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人間釈尊(15)
立正佼成会会長 庭野日敬

生かされている思いを実感

前正覚山から菩提樹下へ

 スジャータのささげる乳粥を食べて気力と体力を回復した菩薩は、新しい修行の地を探して対岸にそびえる岩山に登ってみました。
 その中腹に格好の洞窟がありましたので、中に入って静座し瞑想に入りました。
 すると、しばらくしてから地震が起こり、洞窟内にも小さな落石がありました。菩薩は、ここは修行にふさわしい場所ではないと、すぐ立ち去ろうとしました。そのとき空中から声があって、
 「これから西南の方に巨大なピッパラ樹があります。その下があなたの道場です。そこで禅定に入られるとよいでしょう」
 と告げるのです。
 菩薩はさっそく山を下りたのですが、この山(ガジャ山)、菩薩が正覚(しょうがく=最高の悟り)を得る一歩手前に登ったゆかりの山というので前正覚山と名づけられ、今も聖地の一つとしてチベット僧が寺を建ててそこを守っています。
 さて、菩薩は再び川を渡って西南の方へ歩いて行きますと、ゆくてにうっそうとしたピッパラの大樹が見えてきました。――ああ、あれこそ――と直感した菩薩がそこへ行ってみますと、いかにも清浄の気に満ちた静かな場所です。
 そのとき十二、三歳の少年が柔らかそうな草を籠いっぱい背負って通りかかりました。瞬間、菩薩はむかしの言い伝えを思い出しました。――過去の聖者たちは草を敷いた上に座って悟りをひらいたそうだ。ちょうどいい――菩薩は少年に声をかけました。
 「その草をもらい受けたいがどうかね」
 少年はニッコリ笑って、
 「よろしゅうございます。どうぞお使いください」
 「それはありがたい。そなたの名は何というの?」
 「スヴァスティカ(吉祥)です」
 「ああ、めでたい名だ。その草は何という草?」
 「クシャ(功祚)です」
 「いよいよめでたい。ありがとう。ありがとう」
 菩薩はピッパラ樹の東側にその草を厚く敷くと、まず木のまわりを三回まわってから木に向かって合掌礼拝し、静かに草の上に座ると、背筋を伸ばし、目を半眼に閉じ、最終的な禅定に入ったのでした。

一本の木にも感謝しつつ

 禅定に入る前の菩薩の脳裏には、苦行を中止してからのこれまでの出来事が、一連の大きな意味をもったものとして浮かんできました。乳粥を供養してくれた少女の真心、前正覚山で聞いた空中の声、大きな陰をつくって自分の修行を守ってくれるピッパラ樹、刈ったばかりの柔らかい草を快く布施してくれた少年……みんなみんなわたしの求道心を助けてくれる存在だ。天地のすべてのものがわたしを生かしてくれているのだ……そうした思いが心の底に深く静かに広がっていったのでした。
 そうした深層意識があったればこそ、やがてそれが形を成して結晶し、(この世の万物はすべてつながり合い支え合って存在しているのだ)という真実の悟りとなって現れたのでありましょう。
 それにしても、禅定に入るまでの菩薩の行動の中でいちばん尊く、いちばん美しいと思うのは、ピッパラ樹のまわりを三回まわって合掌礼拝したことです。これはインドでは貴人に対するあいさつの礼儀だったのですが、それを一本の樹木に対してなされたこと、そこに菩薩の人柄の美しさと真摯(しんし)さがマザマザと現れていると、賛嘆せざるを得ません。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎

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