•    なさざればうくることなし

     本日は、妙佼先生のご命日にたくさんの方々がお参りをくださいまして、きょうは普門館のほうもいっぱいだそうでございますが、さだめし妙佼先生もお喜びだと存じます。
     どうしてお喜びかというと、妙佼先生は皆さんが真心で仏さまにご供養をする、読経供養というものを仏さまに真心でするということを皆さんに実行していただきたい、そういうことを一生懸命自分で身をもって行じながらおすすめをしたわけであります。そのことを本日おいでの方々みなさまが、十六回忌の法要に真心からなる菩提心を起こして、すみやかに成仏をしていただきたいという真心の読経ができたわけであります。ですから、自分の考えておったこと、こうしてほしいということ、そのことを皆さんによって実行されたのですから、これは何よりも妙佼先生がお喜びであるということは、私、確信をもって申し上げられるわけでございます。
     ただいまは、また渋沢さんが昭和二十年の二月に入会したそうでございますが、だいぶ古い信者でございまして、ご家族が全部信仰にまつわる方々と縁組ができたということでたいへんお幸せだというお話をしておられました。「両先生のおかげ」ということを皆さん言いますけれども、仏教では「なさざれば受くることなし」といいまして、先生のおかげでみんな救われるのなら、まことに簡単ですけれども、そうはいかないのです。救われるという人は、みな自分で行なった人なのです。行じた人なのです。行じなければだれもしあわせにはならぬのです。幸せになった人というのは、自分で行じたということなのです。
     最近、妙佼先生がご降臨になっていろいろお告げがあるというので私の家までわざわざ手紙を持ってくるご婦人もあるわけで、手紙に要項が書いてありまして、それを読んでみますと、たいした不思議もないことでありますが「最近みなさんが、たいへんご功徳にあずかっているけれども、神さま、仏さまの説き方が皆さんの法座の中でどうも薄い、もっと神さまの愛をしっかり説いてほしいんだ」ということが書いてございました。これはあまり間違っておりませんから、ありがたく私は受けました。このことは皆さんもほんとうに肝に銘じてやっていただければよろしいと思います。ただ、仏さまのご慈悲とか、神さまの愛というようなものは、いくら説いても説きたらないのですから、こういうのはありがたく私どもご注意を受けて、実践に移せばいいと思うのであります。

  •    なさざればうくることなし

     本日は、妙佼先生のご命日にたくさんの方々がお参りをくださいまして、きょうは普門館のほうもいっぱいだそうでございますが、さだめし妙佼先生もお喜びだと存じます。
     どうしてお喜びかというと、妙佼先生は皆さんが真心で仏さまにご供養をする、読経供養というものを仏さまに真心でするということを皆さんに実行していただきたい、そういうことを一生懸命自分で身をもって行じながらおすすめをしたわけであります。そのことを本日おいでの方々みなさまが、十六回忌の法要に真心からなる菩提心を起こして、すみやかに成仏をしていただきたいという真心の読経ができたわけであります。ですから、自分の考えておったこと、こうしてほしいということ、そのことを皆さんによって実行されたのですから、これは何よりも妙佼先生がお喜びであるということは、私、確信をもって申し上げられるわけでございます。
     ただいまは、また渋沢さんが昭和二十年の二月に入会したそうでございますが、だいぶ古い信者でございまして、ご家族が全部信仰にまつわる方々と縁組ができたということでたいへんお幸せだというお話をしておられました。「両先生のおかげ」ということを皆さん言いますけれども、仏教では「なさざれば受くることなし」といいまして、先生のおかげでみんな救われるのなら、まことに簡単ですけれども、そうはいかないのです。救われるという人は、みな自分で行なった人なのです。行じた人なのです。行じなければだれもしあわせにはならぬのです。幸せになった人というのは、自分で行じたということなのです。
     最近、妙佼先生がご降臨になっていろいろお告げがあるというので私の家までわざわざ手紙を持ってくるご婦人もあるわけで、手紙に要項が書いてありまして、それを読んでみますと、たいした不思議もないことでありますが「最近みなさんが、たいへんご功徳にあずかっているけれども、神さま、仏さまの説き方が皆さんの法座の中でどうも薄い、もっと神さまの愛をしっかり説いてほしいんだ」ということが書いてございました。これはあまり間違っておりませんから、ありがたく私は受けました。このことは皆さんもほんとうに肝に銘じてやっていただければよろしいと思います。ただ、仏さまのご慈悲とか、神さまの愛というようなものは、いくら説いても説きたらないのですから、こういうのはありがたく私どもご注意を受けて、実践に移せばいいと思うのであります。

  •  ただし、霊感だなどと言っている方が、どういう状態かと伺うと、最近よく眠れない。熟睡が出来ない。夜二時間ぐらいしか眠れないという健康状態の人が、そういうことを言い出すとなると、これはあまりあてにならぬ、そういう異常をきたした人が言っていることに惑わされるというと、健康な人までおかしくなってくるわけです。うっかりしていると魔が入って妙なことになることが、往々にしてあるわけです、妙佼先生はそういうことをあまり喜ばぬのです。妙佼先生も始終神さまが下っていろいろのことがあったのは、創立当時、七、八年ごろです。とめようと思っても止まらないで、ご神示があったのです。ところが亡くなる以前から「霊感というのはどうも間違いが多い。こういうことを信者にやらしちゃいけない」と言うので、それを一切自分が封じて、こうゆうことをやっちゃいけないということでした。
     お釈迦さまの時代を考えてみますと、目連尊者は神通第一というので修行もきびしかったと思うのです。その目連尊者がお釈迦さまがなくなる直前に、非業の死を遂げたわけであります。なぜ非業の死を遂げたか、別の信仰者の方が目連尊者を恨んでいたわけです。なぜかというと、あまり神通力があってなんでも見抜かれるということで恨みを持っていたわけで、そこへ目連がくるだろうというので待っていたわけですから、本来なら神通力でそこへ行けばそういうものが待ち伏せていてなぐられるということがわかるはずなのです。ところがそこへ行ってなぐられて殺されてしまった。そういうことが起ったわけです。智慧第一という舎利弗、神通第一の目連。この上首の二人が、お釈迦さまが、なくなるということを予言してからわずかの間に、こともあろうに一人じゃなく二人、死んだのですからたいへんな出来ごとです。
     これはどういうことかというと、前世の因縁ということなのです。前生に犯した因というものは、自分でそれだけの業があれば、必ず、今世どんな偉い人でも業がそこにまつわるんだという、ひとつのお諭しがあったわけです。ただ宿命論だけにとらわれて、過去に悪い因があればどうにもならないということになると、宗教は落第になります。そういう悪因があっても、悟りを開いてほんとうにしっかりと精進すれば、悪因が善因に変わるというところに宗教の大事なことがあるわけです。
     必ず宗教は懺悔滅罪というので、業障であっても、心の持ち方、行ないの仕方、修行の仕方、功徳の積み方、そうゆうもので転ずることがあるわけです。基本的には「なさざれば受くることなし」ということばのとおりに、目連尊者の前世はどういうことかというと、他の奥さんをだまして色情の因縁を犯したわけです。ご主人がじゃまになって夜道歩いてくるのを待ち伏せして殺して道の端へ投げて知らぬ顔をしていたわけです。そうゆう罪を犯した霊魂を持って今世インドに生まれてきた。それだけの重い罪があるものだから、ちょっとやそっとの罪じゃないわけです。奥さんをだましただけでも悪いのに、そのご主人まで殺して道端に捨てる。それはやっぱり自分が殺されて道の端に捨てられたということだけは、ちゃんと型のごとくやられたわけです。
     お釈迦さまの一番弟子、二番弟子という人でも、過去の業が重ければこれだけの業を報いなければならないんだということです。

  •  ただし、霊感だなどと言っている方が、どういう状態かと伺うと、最近よく眠れない。熟睡が出来ない。夜二時間ぐらいしか眠れないという健康状態の人が、そういうことを言い出すとなると、これはあまりあてにならぬ、そういう異常をきたした人が言っていることに惑わされるというと、健康な人までおかしくなってくるわけです。うっかりしていると魔が入って妙なことになることが、往々にしてあるわけです、妙佼先生はそういうことをあまり喜ばぬのです。妙佼先生も始終神さまが下っていろいろのことがあったのは、創立当時、七、八年ごろです。とめようと思っても止まらないで、ご神示があったのです。ところが亡くなる以前から「霊感というのはどうも間違いが多い。こういうことを信者にやらしちゃいけない」と言うので、それを一切自分が封じて、こうゆうことをやっちゃいけないということでした。
     お釈迦さまの時代を考えてみますと、目連尊者は神通第一というので修行もきびしかったと思うのです。その目連尊者がお釈迦さまがなくなる直前に、非業の死を遂げたわけであります。なぜ非業の死を遂げたか、別の信仰者の方が目連尊者を恨んでいたわけです。なぜかというと、あまり神通力があってなんでも見抜かれるということで恨みを持っていたわけで、そこへ目連がくるだろうというので待っていたわけですから、本来なら神通力でそこへ行けばそういうものが待ち伏せていてなぐられるということがわかるはずなのです。ところがそこへ行ってなぐられて殺されてしまった。そういうことが起ったわけです。智慧第一という舎利弗、神通第一の目連。この上首の二人が、お釈迦さまが、なくなるということを予言してからわずかの間に、こともあろうに一人じゃなく二人、死んだのですからたいへんな出来ごとです。
     これはどういうことかというと、前世の因縁ということなのです。前生に犯した因というものは、自分でそれだけの業があれば、必ず、今世どんな偉い人でも業がそこにまつわるんだという、ひとつのお諭しがあったわけです。ただ宿命論だけにとらわれて、過去に悪い因があればどうにもならないということになると、宗教は落第になります。そういう悪因があっても、悟りを開いてほんとうにしっかりと精進すれば、悪因が善因に変わるというところに宗教の大事なことがあるわけです。
     必ず宗教は懺悔滅罪というので、業障であっても、心の持ち方、行ないの仕方、修行の仕方、功徳の積み方、そうゆうもので転ずることがあるわけです。基本的には「なさざれば受くることなし」ということばのとおりに、目連尊者の前世はどういうことかというと、他の奥さんをだまして色情の因縁を犯したわけです。ご主人がじゃまになって夜道歩いてくるのを待ち伏せして殺して道の端へ投げて知らぬ顔をしていたわけです。そうゆう罪を犯した霊魂を持って今世インドに生まれてきた。それだけの重い罪があるものだから、ちょっとやそっとの罪じゃないわけです。奥さんをだましただけでも悪いのに、そのご主人まで殺して道端に捨てる。それはやっぱり自分が殺されて道の端に捨てられたということだけは、ちゃんと型のごとくやられたわけです。
     お釈迦さまの一番弟子、二番弟子という人でも、過去の業が重ければこれだけの業を報いなければならないんだということです。

  •    「無」こそ信仰の真髄

     六波羅蜜の最後に「智慧」というのがあります。「智慧」という字の「智」の場合には「差別」のほうです、知識があるから白いものは白い。黒いものは黒い。冷たい。あたたかいとかいうことは智があるからいろいろのことがわかるわけでございます。「慧」のほうはどうかというと「平等」ということなのです。一方は差別。一方は平等。この二つが完全に調和をしたところが智慧なのです。
     唯物主義なんていうのは、物だけを見ているのですから一方的になり金をためればよくなるだろうと思う。金などためたら苦労の種になるんです。
     日本は、かつてドルがなかった時代。十年前十八億ドル、基本通貨がドルの時代ですから、いまはドルが値打ちがなくなったけれども。そういう時代に十八億ドルぐらいあればなんとか日本の経済が……二十億ドルなくちゃほんとうじゃないのを十八億ドルだというようなことをいったことを私は記憶をいたしております。それがどうです。いま百八十六億ドルできている。十倍以上になっているわけです。このままいくと二百億ドルになるといわれています。アメリカから因縁つけられるのは金持ちになったからです。貧乏人はけんかをするけれども、金持ちはけんかをしないという、昔からの原則があります。いまわれわれが平和問題を考えてもまことに自然であります。とにかく百八十六億ドルもあるんだから、「ソ連で北方のいろいろな問題があったら油田のほうに融資を二十億ドルぐらい欲しがっているから貸してやってもいいよ。中共とおつき合いしても、一時建設のため、十億ドルの立替は、つらくもなにもない」――外交的な辞令をいっておけば、向こうはありがたがって喜んで受けると思う。
     一方アメリカの力のあるほうは、日本に対して、毎年毎年四十億も、五十億も黒字になるというのに知らぬ顔で、自分のほうのつらいときに「なんとかしてくれ」というようなことで、「制限、制限」といって自分のほうの商社をうまくやろうという政策をやっておりながら、今度は黒字になったのだから、少しはアメリカの気持にもなってくれというんだけれど、そういうことはかまわずに商社がもうけて、どんどん残してくれれば、それだけ国の力がつくんだというような顔をしているから、これでは政府が無責任だというので、いろいろ外交で責められているということなのです。
     私どもは問題を差別ばかり見てはいかぬのです。なぜみんなが悩んでいるかというと、みんな金持ちになって物には困らないけれども、安心できない世の中である、前途に対して生きがいというものがない。年寄りの問題。子供の教育はどうだとか、なかなか国の中のいろいろな状態を見るというと、まことに安定できないようであります。こうゆうことは、かつて妙佼先生がご在世中「まず捨てなさい」の一言で、人間まことにきれいさっぱりとしたいい心になれるのであります。あるうちは物にとらわれて、きれいな気持ちにはなれないのです。

  •    「無」こそ信仰の真髄

     六波羅蜜の最後に「智慧」というのがあります。「智慧」という字の「智」の場合には「差別」のほうです、知識があるから白いものは白い。黒いものは黒い。冷たい。あたたかいとかいうことは智があるからいろいろのことがわかるわけでございます。「慧」のほうはどうかというと「平等」ということなのです。一方は差別。一方は平等。この二つが完全に調和をしたところが智慧なのです。
     唯物主義なんていうのは、物だけを見ているのですから一方的になり金をためればよくなるだろうと思う。金などためたら苦労の種になるんです。
     日本は、かつてドルがなかった時代。十年前十八億ドル、基本通貨がドルの時代ですから、いまはドルが値打ちがなくなったけれども。そういう時代に十八億ドルぐらいあればなんとか日本の経済が……二十億ドルなくちゃほんとうじゃないのを十八億ドルだというようなことをいったことを私は記憶をいたしております。それがどうです。いま百八十六億ドルできている。十倍以上になっているわけです。このままいくと二百億ドルになるといわれています。アメリカから因縁つけられるのは金持ちになったからです。貧乏人はけんかをするけれども、金持ちはけんかをしないという、昔からの原則があります。いまわれわれが平和問題を考えてもまことに自然であります。とにかく百八十六億ドルもあるんだから、「ソ連で北方のいろいろな問題があったら油田のほうに融資を二十億ドルぐらい欲しがっているから貸してやってもいいよ。中共とおつき合いしても、一時建設のため、十億ドルの立替は、つらくもなにもない」――外交的な辞令をいっておけば、向こうはありがたがって喜んで受けると思う。
     一方アメリカの力のあるほうは、日本に対して、毎年毎年四十億も、五十億も黒字になるというのに知らぬ顔で、自分のほうのつらいときに「なんとかしてくれ」というようなことで、「制限、制限」といって自分のほうの商社をうまくやろうという政策をやっておりながら、今度は黒字になったのだから、少しはアメリカの気持にもなってくれというんだけれど、そういうことはかまわずに商社がもうけて、どんどん残してくれれば、それだけ国の力がつくんだというような顔をしているから、これでは政府が無責任だというので、いろいろ外交で責められているということなのです。
     私どもは問題を差別ばかり見てはいかぬのです。なぜみんなが悩んでいるかというと、みんな金持ちになって物には困らないけれども、安心できない世の中である、前途に対して生きがいというものがない。年寄りの問題。子供の教育はどうだとか、なかなか国の中のいろいろな状態を見るというと、まことに安定できないようであります。こうゆうことは、かつて妙佼先生がご在世中「まず捨てなさい」の一言で、人間まことにきれいさっぱりとしたいい心になれるのであります。あるうちは物にとらわれて、きれいな気持ちにはなれないのです。

  •  杉並の支部長さんがきょうは当番でいらっしゃる。去年だんなさまを亡くしてたいへんお力を落しになった。ほんとうにお気の毒だと思います。しかしだんなさまがいるときも、だんなさまはご法の人だから奥さんの活動を別に制限するわけでも、じゃまするわけでもない。誠にけっこうなのですけれども、だんなさまが亡くなってさびしいという気持ちも、いまは少し薄らいで、そしていよいよ悟りを開いて、ほんとうのきれいな気持になるということになれば、だんなさまのいないほうが、いたときよりもよほどきれいなお気持ちになれる。仏教で「無」ということをいうのはそれをいっているのです。そういう気持ちが在家の出家という気持ちなんです。
     妙佼先生がみなさんにいろいろ言ったことのいちばん奥義は何かというと「無になれ」ということなのです。とらわれない身になれということなのです。
     この間、九州、中国の二教区の教会長さん二十五名ほど集まって、私がまん中に入って法座主をして普門館の会議室で指導会を行なった時に、教会長さんの尋ねることでこういうことがあったのです。信仰をしている人の二代さんです。中学を出ている子がこういうことを言ったというのです。「前には、たいへん修行というのはつらいものだというので、家に置いていかれちゃったり、さびしい思いをしたりしてえらいつらいというようなことを聞いている。ところが最近は非常に恵まれて、なにも不都合がなくて、物があって、家が円満で、なにも悪いことがないから物足りないというんで、どうゆう心構をしたらいいだろう」というようなことを聞かれたというのです。それは、ほんとうに考えさせられたという話なんです。それで私、ちょっとおどかしちゃたんです。それはあなたの状態じゃないか、いま質問しているけれど、いま教会長になっていい気持ちになって、世間で佼成会さまか、神さまかといって、明るい社会づくりだとかだれも悪口をいうものがない。ところが、われわれが広めようとしたはじめのころは「ああ、あの拝み屋か」というようなことで軽べつされた。
     うちの次男が最近こんなことを言う。自分の経歴を書けというときに、おやじは何の商売だと書くときに、拝み屋、宗教家というのは書きにくくて、なんとかかんとかごまかしておいたというんです。どうも拝み屋の子だなんていうのは、世間の人に笑われやせぬかというような肩身の狭い気がしたというんです。ようやくこの間、拝み屋というのはいいんだなあということがわかったと、うちの次男が言うのです。
     

  •  杉並の支部長さんがきょうは当番でいらっしゃる。去年だんなさまを亡くしてたいへんお力を落しになった。ほんとうにお気の毒だと思います。しかしだんなさまがいるときも、だんなさまはご法の人だから奥さんの活動を別に制限するわけでも、じゃまするわけでもない。誠にけっこうなのですけれども、だんなさまが亡くなってさびしいという気持ちも、いまは少し薄らいで、そしていよいよ悟りを開いて、ほんとうのきれいな気持になるということになれば、だんなさまのいないほうが、いたときよりもよほどきれいなお気持ちになれる。仏教で「無」ということをいうのはそれをいっているのです。そういう気持ちが在家の出家という気持ちなんです。
     妙佼先生がみなさんにいろいろ言ったことのいちばん奥義は何かというと「無になれ」ということなのです。とらわれない身になれということなのです。
     この間、九州、中国の二教区の教会長さん二十五名ほど集まって、私がまん中に入って法座主をして普門館の会議室で指導会を行なった時に、教会長さんの尋ねることでこういうことがあったのです。信仰をしている人の二代さんです。中学を出ている子がこういうことを言ったというのです。「前には、たいへん修行というのはつらいものだというので、家に置いていかれちゃったり、さびしい思いをしたりしてえらいつらいというようなことを聞いている。ところが最近は非常に恵まれて、なにも不都合がなくて、物があって、家が円満で、なにも悪いことがないから物足りないというんで、どうゆう心構をしたらいいだろう」というようなことを聞かれたというのです。それは、ほんとうに考えさせられたという話なんです。それで私、ちょっとおどかしちゃたんです。それはあなたの状態じゃないか、いま質問しているけれど、いま教会長になっていい気持ちになって、世間で佼成会さまか、神さまかといって、明るい社会づくりだとかだれも悪口をいうものがない。ところが、われわれが広めようとしたはじめのころは「ああ、あの拝み屋か」というようなことで軽べつされた。
     うちの次男が最近こんなことを言う。自分の経歴を書けというときに、おやじは何の商売だと書くときに、拝み屋、宗教家というのは書きにくくて、なんとかかんとかごまかしておいたというんです。どうも拝み屋の子だなんていうのは、世間の人に笑われやせぬかというような肩身の狭い気がしたというんです。ようやくこの間、拝み屋というのはいいんだなあということがわかったと、うちの次男が言うのです。
     

  •  最近、みなさまの生活があまりにもいいもんだから世の中を救おうという、こんなに救われているというほうに重点があって、自分のいまのこの状態を崩さないでいきたいという考えでもって消極的になっているんです。これがいちばん救われない種なんです。救われない種はそこにあるんです。こんなに救われているんだから、世界の状態をながめて、ひとつ不幸な人を幸せにしようと奮起すればいいんです。
     現在、おなかいっぱい食べて、物がたくさんあるという国が世界の二〇%です。ひもじい思いをして、食べることに大変な国は八〇%なんです。二割の人がおなかいっぱい食べて楽々と物がある。そういう状態だから、中近東にしても南方にしても争いが起きるんです。私はさっき金持ちはけんかしないと言ったが、ほんとうに金のある人はけんかをしないでもいい状態なんです。食うものも、金もないからけんかが起こるという問題なんです。そういう問題を人のことだと思って知らぬ顔をしているような考えでは、いま安泰だと思っても、諸行は無常です。無常迅速の風がいつ早くくるかわからないのです。この八〇%の人にもおなかいっぱい食べさせる方法を考えてあげようという神の愛、仏の慈悲がなければ、世界は平和にならないのです。アメリカなどは金はある。金物でけんかをしなければいいのにベトナム戦争をしている。これは道楽で人に戦争さしておもしろがっているといっても言い過ぎではないと思うのです。大国が小国の力のない、食うに困るような国にけんかをさしていつまでも楽しんでいるというのは許されないことです。ですから世の中の心ある人が、ほんとうに意思を固めて、そして世界の政治というものは、そういう邪道はすみやかにやめさせるという、そうゆう形のことが、ちゃんと呼ばれなければならない、こういうことがいまの時代の法華経を弘める者の役じゃないか、私はそう思っているのです。

  •  最近、みなさまの生活があまりにもいいもんだから世の中を救おうという、こんなに救われているというほうに重点があって、自分のいまのこの状態を崩さないでいきたいという考えでもって消極的になっているんです。これがいちばん救われない種なんです。救われない種はそこにあるんです。こんなに救われているんだから、世界の状態をながめて、ひとつ不幸な人を幸せにしようと奮起すればいいんです。
     現在、おなかいっぱい食べて、物がたくさんあるという国が世界の二〇%です。ひもじい思いをして、食べることに大変な国は八〇%なんです。二割の人がおなかいっぱい食べて楽々と物がある。そういう状態だから、中近東にしても南方にしても争いが起きるんです。私はさっき金持ちはけんかしないと言ったが、ほんとうに金のある人はけんかをしないでもいい状態なんです。食うものも、金もないからけんかが起こるという問題なんです。そういう問題を人のことだと思って知らぬ顔をしているような考えでは、いま安泰だと思っても、諸行は無常です。無常迅速の風がいつ早くくるかわからないのです。この八〇%の人にもおなかいっぱい食べさせる方法を考えてあげようという神の愛、仏の慈悲がなければ、世界は平和にならないのです。アメリカなどは金はある。金物でけんかをしなければいいのにベトナム戦争をしている。これは道楽で人に戦争さしておもしろがっているといっても言い過ぎではないと思うのです。大国が小国の力のない、食うに困るような国にけんかをさしていつまでも楽しんでいるというのは許されないことです。ですから世の中の心ある人が、ほんとうに意思を固めて、そして世界の政治というものは、そういう邪道はすみやかにやめさせるという、そうゆう形のことが、ちゃんと呼ばれなければならない、こういうことがいまの時代の法華経を弘める者の役じゃないか、私はそう思っているのです。

  •    六波羅蜜こそ平和の根源

     この間ドイツへ十八日間ほど旅行してまいりました。旅行というのは、国際自由宗教という宗教の団体があるわけです。もとはキリスト教国際自由宗教だったんです。ところが佼成会が入会することになって、「キリスト教」というのをくっつけてはうまくないということで、いろいろ考えた末、日本の今岡信一良という正則学園の校長さんが、長年世界中の国際宗教の方に主張してきたんです。キリスト教でかたまっているところの国際自由宗教だからキリスト教を取るというのは大変なことですよ、私ども佼成会に「佼成」を取ってしまえと、いわれて簡単に「はい、よろしゅございます」とはいかないですよ。それと同じでなかなかむずかしいことなんです。それがボストンにおいて三年に一回ずつの大会があるんです。この大会が二十回というのですから、六十年の歴史があるわけです。そういう連合体が、ちょうど大会をやったときに、私はボストンに行ったんです。世界宗教者の平和会議のために、そしたらその会議に出てくれと言われ、ところがキリスト教とつけておいたのでは入ろうたって入れないわけです。別に私は主張も何もしないのですけれども、向こうで三年前の大会において、六十年の歴史、第二十回の大会においてキリスト教を取ってしまって、全く国際自由宗教にしたわけです。それで私を仲間にしたわけです。入っていったら、この人が国際自由宗教の中でいちばん大教団を統理している人だと紹介されたのです。私はそんなことはないだろうと思ったんですが、入っていろいろ経歴を聞いてみると一つの教会を持っているとか、一つの連合体とかというのが佼成会だけの信者の数がなかったんですね。それじゃ、私がいちばん最高の教団を持っているということがわかったわけです。私は入会した当日に理事になっちゃった。私は役員なんてなりたいと思っていないのです。ところが二十一回の大会を西ドイツでやるということで、どうしても来てくれということで、初めての大会の前の理事会にうかがったわけです。そしていろいろのことをやっていると、ドイツでもその会に入りたいという教団が二つほどあるというのですが、なかなかみんな入会させないのです。あそこのところはもう少し見てからでいいじゃないか。入りたいとはいっているけれども、ああゆうのを入れると濁されるのじゃないかと。キリスト教ですよ、キリスト教の牧師さんが入りたいというのをなかなか満場一致で入れないんです。
     ボストンでは私みたいな仏教徒を満場一致でもって入れて、そして理事に推薦するなんて馬鹿な話ですね。毎年理事会があるわけですから、この次までお手並みを見て、ほんとに純心な気持で入ってこられる状態であるならば入れようじゃないかというので許可をしないわけです。向こうの人達はユニテリアンといっている。アメリカならアメリカがユニテリアンという。入会したということはたいへん名誉なんだと。大学の総長だとか、教授だとか肩書きのある学校の先生だとか、立派な人ばかり入っているのです。

  •    六波羅蜜こそ平和の根源

     この間ドイツへ十八日間ほど旅行してまいりました。旅行というのは、国際自由宗教という宗教の団体があるわけです。もとはキリスト教国際自由宗教だったんです。ところが佼成会が入会することになって、「キリスト教」というのをくっつけてはうまくないということで、いろいろ考えた末、日本の今岡信一良という正則学園の校長さんが、長年世界中の国際宗教の方に主張してきたんです。キリスト教でかたまっているところの国際自由宗教だからキリスト教を取るというのは大変なことですよ、私ども佼成会に「佼成」を取ってしまえと、いわれて簡単に「はい、よろしゅございます」とはいかないですよ。それと同じでなかなかむずかしいことなんです。それがボストンにおいて三年に一回ずつの大会があるんです。この大会が二十回というのですから、六十年の歴史があるわけです。そういう連合体が、ちょうど大会をやったときに、私はボストンに行ったんです。世界宗教者の平和会議のために、そしたらその会議に出てくれと言われ、ところがキリスト教とつけておいたのでは入ろうたって入れないわけです。別に私は主張も何もしないのですけれども、向こうで三年前の大会において、六十年の歴史、第二十回の大会においてキリスト教を取ってしまって、全く国際自由宗教にしたわけです。それで私を仲間にしたわけです。入っていったら、この人が国際自由宗教の中でいちばん大教団を統理している人だと紹介されたのです。私はそんなことはないだろうと思ったんですが、入っていろいろ経歴を聞いてみると一つの教会を持っているとか、一つの連合体とかというのが佼成会だけの信者の数がなかったんですね。それじゃ、私がいちばん最高の教団を持っているということがわかったわけです。私は入会した当日に理事になっちゃった。私は役員なんてなりたいと思っていないのです。ところが二十一回の大会を西ドイツでやるということで、どうしても来てくれということで、初めての大会の前の理事会にうかがったわけです。そしていろいろのことをやっていると、ドイツでもその会に入りたいという教団が二つほどあるというのですが、なかなかみんな入会させないのです。あそこのところはもう少し見てからでいいじゃないか。入りたいとはいっているけれども、ああゆうのを入れると濁されるのじゃないかと。キリスト教ですよ、キリスト教の牧師さんが入りたいというのをなかなか満場一致で入れないんです。
     ボストンでは私みたいな仏教徒を満場一致でもって入れて、そして理事に推薦するなんて馬鹿な話ですね。毎年理事会があるわけですから、この次までお手並みを見て、ほんとに純心な気持で入ってこられる状態であるならば入れようじゃないかというので許可をしないわけです。向こうの人達はユニテリアンといっている。アメリカならアメリカがユニテリアンという。入会したということはたいへん名誉なんだと。大学の総長だとか、教授だとか肩書きのある学校の先生だとか、立派な人ばかり入っているのです。

  •  立派な人だから私はたくさんの信者がついていると思うと、わりあい信者がついていないわけです。ですから百万世帯なんていうのは全然ないわけです。
     今度、大会の前夜祭で、佼成会の法座の基本姿勢はどういう教義を説くのか一つ話をしてもらいたいという問題が出たわけです。ところが発表する人がたくさんいるわけです。世界中から雄弁な人が集まって、頭のいい大学の総長や哲学者や、ドイツの哲学者なんか、とにかくすばらしい人たちが集まっているわけですから、私みたいに博士号のない人間なんていうのは一人もいないといってもいいくらいなんです。そういうところへ行って佼成会の法座の理念を説けというわけなんですよ。私はこの時ばかしに、よし、説きましょうと、いうので十五分で説けというわけで六波羅蜜を十五分でまとめて説いたわけです。そうしたらたいへんみなさんが感心をしましてね。帰ろうと思って玄関口に出てみますと、新聞記者だとか、どこそこの会長さんだとか、西ドイツの会長さんだとか、市の会長さんだとか、いうような人がぞくぞく寄ってきまして、なかなか帰してくれない。玄関口でつかまっちゃった、というほど求められました。
     宗教の専門家で、哲学者である人が救いというものがどういう形でそこに出てくるか、大衆がほんとうに耳を傾けて寄ってくるということには、どんな法を説いたら寄ってくるだろうと、こういうことに真剣なんですね。二百軒か、三百軒の信者を持っている牧師さんが、若い者はついてこない。だんだん数は減っていくけど、新らしく開拓という場所はないという状態であり、佼成会へいってみると若い人がどんどん集まっている。世帯盛りの奥さん方がたくさんきている。どうしてあのように人が集まるのか、その秘訣をくみ取りたいということで、六波羅蜜の話しをいたしまして、まず欲を捨てること。これはいまの世の中で人間の悩みの種というのは欲というものが中心に出来ている。いま現在共産国は三分の一、神さまを認めないで、物の世界のほうの唯物論者がいるわけです。そういう状態の根源はというと人間みんな、共産党も、自由主義者も、自由主義者なんか共産党よりよけい欲が深いかもしれない。根底に欲というものがある。その欲をまず捨てなければ神の世界や仏の世界にいけないというのが、まず第一番の救いの道の一つの大事な法則なんです。
     第二番目が驕慢の気持ちで、なんでも、おれがおれがでやっている。そういうことでなく神さまや、仏さまを認めて、ちゃんと一つの神の摂理とか、仏の法門とかいうものに基盤を置いて生活しようという、この謙虚な気持になることで、これが持戒です。
     忍辱というのは、この世の中に遊びに出て来たのでなく、苦の世の中だ。だからこの世の中は骨の折れるところなんだ、そこで自分があらゆる困難を踏み越えて世界人類のために奉仕をさせてもらうという腹がまえをきめて、忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐えるというのが忍辱です。

  •  立派な人だから私はたくさんの信者がついていると思うと、わりあい信者がついていないわけです。ですから百万世帯なんていうのは全然ないわけです。
     今度、大会の前夜祭で、佼成会の法座の基本姿勢はどういう教義を説くのか一つ話をしてもらいたいという問題が出たわけです。ところが発表する人がたくさんいるわけです。世界中から雄弁な人が集まって、頭のいい大学の総長や哲学者や、ドイツの哲学者なんか、とにかくすばらしい人たちが集まっているわけですから、私みたいに博士号のない人間なんていうのは一人もいないといってもいいくらいなんです。そういうところへ行って佼成会の法座の理念を説けというわけなんですよ。私はこの時ばかしに、よし、説きましょうと、いうので十五分で説けというわけで六波羅蜜を十五分でまとめて説いたわけです。そうしたらたいへんみなさんが感心をしましてね。帰ろうと思って玄関口に出てみますと、新聞記者だとか、どこそこの会長さんだとか、西ドイツの会長さんだとか、市の会長さんだとか、いうような人がぞくぞく寄ってきまして、なかなか帰してくれない。玄関口でつかまっちゃった、というほど求められました。
     宗教の専門家で、哲学者である人が救いというものがどういう形でそこに出てくるか、大衆がほんとうに耳を傾けて寄ってくるということには、どんな法を説いたら寄ってくるだろうと、こういうことに真剣なんですね。二百軒か、三百軒の信者を持っている牧師さんが、若い者はついてこない。だんだん数は減っていくけど、新らしく開拓という場所はないという状態であり、佼成会へいってみると若い人がどんどん集まっている。世帯盛りの奥さん方がたくさんきている。どうしてあのように人が集まるのか、その秘訣をくみ取りたいということで、六波羅蜜の話しをいたしまして、まず欲を捨てること。これはいまの世の中で人間の悩みの種というのは欲というものが中心に出来ている。いま現在共産国は三分の一、神さまを認めないで、物の世界のほうの唯物論者がいるわけです。そういう状態の根源はというと人間みんな、共産党も、自由主義者も、自由主義者なんか共産党よりよけい欲が深いかもしれない。根底に欲というものがある。その欲をまず捨てなければ神の世界や仏の世界にいけないというのが、まず第一番の救いの道の一つの大事な法則なんです。
     第二番目が驕慢の気持ちで、なんでも、おれがおれがでやっている。そういうことでなく神さまや、仏さまを認めて、ちゃんと一つの神の摂理とか、仏の法門とかいうものに基盤を置いて生活しようという、この謙虚な気持になることで、これが持戒です。
     忍辱というのは、この世の中に遊びに出て来たのでなく、苦の世の中だ。だからこの世の中は骨の折れるところなんだ、そこで自分があらゆる困難を踏み越えて世界人類のために奉仕をさせてもらうという腹がまえをきめて、忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐えるというのが忍辱です。

  •  その次は何かというと四番目には精進であり、この精進というのは繰り返し、繰り返し、悪いことは徹底的に捨ててしまう。悪いことは起きそうになっていても絶対に起こさないでくい止める。いいことはどんどんやる。いまからいいことになりそうなものは精進をしていいことにしてしまう。こういう四つの法則が精進の道なんだと。だから、いまいいことが起きそうなものはどんどん起こしていかなくちゃならないし、拍車をかけなくちゃいかん。悪いことはやめてしまうというのが、これが精進なんです。
     こういうふうに布施、持戒、忍辱、精進とくると、五番目には禅定ですね。ここへ来てようやく宗教というものになってくる。こういう上の四つをちゃんと行じられると、また徹底しようとすると、心の乱れというものをどうしたらいいかという気持が出てくる。そこで座禅をするとか、読経をするとか、念仏を称えるということで、心を冷静にちゃんとしなけりゃならない。この修行が第五番目の救いなんだね。この五つの救いをミックスしたものが智慧です。
     欲を捨てて、高ぶらないで、忍耐をして、それを繰り返し精進して、そして心の動揺のなくなったところに仏さまの智慧というものが働いて白いものは白く、黒いものは黒く見える。しかも、それが白というものと黒というものの調和のかげんが、われわれの世の中のむずかしさというものになって、これをちゃんと整理してうまく取り扱うのが仏さまの智慧なんですね。
     こういう六つの救いの道というものが法座の中の基本になっているのだ、この基本に基づいて人事百般何んでも持っていらっしゃい。迷って困る問題はこの六つの問題で全部解消するんだと、まあ、こういう話しをしたわけなんです。
     どうです。みなさん、毎日やっているでしょう。やってはいるんだけれども、わからない人をわからせるんだから、これはなかなか大変な仕事なんですよ。この仕事をしていくのが忍辱です。ほんとうに耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ばなければ入会してくれませんよ。そしてご法をちゃんと守ろうという人間をつくらなければ世の中は平和にならないんですよ。世の中の平和といっても、世界の平和なんてこないんですよ。みんなそういう気持にしなければ、ですから容易なことじゃない。大変な仕事なんですよ。
     私はそういう話しをしておわかれをして、今度は平和会議を七十四年に西ドイツでやってもらうということで、そして宗教家を訪問して七十四年にできるような準備をしてもらって、ドイツの宗教家が一丸となって、京都会議を私ども日本の宗教者がやったような形にしていただきたい。このお願いにいろいろな人をたずねて訪問したわけであります。

  •  その次は何かというと四番目には精進であり、この精進というのは繰り返し、繰り返し、悪いことは徹底的に捨ててしまう。悪いことは起きそうになっていても絶対に起こさないでくい止める。いいことはどんどんやる。いまからいいことになりそうなものは精進をしていいことにしてしまう。こういう四つの法則が精進の道なんだと。だから、いまいいことが起きそうなものはどんどん起こしていかなくちゃならないし、拍車をかけなくちゃいかん。悪いことはやめてしまうというのが、これが精進なんです。
     こういうふうに布施、持戒、忍辱、精進とくると、五番目には禅定ですね。ここへ来てようやく宗教というものになってくる。こういう上の四つをちゃんと行じられると、また徹底しようとすると、心の乱れというものをどうしたらいいかという気持が出てくる。そこで座禅をするとか、読経をするとか、念仏を称えるということで、心を冷静にちゃんとしなけりゃならない。この修行が第五番目の救いなんだね。この五つの救いをミックスしたものが智慧です。
     欲を捨てて、高ぶらないで、忍耐をして、それを繰り返し精進して、そして心の動揺のなくなったところに仏さまの智慧というものが働いて白いものは白く、黒いものは黒く見える。しかも、それが白というものと黒というものの調和のかげんが、われわれの世の中のむずかしさというものになって、これをちゃんと整理してうまく取り扱うのが仏さまの智慧なんですね。
     こういう六つの救いの道というものが法座の中の基本になっているのだ、この基本に基づいて人事百般何んでも持っていらっしゃい。迷って困る問題はこの六つの問題で全部解消するんだと、まあ、こういう話しをしたわけなんです。
     どうです。みなさん、毎日やっているでしょう。やってはいるんだけれども、わからない人をわからせるんだから、これはなかなか大変な仕事なんですよ。この仕事をしていくのが忍辱です。ほんとうに耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ばなければ入会してくれませんよ。そしてご法をちゃんと守ろうという人間をつくらなければ世の中は平和にならないんですよ。世の中の平和といっても、世界の平和なんてこないんですよ。みんなそういう気持にしなければ、ですから容易なことじゃない。大変な仕事なんですよ。
     私はそういう話しをしておわかれをして、今度は平和会議を七十四年に西ドイツでやってもらうということで、そして宗教家を訪問して七十四年にできるような準備をしてもらって、ドイツの宗教家が一丸となって、京都会議を私ども日本の宗教者がやったような形にしていただきたい。このお願いにいろいろな人をたずねて訪問したわけであります。

  •    世界宗教としての自覚を

     京都会議にきた人で、ルッカーという哲学博士ですが、婦人で、六十四歳で私より一つ若く偉い人ですね。顔を見ると私よりうんと若いけれども、この方は結婚をしないで哲学の勉強をして、カソリックの人ですが、キリスト教の方々は大変なところに直面していなさるなあと思ったのですが、女性には絶対に説法をさせないんだそうであります。今日の説法は渋沢さんがいたしましたがね。ところがカソリックは二百年の伝統を持って女性には説法を、あいならぬという、これは男女不平等ですね。ところがルッカー婦人が非常に清らかな修行をしながら、整然たる理論をつきつけて、とうとう十五年前に、婦人第一号、ルッカー婦人なんですね。なかなかすばらしい人なんです、その方が平和会議で京都に来たわけです。そして最後のお祈りを、この普門館でやったわけです。このことを終生これほどのことはもう私にはこないといって喜んでおられた。そういう気持ちなものですから、去年の十一月、ニューヨークに於て、私どもの役員会で、この次は西ドイツがよいのでないかということになったものだから一生懸命に、十一月から今日まで活動したのだけれど、なかなかみなさんが賛成をしてくれそうにないので、応援に来てくれということで行ったわけであります。
     そして行ってお話しをすると、これまたふしぎなことに、私は言葉が通じないから通訳を通じての話なんですが、京都会議の話しをして、宗教協力の肝心かなめのことを、必要性を徐々に話しをすると、お会いするみなさんが「あなたの言うことならわかる。それじゃ協力いたします。七十四年、西ドイツということはそりゃまことに時宜を得てる。われわれはできるだけのことはいたしますから、ぜひ西ドイツでやるように、あなたもひとつお骨折りを願いたい」というので、まことに変わった空気になりました。
     ルッカー婦人はびっくりぎょうてんして、平和会議の事務総長ジャック博士と西ドイツのそういう人のところへ回ったけれど、うまくいかなかった。それが私が行なったら最初から皆さんが受け入れてくれるようになった。次から次への協力するということを皆さんが誓ってくれる。それでおもしろく展開をしましてね、毎日毎日、朝から晩まであっちこっちと、行なったわけであります。

  •    世界宗教としての自覚を

     京都会議にきた人で、ルッカーという哲学博士ですが、婦人で、六十四歳で私より一つ若く偉い人ですね。顔を見ると私よりうんと若いけれども、この方は結婚をしないで哲学の勉強をして、カソリックの人ですが、キリスト教の方々は大変なところに直面していなさるなあと思ったのですが、女性には絶対に説法をさせないんだそうであります。今日の説法は渋沢さんがいたしましたがね。ところがカソリックは二百年の伝統を持って女性には説法を、あいならぬという、これは男女不平等ですね。ところがルッカー婦人が非常に清らかな修行をしながら、整然たる理論をつきつけて、とうとう十五年前に、婦人第一号、ルッカー婦人なんですね。なかなかすばらしい人なんです、その方が平和会議で京都に来たわけです。そして最後のお祈りを、この普門館でやったわけです。このことを終生これほどのことはもう私にはこないといって喜んでおられた。そういう気持ちなものですから、去年の十一月、ニューヨークに於て、私どもの役員会で、この次は西ドイツがよいのでないかということになったものだから一生懸命に、十一月から今日まで活動したのだけれど、なかなかみなさんが賛成をしてくれそうにないので、応援に来てくれということで行ったわけであります。
     そして行ってお話しをすると、これまたふしぎなことに、私は言葉が通じないから通訳を通じての話なんですが、京都会議の話しをして、宗教協力の肝心かなめのことを、必要性を徐々に話しをすると、お会いするみなさんが「あなたの言うことならわかる。それじゃ協力いたします。七十四年、西ドイツということはそりゃまことに時宜を得てる。われわれはできるだけのことはいたしますから、ぜひ西ドイツでやるように、あなたもひとつお骨折りを願いたい」というので、まことに変わった空気になりました。
     ルッカー婦人はびっくりぎょうてんして、平和会議の事務総長ジャック博士と西ドイツのそういう人のところへ回ったけれど、うまくいかなかった。それが私が行なったら最初から皆さんが受け入れてくれるようになった。次から次への協力するということを皆さんが誓ってくれる。それでおもしろく展開をしましてね、毎日毎日、朝から晩まであっちこっちと、行なったわけであります。

  •  西ドイツではルーテルというすばらしい思想家が生まれたんですね。マルクスも生まれている。ルッカーさんはカソリックのほうで、カソリックのほうはいくらか、ローマ法王さまのおかげでいいけれども、ルーテル派はどうにもならぬ、といわれておったのが、私がいろいろ話しをしてみるというと、ルーテル派の方が、「全くそのとおりだ」というのです。これはクンストという神父さんに会ったのですが、この方は西ドイツの政府との連絡のルーテル派の親方なんです。この人をとおして政府が、これは皆さんがびっくりするほどの大金を、政府がとにかく、日本の金にして五百億の金をルーテル派にくれるわけです。助成金としてこれから開発しなくちゃならない国に。なぜ援助金を政府がくれるかというと、政府が援助しようとすると、みんなひもつきになってしまって、そして政府がやろうとすると、どこか頭越しに困らない人のところへいってしまって、どこかの権力者のポケットに入っちゃったりして、困る人のところへいかぬというんです。そういうことを西ドイツの政府はよく認識しているわけです。そこで宗教家が向こうの宗教を通じてしもじもの人がどんなに苦しんで難儀しているか、そういう人に布施をしよう。こういう形でもって、政府が五百億という金をくださるわけです。これはルーテル派にもくれると同時にカソリックにもくれるわけです。両方に五百億ずつですから一千億という金を政府がくれるんですね。
     このくれるということにわけがあって、政府が宗教税というのを取るんだそうで、ルーテル派であるか、カソリック派であるか、ちゃんと登録してあるわけです。そこの家の収入に対して何かの税金を政府が取るわけですね。政府はそれをとっておいて、宗教家が難儀しておる者に宗教というすばらしいことの真心の結晶を、どこかの困っているものに施すということに使わなければもったいないというので、この金を政府はちゃんと取り上げてそれをカソリックとルーテル派にさげるわけです。
     そして教団のほうでは一生懸命で、八割の人が食うに困るのだからというのでお寺で集めるわけです。そのほうが五百億。それから地震とか水害とか災害が出たときは大急ぎでこれまた、声を大にして宗教者が募金をする。これが三分の一。政府がくれる金と、自分たちのお寺で集める金と災害募金の三つを集めて、後進国に送っているわけです。
     ですから開発という仕事をして三千億もの金を二教団でもっていろいろやってみると、どうしても宗教協力は必要だなということは骨身にしみているわけです。そういうところにたまたま日本から仏教徒が来て、キリスト教徒に一生懸命に神の愛を説いてくれるというのでもって、向こうでは「申しわけない話だ。まことにお恥しい話だ。あなたの言うことはよくわかります。それじゃ私どもも、一生懸命にやらしてもらいましょう。そのためにはあなたが来て、カソリックのほうも説いてください」というようなことで、カソリックのほうからは「ルーテル派を説いてください」と言われる。

  •  西ドイツではルーテルというすばらしい思想家が生まれたんですね。マルクスも生まれている。ルッカーさんはカソリックのほうで、カソリックのほうはいくらか、ローマ法王さまのおかげでいいけれども、ルーテル派はどうにもならぬ、といわれておったのが、私がいろいろ話しをしてみるというと、ルーテル派の方が、「全くそのとおりだ」というのです。これはクンストという神父さんに会ったのですが、この方は西ドイツの政府との連絡のルーテル派の親方なんです。この人をとおして政府が、これは皆さんがびっくりするほどの大金を、政府がとにかく、日本の金にして五百億の金をルーテル派にくれるわけです。助成金としてこれから開発しなくちゃならない国に。なぜ援助金を政府がくれるかというと、政府が援助しようとすると、みんなひもつきになってしまって、そして政府がやろうとすると、どこか頭越しに困らない人のところへいってしまって、どこかの権力者のポケットに入っちゃったりして、困る人のところへいかぬというんです。そういうことを西ドイツの政府はよく認識しているわけです。そこで宗教家が向こうの宗教を通じてしもじもの人がどんなに苦しんで難儀しているか、そういう人に布施をしよう。こういう形でもって、政府が五百億という金をくださるわけです。これはルーテル派にもくれると同時にカソリックにもくれるわけです。両方に五百億ずつですから一千億という金を政府がくれるんですね。
     このくれるということにわけがあって、政府が宗教税というのを取るんだそうで、ルーテル派であるか、カソリック派であるか、ちゃんと登録してあるわけです。そこの家の収入に対して何かの税金を政府が取るわけですね。政府はそれをとっておいて、宗教家が難儀しておる者に宗教というすばらしいことの真心の結晶を、どこかの困っているものに施すということに使わなければもったいないというので、この金を政府はちゃんと取り上げてそれをカソリックとルーテル派にさげるわけです。
     そして教団のほうでは一生懸命で、八割の人が食うに困るのだからというのでお寺で集めるわけです。そのほうが五百億。それから地震とか水害とか災害が出たときは大急ぎでこれまた、声を大にして宗教者が募金をする。これが三分の一。政府がくれる金と、自分たちのお寺で集める金と災害募金の三つを集めて、後進国に送っているわけです。
     ですから開発という仕事をして三千億もの金を二教団でもっていろいろやってみると、どうしても宗教協力は必要だなということは骨身にしみているわけです。そういうところにたまたま日本から仏教徒が来て、キリスト教徒に一生懸命に神の愛を説いてくれるというのでもって、向こうでは「申しわけない話だ。まことにお恥しい話だ。あなたの言うことはよくわかります。それじゃ私どもも、一生懸命にやらしてもらいましょう。そのためにはあなたが来て、カソリックのほうも説いてください」というようなことで、カソリックのほうからは「ルーテル派を説いてください」と言われる。

  •  そういうことで双方にお会いして、ルーテル派の人のところへも行ってまいりました。ちょうど平和会議をしているところへ行ったものですから、一つあいさつをしろというのであいさつをしました。お昼をごちそうになり、そのあと平和会議に対するいろいろのことを別室で二人でしっかりと、お話しをしましょうということで、この方も全力をあげて協力をいたしましょうという事になったわけです。
     その方のお話しを伺いますと、これまた私どもが選挙をやりまして、皆さんにご苦労かけて、ほんとうに申しわけありませんが、これも大切だと思うことがまた一つあるわけです。
     それはお金を五百億くれるくらいですから「何々法案を出そう」という前に、ルーテル派とカソリック派の両方に「こういう法案を出そうと思うが、これに対してあなたがたのいい知恵をかしてくれ」というので、法案を政府が提案をしないうちに、両方の宗教家に法案の原案を出すわけです。それをこちらに専門家がいて、それをしっかりと宗教的にこのことはいいか悪いかと、いうことをすっかり研究して、そして両方の研究部が一緒になってまたこれを検討して、政府に「こういう法案は出してはいけない」とか「出すべき」だとか「こういうふうにして出せ」とかいうことを、宗教家が指導するわけですね。大事な法案に、これだけの発言があるわけです。
     日本の政治はどうです。
     佼成会はみなさんが投票してくださるために私が会いたいというと、総理大臣でも、大蔵大臣でも、会いたいといえば会ってくれるわけです。ほかの宗教家は会おうといっても会ってくれないんですよ。だから、他の宗教家では「佼成会の庭野さんが行ってくれなければ会わないから、われわれの主張するのにはとにかく、庭野さんのあとにくっついていかなければだめだということで、佼成会さま佼成会さまというので、よその宗教は一生懸命です。政治にものを言おうとしても窓がないわけです。この窓があいているということは皆さんのおかげなんです。
     今度、もし会いたいといっても会わないような大臣がいれば、この次の選挙には自民党に入れないということになっちゃう。
     政治をただすためには主権在民で、主権はわれわれにあるわけですよ。いまは、まだ西ドイツのようなわけにはいきませんけれども、やっぱりお互いに結束して、政府に対する発言、こういう問題にまで高めていかなければ、ほんとうの理想世界はできない。その発言もいま百万世帯でありますが、もし皆さんが一軒一軒ずつ導いて二百万世帯になったときに、その発言というものはいまの倍なんていうもんじゃなく、三倍も四倍もの発言になるのです。それはおそらく西ドイツの宗教家の発言と大差のないぐらいの発言になるだろうと私は思っているわけです。

  •  そういうことで双方にお会いして、ルーテル派の人のところへも行ってまいりました。ちょうど平和会議をしているところへ行ったものですから、一つあいさつをしろというのであいさつをしました。お昼をごちそうになり、そのあと平和会議に対するいろいろのことを別室で二人でしっかりと、お話しをしましょうということで、この方も全力をあげて協力をいたしましょうという事になったわけです。
     その方のお話しを伺いますと、これまた私どもが選挙をやりまして、皆さんにご苦労かけて、ほんとうに申しわけありませんが、これも大切だと思うことがまた一つあるわけです。
     それはお金を五百億くれるくらいですから「何々法案を出そう」という前に、ルーテル派とカソリック派の両方に「こういう法案を出そうと思うが、これに対してあなたがたのいい知恵をかしてくれ」というので、法案を政府が提案をしないうちに、両方の宗教家に法案の原案を出すわけです。それをこちらに専門家がいて、それをしっかりと宗教的にこのことはいいか悪いかと、いうことをすっかり研究して、そして両方の研究部が一緒になってまたこれを検討して、政府に「こういう法案は出してはいけない」とか「出すべき」だとか「こういうふうにして出せ」とかいうことを、宗教家が指導するわけですね。大事な法案に、これだけの発言があるわけです。
     日本の政治はどうです。
     佼成会はみなさんが投票してくださるために私が会いたいというと、総理大臣でも、大蔵大臣でも、会いたいといえば会ってくれるわけです。ほかの宗教家は会おうといっても会ってくれないんですよ。だから、他の宗教家では「佼成会の庭野さんが行ってくれなければ会わないから、われわれの主張するのにはとにかく、庭野さんのあとにくっついていかなければだめだということで、佼成会さま佼成会さまというので、よその宗教は一生懸命です。政治にものを言おうとしても窓がないわけです。この窓があいているということは皆さんのおかげなんです。
     今度、もし会いたいといっても会わないような大臣がいれば、この次の選挙には自民党に入れないということになっちゃう。
     政治をただすためには主権在民で、主権はわれわれにあるわけですよ。いまは、まだ西ドイツのようなわけにはいきませんけれども、やっぱりお互いに結束して、政府に対する発言、こういう問題にまで高めていかなければ、ほんとうの理想世界はできない。その発言もいま百万世帯でありますが、もし皆さんが一軒一軒ずつ導いて二百万世帯になったときに、その発言というものはいまの倍なんていうもんじゃなく、三倍も四倍もの発言になるのです。それはおそらく西ドイツの宗教家の発言と大差のないぐらいの発言になるだろうと私は思っているわけです。

  •  こういうことを今度、私、旅行させていただいて体験をさせていただきました。そして宗教家がわざわざ、しかも仏教徒が神の愛を説きに来てくださって、そしてわれわれ宗教家になすべきことを指導してくださるとは、まことにもったいないことだというので、向こうの人は非常に恐縮して、一生懸命に協力しましょうというお話しになっているわけであります。
     これまたみなさんにちょっと申し上げておきますと、田中総理が二十万ぐらいの都市をつくろうという『日本列島改造論』というのを出した。あの改造論は、どっかにひな形があるんだろうと私は想像したのです。全然、世の中にないものを持ってきっこない。そう思ってましたら、西ドイツへ行ったら西ドイツがまさに日本列島改造論で、二十五万ないし三十万の市がポンポンと離れて、公害がなく、うまくできているのですよ。これはもう、西ドイツにちゃんとひな形あるのですよ。今度西ドイツへ行ってみてわかったのです。
     そして市長さんに権限を持たせて、その都市はまとまって結束しているんです。ですから西ドイツの政治というのはなかなかうまくいっている。そういうことをめざしているわけです、田中さんが言い出しているところに、私がこんなことを言うと「庭野は新潟県人だから、田中総理のつつ持ちしているだろう」なんていわれるだろうが、そんなことじゃなく田中でも池田でも佐藤でも、そんなことはかまわない。政府の出したことに、みんなケチつけるばかりが能じゃないわけです。いいことはいいと取り上げて、その実現をどういうふうにしたらできて日本の安泰というものが、公害のない日本というものをつくるのに、どういう効果があるか。こういうものはいいところを見てきて、いいところはちゃんととって、早くりこうにやることですよ。私はそう思っているのです。これはたいへんに面白い。しかし、へたをすると、きょうの時事放談を聞いておっても、放談の中で細川隆元先生は「たいへん日本列島改造論はいいんだけれども、改造論ぶっておいて処置をしないもんだから、もう地方のほうまで町ができるだろうというので土地がどんどん上がっている」という。銀行には金が山ほどあるんですね、金があるけれど借り手がないわけです。銀行は金を借さなきゃ商売にならない。どっかで何かしなきゃと、そうすると改造論なんていうと、ここで二十万都市ができるだろうというようなところは、この辺買っておけばもうかるだろう、金貸しがちゃんと、地所を買うなら金貸すんだ、というから早く銀行を押えなければだめです。都市の発展のじゃまをするような、地所を買うのに金を貸すという、そういうことを押えろ、ということを細川さんと斎藤栄三郎先生の二人が話しあっていた。
     

  •  こういうことを今度、私、旅行させていただいて体験をさせていただきました。そして宗教家がわざわざ、しかも仏教徒が神の愛を説きに来てくださって、そしてわれわれ宗教家になすべきことを指導してくださるとは、まことにもったいないことだというので、向こうの人は非常に恐縮して、一生懸命に協力しましょうというお話しになっているわけであります。
     これまたみなさんにちょっと申し上げておきますと、田中総理が二十万ぐらいの都市をつくろうという『日本列島改造論』というのを出した。あの改造論は、どっかにひな形があるんだろうと私は想像したのです。全然、世の中にないものを持ってきっこない。そう思ってましたら、西ドイツへ行ったら西ドイツがまさに日本列島改造論で、二十五万ないし三十万の市がポンポンと離れて、公害がなく、うまくできているのですよ。これはもう、西ドイツにちゃんとひな形あるのですよ。今度西ドイツへ行ってみてわかったのです。
     そして市長さんに権限を持たせて、その都市はまとまって結束しているんです。ですから西ドイツの政治というのはなかなかうまくいっている。そういうことをめざしているわけです、田中さんが言い出しているところに、私がこんなことを言うと「庭野は新潟県人だから、田中総理のつつ持ちしているだろう」なんていわれるだろうが、そんなことじゃなく田中でも池田でも佐藤でも、そんなことはかまわない。政府の出したことに、みんなケチつけるばかりが能じゃないわけです。いいことはいいと取り上げて、その実現をどういうふうにしたらできて日本の安泰というものが、公害のない日本というものをつくるのに、どういう効果があるか。こういうものはいいところを見てきて、いいところはちゃんととって、早くりこうにやることですよ。私はそう思っているのです。これはたいへんに面白い。しかし、へたをすると、きょうの時事放談を聞いておっても、放談の中で細川隆元先生は「たいへん日本列島改造論はいいんだけれども、改造論ぶっておいて処置をしないもんだから、もう地方のほうまで町ができるだろうというので土地がどんどん上がっている」という。銀行には金が山ほどあるんですね、金があるけれど借り手がないわけです。銀行は金を借さなきゃ商売にならない。どっかで何かしなきゃと、そうすると改造論なんていうと、ここで二十万都市ができるだろうというようなところは、この辺買っておけばもうかるだろう、金貸しがちゃんと、地所を買うなら金貸すんだ、というから早く銀行を押えなければだめです。都市の発展のじゃまをするような、地所を買うのに金を貸すという、そういうことを押えろ、ということを細川さんと斎藤栄三郎先生の二人が話しあっていた。
     

  • そうゆうようなことを含めて、日本人は頭がいいから、一方では改造論を出せば地所が上るだろうというので先を読んでいる人がいるわけで、政治家はそういうことをさせないうちに、みんなを迷わせずにできるような態勢をちゃんととって、そして改造論をピシャッとやって、都市が過密で困った状態を、そのままにしておかないで、都市をもっと分散して、住みよい、緑のところに、空気のいいところにみなさんが住めるような政策をするのが、ほんとうの政治家だと思うのであります。
     今度の旅行はたいへん忙しくて骨が折れましたけれども、楽しい旅行でありまして、向こうの方々からたいへん歓迎をされました。もう一度、西ドイツの都市で回ってないところを来てくれないかと、そうすれば西ドイツ全土に、大事な要所、要所をあなたが説いてくれれば、みんなが納得して「あなたの話しはよくわかる」ということで、どうかすると、また二月ごろ行かなければならないかもしれないことになったわけです。
     きょうはそういうことを皆さんに報告すると同時に、妙佼先生にもご報告を申し上げながら、そしてまた妙佼先生の、ご在世中に指導したような、しあわせになったから信仰がにぶるとか、しあわせになったからなにをしていいんだろう。そういうことを言わせんように、しあわせであるから、不幸な人を救わなくちゃならんのが、宗教者の使命だということを、一つ認識をしてもらいたい、このことが実行していただければ、それこそ、きょう、お経をあげてくれた以上に妙佼先生がお喜びになると思います。
     どうかそのようにご精進をお願い申し上げます、誠にありがとうございました。

  • そうゆうようなことを含めて、日本人は頭がいいから、一方では改造論を出せば地所が上るだろうというので先を読んでいる人がいるわけで、政治家はそういうことをさせないうちに、みんなを迷わせずにできるような態勢をちゃんととって、そして改造論をピシャッとやって、都市が過密で困った状態を、そのままにしておかないで、都市をもっと分散して、住みよい、緑のところに、空気のいいところにみなさんが住めるような政策をするのが、ほんとうの政治家だと思うのであります。
     今度の旅行はたいへん忙しくて骨が折れましたけれども、楽しい旅行でありまして、向こうの方々からたいへん歓迎をされました。もう一度、西ドイツの都市で回ってないところを来てくれないかと、そうすれば西ドイツ全土に、大事な要所、要所をあなたが説いてくれれば、みんなが納得して「あなたの話しはよくわかる」ということで、どうかすると、また二月ごろ行かなければならないかもしれないことになったわけです。
     きょうはそういうことを皆さんに報告すると同時に、妙佼先生にもご報告を申し上げながら、そしてまた妙佼先生の、ご在世中に指導したような、しあわせになったから信仰がにぶるとか、しあわせになったからなにをしていいんだろう。そういうことを言わせんように、しあわせであるから、不幸な人を救わなくちゃならんのが、宗教者の使命だということを、一つ認識をしてもらいたい、このことが実行していただければ、それこそ、きょう、お経をあげてくれた以上に妙佼先生がお喜びになると思います。
     どうかそのようにご精進をお願い申し上げます、誠にありがとうございました。