杉並の支部長さんがきょうは当番でいらっしゃる。去年だんなさまを亡くしてたいへんお力を落しになった。ほんとうにお気の毒だと思います。しかしだんなさまがいるときも、だんなさまはご法の人だから奥さんの活動を別に制限するわけでも、じゃまするわけでもない。誠にけっこうなのですけれども、だんなさまが亡くなってさびしいという気持ちも、いまは少し薄らいで、そしていよいよ悟りを開いて、ほんとうのきれいな気持になるということになれば、だんなさまのいないほうが、いたときよりもよほどきれいなお気持ちになれる。仏教で「無」ということをいうのはそれをいっているのです。そういう気持ちが在家の出家という気持ちなんです。
妙佼先生がみなさんにいろいろ言ったことのいちばん奥義は何かというと「無になれ」ということなのです。とらわれない身になれということなのです。
この間、九州、中国の二教区の教会長さん二十五名ほど集まって、私がまん中に入って法座主をして普門館の会議室で指導会を行なった時に、教会長さんの尋ねることでこういうことがあったのです。信仰をしている人の二代さんです。中学を出ている子がこういうことを言ったというのです。「前には、たいへん修行というのはつらいものだというので、家に置いていかれちゃったり、さびしい思いをしたりしてえらいつらいというようなことを聞いている。ところが最近は非常に恵まれて、なにも不都合がなくて、物があって、家が円満で、なにも悪いことがないから物足りないというんで、どうゆう心構をしたらいいだろう」というようなことを聞かれたというのです。それは、ほんとうに考えさせられたという話なんです。それで私、ちょっとおどかしちゃたんです。それはあなたの状態じゃないか、いま質問しているけれど、いま教会長になっていい気持ちになって、世間で佼成会さまか、神さまかといって、明るい社会づくりだとかだれも悪口をいうものがない。ところが、われわれが広めようとしたはじめのころは「ああ、あの拝み屋か」というようなことで軽べつされた。
うちの次男が最近こんなことを言う。自分の経歴を書けというときに、おやじは何の商売だと書くときに、拝み屋、宗教家というのは書きにくくて、なんとかかんとかごまかしておいたというんです。どうも拝み屋の子だなんていうのは、世間の人に笑われやせぬかというような肩身の狭い気がしたというんです。ようやくこの間、拝み屋というのはいいんだなあということがわかったと、うちの次男が言うのです。