえてきました。  「そのとおりである。そこで心得ておかねばならないことは、人がもし百年生きようとも、真理を知らず放逸に暮らすならば、真理を知って精進する者の一日の生にも劣る、ということである」  それを聞いたとたんに彼女は悟りを開いたといいます。そしてこのお言葉は、法句経百十二番に収録されています。また、彼女自身が詠じた偈も、南伝の長老尼偈経の百十二番から百十六番までに収録されており、よほど高い境地に達したもののようです。  ともあれ、人びとに相手にされなかった素っ裸の顛倒の女に親しく声をかけられ、ここまで育てられたお釈迦さまの優しさと教化力には、ただ頭が下がるばかりです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊36

身をもって示された四民平等

1 ...人間釈尊(36) 立正佼成会会長 庭野日敬 身をもって示された四民平等 肥え汲みニーダの困惑  舎衛城はひる近くなっていました。  お釈迦さまは、数人の比丘たちを引き連れての托鉢を終えられ、祇園精舎へ戻ろうと静かにお歩きになっておられました。  舎衛城の町は石造りの家がギッシリ立ち並び、それを縫って狭い路が迷路のように入り組んでいました。  肥え汲みのニーダは人糞尿をいっぱい甕(かめ)に入れて背に負い、前かがみになって石だたみの上を歩いていました。ふと前方を見ると、かねて遠くからお姿を拝したことのある仏さまがこちらの方へ歩いてこられます。  ――これはいけない、汚い物にまみれた自分がおそばを通るなんて畏れおおい――そう考えたニーダはすぐ横道へそれて行きました。  その様子をごらんになった世尊は、すぐに道を変え、ニーダがやってくる前方に現れました。ニーダはあわてて引き返し、ほかの道を通りますと、またまた世尊が立ちはだかるようにその前にお立ちになります。  なぜ世尊がそんな意地悪をなさったのか。意地悪でも何でもありません。ニーダのような人をこそ教化しなければならない、とお考えになったのです。  というのは、当時のインドではカーストという不条理な身分制度が牢固(ろうこ)として存在していたのです。バラモンという学問や宗教を司る階級、クシャトリヤという王族・武士階級、ヴァイシャという農工商の庶民、シュードラという最下級の奴隷の四姓(ししょう)です。  お釈迦さまは、「人間はすべて平等な存在である」という信念に徹しておられましたから、機会あるごとにそれを説き、ご自分の言動にもそれを実際に示されていたのです。ですから、ニーダの行動を一目見られて、この人間にこそ自分自身の尊厳さを認識させなければ――とお考えになったわけです。 神像の頭も足も同じ黄金  さて、どう道を変えてもお釈迦さまが目の前にお現れになるので、ニーダはすっかり度を失い、あわてたあまり甕を壁にぶっつけて落とし、全身に人糞尿を浴びてしまったのです。そのとき、世尊はおっしゃいました。  「ニーダよ。わが身を卑下してはならぬ。人間は生まれた種族によって尊卑が決まるものではない。何をしてきたかの行いによって決まるのである。もしそなたが望むなら、きょうからわたしの精舎に入れてあげるが、どうだ……」  ニーダは感きわまって平伏しました。お釈迦さまはそのままニーダを祇園精舎にお連れになり、サンガの一員にお加えになったのでした。  しばらくたってから、大きな問題が起こりました。というのは、釈尊教団のしきたりとして、新しく入門した者は先輩の足に額をつけて礼拝することになっていました。ところが、ニーダより後に入門したバラモン階級の出の者が、シュードラ出のニーダの足など頂礼したくないと拒否する騒ぎが起こったのです。  そのときお釈迦さまは、次のような説法をなさり、その不心得を厳しくおさとしになったのです。  「黄金をもって神の像をつくるとしよう。頭の部分になる地金もあれば、胸、腹、足の部分になる地金もある。頭の部分になる黄金と、足の部分になる黄金とその価値において上下があるか。人間もそれと同じである。すべてが等しく尊い存在なのである」と。  いつの時代になっても変わることない、人間存在の基本原理でありましょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊37

仏陀と菩薩の微笑

1 ...人間釈尊(37) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏陀と菩薩の微笑 衆生を愛するが故の微笑  後世の仏伝作者や経典編集者は、お釈迦さまを神格化するあまり、いつも謹厳そのもののようなお顔をしておられたように伝えていますが、事実はもっと柔らかな心の持ち主で、よく微笑されたようです。その証拠は仏像にも現れており、中国の北魏(ほくぎ)や日本の飛鳥(あすか)時代の如来像はお口もとに神秘的な微笑をたたえておられます。  僧伽羅刹(そうぎゃらせつ)所集経というお経には仏身の妙相を非常に詳しく述べてありますが、その二十二番目に「微笑(みしょう)」という一章があるくらいです。そこには次のように述べられています。  「世尊かくの如く笑みたもう。かくの如き因縁をなすは、本行のなすところ、衆生を憐れむがゆえに、すなわちかくの如き笑みを現ず」  つまりお釈迦さまは、前の世からずっと積んでこられた衆生を憐れむ行いの因縁によって、自然と微笑を現される……というのです。また、こうもあります。  「仏の笑むを見るに、塵垢なく、清浄にして瑕(か=きず)なし。本(もと)修行するところ、また虚言なし」  口もとに現れる笑いにもいやらしいのがあります。ニヤリとする皮肉な笑い。相手を侮蔑するようなニタニタ笑い。そんなものではなく、お釈迦さまの微笑はまったく心の底からの、純粋なものだったのです。というのは、長い間の修行によって円満なご人格が完成され、そのご人格から自然と発する微笑であるからそこに嘘いつわりは微塵もない……というわけです。  それらの具体的な現れが、大般若波羅蜜多経第五百六十五にあります。すなわち……  世尊のお説法を聞いて感激した六百人の比丘たちが、歓喜をあからさまに爆発させて花々を散じ、世尊に向かって合掌しました。そのとき世尊はニッコリと微笑されました。阿難が、  「いま世尊はニッコリなさいましたが、どういうわけでお笑いになったのですか」とお聞きすると、こうお答えになりました。「このもろもろの比丘たちは、これから星の数ほどの年月を経たのち仏となることができる。そのことが目に見えてきたから、思わず笑みを浮かべたのである」。  まことに「衆生を憐れむがゆえに」……。お弟子たちを心から愛されるがゆえの微笑だったのです。 微笑しつつ使命感を自覚  仏さまでもこのとおりです。ましてや、そのお使いとして直接一般大衆に接している菩薩ともなれば、なおさら「和顔愛語」を心がけていなければなりますまい。  ですから、華厳経第五十九に、世尊は「仏子よ、菩薩摩訶薩は十事をもってのゆえに微笑を示現して心に自ら誓う」とお説きになり、その十の事柄をお示しになっておられます。  その第一に「世間の人たちは欲望の泥の海の中で苦しみもがいている。そういう人たちを救うのが自分に課せられた使命だと、微笑しながら自ら誓うのである」とおおせられています。  菩薩とは、自分も仏道を修行しながら、人々を救い、世の平和化のために挺身する人間をいうのですが、その使命を自覚すれば、往々にして歯を食いしばるような悲壮感をもって活動に立ち向かう人があります。それも決して悪いことではないでしょうが、お釈迦さまのご真意としては、「もっと柔軟な、楽しい気持ちで、微笑と共に教化活動をしてほしい」とお考えになっていたのではないかと思われます。  後世のわれわれ仏教徒にとって、非常に大事なお示しではないでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊38

釈尊の絶妙な方便

1 ...人間釈尊(38) 立正佼成会会長 庭野日敬 釈尊の絶妙な方便 死んだ子を抱いて歩く女  舎衛城の町を一人の女が、三歳ばかりの子供の死体を抱いて、フラフラと歩き回っていました。そして行き会う人ごとに、  「この子に薬をください。お願いします」  とけんめいに頼むのでした。この女は商人の妻でキサー・ゴータミーといいましたが、一人子を急病で失って半狂乱になっていたのでした。  薬をくれと言われても、だれも相手にしません。ただ一人、心すぐれた男がいて、彼女に告げました。  「城外の精舎に仏陀といわれるお方がおられるから、そのお方にお願いしてごらん」  ゴータミーはさっそく祇園精舎に行ってみますと、大勢の人に囲まれて説法しておられる神々しいお方がおられます。それを見てとったゴータミーはおん前に進み出て、  「仏さま、この子に薬をくださいませ」  とお願いしました。お釈迦さまは、  「よく来たゴータミー。これから町へ行って、むかしから今まで死人を出したことのない家から芥子(けし)粒を一粒ずつもらってきなさい。そうしたら、いい薬をあげよう」  とおっしゃいました。  ゴータミーが町へ引き返して一軒一軒回ってみましたが、これまでに死人を出したことのない家は一軒もありませんでした。  そこでゴータミーはハタと気がつきました。――死んだのはこの子だけではないのだ。仏さまはそのことをお教えくださったのだ――。  そして町の外の墓場に行って子供の遺体を葬り、スッキリした気持ちでお釈迦さまのみもとへ戻ってきました。 自身も聖なる道へ回生した  「ゴータミーよ。芥子粒は手にはいったか」  「いいえ、み仏さま。もう芥子粒は要りません。み教えはよくわかりました」  そこで世尊はお説きになりました。  「自分の子や家畜に心を奪われ、愛におぼれて執着しているうちに、死はそれらをさらって行くであろう。人びとが眠っている間に洪水が村を押し流して行くように」  このお言葉は法句経の二八七番に残されていますが、この一偈を聞いたゴータミーはますます心が開け、出家して仏法に精進したいと決意しました。  お許しを得て比丘尼僧院に入ったゴータミーの進歩は目を見張るほどで、ほどなくアラカンの悟りに達しました。とくに、粗末な衣を着、質素な暮らしをしていることは比丘尼中で第一であると、お釈迦さまに褒められたのでした。  法句経三九五番にある次のお言葉は、キサー・ゴータミーをお褒めになったものだといわれています。  「たとえ拾いあつめて作った、見苦しい衣を着ていても、身体は瘠せ、静脈が浮かび上がって見えるほどであっても、ひとり林中で心を静めて瞑想している、わたしはそのような人をバラモンと呼ぼう」  なお、キサーというのは「瘠せ女」という意味だそうで、ゴータミーの得名だったのです。  彼女自身が詠んだ偈も、南伝の長老尼偈経の二一三番から二二三番に記されています。その最後に、  「わたしは聖なる八つ道(八正道)を修習して、不死の境地に達し、法の鏡を見た。わたしは(貪・瞋・癡の)矢を抜きとり、心の重荷を下ろし、解脱することができた」  とあります。女性として、母として最大の不幸に陥った人が仏法に救われた一例ですが、それにしてもお釈迦さまの方便の見事さはどうでしょう。「方便即真実」とはこのことなのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊39

釈尊の財産はこれだけ

1 ...人間釈尊(39) 立正佼成会会長 庭野日敬 釈尊の財産はこれだけ 世尊の衣を頂いた迦葉  さき(二十四回)に、出家して王舎城へと旅する摩訶迦葉をお釈迦さまが途中まで出迎えられた話を書きましたが、その直後にこういうことがあったのです。  「ちょっと一休みしようか」とお釈迦さまがおっしゃるので、迦葉はすぐ自分の上着を脱ぎ、四つに畳んでその上に座って頂きました。お釈迦さまはその上着を触られて、  「柔らかな布だね」  とおっしゃいました。迦葉は即座に、  「その上着を差し上げたいと存じますが、いかがでしょうか」  と申し上げます。世尊はお尋ねになりました。  「そなたは何を着て行くのか」  「世尊の糞掃衣(ふんぞうえ)を頂きたいのですが……」  世尊は黙って上着をお脱ぎになり、迦葉に与えられました。迦葉は思わず涙ぐむほどに感激してその上着を押し頂き、身に付けました。  着ているものを交換する、それには並々ならぬ意味があるのです。隔てのない友情と親しみの表れなのです。お釈迦さまが初対面の迦葉をどうごらんになっていたかが、この一事でもうかがい知ることができましょう。  糞掃衣というのは、墓場などに捨てられたボロ布をつづり合わせた衣で、世尊も他の比丘たちと同様、それを常用しておられたのです。  それ以来迦葉は、一生のあいだ衣食住すべての面で質素な生活に徹し、教団中「頭陀(ずだ)第一」と評せられました。頭陀というのは梵語ドゥタの音写で、樹下石上を宿とし、鉢に入れられた食物以外は食べず、着るものは糞掃衣に限るといった暮らし方をいうのです。 世尊は世界一の大富豪  お釈迦さまもそのような生活をしておられたのですが、お気持ちはもっと広々としておられ、信者や国王に招待されれば気さくにお出かけになり、新しい衣を寄進されればこだわりなくお受けになりました。ただし、たいていはだれかに下げ渡されたもののようです。  いずれにしても、簡素な生活という基本は守り続けておられました。その所有物といえば、他の修行者たちと同様、左の七点に限られていました。  三衣(さんね)という三種の衣。まず(大衣)といって、托鉢に出たり、信者宅に招かれたりする時の正装。これは二十五条の布ぎれをつづり合わせて一条の布としたもの。次に(上衣)といって、説法をなさる時(弟子たちならば、礼拝・聴法の時)や集会などの際に着る平常着で、九条の布ぎれをつづり合わせて作る。三番目は(中衣)といって、日常の作業や就寝の時につける肌着。  これらは、もともとはボロ布をつづったものだっただけに、たとえ新品でも鮮やかな色でなく、カサーヤ(濁った色)と定められていました。いまの袈裟(けさ)という名はそこからきているのです。  この三衣一組に加えて、座ったり寝たりする時に敷く座具と、飲み水をこすための漉水嚢(ろくすいのう)と、托鉢の時、食物を受ける鉢と、それにカミソリ。これが全財産でした。  それにもかかわらず、お釈迦さまはこの世で最高の大富豪であられた。なぜか。法華経譬諭品に「今此の三界は皆是れ我が有なり」とおおせられたように、「大宇宙は自分のものだ」とお考えになっていたからです。  後世のわれわれも、もちろんお釈迦さまには及びもつかないけれど、精神世界の王者となることを一生の目標とし、できうる限り生活は簡素にしたいものです。なぜなら、今のままでは人類が滅びに向かうことは必至ですから。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊40

金糸刺繍の衣と弥勒菩薩

1 ...人間釈尊(40) 立正佼成会会長 庭野日敬 金糸刺繍の衣と弥勒菩薩 摩訶波闍波提手作りの衣  前回にお釈迦さまの衣について書きましたが、そのついでにぜひ触れておきたいエピソードがあります。  太子を育てた養母の摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)は、太子が出家されたのち、いつかはお役に立つこともあろうかと、一条の衣を作りました。自分で糸を紡ぎ、自分で織った上等のものでした。漢訳には、「金縷黄色衣(こんるおうじきえ)」とありますから、おそらく金糸で刺繍がしてあったものと思われます。  お釈迦さまが仏陀となられてから数年後に故郷に帰られたとき、郊外の林中にそれを持って訪れ、  「これはわたくしが作ったものです。どうぞお納めください」  と申し出ました。世尊は、  「わたしが受け取るわけにはいきません。教団に寄進なさるがよいでしょう」  と申されます。しかし摩訶波闍波提は、  「世尊に着て頂くために作ったものです。どうぞ、どうぞ、お受けください」  と懇願してやみません。お傍にいた阿難が、  「世尊。摩訶波闍波提さまは、世尊を二十九年もお育てになったお方ではございませんか。それに、今は在家の信者として、三宝に帰依し、五戒を守ってお暮らしになっておられます。どうかその真心をくみ取ってあげてくださいまし」  と、とりなしました。世尊もそれに動かされ、いちおうご自分への寄進としてお受けになり、あらためて教団へ寄付されたのでした。 着ると三十二相が現れた  教団に寄付はされたものの、だれがそれを着るかということが問題になりました。立派すぎると言って、だれも着たがりません。  やむなく世尊が決じょうをお下しになりました。  「弥勒比丘に着用させよ」と。  法華経序品で、文殊菩薩が弥勒に、  「そなたは前世にもろもろの善根を植えたために無数の諸仏に会いたてまつり、供養・恭敬・尊重・讃歎した身である」と告げていますが、その因縁によるものでしょうか、生まれつき人並みすぐれた尊貴な風格と慈悲心の持ち主でした。  バラナシの大臣の家に生まれ、親戚にあたるバラモン学者の家で育てられたのですが、その学者の命令でお釈迦さまのもとに参って法を聞き、たちまち感動して出家・入門したのだそうです。  お釈迦さまが金縷黄色衣をこの人に着せようとなさったことには、深い意味がこめられているように推察されます。  というのは、弥勒をご自分の後継者(教団の後継者ではなく、衆生済度の仏として)と思い定めておられたからです。当時は比丘の身分でしたけれども、内面的にはすでに菩薩であり、しかも補処(ふしょ=釈迦牟尼仏の代わりになる)の菩薩だったわけです。  お釈迦さまは、こう予言しておられます。  「弥勒は、わたしの入滅後五十六億七千万年後に兜率天から娑婆世界へ下生して仏となり、衆生を救済するであろう」と。  弥勒比丘がこの衣を着るようになってから、一般の人々もその予兆を見ることができました。これを着て托鉢に出ると、仏と同じような三十二相がその身に現れ、全身が黄金のように輝き、人々はその姿に見とれて、食物を差し上げるのを忘れるほどだったといいます。  それにしても、世尊は万人を平等に愛されたのですが、しかし、それぞれの人間の特質を見分けられる眼がおそろしく的確だったことは、このエピソードからもうかがわれます。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊41

新興宗教につきものの法難

1 ...人間釈尊(41) 立正佼成会会長 庭野日敬 新興宗教につきものの法難 忌まわしい中傷をまく女  祇園精舎が出来てから、パーセナーディ王をはじめ舎衛城の町の人びとの尊崇は、新興の仏法に集中するようになりました。他の教団の修行者たちは、それがいまいましくてなりません。  その嫉妬心が高じて、ある一団の修行者たちが、およそ宗教者としては考えられぬような悪計を企(たくら)んだのでした。  その仲間の女修行者スンダリーは評判の美人でしたが、そのスンダリーが毎日けばけばしい化粧をし、夕方になるとわざと人目につくようにシャナリシャナリと歩きながら、祇園精舎のほうへ向かうようになりました。  朝になると、祇園精舎から出てきたように装って、舎衛城の町へ帰るのです。そして、知る人に会うごとに、  「ゆうべはね、祇園精舎に泊まってきたのよ。沙門ゴータマの所に寝たの」  と聞こえよがしに言うのでした。  その噂はたちまち町中に広がりました。それを見すました悪い修行者たちは、数人の殺し屋に金をつかませて、スンダリーを殺させたのです。  殺し屋たちはスンダリーを虐殺し、祇園精舎のお釈迦さまの部屋のそばの深い溝に投げ込み、土をかぶせておきました。 悪評にも泰然として  悪い修行者たちは、スンダリーが行方不明になったと騒ぎたて、王に訴え出ました。王が、  「心当たりの所はないのか」と聞くと、  「そういえば、近ごろよく祇園精舎へ行っていたようですが……」  と、しゃあしゃあと答えます。  「では祇園精舎のあたりを捜してみよ。捜索を許す」  悪い修行者たちは、その辺を捜すふりをしてから、スンダリーの死体を溝から引き揚げ、舎衛城へ担いで帰りました。  釈尊教団の名声はまったく地に落ちてしまいました。比丘たちが町へ托鉢に出ても、聞くに耐えぬ罵りを受けるばかりです(新興宗教にはつきものの法難でした)。  そのことをお釈迦さまに申し上げると、顔色ひとつ変えられず、悪罵する人にはこう説いてやるがよいと言われ、次のような偈をお説きになりました。  「偽りを言う者は地獄に落ちる。自分で作(な)していながら作していないと言う者も同様である。両方とも、己れの作した行為によって己れを悪しき運命へ索(ひ)いて行くのである」  それでも、弟子たちの中には「この舎衛国から引き揚げては……」と言い出す者も出てきました。お釈迦さまは、  「しばらく待て。そのような噂は七日もすれば消えていくであろう」と仰せられ泰然としておられました。  そのうち殺し屋たちは、もらった金で酒を飲んでいるうちに喧嘩を始め、その中の一人が、  「おい、お前がいちばん悪いんだぞ。スンダリーを一撃で打ち倒したのはお前じゃないか」と口走りました。それを小耳にはさんだ役人は、ただちに殺し屋たちを逮捕し、極刑にしました。  悪い修行者たちがどうなったかは、言うまでもありません。お釈迦さまが説かれた偈のとおり、「己れの作した行為によって己れを悪しき運命へ索いて行った」のでした。  これは事実あった事件で、右の偈は法句経の三〇六番に収録されています。  それにしても、お釈迦さまの忍辱の強さには、ただただ敬服のほかはありません。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊42

死刑となる五百人を助命

1 ...人間釈尊(42) 立正佼成会会長 庭野日敬 死刑となる五百人を助命 罪人の悲泣を耳にされて  そのころ舎衛国と毘舎離(ヴァイシャーリー)国とは仲が悪く、毘舎離の野盗どもがしばしば群れをなして舎衛国の村落を掠奪したり、破壊したりしていました。  たまりかねた舎衛国の役人たちが大挙して野盗狩りをし、五百人もの盗賊を捕らえて帰りました。町の広場に一同を引き据え、一斉に処刑することにしました。  さすがの荒くれ者どもも、いよいよ首を斬られるとなると、恐怖のあまり声をあげて泣き叫びました。  「死にたくない。助けてくれ……」  「もう悪いことはしません。命だけは……」  その慟哭(どうこく)の声はお釈迦さまの耳にも達しました。  「比丘たちよ。大勢の泣き叫ぶ声がするが、どうしたことなのか」  「世尊。五百人もの盗賊どもが、王の命令で処刑されようとしているのです」  「そうか……」  世尊はしばらく考えておられましたが、傍らに控えていた阿難におっしゃいました。  「すぐ王宮に行っておくれ。そして国王に、わたしがこう言ったと伝えなさい。『あなたは国の王です。民をいつくしむことはわが子のごとくでなければならないのに、なぜ一時に五百人もの人間を殺すのですか』と、そう聞いてきなさい」  阿難が王の所へ行って、その通りを伝えますと、王は、  「尊者よ。そんなことはわたしも心得ております。しかし、この賊どもはたびたび村々を襲っては家を打ち壊し、財産を掠奪して始末におえません。もし世尊が、この者どもが二度と盗賊をはたらかないようにしてくださるなら、釈放してやってもよろしいでしょう」  と答えました。  阿難が王の言葉を世尊に申し上げますと、こう言いつけられました。  「もう一度王の所へ行ってわたしがこう言ったと伝えなさい。『王よ、無条件に釈放されるがよろしい。わたしが二度と悪事をしないようにはからいましょう』と、そう言いなさい」 阿難の機転のはたらき  ところが阿難は、機転をはたらかせて、王の所へは行かず刑場に直行し、刑吏に「この罪人どもは仏陀がお救いになったのだから、殺してはなりませんぞ」と釘を刺してから、罪人どもに尋ねました。  「おまえたちは出家する気があるか、どうか」  賊どもは、  「いたします。いたします。わたくしどもが早く出家していたら、悪いこともせず、こんな恐ろしい目に遭わずにすんだでしょう。どうぞ出家させてください」  と哀願します。  「よろしい。そのように取りはからってあげよう」  そう言いおいて阿難は王の所へ行き、初めて世尊のお言葉を伝えました。王はすぐ役人たちに、「五百人の命だけは助けてやろう。しかし、まだ縄を解いてはならぬ。そのまま世尊のもとへ連れて行けば、仏陀が彼らを放たれるであろう」と命じました。  罪人どもが刑吏に連れられて行くと、世尊は路地に座って待っておられました。そのお姿を見るやいなや、戒めの縄はひとりで解けてしまったのでした(と『摩訶僧祇律』第十九巻は伝えています)。  そこで世尊がこんこんと法を説き聞かせられたところ、みんなが本心を取り戻して出家し、清らかな生活に入ったと言います。  お釈迦さまの、罪を憎んで人を憎まぬ大慈悲心と、阿難の頭の良さの一端をうかがうことのできる一挿話であります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊43

死にゆく人のために

1 ...人間釈尊(43) 立正佼成会会長 庭野日敬 死にゆく人のために 舎利弗友情の説法  舎利弗の在家時代の友だちにダネンという人がありました。その旧友が重い病気と聞いて、早速見舞いに行きました。  「どうですか、具合は」  と聞くと、  「体中が痛くてたまらないんです」  と言います。  「食べ物はよく食べていますか」  「ぜんぜん食欲がないのです。なにしろ頭が刀で刺されるように痛んで、それに腹も張り裂けるように痛みます。体中が火の上であぶられるように熱いのです」  その言葉を聞くまでもなく、舎利弗は一目見てもはや助かる見込みはないと判断しました。  「ではダネンよ。わたしの尋ねることに思うとおりに答えてください。君は下は地獄から上は梵天までのどこがいちばんいい所だと思いますか。どこに生まれたいと思いますか」  「もちろん梵天です。梵天に生まれたい……」  「安心しなさい。わたしの師のゴータマ仏陀は三界のすべてを見通しておられる方で、梵天に生まれる法をもお説きになっておられます。よくお聞きなさいよ。まず、すべてのものに対する執着を捨てよとお教えになりました。東西南北、四方上下のすべての存在に対して、恨みのない、怒りのない、争いのない広大な心を持ち、欲念を去って清らかになれば、身は死し、命は終わっても必ず梵天に生まれると保証してくださっています」  「そうですか。有り難いことです。それをうかがって心が安らかになりました」  ダネンは両眼に涙を浮かべながらも、ほおには微笑を浮かべ、両手を合わせるのでした。 在家仏教徒の一課題  「その気持ちですよ。何も心配はいりません。また来ますからね」  そう言いおいて、舎利弗は竹林精舎へと帰りました。あとで聞けば、ダネンはそれから間もなく、まことに安らかに息を引き取ったということでした。  竹林精舎では、お釈迦さまが大勢の人たちに囲まれて法を説いておられましたが、はるか向こうから舎利弗が歩いてくるのを見られ、  「みなさん。あの舎利弗はいまダネンという旧友のために梵天に生まれる法を説いて帰ってきました。まことの大徳です」  とほめたたえられました。  中阿含経第六にあるこの実話には、非常に大きな意味が含まれていると思います。  お釈迦さまは、病者に対しては特に慈悲をかけられたお方です。病気の比丘を手ずから看護され、汚れた体や衣を洗ってまでおやりになりました。また、遠くからお釈迦さまを拝しに旅してきた一団が、途中で病気になった一人を置き去りにして来たのを、きびしく叱責されたこともあります。  いま、末期のガンなどで余命いくばくもない人たちのための精神的な救いが、重大な社会的要請となっています。それに応えうるのは宗教者しかいないのですが、現在いわゆるホスピスの施設を造ったり、病院に出入りして死にゆく人々の友となっているのはほとんどキリスト者です。  仏教の僧侶が重病者のもとへ行くのを遠慮せざるをえない事情はお察しがつくことと思います。とすれば、在家の仏教徒がその任に当たらねばならないことになりましょう。今後の課題の一つだと思います。  ここで思い出すのは、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の詩にある左の一節です。  「南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイイトイヒ」 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊44

素直でないことの不幸

1 ...人間釈尊(44) 立正佼成会会長 庭野日敬 素直でないことの不幸 命終の老人への思いやり  舎衛城に大富豪のバラモンがいました。もう八十歳の老人でしたが、貪欲で、頑迷で、ものの道理のわからぬ人物でした。大きな邸宅に住んでいながら、さらに新しい邸宅を建てようと、自ら現場に出て工人たちを指示していました。  ある日、お釈迦さまが阿難を連れてその家の門前を通りかかられますと、元気そうに立ち働いているその老人の顔に、死相が現れているのです。  お釈迦さまは、――このままではこのバラモンは死んでも善い所へは行けない。今のうちに心を浄化してあげなければ――とお考えになり、声をかけられました。  「新しい家が出来るようだが、心にかかることなどありませんか」  バラモンはそれには答えず、  「この家をごらんください。前の方の堂閣はお客の応接のため、後の方の屋舎にはわたしが住みます。東西の二軒は息子たちと召し使いたちの住まいです。夏の涼み台、冬の温室も完備しているんです」  と、自慢たらたら。お釈迦さまは、  「それはそうと、いい折ですから少し話をしませんか。大事な偈が頭に浮かびましたので、お聞かせしましょう。これは生死に関する重大なことですから」  「いや、いまはとても忙しくて、座ってなんぞおられません。後日またおいでください。その偈だけをうかがっておきましょう」  お釈迦さまはこうお説きになりました。  愚か者は「われに子らあり、われに財あり」と心迷う。されど、己自身がすでに己のものではない。ましてや子らが己のものであろうか。財が己のものであろうか  バラモンはうわの空で聞いていたと見え、  「たいへん結構です。いまは忙しいですからまたおいでください。そのとき詳しく、その意味をうかがいましょう」  というニべもないあいさつ。お釈迦さまは仕方なくそこを立ち去られましたが、いつになく悲しそうなお顔をしておられました。 心が素直であるかどうか  お釈迦さまが立ち去られてから間もなく、そのバラモンが自分で屋根へたるきを上げようとしていた時、手を滑らせ、たるきがドッと頭の上に落ち、即死してしまいました。  神通力をもってその変事を知られた世尊は、「ああ、やっぱり……」と、物思いにふけりながら歩いておられますと、村の長(おさ)と数十人の村人が通りかかり、ご様子を拝して、  「世尊。何かご気分でもお悪いのではございませんか」  と尋ねましたので、世尊はかくかくの次第だったと、老人の急死を告げられ、その人々のために次の偈をお説きになりました。  愚かな者は、たとえ一生のあいだ賢い師についても正しい道理を知りえない。あたかも匙(さじ)が何百度食べ物をすくっても、食べ物の味を知ることがないように。賢い者は、たとえ短いあいだでも賢い師に近づくならば、たちまちにして正法を知ることができる。あたかも舌が食べ物の味を知るように  この「賢い」とか「愚か」とかいうのは頭脳のよしあしをおっしゃっているのではなく、心が素直であるかどうかを指しておられるのだと、わたしは解釈します。  頭脳のよしあしは現世に住んでいる短い間だけの問題であり、心の素直さは死後の運命を決める永遠の問題なのですから。  なお、前の偈は法句経六二番に、後の偈は六四・六五番に収録されています。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊45

後生を信ずるか信じないか

1 ...人間釈尊(45) 立正佼成会会長 庭野日敬 後生を信ずるか信じないか 異教徒の悪だくみ  この世の正しい道理にそむき、うそを言い、後生を信じない者は、どんな悪いこともやりかねない  これは法句経一七六番の句ですが、お釈迦さまがどんな時にこのお言葉を発せられたか、そのいきさつをお話ししましょう。  コーサラ国のパーセナーディ王は宗教家を大切にする人で、その影響によって舎衛城の市民たちもいろいろな宗教の修行者たちに喜んで布施し供養していました。  ところが、その郊外に祇園精舎が出来、お釈迦さまとお弟子たちが長期に滞在されるようになってから、その教えの素晴らしさに心服した王や市民たちの尊崇がそちらへ集中するようになりました。  それが妬(ねた)ましくてならない他教徒のうち、極めて低次元の修行者たちが、とんでもない悪だくみを起こしたのです。  その仲間の女修行者チンチャーは非常な美人でした。そのチンチャーが、ある日から急に祇園精舎の道をよく出歩くようになりました。それも、町の人々が説法を聞いて帰る夕方ごろに、花や香を持って祇園精舎の方へ行くのです。そして朝になると町の方へ歩いて行くのです。  それが毎日のことなので、当然、人々の好奇心をそそるようになりました。そうして四、五カ月たったころ、チンチャーのお腹がふくらんできました。人々が目引き袖引きしてコソコソ話しているのに対して、  「何も隠すことないわ。わたしは仏道修行者の子を宿したのよ」と公言するのでした。 地獄に落ちたチンチャー  九カ月ぐらいたったころ、チンチャーは大きなお腹を抱えて祇園精舎にやってきました。そして、説法を聞いている大勢の人々の前で、お釈迦さまに向かい、  「お偉い沙門さま。あなたのお情けを受けてこんな体になったのに、あなたは産室の用意もしてくれない。あなたができないんだったら、王さまにでも、お弟子たちにでもやらせたらどうなの。この情け知らず!」  と罵りました。お釈迦さまは平然として、  「妹よ。そなたの言うことが本当かどうかを知っているのは、そなたとわたしだけである」  と言われました。チンチャーは、  「そうよ。二人だけが知っていることよ」  と言い返します。  その瞬間、どうしたわけか――一説には帝釈天がそうしたのだと言われていますが――お腹をふくらませていた木の盆が大きな音を立てて地に落ちました。  人々はアッと驚き、そして怒り出し、――仏さまを悪だくみで陥れようとするとは何事だ――と、ツバを吐きかけたり棒で叩いたりして追い出しました。逃げ出したチンチャーは、精舎の外へ出てしばらく行った時、地面がにわかに割れて、無間地獄へ落ちてしまったということです。  その時、お釈迦さまが、決然とした面持ちで説かれたのが冒頭の偈であります。  お釈迦さまは「諸法空」を説かれたのだから、「人間は死ねばすべて空に帰する」と誤解している向きがありますが、空に帰するのは肉体であって、魂は永遠に生きると受け取るべきでしょう。そのことは、最高の経典である法華経の背骨をなす真実なのですが、法句経や阿含経やスッタニパータなど、お釈迦さまの言行を比較的忠実に伝えている原始仏教経典にも、至るところで説かれています。  いずれにしても、われわれ現代人も、目先のことだけでなく死後を含む未来にも思いをいたして生きれば大きな過ちを犯すことはないのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊46

古い約束を忘れることなく

1 ...人間釈尊(46) 立正佼成会会長 庭野日敬 古い約束を忘れることなく なぜ王舎城へ向かわれたか  お釈迦さまがヴァラナシの近くの鹿野苑で五人の比丘に初めて法を説かれてから、その教えに帰依する人が続々と集まり、短時日の間に六十人ものサンガ(信仰者の団体)ができました。するとお釈迦さまは全部の弟子たちに「世の多くの人々の幸せのために布教の旅に出よ。ただし、同じ道を二人で行くな。一人ずつ違った道を遍歴して法を説くがよい」と命ぜられ(これを「伝道宣言」という)、ご自分もお一人で王舎城へと旅立たれました。  ヴァラナシはその当時からたいへん栄えた町であり、修行者が集まる宗教の中心地でもあったのですから、そこに腰をすえておられれば教団の隆盛は間違いないはずなのに、なぜ六十人をバラバラに旅立たされたのでしょうか。  もちろんその理由は、伝道宣言のお言葉にもあるように、あまねく世間の人々を救済するためだったのです。教団の繁栄といった私心など微麈ももたれなかったのです。  では、なぜご自分は王舎城へ向かわれたのでしょうか。そのみ心の中をおしはかってみますと……。  第一に考えられるのは、王舎城付近には六年間も苦行された村や、仏の悟りを開かれた記念すべき場所があり、そうした土地に対する懐かしい思いに引きつけられたのではないかということです。  だが、もっとハッキリ推測されるのは、ビンビサーラ王との約束を果たされるためだった……ということです。本稿の十一回にも書いたように、出家直後のシッダールタ太子は王舎城近くの山中で修行しておられました。ビンビサーラ王はその人物を見込んで太子を訪れ、自分の片腕になって国政を見てもらいたいと要請しましたが、太子は――わたしは人間最高の道を求めて出家した身ですから――と言って断られました。そのとき王は、  「では、最高の道を悟られたら、ぜひこの町に来てその教えを聞かせてください」  と言い、太子は  「はい。お約束しましょう」  と答えられたのでした。  その約束がお釈迦さまの脳裏に焼きつけられていたことは十分察せられるのです。 うるわしい心と心の再会  さて、旅の途中で有名な宗教家優楼頻羅迦葉(うるびんらかしょう)と二人の弟およびその数百人の弟子たちを教化された世尊は、王舎城に着かれると城外の林中に足を止められ、優楼頻羅迦葉に命じて王を招請せしめられました。  王は、かねて尊崇していた優楼頻羅迦葉がたちまち世尊に帰依したことを聞いて、新たな驚きを覚えながら、林中へやってきますと、世尊は数百人の新弟子たちに囲まれ、端然とお座りになっておられます。  「おお、お久しぶりでございました、世尊。よくぞこの国へおいでくださいました」  「あの時お約束したではありませんか。王もご健在でおめでとうございます」  あいさつを交わされるお二人の再会は、世にもうるわしい光景でありました。  それからお釈迦さまは、王のためにじゅんじゅんと仏法をお説きになりました。  ――この世のすべてのものは因と縁との和合によって生ずるもので、独立した「我」というものはない。その「我」に執着するがゆえに苦があり、争いが生まれるのだ云々――  王は心の底から感銘し、いよいよ帰依の念を深めました。そして、竹林精舎を建立したり、世尊が籠(こも)られる霊鷲山への登山道を改修したり、仏教の大外護者(げごしゃ)となったのでありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊47

身を調えるのが最高の修行

1 ...人間釈尊(47) 立正佼成会会長 庭野日敬 身を調えるのが最高の修行 技の習得に専念する青年  一人のバラモンの青年がおりました。頭がよく、たいそう器用で、どんなことでもよく覚える天才型の人間でした。  二十歳のとき、――この世の技術という技術をすべて身につけよう。でなければ、すぐれた人間とはいえないのだ――と考えました。  富豪の子でしたから、金と暇に飽かせて次から次へと師匠に就き、音楽から、書道から、馬術から、着物の裁断・衣装のデザイン、料理の技術まで習い、それらをすっかり身につけました。  それにもあき足らず、諸国をめぐって珍しい技があれば残らず習得しようと決意し、旅に出ました。  ある町を通りかかると、矢作り職人が矢を作っていました。その手際の鮮やかなことは目を見張るばかりで、買い手は列をつくっており、争って求めていくのでした。  青年は、――よし、この技を覚えよう――と考え、弟子入りしました。そして、しばらく修業しているうちに師匠をしのぐほどの腕前になりました。彼は謝礼のお金を差し出してそこを辞し、また旅へ出ました。  大きな川にさしかかりました。舟でその川を渡ったのですが、その船頭の舟の操りかたの巧みさは、ほれぼれするほどでした。向こう岸に着くと、さっそく船頭に頼みこんで弟子にしてもらいました。  桿(さお)のさし方、櫓(ろ)の漕ぎ方など、毎日懸命に練習した結果、師の船頭も及ばぬほどの腕前に達しました。そこで、謝礼を上げてそこを去り、また旅を続けました。  ある国にさしかかったとき、国王の宮殿を見る機会がありました。じつに立派な建築で、とりわけ軒や柱に施された彫刻の見事さにはただ感嘆するばかりでした。  青年は、その宮殿を造った大工を探し出して弟子入りし、設計から施工、そして装飾の技術まであらゆる技を習得しました。これまた棟梁をしのぐほどの技量となりましたので、厚く謝礼してそこを去りました。 ただ歩いておられる釈尊に  このようにしてその青年は十六の国々を回り、ありとあらゆる学芸・技術を習い覚え、天下に自分ほど偉い人間はないと肩をそびやかしながら、故郷へ帰ろうとしていました。  たまたま舎衛城に入ろうとして、祇園精舎の前を通りかかりました。  お釈迦さまは、この青年がいい素質は持ってはいるけれど、一つだけ欠けたものがあるのを神通力でお見通しになり、その青年の前へと歩いて行かれました。  それまで仏道の沙門を見たことがなかった青年は、粗末な衣をまとって静かに歩いて来られるその姿の神々しさに、思わず見とれてしまいました。  「失礼ですが、あなたはどんなお方でしょうか」と尋ねると、お釈迦さまは、  「わたしは身を調(ととの)える人である」  とお答えになりました。  「身を調えるとはどんなことですか」  お釈迦さまは偈を説いてお聞かせになりました。  治水者は水を導き、矢作りは矢を矯(た)め直し、木工は木を調える。賢者は、おのれの身を調えるのである  もともと利発なその青年は、心を調え行いを調えることが人間にとっていちばん大事な修行であり、最も価値あることであることをその場で悟り、お弟子の一人に加えて頂くようお願いし、お許しを得たのでありました。そして非常に高い境地に達したということです。(この偈は法句経八〇番に収録されています) 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊48

持戒者は天に生まれる

1 ...人間釈尊(48) 立正佼成会会長 庭野日敬 持戒者は天に生まれる 飢渇しても殺生せず  お釈迦さまが祇園精舎にお住まいのときのことです。  マガダ国王舎城で出家したばかりの二人の比丘が、仏陀にお目にかかって直接に法をうかがいたいと思い、舎衛国へと旅立ちました。  両国の中間には人跡絶えた広漠たる荒野があり、二人がそこにさしかかったのはちょうど一年中で最も暑熱が激しく、しかも雨が一滴も降らない時期で、川も泉もすっかり渇(か)れ果てていました。  いつ体力が尽きてしまうか、いつバッタリ倒れるかという限界状況にありましたが、ただ仏さまを拝したいという一心から、気力だけでよろよろと歩いていました。  ところが、珍しく数本の木立があり、その下に古い泉の跡があってほんの少し水がたまっていました。やれ嬉(うれ)しやと飲もうとしたところ、その水には小さな虫がいっぱいわいていたのです。  「ああ、ダメだ。仏陀の戒めの第一に不殺生ということがある。この水を飲めば虫たちを殺すことになる。ああ、飲めない。飲んではならない」  と一人が言えば、もう一人は、  「いや、わたしは飲む。飲んで命をつないで仏さまのお目にかかる」  と言う。  「そうか。わたしは殺生戒を犯さずに死んで善処に生まれよう」  そう言ったかと思うと、その場に倒れて息を引き取りました。すると、その霊はたちまちにして忉利天(とうりてん)に昇りました。そして、そこから花と香を持って地上に降り、お釈迦さまのもとへ参って礼拝することができました。 自然を大殺生する現代人  もう一人は、水を飲んだおかげで命をとりとめ、疲労こんぱいしながら祇園精舎にたどりつきました。そしてお釈迦さまを拝してから、  「わたくしには一人の連れがございましたが、途中で死んでしまいました。どうぞその比丘のことも思いやってくださいませ」  と泣き泣き申し上げました。お釈迦さまは、  「知っている。その比丘はそなたより先にここに参っている。あそこにいる神々しい天人がそなたの連れであるぞ」  とおおせられ、さらにご自分の胸を開いてそこを指し示され、  「そなたは戒を守らずに、わたしのこの身体を見に来たのだ。そなたはわたしの前にいるようでも、じつはわたしの心からは万里も離れているのだよ」  とおおせられました。その比丘は自分の考えの至らなかったことをつくづくと悔い、いつまでもそこにうなだれていたのでした。  これは法句比喩経第一に出ている話ですが、肉体生命を大事にする現代の風潮からすれば、生き残ったほうの比丘の肩を持つ人のほうが多いかもしれません。  しかしわたしは、これは個人個人が殺生戒を守るか守らぬかの問題を超え、そして二千五百年前のインドの一地域での出来事を超え、人類と大自然との共存関係の大切さを底に秘められた教えと受け取りたいと思うのです。  二十世紀末の人類は、七、八十年間の短い人生の安楽のために大自然界のあらゆる生きものを虫けらのように殺生してはばかりません。そればかりか、土・水・空気といった無機物までをほしいままに殺生しています。そういった所業がどんな結果を生むかは想像に難くありません。  仏典には往々にして現実離れしたような話がありますが、このような受け取り方をすれば、八万四千の法門すべてが現実の教えとなることと思うのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊49

教えに背く弟子をも捨てず

1 ...人間釈尊(49) 立正佼成会会長 庭野日敬 教えに背く弟子をも捨てず お足跡を踏み消そうとした  善星という比丘は、お釈迦さまのお傍(そば)に仕える弟子でありながら、教えを信じようとしないばかりか、かえって世尊に反感をいだき、何かといえば反抗的な言動をしてはばからない、心の曲がった男でした。  お釈迦さまがカーシー国に布教に行かれたときのことです。町へ托鉢に出られますと、人々は仏さまを拝み、立ち去られた後も、その足跡をジッと見つめて尊崇の念を深めるのでした。仏さまの足跡には尊い印文(いんもん)が残るという信仰があったからです。  ところが、お供をして後ろに従っている善星は、わざわざその足跡を踏み消してしまおうとするのでした。町の人々は、なんという恐れ多い、何という心ないことをする男かと、怒ったり呆(あき)れたりするのでした。  王舎城に苦得という異教の師がいて、いつも「因果などというものはない。人間の煩悩にも原因はなく、また煩悩からの解脱にも原因はないのだ」という説をなしていました。  善星はお釈迦さまが「善因善果・悪因悪果」ということを説かれるのがいかにも身を縛られるように感じていましたので、この苦得の自由奔放な説に心から敬服してしまいました。  そしてお釈迦さまに、  「世尊、世の中に阿羅漢(あらかん=あらゆる煩悩を除き尽くした人)がいるとすれば、あの苦得こそ阿羅漢だと思います」  と言いました。お釈迦さまが、  「何を愚かなことを言うのだ。苦得などは阿羅漢とはどんなものかということさえわかっていないのだ」  とおっしゃると、善星は、  「世尊は阿羅漢ですのに、どうして苦得に嫉妬(しっと)などされるのですか」  と、とんでもないことを言い出すのでした。そんな男だったのです。 なぜ長く傍に置かれたのか  善星は、仏さまの傍にいるのがどうにも窮屈になり、自ら離れ去って行きました。そしてナイランジャナー河の近くに独り住んでいました。  お釈迦さまは、善星がその後どうしているだろうかと心配され、迦葉を連れてわざわざ訪ねていかれました。  善星はお二人の姿を見ると、こっそりと房を出、河を渡って逃げようとしました。そして深みにはまって溺(おぼ)れ死んでしまったのです。お釈迦さまの心眼には、彼がたちまち地獄に落ちたのがアリアリと映りました。  「ああ、とうとう救われなかったか……」  お釈迦さまは悲しげに嘆声を発せられました。  迦葉が、  「どうしてあんな男を二十年もお傍に置かれたのですか」  とお尋ねすると、  「それはね。善星にも毛筋ほどの善根はあるのだから、辛抱づよくそれが現れるのを待っていたわけだ。また、善星には多数の親類がいて、その人たちは善星を阿羅漢だと信じ込んでいる。もしわたしが彼を捨ててかえりみなければ、どれほど多くの人が彼のために迷いの道に落ちこむかわからない。それゆえ二十年ものあいだわたしの傍近く置いて、彼の邪見の害毒がひろがらないようにしていたわけだ」  と仰せられました。  お釈迦さまの忍耐づよさと、心の広さと、智慧の深さが、つくづくしのばれる話ではありませんか。提婆達多を「善知識」とおっしゃったのと双璧をなす話だと思います。 (涅槃経第三十三より) 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊50

釈尊は名医でもあられた

1 ...人間釈尊(50) 立正佼成会会長 庭野日敬 釈尊は名医でもあられた 栄養に細かい心遣いを  無量義経に、世尊を賛(たた)えて「医王・大医王なり、病相を分別し薬性を曉了して、病に随って薬を授け、衆をして薬を服せしむ」とあります。これは、心の病(煩悩)を治す名医だと解釈するのが普通ですが、じつは身体の病を治す名医でもあられたのです。そのことは経典のあちこちにたくさん記されています。その二、三例をあげましょう。  王舎城付近には「秋時病」といって、秋口に発生する一種の風土病がありました。主として消化器系統が侵されるのでした。比丘たちにもそれが発生しました。お釈迦さまが阿難に、  「阿難よ。どうもこのごろ、瘠せて顔色の悪い比丘が多くなったようだが、どうしたのだろうか」  とお尋ねになりますと、  「どうやら秋時病にかかっているようでございます。粥を飲んでも吐きます」  との答え。  「それはいけない。栄養をつけてやらなければなるまい。熟酥(じゅくそ=ヨーグルトの類)・酥(チーズの類)・植物油・蜜・糖などを取るように、そう言いなさい」  いつもは贅沢な食べ物として許されていなかったこれらの栄養食を、薬としてお勧めになったのでした。  ところが、教団の掟として食事は午前中に一回だけと決まっており、比丘たちはいっぺんにそれらの栄養食を食べたので、かえって吐いたりくだしたりしました。お釈迦さまは早速、  「病人は一日中いつでもよいから、欲しい時に少量ずつ食べるようにしなさい」  と命ぜられ、その後、戒律をそのように改められたといいます。 看護の心得五個条  ある時、一人の比丘が頭痛をわずらいました。蓄膿症によるものだったらしく、医者が鼻を洗おうとしましたが、どうもうまくいきません。  そこでお釈迦さまは、木や竹で潅鼻筒(かんびとう)という器具(おそらく世尊の発明か)を作らせ、それを用いて乳の油で鼻を洗わせられたといいます。その時、その液がなかなか鼻に入りません。そこでお釈迦さまは、  「頭のてっぺんを手でさするか、または足の親指をこすってごらん」  とアドバイスされたと、経典(四分律)に記されています。東洋医学でいう「経絡」をも心得ておられたのではないかと推測されます。  また、病人の看護についてもこまごまと指示されたことが、経典のあちこちに見えています。例えば、南伝大蔵経にはこうあります。  「比丘たちよ、次の五個条をよく行う者がよい看護人ということができる」 1、よく薬を調合する。 2、病気に適応した薬や食事を与える。 3、ただ慈心をもって看護し、余念を交えない。 4、大小便や嘔吐物を除くのを厭(いと)わない。 5、時に応じて法を説き、病者を慶喜させる(法悦を覚えさせる)。  お釈迦さまご自身がこのようにして病比丘を看護されました。とくに第5項によって病気が治った比丘も、数々あったといいます。  宗教の説法によって病人の心を安らかにすることは、最近になって末期のガン患者などにとって大事であると気づき、ホスピスなどで実行されるようになりましたが、お釈迦さまは二千五百年も前にすでに行われ、効果をあげておられたのです。  まことに「医王・大医王なり」はそのまま真実だったのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊51

心身の大医王・釈尊

1 ...人間釈尊(51) 立正佼成会会長 庭野日敬 心身の大医王・釈尊 「手当て」で病比丘が快癒  前回に引き続き、釈尊が名医であられたことについて、もう少し述べてみましょう。  祇園精舎におられた時のことです。比丘たちはみんな町の居士(こじ=在家の男性信者)の屋敷に招待され、精舎はガランとしていました。釈尊はおひとりで比丘たちの房を見て回られました。  ところが、ある部屋で病気の比丘が、自分のもらした大小便にまみれながらうんうん呻(うな)っていました。世尊が、  「どうしたのだ。どこが悪いのか」  とお尋ねになると、  「腹病でございます。苦しくてたまりません」  「だれも看病してくれる者はいないのか」  「はい。わたくしがいつも他人の世話をしたことがございませんので……」  「そうか。よろしい。わたしが治してあげよう」  世尊はさっそく比丘の傍らに座られ、その身体に手を当ててさすっておやりになりました。すると、たちまち苦痛は去り、心身共に安らかになりました。  これは、十誦律巻二八に出ている実話ですが、世尊が触手療法の名手でもあられたことを物語っています。大聖者にはこのような能力が具わっており、イエス・キリストも患者の頭をなでられただけで、病気を退散せしめられたことが、聖書に明記されています。  また、言葉だけで病気を治された例もたくさんあります。キリストが、足なえの人に「立って歩め」と言われたら、即座に足が立ったことが、これまた聖書にあります。  釈尊も、前(35回)に書きましたように、気の錯乱したバターチャーラーという女に、  「妹よ、気を確かに持て」  と言われたその一言で、たちまち正気に返ったという記録があります。  ところがわれわれ凡夫にも、キリストや釈尊のような大聖者には及びもつかないけれど、そうした能力が潜在していることを知っておくべきでしょう。  頭が痛ければ、ひとりでに額を押さえます。「手当て」という言葉はそこから出ているといわれています。また、言葉の力にしても、病人に対する心からの励ましの言葉がどれぐらいその生命力を鼓舞するか、計り知れないものがあるのです。 現実の功徳の大切さ  さて、さきの病比丘に対する釈尊のその後の処置が、これまた実に尊くも有り難いものでした。  やおら病比丘を助け起こし、外へ連れ出された世尊は、顔じゅうの唾や鼻水をふき取られ糞にまみれた衣を脱がせて洗濯した衣に着せ替えておやりになりました。また、部屋もきれいに掃除され、新しい草を敷いてその上に座せしめられました。そして、次のようにお諭しになりました。  「そなたは今後、人間としてのまことの道を求めることにもっともっと励むのだよ。それを怠れば、またこのような苦痛を覚えることがある。精進第一と心がけよ」  その比丘は心の中につくづくと考えました。(あえて原文のまま記しましょう)  「『いま仏の威神力を以て、我が身を摩するに当(まさ)に手を下したもう時、我が身の苦痛即ち除療し身心安楽なり』と。是の比丘、仏の大恩を念じ、善心を生じ、清浄の位を得、種々願を立つ」  この比丘はついに阿羅漢(一切の煩悩を除き尽くした人)の位を得たといいます。  この一連の経過は、われわれ後世の仏弟子としてよくよく吟味し、見習わなければならないことだと思います。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...