ただし、霊感だなどと言っている方が、どういう状態かと伺うと、最近よく眠れない。熟睡が出来ない。夜二時間ぐらいしか眠れないという健康状態の人が、そういうことを言い出すとなると、これはあまりあてにならぬ、そういう異常をきたした人が言っていることに惑わされるというと、健康な人までおかしくなってくるわけです。うっかりしていると魔が入って妙なことになることが、往々にしてあるわけです、妙佼先生はそういうことをあまり喜ばぬのです。妙佼先生も始終神さまが下っていろいろのことがあったのは、創立当時、七、八年ごろです。とめようと思っても止まらないで、ご神示があったのです。ところが亡くなる以前から「霊感というのはどうも間違いが多い。こういうことを信者にやらしちゃいけない」と言うので、それを一切自分が封じて、こうゆうことをやっちゃいけないということでした。
お釈迦さまの時代を考えてみますと、目連尊者は神通第一というので修行もきびしかったと思うのです。その目連尊者がお釈迦さまがなくなる直前に、非業の死を遂げたわけであります。なぜ非業の死を遂げたか、別の信仰者の方が目連尊者を恨んでいたわけです。なぜかというと、あまり神通力があってなんでも見抜かれるということで恨みを持っていたわけで、そこへ目連がくるだろうというので待っていたわけですから、本来なら神通力でそこへ行けばそういうものが待ち伏せていてなぐられるということがわかるはずなのです。ところがそこへ行ってなぐられて殺されてしまった。そういうことが起ったわけです。智慧第一という舎利弗、神通第一の目連。この上首の二人が、お釈迦さまが、なくなるということを予言してからわずかの間に、こともあろうに一人じゃなく二人、死んだのですからたいへんな出来ごとです。
これはどういうことかというと、前世の因縁ということなのです。前生に犯した因というものは、自分でそれだけの業があれば、必ず、今世どんな偉い人でも業がそこにまつわるんだという、ひとつのお諭しがあったわけです。ただ宿命論だけにとらわれて、過去に悪い因があればどうにもならないということになると、宗教は落第になります。そういう悪因があっても、悟りを開いてほんとうにしっかりと精進すれば、悪因が善因に変わるというところに宗教の大事なことがあるわけです。
必ず宗教は懺悔滅罪というので、業障であっても、心の持ち方、行ないの仕方、修行の仕方、功徳の積み方、そうゆうもので転ずることがあるわけです。基本的には「なさざれば受くることなし」ということばのとおりに、目連尊者の前世はどういうことかというと、他の奥さんをだまして色情の因縁を犯したわけです。ご主人がじゃまになって夜道歩いてくるのを待ち伏せして殺して道の端へ投げて知らぬ顔をしていたわけです。そうゆう罪を犯した霊魂を持って今世インドに生まれてきた。それだけの重い罪があるものだから、ちょっとやそっとの罪じゃないわけです。奥さんをだましただけでも悪いのに、そのご主人まで殺して道端に捨てる。それはやっぱり自分が殺されて道の端に捨てられたということだけは、ちゃんと型のごとくやられたわけです。
お釈迦さまの一番弟子、二番弟子という人でも、過去の業が重ければこれだけの業を報いなければならないんだということです。