なさざればうくることなし
本日は、妙佼先生のご命日にたくさんの方々がお参りをくださいまして、きょうは普門館のほうもいっぱいだそうでございますが、さだめし妙佼先生もお喜びだと存じます。
どうしてお喜びかというと、妙佼先生は皆さんが真心で仏さまにご供養をする、読経供養というものを仏さまに真心でするということを皆さんに実行していただきたい、そういうことを一生懸命自分で身をもって行じながらおすすめをしたわけであります。そのことを本日おいでの方々みなさまが、十六回忌の法要に真心からなる菩提心を起こして、すみやかに成仏をしていただきたいという真心の読経ができたわけであります。ですから、自分の考えておったこと、こうしてほしいということ、そのことを皆さんによって実行されたのですから、これは何よりも妙佼先生がお喜びであるということは、私、確信をもって申し上げられるわけでございます。
ただいまは、また渋沢さんが昭和二十年の二月に入会したそうでございますが、だいぶ古い信者でございまして、ご家族が全部信仰にまつわる方々と縁組ができたということでたいへんお幸せだというお話をしておられました。「両先生のおかげ」ということを皆さん言いますけれども、仏教では「なさざれば受くることなし」といいまして、先生のおかげでみんな救われるのなら、まことに簡単ですけれども、そうはいかないのです。救われるという人は、みな自分で行なった人なのです。行じた人なのです。行じなければだれもしあわせにはならぬのです。幸せになった人というのは、自分で行じたということなのです。
最近、妙佼先生がご降臨になっていろいろお告げがあるというので私の家までわざわざ手紙を持ってくるご婦人もあるわけで、手紙に要項が書いてありまして、それを読んでみますと、たいした不思議もないことでありますが「最近みなさんが、たいへんご功徳にあずかっているけれども、神さま、仏さまの説き方が皆さんの法座の中でどうも薄い、もっと神さまの愛をしっかり説いてほしいんだ」ということが書いてございました。これはあまり間違っておりませんから、ありがたく私は受けました。このことは皆さんもほんとうに肝に銘じてやっていただければよろしいと思います。ただ、仏さまのご慈悲とか、神さまの愛というようなものは、いくら説いても説きたらないのですから、こういうのはありがたく私どもご注意を受けて、実践に移せばいいと思うのであります。