これは、ご法を親がやっておりましたから、お嫁に行く前から、何年も人さまをお導きしたり、毎朝毎晩の勤行、そして少しのヒマでも人さまのために法を説く、という寸暇もムダにしないで、ご法門を第一に生活しているという規範をとり行なってきたからです。
そして、教会長になってみると、そんなにむずかしいことでもない、ということなのです。
が、野放しに、わがままをいってきた人にしてみれば、大変に窮屈で、やっかいで、難信難解だ、と考えるのでございましょう。
ところが、行じつめてあとを振り返ってみますと、「幸せになったなあ、いつの間にかこんな気持ちになったのだろう。すなおに聞けるようになったのだろう」と、感謝ができるようになり、しらぬうちに自分が改造されているのです。
私どものほうでは、人間が改造された、と思っておりますが、仏さまからごらんになりますと、はじめに申しあげましたように、本心は仏になれる性をみんなが持っているのです。
人間は、貪欲・瞋恚・愚癡の三つのアカのために、ほんとうの仏さまの性を持ちながら、その性が外へあらわれないでいるのです。
それを、一つずつ、少しずつ、毎日修行をしているうちに骨も折れずに、だんだんとアカが取れて、洗たく機にかかったように漂白されて本心がでてくるのであります。本心が少しでも光りでてくると、自分の気持ちが楽で周囲をみますと、みんな感謝をし、幸せになっているわけであります。
これは、よそからきたと思っていなさるでしょうが、そうではなく自分の内にあるわけです。
内にあるのですが、外側からつくアカのほうが強くて、その光りがでないでいるわけであります。それを修行によって毎日毎日をありがたく感謝して精進できるようになるのです。
仏さまからみますと、みんなが、佼成会に入会して組織に入り班長・組長という役をもらったからやらなくてはならない。主任になったから仕方がない。支部長だから我慢しよう、とみんなやせ我慢でやっているんです。これがまことに見苦しいんです。「なんたることであろう」と、思うんですが、凡夫のあさましさと申しますか、仕方がありません。
それが教会長ぐらいになりますと、「仕方がない」とか「いやになってしまう」「大変だ」――などの考えはなくなってくるのです。「ほんとうにやらなくてはならない。やるべきなんだ」――こういう気持ちが整うのです。
こうなりますと、過去のハナ持ちならない悪いくせなどは、少しも恥ずかしくなくなり皆さんの前で堂々とサンゲができるのです。