全ページ表示

1ページ中の 1ページ目を表示
人間釈尊(5)
立正佼成会会長 庭野日敬

「四門出遊」に見る太子の心

もののあわれを感ずる人

 少年シッダールタ太子はある日、郊外にある外苑に遊びに行こうと馬車に乗って出かけました。その途中、王宮内では見たことのない人間に出会いました。汚れた白髪がそそけ立ち顔も手もしわだらけでやせこけ、腰は曲がり、杖にすがってヨロヨロと歩いています。
 お供の者に、「あれは何者か」と尋ねますと、「老人でございます」との答え。「老人とは何か」と聞けば「人間は生まれてから長い年月がたちますと、みんなあのようになるのです」と答えます。太子は何とも言えぬ悲しい気持ちになりました。もう遊びどころではありません。そのまま馬車を引き返させました。
 それからしばらくして、また外出することがありました。すると、道ばたに倒れている人がいます。真っ青な顔で、苦しそうにうめき声をあげています。「あれは何者か」と家来に尋ねますと、「病人でございます」との答え。「病人とは何か」「体の調子が良くない者でございます。人間はたいていあのようになるのでございます」。太子は深く心を痛め、また馬車を引き返させました。
 またあるとき外出しますと、白い布で全身を巻いた人間をタンカに乗せて担いで行くのを見ました。顔色は土のようで、身動きひとつしません。「あれは何者か」「死んだ人でございます」「死ぬというのはどんなことか」「息をしなくなり、魂が飛び去ってしまうことでございます」。
 「死んだ者はどうなるのか」と聞きますと、「ごらんのように町の外へ運ばれ、寒林に捨てられます。しばらくのうちに肉は腐り、白骨ばかりが残るのでございます」「だれでも死ななければならないのか」「生まれた者は必ず死ななければなりません」
 「そうか……」。悲痛の思いにうなだれながら、太子はまた宮殿へ引き返してしまいました。
 ところが、ある日また外出しますと、じつに素晴らしい様子の人に出会いました。粗末な衣を着ていますが、その眼は澄み、顔色は端正で、これまで一度も見たこともない尊い相好をしています。「あれは何者か」と問えば「沙門という修行者です」との答え。太子は思わず馬車から降りてあいさつし、いろいろと質問しました。その沙門は、
 「わたくしは、在家の生活をしておりましたころは、老・病・死を恐れ、心の安まるときもありませんでした。そこで出家して修行を積み、ようやくすべての苦悩から抜け出すことができました」と話します。
 それを聞いた太子は、にわかに顔を輝かせ、「ああ、それこそわたしが求めていた道だ」と、力強く言い放ったのでした。

深くみつめ、考える人

 以上の会話はだれにもわかるようにやさしく書かれておりますが、これは、幼・少年時代から壮年期に至るまでの太子の見聞や内的経験を一連の出来事としてまとめた(四門出遊)という物語で、これが太子の出家の素因となったものとされています。作り話のようですが、出家された動機の真実を示しているといえましょう。
 この仏伝を読んでつくづくと感じ入ることは、太子が人一倍(もののあわれを感ずる人)であったと同時に、(ものごとを深く見つめ、深く考える人)であったということです。
 もののあわれを感ずるというのは、美しい魂の持ち主であるということです。ものごとを深く見つめ、深く考えるというのは、すぐれた知性の持ち主である証拠です。最近のウキウキした暮らしに慣れ切った日本人には、どうやらこの二つの心が失われているように思われます。(心の時代)に入りつつあるという今日、われわれが回復しなければならないのはこの二つの心ではないでしょうか。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎

関連情報