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14 ...師の恩 一  私の家は小さな農家で、兄弟も多く、経済的に恵まれてませんでしたから、十歳ぐらいでいっぱしの手伝いをさせられ、からだで百姓を経験いたしました。そのようななかで学校へ行き、勉強できる時間が与えられるのですから、登校できるのがうれしく、その気持ちで先生の教えられることを聞くわけですから、先生を神さまのように敬ったものです。いわば、子弟教育の根本は家庭にある、というのが私の持論です。  (昭和48年10月【佼成新聞】) 師の恩 二  私は、若いころから人の長所だけを見、尊敬するようにつとめてきた。その人がどんな欠点をもっていても、いっこう気にならなかった。小学校四年ぐらいのときだったと思う。受け持ちの先生の素行がよくないということで、友だちはみんな批判していた。だが、私は、その先生から学問を教えてもらっているのだから、と尊敬していた。先生が休むと“さあ、みんなで勉強しよう”と率先してやったものだ。今日、私が人にお話できるのも、つねに先輩の長所だけを見つけては学んできたからだと思う。 (昭和38年05月【佼成新聞】) 師の恩 三  校長先生は大海伝吉先生といって、二十年以上もこの学校(大池小学校)に勤続しておられた。親切で、温厚な、ほんとうにいい校長先生だった。私は校長先生のいわれることは、無条件に守った。とくに忘れられない教えは、「人には親切にせよ」ということと、「神さまや仏さまを拝め」ということだった。「人に親切をする」というのは、友だちがケガをしたとか、本を忘れて困っているとか、そんな特別な場合にすることだと、思い込んでいた。それで、校長先生に教えられた当時は、友だちが何か困りはしないか……田んぼや川にでも落ちたら助けてやるんだが……と、心待ちに待っていたものだ。とんだ親切者もあったものだが、それぐらい校長先生の教えには忠実だった。 「神さまや仏さまを拝め」という教えは、その日から実行できた。家の宗旨は曹洞宗だったが、むろん神棚もちゃんと祀られてあった。祖父も父母も信心深いほうで、朝夕の礼拝を欠かしたことはなかった。  兄弟たちは、校長先生にそう言われるたびに、二、三日の間は、神棚の前でかしわ手を打ったり、仏壇の鐘を鳴らして拝んだりするのだが、長つづきせず、いつの間にかやめてしまう。私だけは毎朝、それを欠かしたことはなかった。学校に遅れそうになって、兄弟たちがあわてて駆け出していくのを見ながら、胸をわくわくさせつつも、とにかく、神さまや仏さまを拝み、それから後を追った。そうしないと、なんとなく気持ちが落ち着かなかった。  学校への道筋にある鎮守さまの諏訪神社の前を通るときも、これもやはり道端にある子安観音さまや、石の地蔵さまにも、必ずおじぎをして通った。だから、「あれはおかしな子だよ」と、人に言われていたものだ。  また、一方がけわしい崖、一方が深い谷になっている危ない場所があった。春先になるとよく雪崩が起こって遭難者が出たこともある難所なので、自然石に〈大日如来〉と四文字が刻んで祀ってあった。これも、行き帰りに必ず拝んで通ったものだ。  何かは知らないが、とにかく人間の生命をつかさどっている絶対なもの、人間を正しいほうへ導いてくださる大きな力……そういったものへ帰依する気持ちが、稚い、かたちの上だけの礼拝からも、自然自然に養われていった経過を、今になってまざまざと思い出すことができる。  とにかく、〈人に親切にせよ〉〈神さま仏さまを拝め〉という、この二つのことは、校長先生から受けた教えのうちで、最大・最高のものだったと、今でも確信している。そして、この二つの教えが私の一生の生き方を方向づけたということができる。平凡は田舎の校長先生だったのだろうが、私にとっては終生の大恩師である。  (昭和51年08月【自伝】) 師の恩 四  最近(註・昭和36年)は政府でも、農地法など、いろいろな対策をめぐらして、農家のことを考えるようになりましたが、昔を振り返ってみますと、当時は非常な努力をしてもいっこうに浮かばれなかったのです。何か生きがいのある生活の方法はないものかということで、上級の学校に進もうとしても、私どものような田舎の農家では、ほとんど上げてもらえなかったものでした。ただ先祖伝来の土地で、同じように百姓をつづけ、生活していくことだけに汲々としている状態でした。  そうしたなかで、私は、十二、三歳のころから、なんとかして自主独立したいという気持ちを強くもつようになりました。しかし、自分の力を考えてみますと、後ろだてもないし、だれも応援してくれる者もなく、金を出してくれる人もいない。あくまで自分ひとりの力があるだけなのです。そういう状態から、なんとかなろうとするには、物ごとを自分の力で考えていかなければならないわけです。  その時分の私どもの小学校には、格言を書いた柱掛けが、一本一本の柱に掛けてありました。書がじょうずであった校長先生が書かれたものでしたが、そのなかに、「誠は天の道なり」という言葉がありました。ところが、たまたま、私の村と隣村との間で秋の農作物品評会が小学校で開かれ、両方の村から、大根や人参、ゴボウ、白菜、それにカボチャなどが出品されたことがあります。  その審査にきていた人が柱掛けを見て、「『誠は天の道なり』と、ここに書いてあるが、これは間違ってはいないか」と、校長先生に難題をなげかけました。「誠は人の道なり」がほんとうであって、“天の道なり”というのは、少し浮き上がっている、というのがその人のいい分でしたが、校長先生も“天の道”でいいんだ、といってゆずらない。ふたりがしきりに論争しているのを、ちょうどそのそばにいた私は、聞かせてもらったのです。  そればかりではなく、その人は一つ一つの柱掛けを、順序を追って読んでいきました。「誠は天の道なり」の隣にあった「人事を尽くして天命を待つ」には、何もいいませんでした。次には、「為せば成る為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」と書いてありました。私は最初の問答にヒントを得て、そのときから、柱掛けの言葉を見ては、どこか間違っているところはないだろうか、間違っているとしたら、どういうことがほんとうなのだろうか、と考えるようになりました。疑問をもったことをきっかけに、言葉を真剣に見つめようとする気持ちが起こったのです。  その後、東京に出て奉公するようになってからも、何か事にぶつかったときには、いつも「人事を尽くして天命を待つ」で、一生懸命になって最善を尽くし、人間のなすべきすべてのことをし尽くしたあと、天命を待つという気持ちを起こさせてもらいました。また、自分でなんとかしようとしても、なかなか思うようにはなれませんでしたが、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」なのだから、どうしても為し通そうという気持ちでやったものです。  そうしたことが、信仰生活に入ってからもつづき、「誠は天の道なり」か、それとも「誠は人の道なり」かという疑問が、相当の年になってからも思い出されたものでした。子どものころに見た、顔色を変えて論争をかわしている校長先生の姿が、いつになっても印象に残っていたわけです。一つの物ごとに対していだいた疑念は、物自体を真剣に見つめてかかろうという態度につながり、やがて、一つの難題にぶつかると、格言をよく読んでは考える、ということをつづけていったのです。私は、貧しい家に生まれて、いろいろな修行にぶつかるなかで、人を頼らずになんとか生きていかなければならない。それには、やっぱり誠で進まなくてはならないし、自分の考えたことを成就させるためには、どうしても自分の力だけでは及ばないということに気づいて、そこで神さまや仏さまを考えるようになったのでした。  そこまでいって気づいたのですが、小学校時代の校長先生と品評会の審査にきた人との間で交わされた“誠は天の道”か、それとも“人の道”かという論争は、天という問題を神にふりかえて考えるか、それとも、神に人間の正しく歩む道を依存しきってしまうことは誤りで、まず自分から誠をもって道を行かなければならない、と考えるかの視点の置きどころの問題であったわけであります。  私どもの小さな時分には、仏門について、わかりやすく説明してくださる人がなかったのですが、私は信仰につながる“天の道”とか、“天命を待つ”という言葉、あるいは、自分の責任で為していかなければならないことを教える“為せば成る”という言葉、その一つ一つが、すばらしい影響をもっているものだと感じました。  (昭和36年04月【速記録】) 師の恩 五  『文藝春秋』の九月号(註・昭和48年)に、前尾繁三郎さんが、恩師である旧制一高の哲学とドイツ語の先生・岩元禎というかたのことを書いておられましたが、この先生は授業中、いつも大声で「バカッ」「バカッ」と叱り飛ばすばかりか、試験の採点もじつにからく、四十人の組で二十人近くも落第させられた年もあったということです。それなのに、亡き先生を慕う門下生一同が、この七月に先生の碑を総持寺境内に建立されたとのことでした。その文章の中で、前尾氏はこう書いておられます。 「それから五十年経った現在、私などは、すっかりドイツ語は忘れてしまったし、哲学概論も冒頭の文章以外何一つ覚えていない。しかし学問に対する尊厳と、それに挑む気魄というようなものが知らず知らずのうちに培われ、私のその後の人間形成に、どのくらい役だったかは量り知れない」  これなのです。当時の世相が、岩元先生のような教育者を存在せしめていたのです。四十人のうち二十人も落第させるような先生を、父兄たちも問題にせず、学生たちも頭を掻いてすませた世の中、学問を人間形成のためのものとして尊重していた世相、それが教育者らしい教育者をつくっていたのです。  (昭和48年11月【躍進】)  学校で先生の学問や仕事に対する情熱を目のあたりに見聞きしていますと、無意識のうちに、それが魂の底にしみついてしまいます。いわゆる、下種結縁です。その種が、いつの日か、なんらかのキッカケで芽を吹くのです。  また、反対に、無意識の底に下種結縁されたまま眠っているものを表面に引き出すのも、教育の大きな働きなのです。教育を英語で「エデュケーション」ということはご存じでしょうが、これはもともと、「引き出すこと」という意味だそうです。その人が生来もっているよきもの、仏教的に言えば、生き変わり死に変わりした長い前世から今世にかけて下種結縁されたよきものを表面へ引き出す……これが教育の大きな働きです。  (昭和48年11月【躍進】)  子どもは、いずれの点においても未成熟で、おとなに劣っています。高等動物になればなるほど胎内にいる期間が長く、生まれてから一人前になるまでの期間が長いのであって、野生の動物などは、生まれるとすぐ立ち上がり、一年もたてばりっぱにおとなになるのに対して、人間の子どもは、生まれて一年間は立つこともできず、一人前になるのにも十数年から二十年もかかります。  その期間、乳幼児には母親が、胎内にいるのと同じように愛情深く保護・養育し、幼児期になると両親がよく見守って、生き抜くための動物的な知恵を身につけさせると同時に、人間らしく生きるための躾をしていきます。それから小・中・高校に入れば、先生がたが子どもの知・情・意をバランスよく発達させると同時に、それぞれのもちまえをグングン伸ばすように導かれます。最後に大学へ進めば、専門の知識と経験を豊かにもった教授たちが、それぞれの分野において、世の中の進展に役立つ人間になるようにと指導されます。これが教育というものです。  つまり、親と子ども、教師と学生・生徒は、人間としての本質は平等であっても、現実の姿においては人生体験といい、学識といい、考えの深さといい、すべての点に大きな隔たりがあるのです。ですから、子は親を、学生・生徒は先生を尊敬し、その教えに随順するのは当然の成り行きではないでしょうか。自然の摂理といってもけっして大げさではないでしょう。  (昭和49年11月【躍進】) 師の恩 六  〈鉄は熱うちに鍛えよ〉という言葉があります。(中略)躾は幼・少年の時代にジックリやっていただきたいものです。それも、昔のように頭ごなしにやるのではなく、あくまでも、「それでは人のめいわくになるのではないか」「それでは人にイヤな感じをあたえるのではないか」「それでは人を困らせることになるのではないか」と、つねにひとのためということを強調することを忘れてはなりません。  人のため一点ばりでいいのです。自分のことは、教えなくたって必ず考えるのですから、教えるのは人のためだけで充分です。それで、ちょうどいいつりあいがとれてくるのです。今の教育は、あまりに自分のため、自分たちのためを強調しすぎます。もともと、人間は自分のことを第一に考えるものであるのに、そのうえ自分のため、自分たちのためという思想を植えつけられるのですから、ますます利己一点ばりの人間ができて、どうにもならなくなるのです。どうか、幼・少年期の道徳教育は、このひとのための一本やりでやっていただきたいものです。鉄が熱くて柔らかいうちに、その思想をしっかりと叩き込んでいただきたいと、せつに願うものであります。 (昭和41年07月【復帰】)...

15 ...竹馬の友 一  私は小さいときから背が高く、(中略)相撲でも、徒競走でも一番だったし、それやこれやで、いつのまにかクラスの大将格になった。  勉強のほうは、まあ中以上といったところだったが、だんだんできるようになって、四年生のころからはずっと二番だった。一番は、仲が良かった高橋宗太郎君で、家は大池部落にあったが、代々秀才の家柄というか、三人の兄さんはみんな一番で級長だった。家庭の雰囲気もそういった家で、学問とか勉強ということを重んずるふうがあった。それにひきかえ、私の家は純粋の農家で、うちへ帰ればすぐ子守か、田畑の手伝いをさせられる。私自身もそれを当然のこととして、うちで勉強しようなどとは考えたことさえなかった。  だから、宗太郎君が私よりできるのは、私にとっては、まるで自然現象のようなものだった。まったく気の合う親友でもあったし、かれを抜いて一番になってやろうなんて競争心など、これっぽっちもなかった。  ところが、六年生の二学期に一つの異変が起こった。四年生以来ずっと宗太郎君が級長、私が副級長で通してきたのに、クラスの連中、何を思ったのか、私を級長に選挙してしまったのだ。おそらく、宗太郎君はからだも小さいし、おとなしい性格なので、馬力があってガキ大将的な私にやらせてみるのもおもしろい、とでも考えたのだろう。  私も少々面くらったが、宗太郎君のほうはそれどころではない。一家を挙げての大問題となってしまった。代々一度として級長の地位を人にゆずったことのない家だから、無理もないことかも知れないが、とにかく、目に見えない暴風が一家の中に渦巻き、その風当たりがいっせいに宗太郎君に注がれたわけだから、本人としてはたまったものではない。すっかりしょげこんで、今の言葉で言えば、ノイローゼ気味になってしまった。  私としては、第一の仲良しのことだし、気の毒やらかわいそうやらでたまらない。とはいっても、選挙を決定したことだから、どうしようもない。そこで、二学期だけは仕方なく級長をつとめたが、三学期になるとクラスのひとりひとりに「こんどおれを選挙したら、ただではおかねえぞ」とおどかしてまわり、無事旧に復して、宗太郎君の級長、私の副級長で、明るく朗らかに〈螢の光〉を歌って別れたのであった。  (昭和51年08月【自伝】)  高橋宗太郎君は、のちに十日町田川町の小西材木店へ養子に行ったが、旧姓を名乗って高橋材木店を経営し、地方での成功者とて知られていた。  終戦後、義務教育が六、三、三制になって、十日町中学校の分教場が大池小学校のそばに建築されたとき、この高橋君がいっさいを請け負って材木を提供し、大いに義侠的に努めた。当時、私も金一封を寄付したが、なおそうとうの不足が出、それを高橋君が負担したということだ。  なお、同君は立正佼成会の新潟教会越後川口支部所属の信者として精進していたが、惜しいことに先年、この世を去った。  (昭和51年08月【自伝】) 竹馬の友 二  私はガキ大将的な存在ではあったが、あまりケンカはしなかった。クラスの中で一番強かったから、ケンカする必要がなかった。ただ仲間が上のクラスの者にいじめられたり、ケンカを吹っかけられたりすると、よしっというわけで、そいつをかばって大いにやった。だから、ケンカといえば、上級生相手で、そのため教室に立たされたこともあった。しかし、ケンカのしっぱなしにはせず、すぐ仲直りしたので、いつまでもにらみ合うような相手というものはなかった。  (昭和51年08月【自伝】) 竹馬の友 三  上の者とは、ときどきケンカをしたけれども、同級や下の者のめんどうはよく見てやったと思う。小さいときから、しょっちゅう弟たちのお守をさせられていたので、自然そういうことがあたりまえのようになってしまったのではなかろうか。  学校が退けてからの子守は普通のことで、農繁期になると、出席して子守をするか、もしくは田畑の手伝いをしなければならない。私は格別勉強が好きというほうではなかったけれども、欠席だけはしたくなかったので、必ず子守のほうを選んだ。そして、毎日弟をおぶって学校に行った。授業中もおぶったままだった。  おんぶすることはなれたものだし、ハナをたらしたといってはふいてやったり、おしっこや、うんちをさせてやったりすることも、子ども好きだったから別になんでもなかった。だが、授業中に泣き出されるのばかりは閉口だった。教室の隅に行って、よしよしとゆすってやってもいっこうに泣きやまないときは、こっちが泣きたくなったものだ。  うんこのことで思い出したが、汚ないことや、人のいやがることが、私にはそれほどいやではなかった。一年生のとき、同級の子どもが粗相をしたことがあった。どうも変な臭いがするぞ──と隣近所のやつがざわざわし始めたと思ったら、ひとりの子が変な腰つきをしてベソをかいている。あいにく先生は何かの用で教室にいない。みんなはクスクス笑ったり、、ひやかしたり、騒いでいるばかりだ。本人は、今や泣き出さんばかりだ。そこで私は、その子の尻をまくって、きれに始末してやった。  こんなこともあった。ある年、村にチフスがはやって、何軒か患者が出た。衛生知識の乏しい時代のことだから、その患者が避病院に連れて行かれたあとでも、村の人は怖がって、患者の出た家にはいっさい寄りつかない。全快してしまってからも、その家の前を通るときは駆け足で走り抜けたものである。  池田惣吉君という子の家にも患者が出た。幸いうまく助かって、もうすっかり治っていた。ところが、ある日、惣吉君の家が〈雪踏み当番〉に当たることになった。雪踏みというのは、村から大池小学校までのおよそ六百メートルほどの道づくりのことで、朝早くカンジキをはいて、前夜道の上に降った新雪を踏み固めて歩くので、何軒かずつ交代でそれをやることにいなっていた。  その当番を惣吉運の家に知らせなければならないのに、あそこへ行けば伝染るといって、だれひとり行こうとはしない。そこで私は、もう治ったのだから怖がることはない、よし、おれが行ってやる──といって、知らせに行った。それからしばらくは、「鹿は無鉄砲なやつだ」と、みんなにいわれたものだ。思えば、滑稽な話だ。  (昭和51年08月【自伝】) 竹馬の友 四  私の子どものころは、(中略)ラジオもなければ、テレビもない。玩具ひとつない。遊ぶ道具はみんな手づくりでした。山から竹を切ってきて、竹馬をつくる。スキーをつくる。竹といっても、若い竹はいけないし、あまり年取ったのもいけない。ちょうど壮年のしっかりした竹をえらぶのですが、子どもたちはだれから教わるともなく、その切りごろを知っているのです。(中略)そろそろ雪がきそうだとなると、子どもたちは、それとばかりに勇み立ち、準備にかかるわけで、スキーも楽しいけれども、この準備がまた、なんともいえず楽しいものでした。  今の子どもたちには、こうした創造の楽しみがありません。玩具といえば、ほとんど完成品で、スイッチ一つ押せば動き出すといったものが多く、どんなに精巧に出来ていても、すぐ飽きてしまいます。組み立てを楽しむプラモデルの類もありますが、これとても説明書のとおりやっていけば、キチンと出来上がるので、工夫というものが要りません。とにかく、すべてが他力本願で、受動的で、人間を無精に育てるものばかりです。  そのうえ勉強、勉強とやたらと責め立てられ、われを忘れて遊ぶ暇などたいへん少なくなりました。おおぜいの友だちといろんな遊びを考え、一緒に楽しむこともなくなりつつあります。これでは人間らしい人間が出来上がるはずがなく、学業そのものも健全に伸びていきません。やはり、昔の教育の合言葉のように「よく学び、よく遊べ」でなければならないと思うのです。  (昭和52年04月【佼成】) 竹馬の友 五  雪に閉じこめられた冬の生活だって、けっして捨てたものではありません。四つ、五つのころから、毎日、雪の中で、こけつまろびつして遊びました。今にして思えば、よくもあの冷たい白一色の世界の中で、時のたつのも忘れておられたものと、ちょっと不思議のようでさえあります。  冬の思い出で忘れられないのは、毎年一月十四日にやるホンヤラ洞です。雪をよく踏み固めながら山のように積み上げ、その下を掘って四メートルぐらいのホラ穴をつくります。その上に何人乗っても、潰れるなどということはありません。外から見ると、小さな城のようです。  そのホラ穴の中に、ムシロやゴザを敷いて座敷をつくり、子どもたちが集まっていろんなことをして遊ぶのです。めいめいの家から豆がらを持ってきて焚火をしますと、ウソのように暖かいものです。これも持ち寄った餅や甘酒を、その火で焼いたり、温めたりして食べ、夜の十二時ごろまで遊んだものです。  (昭和44年11月【生きがい】) 竹馬の友 六  さきごろ故郷に帰って、小学校時代の同窓生と会合しましたが、十二名のうち健在なのは八名で、その顔ぶれを見ますと、みんな明るい性格で、働きもので、頼りになるシンをもった人ばかりなのです。このことは、大きな示唆を含んでいると思います。  ついでですが、女八名のうち亡くなったのは一名であるのに対して、男四名のうち三名がすでに先へいってしまっています。  やはり、全国の統計が示すとおり、女性は長生きなのだなあと、しみじみ感じさせられました。それよりも感銘が深かったのは、その七名の女の人たちが、ひとり残らず幸福な生活を送っていることです。そろって丙午ばかりというのに……。ここにも、あのバカバカしい迷信をうち破る生きた証拠があると、たいへんに愉快でした。  (昭和41年11月【佼成】)...

16 ...家業と人間形成 一  小学校時代、私が学校から帰ると「家にきたら仕事しろ。勉強は学校でしてくるだけで上等だ」といわれるので、九歳になるころから、親から命じられた家の仕事の一端をしなければならなかったわけです。  (昭和52年08月【求道】)  家には馬や牛を飼っていたので、朝早く草刈りもしなくてはならない。養蚕もやっていたから、学校から帰るのを待ちかねて、「それっ、桑をいっぱい積んでこい」といいつけられる。それが、別に不服でもなければ、辛くも思わなかった。ごくあたりまえのことだったし、そういう軽労働がけっこう楽しくもあった。  (昭和51年08月【自伝】) 家業と人間形成 二  小学校二年ごろから、馬の鼻とりをさせられました。  私はからだが大きかったので、けっこうそういう仕事ができたのですが、毎年田の“代掻き”のころには、足の爪がすりへってなくなったほどです。うちの田がすむと、よその田まで手伝いにやらされました。砂地の田に入るときなど、足がヒリヒリ痛みました。けれども、そんなことで、なんとなく精神力が鍛えられて、“たいへんだ”とか、“苦しい”といって、仕事にのまれることはなかったのです。  ですから、やはり、だいじなときに落ち着いていられる自信は、平凡なことですが、毎日一定の時間に起きること、そして必ず、きちっと決まったことをやることからできてきます。そういう節度をもった生活を、毎日、子どものときから積み上げていく修行がたいせつだと思うのです。  (昭和43年11月【佼成】) 家業と人間形成 三  私は自分の経験からいきますと、数えの十六、満年齢で十五歳のとき、親のそばから離れて、叔父の家へ仕事を習いにいったのです。叔父さんですから、とても私を歓迎して、大事にしてくれるのですが、やはり、親から離れて他人のめしを食うというのはつらいものです。  叔父のところは、十日町の撚り糸屋でしたが、毎朝五時というと動力をかけるのです。朝五時から夜十時まで動力が回っているから、休むわけにいきません。ノホホンと遊んでいて、時間を制限された経験のない人はわからないでしょうが、それはそうとうきついものでした。へたばりはしなかったけれども、つま先で立って機械に乗りかかるようにして糸をむすぶものですから、足の甲がむくんでしまったものです。  (昭和42年02月【佼成】) 家業と人間形成 四  今の親は家庭で子どもに用事をさせなさすぎます。勉強さえしていてくれればいい、といった態度です。これが、どれくらい子どもをスポイルするかわかりません。だれの言葉だったか、ちょっと忘れませしたが、「子どもを働かせない家庭は家庭ではない」と言い切った人があります。私も大賛成です。家庭も一つの小さな社会です。共同体です。したがって、その構成員はなんらかの働きをして共同体に貢献する義務があります。これは重大な社会のルールです。  このルールも、口先だけで教えたのでは身につきません。小さいときからからだでそれを守り、果たしていってこそ、大きくなってからも自然にできるようになるのです。ですから、庭掃除でもよい、ガラス拭きでもよい、皿洗いでもよい、これはこの子の役目とハッキリ決めて、必ずそれを実行させることです。小さなことのようですが、けっして小事ではありません。そうした習慣が、責任ある社会人をつくり、立派な社会をつくる基本となるのです。  子どもの働きの結果は、おとなのそれにくらべて完全ではありません。しかし、その不完全さを寛大に受容するのがおとなの慈悲というものです。  私たちが育ったころは、(中略)畑を耕すにも、時間はかかるし、鍬を入れたあとは不揃いだし、かえって作業の邪魔になるぐらいだったかも知れません。しかし、おとなたちは、辛抱強く教え教えしながら、そのへたな働きを受容してくれたのです。そうでなければ、絶対にいい農夫は育たないからです。  とにかく、「やらせること」「やってみせること」、これが人間育成の大道なのです。  (昭和54年01月【躍進】)...

17 ...百姓は楽し 一  小学校を卒業すると、家ではもはや半人まえ以上の働き手として期待している。卒業式がすむと、まず雪の消えていない山林にはいって、ボイの伐り出しだ。私どもの田舎ではこの作業を〈春木山〉と呼んでいるが、この時期に次の一冬をしのぐための燃料を用意しておくのだ。  それから、部落共同の〈道割り〉、田んぼの苗代づくり、代掻き、田植え、それがすんでしばらくすると一番草・二番草と、中耕・除草の仕事が追っかけてくる。その間に、畑のほうも、耕う、肥料をやる、種をまく、それに追肥だ、さく切りだと、ちっとも遊ばせてはくれない。  小学校時代の手伝いと違って、半人まえながらもほんものの百姓だ。辛さが骨身にこたえるときもある。山だらけの村だから、耕地といっても平地は少なく、崖をくずしたり、山を一部分ずつ切り拓いてつくったものが多い。田も畑も段々になっている。行くにも帰るにも坂を上り、谷をわたるといった具合で、平地の農家より何倍も骨が折れる。  下肥(人糞尿)を運ぶのも、平地なら天秤棒でかつぐのだが、山坂ではそれができない。背中に一桶ずつ背負って行くのだ。ポチャンポチャンという音を首筋のところに聞きながら。  さすがに働き好きの私でも、ときどきは、「こりゃあ、やりきれん」と思ったものだった。しかし、根が楽天的というか、のんきなたちだったので、どんなに辛い仕事でも、やってしまえばそれまでで、別に苦労にはしなかった。それから逃れようなどとは、思ったこともなかった。ただ、広い世間へ出てみたい──という望みだけは、いつも胸の中にくすぶっていた。  (昭和51年06月【自伝】) 百姓は楽し 二  百姓の仕事は忙しいものだ。私も若いころ、田植えは、雨の降る中で田にはいり、しまいには腰の痛みが感じられぬほどになった。  夏は夏で夏草とりのときは、背中にやけるような陽をうけて働いた。だが仕事はつらいなどと思ったことはなかった。「一日がもっと長ければ、こっちの仕事もかたづくんだがなあ」と時間のないのが気になってしかたなかった。  (昭和37年06月【佼成新聞】)  最近の農業は、近代化が進んだとはいいながら、やはり農繁期はネコの手もかりたいほどの忙しさです。また、農閑期とて、まるで仕事がないわけではありません。このように時間と忙しさに追われる農家の人にとって、たいせつなのは“生活の知恵”です。(中略)その生活の知恵は、まず、働く時間の正しい使い方から生まれます。忙しければ忙しいほど、また生産手段が進めば進むほど、働く時間というものの重要さが、増大したということです。それだけに、時間の浪費はつつしまなければなりません。あわせて、自分にとって働く時間が重要であるように、他人の時間を尊重する態度もたいせつです。  次に文化の知恵は、余暇の使い方によって生まれます。忙しい仕事の合間や農閑期は、精神や肉体の緊張をときほぐし、そして、新しい仕事の活力を呼びおこすことは当然でありましょう。しかし、“閑暇は文化の母なり”という言葉もあります。わずかな時間であっても、人生を意義あらしめるための時間や、農業研究の時間にあてたいと思います。  これまでの農家の人には、“天然百姓”の異名がありました。つまり、自然の力だけに頼って、工夫をしないというように、思索する習慣に欠けるきらいがあったのです。これからは“考える百姓”にならなければなりません。新聞を読むこともよいでしょう。教義の書に心をかたむけることもよいでしょう。農作業のプランをねることもよいと思います。 とにかく物を考える習慣は、生活の知恵を生み、精神生活を豊かにし、増産を約束するものです。  (昭和39年10月【佼成新聞】) 百姓は楽し 三  フランスの生んだ大彫刻かオーギュスト・ロダン(一九一七年没)は「都会は石の墓場である。人間の住むところではない」といったそうですが、今、ロダンが生きていたら、とても「石の墓場」などという生ぬるい言葉ではすまさなかったでしょう。  澄んだ空気と、緑の植物と、さんさんたる太陽のある農山村こそ、人間の住むところであり、人間らしい暮らしのできるところです。そこに生活できるという恵まれた条件に感謝し、その生活に楽しさを再発見することが、農民の生き方のたいせつなポイントの一つであると信じます。  (昭和45年08月【躍進】)  北海道の原野で、動物たちと一緒に暮らしている畑正憲氏のことは、すでにご存じのことと思います。その同氏のところへ住みつくようになった若い人たちの日記を見ると、「雨が降った。朝やけがきれいだった。何の花が咲いた」といったことが書いてある。つまり、若者たちが自然の移り変わり、自然の心のようなものに触れて、ものすごく感動しているのを読んで、畑氏自身が驚いておられます。  先日も、都会の娘さんが農村に嫁いで行ったところ、ニワトリがタマゴを産んだ、といっては大声をあげて喜び、野菜が育っていくのを見ては感激する──その嫁の姿を見て、そんなことはあたりまえと思っていた家の人たちが、逆に新鮮な気持ちで物をながめるようになったし、家の中が明るくなったという放送をうかがいました。  (昭和50年03月【佼成新聞】) 百姓は楽し 四  百姓ほどすばらしいものはありません。稲の穂花が出て、日一日と大きくなり、もうすぐ穂が出るという時分には、私など、朝目がさめるとすぐ田の畦に行って、それをながめるのが、何ものにもかえがたい楽しみでした。  (昭和42年10月【佼成】)  農家の人の信仰の基盤は、なんといっても大自然に対する感謝の心であり、先祖が遺してくださった土地に対する、“ありがたい”という報恩の念でありましょう。  俗に、“土を愛する”という言葉があります。作物は、人間と同じように自然の一員です。その生命にかぎりない愛情をそそぎ、自然の恵みに感謝する心は、農作業を営む人の喜びであると同時に、正しい生き方であると思います。  その意味で、“土地にほれ、妻にほれ、仕事にほれる”。いわゆる、“三ぼれ”は農業にたずさわる者にとって、もっともふさわしい言葉であり、お百姓さんの原則ともいえましょう。  (昭和39年10月【佼成新聞】) 百姓は楽し 五  農村というと、すぐ“嫁としゅうとめ”の関係が、とやかくいわれます。双方が仲良くいくには、お互いの精神面の修養がたいせつとなってまいります。しゅうとめは、かつて嫁であり、嫁はやがてしゅうとめになることをお互いに自覚すれば、自然と思いやりの心がわいてまいりましょう。しかし、なによりもたいせつなのは、嫁は愛する夫の母親として、しゅうとめを尊敬する気持ち、しゅうとめは、愛するむすこの妻として、嫁をいとおしく思う気持ち、つまり愛情をもとに自他一体観に目ざめることだと思います。とかく農村の人は、隣近所のつきあいを重んじ、評判に敏感であるようです。  家庭環境の正しさは、他人に強い影響をおよぼさずにはおきません。(中略)すなわち、“生活即信仰”でなければならぬわけであります。  (昭和39年10月【佼成新聞】)  親のメンツや、卒業証書がほしくて、農村でも、田畑を売ってまで子どもを大学にやるという風潮があります。それで私は、この三、四年まえから、逆に農村青年にネジをまいているのです。 「農村に青年がいなくなって困る」というものですから、「それはけっこうな話じゃあないか。追い出してはいかんけれども、自発的に出ていくのだから、残った者は、三、四軒分の土地を集めて、大規模な農業をやれ。外国の農業に伍していくには、日本の昔からの百姓ではだめだ。広い土地を確保して、その気になってやってみろ」といったのです。(中略)そうしたら、そのとき集まった二十人ぐらいの青年が、みんなその気になって頑張ったのです。去年(註・昭和43年)三年目に回ったら、当時七ケタ農業を目標にしていたのが、今、八ケタ農業でやっているのです。(中略) サラリーマンではとても月百万なんて、とれません。みんな三十代の青年ですが、ほんとうに農業は楽しくてすばらしいもので、“サラリーマンよりもはるかにいい”と再認識してやっています。(中略) それから、そのとき集まった連中が「農村には嫁がこない」というのです。それで「君たちには、嫁さんはいないのか」と聞くと、二十五、六の青年が、みな結婚しているというのです。だから、「みんなちゃんと奥さんがそばにいるのに、マスコミが嫁が足りないと宣伝すると、嫁がいないと思い込むのは君たち間違っている。事実は事実と、認識したらどうだ」といったのです。  (昭和44年03月【佼成】) 百姓は楽し 六  戦前の農村は、貧乏でしたから、お金と励みの問題は大きいのですが、これからの農家は一軒で五町歩ぐらいつくって、多角経営にしていけば、豊かな生活ができると思うのです。たとえば、日本人は、肉でも松坂牛のようなすばらしいものをつくるのですから、もっと頭を使えば収入はふえます。(中略) 人間は霞を食っているわけではありませんから、やはり、報酬があまりアンバランスではダメだと思います。私の郷里では、今、私の親類が五軒残っているだけですから、いずれ十日町駅の近くに全員が引っ越すということもあるかも知れませんが、とにかく、共同経営などで能率を上げ、多角的に農業を拡大することを私はすすめています。(中略) 私の知人に婿養子に入った家の耕作面積を四倍にして、農作業は請負に出して、自分は毎日道場に出て、信仰活動をつづけている人がいます。(中略)農作業を請け負える人にやらせて、自分は奉仕する境遇になれるということは、ある意味からいうと、農村に余力があるということですね。ですから、そういうものをうまく組み立てて、たとえば田植えや稲刈りの農繁期に、非農家の人が少し手伝うとか、鶏糞集めや堆肥づくりなども、“予備隊”があれば、そういうものを土地に還元できるし、私はすばらしい方向が出てくると思うのですが……。  (昭和51年04月【佼成】) 百姓は楽し 七  知り合いの人がNHKテレビの『農家の時間』を見ていたところ、都城市の間さんという畜産農家の人が自分の体験をいろいろ話した結論として、「おかげで、“経過”を楽しむ農業ができるようになりました。“結果”は自然に出てくるものと思います」と肩っておられたというのです。「経過を楽しむ」──いい言葉ではありませんか。  近ごろの農民には、結果ばかりを望む人が多くなったように見受けられます。なるべく楽をして、なるべく高収入をあげたい、という考え方です。そういう精神でいますと、つい農薬を使い過ぎたり、化学肥料ばかりに頼ったりして、肝心の土を瘠せさせてしまいます。また、結果だけを望んで働いていますと、毎日毎日の労働の辛さばかりが身にこたえ、仕事への興味は薄れていきます。すると、当然の成り行きとして、何かもっと楽で儲かる仕事はないものか、と心がだんだん農業から離れていきます。心が離れていけば、いい作物はできない。ますますおもしろくなくなる──ということになってしまうのです。  そこで、「経過を楽しむ」という言葉が光ってくるのです。一日一日の仕事を楽しみ、一日一日に作物や家畜が育っていくのを楽しむ──そうした農業をしておれば、必ずいい結果を得ることができます。よしんば、天候その他の不測の異変のために、ある年は不本意な結果に終わっても、またすぐ埋め合わせることができます。それよりも大事なことは、一生を通じて見た場合、その人はけっきょく、楽しくて充実した人生を送ることができるわけで、これこそが、ほんとうの幸せと言わなければなりません。反対に、結果のよしあしだけを考えて一喜一憂したり、ほかの仕事へ心をフラつかせたりして、何もかも中途半端で終わる一生がどんなに空虚なものであるか──それを思うとき、「経過を楽しむ」精神のたいせつさが、いよいよ肝に深く銘じられてくるのです。  (昭和51年08月【佼成新聞】)...

18 ...青年期の体験 一  土地の慣わしで、数え年十五歳になると青年団の仲間入りをしなければならなかった。今では二十歳で成人となるわけだが、当時の農村では、十五歳になれば、たしかに成人並みに近い働きをしたもので、けっして早くはなかったようだ。(中略) 青年団員にならせてもらった私は、その実はまだ子どもであったけれども、なんだかおとなになったような気がして、「これからはなんでも力いっぱいやろう。人のいやがることでもいやがらずにやろう」と決心した。  それから一年あまりたったころのことだが、ふと感じたことがあって、「これからは絶対にうそは言うまい」と覚悟し、心ひそかに神仏に誓いを立てた。ところが、それまでは春先のポカポカした暖かい日には頭のシンが痛くて困ったものだが、その誓いを立ててからさっぱりと治り、以来頭が痛いなどということはなくなった。不思議な経験だった。  (昭和51年08月【自伝】)  早い子ならば中学のころから、今まで無邪気になにもかもしゃべっていたのが、フッと無口になり、自分の経験を一から十まで親に話さなくなることがあります。何か考えこんでいるようなようすを見受けることもあります。そのような変化にあうと、親は、なんとなく不安を感じます。子どもが自分からスーッと遠のいていくような、寂しい思いをすることもあります。  それは、じつは自然の現象なのです。独立人となる準備が無意識のうちにソロソロ始まっているのです。どうせいつかは、巣から飛び立ち、独立していく子鳥とおなじです。ですから、親はそのような変化を、むしろ好ましいことと考えなければならないのです。  この時期は、あるときはおとなでありたいと思い、あるときは子どもでありたいと思う、不安定な人生の過渡期です。ですから、親は親であり、人生の体験者であるという自信をもって、もし、なにか相談でもされたらいつでも応じてやるという、つかず離れずの態度で、愛情深く見守ってやらねばなりません。  この時期に、甘やかしすぎたり、干渉しすぎたりすると、あるものはそれをうるさく思い、イライラした心理状態におちいります。あるものは自主性のない、動揺しやすい精神のまま青年期へ移行してゆきます。  昔の武士の子なら、そろそろ元服し、早いものは戦場へでも出かけた年ごろです。私自身も、村の習慣にしたがって満十四歳で青年団にはいり、満十六歳で消防団にも加わりました。この年ごろは、まだ子どもっぽいところはあるにしても、からだはメッキリおとならしくなり、精神的にも広い世界へ出かかる時期ですから、指導のしかた一つで、おどろくほどの伸びを示します。学業のほうでも、いわゆる優秀児と名づけられる子どもたちは、十二、三歳のころから、グングンと加速度的に、クラスメートを引きはなすようになる、といわれています。  ですから、この時期には、自分で自分の夢をもち、その夢をせいいっぱいふくらませていくよう、かげながら助力してやりたいものです。そうすれば、子どもはまっしぐらにそのほうへすすんでいきます。  (昭和42年11月【育てる心】) 青年期の体験 二  越後には有名な山がたくさんありますが、なかでも下越後の八海山は信仰の山として、古くから知られています。標高一千七百メートルで、山頂には八海神社が祀られているのです。山中には八つの池があり、八海という名もそこから来たものです。  新潟県下の青年たちの間には、二十歳になるまでに、必ず一度は登らねばならぬ山だという不文律みたいなものがありました。私も、数え年十五歳(満の十四歳)で青年団にはいった年、みんなに連れられて登りました。  山らしい山に登ったのは、それが最初でした。村から幾つかの山を越え、峠を越えて、ようやく八海山にたどり着き、これからがたいへんなんだよ、と聞かされたときは、正直な話、ヤレヤレと思いました。しかし、息を切らし、汗みどろになりながら頭上を窮めたときの気持ちは、なんとも形容のできない快さでした。  青々と広がる越後の国原と、目路のかぎりうち霞んでいる日本海の広さを見渡したとき、腹の底から勇気のようなものが力強く湧いてくるのを覚えました。 「よし、やろう」  私は心の中で、そう叫びました。何をやろうという決まった考えはないのですが、ただ何かしら大いにやろうという、積極的な気持ちが一時に沸騰してきたのです。大空へでも飛び立って行きたい血の騒ぎを覚えたのです。  あの一瞬の、えもいわれぬ快い充実感、あれこそ、若い時代でなければ感じられぬエネルギッシュな生きがい感だと、今でも懐かしく思い出されるのです。  (昭和44年11月【生きがい】)  青年は未知の世界を開拓すべきものです。青年がそれをやらなければ、だれがやるのでしょうか。だれもやらなければ、人間の進歩はありうるのでしょうか。  それゆえ、青年に剖検はつきものです。(中略) 危険を恐れるのは、人間の本能にはちがいないのですけれども、その恐れよりも未知の世界へのあこがれのほうが強いのが、青年の本質なのです。ですから、親としても、まちがった愛情から安全コースだけを押しつけたり、危険を冒す勇気をくじけさせるような言動はつつしむべきです。  青年期に達したとはいえ、親にとってはまだまだ子どもに見えるものです。危なっかしくて、とてもひとり歩きをさせたくない気持ちになるものです。そんな場合は、その子が赤ちゃんのとき、つかまり立ちをしたりヨチヨチ歩きを始めたときの、自分の態度を思い出してください。危なっかしくて思わず手を貸してやりたくなっても、やはり、それを思いとどまり、「さあ、ここまでおいで」と励ましてやったのではないでしょうか。それとおんなじことを、たくましく成長した青年に、なぜ、してやらないのでしょうか。  期待と信頼の言葉は、たっぷり投げかけてやるべきです。しかし、もう、手は引いてやらないほうがよろしい。慈悲のつっぱなしが肝要です。「さあ、おまえの道を歩いて行きなさい。おまえならだいじょうぶだ」……と、腰をドンと押してやるような気持ちが肝心です。親がそんな態度をとれば、青年は勇気百倍するのです。  親がいつまでも手を引いてやれば、子どもはひとり歩きできません。ひとり歩きするにしても、人のあとからついて歩くことしかできないのです。人のあとからついて歩けば、その背中がじゃまになって、前が見えません。だから、新しいものを発見することもなく、創造をすることもなく、きわめて生きがいのない人生を送らねばならないわけです。  また、人のあとからばかりついて歩く人間は、多くの人を率いる立場に立つことはできません。立ったにしても、その使命を充分に果たすことはできないのです。今はやりの言葉でいえば、人間管理ということができないわけです。  (昭和42年11月【育てる心】) 青年期の体験 三  今の都会の子は、学校と家庭という二つの世界しかもっていません。昔は、都市のすぐ近くにも豊かな自然があり、そのなかで仲のよい友だちと楽しく遊ぶという第三の世界をもっていました。野山を駆けまわったり、木のぼりをしたり、川で泳いだり、メダカをすくったり、われを忘れて楽しんだものです。  今の子は、その点たいへんかわいそうです。学校と家庭のあいだを伝書鳩のように往復し、学校では知識をギュウギュウに詰めこまれ、家へ帰ってからも、それ宿題、それテストの準備と追いまくられるのでは、たまったものではありません。せっかくの楽しい少年時代を、そんな暮らしかたで過ごしたのでは、大きな夢も生じなければ、豊かな人間性も育ちません。近ごろ小さくヒネこびた、自主性のない人間が多くなったのには、こういった原因もあるのです。  (昭和42年11月【育てる心】)  近ごろの子どもたちには、ほんとうの友人がいないのでいかということです。うわべだけは友だちとして付き合っているけれども、心底からの友情がない。一帯感がない。だから友だちにも本音はけっして打ち明けない。つねに一線を画している。これでは寂しいです。いつも孤独なのです。このことが、悪い仲間へ入っていく大きな原因をなしているように思われるのです。  悪い仲間には、不思議と強い連帯感があります。密接な“友情”でつながり、いわゆる、邪定聚を形成しています。その妖しい魅力が青少年を惹きつけるのではないでしょうか。  (昭和52年02月【躍進】)  ふつうの人間にはとうてい考えられぬような残虐な犯罪行為が、しかも青少年の手によって次から次へと行なわれ、私どもを深刻な暗い思いにおとしいれています。(中略) おとなの犯罪がおおむね物欲と色欲と権勢欲にもとづく汚ならしいものであるのに対して、これらの青少年の犯罪にはそのような汚ならしさがないだけに、かえって人間悪の底知れぬ深淵をのぞかされるような身ぶるいをおぼえざるを得ません。その深淵とは何か?……「それは孤独地獄である」と私はいいたいのです。  これらの青少年たちに共通していえることは、地方から大都市の真っただ中へほうり出されたとか、心からの友人のいない寮生活をしていたとか、とにかく、「おおぜいの人間の中での孤独」にさいなまれていた人たちでした。  この「おおぜいの人間の中での孤独」が一番恐ろしい、不幸の源泉なのです。私は新潟県の山奥の僻地に育ちましたが、はたから見れば、そんなところに住んでいる人たちは孤独でやりきれないと思えるでしょうが、案外そうではありません。それはそれなりに自分たちの世界をつくって、けっこう和やかな心境で暮らしているのです。それに反して、何百万人もの人間がヒシメキあっている大都会の真ん中で、その何百万人が自分とはなんのかかわりもない人間だと感ずるとき、その寂しさは真実やりきれないものなのです。  今の日本には、こうした孤独感がしだいにはびこりつつあるのです。史上未曽有の反映を謳歌し、生活は一般に豊かであり、私たちの青少年期(大正末期から昭和初期)に経験したような失業や求職難もなく、物質的には、まことに恵まれた時代であるといえましょう。その反面、人間性というものが日一日と疎外されるようになってきています。金と物とレジャーの奴隷のような生活が、しだいに人びとを極端な自己中心主義へと導きつつあるのです。「人のことなど、どうでもいい。自分さえ楽しく暮らせれば……」という思想が、人びとの気持ちをカサカサにひからびさせようとしているのです。  そうしたバラバラな人間集団の中へ、地方から出てきたばかりの少年たちが投げこまれた場合、閉鎖性の強い子どもだと前記のような悲劇の主人公にもなりかねないのです。もちろん、そのような極端なケースはまれだとしても、一般的に人間味のうすい、利己的で孤独な性格が、そこでしだいにつくり上げられていく傾向は、どうやら否めないようです。とすれば、これから先の世の中がどんな様相のものになるか……考えただけで胸がふさがる思いがします。(中略) 何よりもまず、縁あるすべての人に対して、人間味をもって接することです。温かい友情をもって、できるかぎりの親切をつくすことです。  そうすれば、相手の人は知らず知らずのうちに孤独地獄から解放され、人間同士の連帯の快さ、友情の流れ合いの美しさを、からだで会得するにちがいありません。 (昭和44年07月【躍進】) 青年期の体験 四  青年団の仕事には、道普請とか、雪おろしとか、その他の共同作業など、生産的なものもいろいろあったが、一番楽しみであり、それだけに印象に残っているのは、お祭りのお神楽や踊りだった。  (昭和51年08月【自伝】)  村の鎮守さまは諏訪神社だった。祭礼は七月十一日。十日町の諏訪神社の祭礼が八月二十七日。その両日には仕事を休み、餅をついたり、赤飯をふかしたりして祝った。  それよりにぎやかだったのは、旧暦の十五夜に行なわれる子安観音のお祭りだった。ちょうど収穫の終わった時期でもあり、豊年祝いも兼ねて、なかなか盛んなものだった。  この日は、お神楽その他いろいろな余興があり、青年たちが中心になってやった。余興のおもなものは面神楽で、獅子をかぶって踊る舞い込み・岩戸舞い、それからおかめ・天狗・高砂の尉と姥の面をかぶって踊るもの、獅子と天狗と掛け合いの茶番踊りもあった。  手踊りもやった。高大寺踊り、よしよし踊り、伊勢音頭、花輪踊りなどがあり、フィナーレとしては必ずおけさ踊りをやった。このおけさは昔からのもので、現在ほうぼうで歌われているおけさとは別物である。当時はまだ電気がきていなかったから、裸ろうそくをつけたり、提灯やカンテラなどをつるしてやったもので、まったく野趣に満ちた光景であった。  私も、こうしたにぎやかなことが好きだったので、見よう見まねでやっているうちに、みんなにうまいとか、筋がいいとかおだてられ、いい気になって稽古に身を入れた。十六のときから稽古を始め、二十一、二の連中にまじって盛んにやったものだ。  (昭和51年08月【自伝】)  尺八も稽古した。なにしろ一年のうち半分は冬ごもりで、この時期は家の中でワラ製品をつくったり機織りなどの仕事をして過ごすのだが、十六、七の若者にとっては、何かしら娯楽がほしい。それで、四、五人が集まって一つ尺八をやろうじゃないか、ということになった。もちろん、師匠も流派もありはしない。夜仕事がすんでから、おのおの自分勝手にプウプウ吹いて楽しんだものだ。  ところが、尺八は俗に〈スースー三年、首ふり三年〉といわれるぐらいむずかしいものだ。とりわけ私は仲間のうちで一番へただった。どうしてもうまく吹けない。そこで、夜みんなが寝込んだあとで、ふとんの中にもぐって繰り返し繰り返し練習した。そのおかげで、しばらくのうちに人並みより、ちっとはましになった。追分が得意の曲だった。  (昭和51年08月【自伝】) 青年期の体験 五  祭りと祭りの間は一生懸命働きました。レジャーの真骨頂はそこにあると思うのです。レジャーを楽しみにして、けんめいに働く。けんめいに働けばこそ、レジャーも楽しい。そして、それが生活に健康なリズムをつくる。ありきたりのことのようで、案外、たいせつなことなのです。  (昭和48年04月【躍進】)  仕事そのものを生きがいとしている人は、余暇には、まったく自由になんでも好きなことをやっていい……これが原則だと思うのです。  その反対に、仕事は義務でやっている、生活のためにしかたなくやっているという人たちは、余暇の過ごし方に大きな条件をつけなければならない、と思います。  というのは、そういう人たちは、不幸にして仕事の中で生命を完全燃焼させることができず、仕事によって自分を高めることができないわけですから、もし余暇の中にそういったものをもたなければ、全生活が生煮えの、歯切れの悪い、味気ないものになってしまいます。  それゆえ、そのような人は、余暇にやる仕事はないし、趣味については、いちおう、よく考え、選択する必要があると思うのです。  では、どういうものを選択すべきでしょうか。  第一に、なるべくただ一つ、自分を生かしきることのできるものをもつことです。シンソコから好きで、それに打ち込み、熱中することのできるものをもつことです。  第二に、それが一生の楽しみになるような、息の長いものであってほしいものです。  第三に、質的に高いものでありたいと思います。なにも高級なものという意味ではありません。すくなくとも、自分を高めるような意義をもち、広い意味で世の中に少しでも貢献するところのあるものです。  どんな人にも、この三つの条件を満足するような余技的な仕事、もしくは趣味をもちうる可能性はあると思います。「私はまったく無趣味です」という人も、たまにはありますが、それは、たいてい本業に熱中し、仕事を趣味としている人です。ただ趣味を発見するチャンスがなかったというだけのことで、まったくの無趣味の人は、まずないといっていいでしょう。  (昭和44年11月【生きがい】) 青年期の体験 六 諸君はこの颯爽たる 諸君の未来圏から吹いて来る 透明な清潔な風を感じないのか それは一つの送られた光線であり 決せられた南の風である  これは宮沢賢治の詩、「生徒諸君に寄せる」の冒頭の一部です。私は、この詩に青年の特質がじつに美しく、そして的確に表現されていると思います。  青年は、未来圏から吹いて来る風です。ですから、透明であり、清潔であり、颯爽としています。純真であり、濁りのない正義感をもち、高く美しいものへの憧れをいだいています。  そして青年は、この詩にいみじくもうたわれているように、宇宙の永遠なるいのちから送られて来た朝の光線です。新しい時代をひらく、すがすがしい光です。また、永遠なるいのちから堰を切って溢れ出して来る南の風であります。新しい春をはぐくむ南の風であります。  壮年・老年層には、青年たちの考えが未熟で、言うことが生硬で、することが激越であるといった現象面のみを見て、まだ嘴が黄色いとキメツケたり、世の中を知らぬ半端者と相手にしなかったり、何をやり出すかと危ながったりする傾きが大いにあります。それがどれぐらい青年たちを誤るか、計り知れないものがあるのです。伸びるべき芽を潰したり、あるいは手のつけられぬ曲がりくねった悪材に育ててしまったりするのです。(中略) 青年を理解するとは、右に上げたような“青臭さ”の奥にある尊いもの、宮沢賢治の詩にうたわれているよな特質を、しっかりと見定めることをいうのです。その見定めがつきますと、現象面の“青臭さ”がじつはきわめて自然のものであることがわかってくるのです。すなわち、未熟・生硬なのは、新鮮だからなのだとわかります。  木になっている果実でも、これからうまくなろうとするのは、硬くて、未熟で、新鮮ではありませんか。熟しきった果実は、きょうはうまくても明日の楽しみにはならないのです。  言動が激越なのは、エネルギーがありあまっているからであって、これも自然の現象です。円熟しきった老人が穏健であるのが不思議でないのと同様に、血の気の多い若者が強く叫び、激しく行動するのはごく当然のことなのです。しかも、青年の激しさは、この詩にもたとえられているように、南風の激しさです。沈滞した冬枯れの野山に新しい生命をよみがえらせる季節の訪れを告げる春一番の激しさです。  春一番は、まだまだ寒い早春のある日、とつぜんやってくる荒々しい風ですので、たいていの人が迷惑がります。いまいましいと思います。ところが、舌打ちでもしたいその気持ちをちょっと押えて、この風こそ春の前ぶれなのだということに考えおよべば、身をすくめながらも一抹の楽しい期待が胸に湧いてくるのをおぼえるのです。  (昭和46年07月【佼成】)...

19 ...願いをもって働く 一  米の取り入れが終わってから、中津川の水力工事に働きに行った。〈冬扶持かせぎ〉といって、雪に閉じこめられる期間によそへ出て働くのが土地の習わしで、前の年は撚糸工場に行ったのだが、ことしは一つ思いっきり骨の折れる仕事で自分を試してみたいとう気持ちもあって、十六の若者には、ちょっと無理なその仕事を志望したわけだった。  中津川は、水源は上州吾妻郡の野反池だが、中魚沼郡の、ずっと奥地を清津川と並行して南北に流れ、つまりは、信濃川に合流するかなり水量の多い川で、ここに東電が発電所をつくる工事をやっていたのである。  私に与えられた仕事は、背丈のつり合ったふたりが棒組みになり、モッコに砂利をいっぱい盛って、ふとい丸太でかついでいくという重労働だった。私の相棒となったのは、三つ四つ年上のおそろしく頑丈な男で、これと気を合わせて、もりもりかついだものだから、仕事はとってもハカがいった。  けれども、今までの百姓仕事とはくらべものにならない重労働だった。両肩とも真っ赤にはれ上がり、おまけに馬の目ほど、皮が破れ、血が出て赤めだらになってしまった。その肩でモッコをかつぐときの痛さときたらなかった。地獄の苦しみとは、あんなものをいうのだろう。だが、何くそっと歯を食いしばって我慢して働いた。そのかわり、ふつうの人夫の日給は一円七十銭だったのに、私たちは二人まえ以上、四円ぐらいもらった。  いくら収入がよくても、また意地っぱりの私でも、皮の破けた肩では、そういつまでもつづけられるものではない。きょうはまいってしまうか、あすはへたばるかと思いながらがんばっているうちに、天の助けが舞い下りてきた。雪が降ってきたのだ。それも、初雪にしてはそうとうたくさん降ったので、鉄索場に働いていたひとりの先輩が、「家の冬囲いがまだしてない。心配だから帰る」といって、暇をとったのだ。  そこで、監督は、どうやら、かねて私の働きに目をつけていたらしく、思いがけなく私をその人の後釜に抜擢してくれた。それを言い渡されたときは、文字通り天の助け、とうれしかった。  こんどまわされた仕事は、車のついた鉄鍋に砂や砂利やセメントなどを入れて押して行き、ざーっとあけてくる役で、肩を使わないですむうえに、日給もモッコかつぎと同じだった。それで、その後は別につらい思いもせず、一か月半ほどをぶじ働きおおせて帰宅した。その間、飯場に寝泊まりしていたのだが、食費や小遣いを引いても、百五十円ぐらい残った。  家へ帰ったのは、ちょうど年の暮れだった。私は、その金をそっくり父へ渡した。父も母も、喜ぶ前に、まず驚きあきれてしまった。物価の安かった大正十一年の百五十円だから、現在の五、六十万円ぐらいには当たろうか。いや、現金収入の少ない農家にとっては、その倍ぐらいの値打ちがあったろう。同じ年に、兄の重造が岐阜県の大垣へやはり水力電気の工事に行き、ひと冬働いて持って帰った金が二十円だったから、一か月半で百五十円というのは破天荒な稼ぎだったわけだ。  父も喜んでくれたが、母の喜びようといったらなかった。とめどもなく涙を流しながら、その金をお仏壇に上げ、長い間、手を合わせていた。むろん、母の喜びは、金そのものでなく、それだけの金を稼いできた、私のたくましい成長ぶりに対する喜びであったのは、私の目にも明らかであった。  (昭和51年08月【自伝】)  何も特別なことはしてくれなくても、特別な愛情は示さなくても、親は親です。父はきびしく、母はやさしく……このごく自然な親らしさが、子どもの一生に与える影響はじつに計り知れないものがあると思うのです。  (昭和44年11月【生きがい】) 願いをもって働く 二  自らも敢然と新しい道へ踏み出していくのは、ほかならぬ青年諸君です。いわゆる、大人は概して現状維持的心情の持ち主です。それには無理からぬ理由がいろいろあるのですが、大胆率直にいわせてもらうならば、その最大の理由は、「おとなはすでに生命力が弱りかけているからだ」と、私は思います。  生命力が弱りかけているから、過去の経験に照らして、「目先に間違いを犯さぬ生き方」を選ぶのです。いわゆる、分別です。もうやり直しはきかぬという、無意識の意識があるために、結果を予測できぬ冒険など、したがらないのです。また、大法・大義に反することは承知していながら、気力(生命力と通ずる)の衰えのゆえに、つい目前の現実と妥協してしまうのです。  それに対して、青年は生命力の塊です。燃えさかる火の玉みたいなものです。ですから、夢があり、勇気があり、先の見えぬ世界へもドンドン突進していくのです。純粋で潔癖で、ゴマカシのない法則をひたすらに求めます。そして、そのような法則を知れば、いちずにそれに随順して生きようとし、また、その法則を世に宣布する行動に命までかけます。これが、真に青年らしい青年の生きざまなのです。  (昭和50年03月【佼成新聞】)  そのときそのときの情勢に自分をどう合わせていくか……そういうことばかりに憂き身をやつしていたのでは、功利的な、小利口な、その日暮らし的な人間にしか育ちません。青年は、もっと大志をいだかねばならないのです。壮大な望みをもたなければならないのです。  (昭和51年02月【躍進】)  若い人の中には、“希望がもてない。それは世の中が悪いからだ”という人があります。現実の困難を理由にはじめからあきらめるその気持ちは、いかにも負け犬的で、青年らしくありません。また、何を心のよりどころとし、何をめざして努力すべきかが、つかめなくて苦しんでいる青年も多いようです。この点について、仏教に「総願」と「別願」という言葉で道が示されています。「総願」とは、世界は平和でありたいとか、経済的にも、精神的にも、悩みのない社会を実現したいなどという、すべての人に共通する「願い」です。その実現のために努力することは、社会人としての当然の義務ともいえましょう。さらに、「総願」に対して、「別願」というのは、その人の性格に応じ、才能に応じ、職業に応じた特別の願いをいいます。  人間としての共通な「総願」のほかに、ただ一つでもいいから、一生をかけた「別願」を立てて、そのために努力していくところに人生の価値があり、日々の生活の充実があるのです。いったんこうと心に決めたら、どんなことがあってもやり抜くという熱意と、粘りがなくてはならないのです。そうすれば、「願」は必ず成就されます。  (昭和38年05月【躍進】) 願いをもって働く 三  修行は一生のものだ、とよく言います。たしかにそのとおりです。しかし、世のすべての物ごとにリズムがあり、波があるように、修行にも、やはりそれが必要です。バイタリティー(活力)に富んだ若いときには、大きな波を乗り切るはげしい修行が必要であり、からだも生活も沈静におもむく老成期には、波は小さくても粘り強い不断の修行がふさわしくなってくるのです。  この自然のリズムに従うことが、最も賢い、そして、正しい生き方であると、私は確信しています。お釈迦さまも、お若いときに出家され、六年の間、生死の境をさまようほどの苦行をされました。そういう体験をなさったからこそ、「苦行は究極の悟りを得る最終的な道ではない」ことを悟得されたのです。  よく、お釈迦さまが苦行を否定されたことを、身勝手に受け取って修行を軽んずる人がありますが、それはたいへんな考え違いです。「お釈迦さまでさえ、六年間の難行苦行をされたのだ。まして、われわれがきびしい修行をせずに、いったい何が得られるというのだ」と、こう考えなくてはならないのです。  私自身も、若いときははげしい修行をしました。大波を何度もかぶり、何度も乗り切りました。それが以後の人生にどれほど役立ったか、信仰生活の基盤を、どれほど強固にしてくれたか、まことに計り知れないものがあります。  (昭和51年08月【佼成新聞】)  自動車王のヘンリー・フォードでしたか、次のような名言を吐いています。「暖炉にくべる薪を自分で割れば、二重に暖まる」というのです。他人が割った薪をくべたのでは、からだの外から暖まるだけですが、自分で薪割りをすれば、その労働によって内からも暖まるというわけです。人生すべてのことにおいて、この内から暖まるということが、一番大事であり、価値あることでありほんとうに身につくものなのです。  私は自分の体験から、そう確信しています。若い時代は、いろんな試行錯誤を繰り返すものですが、その場その場において、最善の努力を尽くせば、必ず何ものかをほんとうに自分のものとして得ることができます。たとえ小さなものでも、それが貴重なのです。(中略) そういう努力を繰り返していくうち、いつしか、どんな場合でも、人事を尽くして天命を待つという安らかな心境でいられるようになったのです。この格言は、小学校のとき、壁にはってあったもので、いつも心に残っていたのですが、それをほんとうに自分のものにしたのは、みずから正直に、努力に努力を積み重ねてからのことなのです。  (昭和46年02月【躍進】) 願いをもって働く 四  熊本の八代に、松田農場という青少年の練成を主目的とした農場があり、間さんは十七、八歳のころ、そこに入ったのだそうです。農場主の松田さん(故人)というかたが非常に強固な信念の人で、「人を作り、土を作り、作物を作る」という信条を掲げ、「感謝の心と汗を流す喜びを身につけさせる」という方針で、じつに厳格な練成をしたのだそうです。朝から晩まで一挙一動にきびしい教育を受け、ヘトヘトになるまで働き、しかも、食事は雑炊が主という粗末なものでしたので、期間はわずか一年なのに、同時に入った百数十人の若者のうち、二十数人とかが途中で脱落したそうです。  間さんは、もちろんがんばり通したひとりでした。その一年の艱難辛苦が、間さんの一生を変えたのです。五十歳を越えた現在でも、その修行によって得た“あるもの”が、間さんの生活を強く推進させているのです。その“あるもの”が、「経過を楽しむ」生き方として実を結んでいるのです。もちろん、間さんの言葉のなかにあった「おかげ」は、「松田農場一年の修行のおかげ」だったのです。  (昭和51年08月【佼成新聞】)  お釈迦さまも、喝破しておられますように、この世は苦の世界なのです。苦を忍ばなければ生きられない“忍土”なのです。  植物生態学の宮脇昭(註・横浜国立大学教授)さんの著書、『植物と人間』を読みますと、大部分の植物は、その種本来の最適生育地からはずされて、我慢しながらなんとか芽生え、生長し、花を咲かせていることが、さまざまな実例によって述べられています。あまりにも完全な環境だと、その植物は、かえって死滅してしまうのだそうです。  野生の動物だってそうでしょう。どれもこれも大自然や外敵の脅威の中で苦闘しつつ生きているのであって、苦闘することが生き抜く力を育てているのです。動物園のオリの中で安全無為の生活に入った動物が、どう変化するかを見れば、そのことが歴然とわかりましょう。  人間だって同じです。あまりにも気楽な環境の中に長くいれば、必ず、心身がフヤケて、ダメになってしまいます。  (昭和50年02月【躍進】)...

20 ...上京のとき 一  新潟県の山の中の貧乏百姓の次男坊に生まれた私ですから、家にいたのでは、とうていりっぱな百姓にはなれないのです。なぜかというと、小さな百姓だけに、もし兄から田畑を分けてもらって半分ずつにしたら、子どもを教育するどころではなく、生活も困難になってしまうからです。それも、男の兄弟が五人もいたので、兄に全部の財産をそっくり渡すためには、私が先に立って東京へ行き、なんとか一旗あげて、弟たちにも東京で暮らせるようにしてやらなくてはいけない。私はそう考えて、十六歳のとき、小さな風呂敷包み一つを持って、単身で東京へ飛び出してきたのです。  (昭和40年06月【速記録】)  田舎の言葉でいえば、財産はかまどの灰まで、みんな長男のものなのであって、私は次男坊ですから独立独歩、なんとかして自分で一人前にならなくてはいけない。親から財産分けしてもらうことに、望みをかけるほうが無理な話なのです。  (昭和48年03月【速記録】) 上京のとき 二  いよいよ東京へ出ることが決定すると、祖父さんが、シミジミこう言うのです。 「おまえがいてこそ、家じゅうが賑やかなんだ。おまえがいなくなると、火が消えたようになるよ。行くのはやめにしないか」  そのころの私の家には、二家族合わせて十四人が一つの屋根の下に住んでおり、子どもだけでも九人いたのですから、賑やかすぎるほど賑やかな家庭でした。その中からひとりぐらい抜けたってどうということはない、と私はたいして気もかけず、 「子どもは、まだたくさんいるじゃないの。我慢してくださいよ」  と言って、とにかく、東京へ出てきたわけです。  しかし、今になって、なぜ祖父さんが、そんなことをシミジミ言ったのかを思いめぐらしてみますと、つまり、私がいつも陽気でニコニコしていたからなのです。それだけのことなのです。兄弟やいとこ同士たち、みんなが仲が良く、親に心配をかけるような者はいなかったのですが、弟たちはまだ小さく、兄は無口のムッツリ屋でしたので、私が抜けるのが祖父さんにとっては、やはり、寂しかったらしいのです。  もちろん、私はなんの気なしに、ただ陽気に騒いだり、笑ったりしていたのですが、このことが大きな意味をもっていたのです。日蓮聖人の御遺文の中に、「親によき物を与えんと思いて、せめてする事なくば一日に二三度笑みて向えとなり」(上野殿御消息)とあります。親に何かいい物をさし上げて喜ばせてあげようと思っても、何も上げるものがなかったら、せめて一日に二、三回、笑顔を見せなさい……というのです。子の笑顔、それこそ親にとって最高の贈り物といっていいでしょう。  (昭和49年10月【躍進】) 上京のとき 三  きょうは東京へ行くんだ、とはりきって村を出た私は、(中略)朝のすがすがしい大気を胸いっぱいに吸いながら、信濃川に沿って下り、一路小千谷町へ向かった。  そのころは、まだ上越線は通っていなかったし、長野と越後川口をつなぐ飯山線もできていなかった。それで、ひとまず小千谷まで出て、そこからオモチャのような軽便鉄道に乗り、来迎寺で信越本線に乗るのが、東京へ出る順路であった。  その朝の一部始終は、ついきのうのことのように思い出せる。縞のシャツに紺がすりのひとえ、それに黒木綿の三尺帯を結び、腰には母がにぎってくれたお祭りの赤飯のにぎり飯をぶら下げていた。ふところには、旅費を入れた財布、その紐をしっかりと帯に結びつけていた。手には着替えが一、二枚はいった風呂敷、頭にはつばの広い麦わら帽子をかぶり、八里の山路をわき目もふらずに歩いた。  途中、にぎりめしを食べるのに川端にちょっと腰を下ろしたきりで、あとはひと休みもせず歩いたので、八里の道を五時間ぐらいで歩いてしまった。  来迎寺で上野行きに乗り換えたあとは、車窓にうつり変わる風景にわれを忘れて過ごした。とりわけ、柏崎を過ぎてから、すぐ目の前にうち広がる日本海の雄大な眺めには、すっかり魅せられてしまった。日が暮れると、さすがに疲れが出て、ぐっすり寝込み、駅に止まるたびに何度かうつらうつらしたが、ふと気がついてみると、汽車は信州の軽井沢に停車していた。  午前二時ごろだったが、プラットホームに降りて、冷たい水で口をすすいだ。そうすると、頭がはっきりしてきた。座席へもどり、もうひと寝入りしようとしたが、目がすっかり冴えてしまった。むりに目をつぶっていると、やがて汽車が動き出した。その瞬間、自分は東京へ行こうとしているのだ、という実感が胸に迫ってきた。急に身も心もひきしまるのをおぼえた。  東京へ行って、自分は何をしようとしているのか?  東京へ行って、どんなところに勤めるのか?  いちおう、落ち着き先だけはわかっていたけれども、あとは五里霧中だった。なんでもやる覚悟はある。なんでもやれる自信はある。だが、生存競争のはげしい都会だ。東京は山の中の菅沼や、十日町とはちがう。数百万の人がひしめいている。しっかりしなければならないぞ──と、私は自分自身に言い聞かせた。 そのためには、自分というものを、しっかり定めておかなければならぬ──こう考えた。心の支えとなるべき誓いを、はっきりした言葉として確立しておきたかった。  私は青年団にはいってから次の三つの誓いを立て、それを固く守っていた。すなわち、 一、これからは、けっしてうそはつくまい。 一、力いっぱい働こう。 一、他人のいやがることを進んでやろう。  ということであった。  しかし、いよいよ現実に東京という未知の世界へ近づきつつあるとなると、それだけではなんとなく不安になってきた。何かもっと重大なことがあるのではないか──と気になり出した。  あれかこれかと考えているうちに、また、うとうとした。そのうち、眠っているとも覚めているともつかないもうろうたる頭の中に、次のことが浮かんできた。 一、他人と争わぬこと。どんなひどい目に遭っても、神仏のおぼしめしと思って辛抱すること。 一、仕事をするときは、人が見ていようといまいと、陰日向なく働くこと。 一、どんなつまらぬ仕事でも、引き受けた以上は最善を尽くすこと。  この三つを先の三つに合わせて、六つのことを固く守れば、激しい東京の生活にも、りっぱに耐えていけるに相違ない。そして、きっと人にも認められ、一人前になることができるにちがいない──こう考えた。そうして、この六つの誓いを、心の中でなんべんも繰り返し、胸のノートに刻みこんだ。そうしたらすっかり心が安まって、いつの間にかぐっすり寝込んでしまった。  (昭和51年08月【自伝】) 上京のとき 四  どうにかこうにか東京へ出たのですが、物心つくころからそれまでの間、祖父や父から、終始一貫、「正しいことをしなくてはいけない。人をごまかしたりしてはいけない」と教えられ、また、「世間のためになるような人間になれ、早起きして遅くまで稼げ」と明けても暮れてもいわれておりましたので、東京へ出てからも、そのとおりにやっておりました。奉公先の主人は、「おまえのように善良な青年はめったにいない」といってくれましたが、私は「田舎では、東京へ飛び出していったまま、郷里の家に金も送ってこないようなのは不良青年なんですよ。だから、私も大手を振って田舎へ帰るわけにはいかないんです」といっていたものです。  おかげさまで、それから後は、自分が希望していたように、父や兄から手伝ってもらわずに、弟たちみんなに東京で所帯を持たせることができました。そうやって妹に所帯を持たせ、いとこにも所帯を持たせたことを含め、それに自分の分を加えると、六つの所帯を東京に立てたことになります。相当頑張りました。私だけではなく、当人たちもむろん、頑張りつづけたわけですが、先に私が東京へ出ていたことが幸いして、貧乏はしておりましたが、弟や妹が所帯を持つまでの筋道は、私が道案内をつとめることができたわけであります。  こうして、三人目の弟が所帯を持ったとき、初めて上京してきた父から、「おまえの先見の明はたいしたものだ。あのまま家にいたら、今ごろどうなっていたか。こうやって、みんなにりっぱな所帯を持たせることは不可能だったろう」と、お礼をいわれました。しかし、それまでは、「おまえが、東京へ出て行ったものだから、弟たちも次々に東京へ出ようとして田舎にはいたがらない。こうなったのも、一番悪いのはおまえだ」と、七、八年もの間、手紙でこっぴどく叱られ通しだったのです。  (昭和40年06月【速記録】)  鳥は生まれて一か月もたたない雛に、飛ぶことを教えます。獣は、まだ母親の乳を恋しがっている仔に、餌のとり方を仕込みます。人間は、一人前になるまでの期間が長いのですし、また、ただ生きられればいいというのでなく、知的にも、情的にも人間らしい人間に育てなければならないわけですが、しかし、すべての養護と教育の底にある根本精神は、「独立して生きていけるために」ということであるべきです。人間も生き物の一種である以上、これは絶対に忘れてはならぬ大鉄則なのであります。  ところが、近ごろの親たちの中には、この大鉄則を忘れている人が、たくさんあります。とりわけ、中流以上の家庭に、それが多いようです。父親は、子どもに愛される存在になりたい、ということだけに気を使い、きびしさによって、子どもの精神を鍛練することを忘れています。  (昭和44年11月【生きがい】) 上京のとき 五  私が最近読みました本の中に、働く人間につきまして、次のようなたくみな表現をもって分類されておりましたので、紹介してみたいと存じます。それによりますと、  いやいやながら仕事をする人間、それは牛馬と同じではないか。  命ぜられただけをする人間、それは囚人と変わらない。  自分から思いたって働く人間、それが人間らしい人間だ。  生かされている恵みに感謝して、じっとしていられない心の迸りが、働きとなって現われる人間、それが人間の中の最高級の人である。(久平文庫)というのであります。  私が炭屋に奉公しておりましたときのことでありますが、そこの主人という人は有名な勤勉家でありまして、だれも仕事が辛くて、長く勤まらなかったのであります。そこへ私が入ったのでありますが、私は八時間働かなければならぬときには、十二時間働きました。やれと言われて働くのは辛いことでありますが、私はみずからすすんで経営者になったつもり、自分が主人だという気持ちで働いたものですから、働かされて辛いとか、束縛されて不自由だとか、と考えたことがまったくなかったのであります。給料をこれだけしかくれないから、それだけ分以上に働いては損だという、金と時間をすりかえたような考え、主人にこき使われているという考えでは、不平も出たでありましょうが、私の場合には、みずからが主になって自主的に飛びこんで働いたものですから、主人のほうが私に追い回されるような結果になったのであります。  その点で私は、人間らしい人間であったのかも知れません。私が働いた十二時間は、仕事をさせられるという束縛の十二時間ではなく、働きがいのある束縛なき自由の十二時間であったわけであります。  この自分が炭屋の主人であるというくらいの責任をもって、自主的に積極的に仕事をするところには、炭屋の主人と私という二つのものが相対立するのではなく、一対になっている。そこにこそ、束縛なき自由が存在すると思うのであります。  やれといわれて押しつけられた法は苦痛でありますが、捨て身になってみずから法を求める修行は喜びであります。  じっとしていられない心の迸りが、働きとなって現れる人間とは、けだし菩薩の心をもって物ごとをする人のことでありましょう。  (昭和37年09月【佼成】)...

21 ...関東大震災に遭遇して〈災害に対峙する心構え〉 一  あとで思えば、十一時五十八分、主人が、「もうそろそろ昼食にしようか」と言ったので、仕事にひとくぎりつけよう───と思ったとたん、ゴーッという地鳴りがし始めた。  おやと思う間もなく、家じゅうがグラグラッと揺れ出した。一瞬にして、落ちた壁土の埃があたりにもうもうと立ちこめ、その中で棚の物は落ちる、米俵は転がる。思わず外へ飛び出すと、屋根瓦が上から落ちてくる、看板が吹っ飛ぶ。この世の終わりがきたかと思われる、すさまじい光景だった。  第一震がやっとおさまると、なんということなしに、われもわれもと広い電車通りへ駆け出して行った。しかし、そこも、電車は脱線して道にはみ出しているし、切れた電線もぶらぶらして、危険千万だ。  そのうち、蛎殻町あたりの方角に火事が起こったらしく、黒煙がもうもうと立ち上がった。見ると、火の手は、あっちからもこっちからも上がっている。「火事だ、火事だ」と言う声が四方八方から聞こえてきて、人びとはただうろたえ、さわぐばかりだ。  (昭和51年08月【自伝】)  私の故郷の十日町は、東京にくらべて地震が非常に少ないところで、たまに起こっても、東京のように激しく揺れることはめったになかったのです。ですから、父はよく私に、「越後と違って、東京には大きな地震がたびたびある。そんなとき驚いたりすると、“田舎っぺ”といって笑われるから、驚いてはいかん」──といった意味のことを話してくれました。  そのときは、なんの気もなしに聞いておりましたので、たいして気にもとめていなかったすが、大震災で激しい揺れを経験したときは、なるほど、東京は地震の多いところだと思いましたし、“田舎っぺ”といわれないように、落ち着かなくてはならないという気持ちが、ひらめいたのであります。そのおかげで、つねに心に余裕をもち、冷静に判断しながら行動をとることができました。  まわりが火の海になったにもかかわらず、大八車二台に荷物をぎっしり積み込んで、そこから逃げ出すことができたという、尊い経験をしたのであります。  (昭和39年07月【指】) 関東大震災に遭遇して〈災害に対峙する心構え〉 二  まわりの人がみんな腰を抜かすものですから、“なんだ田舎っぺばかりか”と妙なところで安心しました。そうしたら瓦は落ちるし、京橋第八銀行の鉄筋の角もドカッと落ちるし、「外へ飛び出さなくてよかった」と思っているうちに、周囲に火がまわってきたのです。それで店の大八車二台に、大事な家財道具を全部積んで宮城前広場へ逃れました。  主人に「エチゴ(新潟出身の私のこと)のおかげで助かった」と喜ばれましたが、いま思うと、あのとき、気持ちに動揺がなかったのがよかったのだと思います。  (昭和44年11月【佼成】)  人間は、心の余裕と冷静さを失うと、前後不覚の状態になってしまうものです。もちろん、健康にもよくないし、ものごともよくいくはずがありません。心の問題がいかに重要かが痛感されます。  お釈迦さまが、“三界は唯心の所現なり”、すなわち、三界はみな心の現れであるといわれたのも、心の問題が人生において一番大切であることを教えられたものであります。そして、その心をいかに整えていくかが、宗教の役割であって、『仁王般若経』にも、仏法が盛んになれば“七難即滅、七福即生”、すなわち、七つの難が消えて、七つの福が現われる、と説かれております。しかしながら、鎌倉時代をみると、仏法が非常に盛んで、お寺の数も非常に多く、それがまたりっぱに繁栄し、お寺には金襴をつけたお坊さんや、たくさんのお弟子がたがおられて、あちこちで仏道修行をなさっている、いわゆる、仏教興隆時代であったにもかかわらず、当時は災難が非常に多かったものでした。  それに対して、疑惑をもたれたのが日蓮聖人でした。聖人は一心不乱に一切経を学び、よって起こるところの原因を究められて、かくあるべきことを、『立正安国論』と銘うってしたため、三回にわたって北条執権に提出されたのであります。  (昭和39年07月【指】) 関東大震災に遭遇して〈災害に対峙する心構え〉 三  人間からエゴイズムをなくしてしまうことは、言うべくしてまことに至難の業です。しかし、それをほどほどに抑えなければ、身は破滅し、社会は崩壊せざるを得ません。それゆえ、お釈迦さまは諸法無我の教えをお説きになり、全体と調和して暮らすところにこそ、涅槃(安穏)の境地があることを、強く強く教えられたのです。  その教えと正反対のことを、戦後の日本人はやってきたのです。仁王経に「人仏教を壊らば、復孝子なく、六親不和にして、天神も祐けず、疾疫悪鬼、日に来りて侵害し、災怪首尾し、連過縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん」とあります。人間が仏の説く真理に背いてばかりいるならば、世の中に孝行な子どもはいなくなり、父・子・兄・弟・夫・婦の仲は悪くなり、諸天善神の加護も失われ、悪病は日に日に襲い、災難はくびすを接してやってき、人間は次々に罪過を犯してとどまるところがなく、死んでも地獄・餓鬼・畜生道に落ちるだろう……というわけです。  今の世相はそっくりこのままだとは思いませんか。親が子を殺し、子は親を泣かせ、兄弟は争い、夫婦の間は冷たくなり、離婚がふえています。人びとの心は神仏から離れ、そのために諸天善神も、人びとから離れてしまわれました。新しい奇病が次々に出現し、天災・人災の絶えることなく、死後どころか、死なない前に地獄・餓鬼・畜生道におちいっている人がたくさんいるではありませんか。  それもこれも、仏法を壊ったからです。あえて仏法と言わぬまでも、天地の万物は連帯して存在するという真理に背き、エゴをむき出しにして大きな連帯を破ったればこそ、今のような事態が現出したのです。ですから、ここでわれわれが、ぜひ、なさなければならない「心の大掃除」というのは、これまでの無茶苦茶なエゴイズムを掃き出してしまうことなのです。欲望をほどほどに抑え、譲るべきは譲ることによって、みんなが過不足なく生き、適度の幸福を享受するという生き方へ、ポイントを切り替えることなのです。  これさえできれば、日本は、きっとよくなります。間違いありません。  (昭和50年01月【躍進】) 関東大震災に遭遇して〈災害に対峙する心構え〉 四  上京して四か月目に、私は関東大震災に遭いました。そうした地震の災害を自分の身で経験してみると、どこかで震災があったときにも、それがどんな状況なのか、どんな具合だったのか、その被害の状態が気にかかり、被災地の人びとの気持ちが身にしみて感じられるのです。  そういうことを思い合わせてみますと、私たちは、こうして幸せでいられることを、すべてについて感謝し、感激してご法に精進しなければならないと思うのです。人間というものは、どうかいたしますと、幸せになれたのは自分でやっているからだ、と考えてしまいがちだからです。  とくに最近、立正佼成会の教えはみなさんから非常に喜ばれ、学者や有識者といわれているような人びとも、立正佼成会でなくてはならないというようなことをいわれ、また経済界や政界を含めて、あらゆるかたがたが、立正佼成会の発展ぶりと今日の宗教活動のあり方を、非常に期待しておられるのです。青少年の不良化防止という問題にしましても、その対策はこうすべきだ、ああすべきだといっておりますが、さて、こうやればいいというようなはっきりした方法があるかといいますと、それはまったく暗中模索であって、それに対する対策がないのです。「環境が悪いからだ」「いや唯物的な考え方をするからいけないんだ」「世間が悪いんだ」という声にしましても、確かにそういう条件はありますが、それを詮じつめていって、それでは解決の方法は、ということになると、何をどうすればよいか、はっきりしないわけです。  しかし、立正佼成会の信者として、この問題をとらえた場合、人生苦に対しての四諦の法門に照らすと、いっさいの現われた問題は、“この親にしてこの子あり”で、因果の法則によってお互いに自分の責任だということがはっきりしてきます。しかし、中には過去のことは、その順序できているにしても、未来のことはわからない、といいたがる人がいます。  ところが、過去を振り返ってみても、また未来に向かってみつめても、そして、現在のことも、まったく狂いのない法門が、はっきりとしてあるということをわからせてもらうと、疑う余地はもうなくなってくるのであります。  (昭和39年06月【速記録】)  私は大震災に焼け出されて逃げる途中で、四十歳ぐらいの男と一緒になって火の中を逃げたのですが、その人が私の肩を叩いて、「お題目を唱えろ、お題目を唱えれば助かるんだ」と申しましたが、自分は念仏だったのでお題目なんか唱えられるかという考えで、そのときはおりました。ところが、それから十五年間迷って、けっきょくお題目で自分も人も歩む道を見出したわけでありまして、反対する者は、すでに縁があるという証拠であると思うのであります。そういう道をたどりまして、どんな場合にも動揺しない信念をもって、自分は足りない人間だと反省すると同時に、また、ご法を確信するところの信念をもちまして、今日まで生きてきた人間であります。  (昭和30年07月【佼成】) 関東大震災に遭遇して〈災害に対峙する心構え〉 五  学説によると、新潟地方では震度“2”以上の地震はないといわれております。それはまた、歴史の上からみても間違いないのですが、“諸行無常”という法門から申しますと、過去になかったから、未来にもないということはできません。そのことを如実に教えているのが、今回の新潟地震(註・昭和39年6月16日)の災害である、といえます。  ところで、今回の災害では、今にも壊れそうな古い橋がなんの被害も受けなかったのに、近代科学の技術を集めてつくられた、もっとも新しい、「昭和大橋」が、第一番に落ちてしまいました。これは、あまりにも文明に頼りすぎた科学万能主義に起因するもので、この点を、とくに反省しなければならないと思います。  ここで一つ、私の田舎のあたりで見られるけっして近代的とはいえない“掘っ建て小屋”について、申し上げてみることにしましょう。この小屋に使われるのは杉の木です。傾斜面に生えている杉は、冬の間、雪の重味で押されるために、根本の一メートルから二メートルのあたりまで曲がっていて、それから先はまっすぐに伸びています。その曲がったところを、何本か適当に切り取り、一メートル置きぐらいの間隔で地面に埋め込んで丸屋根のように、上に茅を乗せたのが掘っ建て小屋であって、屋根は、ちょうど大聖堂のドーム(註・丸天井)の勾配と同じくらいになります。  それで、この掘っ建て小屋を、なんのために使うかといいますと、たとえば、家から一里も離れた山奥に田圃があるような場合、通うのが大変なので、そこに泊まり込むこともいたしますし、食事をとるとき、雨や風を凌ぐためにも使えるということで、各自がみな、そういうものをこしらえております。この掘っ建て小屋は大昔からあったもので、地震や大風にもまったく平気なのです。  ところが、近代建築は、鉄筋コンクリートの堂々たる建物であっても、少々地下に掘り込んだていどだと、一度に倒壊してしまうありさまです。これは近代建築が悪いのではなく、新潟地震の例をみましても、しっかりした地盤のところまで掘り下げて建てた、地下二、三階あるような建物は微動だにしなかった、ということです。  こうした例から考えましても、私どもは、すべてのものごとに対して、かたちだけにとらわれることなく、法門にもとづいて考えていかなければならないことが認識されるのです。  近代建築にたとえれば、上っ面のご都合主義ではなく、微に入り細にわたって計算し、地下二階、三階をつくるときのように、しっかりした地盤にまで掘り下げる企画設計をすると同時に、ほんとうにしっかりした建物を建てるのだ、という真心から出発しなければならないことになります。このように考えてみますと、私ども信仰者は現象のみにとらわれることなく、それを深く掘り下げることによって、大磐石の信仰を築き上げていかなければならない、ということになるのであります。  (昭和39年08月【指】)...

22 ...傍を楽にする働き〈職業観・勤労観〉 一  私が(中略)炭屋に奉公したときには、それまで田舎で畑仕事をしても平気だった手に、アカギレができたものでした。夜おそく血の流れる手で、一生懸命にマキ割りをしていたころがなつかしく思い出されます。そのころはまだ子どもですから、なんになるという具体的な目標はなくても、とにかく日本一になるという気持ちだけはあったようです。  したがって、何ごとも一生懸命にやらなくては日本一になれないぞ、という気概がありましたから、マキ割りがいやだから、サボるというような気持ちは毛頭ありません。マキ割りもできない根性で、他に何ができるかという気持ちでした。ですから、何ごとも真剣にまじめにやれば、必ず道はひらけるという信念を、今も私は持ちつづけております。  (昭和44年01月【佼成新聞】) 傍を楽にする働き〈職業観・勤労観〉 二  私が十六歳で単身上京したとき、父に言い渡されたのは、「なるべく暇がなくて、給料の安いところに奉公しろ」ということでした。  “労働は対価のためのもの”と単純に割り切っている現代では、まったく通用しない考えのようですけれども、そうではありません。私は青年時代に、この戒めによって、“労働の対価”以上の貴重なものを得ることができたばかりでなく、功利的でない働きを一生の仕事とする基盤が、それによって築かれたように思います。しかも、欲得づくでない働きをまじめにしておれば、けっして食うに困ることがないという真実を、身をもって知ることができました。  (昭和49年11月【佼成新聞】)  私は若いころ、大八車を引いて漬物の行商をしたことがありますが、漬物をいっぱい積んだ車は、引き始めはたいへん重いのですが、勢いがつくと、もう重さを感じなくなるのです。慣性とか、習性とかいうものの働きなのですが、この慣性・習性というものを見直すべきです。 若いうちは体力もある。生命力にも満ち満ちている。ですから、若いうちに思い荷─つまり辛い仕事─を引き始めることです。そうすれば、いつしか、それが習性となって、なんでも一生懸命にやるクセがついてしまいます。そのクセがどれほど一生のためになるか、計り知れないものがあるのです。  ところが、若いうちは、どうも周囲の目を気にしがちです。あまりモリモリ働けば、同僚たちに「あいつゴマをすっている」「いい格好しようとしている」と思われはしないか……そんなことを考えるものです。  戦前まではそうでもなかったのですが、戦後、民主主義が浅はかに受け取られるようになってから、意欲的に、自発的に、シャニムニ働くことを、何かこう出すぎたことのように考えるようになりました。罪悪感さえおぼえる人もあるようになりました。というのも、「労働は対価のために行うものである」という次元の低い唯物思想が一般化し、「働くのは社会への布施である」という崇高な真実が忘れられているからだ……と私は思うのです。  ですから、同僚のおもわくを気にして、せっかくの意欲を萎びさせてしまい、そして、仲間に調子を合わせてほどほどに働き、酒やマージャンなどのつきあいのほうに精を出すようになってしまうのです。これはつまり、上司にゴマをするかわりに、同僚にゴマをすっているわけで、ゴマスリという賤しい心理に変わりはないのです。ここのところを深く省察しなければなりません。  調子を合わすならば、宇宙法にこそ調子を合わさなければならないのです。因果の道理・諸法無我の法則にこそ、おのれを捨てて随順しなければならないのです。「おのれを捨てる」といえば、現代人はたいせつな自分を冒涜することのように考えがちですが、とんでもありません。宇宙法の前におのれを捨てることは、おのれを大きく生かすことなのです。道元禅師が、「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして生死をはなれて仏となる」と説いておられるのは、ここなのです。  これを現代風に意訳しますと、「自分の心身を放ち忘れ、宇宙法の中へ投げ入れてしまえば、ひとりでに宇宙法のほうから何かと働きかけてくるから、それに身を任せてゆくならば、力むこともなく、あれこれ心を使うこともなく、ひとりでに現象世界に煩わされぬ境地に入ってしまうのだ。することなすことが宇宙法に即するようになってしまうのだ」ということになりましょう。  これが仏の境地です。おのれを捨てるというのは、たいせつな自分を捨てるどころか、仏という最高至上の人間になる近道なのです。これを現代人は知らないのです。全部が近視眼になってしまっていて、見えないのです。  だから、こういうこともいえましょう。現代において最もたいせつなことは、タテには、きょうあすのことしか見えない。ヨコには自分の身と家族ぐらいしか見えない、その近視眼を直し、もっと遠く、広く、人間世界の真実に目を開かせることだ……と。そう、私は思うのです。これが、いわゆる、仏知見なのです。  自分自身が働くことの真実の意味に目覚めて働くのは、たんに自分自身を成仏に導くだけではありません。周囲の同僚や、部下や、上司たちをも、仏知見に目覚めさせることになるのです。それは、初めはいろいろな誤解も受けましょう。いい格好をしているとか、ゴマをすっているとか……。しかし、誠心誠意やっていることは、いつかは必ず認められるものです。必ず共鳴者ができます。ひとりできると、またできる、友は友を呼び、光は光を招くといった具合に、職場はしだいに楽土化し、光明化していくのです。  それには、功名心があってはいけません。力みがあってはいけません。「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて」という気持ちが必要なのです。そんな気持ちで万事をなすならば、きっと人は動かされます。太鼓判を押して保証します。  (昭和53年08月【躍進】) 傍を楽にする働き〈職業観・勤労観〉 三  大正十二年、東京という、それまでぜんぜん知らなかった場所に出てきますと、人さまの関心を自分に引こうなどと考えるどころではありません。なんとかして、人さまに伍していかなくてはならないということで、真剣そのものです。それに、信用もなければ肩書もない。とにかく、なんにもないわけですから、自分がどうにかして、人さまに認めていただけるような人間になろうとするには、かげひなたなく全力を挙げて働くほかないのです。私はそう考えて働きつづけましたので、主人には大変喜ばれました。  最近は、何かというと、労使の問題が出てきますが、私は、労使がお互いに、“使っている”“使われている”という不平等の意識をもっていることを、いつも遺憾に思っております。私の考え方から申しますと、自分はほんとうに主人のために働いているのだ、という自信をもっていれば、奉公していても、“使われているんだ”といった卑屈感はありません。商売に没頭することによって、早くその仕事をおぼえ、主人を喜ばせたいという考えで、一生懸命に働いたものです。  (昭和45年11月【速記録】)  昔から、「働くというのは傍を楽にすることだ」と言います。仏法でいうならば、諸法無我の真理にもとづく「働きの哲学」です。  宇宙の根元の実在である空が、宇宙の至る所に隙間なく満ち満ちているものであり、万物・万象が空によってつくり出されているものであるからには、当然、万物・万象は空によってひとつづきになっているわけです。すなわち、この世にポツンと孤立して存在するものは一つもなく、すべてがつながりをもち、相依り、相助けて存在しているわけです。これが諸法無我の真理です。  これを自分の人生に即していえば、自分の生命活動は必ずほかの人びとの生命活動とつながっており、そのつながり合いは、あたかも無数の網を四方八方・上下左右にくまなく張りめぐらしたようなものです。しかもその網は、いつも同じ状態にとどまっているのではなく、少しずつ少しずつ洗練され、強く、かつバランスのとれた網に変わっていくべきなのです。これが社会の向上ということであり、平和化ということにほかなりません。  ですから、もし自分がわがままな悪い力を加えて、その網を無理に引き下げようとしたり、かき回したりすれば、その網はもつれ、あるいは破れ、世の中全体の総合的な生命活動のバランスに崩れが生じ、その向上の流れに停滞が起こってしまいます。  逆に、自分が正しく働き、大宇宙から与えられた持ち分を充分に果たしていくならば、その働きのエネルギーは網全体をホンのわずかずつではあっても引き上げるわけです。そして、知らず知らずのうちに、他の多くの人びとの上昇をも助けているわけで、つまり、傍を楽にしているのです。  傍を楽にする……大きな布施です。世の中全体を引き上げる……これは、さらに大きな布施です。職場でけんめいに働く。正しく働く。それは、このような偉大な布施行なのです。そのことが真底からわかれば、これまた心に大歓喜を生じて、ますます努力せずにはいられなくなるはずなのです。  仏法を知らない人は、そのことがわからないから、仕事がおもしろくないとか、上司が気に入らないとか、出世できそうにないとか、自分本位の、目先の小事ばかりにとらわれて、投げやりな気持ちになり、シラケてしまうのです。その結果、働きも怠りがちになり、仕事もいいかげんになり、停滞もしくは後退するようになってしまいます。  そうなりますと、連鎖反応的に上司の目はますますきびしく感じられ、職場の空気はいよいよ重苦しくなり、ついには、いたたまれないような気持ちになってしまうのです。ですから、職場がおもしろくないと感じ始めたら、逆療法的にモリモリ働くことです。  停滞は宇宙の理に反します。宇宙の万物はつねに変化しています。太陽のような恒星は絶えず燃えており、地球のような惑星は、その周囲を回っています。宇宙全体も、外へ外へと膨脹しつつあるというではありませんか。極微の原子を見ても、原子核のまわりを電子が非常な速度で飛び回っているというではありませんか。  動くというのが、宇宙の常態です。自然の姿です。人間にとっても、働くというのが自然の状態なのです。ですから、けんめいに働いているときは、無心でいられるのです。無心でいられるのは、宇宙の理にピッタリ合致しているからであって、なんともいえず清々しいのは、そのせいなのです。  馬に重い荷を積んだまま繋ぎっぱなしにしておいてごらんなさい。馬はすぐ疲れ、苦しがります。ところが、同じ荷を積んでいても、道を歩かせますと、楽々と歩くのです。不思議です。重荷を背負うという労苦と、歩くという労苦が二つ重なるから、苦が二倍になるかというと、そうではないのです。かえって、いくらか相殺されるのです。  私が、「仕事が辛い、おもしろくないと感じたら、逆にモリモリ働きなさい」と勧めるのは、この不思議な真実にもとづくものであり、私の七十年の人生体験から得た確かな真理でもあるからなのです。  ましてや、自分が働くのは傍を楽にすることだ、多くの人びとの上昇を助け、世の中の進歩を促進するものだ……という理念をしっかりと堅持しているならば、辛さなどは一ぺんにケシ飛んでしまうでしょう。  (昭和53年08月【躍進】) 傍を楽にする働き〈職業観・勤労観〉 四  内輪の話で恐縮ですが、私の甥のひとりに学校ぎらいの子がいました。高校に入学はしたのですが、どうしても勉強が好きでないというので、思い切って退学させ、板前の修業をさせました。これが性に合ったとみえて、どんどん腕が上がり、今では立正佼成会の食堂に勤めて、朝早くから仕事に精を出しています。大量の仕込みのある日などは、夜中の三時ごろに出かけて行き、夜、家に帰って休んでいても、何かわからぬことがあって電話でもかかってくると、すぐさまスッ飛んで行きます。  とにかく、今の仕事に生きがいを感じているとみえて、はりきっているのです。  私は、この甥に、「私は会長で、おまえは板前だが、人間の価値としてはおなじだ。説法をやらせたら私だが、包丁を持たせたらおまえだ。会のために一心に働くかぎり、会にとっても存在価値は平等なんだ」と言って聞かせています。これは、オダテでもなんでもなく、ほんとうにそう思ったから言ったのです。  草柳大蔵さんの書かれた『現代の名人』という本には、いろいろな分野で随一といわれる“職人”の話がたくさん出ています。  新しく開発された自動車をテストして、スタートから二、三秒もしないうちに、その音で欠陥をピタリと発見するという、日産自動車の田中清造さん。  ビールの発酵樽の麦汁にパイプで冷たい水を通して温度を調節する(オートメーションではどうしてもできない)という、ビールの生命をにぎる仕事を、経験とカンで完全にやってのける名人、サッポロビールの池田三三さん。  製鋼所の炉から出した一、二五〇度の白熱した鋼塊の温度を、温度計や光高温計よりも正確に肉眼で見分けることができるという、日本製鋼所の永沼孝さん。  そのほか、ガラスづくり・靴づくり・万年筆のペン造り・染め物・宝石カット・レンズづくりなど、三十人の名工の、頭の下がるような仕事ぶりが紹介されています。じつに法華経の薬草諭品の数えの実例集といった観があります。  右の田中さんと永沼さんは高等小学校卒、池田さんは水兵上がりです。こういうところに、今後の日本人の進むべき道にたいする大きな黙示があると思うのです。トコロテン方式の大学卒業生より、このような人たちこそが、充実した社会を築いていくのです。  (昭和53年04月【佼成】)  人はさまざまです。性格も、才能も、体力も、千差万別です。千差万別であるからこそ、その働きが総合されて社会というものが成り立っているのです。全部が全部サラリーマン向きの性格・才能・体力の持ち主だったとしたら、巧みな大工さんも、人を酔わせるような芸術家も、すぐれた政治家もいない、片輪の、おもしろくもなんともない、砂漠のような社会になってしまうでしょう。差別があることが、生き生きした、妙味のある社会をつくり上げているのです。さまざまな色の糸があってこそ、美しい絨毯が織り上げられるのと一緒です。差別があってこそ、平等があるのです。それなのに、どうして、みんなが一つの色になりたがるのでしょうか。  こういう基本的な真理は、親も、教師も、文教当局もわかっているはずなのに、どうしたわけか思い切って実行に移しません。一部の勇気のある人は、ご自分の子どもさんに断固その真理を適用しておられますけれども、おおかたは親の見栄やら、過保護的愛情やらで、なかなか踏み切れないでいるようです。しかし、いつまでもそれでは困ります。今、世の中は大きな転換期を迎えつつあります。教育もこれを機に、ほんらいの正常な姿に帰らなければ、日本の将来はまことに心もとないかぎりです。  (昭和52年04月【佼成】)  人間には天分というものがあります。持ち前というものがあります。その天分・持ち前を充分に遂行し、発揮すれば、世間的にはいかに小さな仕事のように見えても、宇宙的に見れば、じつにりっぱな仕事なのです。  ここのところを、たいていの人が逆に考えているようです。人間社会という、チッポケな世界を基準にして仕事の大小や価値の軽重を量るのが普通です。しかし、それは間違いであって、全宇宙という大きな世界から眺めて見なければならないのです。そうしますと、どんなに小さな仕事でも、魂のこもった、充実した、そして人のため社会のため、それなりに役立つものであれば、一つの天体にも匹敵するほどの大きさと重みをもつものなのです。それに対して、いかに世間的には大きな図体をもった仕事であっても、それが私利・私欲の影を宿した、そして、人間同士の醜い争いをはらんだようなものは、全宇宙的に見れば、まるでチリアクタに等しいのです。(中略) そこで、結論として私が言いたいのは、「全宇宙的な眼をもて! そして、どんなに小さな仕事にも心魂を打ち込め!」ということです。それを教えているのが仏教だ、ということです。  (昭和51年09月【躍進】)...

23 ...働く喜び 一  日本の中央の東京、そして、東京の中央でもある日本橋。とにかく、日本の政治の中心地である東京の真ん中だということで、あこがれて田舎から出てきたのですが、関東大震災を経験したあとは考え直しました。  東京の中心だけに、このあたりには空き地もなければ、逃げ場も隠れ場もありません。震災が起こったとき、私は幸い馬場先門から丸の内に逃げ込んで助かったのですが、奉公先の家は焼けてしまっていました。そのことから考えて、少し空き地のあるところはないだろうかと、地図を見たところ中野のあたりなら、まだ空いている。それに中野にあった電信隊にいたことのある叔父からも、いろいろと話を聞いておりましたので、一つそちらの方に行ってみようということで、中野へきたわけです。  (昭和41年03月【速記録】) 働く喜び 二  ある人の紹介で、旧中野電信隊裏通りの、〈勝又〉という材木屋に行ってみた。ところが、あいにくなことに、きのう新しい雇人がきたばかりだと言って断わられた。あてがはずれてがっかりしている私を見て気の毒に思った、〈勝又〉の隣の炭屋さんの主人が、植木屋さんならいくらでも人が要るはずだから、そこへ行ってみる気はないか、と紹介された先は、中野天神町の北野神社の近くにあった〈植銀〉という植木屋だった。  (昭和51年08月【自伝】)  商売は、かなり手広くやっているらしく、かよいの職人が二十人ばかりいた。私は宿がないので、住み込みにしてもらった。  当時一人前の植木職人の手間は、一日働いて二円五十銭だったが、親方が二十銭ピンをはねるので、職人の手取りは二円三十銭だった。私はズブの素人なので、二円十銭にしかならなかった。  しかし、賃金のことはあまり問題にしていなかった。国を出るとき、父に示された方針が、〈なるべく暇がなくて、給料の安い、骨の折れるところへ奉公しろ〉ということだった。暇がなくて給料が安ければ、悪いほうへ走る余裕がないからというわけだ。その教えを守って、けんめいに働いていたが、間もなく一人前の賃金に引き上げてくれた。  (昭和51年08月【自伝】) 働く喜び 三  自分が同じ仕事を一生繰り返してつまらないとか、月給に見合うだけ働けばいいとかいう考えは、自分自身の人間としての価値をいやしめ、義務と責任を放棄するものといわなければなりません。よりよい創造には〈苦〉がともないます。その苦を避けて、ただ家庭生活やレジャーの遊びのなかだけに楽しみを求めるようでは、人生のほんとうの喜びもあじわえないのです。  みずから、よりよい創造への苦を求める気持ちになってごらんなさい。その苦自体が、一転して喜びに変わることは必至です。それは、ほかのどんな場でも得ることのできない、大きな、深い、鋭い喜びです。そのような喜びを味わうところにこそ、ほんとうの生きがいがあるのです。  (昭和42年04月【佼成】)  われわれひとりひとりが、人類の進歩という無限の鎖の一つの環にほかなりません。それだけに、大きな義務と責任があるのです。自分という一つの環は、いくら努力してもおなじ場所にとどまっているように思えることもありますが、けっしてそうではありません。自分ではわからぬぐらいの進歩でも、それがいつしか人間全体の位置を高めるのです。  ちょうど、ゆるやかなネジ山を見ると、同じ円が繰り返し同じところを回っているようでも、それは必ず、すこしずつ上へ上へとのぼっていっているように、人類の進歩もそんな筋道をたどるものなのです。  (昭和42年04月【佼成】) 働く喜び 四  中野に三枝さんという大きなお邸があって、私は植木屋の職人としてよく仕事に行きました。そこには女中さんが十五人ぐらいいるのです。そんなに人手が要るわけではないのですが、ほうぼうから親が「預かってください」と頼みにくるために、そんな人数になってしまうのです。  みんな着物をキチンと着ていて、髪なんか乱れている人はひとりもいません。言葉づかいもていねいで、しかもハキハキしていて、気持ちがよかったものです。朝から晩まで、雑巾がけやら、洗濯やら、料理やらを、奥さんの指導や監督のもとにやり、昼間は、これも奥さんからお針を習っていました。裁縫台をお座敷に並べて、まるで裁縫塾みたいでした。とにかく、お辞儀の仕方から、あいさつの仕方、お茶の入れ方、ふとんの出し入れまで、一日二十四時間の全人教育ですから、ここで三年なり五年なり勤めた人なら嫁にもらっても間違いない、というので、引く手あまたでした。  今、こんなお宅がほとんど、なくなってしまいました。花嫁学校も短大に模様がえして、精神指導とか、躾とかいう要素は消滅してしまいました。一つ、立正佼成会でそうした花嫁学校をつくりますか。大事なことですから、みんなで知恵を出し合って考えてみることにしましょう。そういうリーダーを養成することもたいせつなことです。  また、そうした特定の場所でなくても、道場や法座、そして本人の心がけしだいで、修行はいくらでもできるのです。お勤めしていても、職場での働きや人間関係の中でみずからを鍛え、いいものを身につけるように心がければいいのです。  OLに関する調査の結果を読んだことがありますが、「お勤めは結婚するまで」という人が大部分で、ここでもまた、「独身時代を楽しむため」という人が圧倒的に多く、「仕事より私生活やレジャーのほうが大事」という人が半分近くもいると報告されていました。そこがまた、さきほども言った本末転倒なのです。お勤めは結婚するまで……というのは、それでいいのですが、腰掛け意識はいけません。職業を冒涜するものです。仕事についている限りは、その仕事に真剣に打ち込まなければ、職場に対しても、世間に対しても、第一、お天とうさまに対しても申しわけありません。  現在やっている仕事は、将来の結婚生活とはなんのかかわりもないものだから本腰を入れたくない……などという気持ちだったとしたら、とんでもない考え違いです。たとえ、伝票の整理にせよ、キーパンチャーの仕事にせよ、とにかく現在の瞬間に精いっぱいの努力をするという、そのこと自体が尊いのです。  そういう誠実さは、必ずその人の身にしみつき、結婚してからも、家事に、育児に、その瞬間瞬間において精いっぱいの努力ができる妻となり、母となって顕現していくのです。そして、そういう真剣な態度こそが、夫の愛情を深め、そして、子どもに対する無言の教育となっていくのです。  (昭和53年04月【躍進】) 働く喜び 五  植木屋に奉公したときには、垣根や植木に紐をしっかり結ぶことが大事な仕事の一つでした。海軍にいたときにも掃海時にからまった綱をほどくのが名人(?)だと言われたものです。また、結索といって、ロープをしっかりゆわえることも大事な水兵としての仕事でありました。そして今、因縁の複雑な糸に縛られて苦しむ人びとの悩みをときほぐし、解結の結びをつけていくお役をするというように、一生を通じて、何か一つの共通したというか、関連のあることをやってきているという気がいたします。  そこで考えることですが、多くの人たちは過去にしてきたことが、みんなバラバラで少しも生いてこない暮らし方をしているのではないでしょうか。やはり、すべての体験を自分が生きる上に生かすことがたいせつだと思うのです。  (昭和53年10月【佼成新聞】)  われわれ人間は、自分の力で生きているように思い上がっていますけれども、じつは、太陽や、空気や、土や、水や、いろいろな動物や、さまざまな植物によって〈生かされている〉のだということが、ハッキリわかってくるのです。こういう原理がわかれば、素直な心の持ち主であるかぎり、天地の万物に感謝せずにはいられなくなるはずです。これを人間社会にかぎって考えてみても、原理はおんなじです。われわれは自分で働いて自分で生きているように錯覚していますが、その働き場所をあたえてくれているのはだれか、自分の会社でつくった製品を買ってくれているのはだれか、その原材料を供給してくれているのはだれか、直接に自分の身を養う米やサカナや野菜をつくってくれているのはだれか、それらを生産地から町まで運んでくれているのはだれか……等々を考えめぐらしてみると、やはり、自分が生きているのは多くの人の力によって〈生かされている〉のだということを、つくづくと思い知らされるのです。そこで、素直な心の持ち主であるかぎり、世の中の多くの人に、感謝せざるを得なくなるのであります。  この謙虚な〈生かされている〉という自覚、それにたいする自然な感謝、それこそが、人間らしい心のおおもとであり、この世を住みよくする根本的な精神なのであります。 (昭和43年07月【佼成】) 働く喜び 六  近ごろの世相人心はどうでありましょうか。物質的に豊かでありさえすればよい、自分さえ楽に生活できればよい……という気持ちが、人びとの心にしみついてしまおうとしています。企業は企業で、自分の会社さえ儲かればよい、自然を破壊しようが、世間に迷惑をかけようが、経済の高度成長のためにはしかたのことではないか……といった考えが支配的のようです。  しかし、そんな考え方や生きかたがけっして人間の幸せをもたらすものではないことは、最近、一時にドッと現われてきた公害問題がイヤというほど思い知らされてくれました。物の豊かさがけっして人間生活の豊かさを意味するものではないことを、鏡に映すようにハッキリ示してくれました。こういうのっぴきならぬ証拠が表われてきた以上は、改むべきは率直に改めることが、緊急の大事であるといわなければなりません。  職場における人事の制度でも、これまでの日本はおおむね終身雇用であり、年功序列というものが重んじられてきました。ところが、近年になってアメリカ式の能率いっぺんとうの行きかたに習うべきだという考えが盛んになってきました。それならば、本場のアメリカではどんなようすかといいますと、仕事ぶりが少しでも低下すれば月給を下げられたり、クビになったり、反対に、いい仕事をすれば、スグよその会社から高給で引き抜きにきたりするような制度のなかでは、いつも戦々兢々として心の安まるひまもなく、四六時中、自分に鞭うって働かねばならず、人間が働くのではなく、働きが人間を追い回すといった状態が実情だそうです。そこで、生きがいを喪失する人や、精神病にかかる人が非常に多く、アメリカの一部の経営学者は、かえって日本の年功序列型のやりかたをみなおしつつあるということも聞いています。  日本の終身雇用・年功序列制度には、もちろん、弊害もあるにはありますけれども、一番いいことは、働く者が底の底に安心をもっておられるということです。いつも戦々兢々として不安のうちに働くのと、安心の上に立ってモリモリ働くのとでは、たとえ、同じ働きをしたとしても、前者は機械的な働きであり、後者は人間的な働きであり、その基底となるものがちがうわけです。終身雇用・年功序列制度のなかからは、年長者の豊富な経験を尊重する気持ちがはぐくまれ、それが一般的な敬老の精神や親をたいせつにする心がけともつながってくるのですが、能率いっぺんとうの制度のなかからは、強烈な自己中心主義と、無能な者は相手にしない冷酷さと、年配者に対する思いやりなどのない、カサカサした気風が生まれてくるのです。  つまり、企業経営者のすべてが自分の企業に儲かりさえすればよいという気持ちでこのような制度を強行すれば、世の中全体が人間味のないものになってしまうわけで、これまた一種の精神的公害であるといっていいと思います。  (昭和45年11月【佼成】)...

24 ...奉公とは世間に仕えること 一  中野の石原さんという、炭屋に奉公して働いていましたが、同郷の同じ年ごろの友人が、休みの日に遊びにきて話すのを聞くと、こっちが十五円の月給なのに、向こうは四十円ももらっているのです。それに仕事も楽で、働く時間も短いことを聞くと、正直な話、「割に合わんなあ」と感じたこともありました。それでも、職場を変えようかといった考えなどは起こさず、相変わらず一心に働いていましたので、主人には、とても大事にされました。  (昭和50年02月【躍進】)  毎朝、暗いうちに起きて、家のふき掃除、仕事の段どりをやり、店の仕事がひまなときは、行商に出るというわけで、休みなしに働いた。  (昭和47年11月【佼成新聞】)  店の商売が炭屋であったときは炭屋になり切り、漬物屋に変わると漬物屋になり切って、主人の気持ちのなかに飛び込んで一生懸命に働きました。毎日毎日、朝は早く起き、夜は遅くまで、黙々と働きつづけたのです。また、奉公先の主人が人一倍の働き者で、あんまり働くものだから、何人若い衆がきてもあきれて出ていってしまって、ものの二年と勤まる従業員がいない。そういう主人の店に、私は奉公したのです。  ところが、人にいわせると、東京というところは忙しくて骨が折れるというのですが、私はそうは思わない。ですから、夜遅くまで仕事をつづけて、主人が、「もうやめようじゃないか」といっても、「まあ、もう少しやりましょう」ということで、働いたのです。同じことをしていても、こんなに遅くまで働かせるとは何ごとだ、というような不平の気持ちでいると、主人のほうも喜んではくれません。  しかし、夜の九時ごろになって主人が、「きょうはもうやめようじゃないか」といい出しても、こちらが「いや、もう少しがんばりましょう」というと、主人はたいへんに喜んでくれるのです。馬力をかけてもう一仕事しようとするときの時間は、せいぜい三十分間くらいのものです。そのわずかな時間を延ばして、働くだけのことですが、主人は、こんないい若い衆はまたとないといって、たいへんかわいがってくれました。  (昭和41年08月【速記録】) 奉公とは世間に仕えること 二  一休禅師は“耕さずして自分はごはんをいただいている。織らずして自分は着物を着ている。いったい私はもらいすぎている。これをどうして償ったらいいのか。それを思うと、いっときもじっとしてはいられない”という心境を語っておられます。このような気持ちをみんながもったときに、感謝と思いやりの心で、お互いに“ありがとう、ご苦労さま”という言葉を口にすることができるのではないでしょうか。おのれのごとくに他人を思う心が、仏教でいうところの慈悲心であり、真の友情ということでもあります。そうした気持ちでハタラク、つまりハタ(傍)がラク(楽)になるように働くのが、働く者の真の心意気でなければなりません。自分を深くみつめ、もちつもたれつの中にある自覚から生まれる人間尊重を、私が提唱するゆえんであります。  (昭和45年08月【佼成新聞】)  奉公先の主人が、炭屋から漬物屋に商売がえしますと、若い衆はみんな出ていってしまいました。店の商売が変わったのですから、それもあたりまえのことなのですが、主人は私に向かって、おまえだけは一生おれについてこい、といって私を離そうとしなかったのです。そういう状態でしたから、私のほうにも主人に使われているといった考えはなく、ご近所の人たちも、私を店の主人の弟だろう、と見ていたようです。私が通ってきた道は、そのように楽しい道でした。  (昭和45年11月【速記録】) 奉公とは世間に仕えること 三  現代のサラリーマンには、いろいろな悩みや、むずかしい問題があるようにいわれています。それを大きく分けますと、 一、サラリーマンは、けっきょくは他人に使われる身で、いくら働いても経営者がもうかるばかりだと思う意識があるから、全身全霊をあげて仕事にうちこめない。 二、いくらけんめいに働いても、昇給には一定の順序があり、また限度がある。だから、いつまでたっても、暮らしは楽にならない。 三、仕事がだんだん細分化され、ただ機械的に一定の仕事をする人が多くなる。したがって、これが人間らしい働きなのかという疑いや、悩みが起こってくる。 四、そのために、「月給の額だけ働けばいいのだ」という考えを起こし、積極的な、創造的な働きをしなくなり、もっぱら家庭生活やレジャーの遊びに人生の楽しみを求めるようになる。  ざっと、こんなものだと思います。もしこういう状態がこのまま強まり高まっていけば、個人個人の人間らしい生きかたという点からも、人類全体の進歩・向上という点からも、ひじょうにおもしろくない結果となることは、目に見えています。なんといっても、ゆゆしい問題です。  ところが、多くの人びとは、「社会と産業の構造がそうなってきたのだから、どうにもしかたのないことだ」と、半ばあきらめたかたちです。  しかし、あきらめてはいけません。人間らしい生き方から退歩することを、やむを得ないとしてあきらめるなんて、自分自身にたいする大きな侮辱ではありませんか。  さて、さきにあげて四つの問題について、一つ一つ考えてみましょう。  第一の問題ですが、これについては、私の体験談を味読してくだだれば、それで充分でしょう。個人会社の使用人であろうとも、社長や重役に使われているのではないのです。根底においては、公に奉仕しているのです。心のもち方をそのように一転させれば、おのずから劣等感などはケシ飛んでしまうでしょう。  第二の問題。これは、使用者側もよくよく考えてもらいたいことです。〈自他一体〉の真理にめざめるべきは、使用者側とても同様です。働く人の生活を親身に考え、豊かな、人間らしい暮らしができるように努力してほしいものです。使用者側に貪欲があれば、労働者のほうも自然とその貪欲にたちむかうようになるわけです。  労使双方とも、大きくみれば公に奉仕している一体の立場にあるのですから、労働者はいい働きをしてりっぱな品をつくり、使用者はそのような働きが充分できるような態勢をつくっていくのが当然です。そして、こうなれば、労使の対立もなくなるはずです。けっして、階級の対立と闘争を根底とする〈修羅〉の理念にまどわされてはならないのです。  第三の問題。いくら機械的な仕事でも、人間がそれをやるのは、機械ができないからやるのだということを、思い出していただきたい。私も、炭を一定の長さに切る機械的な仕事を何時間も、そして、くる日もくる日もつづけた経験がありますが、けっしてそれが苦になりませんでした。要は心のもち方です。「つまらないな」と考えはじめたら、心はとめどもなくその方向へ傾斜していくものです。その考えを、クルリと転回させれば、それでいいのです。  宇宙的な視野で自分の仕事と他の仕事のちがいを眺めてみるのも、一つの方法です。たとえば、金星なり火星なりから地球をながめる気持ちになってごらんなさい。ケシ粒ほどの地球の上で、ある日は毎日変化のある仕事をし、ある人は機械的な仕事をしている……それらの価値にどれほどの差異がありましょうか。あまりにも近視眼的に見るから、大きな差異が感じられるのです。  人のためになり、世の中のためになる仕事なら、ひとしく価値あることではありませんか。とすれば、たとえ機械的な仕事でも無失策・無事故で、より完全になしとげていくことが、りっぱな価値の創造にほかならないではありませんか。やはり、この問題も、心のもち方一つで解決されるものなのです。いや、それよりほかに方法はないのです。  第四の問題。「月給に見合うだけ働けばよい」……これは、あまりにも自分自身をいやしめた考え方です。人間はなんのために生きるのか、人類はどうして進歩していくのか、という大きな視野に立って考えれば、こんなつまらぬ態度はとれないはずです。つねに価値ある仕事をなし、それによってお互いが他に利益をあたえあっていくのが、人間の正しい生き方であり、そういう働きの繰り返しのなかにも、つねによりよい創造を求めて前進していくところに、人類の進歩があるのです。  (昭和42年04月【佼成】) 奉公とは世間に仕えること 四  最近多くのサラリーマン階級のあいだに、自分の仕事や生きかたにたいする漠然とした懐疑や虚無感がはびこり、そのために仕事と生命感が肉ばなれ現象を起こし、生活意識がバラバラに分解するという病変が見受けられるようになった。(中略) その病気を治し、あるいは予防するする根本的な心がまえをのべてみることにしましょう。  まず第一にいいたいことは、そういった仕事と生命感の肉ばなれ現象は、ほんのちょっとした心のもち方から起こるのだということです。  人間の感情というものは、じつにたわいもない動きをするもので、あるきっかけから、ある感情が起こると、まるで坂道に石をころがすように、一方的にズンズン傾斜していくものなのです。私の知人の奥さんにこういう例があります。その奥さんは相撲好きですが、ある力士がよく待ったをすることから、「憎らしい」と感じるようになり、それがだんだんつのってきて、ついに大きらいになってしまったのです。ところが、その力士が結婚して、たまたま、その奥さんのごく親しい友だちと隣り合わせに新居をかまえ、「気さくな人よ」などとうわさを聞くようになりますと、たちまちその悪感情が消えうせ、待ったをしても腹が立たなくなり、しまいには、たいへんヒイキ力士になってしまったというのです。  このようにたわいもなく、かつ不合理なのが、感情というものの特徴です。ですから、仕事にたいする好ききらい・疎外感・虚無感じといったようなものも、理屈ではどうにもならないのです。その代わり、チョット心のもち方さえ変えれば、百八十度の転回をとげることも容易にできるわけです。  では、どうしたら、そのような心の転回ができるのか。どうしたら、フト心のもちかたを変えるキッカケがつかめるのか。──宗教こそ、信仰こそ、そうした力をもっているのです。  とくに、法華経の教えを学べば、どうしても心の大転回をせざるを得なくなります。なぜならば、法華経は〈自他一体〉の教えであり、〈奉仕・献身〉の教えであるからです。  われわれ人間のすべては、久遠の本仏、すなわち、宇宙の大いなるいのちに生かされている同根の兄弟姉妹です。見えないところで完全につながっている一体の存在です。それでいて、現実へのあらわれは、千差万別の才能と技量と頭脳と性格をもった、個々別々の人間です。そして、それらの個々別々の人間のそれぞれのはたらきが、大きなところで微妙な秩序と調和をつくりあげているのがこの世界なのです。  この平等・差別ふたとおりの人間の実相を、しっかりと見すえることができたら、そこから人間の正しい生き方、人間関係の正しいあり方が、おのずから浮かび上がってくるはずです。  それは、なによりもまず自分の存在の尊厳さを自覚することです。宇宙のいのちと一体の、永遠不滅の大いなるいのちである自分自身を、しっかりとつかむことです。そうすれば、自分にたいする劣等感とか、卑小感などは、あとかたもなくフッ飛んでしまうはずです。  と同時に、差別的存在である現実の自分の立っている位置が、ぬきさしならぬ重要なものであることを、ハッキリ自覚することです。すなわち、──自分の現在の仕事は、一見とるに足らぬもののようではあるが、それは世界という大きな秩序と調和の一環をなしていることにまちがいはない。たとえ、微小なひとつの心棒でも、時計全体のなかで重要な位置を占めているのと同様に、自分の存在も全世界にとってあるべくしてある存在なのだ──という悟りがひらけてくるはずです。  そういう自覚、そういう悟りが、クルリと心を転回させるのです。そこで、どんな仕事にもやりがいを感ずるようになり、毎日をすばらしい充実感のうちに送りうるようになるのです。  それゆえ、われわれは自分自身のためにはもちろん、日本人全体の心の切り替えの機会をつくるためにも、法華経の教えの広宣流布にはげまなければならないのです。  法華経宣布の努力とともに、立正佼成会の会員は、職場の実際のはたらきにおいても、その信仰のすばらしさを身をもって顕現してほしいものです。その目標として、私は、すべての会員に〈職場の第一人者たれ〉と要望したいのです。  といえば、たいへんムリな要望をしているように感じられるかも知れません。しかし、けっしてムリではないのです。第一人者とは、必ずしも総合的な意味の第一人者とはかぎりません。なんらかの意味で第一人者であればいいのです。「商品知識ならあの人が第一だ」「計算をさせたらあの子が第一だ」「手紙を書かせたら……」、「問屋との交渉をさせたら……」などという技量的なことでもよし、「まじめなことならあの男が随一だ」、「親切という点ではあの子の上に出るものはない」といった性行のうえのことでもよい、とにかく、なんらかの点で第一になることです。  およそ、この世界というものは、すべての人間のはたらきと奉仕とが網の目のように交流し、つながりあってできているのです。たんに〈はたらき〉だけでなく、〈奉仕〉が交流しあっているところに、この世のおもしろみ、温かさ、いうにいわれぬ味わいというものがあるのです。  その奉仕とはいったいなんであるかといえば、つまり、あなたの〈水準以上の部分〉を世のためにささげることにほかなりません。そこで、もしあなたが人なみ以上に計算がじょうずなら、その人なみを抜けた部分、あなたが水準以上に弁舌がたくみならその水準以上の部分、あなたが人の二倍親切ものなら、その一倍の部分が、知らず知らずのうちに世のために奉仕されているのです。なにも特別な奉仕だけが奉仕ではないのです。  すべての人間は、必ずこうした〈水準以上の部分〉を、なんらかの面にもっているものです。もっていない人は、まだ開発していないだけのことで、必ず内蔵はしているはずです。それを充分に発揮して、どのような面でもいいから世のために奉仕すること、それが人間の生きる価値でもあるし、生きがいでもあるのです。私が、〈職場の第一人者たれ〉と叫ぶ意味はここにあるのです。  三百万の会員のみなさんが、それぞれの職場において第一人者となり、身をもって信仰の徳を示すことができたならば、それにも増した広宣流布はありますまい。  それ以上の法華経実戦もありますまい。どうか、きょうただいまから、そのような新しい決意をもって、はつらつたる再出発をされんことを、心からお願いするしだいです。  (昭和42年07月【躍進】) 奉公とは世間に仕えること 五  私は、〈サラリーマン〉という言葉があまり好きではありません。それよりも、〈勤め人〉のほうが、ずっとはたらきびとの本質に近い呼び名ですし、〈奉公人〉となると、まったくその本質にピッタリした名まえだと思うのです。(中略) 奉公人としては、主人が儲かり、店が繁昌することが楽しみだったのです。理屈っぽい人は、「主人に搾取されていることを知らないで、憐れなことだ」などと論評するでしょうが、私は、そんなこ理屈をいう人のほうが、ずっと哀れだと思います。  主人のためを思う、主人がもうかることに喜びを感ずる……これは宇宙の真理である、〈自他一体〉にピッタリ合った心情です。(中略)もちろん、そのころは仏法などというものは知りませんでした。知らないのに、ひとりでにそういう心情をもちえたということは、それが人間の自然であり、真理の道であるということの証拠ではないでしょうか。 (昭和42年04月【佼成】)  主人が漬物屋に転業してから、お客さまに喜んでもらえる漬物を漬ける……それが大きな楽しみになりました。手打ちうどんもつくっていましたが食塩の加え具合によって、腰の強い、煮くずれのしないうどんができます。お客さまが、「あんたんとこのうどんは、シコシコしておいしいよ」といってくださると、なんともいえない喜びをおぼえました。  奉公というのは、じつは主人につかえるのではなかったのです。公、すなわち世間に奉仕することだったのです。世間の人びとに、よい品物を提供して、その生活に寄与し、喜んでもらうことだったのです。 (昭和42年04月【佼成】) 奉公とは世間に仕えること 六  菩薩行の根本生死は何かといえば、「自他一体」ということです。あの人がかわいそうだから救ってやろう──というのは、まだ菩薩行の入り口であって、人の苦しみを見れば、ひとりでに救いの手をさしのべずにはいられなくなるのが、ほんとうの菩薩心です。  赤ちゃんがお乳をほしがって泣く。おかあさんがそれを抱き上げておっぱいをふくませる。そのときのおかあさんの心というものは、「かわいそうだから」という気持ちなどからは超越したものです。赤ちゃんんのおなかの空いたのが、まるで自分のおなかが空いたように切実にわかる。そこで、なんの図らい心もなく、抱き上げる。お乳をふくませる。赤んぼうは無心にお乳を吸う。おかあさんも無心にそれを見守る。おかあさんと赤ちゃんとは完全に一体なのです。そこに紙一重の他人行儀もない。「してやる」という気持ちもない。──これが菩薩心の純粋な相です。 (昭和36年08月【新しい解釈】)...

25 ...海軍での体験(1) 一  私は明治三十九年生まれで、大正十五年に徴兵検査を受けました。当時は軍縮の絶頂の時代でした。私どもの田舎の若者は、みんな強健な体格でしたが、そのとき百三十人検査を受けて、合格したのは、たった十一人です。しかも、海軍は私ひとりでした。ですから、当時の日本の軍隊は、ほんとうにりっぱな体格をもって、忍耐力も強く、精神もできている人間を選りすぐって鍛えることができたのです。それで軍隊の規律は一糸乱れず、“お国のためには、いつでも生命を捨てる”という精神がみなぎっていました。  (昭和45年01月【佼成】)  海軍(海兵団)にはいって一週間目に級長を命ぜられました。(中略)分隊の中で尋常小学校卒業生は私のほかにもうひとりいるだけで、あとは全部高等小学校か中学校を出ているのです。それなのに、どうしたわけか、私が級長に任命されたのです。そのとき私は、ダメですと断わりました。上官に言葉を返すなんて、昔の軍隊ではたいへんなことでした。罪の中で一番重いものの一つでした。幸い分隊長の友成大尉というかたが温厚で腹の大きいかただったので、よく私の気持ちを聞いてくださり、罰などは受けずにすんだのですが、しかし、級長をつとめることは絶対に動かされませんでした。 (昭和50年05月【躍進】) 海軍での体験(1) 二  私が海兵団(海軍下士官と新兵の教育訓練に当たった所)に入ったとき、海軍二等兵曹で教班長であった菊池耕作さんが、この間の勧請式でお曼茶羅を頂戴しました。茨城県日立支部代表の菊池さんにお曼茶羅をお渡しするとき、お互いに顔を見合わせて、にっこり笑いました。  海軍時代の私は、その菊池さんから教班の級長にされてしまったものですから、一生懸命に勉強する合間にも、十五人の班員みんなのために出納をつけることもやりました。ですから、私としては、だれが夕飯後にサツマイモを買って食べたか、というようなことまで、全部書いておかなくてはならないわけです。  その当時、サツマイモ一袋五銭、クラッカーも五銭。みんな一袋五銭ずつです。海兵団では食事のほかは、それだけしか食べさせなかったものでした。ほかには、タバコやはがき、歯磨粉、用せんなどを買いました。だれが何を食べて、いくら使ったかを計算して、給料から差し引くわけですが、どうかすると帳尻が合わないこともあるのです。そんなとき、「三銭や五銭違っていたっていいじゃないか。足りない分は、自分で出しておけばいい」などと思っても、そうはいきません。銀行のように、一銭でもきちんと計算が合わないといけないのです。  そういう点、軍隊というところは、なかなかきびしいところがありました。そうなりますと、帳尻をきちんと合わせるためには、どうしてもそのつど、メモしておくほかなかったのです。級長は、そういう厄介なことをみんな引き受けてやるうえに、何かあって号令がきたときには、飛んでいって受けてきて、十五人の人たちに、いろいろ命令もしなければいけないわけです。それは人の倍も苦労がいる役目ですが、私はそういう役を仰せつかって、一生懸命にやったものです。  海兵団では、船に乗っても困らないように、と艦砲までを含めて運用や操法のすべてを教えるので、その方面の勉強もするうえ、かたわら、級長の役目を果たさなければならなかったわけです。そのときは、めんどうなことをうけたまわったものだと思っていましたが、そうやって日記をつけるようなお役をさせてもらったことが、よくよく最後になってみると、非常にありがたいことだったとわかりました。  一銭の違いさえ許さない、当時の軍隊生活の厳格さが身について、その後、商売を始めるようになってからも、帳簿はいつでもきちんとしておいたものです。  牛乳屋を始めてから、若い衆が集金をしてきて、少しごまかそうということで、ちょっとおかしな伝票を書いたりしてあっても、帳簿をさっと見るだけで、私にはどこがどう間違っているか、どこをごまかそうとしたかが、すぐにわかってしまったものです。これは、もう不思議なくらいでした。若い衆が帳簿のどこをうまく塩梅しようとしてもすぐわかる……それも海兵団時代に、いくらかでも自分で帳簿をやったときの経験が、頭の中でひらめくからなのです。  そう考えますと、人間、努力したことでむだになるようなものは、一つもなく、後日必ず活きてくるものです。  (昭和42年03月【速記録】) 海軍での体験(1) 三  船の生活は、陸上で暮らすよりも具合がいいものです。慣れてしまうと、あんなにすばらしいところはありません。私が海軍へ行ったのは、もう四十年も前のことでしたが、そのころでも海上生活から陸上にもどってくると、ごみが混じっているように思える空気のまずさを感じたものでした。  船には出航時間があります。タクシーやバスなら一台やり過ごしても、すぐあとからきます。しかし、船の場合はそうはいきません。そこで、いよいよ出航するときには、乗る人たちが陸上から引き揚げてくる時間を指定されるわけです。立正佼成会が創立以来、いつも使いつづけてきた異体同心という言葉が、ここでも大事になります。それぞれのからだは違っていても、心が一つになっておりますと、そうしたときにも、言わず語らずのうちに、だれがいるかいないかに注意が行き届いて間違いが起こりません。ところが、この異体同心の心が欠けると、だれかを残したまま出航してしまったというような問題が起こって、たいへんなことになってしまいます。船に全員が揃う時間は、つねに正確でなければならないのです。  私は、海軍で生活した三年間、どのような場合でも、決められた時間の五分前に、指定の場所に必ず集まるように教育されました。  (昭和48年07月【速記録】) 海軍での体験(1) 四  海兵団で戦艦〈長門〉の乗り組みを命じられたとき、私は、どうも分隊長に向かって、あまりいい顔をしなかったようであります。戦艦には千五百人くらいの兵隊が乗っておりますが、ちょうどそのころは、新型の巡洋戦艦がつくられるようになった時代でした。かたちもスマートだし、甲板もリノリウム貼りなので、それまでの木の甲板と違って、たわしで洗わなくても、ぞうきんがけするだけですむ。先輩に聞いてみますと、冬など足が甲板に貼りついてしまうほど、寒いところへ行くことがあって、そんなときははだしで海水を使って甲板洗いがたいへんだという。だから、靴をはいたままでも掃除のできる、新型の船に乗ったほうがいいといった、ずるい考え方が、みんなの話題になっておりましたし、また、そういう新しい船がどんどんできている時代でしたので、だれもがそういう船への乗り組みを希望しておりました。私も、それを聞いて、巡洋戦艦に乗りたいような気持ちでおりましたので、戦艦乗り組みを命じられたとき、いい顔をしなかったのでしょう。  すると分隊長が、私をわざわざ自分の部屋に呼んで、「おまえは〈長門〉に乗ることに、不満をもっておるようだな」といいました。私も、はらの中でその巡洋戦艦に乗ってみたいものだと考えておりましたので、「そうでございます」と、正直に答えましたところ、分隊長から「ばか者!」とおどかされたのです。分隊長は「〈長門〉に乗るのは、千五百人の大家族で航海することであって、兵隊は三交代だから、航海中は三分の一ずつ寝ることができる。ところが、巡洋戦艦のような小さい船では乗組員が少ないので、三交代にでもすると、起きている人間だけでは、とても船が動かない。そのために、航海に出ると総員が楽々寝ていられない。半数の人が起きていないと、充分に船を動かすことができないのである。それだから、自分はおまえの勤務ぶりをみて、ひいき分で〈長門〉に乗せてやろうと思ったのだ。それなのに満足しないとは何ごとだ」といって叱られたのでございます。  しかし、そのように聞いても、私には何がなんだかわからずに、〈長門〉に乗り組んだわけです。すると、なるほど当時、〈陸奥〉と並んで〈長門〉は、日本海軍では一番いい船だけあって、生活も想像していたより楽でした。しかし、もしほかの船に行ってみなければ、分隊長のいわれた言葉の意味もほんとうにはわからなかったと思うのですが、その後、満期除隊になる年に、ご大礼を祝う観艦式という非常に盛大なお祭りが、横浜港で行なわれることになりました。  そのときのお召艦に巡洋戦艦〈榛名〉がえらばれ、〈長門〉は予備艦になりました。そして、観艦式に先立って、予備艦の〈長門〉から、最も優秀で健康は者十五名をえらんで、よこしてくれという注文があり、私もそのひとりとして、〈榛名〉に移ったのです。  さて〈榛名〉に行ってみますと、新しくりっぱに改造され、乗組員の数も、〈長門〉より二百名ぐらい少ないだけでしたが、実際に生活してみますと〈長門〉と、〈榛名〉の生活には雲泥の差があり、なるほど、これは分隊長がいった通りだと思いました。大家族の船は楽だけれども、小家族の船で航海に出るのは、なかなか辛いものだということを、身をもて味わったのです。  (昭和42年09月【速記録】) 海軍での体験(1) 五  その当時、高松宮殿下が中尉として〈榛名〉に乗り組んでおられた。第八分隊の分隊士であられた。その分隊に、私と同期で柔道仲間の安部四郎君がいた。その安部君から、私のことをお聞き及びになっておられたらしく、また、第八分隊と私の分隊とは艦の受け持ちの部署が同じだった関係もあって、殿下から、しばしばお声をかけられたり、教えていただいたりした。質問を受けることも毎度であった。ご結婚のうわさがチラホラ聞こえ始めていたころで、さっそうたる青年士官であられた。  それから三十幾星霜をへた昭和二十八年九月八日、高松宮殿下は社会事業ご視察のため、杉並区へおいでになり、佼成育児園へもお立ち寄りになられた。会の保育事業の報告をお聞きになったあと、行学園二階の会議室で、ご休憩中に私もお目にかかることができた。私が〈榛名〉時代のことを申し上げると、 「そう、そう、庭野一等水兵……あの庭野一水が……」  と、奇遇に驚かれ、非常に懐かしげに、いろいろ思い出話をしてくださった。当時、艦中の下士官・水兵は、宮殿下というので、あまりにも鞠躬如としていたのに対し、私は、むろん上官としての礼は尽くしながらも、なんでもざっくばらんにお話し申し上げていたので、それがかえってご印象に残っていたもののようであった。  (昭和51年08月【自伝】)  大第観艦式当日は、まだお若かった今上陛下がお元気に、〈榛名〉に座乗遊ばされた。ほうはいとしてわき起こる軍艦マーチ、いんいんと轟く皇礼砲の中を、〈榛名〉は粛々と滑っていった。二百数十の大艦・小艇ことごとく満艦飾、全員登舷礼をもって奉迎・奉送した。  お召艦乗り組みのわれわれとしても、一世一代の感激であった。あのような光景は、むろん、この日本に再現することはあるまい。〈軍国〉とか〈戦争〉とかいう観念とはなんとなく別物の、一つの美しく荘重なページェント(野外劇)として、いつまでも眼底に残る思い出である。  (昭和51年08月【自伝】)  大観艦式が終わると間もなく、年が明けて昭和四年になった。その年は、日本を一周する近洋航海にも就き、艦隊訓練にも参加し、遠く南支那海方面の沿岸警備の任務にも服した。そして、十一月三十日の満期除隊を迎えた。  海も、艦も好きだったし、一度は遠洋航海にも出てみたかったのだが、さればといって、一生を海軍で送るほどの気持ちもなかったので、あっさりと陸上生活へかえった。  (昭和51年08月【自伝】) 海軍での体験(1) 六  私も戦前の海軍生活を経験しましたので、海軍と聞くと、非常に懐かしみを感じます。入ったからには、まじめに与えられた義務を果たさなければならないと、一生懸命に努力したものですから、上官にもかわいがられました。若かった私にとっては、軍隊生活は修行の場でもありました。ですから、悪い印象はもっていないのです。また、そのころは戦時中とは違って、外側からは、階級による縦糸で貫かれているように見える軍隊のなかにも、兵士たちをつなぐ、横糸がかよっていたものです。  (昭和52年03月【佼成】)...

26 ...海軍での体験(2) 一  幸いなことに海軍に行きましたら、手箱の中に勉強用具が入っていて、夕食のあと毎日、勉強があるのです。まわりの人たちは、中学校や高等学校出の人たちですし、当時の海軍兵学校出の少尉さんともなると、ものすごくできる人ばかりで、数学など何をきいても教えてくれたものです。そういう人が周囲にいるものですから、一生懸命に勉強しました。  そうやって軍隊で三年間、勉強させてもらったおかげで、“おれもいけるぞ”という自信をもつことができました。  同じスタートでやらせてもらえたら、だれにも負けないでいける、という自信をもつことができたので、兵隊から帰ったあと、東京で商売を始めたのです。そして、だれにも後れをとらずに今日までやってきました。後れをとらないというと、ちょっと増上慢になりますが、三年間の軍隊教育が、私の人生にそれほど大きな役割を果たしたのです。  それ以前の私は、軍隊に三年もとられたら、かなわないと思っていたものでした。それでいて一面では、甲種合格になりたいなあ、と願ってもいるのですから、人間というものは、じつにとるに足らない考えをもつものです。兵隊にとられたら三年間がむだになると思いながら、甲種合格にはなりたいというのですから、まことに都合のいい考えです。それを思いますと、信仰をもたない間の私は、じつにつまらない考えをもっていたものだと思うのです。  とにかく、そういったあやふやな考えで兵隊に行ったのですが、入ってみると、軍隊ほどいいところはないわけです。毎日、三度三度、温かいごはんを食べさせてくれるだけでもありがたい。田舎にいたころの生活は、それはもうたいへんで、自分で米をつくっていながら、毎日、その米を食べることができなかったのです。お米にいろいろなものを混ぜて食べるのがふつうでしたし、また小さいころからそういう生活を辛抱させられてきました。  ところが、軍隊では、麦は混じってはいるけれども、温かいごはんを毎日食べることができる。たまには、パン食もあり、そんなときはなんと幸せだろうと思ったものです。それに勉強時間が一日に三時間ほどあって、やろうと思えばなんだってできるわけです。人間は、自分が置かれた条件をむだにせず、生かしていくことが肝要だと思います。  (昭和52年08月【求道】) 海軍での体験(2) 二  私が海兵団に入ったばかりのとき、一教班から四教班まであって、私は三教班の級長でしたが、便所の掃除当番がまわってきました。小便所はよく学校にあるような石造りの長いもので、その石に小便のカスがついて茶色になっています。  まえから汚ならしいと思っていましたので、私が先に立ってハダシでその中にはいり、ブラシでゴシゴシと擦り、それこそ徹底的に洗いました。すると、見ちがえるようにきれいになりました。  副官が見回りにきて、「これはどうしたんだ」「洗ったのであります」「色がちがうじゃないか」「これがほんとうの石の色であります」というわけで、副官は非常に喜ばれ、「今後一年間、三教班は便所掃除免除」という命令を出されました。  鶴の一声、その後はずっと一教班・二教班・四教班という順序でやり、三教班のわれわれは他班の人びとを気の毒に思いながらも、高見の見物をきめこんだわけでした。  これは、あまりにもテキメンに現われた功徳でしたが、徹底的にやることには、必ず陰に陽にこのような功徳があるのです。なによりもまず、自分自身におぼえる満足感です。「思い切りやった、ベストを尽くした」という自信があれば、なんともいえない充実感をおぼえます。  その充実感が味わいたさに、その次に同じことをやるときも、ほかのことをやるときも、ベストを尽くして徹底的にやるようになります。  そうなりますと、仕事をしたり、修行をしたりすること自体に、すばらしい生きがいを感ずるようになるのです。これほどの大功徳がほかにありましょうか。  実行の菩薩である普賢菩薩は、象に乗っておられます。それには、「実行は徹底的に」という教えがこめられているのです。象が川を渡るときは、その足はしっかりと川底を踏みしめて歩きます。まことに堅実で、危なげがありません。それが、底に徹する……すなわち、徹底ということの象徴にほかならないのです。  (昭和44年08月【佼成】)  私は、若いときから今日まで、寝るときは着物をキチンとたたんで寝、起きたら自分の布団をたたむのを習慣にしています。海外旅行をしても、夜、ホテルに帰ると、必ず靴下とパンツを自分で洗濯します。  ところが、たまたま長男の日鑛と一緒に旅行した人が、「日鑛先生は、着ておられたものを、すべてキチンとたたんで枕元に置いて休まれる。感心しました」と話してくれました。自慢するわけではありませんが、これは親の感化なのです。「そうせよ」と、いっぺんも教えたことはありません。  では、私はどうしてそんな習慣を身につけたかといいますと、若いとき海軍で三年間、そんな生活をさせられたからです。朝、「総員起こし」の号令が下ってから、身じたくをして、歯をみがき、顔を洗って整列するまで、十分くらいしか時間がありません。薄暗い中で、衣嚢の中から必要な衣服をサッと取り出すには、入れるときにキチンとしておかなければどうにもならないのです。  また、いつも清潔な下着を着ていないと、激しい作業や運動をするからだは、たちまち不潔になって、それが病気の原因になりかねません。そこで、洗濯は怠けられないのです。靴下など、きれいに洗ったものを穿いていないと、すぐ行軍のとき足が疲れ、マメができてしまうのです。  このように、若いときの海軍生活が、私の一生にどれだけ役に立ったか、計り知れないものがあります。その点、私は軍隊生活に心から感謝しています。昔の軍隊には、いろいろな悪が存在していましたけれども、ただ一つ、生活を規律づけ、苦に堪える修練を理屈抜きに体験させてもらえたことは、実にありがたいことでした。  (昭和54年01月【躍進】) 海軍での体験(2) 三  三年間の軍隊生活のうち、最初の一年間というものは、一日千秋の想いとはこのことかなあ、と思われるほど除隊の日が待ち遠しく、ことに入隊したばかりの一週間ほどは、一日が長く感じたものでありました。ところが、二年、三年と生活をつづけていると、だんだん馴れてきて、さほど苦にはならなくなってきます。そして、いよいよ帰る時分になると、ほとんど、とらわれない心になってしまうのです。  石橋先生の回想記(註・『湛山回想記』)を読みながら、そのころを振り返ってみました。なにかといえば横ビンタされる軍隊生活というものは、非常に人道的でないように思えますが、だからといって、国民の三大義務の一つとされていた徴兵にとられたからには、家に逃げて帰るわけにはいきません。いやならば帰ってもいい奉公とは違うのです。その軍隊では長上の命ずることには、そのいかんを問わず服従して、命をも捨ててかかれということで、あの強いむちを打つのであります。横ビンタをはられて大の男が人知れず床について、男泣きに泣くことはあっても、まさか人まえでは泣いてはいられません。石橋先生も回想記の中で、人生の中での一年間か二年間の尊い修行が、今日の自分をあらしめたと書いておられましたが、その通りで、修行というものは、決してなまやさしいものではありません。  (昭和32年01月【速記録】)  自慢するわけではないですが、私は非暴力ということには徹しているつもりです。もっとも、血気盛んな青年時代には、向こうからしかけらたケンカに、つい引き込まれて相手を路上に投げつけたことが一回、海軍のとき、仲間と柔道の道場破りに行って乱暴したことが一回ありました。この二回だけが、私の恥ずかしい暴力の歴史です。  それ以後は、肉体的暴力はもちろん言論の暴力すら用いたことはありません。いわゆる、精神棒の体罰が日常茶飯事とされていた往時の海軍生活においてすら、三年間一度として部下をなぐったことはありませんでした。新兵教育を命ぜられたときも、受持ちの二十三人の中には、ずいぶん覚えの悪い、間の抜けた男もいましたが、しかし、忍耐強く教え、言い聞かせることにつとめて、ピンタ一つやりませんでした。その代わり、たまたま、ある新兵の小さな失敗を見つけた甲板士官から、「庭野が気合(体罰の意)を入れないから、あんな間抜けた野郎ができるんだ」と言って、私が猛烈なビンタを食ったことがあります。しかし私は、なぐらないことに、ひそかな誇りをもっていましたから、二十三人の代わりになぐられるのだと思って、それを甘受しました  私は、これからの人類の進むべき方向の中で最も大事なのは非暴力ということだと信じています。青年はつねに理想主義的であり、現状に不満を感じ、なんらかのかたちでそれを変革しようとする意欲をもつものです。それが青年の青年たる特質だといってもいいのですが、これまでの歴史をふり返ってみますと、そういう変革の意欲は、しばしば暴力というかたちをとって表現されてきました。とくに政治体制の変革の場合は、ほとんどがそうでした。しかし、従来がそうだったからといって、今後も同じことが許容されると考えてはなりません。それでは、人間としての進歩が少しもないことになります。  従来は、ギリギリの限界状況においても、力に訴えることをしないような若者は、文弱とか、腰抜けとかいう言葉でさげすまれてきました。このような考え方は、もう、このへんで改めなければなりません。忍びがたきを忍び、どこまでも真理をもって戦う者が最高の勇者であることを、ここいらでしっかりと認識しなければなりません。価値観の転換です。一言にしていえば、お釈迦さまのような生き方こそ、これからの人類の志向すべきものなのです。 (昭和46年02月【躍進】) 海軍での体験(2) 四  艦上では、(中略)とくに水の浪費は絶対に許されませんでした。朝の洗面も、五合(一合=約〇・一八リットル)の水で歯を磨き、ウガイをし、顔を洗うのです。洗濯も、五升(ふつうの醤油びんの約五本分)の水ですべての衣類を洗うのです。海軍の服装は白地が圧倒的に多いのですが、それをよくもあんなに真っ白に仕上げたものだ、と今、思い出しても不思議なくらいです。やはり、やればやれるものなのです。  太平洋に浮かぶ日本丸という船においても、重要資材のほとんどが船の中では採れないわけですから、節約の上にも節約するのが当然ではありませんか。とりわけ、何十年か後には世界じゅうにも枯渇してしまう、といわれる石油をムダづかいするなどはもってのほかで、これほど愚かな所行はありません。石油といっても、重油・燈油・ガソリンの類ばかりではなく、ビニールも、プラスチックも人造ゴムも、たいていの合成繊維や合成洗剤も、みんな石油が原料となっているのです。こういった品々を、私どもはどう取扱っているでしょうか。安いから、便利だからといって、やたらに使い捨てにしてはいないでしょうか。  使い捨てにした場合、石油製品ほど厄介なものはありません。ビニールも、プラスチックも、土に埋めても分解せず、いわゆる、ゴミ公害の最大の癌となっています。DDTやBHCも石油からつくられるのですが、これらが土壌中にいつまでも残存し、草を通じて牛の乳にはいりこみ、川や海の水に混じてひろがり、どんな悪影響をおよぼしているかはご存じのとおりです。  (昭和48年06月【佼成】) 海軍での体験(2) 五  私は学校を出してもらえずに、徴兵にとられて軍隊に入ったのですが、この学林へ入ったみなさんとちょうど同じように、それまでいろいろな場で思い思いなことをしてきた人間が、一か所に集まったわけです。ところが昔の軍隊は、いやになったからといって、帰るわけにはいかない。学林の生活はきついかも知れませんが、いやになったら帰ることができます。しかし、軍隊の場合は、いやだからといって、もしも蹴とばして出てしまったら、監獄に連れていかれるようなことになって、生涯、人並みな顔して、世の中を歩けなかったのです。  逃げ出さないまでも、軍隊は窮屈なところだと思い込んでいる人にとっては、三年間の軍隊生活そのものが、懲役を受けているのと同じように感じられるものです。しかし、私な場合はそうではありません。それまで、勉強したいと思っても学校から帰ると、本を取り上げられて、家の仕事をさせられてきた私にとって、軍隊は日本一いいところだと思えました。貧乏人の子も、金持ちの子も、衣服から食事、起床、就寝、そのうえ、勉強に至るまで、すべて同じ条件でさせてくれるのです。  だから、私は、三年間の軍隊生活を、こんなにすばらしいところはない、と思って喜んで過ごしたわけです。そのおかげで、私は不思議なことに、三千人中一番で卒業することができました。  銃剣術をやっても柔道をやっても、人にひけをとることがなかったのです。柔道など、以前から習っている人も多く、中には四段ぐらいの人もいました。私は、柔道は軍隊に入って初めて習ったわけですが、卒業するときには、講道館の二段の検定を受け、合格しました。  銃剣術は、私の教班長をしていた菊池耕作という人が非常にじょうずで、三段ぐらいだったと思いますが、その人について毎日、教わりました。軍隊の教育では、互いの競争を非常に重んじます。私は練習を積み重ね、新兵ながら最後の決勝戦にまで出て、“自分も相当にいける”という自信をもてるようになりました。  私は、軍隊に行く前は東京に住んでいて、学校も出ていないし、新潟から出てきた田舎者だということで、非常に卑屈感をもっていたのですが、軍隊から帰ったあとは、それもなくなりました。“このおれも、同じ条件でやらせてもらえれば、人には負けないんだ”という自信をもてるようになったのです。ですから、もう、がぜん人間が変わってしまって、堂々と胸を張って人さまにぶつかっていこうという気持ちでやったので、商売もとんとん拍子でうまくいきました。  それを考えますと、行住坐臥、同じ条件で人と一緒に生活する境遇は、自分にとって、すばらしい発奮の時期だと思うのです。  (昭和50年03月【速記録】) 海軍での体験(2) 六  私の海軍時代の体験ですが、横隊に整列する場合、最右翼に立つ者を基準兵と言いましたが、この基準兵が正しく立っていないと、列がいつしか曲がってしまうのです。まず、基準兵が正しく立たなければならない。けれども、基準兵ひとりがキチンと立っただけで正しい列ができるかというと、ひとりだけでは全体の曲がりが見えないのです。二番目の者、三番目の者が並んではじめて、曲がりがわかります。こうして、三番目までが正しく並べば、あとは、自然と真っすぐになっていくのです。  なんでもない事柄のようですが、そこには味わい深い哲学がこもっていると私は思うのです。  すなわち、社会を正しくすることは、基準になる人間と二番目、三番目あたりの姿勢の正しさにかかっている……これを思うとき、佼成青年のみなさんは、ズンと胸にこたえるものをおぼえるに違いありません。そして、僧伽の存在の重大さを、あらためて認識させられるはずです。  現代の青少年に対しては、いろいろきびしい批判があります。事実、嘆息せざるを得ない現象も数々あります。しかし、私は青少年を信じています。その内側にあるもの、奥底にあるものを信じています。  どうか世のみなさんも、希望を呼び起こしてください。そして、温かい心で青少年たちを見守り、しかもきびしく鍛え上げることを忘れないでほしいものです。 「鬼手菩薩心」──これこそが、真の慈悲行の神髄なのであります。 (昭和54年01月【躍進】)...

27 ...行商での体験 一  海軍時代にも、長い休暇が与えられると、石原さんの漬物屋に手伝いに行った。  連合艦隊では、年末の組と正月の組に分けて十日間の半舷上陸(休暇)があった。みんなは正月に休みたがったけれども、私は漬物屋の忙しい暮れにもらうのがつねで、正月に割り当てられても、暮れに割り当てられた水兵と代わってやって喜ばれた。そして、十日間、石原さんの店で塩だらけになって働いた。 (昭和51年08月【自伝】)  除隊してからも、やはり石原さんの店で働いたわけなのですが、昭和の初めころのことで、大震災後、一時、景気がよかったのが急速に落ち込みつつあるという、ちょうど今(註・昭和50年頃)と似たような状況だったのです。勤め始めのころは一日に二十円ぐらい売り上げがあったのですが、だんだん減ってきて、しまいには八円ていどに落ちてしまいました。まだそこまでいかない、売り上げが十五、六円まで落ちたころに、このままではどうにもならなくなると思った私は、行商に出かけることにしました。  (昭和50年02月【躍進】) 行商での体験 二  最初、主人の後について売りに出たのですが、主人が呼び声を出すと、恥ずかしくて、大八車からはなれてかくれたいくらいの気持ちでした。でも三日もつづけましたら、どうやら呼び声の調子をじょうずに出せるようになりました。呼び声の調子を出すのに人一倍苦労した経験がります。  (昭和38年04月【佼成】)  小学校時代に校長先生が、口癖のように、「為せば成る 為せねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という歌を何十ぺんとなく聞かせてくださいました。それが頭に染みついていたのです。漬物屋をやっていたころ、重い車を引いて二十キロ余りも行商して歩くと、さすがにヘトヘトになります。そんなとき、自然とその歌が口に出てくるのです。「為せば成る 為せねば成らぬ……」、そう口ずさみ口ずさみしながら車を引くと、疲れがスーッと遠のいていくのでした。  (昭和51年09月【躍進】)  苦労したくないという気持ち、これが一番恐ろしいものだ、と私は思うのです。もともと、この世界は苦に満ちているのです。二十億年ほど前、この宇宙に生命というものが誕生して以来、高熱・酷寒・地震・暴風雨というような自然の脅威から、他の生物に襲われ、食われる恐怖まで、ありとあらゆる苦難に遭遇してきました。そして、その苦難に耐え、克服しえたものが生き残ったのです。  昔、ある人が絵師に、〈楽〉を絵に描いてくれと頼んだら、その絵師は、重い荷を背負って坂道を上ってきた人が、峠の茶屋で、その荷を降ろして一服している情景を描いたそうです。よく真実をとらえています。ほんとうの楽は、苦を克服した瞬間にこそあるのです。そして、このほんとうの楽を求めて、絶えず苦を克服していくところに、人間の成長があるのです。  そういう生命の成り立ちと進化の歴史を考えずに、苦労はいっさいしたくない、と逃げ回ってばかりいるならば、そんな人は、この苦難に満ちた世に強く生きていく人間にはなりえません。いつでもクラゲのような骨無しで一生を送らなければなりません。  (昭和51年06月【躍進】) 行商での体験 三  行商に出、(中略)それまで約三割のマージンがあったのを、一割五分にまで下げてお客さまにサービスすることにしました。ところが、主人は「そんなことをしてはいよいよ儲からなくなる」と心配するのです。 「まあ、任せておきなさい」といって、自分の考えどおりやってみますと、売れる、売れる、おもしろいほど売れるのです。それもそのはず、お客さまとしては、自宅の勝手口まで売りにきてくれて、しかも安いのですから、こんなうまい話はありません。  つまり、これが、「質」と「心」を本位として経営です。儲けの三割を一割五分にするのは大きな損失のようですが、売り上げが二倍になれば、それぐらいすぐ補填されます。つまり、「数」と「量」のほうもひとりでに解決されてしまうのです。そればかりでなく、資金の回転は早くなる、商品はいつも新鮮になる、問屋の信用は増す、そこで、ますますお客さまへのサービスができるようになる……というわけで、有形・無形の功徳が雪だるまにくっつく雪のようにドンドン付加してくるのです。  ところで、今にして思えば、それができたのは私が若かったからです。若くて頭がやわらかだったから、そのような経営の原理をズバリとつかむことができたのです。若くて決断力があったから、すぐさま実行に踏み切れたのです。若くて体力があったから、いろいろなサービスも思うぞんぶんやれたのです。このことは、世の中のすべてのことにも当てはまることなのです。  (昭和45年02月【躍進】)  ロシアの有名な文豪ゴーリキーの言葉に、こんなのがあります。 「世の中に若さほど尊いものはない。若さはすべてのことを可能にする」  じつにいい言葉です。すでに還暦をすぎた私でさえ、この言葉を心のなかに反芻するとき、何か、からだじゅうがうずいてくる気がします。ましてや、春秋に富む若い人たちは、きっと全身の血が燃えたつような思いがすることでしょう。もし、そのような反応のない人があったならば、その人はもはや若さの特権を失った、気の毒な人である、というべきでしょう。  そういえば、近年どうも、そういった若い人がふえつつあるような気がして、心配でなりません。親が敷いてくれた人生のレールの上を、安全運転で進んでいくことに満ち足りている人。金銭的にあるていどの余裕をもち、レジャーを楽しむことができれば、それで充分だとしている人。平穏無事な家庭をいとなみ、ひとりかふたりの子どもを無難に育てることを一生の願いとしている人……等々。たいへん平和的でけっこうなようですが、はたしてこれでいいのでしょうか。  若い人に、人生にたいするえたいのしれぬ不安と、その不安に対決していこうという勃々たる興奮がなかったら、いったい人間は向上していくものでしょうか。  (昭和42年07月【佼成】) 行商での体験 四  行商には、ほかでは味わえない楽しみがあった。それはたくさんの人びとと触れ合うことだった。重い車を引いて売り歩いていると、顔なじみの人たちが、あちこちから、「ごくろうさん」と声をかけてくれた。それを聞くだけで、心が明るくなった。  毎日のように行く官舎街があった。中野刑務所(当時は監獄といった)の看守さんたちの官舎だった。そこの奥さんたちは、ほとんど内職をしていた。お昼どきになると、あの家からも、この家からも、バケツをさげた奥さんたちが、共同井戸へ水汲みに行く。私は、よくその手伝いをしてあげた。  雨の日など、かさをさして勝手口を出ようとする人のバケツをさっと取り上げて、片っ端から汲んできてあげた。 「はい、お待ちどおさま」 「すみませんねえ、いつも」 「どういたしまして、さ、おつぎ……」 「じゃ、お願い……」  いい気持ちだった。お昼どきは商売が一番忙しい時刻なんだが、商売には代えられないなにものかがあった。善意と善意の触れ合いと言おうか、そういう魂の触れ合いの〈縁〉が、随時随所に生ずる……それがなんともいえない楽しみだった。  (昭和51年08月【自伝】)  私はまた、車を引きながら、客集めのために歌を歌った。生れ故郷の米山甚句や佐渡おけさから、いろいろな流行歌まで、大声を張り上げて歌った。そこで、〈歌お歌う漬物屋さん〉という異名をとり、評判になった。  これについて、おもしろい因縁話がある。今の長沼基之理事長は妙佼先生の甥に当たり、そのころはまだ少年で、妙佼先生(当時は長沼政)の芋屋で働いていたわけだが、その述懐によると、叔母さんの政さんも〈歌を歌う漬物屋〉のファンだったのだそうだ。  それが、後に私が霊友会の信仰に導き、ふたりで立正佼成会を創立したのだから、縁は不思議なものである。  ファンの中のひとりに、中野刑務所看守の官舎街のおかみさんがいた。  その官舎街はそうとうに長い一区画を成しており、いちいちご用聞きして歩くのはたいへんなので、その中ほどに車を止め、大声で歌を歌って客寄せをしたのである。そうすると、おかみさんたちがどんぶりを持って駆け出してくるのであった。大声で歌うほど、どんぶりの出がよかったので、大いに声を張り上げたものだった。  そのおかみさんのひとりがある日、街頭で私をつかまえ、「あんたのいいノドを、囚人の人たちにも聞かせてあげたいから、塀の外で歌ってくれない? 主人に相談したら、『いいよ』って言ってくれたから……」というのだった。  私は快く承知して、服役者の人たちが作業しているという畑のすぐ傍の高い塀の下で、ありったけの声をふりしぼっていくつもいくつも歌った。  あとで聞くと、畑仕事をしながら耳を傾けていてくれた人たちはとても喜んでくれたそうだ。 (昭和51年08月【自伝】)...

28 ...結婚観・夫婦観 一  店の状態も上向いてきたので、石原さんは、ひとつ合資会社にして大いにやろうじゃないかとはりきり始めた。  それには人手が足りないというので、私は菅沼の実家に手紙を出し、隣村の軽沢にある親戚、阿部家の娘サイ(現在は直子)にきてもらいたいと申し出た。  私とは、またいとこに当たり、お祭りとか、田植えとか、そのほか何か事があると手伝いやら遊びやらに往き来していた間柄で、気心もよくわかっていた。  手伝いに呼ぶといっても、暗黙裏に結婚を前提としたものだったが、双方の親も、親戚も、本人も、二つ返事だった。(中略) 仲人は石原さん、故郷からは双方の兄が上京し、それに東京にいた従兄弟の隆司(前、佼成病院事務長。現・病院担当理事)が加わり、たったそれだけのかんたんな挙式だった。  私の田舎では、総領(長男)の場合は親戚全部を招んで三日三晩飲み明かすといった盛大な結婚式をしたものだが、次男以下には「自分でかかあを見つけて自分で生活しろ」ぐらいの気風だった。  二十五歳までは、外で働いていても家計を助けなければならぬ、それが過ぎれば自分で金を貯めて独立し、自分の才覚で家内をもらって一家を立てる……そういった不文律があった。  だから、私の場合も、披露宴なんてものもない、ごく内輪の内輪の挙式だった。昭和五年一月七日だった。  ただ、紋付きの羽織と袴だけは奮発した。これが後日、大いに役立ったのだから、人生というのは面白いものだ。  新婚生活といっても、同じ店で朝から晩まで働きづめに働いているのだし、それに、やがて共同経営にしようというわけで、月給らしい月給ももらっていなかった。住居も小さな間借りで、リンゴ箱を積んでタンス代わりにしている状態で、とても蜜月なんてものではなかった。  (昭和51年08月【自伝】)  今さら言うまでもなく、年ごろになれば異性に心を引かれるようになることは、天然自然の現象です。ですから、それをムリに抑圧するのは不自然なことです。昔の日本には「男女七歳にして席を同じうせず」といった、儒教の倫理観が幅をきかせており、つい戦前までは、年ごろの男女の交際には、すぐ「色恋」という烙印が押されたものです。そして、結婚を前提とした交際だけが公然と認められるものだったのです。そのために、人間としての異性に淡々とつきあうことができず、したがって、男女とも異性を見る目が狭くなり、かえって、なんの選択もなくボーッとなってしまうケースが多かったものです。しかも、そうした恋愛感情が周囲の反対に会ってますます燃え上がり、まったく盲目的になって悲劇をつくりあげてしまう例も多々ありました。  その点、戦後はずいぶん変わりました。フリーセックスなどは行き過ぎでよくありませんが、いわゆるボーイフレンド、ガールフレンドが公然と認められるようになった風潮は、望ましい変わり方だと思います。  なぜならば、異性を異性としてでなく、人間として、友人としてつきあうことは、正しいことであり、自然なことであるからです。  そうした交際の中から、無意識のうちに異性に対する選択眼が養われるのです。ですから、ボーイフレンド、ガールフレンドとしてのつきあいから恋愛感情が生まれてきても、昔の男女が、わけもなくボーッとなったよりはずっと結果がいいのです。このへんの原理を、念のために説明しますと、恋愛感情が起こってしまってから相手を理性的に判断するのはムリで、もしそれをすれば、もはや恋愛ではなくなります。打算の要素が入れば、もう純粋な恋愛ではないからです。  それゆえ、淡々としたつきあいの中で選択や判断をして、なおかつ、そこからやむにやまれぬ恋しさ、慕わしさが生まれてきた場合、それが最も理想的な恋愛のかたちだということになるのです。  私たちの会員同士の間に、恋愛関係が生じ、そして、結ばれた人たちが、ほとんどみんなうまくいっているのは、その最も理想的な形態の結ばれ方であるからだと思います。  (昭和46年03月【躍進】) 結婚観・夫婦観 二  結婚するとき、私が家内に一番最初に約束したことがあります。それは何かというと、まず、「私は外で活動しなければならないのだから、留守番をする役目だと心得てきてくれ」、ということが一つ。私どもの郷里の新潟県では、嫁をもらうとき「留守番をもらいました」と人にあいさついたします。ですから、おまえは留守番をして家庭を守ってほしい、といったわけです。それとともに、私は元来、自分で志して何かをやりだしたら、一歩もあとに引きたくないという、非常に強情な気持ちをもっていますので、「何ごとによらず、私がいったん始めたら、それに賛成して、その気持ちを守ってもらいたい」といいました。 「男として何かをやりだした以上、それが失敗しようと成功しようと、どうしてもやり通さなくてはおさまらない。結果が悪ければ、ふたりで新規まき直しをやってでも、志したことは曲げたくないという強情さをもっている私なのだから、おまえがそれを知っていて満たしてくれないと、一生添い遂げられないと思う。しかし、このことさえ守ってくれれば、一生円満にやっていけるだろう」と、そういうことを約束して結婚したわけなのであります。  経済の面で悩ませたことも、また、家をぜんぜん顧みずにいることも、修行の最中にはしばしばありましたが、家内は、結婚のときの約束を守りつづけてまいりました。そうした時代を通ってきて、今、結婚後の三十年間をふり返ってみますと、ふつうの凡解ないい方をすれば、家内には相当苦労をさせたということにもなるわけです。  しかし、私にしてみれば、スタートの段階から、やがていろいろの問題が現われてくることがわかっておりましたから、あらかじめ家内に予告をしておいたのですが、今考えればそれは、仏さまが私にひらめかせてくださったのではないか、と思うのであります。  (昭和39年11月【速記録】)  阿含経の中にある善生経に、こう説かれています。 「妻を敬するに亦五事あり。一は相待するに礼を以てし、二は威厳闕かず、三は衣食時に随い、四は荘厳するに時を以てし、五は家内を委付す。  妻は復た五事を以て夫を恭敬するなり。一は先に起き、二は後に座し、三は和言し、四は敬順、五は先に意うて旨を承く」  夫の側から説明しますと、まず、「妻を敬するに」とあることに注目しなければなりません。パーリ語原典は「夫は次の五つのしかたで妻に奉仕すべきである」という表現になっています。けっして、「支配せよ」とか、「指導せよ」などとはおっしゃっていないのです。しかも、第一に「いつも妻には礼を以て接しなければならぬ」とあります。人間の本質としては、夫婦平等であるからです。  二の「威厳闕かず」というのは、威張っておれ、というのではありません。つまり、「男は頼りがいのある存在でなければならない」ということです。これが一番たいせつなことではないでしょうか。  三は、表面の意味の裏に、時には良い着物を着せ、りっぱなご馳走を食べさせる愛情をもたねばならぬという意味があるように、私は受け取っています。 四は、今の言葉で言えば、TPO(註・時間、場所、場合の各頭文字をとったファッション用語)に従って、おしゃれをさせなさい、ということです。  五は、家庭内のことは妻に一任しなさい、というのです。パーリ語原典では「権限を与える」となっています。これがまた大事なことです。あまり夫が家事の細かいことにいちいち口出ししたり、台所をウロウロしたりするな、というわけです。  さて、いよいよ妻の側に移りましょう。この五事は、浅薄な見方をすれば、封建的な男性支配の思想のように見えますが、(中略)心を平らかにして深く考察すれば、じつにすばらしい教えであることがわかってくるはずです。  一の「先に起き」というのは、家事一切を委付されているからには、先に起きるのが当然です。権限があれば、それに相応する務めを果たさなければならないわけですから。  二の「後に坐し」というのは、夫を立てるということです。他を立てるとか、他に譲るとかいうことは、我の強い現代人の好みに合わないかもしれませんが、そういう謙譲さこそが、かえって、その人の人柄を輝き出させるものと知るべきです。  私は、毎年のように外国での会議などに出かけ、知名人の夫妻にお目にかかる機会も多いのですが、女権の強い欧米でも、りっぱな奥さんは、けっして夫を押しのけてシャシャリ出るようなことをしません。つつましく後に従うという態度をとられています。それが、いかにも美しく感じられるのです。これは古今東西を通じて変わりない、美意識の問題ではないでしょうか。  三の「和言し」というのは、男女共通の美徳ですが、優しさと柔和さを本来の特質としている女性にとっては、なおさら、そうあるべきです。「あるべき」というよりは、「それが自然なのだ」といったほうがいいでしょう。自然に反すれば、そこに違和感が生じ、摩擦が起きてくるのは当然の成り行きです。自然法爾……これが人間の生き方の理想であることを、ここでも、また思い出してみることです。  四の「敬順」は、別の訳には「夫を重んじて愛敬す」および「夫を重く供養す」とあります。よく「女は愛嬌」といいますが、この愛嬌は仏教語の愛敬から転化したもので、その転化の仕方に女性の本質を見る目の堕落が、そのまま表われているように思います。  なまめかしいという意味を持つ嬌でなく、敬うという意味の敬が本来なのです。夫を心から敬い、そのために尽くす、それが妻としての正しいあり方である、と教えられているわけです。  (昭和51年03月【躍進】) 結婚観・夫婦観 三  夫婦とは、男と女の結合です。それも、一プラス一が一となるという結合です。今の若い人は、この基本原理を知らないで、平等な一と一がたんに集合し、二のままで同居するのが夫婦であるかのように思っているのではないのでしょうか。  男と女が平等だなんて、とんでもない考え違いです。もちろん、人間としてのギリギリの本質においては平等です。基本的人権においても平等です。だからといって、あらゆる面において平等でなければならぬと考えるのは、万物生成の真実に反する虚仮の考えです。  ましてや、それを世間に向かって主張するなどは、宇宙の真理に刃向かおうとするゴマメの歯ぎしりみたいな所業です。  ともすると、今の人は、このゴマメの歯ぎしりがマスコミに増幅されて、大きな叫びに聞こえるのに惑されて、つい「そうかなあ」と思いがちです。まず、その思い違いから払拭してかからなければ、この問題の真実をつかむことはできますまい。  宇宙の万物は、宇宙創造以来の無数の因縁の累積によって、現在の相となっているのです。因縁が違うものは、当然、相も違います。相が違えば、役割も違います。そして、役割の違うさまざまな存在が、それぞれの役割を果たしつつ大きな調和をつくり上げているのが、この宇宙の実相なのです。  これを、われわれ人間の立ち場から見ますと、かたちの上では不平等な千差万別の存在があって、それらが不思議な調和を醸し出すところに、この世の複雑微妙な味わい、美しさ、生きるおもしろさがあるのです。山の林一つをとってみても、一年じゅう青々としたスギやヒノキがあるかと思うと、冬には葉を落として裸になるナラやクヌギもあります。その落ち葉をトビムシのような小さな虫たちが食べて糞に変え、その糞が土壌に豊かな栄養を与えるからこそ、林の木々は生きていけるのです。もし、そべての木が平等を主張して、みんなスギやヒノキになってしまったら、どういうことになるでしょうか。  すべての虫たちが、チョウやトンボの華やかさにあこがれて、みんな空中へ飛び出して行ってしまったとしたら、地上は、どうなってしまうことでしょう。  男のやることは、すべて女でもできる、支配権を取り返せ……などという論議は、新しく、かつ勇ましいように見えますが、それはじつは一時代前の感覚であって、今は、もっと大きな宇宙的な感覚で物ごとを見、考え、実行していかなければならない時代にさしかかっているのです。  女の人には、女ならではの特質があり、役割があります。「ならでは」の特質と役割があるからこそ、「ならでは」の価値と尊厳さがあるのです。夫婦の問題は、そういう世界観・人間観から出発して考えなければならないのです。  (昭和51年03月【躍進】)  詩人の木原孝一さんが朝日新聞に、『永遠の女性よ 目をさませ』という題で、次のように書いておられます。 「恋人、愛人、女房、それらの女性はすべて、そのペアである男性にとっては、なんらかの意味で『永遠の女性』でなければならぬ。たとえば、画家モジリアニのあとを追ってアパートの五階から身を投げたジャンヌ・エピテルヌ、彼女はすばらしい絵を夫に描かせるエネルギーの泉だった。『王将』坂田三吉の女房小春、彼女は将棋に生涯をかけた夫に、自分の生命をかけた。彼女たちのように、自分の夫とおなじビジョンのなかで、夫とともに生きた女性こそ、われら男性の求める『永遠の女性』にほかならない。クツ下とおなじように強いばかりが女ではないのである。  最近、どうやらこの『永遠の女性』が行方不明らしい。われら男性の胸から、『永遠の女性』はだんだん失われつつある」  およそ十年ばかり前に掲載された記事ですが、しかし、現在でも、そっくりそのままのことがいえると思います。夫と合体して一プラス一が一となる。それが永遠の女性です。この永遠の女性には、心の持ち方しだいでだれでもなれるのです。市井のふつうの女だった小春でもなれたのです。  立正佼成会の若い女性のみなさん。どうか、あなたの配偶者にとって「永遠の女性」であってほしい。そしてまた、やがて生まれてくる子どもさんにとっては「永遠の母」となってほしい。これが、女性と生まれた因縁を最高に生かす道であり、しかも女性としての無上の至福でもあります。いや、女性としてだけではありません。男性を合わせた、すべての人間いとって、これほど尊く、美しく、そして慕わしい存在はありますまい。観世音菩薩が女性のかたちをもって表現されているゆえんは、そこにあると思うのです。  まず、立正佼成会の会員のみなさんだけでも、そのような妻となり、母となるならば、日本の社会はグッと違ったものになってくるでしょう。そのみなさんの姿が人びとに伝わって、しっとりした潤いのある、高貴な精神の香り高い、しかもハツラツたる創造のエネルギーに満ちた世の中になってくるでしょう。 (昭和51年03月【躍進】) 結婚観・夫婦観 四  南伝相応部経典の中で、天の神が、お釈迦さまに「何者が、この世で最高の友でありましょうか」と、お尋ねしたのに対し、お釈迦さまは「妻が最高の友である」と、お答えになっておられます。この〈友〉という言葉の意味の深さをよく味わってみることが、ぜひ必要だと思うのです。  ご存じのように、仏教で人間最高の美徳としている〈慈悲〉の原語マイトレーヤは最高の友情ともいうべき意味です。そして、すべての人に対して友情を持ち、あらゆる生物・無生物に対しても友情を持つ、これが人間としてのあり方の理想の姿だ……としているのが、仏教なのです。いわんや、二世を契る夫婦のあり方においてをや……ではありませんか。  とにかく、今の若い人たちは、お釈迦さまが「妻が最高の友である」とおおせられたことを、つくづくと噛みしめてみなければなりません。そして、「夫婦とは共に手を取り合い、苦闘することによって、よりよい人生を築き上げていく友だち同士だ」というしっかりした心構えから出発しなければならないのです。つまり、たいせつなのは〈物〉ではなくて〈心〉であり、望むべきは〈享受〉ではなくて、〈創造〉であるということです。  (昭和49年05月【躍進】)  大方の若い人たちは、結婚生活を恋愛の延長のように考えています。見合い結婚の人でも、新婚当時は恋愛をしているようなもので、ただ幸福感に陶酔している向きが見られます。そのうちに子どもができる。当然の成り行きとして、育児に精魂を込める。そして、小学校から中学校、あるいは高校へと進ませて、なんとなく一段落したころ、フトわれに返るというか、自分自身や自分の周囲を眺めてみる心の余裕が生ずる。……この時期がいちばん危険なのです。  結婚生活についての根本的な心構えをしっかりもっていない人は、そういう時期に、なんともいえない虚しさを感ずるようになるのです。  それも、ただ漠然とした虚しさならばまだいいのですが、それが具体性を帯びてきて、以前は若々しくて、溌刺としていた夫に、中年男のジジムサさを感ずるようになったり、新婚当時、期待していたほど出世もせず、暮らしも、いっこうに楽にしてくれない……などとハッキリ不満を覚えるようになったりすると、事態は、よくない方向へ傾斜していくのです。  つまり、今の若い女性の多くは、豊かな生活やセックスの満足といったような物質的な享受を夢に描いて結婚するために、ある時点において失望や虚無感に突き当たるのではないでしょうか。そうした〈享受の構え〉が、根本的な誤りなのです。  結婚生活は、享受するものではなく、創造するものなのです。二人の緊密な協力によって、苦しみつつ、闘いつつ、築き上げていくものです。ですから、夫婦ともなれば、恋愛時代のようなベタベタした愛情とは違った、新しい同志愛といったようなものが生れなければなりません。もっとハッキリいえば、結婚と同時に、そういったキリっとした愛情に切り替えなければならないのです。  (昭和49年05月【躍進】)...

29 ...独立 一  懸命に働いて、早く一軒の家に住む身分になりたい、それだけが夫婦の願望だった。  ところが、翌年の十一月に長女の知子が生まれて、家内が店で働けなくなった。石原さんは家作の一軒に私たちを住まわせてくれたが、それやこれやでソロバンに合わなくなったためか、不意に別れたいといい出した。  勝手な出方で少々腹が立ったけれども、やむを得ない。独立して店を持つことにした。ただ、気まずい別れをしなければならなかったのが残念だった。  (昭和51年08月【自伝】)  私は、商売を始めるために「お金を貸してほしい」と、田舎の本家に頼みました。七か村一番、といわれるほどのお金持ちの本家のことだから、多少のことはなんとかなるだろうと思ったのです。  ところが、断わられました。越後から東京へ出稼ぎに行く人たちは、だれもが稼いだお金を残して帰るのがふつうで、それがまた、田舎では常識になっていました。ですから、「東京へ出てもう何年にもなり、世帯まで持っていながら、商売を始めるときになって、田舎に金を借りにくるとはとんでもない人間だ。貸すことはできない」といって断わられたのです。私の全体を見て、前途についてわかってくれていたら“あれはまじめな人間だから”とか、“力量があるから、きっと商売には向いているだろう”ということになったのでしょうが、ただ一つの常識で見られてしまったわけで、私には、そのことがしゃくでした。そのころ、店を持つためには三百五十円のお金が必要で、それだけあれば、なんとか商売をやっていけるという目安も、ほぼついていた矢先だったからです。  しかし、よく考えてみますと、田舎には田舎の事情があります。当時はひと冬やふた冬、出稼ぎして働いても三百五十円の金を返すのは容易ではありませんでした。ひと冬で百円も持って帰ることができるのは、よほど辛抱強い人であったわけです。田舎の人の感情からすれば“大変なことだ”と考えたのも、当然のことなのです。そのように、今度は見方を変えて考えてみたわけです。  そうしましたら、私の母親の弟にあたる叔父が、「あれはとにかくきかん坊で、やりたいといいだしたら、きかない人間だ。その金はなんとか家でつごうしてやろう」と、三百五十円をこしらえて送ってきてくれました。私はその叔父のおかげで、商売を始めることができたのです。そして、“もう、本家には頭を下げるようなことはしない”という気持ちで一生懸命に働きつづけました。そうやって、三、四か月もたつと、問屋もどんどん荷を入れてくれるようになり、金回りもよくなって、半年ほどの間にお金を叔父に返すことができました。貸した金が返ってきたかどうかがすぐにわかる田舎のことですから、そこは意地を張って早く返してしまったのでした。  (昭和37年02月【指】) 独立 二  私は中野本郷通りで漬物屋を始めた。ふつうのしもたやの一室の床を取り払って土間にし、そこに大釜を置いて煮炊きをした。漬物屋といってもお惣菜屋を兼ねたようなもので、煮豆や昆布巻きなども自家製造して売ったものだ。  らっきょう、紅しょうが、梅干し、福神漬などが主な商品だった。らっきょうなどは、四斗樽を十ぐらい用意し、昼間のうちに家内がシッポを取ってきれいに下ごしらえをしておき、それを夕方、行商から帰った私が味をつけて仕込む……という具合だった。  バネ車を引いて売って歩く先は、世田谷・渋谷・新宿、それから板橋・十条(北区)・中野・杉並と、東京の西北部のほとんど全域にわたっていた。  (昭和51年08月【自伝】)  なにしろ自家で製造して、自分で売り歩くのだから、値段も安くでき、しかももうけの割合はいい。それに、確実に日銭の入る商売だから、生活は安定し、ぼつぼつ貯金もできてきた。  そのころの私の夢は、日本一の漬物屋になることだった。というのは、海軍時代に石原さんの店に手伝いに行った時、毎晩仕事が終わると一本ずつお決まりの晩酌をやり、歌を歌ったり気炎を上げたりしたものだったが、石原さんは「庭野、君は日本一の漬物屋になれ、君ならなれる」と、しきりにおだてられたものだった。  独立してすこし景気がよくなった私は、本気でそんな夢をいだくようになり、陸軍や海軍に大量に漬物を納めているという、大きな漬物屋の工場を見学に行ったりしたものだった。  (昭和51年08月【自伝】) 独立 三  漬物屋の店に奇しくも、かつての友人を使うことになったのです。まだ十八、九歳で四十円もの月給をもらっていた、あの友だちです。ところが、使ってみると、どうもダメなのです。いわゆる勤め人根性で、給料に見合っただけの働きをすればいいという考えがしみついているために、商売に身が入らないのです。店のプラスになるような働きをしないのです。(中略) 働くということを、労働と引きかえに給料を受け取ることだ、というくらいに浅薄に考えてはならないのです。自分の働きによって職場に利益を与え、と同時に社会に対しても相応の貢献をなし、しかも働きそれ自体が自分の人間をも育てていくのだ……という重層的な意義を見て取らなければなりません。  そういう勤労観を堅持している人は、使用者のほうでも、けっして見捨てはしません。よしんば、その職場から去らなければならないことがあったとしても、新しい場所で必ずいい働きができます。 (昭和50年02月【躍進】)  今の青年諸君に望みたいことは山ほどあります。しかし、それをクダクダしくのべたのでは、かえって視点が分散し、つかまえどころに迷ってしまうこともあろうかと思いますので、私はここで、ただひとつ「若人よ、勇気をもて」と叫びたいのです。  とはいえ、勇気にはいろいろな種類があり、さまざまな次元がありますので、このさいもっとも望ましい三つの勇気について、私の考えをのべることにします。  その第一は、〈自主独立の勇気〉です。  ちかごろの若い人は、両親その他の過剰保護のもとに育ったせいか、この精神がいちじるしく欠けているようです。大学の入学試験にまで親が付添っていく……はなはだしきは、大がを出てはじめて会社に出勤するときにまで母親が送っていったという例を、たくさん聞いています。こうして、ひとりではなにもできない人間が育っていくのです。  その証拠には、ちかごろの若い人たちは、自分につごうの悪いことはすべて周囲の条件のせいにしたがります。なにかといえば、「環境が悪いのだ」「社会が悪いのだ」「政治が悪いのだ」というのです。ということは、“周囲の条件に対して自分は無力だ”という敗北精神の表出にほかならないのです。「社会がどうあろうと、おれは負けないぞ。環境の悪なんぞ、跳ねとばして進むんだ」という反骨精神がないのです。  私と同年配の人たちの話を聞きますと、昔はほとんどの子どもが、中学受験のときから、願書の提出も、試験場通いも、入学の手続きも、みんな自分でやったものだそうです。いわんや高校・大学においてをやです。私自身、十七歳のとき、ひとりで東京に出てきて、見ず知らずの店に住みこみました。それも、べつに私がえらかったというのでなく、当時はみんながそういうふうだったのです。  日本が未曽有の敗戦を喫し、ふたたび立ちあがれぬだろうと世界じゅうが予想していたとき、焦土のなかから不死鳥のごとくよみがえり得たのは、このように少年時代から自主独立の精神をつちかってきた人たちの、生きんがための必死の努力のせいだったのです。もし、あのときの日本人が、今のような育ち方をした人間であったならば、いったいどんなことになったでしょうか。おもえば、ゾッとせざると得ません。  もうふたたび、あのような事態は起こりますまい。しかし、現在のような風潮がそのままにうち捨ておかれ、青少年の精神がジリジリと骨なしになっていくとしたら、世界の諸国・諸民族に伍して、政治・外交・産業・学問・文化の各面において、はたして互角以上の太刀打ちができるかどうか、はなはだ心細いものがあります。  人間生まれてくるときもひとり、死んでいくときもひとりです。それなのに、その中間の人生において、どうしてひとりで生きられないのです。  といえば、あるいは〈諸法無我〉の真理に反する考えのように誤解する人があるかも知れませんが、それは、この真理をごく浅く解釈しているからです。すべての人間が網の目のようにつながり合って生きているからには、できうるかぎり他人によりかからず、他人への負担を軽くしなければならないのです。おたがいが、あまりにも周囲によりかかり、社会に重みをかけすぎると、周囲や社会はその負担に堪えることだけが精いっぱいになり、そのために、個々の人間の活動も鈍り、したがって、世の進展も止まってしまうのです。  それと反対に、すべての人間が自主独立の精神をもって他人の負担を少なくすれば、おたがいみんなが身軽になり、思うぞんぶんのはたらきができますから、そうした充分なはたらきが相乗効果をもって統合され、世の中はズンズン進展していくのです。〈諸法無我〉の教えは、このように積極的に受け取らねばならないのです。(中略) 第二にもってほしいのは、〈自己犠牲の勇気〉です。  自己犠牲の精神こそ、人間のいちばん高貴な精神です。もちろん、極端な自己犠牲行為は国の興亡・民族の盛衰といった、一大事にさいしてのみ発現すべきものですが、それよりもはるかにスケールの小さい、キメのこまかな自己犠牲は、日常の生活とともにあらねばなりません。  世の多くの人が自己犠牲の精神をもち、その精神の小さなカケラが日常のさまざまな小事に発揮されてこそ、世の中は和やかにたもたれ、スムーズに運営されていくのです。民主主義の社会とは、そんな社会のことをいうのです。おおぜいの利益のためには、自分の欲望はあるていど犠牲にする。全部がなっとくするためには、自分の主張はあるていど犠牲にする。それが民主主義というものです。ほんとうの意味の“滅私奉公”です。  ところが、今の日本の民主主義は、西洋的な権利思想にかぶれているために、自己の権利の主張ばかりが先に立ち、譲り合う──すなわち自己を犠牲にし合う──精神を忘れているのです。  みんながすこしずつ自己を犠牲にしなければ、話し合いも成立せず、全体が平均して利益をうるような政治もできないはずなのに、その肝心のところを見失っているのです。  また、そのような風潮が一般化してしまい、日常の小さな物ごとにまで、「あたえられた権利はすこしも奪われまい」と目の色を変えています。何からなにまで自己主張を押し出し、みんなのために自己を犠牲にすることは、ケシ粒ほどでもいやだ、という気分がみなぎっています。まことに“滅公奉私”の世の中になってしまいました。  このような貪欲と貪欲のぶつかりあい、修羅と修羅の角つき合いのなかで、人間がよくなるはずがありましょうか。世の中がうまくいくはずがありましょうか。さきに、「自己犠牲ほど人間にとって高貴な精神はない」といったのは、じつにこういう理由によるものです。  今のような世の中で、自己犠牲の行為をするのは、多かれ少なかれ勇気のいることです。電車のなかでお年寄りに席を譲る、「どうぞ」と声をかけて立ち上がるそのふんぎりには、やはり、小さな勇気がいります。自分の月給のなかから、社会福祉事業などに百円なり二百円なりの喜捨をする、そのとき、財布をあけようかどうしようかというその一瞬に、やはり、ちょっとした勇気が必要なのです。  そのような小さな勇気がたいせつなのです。そういう勇気の累積が、よい世の中をつくるのです。  第三は、〈未知へいどむ勇気〉です。未知の世界を求め、そのうすくらがちのなかへ、敢然と飛びこんでいく勇気です。  今の若い人の多くは、ほぼ一生の路線の青写真をつくり、その青写真を平穏無事に実現していくことをもって足れりとしているようです。それもいいでしょう。ごく平凡な能力の持ち主なら、それでもけっこうです。  しかし、すこしでも他よりぬきんでた頭脳や、すこしでも他と異った才能をもっているならば、それをどれぐらい伸ばすことができるものかと、みずからを試してみる勇気がほしいものです。  その試みがなかったら、百はいつまでも百であり、そこをつき抜けて百二十の境地を創り出すことはできません。個人個人がそうであれば、社会の進展もありえないのです。  若いシッダルタ太子が、王家の相続者の身でありながら、一切を捨てて未知の世界へいどんでいかれた、あの偉大な勇気を思い出してください。  その十分の一、百分の一でもいい。青年であるかぎり、未知の世界へ敢然と飛びこみ、身をもってそれを切り拓く勇気がなくて、いったいどこに青年の資格があるのですか。  (昭和42年07月【佼成】) 独立 四  若いころ、お世話になった奉公先の石原さんのからだが弱ってこられたと聞いて、私はさっそくお見舞いに出かけましたが、その数日後、石原さんの奥さんが訪ねてこられました。  そして、「あなたには昔、店を出してあげると約束してあったのに、なんにもしないままきょうまできてしまいました。ほんとうに申し訳ありません。これでは死んでも閻魔さまの前にも出られません。せめてこれを使ってください」と、百万円のお金を出されました。振り返ってみると、そのときからすでに五十五年の年月がたっています。若かった私は、真剣になって働いていましたし、主人からそういう話があったことも確かです。しかし、その後、自分の力で店を出した私でしたから、そんなことは気にも留めていなかったのです。それを石原さんが、それほど気にしつづけておられたとは知りませんでした。金額の問題ではありません。ほんとうにうれしいことです。ありがたいことです。  (昭和52年11月【求道】)...

30 ...我国信徳社 一  とりとめもなく、いろいろな出来事を回顧していますと、思いはひとりでに一つの考えに帰着してくるのです。それは、自分の一生はつまるところ無数の人びととの出会いによって導かれ、築かれてきたのだ、ということです。あの時あの人と出会ったために、歩む道が九十度ほども向きを変えた、あの時あの人にこういわれたために、世の中を見る目がパッと開けた……といったようなことがあまりにも多いので、あらためて一種の驚嘆をおぼえるのです。  ふと私は、観世音菩薩の三十三身ということを思い出しました。観世音菩薩が、ありとあらゆる姿をとってこの世に現われ、自由自在に人びとを導き、救いたもうという普門示現の教えです。そういえば、私がこれまでに出会ったたくさんの人の中で、あれはたしかに観音さまだった、と考えられる人が多々あるのです。  (昭和50年11月【佼成新聞】) 我国信徳社 二  東京に出てきた私に、まず生活の心配がないように、と商売を教えてくださったのは、奉公先の主人の石原淑太郎さんでした。海軍に三年、間をとられましたが足かけ七年間ご指導を願って、独立することができたのであります。  自分で会得した商売ですから、くびになる心配もないし堂々とやっていかれる、と安心していることができました。それも、大恩のある主人のおかげだと思います。  (昭和50年11月【速記録】) 我国信徳社 三  主人はまた、ひじょうに信仰深い人でした。それは法則論の信仰です。  私どもの田舎では、人びとは神さまや仏さまに敬虔な気持ちをもち、素朴な信仰をしていたのですが、教義を聞いたり、それを人さまに勧めたりすることはなかったのです。ところが、主人の石原さんは、たいへん熱心に法則論に立った信仰をされていました。  (昭和43年07月【速記録】)  いつも「人のため」ということを口グセにし、人の不幸を見れば、その法則によって救ってあげようとしていました。  私は、この主人にめぐりあうことによって、この世には目に見えないところに法則というものがあることを、漠然とながら考えるようになりました。  (昭和42年02月【佼成】) 我国信徳社 四  私の家は禅宗ですが、人が亡くなったときだけ、“なんまいだ、なんまいだ”というだけで、仏教がどんなものだかまったく知りませんでしたし、意識などもなかったのです。  ところが、(中略)主人から感化を受けて、初めて信仰したのが、「我国信徳社」でした。(中略)しかし、当時まだ十六歳の私は、友引の日はどうだとか、大安の日はどうだなどと問題にするのは、ばかなことだと思っておりました。その半面、持ち前の凝り性といいますか、ある意味では好奇心で法則を調べてみようと考えて、勉強を始めました。そうやって、一生懸命になってやっているうちに、この世の中には、ほんとうに法則があるのだ、ということがわかってきたのであります。  (昭和48年10月【求道】) 「我国信徳社」の信仰というのは、六曜・七神の組み合わせで吉凶が生じるという思想で、石原さんはその法則を信じ切っていたのです。  (昭和53年03月【躍進】) 我国信徳社 五  主人は六曜・七神の信仰一本に凝り固まった人で、親戚のほとんどをお導きしておりました。おおかたの親戚の人が主人と同じ信仰をしておりましたので窮屈な感じでした。主人は「この信仰では肉を食べてはいけない。おまえは奉公人だから、外に行って食べるのならいいがそれを承知してくれ」というのです。別に肉を食べないからといって死ぬわけでもなし、せっかく主人の家にいるのだから、「私もやめましょう」ということで、私もそこにいる七年間、肉食をしなかったものでした。  (昭和32年01月【速記録】) 我国信徳社 六  法則について聞いてみますと、いろいろな病気や災難は自分の歩みによって起こるということで、家のどちらのほうを直したから悪いとか、どの方向に移転してはいけないなど、方位の法則をとてもやかましくいうのです。私からすれば、こういう信仰があるとは非常におもしろい。目に見えないところに、そんな法則があってたまるものか、という気持ちでした。  ところが、その法則によって調べていくと、その家の何歳の子どもがこういう病気にかかったのは、何年の何月、どちらのほうへ動いたためだというようなことが、あまりにも明らかに出てくるのです。それが私にはたいへん不思議に思えました。  目には見えないところに法則が存在しているというその不思議さから、私も信仰をさせていただくことになり、正式ではなかったのですが、ご主人と一緒の信仰の仲間に入れていただいて、一生懸命に勉強をしたのが始まりでした。  (昭和43年07月【速記録】)  いつの間にか、私もその“法則”をおぼえてしまいました。それがなかなかよく当たるので、何かは知らぬが人間の見えないところに不思議な世界があるのだな、ということを考えるようになりました。これが信仰に入る最初のきっかけだったといってもいいでしょう。  人間の出会いというものは、まことにおろそかならぬものであります。つまり、この石原さんも、私にとっては観世音菩薩の一化身にほかならなかったのです。  (昭和50年11月【佼成新聞】)...

31 ...的中の興味と疑点 一  私の信仰のはじめは、十七歳から奉公した家の主人に、影響を受けたのです。それがおもしろいことに、(中略)その主人がやっていた六曜・七神というのも、研究していくと、数学的なのです。  (昭和44年02月【佼成】)  私は数学はひじょうに好きですから、こんな目に見えないところに法則があるとはすばらしいと思いまして、好奇心で一生懸命勉強したのです。(中略) 数学的に、災難の時期とか、悩みの状態とか、人間の運命の浮き沈みが、あまりにも明確に出るものです。  (昭和44年02月【佼成】) 的中の興味と疑点 二  物の世界のことというと、目に見えるものは信じられるけれども、見えないものは信じたくないと考えがちです。また、私たちはそうした考え方に立った教育を受けてまいりました。明治生まれの私が、教育を受けたのは大正に入ってからですが、明治憲法によって、教育が国民の三大義務の一つにあげられて以来、教育はひじょうにいきわたりました。  ご承知のように当時は西洋の思想が、急に流れ込んできた時代でしたので、唯物論とはいわないまでも、見えるものなら信じられる、という思想に立った教育を私どもは受けたのであります。したがって、あまり心のほうの問題は取り上げられずに、現実のものを捉えてすべてのものを判断しようという考え方が強く、また、見えるものは信ずるが、見えないものは信じないということに、私はなんの不思議さも感じていなかったのであります。それなのに、見えないところに法則があると聞いたものですから、不思議なことが東京へきたらあるものだ、と思って勉強を始めたのです。  (昭和47年11月【求道】) 的中の興味と疑点 三  六曜とは旧暦の一月一日から循環する先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の六つ、また七神とは人体の各部に七人の神様がいて、人間のすべてを支配しているというのである。  (昭和51年08月【自伝】)  病気になったときなども、そこの信仰の教典には、いつ、どういう方向にどんなことをしたのが原因であるか、その法則がきちんと書いてあるのです。たとえば、何歳のときに引っ越したか、何歳のときどの方向をいじったか、また、いつどの方位のドブを直し、ごみ箱などきたないものをどこへ移した、といったようなことが肺病というようなかたちで出てくるというわけです。ところが、私にはからだが悪くなったことと、ドブを直したという問題の間には、なんの関係も、添い合わせも感じられない。それも、十九歳くらいの真正面に物事を考えるときでしたから、なんだかつまらないことだと思いましたし、ひじょうに疑惑ももちました。それについて主人に聞いてみますと、こういうふうに教典にちゃんと書いてあるのだから、その通りに現われるんだというのです。ですからそれを、そのままに受け取って勉強したものです。  (昭和32年01月【速記録】) 的中の興味と疑点 四  そのころ、幡ケ谷の氷川神社のすぐ前に植木屋があって、そこの奥さんが私の持っていく漬物を、たくさん買ってくれました。  ところが、いつも浮かない顔をしているので、いろいろ聞いてみると、医者からは子宮が悪いといわれ、おなかにしこりがあって、とても痛んで困っているというのです。そのために、お勝手仕事をするのが困難なので、いつも漬物を買ってくれていたわけです。  私は、さっそく、「ご主人はいくつで、奥さんの病気はいつから悪くなりましたか」とたずねたあと、「お宅のお勝手はどこにありますか」と聞きました。当時、いつもふところに持ち歩いていた磁石で、いろいろと調べました。そして、お勝手のすのこに、釘を打ったことがあるでしょう。それはいつごろで、こういう具合だったのではないか、とたずねますと、たしかにそのとおりだという返事でした。 「よくお詫びしなさい。病気はすぐに治りますよ」という私のすすめを、その人が実行しますと、それまで医者にいくらかかっても治らなかった病気が、すぐに治ってしまいました。  すのこに釘を打ったことと、奥さんが子宮が悪くなったこととは、無関係な話のように思えて、まともには考えられないことです。しかし、事実そうなのです。  私は、次から次へとまわり歩いて、だれかが病気にかかっていると聞くと、調べてみました。ある家では、主人が何歳のとき、的殺の方位にこういうことをしたために、病気になったのだから、その罪に代わって四足二足を断ち、一週間お詫びしなさい、といってお詫びの文章を書いてあげたりもしました。「一週間だけ肉食しないで、このお詫びを読み上げればいいのだから、やってごらんなさい」と、教えてあげたのですが、その人が私のいうとおりにやると、これも病気が治ってしまいました。  こうした体験をあちこちでしたわけですが、なんにも見えないところに法則があるということに、私はひじょうなおそろしさを感じたのであります。  (昭和32年01月【速記録】) 的中の興味と疑点 五  そうやっているうちに、困ったことには、解決のつかない問題が出てきました。たとえば、私のご主人の奥さんの手首に、連続性関節炎が起こったときのことです。その病気の原因を一生懸命に調べたところ、友引の年あたりに火を司るものをいじったためだということが、簡単にわかりました。しかも、手首の病気ですから、火箸かなにかで火をかき回したことがないかどうかそれを調べた結果、その年に煙突を掃除する場所を直していることがはっきりしました。 「原因はこれだ」というので、お詫びしたのですが、なんとしても病気が治りません。信仰をしていない親戚の人は、「そんなことをしているとかたわになってしまう」といって反対したのですが、ご主人は絶対に治るという自信をもって、一途に信仰をしております。しかし、それでも治らないのです。とうとうおしまいには、親戚の紹介で日本橋の中原病院といいましたか、そこにひじょうにいい先生がいるというので病人を連れて行くことになりました。ところが、先生はすぐに「これはもう動かしちゃだめだ。すこしでも動かしたら絶対に治らなくなってしまう」といい、手首に副木を当てて、ほうたいで巻き、ピシッと固めて動かないようにしてしまいました。これは、ご利益てきめんでした。なにしろ痛くて寝ることもできず、油汗をかいて二十五日もの間、苦しみつづけ、やせ細っていたのが、ほうたいを巻いて動かないようにしたその晩から、ちっとも痛くなくなってしまったのです。  のちに私が、宗教教団として病院を建てようと考えましたのも、そうしたところに一つの背景があるわけです。  一方的な考え方だけに凝っていると、こうした問題も起こってくるのです。そして、苦しまなくてもいいのに、二十五日間も苦しみつづけ、しかも親戚同士で言い争いまでしてもさっぱり効果があがらないということにもなってしまうのです。主人はそこで、教典を全部燃やしてしまいました。ひじょうに短気な人ですから、こんな信仰はもうやめたというので、そのまま放り出してしまったのです。  (昭和32年01月【速記録】)  十年も信仰してきた本人が、こんなに治らないんでは、この信仰でみんなを救うなんてことはできないのではないかと疑問が起こってきたのです。その疑問が、もっと完全に人を救えるものはないか、と私を信仰の道へ引っ張っていったのです。もし、それが百パーセント当たっていたら、私は他のことはやらないで、その信仰をずっとやっていたかも知れません。  (昭和53年03月【躍進】) 的中の興味と疑点 六  六曜の法則についても、仏滅や大安などをなぜ問題にしているのか、と考えている人も多いのであります。しかし、私はそこにかたちに現われて一つの法則として昔からあるものを、たんなる迷信として、ぜんぜん意味の無いものだと断ずることはできないと思うのであります。こうした法則に反対する人は、数学の法則などには忠実であるにもかかわらず、姓名学とか六曜の法則には従ってみようとしない。いい加減に考えてなんにもわけがわからないでいる結果、これらの法則について話されると、あまりにも手きびしく自分に当てはまるので、初めておどろくことになるのであります。  しかし、当てはまれば当てはまるほどこれを深く研究して、忠実にその法則に実際に従ってみようという気になればいいのでありますけれど、反対にあまりにも的中する結果として、今度は逆にこういう法則をなんとかして無視したいという気持ちになるのが今日の知識人とか文化人とかいわれる人びとの通有性であります。またはそれほどに依怙地になって反対しないまでも「知らず知らずに犯したる罪咎を許し給え……」ということがお経に書いてありますように、たとえば知っていて犯す罪というものは、自分そのものが少しでも良心的にいけないという事を弁えておりながら犯すのですから、人に見られないように時間的にすばやく、人目をくらますということになるのであります。ところが、知らずにやるのは大胆に堂々と罪を犯すのであります。けっきょくわからないほどおそろしいことはないのであります。熱した金火箸も、頑是ない子どもですと力いっぱいにぎってしまいます。しかし、おとながにぎるとすれば、ひじょうに速度を早くしてにぎってみせるというように、この熱いという知覚を体験したおとなは、同じ熱い物をつかんでも加減してつかむのであります。また煮立っているやかんの蓋を取る場合でも、早くチョイとつまむようにして取れば火傷もしないし、煮こぼれるのも止めることができますが、それをジッとつかんでいては手が焼けてしまう理屈であります。すなわちおとなは熱した物体に対してどのくらいの瞬間にどのようにすればよいかを知らず知らずの間にチャンと意識しておるのでありまして、ちょうどそれと同じようにわかっていて犯す罪は小さいけれども、知らずに犯す罪は大きいのであります。  (昭和31年03月【佼成】) 的中の興味と疑点 七  十干や九星・六曜といった法則が、暦に現われるようになるまでには、いろいろな人びとの長い間にわたる研究がありました。つまり、それは経験者が天地自然のなかから見つけ出した法則であります。月の世界に行けるようになったのもまた、法則を調べて初めてできたことなのであります。  (昭和53年04月【求道】)  宗教家はそういうことを知っていて、人を根こそぎ幸せにしてあげなくてはだめだと思います。救う方法があったら、なんでも勉強しておぼえておいた方がいいのです。  (昭和53年04月【求道】)...

32 ...法則の習得 一  私が不思議に思ったのは、石原さんは、たとえば、水桶を買ってきたとか、家財道具を買ってきたとかいうことでも方罪にかかるといっていちいち許可願を出すのです。その代書を私がしたわけです。  (昭和35年09月【大法輪】)  石原さんは、小さいときにおとうさんを亡くしたりして、不遇で小学校もろくに出ていない。それでもなかなか頓智頓才の利く、頭のいい人で中野の昭和通りの町会長などもしていたけれども、書くことが大きらい。私もきらいですが、私以上にきらいなのです。  (昭和35年09月【大法輪】) 法則の習得 二  節分の前の十日間ばかりは、来る日も来る日も一日中それを書かされた。というのは、年度がわりには、家中の品物全部について新しく願い書を出さねばならないからである。 「三方桐たんす、高さ何尺何寸、横何尺何寸、奥行き何尺何寸、北向き六畳間の西壁、端より何寸の所にて一年間使用いたし度……」  といった具合に、半紙に毛筆で書く。なにしろ家中全部の品物について、一定の書式で書くのだから、一冊の書物ほどの分量になってしまう。  それを大久保にあった「我国信徳社」の本部に持ってゆき、ハンコをベタッと押してもらってくれば、神様のお許しがあったということになる。したがって、よしんば品物の置き場所などにまちがいがあってもおとがめはないというわけだ。  (昭和51年08月【自伝】)  私なりの解釈からしますと、ちゃんとした法則がある以上、それを知って間違っていたことをお詫びするのはけっこうなのですが、「我国信徳社」の本部で判を押さなければ、絶対に効果がないというのはおかしい。私はそういう疑問を、ひそかにもっておりました。  (昭和32年01月【速記録】)  私は、十八の年から、疑問にもろにぶつかっていくなかで、その疑いの心を持ちつづけるうちに、いろいろな現象に出会ったのであります。  (昭和41年03月【速記録】) 法則の習得 三  書いているうちに六曜の法則がすこしずつわかってきた。するとおもしろくなってきて、今度は炭屋のお得意さんを試験台にしで研究してみたのです。そうして、研究していきますと、不思議に的中するのです。病気なんか、いっぺんに治ってしまう。病気を治すのは立正佼成会の信仰より早いくらいです。長い間、医者にかかっても治らない病人が、みるみるよくなっていくのです。それを見ていると、こちらがうれしくて仕方がない。おもしろくなってきたのです。  (昭和53年03月【躍進】) 法則の習得 四  たまたま病人のいる家に行きますと、医者にかかって、一生懸命に治そうとしているのですが、いつまでたっても効果がないという問題にぶつかることがあります。中野新橋の芸者置屋のすぐそばの家に住んでいた十三歳になる病気の息子さんは、肺病にかかってやせ細り、じつに情ない状態になっていました。私がその家に商いに行って、いつ悪くなったのか聞いてみると、十一の歳からだといいます。  それは、まさに仏滅の年にあたっていたので、主人の歳を聞いてみますと、その年にドブを直した方罪であることが、はっきりわかりました。当時、私はいつも自分で、そうした法則を調べて書くなどして暗記しておりましたから、歳をいくつかと聞くだけで、あなたはそれを、何歳の時にやったでしょうと、ピシャっといいあてたのです。そうしますと、相手は「それでは、どうすればいいでしょうか」と聞くので、お詫びのしかたを教えてあげました。相手の方も、行商の漬物屋の私のいうことが、ぴったりあたっているものですから、真っ正直に信じてくださったのでしょう。私のいうとおりに、一週間お詫びをされました。そうすると十歳のころからだんだんやせてきて、十三歳のときにはもう、ひょろひょろになってしまって、医者にかけても治らなかった息子さんの病気が、たちまちよくなってからだがピンピンするまでになりました。そのかたはひじょうに喜んでくれましたが、むしろ自分でびっくり仰天するありさまでした。  (昭和32年01月【速記録】) 法則の習得 五  病気で苦しんでいる人を見て、法則どおり、「前の年に便所を西へ動かしませんでしたか」と聞いてみても、八五パーセントぐらいは当たるけれども、残りの一五パーセントぐらいは外れるんです。私としては百パーセント当たらないと信じ切れない。一五パーセント外れるのがどうも気にくわない。けれども、この「我国信徳社」の易学を勉強したことで、一つの法則によって、苦しんでいる人を救ってあげられる信仰、神さま仏さまのお許しをいただいて人助けをさせてもらうというのは気持ちのいいものだなあと味わったのです。  (昭和53年03月【躍進】) 法則の習得 六  物質面だけでははかりきれない、目に見えない法則によって、すべての運命がはかられていることに、私はひじょうに興味をもちました。また、私が、九星の方位や六曜を一生懸命になってやらせていただく機縁が、そこにあったのです。これもまた、詮じつめてみますと、小学校時代に先生がつねづね「人間はなにごとにも真剣になり真心をこめて、精進しなければいけない。そして、その上は仏さま、神さまにおまかせするよりしかたがないんだ」といわれ、「人事を尽くして天命を待つ」という教訓を教えてくださったおかげです。それが、だんだんと大きくふくらんで、真剣な信仰につながっていったのだということを、今、私は思い返すのであります。  (昭和36年04月【速記録】)...

33 ...天狗不動尊 一  人間が信仰にはいる経路にはいろいろなかたちがあって、一概にはいえません。たとえば、お釈迦さまは何不足ない恵まれた境遇の中にあられながら、そうした生活にいいようのない空しさを感じられ、ほんとうに人間を充実させるもの、ほんとうに安らかになれる道を求めて、出家されました。  アショカ大王は、侵略戦争で大殺戮をやって勝った直後、暴力というものの空しさをつくづく感じ、翻然として、より高い世界というか、真実の生き方というか、そういうものを求める心を起こしたのです。  (昭和46年02月【躍進】)  私なども十七、八歳ころまでは信仰にほとんど無関係の生活をしておりまして、身体も健康にめぐまれ、青年時代を自分の思うとおりに過ごしたのでありますが、東京に出てまいりまして、都会生活をするにおよんで、世事万般ひじょうに複雑微妙なものであることを初めて体験したのであります。やがて、結婚をして家庭をもち、子どもが生まれますと、子どもが患うこともあるのであります。こういたしまして、世の中というものは自分だけが丈夫で心配がないからよいというような、そんな簡単なものでないことがわかったのであります。人生はしょせん煩悩具足のものである、ということがたんだんわかるようになり、信仰心もでてきたのであります。そうして、いろいろの信仰をやってみたのであります。  (昭和33年11月【佼成】) 天狗不動尊 二  家内と一緒になった翌年、長女の知子が生まれたのですが、その子が誕生を一か月ほど過ぎたばかりのとき、ひどい中耳炎で、耳のうしろの骨に穴をあけるという大手術をしたのです。  (昭和53年03月【躍進】)  初めての子どもが、耳のうしろの骨に穴を開けるという大手術をしたのだから、私も家内も大きなショックを受けた。手術したあとも、予後がうまくいくか、心配でならなかった。  近所に仲よくしている行商のおでんやさんがいた。山形屋という屋号、いいおやじさんだった。この人が、 「庭野さん、医者もいいけど、いっぺん天狗不動に行ってみたらどうです。あらたかですよ。だまされたと思って行ってごらんなさい」  と、しきりにすすめるのだった。  (昭和51年08月【自伝】) 天狗不動尊 三  天狗不動というのは、近所にあったいわゆる祈祷師だった。もと髪結をしていたという初老のおかみさんが一種のシャーマンで、長屋の六畳の住まいに不動明王をまつり、修験道式の加持祈祷を行なっていた。とても、はやっているらしかった。  山形屋さんのすすめに素直に従って、私はそこへ行ってみた。綱木梅野というそのおばあさんは、神さまを拝んだり、おはらいをしたりしたあげく、こう断言するのだった。 「来月の二十八日には包帯がとれるよ」  そして、生活のうえで守るべきいろいろな注意を申し渡し、また、毎日欠かさずかよって信仰するようにという厳命だった。  私はそれをよく守った。毎晩お参りに行き、神さまを拝み、お加持を受けた。それかあらぬか、手術後の経過はとても順調で、医者も心配はない、といってくれた。しかし、包帯はなかなかとれなかった。  (昭和51年08月【自伝】)  ちょうど同じころ、知り合いの大工さんの子どもが、やはり中耳炎になって、いくら病院へかよっても治らない。うちの子だけどんどんと治るものだからおどろいてしまい、理屈はわからないけれども、とにかく病人が治っていく。「これは、たいしたものだ。これも勉強してみよう」と、毎晩のように不動さまへかようようになったのです。  (昭和53年03月【躍進】)  毎晩天狗不動にかよっているうちに、私はだんだん修験道というものに興味をおぼえるようになってきた。なにしろ、無教育なおばあさんが、次から次へとやってくる人びとの病気をピタリピタリと言い当て、それをどんどん治してゆくのである。不思議だ。理屈はわからないが、たしかに現証はある。心から信ずる気にはなれぬけれども、何かはあるにちがいない。そんな気持ちであった。  ある晩、おばあさんは、あすは不動様のお命日だから、成田不動へお参りしなさいと命ずるのだった。そのことばのとおり、翌日は朝早くからお参りに出かけた。そして家に帰ってみると、子どもの頭に包帯がない。オヤ、と気がついてみると、まさしく今日は一月の二十八日なのだ。家内の話によれば、今日治療に行くと、お医者さんが「さあ、もう包帯はいいだろう」といって、絆そう膏で止めたガーゼに代えられたという。おばあさんの予言はまさしく的中したのだ。  その夜、心ばかりのお金を包んでお礼に行った。ふつうの人は、病気治しや、つきもの落としなどの信仰だから、治ったらやめてしまうのだが、私は「我国信徳社」以来こういうことに興味をもちはじめていたので、そのまま弟子というようなかたちになって、それからも毎晩熱心にかよった。  (昭和51年08月【自伝】) 天狗不動尊 四  綱木ばあさんの弟子には、行者になろうという者が数名いて、ご亭主も弟子の一人であった。かれらは、大寒の最中というのに、井戸端で何十杯も水を浴びるという荒行をやっていた。(中略) 私はただ祈祷をするだけで、いっこうに水をかぶれという命令がなかった。そこで、ある夜、軽い気持ちで、 「私には、水をかぶれといういいつけがありませんね」  と、いってみた。すると、おばあさんは、 「いや、前からちゃんと神さまのお告げが出ている。ただ、あんたの気持ちがそこまでくるのを神さまは待っておられたんだ。さあ、これから水をかぶれ」  私は少々どきんとしながら、 「何杯かぶるのですか?」 「三十五杯」  私は白衣一枚で井戸端へ出た。つるべで水を汲み、教えられた真言を唱えながら、頭からざぶりとかぶった。その冷たさときたら、思わず飛び上がるほどだった。がたがた震えながら、つるべをたぐる。かぶる。また汲む。かぶる。夢中でなんとか三十五杯かぶったが、おしまいごろには背中はすっかり凍ったように、無感覚になってしまった。  (昭和51年08月【自伝】)  あとでふりかえってみると、水をかぶる最中の精神状態というものは、じつに真剣で、一心不乱で、一種の統一状態となるものだ。そして、毎日それをつづけていると、たやすくその統一状態に入れるようになる。条件反射的に、あるいは自己暗示によって、すっとその境地に入っていけるようになる。三昧という境地の一番初歩のものなのであろう。  (昭和51年08月【自伝】) 天狗不動尊 五  水行のあとは、穀物を口にしない穀物断ち、火の通ったものは口にしない火物断ちといった行を積んでいくうちに、いつの間にか師範代になってしまったのです。  (昭和53年03月【躍進】) 〈穀物断ち〉というのは、五穀をいっさい食べないのである。ソバ粉ならいい。炒ってから、湯で練って、塩でも砂糖でも入れて食べる。これを一週間なり三週間なりつづける。田舎で粗食になれているから、われに楽だった。  ところが、つぎにやらされたのが〈火物断ち〉、これはきびしい。火のかかった物がいっさいいけないのだ。生のものばかりを食べなければならぬ。主食はソバ粉を水で溶いて食べる。塩も、砂糖も、火がかかっているからいけない。私は、諦めのいい性質だから、そうと決まったらじたばたしない。素直にそのとおり実行する。この〈火物断ち〉も、割合すんなりやりとおした。  断ちものなどは、ばかばかしいことのように考えられている。たしかに、一般家庭の人たちがやることではない(ただし、ある願を立ててタバコ・酒・マージャン・パチンコ・賭けごと・勝負ごと等々を断つのは、大いに奨励したいことであって、ここにいう断ちものとは、ふつうの飲食物を断つことの意である)。  (昭和51年08月【自伝】) 天狗不動尊 六  釈尊も、苦行の無益なことをさとされ、中道の教えを説いておられる。だが、釈尊もその悟りに達せられるまでには、六年間も言語に尽くせぬ苦行を積んでおられるのだ。一日に米一粒とゴマ一粒しか食べないという、超人間的なことまでされたのである。  私にとっては、真の仏教に触れる前にこうした苦行を経験したのは、けっしてむだではなかったと信じている。自分というものをいっさい投げ捨てて、真理のため、法のため、多くの人びとの幸福のために働こうというほどの者は、一生に一度は、みずからの五欲を断ち切った生活、もっと極端にいえば、死線をさまようぐらいの痛切な体験をすることが必要なのではなかろうか。  何もすすんでやることはない。しかし、そういう使命をもってこの世に生まれたものには、自然とそのような機会が、動機が、めぐってくるのではないか──と思うのである。  (昭和51年08月【自伝】) 天狗不動尊 七  とかく若い人たちは、物事を一応理屈で割り切ろうとする。これはひじょうに良いところでありますが、信仰ということになりますと、なかなか理屈だけで割り切れない場合が多い。そこで納得できないことでも、まず実行してみる。すると「ああ、ここなんだな」と案外簡単にわかることがたくさんあるのですが、理論だけではいつになっても解決にいたらないでしまう。この辺でへこまされては残念だという意地も加わって理屈のための理屈となっては、これは問題になりません。とくに若い人は、いつの時代にも素直な気持ちでなくてはならないので、まずいわれたことは、実行してみると、理屈で考えていたよりも、よくわかる。この体験が一番尊いので……これはひとさまの受けつぎではなく、もう自分のものになった、すなわち一つの悟りを得たわけであるからじつに強いのであります。  (昭和28年02月【佼成】) 天狗不動尊 八  歳とってからは、からだを張った努力はなかなかむずかしくなりますが、若いうちは心身ともにみずみずしく、どんなムリもききます。ですから、若いうちに自分の可能性に挑んでみることです。それが、自分なりの人生を確立する大きな契機となりましょう。  その最大のお手本がお釈迦さまです。無量義経の徳行品で、大荘厳菩薩が「能く諸の勤め難きを勤めたまえるに帰依したてまつる」と申し上げていますが、ほんとうに、そのとおりだと思います。  (昭和46年02月【躍進】)  仏道修行は四角四面の堅苦しいものではない。これほど楽しいものはないのです。人に頼まれたわけではない。自分で選んで苦しみにぶつかっていく。なぜか、これは、自分がギリギリの困難に直面しながらも、その苦しさに勝る喜びがあるからです。  (昭和51年03月【佼成新聞】)  実生活上の修行でもよし、私が体験した信仰生活上の修行でもよし、若い人びとは、ぜひ大死一番の勇気をうちふるって、一時期の艱難辛苦に体当たりしていただきたいものです。  (昭和51年08月【佼成新聞】)...