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人間釈尊12

新しい求道の旅へ…

1 ...人間釈尊(12) 立正佼成会会長 庭野日敬 新しい求道の旅へ… 二人の高名な師に就いたが  菩薩(もはや太子ではなく、衆生を救う道を求める修行者ですから、今後こう呼ぶことにします)は、都の付近にはすぐれた宗教家や哲学者がいるので、そうした師を求めて王舎城に来たのでした。  第一に就いた師はアーラーラ・カーラーマという名高い仙人でした。非常に深遠な境地に達した人でしたが、菩薩はその指導によって短時日のうちに師と同等の境地に達しました。仙人は、――ここにとどまって一緒に弟子たちを指導してくれないか――と懇請しましたが、菩薩は辞退しました。  なぜならば、師の教えは(教え)というよりは師弟一対一の研さんによって得られる特殊な境地であって、とうてい多くの大衆を現実の苦しみから救うことなどできないものだったからです。  次に訪れたのは、これまた高名なウッダカ・ラーマプッタという仙人でした。ここでもしばらくのうちに師と同等の高い境地に達し、――共に弟子たちを指導しよう――と誘われましたが、やはり自分が出家した本来の目的は達成できないと見定め、そのもとを去りました。  菩薩は考えました。――もうこうなったら自分自身の修行と思索によるほかはない――。そう決意して新しい求道の旅へと出発したのです。 菩提の地は美しかった  王舎城から西南の方へ徒歩の旅を続けていた菩薩は、ガヤ山という小さな山に突き当たりました。なんとなく心ひかれた菩薩は、その山に登り頂上を極めてみると、北方の眼下に緑の平野が開け、ネーランジャナー河の青々とした流れを挟んで、美しい林や村々が点々と望まれます。  一本の樹の下に座ってその平和な風景を眺めているうちに、この地こそ自分が修行するのにふさわしい土地ではないか……という思いがきざしてきました。山を下りてあたりを歩きまわってみますと、村人たちはいかにも淳朴(じゅんぼく)そうで静かな生活をしていますし、川の水は清らかですし、林に入ると物音ひとつ聞こえず、木々の精ともいうべき香ぐわしい空気が漂っています。  「よし、ここだ!」  菩薩は林の中の平らな地を選んで草を敷き、禅定の場としました。と、そのとき思いがけないことが起こったのです。ラーマプッタ仙人の所で相弟子だった五人の修行者が突然木々の陰から現れてきたのです。  「ゴータマよ」  「おお、あなた方は……」  「そうです。ぼくらは長い間、師の下で修行してきましたが、どうしても師の教えられるような境地に達することができませんでした。それなのに、後から来たあなたはほんのしばらくの間にそれを達成された……」  「しかも、それにも飽き足らず、さらに高い境地を目指して立ち去って行かれた」  「だからわれわれは――あの人と一緒に修行しようじゃないか――と相談して、こっそり後をつけてきたのです。邪魔はしませんから、どうかおそばで修行させてくださいませんか。お願いします」  菩薩はしばらく考えていましたが、やがて無言でうなずきました。  五人は喜んで、それぞれに林の中に自分の場をしつらえ、そこに落ち着きました。  この五人の修行者こそ、のちに仏の悟りを得られた釈尊が初めて法を説いて教化された、いわゆる五比丘にほかなりません。  法華経序品の最初に出てくる阿若憍陳如(あにゃきょうぢんにょ)もその一人ですし、のちに舎利弗がその端正な相貌を見て驚き、それが舎利弗入門のきっかけになった阿説示(あせつじ)もその一人です。縁というものの、なんという意味の深さでしょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊13

健康な中にこそ真の悟りが

1 ...人間釈尊(13) 立正佼成会会長 庭野日敬 健康な中にこそ真の悟りが 物凄い苦行の連続  ウルヴェーラーの林中での菩薩の修行は実に言語に絶する苦行でした。南伝中部経典の獅子吼大経に、釈尊が舎利弗に当時の思い出を詳しく語っておられるくだりがあります。増壱阿含経巻二十三にもほとんど同じ内容のことが語られています。その主要なところを抜粋してみますと……。  「舎利弗よ。わたしは一日に一食をとり、あるいは二日に一食をとり、七日に一食をとり、このようにして、半月に一食をとるまでに至った。  わたしは、あるいは野草を食し、あるいは草の根を食し、あるいは木の実を食し、あるいは生米を食し、あるいは子牛の糞を食した」  「わたしは、あるときはいばらの上に臥し、あるときは板に打ち込んだ釘の上に臥した。長い間逆さまに立ったままでいたり、一日中直立したままでいたり、足を十字にしてうずくまっていたりした」  「わたしは、墓場に捨てられたボロを着て過ごした。あるいは木の皮や木片をつづったものを着て暮らした」  「わたしは墓場に行き、骸骨を寝床にしてその上に寝たこともあった。そのとき牧童たちがやってきてわたしに唾を吐きかけ、からだの上に放尿し、塵あくたをまき散らし、両耳の穴に木片をさしこんだ。しかし、わたしは彼らに対し悪心を起こさなかった」  「一日に一粒の米と一粒の麻の実を食することを続けた。わたしの臀部はラクダの足のようにやせこけてしまった。手で腹をなでると背骨に触った。大小便をしようとしてしゃがむと、ヨロヨロと頭を前にして地に倒れるのだった。手で肌をこすると、体毛は毛根からボロボロ抜け落ちた」 苦行は正覚の道ではない  「止息禅(しそくぜん=呼吸を止める禅定)をも試みた。口と鼻からの呼吸をせき止めた。そのとき、耳から大きな音を立てて風が出て行くのを感じた。たとえば鍛冶工のふいごによって吹かれるような物凄い響きであった」  「そこで、口と鼻と耳からの呼吸をすっかりせき止めた。すると、物凄い風が身中から吹き起こって頭頂をかき乱し、猛烈な頭痛が起こった。あたかも錐(きり)で頭のてっぺんをグリグリと突き刺すような激痛であった」  「そのときわたしはこう思った。およそ過去のあらゆる修行者の中で、自分以上の猛烈な苦痛を受けた人はないだろう。未来にさまざまな苦行をする人があっても、自分が経験している苦痛を超えることはあるまい。それなのに、わたしは完全な智見に達することができていない。これはどうしたことだろう。悟りに至るには、おそらく他の道があるのではなかろうか……と」  そのとき菩薩は、フト青年時代の一場面を思い出しました。  ――大樹の下で瞑想していたとき、自然に心が静まり、澄み極まり、非常に高い境地に達したことがあった。ああ、そうだ。気力と体力が充実していたからこそ、あのような経験をすることができたのだ――  ――そうだ。人間は生きているのだ。生きている人間の真の悟りは、健康で気力と体力が充実していなければ得られないのだ。今の自分はまるで死人同様だ。身体もひからび、情感もひからびてしまっている。これでは生きている人間を救うための智見など得られるものではない。こうしてはおられない!――  そういう思いがフツフツとわき上がってきました。菩薩は決然として立ち上がりました。立ち上がりはしたものの、足はもつれ、今にも前に崩れ落ちそうでした。しかし、その足を踏みしめ踏みしめ、ネーランジャナー河の岸辺を目指して歩き始めたのでした。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊14

わいてきた新しい勇気

1 ...人間釈尊(14) 立正佼成会会長 庭野日敬 わいてきた新しい勇気 魚たちは自然に生きている  苦行をやめる決心をした菩薩はよろよろと立ち上がると、まず墓場に行き、それまで着ていた木の皮をつづった衣を脱ぎ捨て、死体を包んであった白布を拾って服装を整えました。そしてネーランジャナー河の岸辺へ這うようにしてたどりつき、腰までの深さの所へ身を浸しました。  朝の川の水は冷たいけれども、快く肌を洗ってくれます。水の中へ目を凝らしてみますと、小魚の群れが泳いでいます。ツツーッと菩薩の体に近寄ってきて、肌を突つこうとして去って行く魚もいます。底の砂の上を半透明な川エビが這っていて、菩薩がちょっと足を動かすと、ヒョイとうしろ向きに跳ねのきます。  「ああ、魚たちもいきいきしているなあ。みんな生きているんだなあ」  そういう思いが菩薩の胸にこみ上げてきたことでしょう。  「遊ぶように生きている。自然に生きている。人間もこのように生きたいものだ……」  なにか新しい勇気がわいてきた菩薩は、長年の垢を懸命にこすり落とすと、岸に上がり、ボウボウと伸びていた髪やひげを剃ってさっぱりしました。 乳粥で心身共によみがえり  そのとき、朝まだきの靄(もや)の中を淡紅(うすくれない)の衣を来た女が近づいてきました。愛くるしい十五、六歳の少女です。湯気の立つ鉢を持っています。少女は菩薩の前にひざまずくと、その鉢をささげて、  「沙門さま。どうぞこれを召し上がってくださいまし」  と言うのでした。  村長(むらおさ)の末娘スジャータでした。スジャータは、信仰心の厚い父の影響で、かねてから修行者と見れば米や麦などを供養するのを楽しみにしている少女でした。きょうのは生の穀物ではなく、濃く煮詰めた牛乳で煮込んだ白米の粥です。菩薩が苦行をやめたのをはるかに見てとった村長が、娘に言いつけて作らせたのです。  菩薩はなんのためらいもなくその乳粥をすすりました。何年ぶりかで口にする人間らしい食物。ひと口吸うごとに全身にしみわたるような滋味、温かみ。身体ばかりでなく、精神にも新しい生気がよみがえってくるのを実感するのでした。  人間は人間らしい食べ物を食べなければならない。それが天地の法則に素直に従う道だ……そういう思いがこのとき菩薩の脳裏に深く刻みつけられたに相違ありません。  だからこそ、後日提婆達多が厳しい戒律改革案をつきつけ、――比丘は在家信者の食事の招待を受けてはならない。比丘は一生のあいだ魚肉を食べてはならない――などと言い出したとき、たちどころにそれを一蹴されたのでした。  また、このときスジャータが供養した乳粥のありがたさ、その意義の深さは、一生釈尊のみ心にしみついていたのです。その証拠には、クシナガラで亡くなられる直前に食事を供養したチュンダに対して、明らかにそのことをおっしゃっておられます。  それはさておき、心身ともによみがえる思いの菩薩は、スジャータに感謝の目礼をしながら鉢を返すと、さてこれからどこで、どんな修行をしなければならないか……と、ゆっくりとあたりを見渡すのでした。  すると、少しばかり上流の対岸にそびえている一連の岩山が目に入りました。「そうだ、あそこへ行ってみよう」。菩薩はまだよろめく足を踏みしめ踏みしめ、中州の砂の上を歩き始めました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊15

生かされている思いを実感

1 ...人間釈尊(15) 立正佼成会会長 庭野日敬 生かされている思いを実感 前正覚山から菩提樹下へ  スジャータのささげる乳粥を食べて気力と体力を回復した菩薩は、新しい修行の地を探して対岸にそびえる岩山に登ってみました。  その中腹に格好の洞窟がありましたので、中に入って静座し瞑想に入りました。  すると、しばらくしてから地震が起こり、洞窟内にも小さな落石がありました。菩薩は、ここは修行にふさわしい場所ではないと、すぐ立ち去ろうとしました。そのとき空中から声があって、  「これから西南の方に巨大なピッパラ樹があります。その下があなたの道場です。そこで禅定に入られるとよいでしょう」  と告げるのです。  菩薩はさっそく山を下りたのですが、この山(ガジャ山)、菩薩が正覚(しょうがく=最高の悟り)を得る一歩手前に登ったゆかりの山というので前正覚山と名づけられ、今も聖地の一つとしてチベット僧が寺を建ててそこを守っています。  さて、菩薩は再び川を渡って西南の方へ歩いて行きますと、ゆくてにうっそうとしたピッパラの大樹が見えてきました。――ああ、あれこそ――と直感した菩薩がそこへ行ってみますと、いかにも清浄の気に満ちた静かな場所です。  そのとき十二、三歳の少年が柔らかそうな草を籠いっぱい背負って通りかかりました。瞬間、菩薩はむかしの言い伝えを思い出しました。――過去の聖者たちは草を敷いた上に座って悟りをひらいたそうだ。ちょうどいい――菩薩は少年に声をかけました。  「その草をもらい受けたいがどうかね」  少年はニッコリ笑って、  「よろしゅうございます。どうぞお使いください」  「それはありがたい。そなたの名は何というの?」  「スヴァスティカ(吉祥)です」  「ああ、めでたい名だ。その草は何という草?」  「クシャ(功祚)です」  「いよいよめでたい。ありがとう。ありがとう」  菩薩はピッパラ樹の東側にその草を厚く敷くと、まず木のまわりを三回まわってから木に向かって合掌礼拝し、静かに草の上に座ると、背筋を伸ばし、目を半眼に閉じ、最終的な禅定に入ったのでした。 一本の木にも感謝しつつ  禅定に入る前の菩薩の脳裏には、苦行を中止してからのこれまでの出来事が、一連の大きな意味をもったものとして浮かんできました。乳粥を供養してくれた少女の真心、前正覚山で聞いた空中の声、大きな陰をつくって自分の修行を守ってくれるピッパラ樹、刈ったばかりの柔らかい草を快く布施してくれた少年……みんなみんなわたしの求道心を助けてくれる存在だ。天地のすべてのものがわたしを生かしてくれているのだ……そうした思いが心の底に深く静かに広がっていったのでした。  そうした深層意識があったればこそ、やがてそれが形を成して結晶し、(この世の万物はすべてつながり合い支え合って存在しているのだ)という真実の悟りとなって現れたのでありましょう。  それにしても、禅定に入るまでの菩薩の行動の中でいちばん尊く、いちばん美しいと思うのは、ピッパラ樹のまわりを三回まわって合掌礼拝したことです。これはインドでは貴人に対するあいさつの礼儀だったのですが、それを一本の樹木に対してなされたこと、そこに菩薩の人柄の美しさと真摯(しんし)さがマザマザと現れていると、賛嘆せざるを得ません。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊16

阿摩羅識に合致した菩薩の魂

1 ...人間釈尊(16) 立正佼成会会長 庭野日敬 阿摩羅識に合致した菩薩の魂 悪魔が攻撃してきた  菩薩がピッパラ樹のもとで禅定に入っている夜半に、この欲界(欲望を離れることのない者の住んでいる世界)に大きな勢力を持つ魔王が手を替え品を替え悟りの邪魔をしたことが、どの仏伝にも述べられています。  まず若くて美しい自分の娘たちをやって誘惑させます。しかし、菩薩は少しも心を動かさず魔女たちをやさしく諭しましたので、かえって菩薩の立派さに感服してしまい、父のもとへもどって「ムダな反抗はおよしなさい」といさめます。  怒りたけった魔王は、今度はおどろおどろしい怪物たちをやって苦しめようとします。しかし、菩薩は恐れもしなければ、敵意もいだきません。怪物たちはむなしく引き返してしまいました。  そこで魔王は戦法を変え、ずる賢い知恵をはたらかせ、問答のペテンにかけて菩薩の精神を引きずりまわそうとしました。しかし、これも失敗に終わりましたので、絶望した魔王は気を失って倒れてしまったのです。  この魔王の攻勢の順序を日常的な事象に置き換えて考えてみますと、まず物質的・肉体的な欲望への誘惑をこころみ、つぎに暴力によって脅迫し、最後に知的なワナにかけて理性を混乱させようとしたのです。現代のわれわれの周囲には、これとそっくりなことが起こっているわけです。 降魔の二つの解釈  さて、夜半に菩薩を襲った悪魔を降伏させた事実については、二つの解釈が考えられます。  第一は、見えざる世界にこうした魔、すなわち心魔があるけれども菩薩は強い精神力によってそれを寄せつけなかった……という解釈です。つまり、次のようなわけです。  ――座禅のような精神統一の行を適当な指導者なしで行えば、誤ってただポカーンとした恍惚境に入ることがある。そうした精神の空白状態の場合に憑依(ひょうい)することが往々にして起こる。  菩薩の場合も、まだ十分な三昧境に入りきらぬ時そうした憑依が起こりかけたのではないか。幸い菩薩はそれまでに十分な修行を積んでいたために、見事にそれらの悪霊らを撃退し、かえって聖者たるの自信を得たのではないか――と。  第二は、深層心理学的な解釈である。  ――人間の表面の心(顕在意識)の下には底知れぬ隠れた心(潜在意識)が存在している。それは、表面に近いほうから末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)・阿摩羅識(あまらしき)の三層から成っている。  いちばん上にある末那識は、自己中心の心情を引き起こすもので、すべての煩悩の根源である。その奥にある阿頼耶識はあらゆるものごとから受けた印象をそのまま貯蔵し、一切の心作用の原因となるものである。いちばん底にある阿摩羅識は宇宙の大生命に直結する清浄無垢の魂である。つまり仏性です。  さて、禅定に入った菩薩の心がまだ澄み切らぬうちはその末那識からさまざまな迷妄がわき上がって精神をかき乱した。菩薩は冷静にその迷妄の一つ一つを吟味し、しょせんそれらが空(くう)であることを悟った。それが(降魔)である。  そうすることによって潜在意識の底の底までが清まり、菩薩の魂はついに阿摩羅識に合致してしまった。宇宙の根源と合致してしまった! それが仏の悟りの境地である――  この第二の解釈のほうが現代人には納得できるのではないかと思われます。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊17

宇宙の全存在の実相を実感

1 ...人間釈尊(17) 立正佼成会会長 庭野日敬 宇宙の全存在の実相を実感 この世の実相は光明だった  それは十二月八日の朝まだきでした。  深い紺青の空に金星がキラキラと輝いていました。その神秘的な光明を見た瞬間に、宇宙の全存在の実相がアリアリと見えてきました。それは何ともいえず美しく光り輝く状態だったのでしょう。  そのうち夜が明けてきました。静かにあたりを見わたしてみますと、すべての風景が昨日までとは打って変わっているのです。空も、森も、山も、川も、すべてが光り輝いています。野良へ出て行く村人も、たきぎ拾いをしている農婦も、尊く輝いているのです。  天地すべてのものが清らかで、美しく、完全な調和の姿でした。ああ、これがこの世の実相というものか! 菩薩は長い間うっとりと大いなる歓喜にひたっていたのでした。 悟りの内容は何だったか  世尊(すでに仏の悟りを得られたのですから、これからは世尊・仏陀とお呼びしなければなりません)は、うっとりした大歓喜の心境からわれに返られると、こうつぶやかれたといいます。  「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生ことごとくみな如来の智慧・徳相を具有す。ただ妄想・執着あるを以ての故に証得せず」  ――不思議だ。不思議だ。一切衆生はみんな仏と同じ智慧と徳との姿をそなえている。ただ残念なことに、仮の現れである自分の体(からだ)が自分自身だという妄想をもち、その仮の現れに執着しているために、本来の自分というものが証(さと)れないでいるのだ――  これです。これが仏教の源流なのです。後世の人はこの(如来の智慧・徳相)を(仏性)の一語に凝縮しました。そして八万四千の法門といわれる仏の教えは、つまるところその仏性を覆いかくしている妄想・執着を取り除くという一点に帰着する、と要約したのでした。  世尊ご自身も、ピッパラ樹の下に座したまま、そのことについての瞑想・思索の跡をじっくりと振り返ってみられました。  最後の禅定に入られてから、まず心中に確立した真理は(縁起の法)だったでしょう。縁起の法というのは(存在の法則)です。万物・万象はどのように存在するのか。――此れあれば彼れあり。此れ生ずれば彼れ生ず。すべては相依相関して存在し、生滅する――  ――宇宙間のあらゆる物象はこの法則によって発生し、存在し、消滅する。したがって、人間にとって最大の問題である生・老・病・死の苦も、その他のもろもろの憂悲苦悩(うひくのう)も、この法則によれば必ず解決できるものなのだ――  この悟りに基づいてさらに思索を重ね、憂悲苦悩の原因である妄想・執着の発生の順序を悟られたのが(十二因縁)の法門であり、その解決の道を見いだされたのが(四諦)(八正道)の法門だったのでした。  仏の悟りを得られてから七日の間はピッパラ樹(その下で菩提を成ぜられたので菩提樹と呼ばれるようになった)のもとの金剛宝座に座したまま、静かにその悟りをかみしめておられましたが、やがて宝座から立ち上がられると、東の方へ数十歩の間をゆっくりと往復しながら七日間瞑想を続け、その経行道(きょうぎょうどう)の東端からさらに七日の間じっと菩提樹をみつめておられたのでした。  いまもブッダガヤ大塔にお参りしますと、その場所に純白の小さな塔が立っています。観樹塔と名づけられています。七日の間ここから菩提樹をみつめておられた世尊のみ心には正覚を成ずるまで仏身を守護してくれた菩提樹に対するしみじみとした感謝がこめられていたのです。  思うだに美しくも尊い情景です。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊18

五比丘より先に在家の信者

1 ...人間釈尊(18) 立正佼成会会長 庭野日敬 五比丘より先に在家の信者 最初の信者は商人だった  世尊は悟りを開かれてから四十九日の間菩提樹下やあたりの林の中で静かに悟りの喜びをかみしめておられましたが、その間にいろいろなことが起こりました。  第二週目に一人のバラモンが通りかかり、問答をしかけました。  「あんたはバラモンでもないのに、そんな姿をしている。どうしてだい」  世尊は答えられました。  「バラモンとは生まれによるものではない。その人の徳性によってバラモンと呼ばれるかどうかが決まるのだ」  傲慢なそのバラモンは、フフンと鼻で笑って行ってしまいました。世尊の第一番目の弟子となるべきチャンスを、傲慢さのゆえに逃がしてしまったのでした。  そのチャンスをつかんだのはタプッサ、パッリカという二人の旅の商人でした。成道されてから七週目のことです。何台もの牛車に商品を積んで林の中を通っていますと、先頭の牛が急に立ち止まって動こうとしません。不思議に思っていますと、林の神が現れてこう告げたというのです。  「心配することはない。ゴータマ・ブッダという尊師がこの林の中におられる。四十九日のあいだ何も召し上がっておられない。行って麦菓子と蜜団子を差し上げなさい。そのお布施は長年月の間そなたたちに利益と安楽をもたらすだろう」  二人はさっそく世尊をさがし出し、麦菓子と蜜団子をご供養しました。世尊は石の鉢でそれをお受けになり、召し上がってくださいました。二人は世尊の両足に額をつけて礼拝し、  「尊いお方よ。わたくしどもは世尊と世尊の教えに帰依いたします。どうかわたくしどもを在俗信者としてお認めください」  世尊はおうなずきになり、人間としての生き方をわかりやすくお説きになりました。二人は喜びを満面に現しながら、ふたたび世尊の両足を拝しました。  「よろしい。そなたたちが仏と法に帰依したことを認めます」  出家修行者としてお弟子となったのは(初転法輪)のときの五比丘ですが、それより先に在家の者がまず信者になったこと、これは後世のわれわれにとって大いに考えさせられる事実です。 次に女性が在家信者に  右の事実は『五分律』巻十五に明記してありますが、つづいて女性の信者も現れたことが述べられています。  世尊はかつて六年のあいだ苦行されたウルヴェーラーの村に托鉢され、セナーニーというバラモンの門前に立たれました。すると、その家の娘(先に、苦行をやめた菩薩に乳粥を供養した)スジャータはただちに仏鉢を受け取り、おいしい食物を盛ってご供養しました。世尊はそれをお受けになりますと、  「そなたが仏に帰依し、法に帰依することを許します」  と仰せられました。これが女性の信者としてのナンバー・ワンです。  その後、世尊はたびたびこの家に托鉢され、四人の姉妹みんなに同じ許しを与えられました。  のちに僧伽(サンガ)が出来てからは、三自帰(帰依三宝)が仏教信者としての証(あかし)となりましたが、この時期まではまだ(仏)と(法)への二自帰だったわけです。  それにしても、お釈迦さまとその教えに帰依する真心を表した最初の人間が商人だったこと、その次が四人の女性だったことは、大変重要な事実です。のちにお説きになった六波羅蜜の教えの最初に(布施)をあげられたこととも思い合わせて、大きな示唆を感じとらざるを得ません。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊19

成道後の二つの決意

1 ...人間釈尊(19) 立正佼成会会長 庭野日敬 成道後の二つの決意 恭敬の対象は(法)のみ  お釈迦さまはブッダ(覚りをひらいた人)となられてからもやはり人間であった。神になられたのではなく、やはり人間であった。これが後世のわれわれにとっては大変ありがたいことです。そこに人間仲間としての懐かしさも生じ人間の生き方の最高の手本としておん跡を辿っていきたいという気持ちも起こるのです。  雑阿含経・尊重経によりますと、覚りをひらかれたあとの瞑想の中で、ふとみ心をかすめたのは「恭敬(くぎょう)する相手のいないのは苦しいことである」という思いでした。畏れ敬い、帰依する相手があれば、それを心の依りどころとし、手本として生きることができる。そのような相手がいないのは、なんとなく不安である。心細いことである。そういう、いかにも人間らしい思いでした。  そしてお釈迦さまは、そのような相手はいないものかといろいろと思いめぐらしてみられましたが、どうしてもそれがみつかりません。そこで、熟慮のあげく、次のような決意に達せられたのです。  「わたしが恭敬し、奉事するのは(法)しかない。わたしを目覚めさせた正法しかない。法こそがわたしの依りどころである」  これは、ひらかれた正覚の上に加わった(第二の覚り)と言ってもいいでしょう。  また、南伝相応経典六・一によりますと、やはり成道後の瞑想の中で、次のように考えられたといいます。 説法の決意が人類を救う  「わたしの覚った真理は深遠で、難解で、頭脳による思考の域を超えている。世の人々は身のまわりのものごとに執着し、その執着を楽しんでいる。そのような人々に、わたしが覚った(縁起)の道理などとうていわかるものではあるまい。わたしがこの道理を人に説いたとしても、わたしは疲労するばかりだ。憂慮するばかりだ」  そして、積極的に人々に説くことはすまいと考えられた。そのとき、梵天(世界の主とされていた神)がそのみ心の中を知って、このように嘆いたといいます。  「ああ、この世は滅びる。ああ、この世は消滅する。正しい法を覚った人が、何もしたくないという気持ちに傾いて、説法しようとは思われないのだ」  そして梵天はお釈迦さまの前に現れ、「どうか世の人々のために法をお説きください」としきりに懇願し、ついに説法の決意をして頂いた……と仏伝は伝えています。  中村元博士はこのことについて、次のように述べておられます。(『ゴータマ・ブッダ』二一八ページ)  「梵天が説法に踏み切らせたということは、当時最高の神が勧めたということによって説法開始を権威づけたのであろう。ここで注目すべきことは他の多くの世界宗教におけるように最高の神が命じたのではない。人格を完成した人間であるブッダに命令を下し得るものは何も存在しない。決定する者は人間自身なのである」  この解説のように、おそらくお釈迦さまご自身の心中の「説こうか、説くまいか」という二つの意向の葛藤(かっとう)にご自身が決断を下されたのでしょう。「説かなければ覚りは完成しない」これがお釈迦さまの第三の覚りだったということができます。そしてこの第三の覚りがあったからこそ、後世のわれわれは仏教という無上の宝を得ることができたのです。  もし二十世紀のいま仏教がなかったら、梵天の「ああ、この世は滅びる。この世は消滅する」という嘆きが事実となる公算が大いにあります。思えば、この説法の決意こそは人類生き残りのための重大極まる決意だったのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊20

まず一人を導こう

1 ...人間釈尊(20) 立正佼成会会長 庭野日敬 まず一人を導こう 手はじめに旧師と旧友を  「世の人々のために法を説こう」と決意されたからといって、直ちに「多くの大衆を相手に」などと考えられたのではありません。極めて地道に、「だれかこの法を理解してくれる人はないか。まずその人に話してみよう」と考えられたのです。  最初に頭に浮かんだ相手は、旧師アーラーラ・カーラーマでした。あの人にこそと考えられたけれども、すでに死亡していることがわかりました。それならばと、やはり旧師のウッダカ・ラーマプッタを思い浮かべられましたが、これまた、もうこの世にはいないことがわかったのです。  そうなると、次に考えられるのは、かつて苦行を共にした五人の修行者です。五人は、菩薩が苦行をやめたのを見ると、その地を離れてどこかへ去ってしまったのでした。世尊は天眼(てんげん)をもってその行方を探してみられると、ヴァラナシの鹿野苑にいることがわかりました。ヴァラナシは今のベナレスで、当時から仙人や修行者たちの集まる宗教の一大中心地だったのです。  世尊は、思い立つとすぐ出発されました。ブッダガヤからヴァラナシまでは三百キロ以上離れています。その道のりをハダシで歩いて行かれたのです。おそらく十日ぐらいの旅だったでしょう。その熱意にはただただ頭が下がります。 三度拒否されても諦めず  鹿野苑に着かれたのは夕方近くでした。午後のめい想を終えた五人の比丘は、大きく枝を広げたニグローダ樹の下に集まって、くつろいでいました。昼間の暑熱も少しおさまり、木陰にはひんやりした空気が流れていました。  「あ、あれはゴータマではないか」  突然、憍陳如(きょうじんにょ)が西の方を指さしながら言いました。  「えっ。ゴータマ?」  「そうだ。違いない」  「ぼくらに気づいたようだ。こっちへやって来る。だけど、あれは苦行を途中でやめた落ちこぼれだ。敬意を表するのはやめようぜ」  「そうだ。食べ物だけはやってもいいが……」  五人の相談は一決しました。ところが、世尊が目の前に近づいて来られると、全身から光明を発するようなその尊いお姿に打たれて、じっとしてはいられなくなりました。だれからともなく立ち上がり、礼拝して迎え、衣鉢を受け取り、足を水で洗って差し上げたのです。  「ゴータマよ」  ある一人がこう呼びかけました。すると世尊は厳かに宣言されました。  「もうわたしをゴータマと呼んではいけない。わたしはすでに仏陀となったのです。すでに不死を証得したのです。これをあなた方に説いてあげよう」  五人は、法を聞くことだけは拒否しました。三度もそうおっしゃったのに、三度とも拒否しました。しかし、拒否されればされるほど世尊の教化の熱意は燃え上がってきました。その熱意に打たれて、五人の抵抗の気持ちは次第に砕けていき、ついにその夜半、世尊が覚られた正しい生き方の道を、人間として初めて聞くことができたのです。これを初転法輪(しょてんぽうりん)と言います。  それにしても、お釈迦さまのような方でも、  第一に「まず一人を導こうとお考えになったこと」。  第二に「わずか五人を教化するために三百キロもの道を十日もかかって歩いて行かれたこと」。  第三に「三度拒否されても諦めず、ついに教化を果たされたこと」。  この三つは二千五百年後の布教者であるわれわれにとって絶大なる手本であると思います。よくよくかみしめねばならぬ事実です。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊21

初めてサンガができた

1 ...人間釈尊(21) 立正佼成会会長 庭野日敬 初めてサンガができた 初転法輪の内容は  鹿野苑における五比丘への説法で何を説かれたか。いろいろな説を総合してみますと……。  まず「官能の赴くままに欲望の快楽にふけるのはもちろんよくないが、あまりにも身を苦しめる修行も本当の悟りを得る道ではない。この二つの極端を離れて(中道)を行くことが大事である」と説かれました。  次に「この世は苦の世界であるが、苦の原因をつきとめその原因を取り除けば必ず苦は滅することができるのである」ということと、「その(苦を滅する道)は、ものごとを正しく見、正しく考え、正しく語り、正しく行為し、正しい生活をし、正しい努力をし、正しく思念し、正しいめい想をすることである」ということを、微に入り細にわたって懇々と説き聞かせられました。いわゆる(四諦)(八正道)の法門です。  そのとき突然、憍陳如(きょうじんにょ)が「阿若!(あにゃ=解った!)」と叫びました。その叫びにコダマが響き返すように、お釈迦さまは「阿若憍陳如(悟った憍陳如)!」と仰せられました。それから、これが彼の終生の呼び名となってしまったのです。  ついでに述べておきますが、のちの憍陳如は、寛容で情深く、教化力もすぐれていましたので、教団中でも最上座にありました。けれども、謙虚な人柄でしたので、舎利弗や目連のような年少気鋭の実力者たちがときたま憍陳如に気兼ねをするような様子を見せますので、自ら一歩退いて、そうしたニューリーダーたちに思うぞんぶん活躍させたといいます。  さて、憍陳如に続いて、あとの四人の比丘たちも次々に悟りをひらき、阿羅漢(すべての煩悩を去り世の人に尊敬されるに値する人間)の境地に達したのでした。  さきに、二人の商人や四人の女性が世尊の教えに帰依したことを述べましたが、そのとき説かれたのは、「布施の利益(りやく)」「戒(良い生活習慣)の大切さ」「善行をなせば天国に生まれること」などであって、世尊が悟られてブッダとなられた(法)そのものではなかったのです。そのような(法)を聞き、それによって悟りを得たのは、じつにこの五人の比丘が最初だったのです。 仏・法・僧の三宝が確立  しかし、このときの説法においても、その後四十年ほどにわたって繰り広げられた無数の説法においても、奥の奥の真実まではお説きになりませんでした。なぜかといえば、お弟子たちの境地がそれを完全に受け入れられるまでに達していなかったからです。そしてご入滅を前にした法華経の説法において、初めて奥の奥の真実を明らかにされたのです。  さて、その法華経の方便品に、鹿野苑の説法につき次のように仰せられています。(諸法寂滅の相は、言を以て宣ぶ可からず。方便力を以ての故に、五比丘の為に説きぬ。これを(初)転法輪と名づく。便(すなわ)ち涅槃の音(こえ)、及以(および)阿羅漢・法僧差別の名あり)。  ここにありますように、このとき初めて涅槃(ねはん=究極の安らぎ)に至る道が説かれ、阿羅漢という言葉(音)がこの世に現れ、そして仏道修行者の集団である僧伽(サンガ)が生まれ、(仏)と(法)と(僧)との区別とそういう三つの名称(三宝の名)が生まれた……ということは、仏教史上の大きなイベントでありました。  【仏伝が編年史(年次を追った歴史)的に説かれるのは、菩薩の生い立ちから成道後せいぜい王舎城へ到達されるまでと、入滅を前にされた最後の旅のありさまだけです。ですから、これからこの稿も、順序を追った記述ではなく、人間釈尊をしのぶ逸話やイベントを自由に取り上げていきたいと思います】 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊22

親子の絆の究極はここに

1 ...人間釈尊(22) 立正佼成会会長 庭野日敬 親子の絆の究極はここに 父子再会の結果は  シッダールタ太子が王城を捨てて出家された夜は、一子羅睺羅(ラゴラ)が生まれてから七日目でした。ヤシュダラ妃は羅睺羅に添い寝してスヤスヤ眠っておられました。太子はせめて羅睺羅を抱き上げて最後の接吻を与えようと思われましたが、妃が目を覚ましてはいけないと、心を鬼にしてそのまま城外へ出られたのでした。  太子が仏の悟りを得られてから三年(一説には五年)後、一度故郷へ帰られました。まず城外のニグローダの林に居を定め、翌朝城内に入って一軒ごとに托鉢されました。それから王宮に入り、久しぶりに浄飯王と対面し、父王を喜ばされたのでした。その折、「元の太子が町の庶民たちに食を乞うことはやめてくれないか」と言われましたが、「出家修行者の法ですから」とそれだけはキッパリ拒否されました。  七日目の朝のことです。世尊はいつものように大勢の弟子たちと共に町を托鉢しておられました。  ヤシュダラ妃は城の窓から幼い羅睺羅にその様子を見せて、  「ごらん。あの沙門たちの中で目立って立派な大沙門こそが、そなたの父上ですよ」  羅睺羅はかわいい目を見張り、  「わたしはお父さまを知りません。わたしの知っているのは老王だけです」  「いままで話したことはなかったけれど、あの大沙門が父上なんですよ。あの方の所へ行って『遺産をください』と言いなさい」  羅睺羅はチョコチョコと駈け出して行き、  「お父さま。お父さまのそばにいるとわたしはうれしい」と言って、いつまでも近くに立ち、世尊を仰ぎ見ているのでした。  世尊が食事をすませてニグローダの林へ戻ろうとされると、母君から言われたとおり、  「お父さま。遺産をください」  と言い、どこまでも後を追って行きます。やがて林に入られた世尊は舎利弗に向かって、  「舎利弗よ。羅睺羅を出家させてもらいたい。そなたが和上となって教育をよろしく頼む」  と仰せられました。そして目連が羅睺羅の髪を剃り、舎利弗が戒師となって出家の儀式をすませてしまったのです。  ヤシュダラ妃の言われた(遺産)とはどんな意味だったか、それは永遠の謎です。しかし、世尊がただちに羅睺羅を出家せしめられた理由は明白です。法による心の安らぎという不滅の財宝を与えようとの親心だったのです。 父も子も「なし終わった」  まだ五つか六つの子供が出家させられたことは、いかにも痛々しく感じられますが、それは凡慮の感傷であって、もし羅睺羅がカピラバスト国の王となっていたとしたら、後世のわれわれの精神になんらの感動も与えることなく歴史の空白へ消えてしまったことでしょう。  思えばお釈迦さまこそ父らしい父であったのです。真に子を愛する慈父であり、厳父であったのです。その真実は、ご臨終に駈けつけた羅睺羅に対する最後のお言葉にしみじみと込められています。  「羅睺羅よ。悲しみに心を乱してはならない。わたしは父としてそなたになすべきことをなし終わった。そなたは子として父のためになすべきことをなし終わった。いまわたしは涅槃(ねはん)に入るが、やはり永遠にそなたとは父と子である。少しも悲しむことはないのだよ。一切諸法は無常である。この無常を離れて解脱を求めるがよい」  父と子の絆(きずな)の究極はこのような精神性にこそあると知るべきでしょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊23

師弟の信頼ここに極まる

1 ...人間釈尊(23) 立正佼成会会長 庭野日敬 師弟の信頼ここに極まる 釈尊が半座を分けられた  祇園精舎の昼さがり、お釈迦さまは新しくサンガに入ったばかりの比丘たちに法を説いておられました。  そこへよれよれの衣を着た、髪もひげもぼうぼうに伸びた年配の比丘が入ってきました。比丘たちはちょっと振り返ったばかりで、みすぼらしいその比丘に席をあけてあげる者は一人もいませんでした。  その比丘は、じつは大長老の摩訶迦葉だったのです。摩訶迦葉は長い間舎衛城外の林の中でただ一人、座禅と瞑想の生活を送っていたのですから、新入団の比丘たちはだれもその顔を見知ってはいなかったわけです。  摩訶迦葉は、平然として末席にすわりました。はるかにそれを見られたお釈迦さまは、声をかけられました。  「おお、迦葉か。よく来た。さあ、こちらへ来なさい」  迦葉はそれでも末席にすわったままです。お釈迦さまは高座のご自分のお席の半分をあけて、  「さあ、この半座にすわりなさい。そなたとわたしと、どちらが先に出家したのであったかな」  そのお言葉を聞いて新入の比丘たちはびっくりして――原典・雑阿含経巻四五には(身の毛がよだつほど驚いた)とある――乞食同然のその見知らぬ比丘をまじまじと見るのでした。なにしろ仏さまが半座を分けてそこにすわるようにおっしゃるということは、つまりご自分と同格に見ておられることになるのですから。  摩訶迦葉は、  「世尊よ、世尊はわたくしの師でございます。わたくしは世尊の弟子でございます」と答えると、進み出て世尊のみ足を拝し、退いて一隅に座しました。  それにしても、お釈迦さまが弟子に半座を分けようとなさったのは空前絶後のことであって、どれぐらい摩訶迦葉を信頼しておられたかの絶大なる証(あかし)でありましょう。  法華経の見宝塔品に、多宝如来が釈迦牟尼如来に半座を分け、並んですわられたことが述べられていますが、それは同格の仏と仏、この場合は師と弟子です。師弟の信頼ここに極まれり、と言わざるを得ません。 自然と教団の統率者に  お釈迦さまが入滅されてから一週間後のことです。摩訶迦葉はお釈迦さまの一行に合流しようと、多くの比丘たちを引きつれて、パーヴァーとクシナガラの間の街道を進んでいました。  そのとき、クシナガラの方角からやってきた一人の異教徒が「あなた方の師は亡くなられましたよ」と告げました。一同はがくぜんとし、声をあげて号泣する者もいました。  そのとき一人の年老いた比丘が、  「悲しむことはないよ。われわれはいま解放されたのだ。これまで『こんなことをしてはいけない。こんなことはしてよい』と圧迫されていたが、これからは自由になるのだ」  と放言しました。こんな不届き者も大きなサンガの中にはいたのです。  それを聞いた摩訶迦葉が色をなして怒り、はげしく叱責したことは言うまでもありません。  そのとき大迦葉は、――こういう人間がほかにも出てくるかもしれない。サンガ全員を集めて亡き世尊のみ教えを確かめ合う必要がある――と考えました。そして一年後に自ら主宰してそのような集会を開きました。それがいわゆる第一回の結集(けつじゅう)です。  こうして大迦葉は、自然と事実上の教団の統率者となったのでありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊24

以心伝心の妙境

1 ...人間釈尊(24) 立正佼成会会長 庭野日敬 以心伝心の妙境 迦葉を出迎えられた世尊  前回にお釈迦さまと摩訶迦葉との間の深い信頼関係について述べましたが、このお二人の魂の交流はお互いが全く未知の間柄だったときに芽生えたという不思議な事実があります。  摩訶迦葉は王舎城に近い村の生まれで、生家は財力においては国王のビンビサーラ王にもまさるくらいの大富豪だったといいます。そういう家に生まれ、何不自由のない身分でありながら、小さいときから出家の志を持っていたのです。やはり前世からの因縁があったのでしょう。  両親は、せっかくの男の子に出家されてはたまらないと思い、むりやりに嫁を持たせたのでしたが、その嫁がまた強い求道の志を持つ女性だったのです。二人は結婚後も夫婦とは名ばかりで、お互いに励まし合って精神的向上を目指す生活を十二年間も続けました。  そして、ある日ついに意を決し、二人はそろって出家したのでした。夫の迦葉は王舎城の方へ、妻のバドラーはコーサラ国舎衛城の方へ、別れ別れに求道の旅へ出かけました。  さて、霊鷲山におられたお釈迦さまは、迦葉が王舎城に向かって旅して来ることを予知され、十キロぐらいの途中までわざわざ出迎えに出られたのです。迦葉が道端の一本のニグローダ樹の前を通りかかりますと、全身から黄金色の光を発した、見るからに尊げなお方が端座しておられます。迦葉は瞬間的に――ああ、このお方こそわが求める師である――と直感しました。と同時にお釈迦さまのほうでも、  「迦葉よ。よく来られた。ここにすわられるがよい」  と声をかけられました。お二人の歴史的な出会いは、こうした以心伝心の妙境のうちに遂げられたのでした。 禅宗第一の祖師となる  お二人の以心伝心には、「拈華微笑(ねんげみしょう)」という有名な話があります。  お釈迦さまが霊鷲山で大勢の比丘を集めておられたとき、大梵天王が黄色い花一輪を捧げて説法をお願いしました。お釈迦さまはその花を受け取られると、それをグッと聴衆のほうへ差し出されました。みんなは何を言い出されるだろうかと、シーンと静まり返っていたのですが、一言も発せられません。  世尊は黙ったまま大勢の比丘をひとわたり見回されましたが、摩訶迦葉と視線が合ったとたんに迦葉はニッコリ微笑しました。世尊は満足そうにおうなずきになり、次のように仰せられたのです。  「我に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、涅槃妙心(ねはんみょうしん)、実相無相、微妙(みみょう)の法門あり、不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)、摩訶迦葉に付嘱(ふぞく)す」  このお言葉の意味は大体次のとおりです。  「わたしには一切の悟りを秘めた正しい智慧の蔵がある。すべての現象の奥に大調和のすがた(涅槃)を見る言うに言われぬ安らかな心、それは宇宙の実相を明らかにとらえる智慧ではあるが、決まった形式を持ったものではない(無相)、それは言葉でも文字でも教えられない(教外別伝)ものである。この微妙な教えを、摩訶迦葉よ、そなたに一任します。これをよく護り、後世に伝えなさい」  禅宗では、無言の説法を無言の微笑で受け取ったこのやりとりを非常に大切にし、摩訶迦葉を世尊の悟りを伝える第一の祖師としているのです。  今日の社会には情報がはんらんし過ぎて、魂と魂が的確に交流するこのような人間関係が失われつつあるのは残念でなりません。師弟の間でも、家族の間でも。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊25

魂の修行は一生のもの

1 ...人間釈尊(25) 立正佼成会会長 庭野日敬 魂の修行は一生のもの 自殺した出家修行者は  ある日、釈尊教団に痛ましい事件が起こりました。それはゴーティカという比丘が刀によって自殺したのです。  そのときお釈迦さまは王舎城を取り巻く山々の一つ毘婆羅(びばら)山の石室におられ、ゴーティカは反対側の仙人山の洞窟にこもって、ただひとり修行をしていたのでした。  ゴーティカは非常にまじめで、一途(いちず)な性格の人でした。坐禅・瞑想の行を長いあいだ続け、ついに解脱(げだつ)の境地に達したのですが、しばらくのうちにまた煩悩がわき起こり、心をかき乱したのでした。  そこで再び懸命の修行に入りました。次第に心が澄み渡り、また解脱の境地に達しました。しかし、それも長続きせず、またまた心は迷いの黒雲に覆われるのです。このようにして、七度目の解脱を自証したとき――もはやこれ以上退転することがないよう、この澄みきった心のままに死のう――と決心したわけです。  その付近の欲界を支配していた悪魔は、急いでお釈迦さまのもとへ行って彼の心境を告げ、自殺を思いとどまらせるよう進言しました。が、その間にゴーティカは自殺を遂げてしまいました。お釈迦さまは、  「悪魔は人の心に放逸を吹きこむ存在であり、自分の支配下からゴーティカが脱出するのを嫌って、わたしの所へやって来たのだ。しかし、ゴーティカはすべての愛欲を断除したまま涅槃に入ったのである」  とおおせられました。  そして、多くの比丘たちを引き連れてゴーティカが住んでいた洞窟へ赴かれました。すると、彼の遺体の周りには黒い煙のようなものが立ちこめています。  お釈迦さまは、  「あの煙を見よ。悪魔がゴーティカの魂をとりこにしようと探し求めている姿である。しかし、どう探し求めようとも彼の魂をとらえることはできないであろう」  とおおせられ、ゴーティカに記別(仏になるという保証)を授けられました。(これはお釈迦さまの言動と初期の教団のありさまを、比較的忠実に記録した雑阿含経巻三三に明記されており、事実あったことと思われます) 布教行で救われる  ここで絶対に誤解してならないのは、一般の自殺そのものをお認めになったのではないということです。ゴーティカの場合は、純粋に(魂)の問題なのです。人間の理想的な死は、いささかの濁りもない澄み極まった魂をもってあの世へ移行することです。ですから仏教では、そのような死を(無餘涅槃(残りかすのない完全な安らぎの境地))と呼んでいるわけです。  この話は――人間は死ぬまでが修行だ。おのれの至らぬところをサンゲしては心と行いを改めていくことの連続だ――という事実を、マザマザと印象づけるために伝え残されたのではないかと思われます。  ところで、ゴーティカは出家修行者ですから、独座の修行で無餘涅槃にまで行きついたのですが、普通の生活をしながら仏道を求める者(菩薩)は、とてもそういうわけにはいきません。そこでお釈迦さまは六波羅蜜をお説きになったのです。とりわけその第一に(布施)をお置きになったのです。  他のために親切をつくす。人を救うために法を説く。社会のために奉仕する。そういう行いを続けているうちに魂は次第に清められ、煩悩がかえって菩提に変わっていく――と説かれたのです。ここが大乗仏教のありがたいところなのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊26

心美しき富商たち

1 ...人間釈尊(26) 立正佼成会会長 庭野日敬 心美しき富商たち 護弥長者家の大騒ぎは  王舎城切っての大商人護弥(ごみ)家のその日は上を下へのてんてこまいでした。  「大広間には敷物を敷いたか。米は全部洗ったか。芋はそろそろ煮たほうがいいぞ……」  主人が先頭に立って指図をしたり、あっちへ行ったり、こっちへ来たりで、はるばる舎衛城から旅して来て着いたばかりのスダッタはろくろく構ってもらえません。  スダッタは、これも巨万の富を持つ大商人で、大勢のみなし子や養い手のない老人たちへ手厚く施与しているので(給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ))と呼ばれている人でした。護弥家の娘を息子の嫁にもらい受けたいと、その相談に来たのですが、それを言い出すことさえできないテンヤワンヤのありさまです。  「どうしたのです。国王でも招待なさるのですか」と聞けば、  「いいえ。明日ブッダとお弟子方にお越し頂くことになっているんで……」  との答え。よく聞きただしてみると、最近ゴータマ・ブッダというお方がこの地に来られ、多くの人のために尊い法を説いておられるというのです。  「そうですか。わたしもそのお方を拝むことができましょうか」  「できますとも、明日ここへおいでになりますから……」  「いつもはどこにお住まいになっていらっしゃるのですか」  「あっちの町はずれにある寒林(墓場)においでなんですよ」 墓場で釈尊を拝した  その夜、護弥の家に泊まったスダッタは、どうしても熟睡できません。三度も目を覚ましては、ブッダとはどんなお方だろうかと想像し、早くお目にかかりたいという思いに駆られるのでした。そして、ついに堪え切れなくなって、まだ夜も明けやらぬのに屋敷を抜け出してしまったのです。  墓場といっても、そのころのインドでは、穴を掘って埋めるわけではなく、死体は地上に置いたままにしていたのです。お釈迦さまは、菩薩としての苦行中から、そうした墓場で座禅したり、瞑想したりなさいました。骸骨を寝床として眠られたこともありました。(本稿第13回参照)。おそらく「死生一如」ということを悟り切るためになさったことと思われます。  さて、スダッタが寒林にさしかかると、あたりはまだまっ暗です。林をわたる風が不気味な音を立てています。スダッタは総身の毛が逆立つような恐ろしさに襲われ、思わず引き返そうとしました。そのとき、何ともしれぬ大きな力が前へ前へと引きつけるのを覚えるのでした。勇を鼓して歩を進めて行きますと、林がすこしひらけたところを、見るからに神々しいお方がそぞろ歩きをなさっているのです。  「ああ、あのお方こそ……」と直感して近づいていくと、そのお方はこちらを振り向かれ、「よく来た。スダッタよ」と声をかけられたのです。  向こうからわが名を呼ばれたスダッタは、夢かと驚き、全身の血が喜びに沸き立つ思いでした。われ知らずおそばに駆け寄り、そのみ足に額をつけて拝しました。お釈迦さまは、「さあ、そこに座りなさい」と優しくおっしゃって、人間として大切な布施のこと、戒のこと、歩むべき正しい道などをお説きになりました。スダッタがどんなに感激したか、想像に余りあります。  これが、後に祇園精舎を寄進したスダッタとお釈迦さまの尊い出会いだったのです。  それにしても、護弥長者といい、給孤独長者といい、ほんとうに人間らしい、精神性の高い大富豪たちがいた昔のインドが、つくづく懐かしく思われてなりません。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊27

永遠不滅の大布施

1 ...人間釈尊(27) 立正佼成会会長 庭野日敬 永遠不滅の大布施 信仰の喜びに燃える富豪  前回の話の続きになりますが、舎衛城から息子の嫁とりに来たスダッタ(給孤独長者)は、思いがけなくもゴータマ・ブッダという尊い師にお目にかかり、教えを受けることもできました。  そして、護弥長者がブッダをご招待申し上げたご供養の席にも連なることができました。このようなすがすがしい感激は生まれて初めて味わうものでした。  お食事が終わって、ブッダが鉢と手を洗い終わられたのを見て、スダッタはおん前に進み出て申し上げました。  「世尊。願わくはわたくしのおりますコーサラ国の舎衛城にも布教にお出かけ頂きとう存じますが……」  世尊は深くおうなずきになりました。  「ありがとうございます。わたくしは全財産をなげうっても、世尊とお弟子方のために精舎を建設いたします」  「いや、スダッタよ。出家修行者は林の中や空き家での修行を楽しむものです」  雨季以外は一滴の雨も降らないインドでは、森林や野原に寝ても平気だったのです。しかし、道も田畑も水びたしになる雨季にはそうはいきません。布教の旅もできないので、ある一ヵ所にとどまって座禅その他の修行をするのが教団のしきたりになっていたのです。これを雨安居(うあんご)、または夏安居(げあんご)と言います。そこでスダッタは申し上げました。  「世尊よ。雨安居ということもございます。ぜひ精舎の建設をお許しくださいませ」  世尊は黙っておうなずきになりました。さあ、スダッタの胸は燃え上がりました。また、結婚の話も護弥長者の快諾を得ましたので、スダッタは足も地に着かないような気持ちで舎衛城へ帰って行ったのです。 (祗園精舎)縁起  帰り着くやいなや、スダッタは適当な土地の検討を始めました。城外で、町から遠からず近からず、静かで景色の美しい所……と探してみたところ、祇陀(ぎだ)太子の所有される園林しかないという結論に達しました。  そこで太子を訪れ、その土地を譲ってくださいとお願いしたところ、太子は冗談半分に申されました。  「あの土地全体に金貨を敷きつめたら、それと引き換えに譲ってやろう」  スダッタは、家に帰ると早速使用人たちに命じて、その土地に金貨を敷き始めたのです。それを聞いた太子は驚いてスダッタのところに飛んで来て、  「やめなさい、スダッタよ。あの土地はわたしに返しておくれ。わたしがそのゴータマ・ブッダという尊いお方に寄進しよう」  スダッタは考えました。――祇陀太子は広く世に聞こえた実力者だ。あの高名なお方が信仰を起こして寄進されたとあれば、ブッダの教団も大発展するに違いない――と。そして、その場で太子の申し出を受け入れました。  まず太子が門屋を造り、スダッタが大金を惜しげもなく注ぎこんで、道場から、宿房から、料理場から、蒸気ぶろまで完備した大精舎を造り上げたのです。そして、その名を(ジェータ(祇陀)・ヴァーナ(園林)・ヴィハーラ(精舎))と名づけました。自分の名前を表に出さないところに、スダッタの奥ゆかしさがしのばれます。しかし、中国の人がそれを漢訳するとき給孤独(ぎっこどく)長者の名を入れて(祇樹給孤独園)としました。それがわが国でいう祇園精舎にほかなりません。  お釈迦さまがその精舎で数多くの尊い教えをお説きになり、ハシノク王をはじめ多くの人々を教化され、舎衛国を舞台としてさまざまな信仰美談が生まれたことを思えば、スダッタの布施は永遠不滅の大功徳であるということができましょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊28

釈尊一日のお暮らしは

1 ...人間釈尊(28) 立正佼成会会長 庭野日敬 釈尊一日のお暮らしは 食事は一日に一度  わたしどもはお釈迦さまのたくさんの教えを学び、数々の教化の実例を聞き、さまざまな逸話を読んで、お釈迦さまの全体像はある程度頭の中にえがいていますが、さて実際にどんな一日をお暮らしになっていたか、それをまとまった形では知らされていませんでした。ところが、幸いにも中村元先生が、精舎にお住まいの場合の一日をあらゆる文献からまとめて『ゴータマ・ブッダ』という本に発表されていますので、おおむねそれに基づいて一日のご日課を紹介させて頂くことにしましょう。  インドの人たちは早起きですが、お釈迦さまもずいぶん早くお目覚めだったようです。そして口をすすがれてから、ご自分の部屋で静かにひとときを過ごされました。おそらくしばしの瞑想にお入りになっておられたのでしょう。  托鉢の時間が来ると、外出用の衣に着がえて、町や村へ出かけられます。お一人の場合もありますし、弟子たちをお連れになることもありました。  町や村の人たちは、おいでになるのを待ち受けていて、お釈迦さまを拝しては鉄鉢の中にお米、その他の食物を入れてさしあげます。お釈迦さまは黙然としてそれをお受けになります。  人びとは布施をさせて頂く、そして功徳を積ませて頂くという気持ちでさしあげるのであって、恵むなどという気持ちは毛頭ありません。お釈迦さまも、その布施を黙然としてお受けになり、頭一つお下げになりません。礼などを言えば、せっかくの布施の功徳が消えてしまうという理念からです。現在もその風は東南アジア諸国の僧侶と信者との間に残されています。  弟子たちを引き連れて托鉢される場合は、町や村の人びとは「わたくしには十人の沙門さまに供養させてください」「わたくしには二十人を」といったふうに、争うようにして布施の受納をお願いしたといいます。  精舎にお帰りになりますと、受けられた食物で食事をおとりになります。あるいは信者の招待で、その家で供養を受けられることもありました。その場合は、そこに集まった人びとに法をお説きになってから、精舎にお帰りになります。いずれにしても、食事は一日にその一回きりだったのです。 瞑想と説法の午後と夜  精舎に帰られたお釈迦さまは、お弟子たちに戒を与えられたり、瞑想の指導などをされます。それをうかがってからお弟子たちは、森へ行ったり、丘に登ったりして、それぞれの修行に入ります。  お釈迦さまは、気が向けば横になられます。そして疲れがとれると、起き上がって「世を見つめる瞑想」に入られます。  そうしているうちに在家の信者たちが香や花などの供物を持ってお参りに来ます。お釈迦さまはそれらの人びとに、やさしく法を説いておやりになるのです。  その後、浴室に入って水を浴びられることもあり、そしてふたたび居室に入って座禅瞑想をされます。  夜になると、修行僧たちが個人的な指導を受けに来ます。それに対して一々ていねいにお答えになり、ご指導をされます。  もう少し夜が更けると、神々が降りて来てさまざまな質問を発したり、ご指導を受けたりしたことがしばしばあったといいます。  もっと夜が更けると、長い一日の疲れをとるためにそぞろ歩きをなさり、それからおやすみになります。右脇を下にした、いわゆる「獅子臥」の姿勢で眠りにおはいりになるのです。  これが人間釈尊の一日だったのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊29

説法を聞きながら切開手術

1 ...人間釈尊(29) 立正佼成会会長 庭野日敬 説法を聞きながら切開手術 人間的に愛されていた阿難  お釈迦さまは、仏陀としては万人・万物に平等な慈悲をお垂れになったことは申すまでもありませんが、人間釈尊としていちばん愛されたのは、常随の侍者阿難ではなかったかと思われます。  阿難は、お釈迦さまが出家された年に、浄飯王の弟、甘露飯王の子として生まれました。つまり従兄弟(いとこ)に当たるわけです。お釈迦さまが成道後初めて帰郷されてからマガダ国へお帰りになる時、阿那律や提婆と一緒に出家して王舎城へとお供したのでした。その時は十二歳だったといわれています。  お釈迦さまには、おそばにいて身の回りのお世話をする侍者がおりましたが、あまりにお気に召さず二、三人代わったように伝えられます。ところが、阿難が選ばれてお仕えするようになってからは、主従というより、あるいは師弟というより、親子といったほうがふさわしいほどの間柄になり、入滅されるまでの約二十五年の間、ずっとおそばについていたわけです。  ですから、仏伝の中でも人間的情愛に富んだエピソードとなると、阿難との間の話が断然多いのです。そのいくつかを紹介してみましょう。 阿難ならではの無痛手術  阿難は、舎利弗とか、目連とか、摩訶迦葉といった人たちと違って、智慧において格段に鋭いものがあるとか、神通力の持ち主であるとかいった際立った特微はなかったのですが、しかし、法を聞くことの熱心さと、それをよく記憶していることにおいては人並みすぐれたものがありました。  お釈迦さまが王舎城の竹林精舎におられた時、阿難の背中に大きな腫れものができ、たいへん苦しんだことがありました。  お釈迦さまは、さっそく名医耆婆(ぎば)を呼んで、治療を命ぜられました。耆婆は患部を診察してから、お釈迦さまにこっそり申し上げました。  「あの腫れものは切開しなければ治りません。切開には相当な痛みが伴います。世尊や上首の長老がたは、定(じょう=精神統一)に入って痛みを忘れることがおできになりますけれども、失礼ながら阿難尊者にはまだ無理だと存じますが……」  それをお聞きになった世尊は、しばらくお考えになっておられましたが、やがてこうおっしゃいました。  「いいことがある。そなたの手術中、わたしが阿難に法を説いて聞かせよう。さあ、手術の用意をしなさい」  用意ができると、世尊は阿難と差し向かいにお座りになり、説法をお始めになりました。阿難はいつものように目を皿のようにして世尊を見つめ、耳を澄まして一言一句も聞き逃さないように聞き入っています。  その間に耆婆は阿難の後ろに回りメスをふるって腫れものを切開し、膿(うみ)をすっかり出し、その跡に膏薬を塗って手術を終えました。  耆婆が手術の完了を目で合図しますと、世尊は、  「どうだ阿難。いま耆婆がそなたの腫れものを切開手術したが、痛くはなかったか」  とお聞きになりました。阿難は、  「えっ、手術したのでございますか。ぜんぜん存じませんでした。痛くもなんともございませんでした」 と申し上げました。  「そうか。よかった、よかった」 世尊は満足そうにおうなずきになりました。  なかなか味わい深い話ではありませんか。  世尊の思いやりの智慧と、名医耆婆のメスさばきと、阿難の聴法の熱心さと、三位一体で成しとげられた無痛手術の一幕でありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊30

霊鷲山での世尊と阿難

1 ...人間釈尊(30) 立正佼成会会長 庭野日敬 霊鷲山での世尊と阿難 洞穴で相通じていた居室  霊鷲山にお詣りするには、旧王舎城跡(今はジャングル化している)を南北に走る本道から分かれ、いわゆる頻王道(ひんおうどう=ビンビサーラ王が造ってさしあげた登山道)をあえぎあえぎ登っていくのです。その頂上近くに阿難窟という石窟があります。阿難が座禅・瞑想の修行をした場所です。  頂上の狭い平地にはお釈迦さまのお住まいのご香室があり、今はその基壇のみが残っていますが、わずか四坪ばかりの一室の趣です。  ところで、阿難窟はご香室のちょうど真下に当たり、頂上の北側の巨岩の中から洞穴が阿難窟のすぐ近くにまで通じているのです。  そうした配置から推察しますと、阿難は、昼間はご香室にいてお身の回りのお世話をし、また、頂上からやや下の南側にある平地で大衆に法華経や無量寿経などの説法をなさるときもおそばにいて聴聞し、夜になると自分の石窟に下がって、一人、修行したもののようです。 大鷲に脅された阿難を  その付近には獰猛な大鷲がたくさんおり、虎もよくうろついていました。現代になってもやはり虎が出没し、高楠順次郎博士が踏査に行かれたときも、虎のうなり声を聞いて急ぎ行動を中止されたこともあるそうです。  阿難は温順で優しい性格だった半面、剛毅さに欠けていました。恐怖心も俗人並みで、自分でもそれを反省していたらしく、中阿含経第四七に次のような記述があります。  阿難が一人静かな所で黙想しているとき、こう考えました。「恐怖というものは智慧の至らなさから起こるのではないか。智慧が明らかであれば恐怖は起こらないのではないか」。そこでお釈迦さまのもとへ行き、そのことを申し上げると、お釈迦さまは、  「よくそこに気がついた。ごく小さな枯れ草から起こった火が大きな楼閣をも焼きつくすように、真理を知らぬ迷いから恐れや不安や憂いが起こる。過去に対する悔恨も、現在に対する憂慮も、未来に対する不安も、すべて真理を知らぬことから起こるのである」とおおせられた、とあります。  さて、ある夜更けに霊鷲山の石窟で阿難が瞑想をしていますと、魔王がその修行を妨げようとして巨大な鷲の姿となって洞窟の入り口の岩に止まり、大きな翼を羽ばたいてものすごい音を立て、闇をつんざくような叫び声をあげました。  阿難は恐ろしさのあまり、身がすくみ、ブルブル震えるばかりでした。そのとき、世尊は頂上のご香室にあられましたが、神通力をもって洞穴を通じて阿難の頭を撫でられ、「これは魔王の脅しに過ぎない。少しも恐れることはないのだ。そなたの心が恐れさえしなければ、魔王すら何も危害を加えることはできないのだ」と、おおせられました。  そのご一言で、阿難はすっかり心身の落ち着きを取り戻し、再び瞑想の修行に戻ることができた……と、『大唐西域記』に記されています。  お釈迦さまは常に理性的な教えによる教化を旨としておられましたが、まだ悟りを開いていない者に対しては、時と場合によってはこのように神通力をもって慈愛の手を差し伸べられたのです。  とりわけ阿難に対してはそのような事例が多く、追って二、三紹介しますが、そういうところにお釈迦さまの人間性の豊かさと大きさがうかがえるように思われるのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊31

破戒の危機を救われた阿難

1 ...人間釈尊(31) 立正佼成会会長 庭野日敬 破戒の危機を救われた阿難 阿難の最大の女難  阿難は年も若く、まれに見る美男子だったといいます。ある日、托鉢からの帰りみち、のどが渇いて仕方がなかったところ、泉のほとりで一人の娘が水を汲んでいました。  「その水を一杯供養してもらいたいんだが……」と頼むと、娘はもじもじしながら汲んでさし出しました。  うまそうに飲んで軽く目礼をして立ち去っていく後ろ姿を見送りながら、プラクリティというその娘はたちまち燃え立つような恋心にとりつかれてしまいました。家に帰ったプラクリティは、呪(まじな)い師だった母親に「あのお方を家に呼び寄せて……」と頼みました。母親が「いいえ、五欲を離れた出家の方には呪いは通じないんだよ」とさとしましたが、「あの方と添えないぐらいなら、わたしは死んでしまう」と泣きくずれるのでした。  一人娘の可愛さに、母親があらゆる秘術をつくして祈ったところ、それが通じたものか、祇園精舎にいた阿難はついフラフラとプラクリティの家まで来てしまいました。母娘はたいへんに喜び、美しいベッドを用意して阿難を招き入れました。  その時、祇園精舎におられたお釈迦さまは、愛弟子が破戒の危機にあることを天眼(てんげん)をもって知られ「戒の池清らにして、衆生の煩悩を洗う云々」という偈を唱えられ、定(じょう)に入られました。と、阿難は何か柔らかい風のようなものに包まれたような気持ちになり、われ知らず精舎へと立ち帰ったのでした。 プラクリティの回心  明くる日から、阿難が托鉢に出ると、プラクリティは舎衛城の城門の所に待ち受けていました。美しい服を着、髪には花を飾り、キラキラ輝く首飾りをつけ、阿難のすぐうしろについて来るのです。阿難が歩けば歩き、止まれば止まります。町の人が食物を捧げれば、傍らからジッとそれを見ています。  托鉢を終えて城外に出ても、やはりあとからついてきます。祇園精舎の中に入っても、しばらくは門の前に立ちつくしています。  阿難は恥ずかしいやら煩わしいやらでたまらず、世尊にそのことを申し上げました。世尊はすぐ門の外へお出になり、  「娘よ、そなたは阿難の妻になりたいのか」とお尋ねになりました。プラクリティが顔を赤らめながら「はい」とお答えすると、  「では、出家することが条件であるぞ。それでいいか」  とお聞きになります。プラクリティは素直に、「はい、出家いたします」と言うのでした。  「では、父母に話して許しを得てきなさい」とおおせられました。  プラクリティはさっそく家に帰って父母を説き伏せ、黒髪を剃って世尊のもとへ戻ってきました。ただもう阿難のそばにいたい一心からだったのでしょう。そこで世尊は、  「娘よ、色欲は火のように自分を焼き、相手をも焼くものだ。それを知らぬ者は、蛾が灯火の中へ飛びこむように自分を滅ぼすのだ」と、こんこんと言い聞かせられました。プラクリティはもともと純情な娘でしたので、たちまち証(さと)りをひらき、りっぱな比丘尼になったのでした。  それはさておき、当時のインドでは身分の制度が非常に厳しく、たまたまプラクリティがいちばん低い身分の家の子でしたので、その娘を出家させたのはけしからんと、猛烈な非難が国内にわき起こりました。しかし、世尊はまったくそれに耳をかさず、「人間はすべて平等である」という信念をつらぬかれたのでした。お釈迦さまこそ、真の民主主義の始祖でもあったと言っていいでしょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...