•  これは、妙佼先生十四回忌法要における会長先生のご法話です。この中で、とくにわれわれ幹部に対して、修行のあり方をご指導くださっております。お互いの日ごろの修行のあり方の反省と確認の意味で、ここに全文を掲載します。

     皆さま、本日は妙佼先生の祥月ご命日に多数ご参拝いただきまして、まことにありがとうございます。全国各地から代表参拝の方がおいでになり、このように盛大に十四回忌の法要をしていただきまして、妙佼先生もさだめしお喜びであると存じます。

       悪条件を克服してこそ

     ただいまは、渋沢さん(港教会長)が、妙佼先生のご在世中のことを幾つか話をされましたが、妙佼先生は、小さいころからこの法華経にあうまでの四十七年間というものは、たいへんご苦労があったわけであります。
     幼少にして、母親をなくされ、お父さんの手で育てられ、姉のうちへ養女としてもらわれるなど、いろいろ困難があったわけであります。
     お釈迦さまは、お生まれになってから七日にして、すでにお母さんをなくされました。継母に育てられましたが、その継母は、男の子と女の子を持っておりました。
     お釈迦さまと申しますと、何か雲の上の人のようであり、われわれの娑婆とは、こと違うような感じがしますが、そうではなく、私どもと同じように、ごくあたりまえの人間としてお生まれになったのです。そして、まま母に育てられた、という悪条件の中から、お釈迦さまのような聖者が生まれたわけであります。
     したがいまして、妙佼先生にいたしましても、悪条件の中から生まれた人であればこそ、そこに深い信心がわく、ということにあいなるわけであります。
     ですから、皆さん、いろいろな因縁を考えてみますと、なかなか順縁に生まれて幸せなままで……、という人はきわめて少ないと思うのであります。

  •  これは、妙佼先生十四回忌法要における会長先生のご法話です。この中で、とくにわれわれ幹部に対して、修行のあり方をご指導くださっております。お互いの日ごろの修行のあり方の反省と確認の意味で、ここに全文を掲載します。

     皆さま、本日は妙佼先生の祥月ご命日に多数ご参拝いただきまして、まことにありがとうございます。全国各地から代表参拝の方がおいでになり、このように盛大に十四回忌の法要をしていただきまして、妙佼先生もさだめしお喜びであると存じます。

       悪条件を克服してこそ

     ただいまは、渋沢さん(港教会長)が、妙佼先生のご在世中のことを幾つか話をされましたが、妙佼先生は、小さいころからこの法華経にあうまでの四十七年間というものは、たいへんご苦労があったわけであります。
     幼少にして、母親をなくされ、お父さんの手で育てられ、姉のうちへ養女としてもらわれるなど、いろいろ困難があったわけであります。
     お釈迦さまは、お生まれになってから七日にして、すでにお母さんをなくされました。継母に育てられましたが、その継母は、男の子と女の子を持っておりました。
     お釈迦さまと申しますと、何か雲の上の人のようであり、われわれの娑婆とは、こと違うような感じがしますが、そうではなく、私どもと同じように、ごくあたりまえの人間としてお生まれになったのです。そして、まま母に育てられた、という悪条件の中から、お釈迦さまのような聖者が生まれたわけであります。
     したがいまして、妙佼先生にいたしましても、悪条件の中から生まれた人であればこそ、そこに深い信心がわく、ということにあいなるわけであります。
     ですから、皆さん、いろいろな因縁を考えてみますと、なかなか順縁に生まれて幸せなままで……、という人はきわめて少ないと思うのであります。

  •    毒薬変じて薬となる

     また、今日のように物質的には非常に恵まれ、大変に医学が進んで長生きができるようになりましたが、どんな薬でも、栄養ばかりではありません。「毒薬変じて薬となる」――ということがございます。ですから、薬は元来、毒のものです。これは、皆さん、一応覚えておいていただきたいと思います。
     とかく、日本人は薬を飲まなくてはいられない国民で、世界中でも日本人ほど薬を飲む国民はいないそうでございます。
     私が子どものころは、おじいさんが南庭という名をもらって、いなかでお医者をやっておりましたから、薬のことはよく教えてくれました。
     山へ草を取りに行って、カマなどで手を切ってもすぐに、草をとって、その草をもんででてくるツユを傷へつけますと、傷は化膿しないですぐになおりました。
     また、バラですが、バラは花が咲きますと赤い実がなります。バラの実は、普通の人がそのまま飲みますと下痢を起こします。
     ところが、それをせんじて飲ませますと、下痢はピタリととまります。そのように、薬というものは元来、毒のものなんです。こういうこともよく考えなくてはならないと思います。
     妙佼先生のご命日に、なんの因縁があってそんな話をするのか――こう思いなさるかもしれませんが、お互いさまに因縁のいい人はあまりおりません。
     渋沢さんにいたしましても、岩船家に生まれ、静子という名です。ですから表面からみますと非常に静かです。ところが、岩船に静子と申しますと、岩船が木性に金性です。そして静子というのが、金金で、木金金金と金ばかり三つです。それに十九画。そういう因縁があります。
     それから、妙佼先生は、長沼政ですから同じように、長沼の長は火性ですが、沼は金であります。そして、政も金で、火金金となり、九画です。
     そういう因縁をもった静子さんには、きついことばもでたり、きつく聞こえたり、また、きついことをいわなければなかなかまともになれないわけです。因縁の悪い人というのは、そういう点でたいへん損をしているわけです。
     いま、佼成会では、私がつけた名前の人がどんどんおとなになって、お子さんが授かっている人も、あちこちに大勢できました。
     最初からいい名前をつけていただいたような人は、親が信仰をしておりますから、ものごとをすべて、善意に解釈します。
     しかし、悪いことがなく、現在のように救われているときは、あまり幸せだと思いません。人間というものは始末が悪いもので、苦しいときには一生懸命神さまに祈願しますが、「のどもと過ぎれば熱さ忘れる」で、ある程度なんでもなくなってしまいますと、精進を怠る、というのが現状ではないかと思います。

  •    毒薬変じて薬となる

     また、今日のように物質的には非常に恵まれ、大変に医学が進んで長生きができるようになりましたが、どんな薬でも、栄養ばかりではありません。「毒薬変じて薬となる」――ということがございます。ですから、薬は元来、毒のものです。これは、皆さん、一応覚えておいていただきたいと思います。
     とかく、日本人は薬を飲まなくてはいられない国民で、世界中でも日本人ほど薬を飲む国民はいないそうでございます。
     私が子どものころは、おじいさんが南庭という名をもらって、いなかでお医者をやっておりましたから、薬のことはよく教えてくれました。
     山へ草を取りに行って、カマなどで手を切ってもすぐに、草をとって、その草をもんででてくるツユを傷へつけますと、傷は化膿しないですぐになおりました。
     また、バラですが、バラは花が咲きますと赤い実がなります。バラの実は、普通の人がそのまま飲みますと下痢を起こします。
     ところが、それをせんじて飲ませますと、下痢はピタリととまります。そのように、薬というものは元来、毒のものなんです。こういうこともよく考えなくてはならないと思います。
     妙佼先生のご命日に、なんの因縁があってそんな話をするのか――こう思いなさるかもしれませんが、お互いさまに因縁のいい人はあまりおりません。
     渋沢さんにいたしましても、岩船家に生まれ、静子という名です。ですから表面からみますと非常に静かです。ところが、岩船に静子と申しますと、岩船が木性に金性です。そして静子というのが、金金で、木金金金と金ばかり三つです。それに十九画。そういう因縁があります。
     それから、妙佼先生は、長沼政ですから同じように、長沼の長は火性ですが、沼は金であります。そして、政も金で、火金金となり、九画です。
     そういう因縁をもった静子さんには、きついことばもでたり、きつく聞こえたり、また、きついことをいわなければなかなかまともになれないわけです。因縁の悪い人というのは、そういう点でたいへん損をしているわけです。
     いま、佼成会では、私がつけた名前の人がどんどんおとなになって、お子さんが授かっている人も、あちこちに大勢できました。
     最初からいい名前をつけていただいたような人は、親が信仰をしておりますから、ものごとをすべて、善意に解釈します。
     しかし、悪いことがなく、現在のように救われているときは、あまり幸せだと思いません。人間というものは始末が悪いもので、苦しいときには一生懸命神さまに祈願しますが、「のどもと過ぎれば熱さ忘れる」で、ある程度なんでもなくなってしまいますと、精進を怠る、というのが現状ではないかと思います。

  •  そういう意味で――。
     きょう、私は大聖堂へきてみますと、たくさんのバスがきておりました。「きょうは皆さんが大勢、妙佼先生のご命日にお参りしてくださった」と、思いまして感謝をしながらはいってきました。
     そして、大聖堂いっぱいにはいっているかと思ってみますと、前のほうに少し、各階にも多少はいますが、そんなにいっぱいではありません。それでも回向文を読みあげるころには大聖堂もいっぱいになりましたが。
     私は、皆さんの動作をみながら、これを妙佼先生はどのようにごらんになっているだろうか――そういうことを考えながらご供養をさせていただきました。
     妙佼先生のご在世中は、まだ大聖堂もできておりませんでしたから、ご命日になりますと、道場の中だけではとても人がおさまらず、外にムシロを敷いて坐ってもらわなくてはなりませんでした。炎天下にあっても、子どもさんも騒がず、みんなきちんとしていたものでございます。
     そうした当時のことを考えますと――。
     最近、非常に会員数もふえましたし、皆さんは生活にも恵まれ、りっぱな着物を着ているし、栄養もたっぷりのようでございます。
     ところが、信仰のほうは、と申しますと――。
     建物は建ち、冷暖房まで完備して、朝の六時から温度を調整してお待ち申しあげているのですが、おいでになる人は九時のご供養にも間にあわない。そして、皆さんお昼近くとことこやってきて、いろいろと談じていらっしゃる。
     これは、皆さん幸せになっているのですから、別に何も申しあげる必要はない、といえばいえないわけもないのでありますが、皆さん、もう少し「これだけ幸せになった」と、いうことをご法の面にあらわし、せめてご命日ぐらいはご供養に遅れずにくるぐらいの心構えができなくてはならない、と思います。
     私、皆さんにグチをいうわけではありませんが、もし、妙佼先生がおいででございましたら、皆さんの今日の足なみをみて、苦々しく思われ、「そんなことで法華経行者といわれるか!」と、大喝一声されるのではないか、と思います。

  •  そういう意味で――。
     きょう、私は大聖堂へきてみますと、たくさんのバスがきておりました。「きょうは皆さんが大勢、妙佼先生のご命日にお参りしてくださった」と、思いまして感謝をしながらはいってきました。
     そして、大聖堂いっぱいにはいっているかと思ってみますと、前のほうに少し、各階にも多少はいますが、そんなにいっぱいではありません。それでも回向文を読みあげるころには大聖堂もいっぱいになりましたが。
     私は、皆さんの動作をみながら、これを妙佼先生はどのようにごらんになっているだろうか――そういうことを考えながらご供養をさせていただきました。
     妙佼先生のご在世中は、まだ大聖堂もできておりませんでしたから、ご命日になりますと、道場の中だけではとても人がおさまらず、外にムシロを敷いて坐ってもらわなくてはなりませんでした。炎天下にあっても、子どもさんも騒がず、みんなきちんとしていたものでございます。
     そうした当時のことを考えますと――。
     最近、非常に会員数もふえましたし、皆さんは生活にも恵まれ、りっぱな着物を着ているし、栄養もたっぷりのようでございます。
     ところが、信仰のほうは、と申しますと――。
     建物は建ち、冷暖房まで完備して、朝の六時から温度を調整してお待ち申しあげているのですが、おいでになる人は九時のご供養にも間にあわない。そして、皆さんお昼近くとことこやってきて、いろいろと談じていらっしゃる。
     これは、皆さん幸せになっているのですから、別に何も申しあげる必要はない、といえばいえないわけもないのでありますが、皆さん、もう少し「これだけ幸せになった」と、いうことをご法の面にあらわし、せめてご命日ぐらいはご供養に遅れずにくるぐらいの心構えができなくてはならない、と思います。
     私、皆さんにグチをいうわけではありませんが、もし、妙佼先生がおいででございましたら、皆さんの今日の足なみをみて、苦々しく思われ、「そんなことで法華経行者といわれるか!」と、大喝一声されるのではないか、と思います。

  •    だれでもが仏になれる

     法華経の修行というものは、皆さんもご承知のように、お経を読んでみますと、難信難解と書いてあります。
     難信難解というのは、解釈のつかないものかと申しますと、そうではありません。
     法華経には、法華七喩といって、七つのたとえがございます。
     あの七つのたとえをお読みになると、仏さまが、いかにじりじりしてわれわれをみていらっしゃるかがわかると思います。
     われわれは、生まれながらにすばらしい因縁をもち、みんな仏になれるのに、自分がなすべきことをしないで、迷い苦しんであがいているのです。早く「仏の子だという自覚に立て」と、七喩の各所に示してくださっております。七つのたとえを読んでごらんなさい。そんなにむずかしいことではありません。
     だれでもが、自分の心の奥には、まともに仏さまにご面会できるような仏心を持っているのです。
     半面、その仏心をみんな濁らして、色めがねで見るような魔の根性があるのです。そのために、せっかくの仏性が陰へかくれてしまい、仏性以外のものが表へあらわれているのです。
     ゆえに、なまけたくなったり、横着になったり、かってな熱を吹いたりしているうちに、自分がだんだん苦しくなって迷っているわけであります。
     そうしたことを仏さまは見とおしていらっしゃって、早く「仏の子なんだという自覚に立ってもらいたい」と、じりじりしてお待ちになっているわけであります。ところが、それをなかなかわかりません。
     業障の人は、「私は業障で、ハナ持ちならない」と、いうのを看板にかけているのですが、自分の心をなおそうとしないのです。
     それを、一方から申しますと、仏さまのお慈悲をだんだん強くいただいて、試練を越え今日になりますと、渋沢さんのように因縁は悪かったけれど、いまはこんなに幸せになった、ということになるのです。

  •    だれでもが仏になれる

     法華経の修行というものは、皆さんもご承知のように、お経を読んでみますと、難信難解と書いてあります。
     難信難解というのは、解釈のつかないものかと申しますと、そうではありません。
     法華経には、法華七喩といって、七つのたとえがございます。
     あの七つのたとえをお読みになると、仏さまが、いかにじりじりしてわれわれをみていらっしゃるかがわかると思います。
     われわれは、生まれながらにすばらしい因縁をもち、みんな仏になれるのに、自分がなすべきことをしないで、迷い苦しんであがいているのです。早く「仏の子だという自覚に立て」と、七喩の各所に示してくださっております。七つのたとえを読んでごらんなさい。そんなにむずかしいことではありません。
     だれでもが、自分の心の奥には、まともに仏さまにご面会できるような仏心を持っているのです。
     半面、その仏心をみんな濁らして、色めがねで見るような魔の根性があるのです。そのために、せっかくの仏性が陰へかくれてしまい、仏性以外のものが表へあらわれているのです。
     ゆえに、なまけたくなったり、横着になったり、かってな熱を吹いたりしているうちに、自分がだんだん苦しくなって迷っているわけであります。
     そうしたことを仏さまは見とおしていらっしゃって、早く「仏の子なんだという自覚に立ってもらいたい」と、じりじりしてお待ちになっているわけであります。ところが、それをなかなかわかりません。
     業障の人は、「私は業障で、ハナ持ちならない」と、いうのを看板にかけているのですが、自分の心をなおそうとしないのです。
     それを、一方から申しますと、仏さまのお慈悲をだんだん強くいただいて、試練を越え今日になりますと、渋沢さんのように因縁は悪かったけれど、いまはこんなに幸せになった、ということになるのです。

  •  これは、ご法を親がやっておりましたから、お嫁に行く前から、何年も人さまをお導きしたり、毎朝毎晩の勤行、そして少しのヒマでも人さまのために法を説く、という寸暇もムダにしないで、ご法門を第一に生活しているという規範をとり行なってきたからです。
     そして、教会長になってみると、そんなにむずかしいことでもない、ということなのです。
     が、野放しに、わがままをいってきた人にしてみれば、大変に窮屈で、やっかいで、難信難解だ、と考えるのでございましょう。
     ところが、行じつめてあとを振り返ってみますと、「幸せになったなあ、いつの間にかこんな気持ちになったのだろう。すなおに聞けるようになったのだろう」と、感謝ができるようになり、しらぬうちに自分が改造されているのです。
     私どものほうでは、人間が改造された、と思っておりますが、仏さまからごらんになりますと、はじめに申しあげましたように、本心は仏になれる性をみんなが持っているのです。
     人間は、貪欲・瞋恚・愚癡の三つのアカのために、ほんとうの仏さまの性を持ちながら、その性が外へあらわれないでいるのです。
     それを、一つずつ、少しずつ、毎日修行をしているうちに骨も折れずに、だんだんとアカが取れて、洗たく機にかかったように漂白されて本心がでてくるのであります。本心が少しでも光りでてくると、自分の気持ちが楽で周囲をみますと、みんな感謝をし、幸せになっているわけであります。
     これは、よそからきたと思っていなさるでしょうが、そうではなく自分の内にあるわけです。
     内にあるのですが、外側からつくアカのほうが強くて、その光りがでないでいるわけであります。それを修行によって毎日毎日をありがたく感謝して精進できるようになるのです。
     仏さまからみますと、みんなが、佼成会に入会して組織に入り班長・組長という役をもらったからやらなくてはならない。主任になったから仕方がない。支部長だから我慢しよう、とみんなやせ我慢でやっているんです。これがまことに見苦しいんです。「なんたることであろう」と、思うんですが、凡夫のあさましさと申しますか、仕方がありません。
     それが教会長ぐらいになりますと、「仕方がない」とか「いやになってしまう」「大変だ」――などの考えはなくなってくるのです。「ほんとうにやらなくてはならない。やるべきなんだ」――こういう気持ちが整うのです。
     こうなりますと、過去のハナ持ちならない悪いくせなどは、少しも恥ずかしくなくなり皆さんの前で堂々とサンゲができるのです。

  •  これは、ご法を親がやっておりましたから、お嫁に行く前から、何年も人さまをお導きしたり、毎朝毎晩の勤行、そして少しのヒマでも人さまのために法を説く、という寸暇もムダにしないで、ご法門を第一に生活しているという規範をとり行なってきたからです。
     そして、教会長になってみると、そんなにむずかしいことでもない、ということなのです。
     が、野放しに、わがままをいってきた人にしてみれば、大変に窮屈で、やっかいで、難信難解だ、と考えるのでございましょう。
     ところが、行じつめてあとを振り返ってみますと、「幸せになったなあ、いつの間にかこんな気持ちになったのだろう。すなおに聞けるようになったのだろう」と、感謝ができるようになり、しらぬうちに自分が改造されているのです。
     私どものほうでは、人間が改造された、と思っておりますが、仏さまからごらんになりますと、はじめに申しあげましたように、本心は仏になれる性をみんなが持っているのです。
     人間は、貪欲・瞋恚・愚癡の三つのアカのために、ほんとうの仏さまの性を持ちながら、その性が外へあらわれないでいるのです。
     それを、一つずつ、少しずつ、毎日修行をしているうちに骨も折れずに、だんだんとアカが取れて、洗たく機にかかったように漂白されて本心がでてくるのであります。本心が少しでも光りでてくると、自分の気持ちが楽で周囲をみますと、みんな感謝をし、幸せになっているわけであります。
     これは、よそからきたと思っていなさるでしょうが、そうではなく自分の内にあるわけです。
     内にあるのですが、外側からつくアカのほうが強くて、その光りがでないでいるわけであります。それを修行によって毎日毎日をありがたく感謝して精進できるようになるのです。
     仏さまからみますと、みんなが、佼成会に入会して組織に入り班長・組長という役をもらったからやらなくてはならない。主任になったから仕方がない。支部長だから我慢しよう、とみんなやせ我慢でやっているんです。これがまことに見苦しいんです。「なんたることであろう」と、思うんですが、凡夫のあさましさと申しますか、仕方がありません。
     それが教会長ぐらいになりますと、「仕方がない」とか「いやになってしまう」「大変だ」――などの考えはなくなってくるのです。「ほんとうにやらなくてはならない。やるべきなんだ」――こういう気持ちが整うのです。
     こうなりますと、過去のハナ持ちならない悪いくせなどは、少しも恥ずかしくなくなり皆さんの前で堂々とサンゲができるのです。

  •    一心欲見仏。不自惜身命

     そうしたことを妙佼先生はみんな見抜いて「あなたには役がある。こうしなさい」と、いってお役を与える。役を与えられたほうは、何が役だかさっぱりわからないものですから、役ということだけを頭に入れて、「佼成会に入会したら役をつけられてしまった」――こう思っているのです。
     役をつけられた、と思うから「組長という役は、班長よりやっかいだなあ」――こうなってくるのです。役というのはですね。皆さんお経をよーく読んでごらんなさい。
     『法師品』に、自分がすでに十万億の仏を供養したり福徳淳厚によって人間に生まれてきた――このように書かれてあります。
     しかも、悪世末法の法が滅せんとするときに生まれてきたすべての者が、極楽へはいれるのを断わって、「どうか娑婆へ出していただきたい」と、本仏にお願いして、こうして娑婆にでてきたわけであります。
     過去にそういう約束を仏さまと取りかわしておいて、今世に生まれてくるときはアカに包まれて約束履行をしない人間に生まれてきているのです。
     それを、履行する人間にしよう、というので佼成会に入会してイモ洗いするように、外側のアカを落とすために「きょうはご命日だ。きょうは妙佼先生の祥月命日だ」と、いってムリやりに、まるで男馬に子を生ませるような思いをして、引っぱってきているんです。(笑い声)これは笑いごとではありません。
     とにかく、妙佼先生のご在世中、もう少し楽をして長生きしていただきたかった、と思いますが、毎日毎日、寝てもさめても信者さんの救われを考え、一生懸命やったお陰で、二十年間も寿命の増益をいただいたわけであります。
     そうしたことを、妙佼先生は自分でおわかりになっておりましたから、どんなに疲れても疲れた顔などしませんでした。皆さんが帰ったあと、からだが苦しいような状態があって寝ていても、玄関に人が訪ねてくる気配がすると、パアッとはね起きて、その人の悩みを聞いてあげ、みんな自分で悩みを引き受けてしまうのです。

  •    一心欲見仏。不自惜身命

     そうしたことを妙佼先生はみんな見抜いて「あなたには役がある。こうしなさい」と、いってお役を与える。役を与えられたほうは、何が役だかさっぱりわからないものですから、役ということだけを頭に入れて、「佼成会に入会したら役をつけられてしまった」――こう思っているのです。
     役をつけられた、と思うから「組長という役は、班長よりやっかいだなあ」――こうなってくるのです。役というのはですね。皆さんお経をよーく読んでごらんなさい。
     『法師品』に、自分がすでに十万億の仏を供養したり福徳淳厚によって人間に生まれてきた――このように書かれてあります。
     しかも、悪世末法の法が滅せんとするときに生まれてきたすべての者が、極楽へはいれるのを断わって、「どうか娑婆へ出していただきたい」と、本仏にお願いして、こうして娑婆にでてきたわけであります。
     過去にそういう約束を仏さまと取りかわしておいて、今世に生まれてくるときはアカに包まれて約束履行をしない人間に生まれてきているのです。
     それを、履行する人間にしよう、というので佼成会に入会してイモ洗いするように、外側のアカを落とすために「きょうはご命日だ。きょうは妙佼先生の祥月命日だ」と、いってムリやりに、まるで男馬に子を生ませるような思いをして、引っぱってきているんです。(笑い声)これは笑いごとではありません。
     とにかく、妙佼先生のご在世中、もう少し楽をして長生きしていただきたかった、と思いますが、毎日毎日、寝てもさめても信者さんの救われを考え、一生懸命やったお陰で、二十年間も寿命の増益をいただいたわけであります。
     そうしたことを、妙佼先生は自分でおわかりになっておりましたから、どんなに疲れても疲れた顔などしませんでした。皆さんが帰ったあと、からだが苦しいような状態があって寝ていても、玄関に人が訪ねてくる気配がすると、パアッとはね起きて、その人の悩みを聞いてあげ、みんな自分で悩みを引き受けてしまうのです。

  •  ところが、当時はなかなかまっすぐに聞けない人が多いものですから、妙佼先生のことばが痛く聞こえるのです。痛く聞こえるのですが、真実ですから、いわれたとおり実行すると結果がでます。
     そのように、妙佼先生のご法は、いまのように、ゆうちょうな朝寝坊したために時間に間にあわないなどはありませんでした。
     私の現在の住まいは阿佐ヶ谷でございますが、当時、岩船さんの家は鷺の宮で、私の住まいより八町か十町ぐらい離れておりました。そこから朝早く電車がとおらないうちに、現在の旧本部まで歩いてくるのです。
     いま、皆さんは乗物ばかり当てにしているから混んでいてこられなかった、とおっしゃるが、当時は決められた時間に行こう、という人は朝早く起きて、寒修行には五時にきましたし、ご命日の九時のご供養に時間に遅れてくる幹部はおりませんでした。そういう修行をすることを、どうでしょう。
     『如来寿量品』に「一心欲見仏。不自惜身命」と、いうことばがございます。「一心に仏を見たてまつらんと欲して。自ら身命を惜しまず」――仏さまを見よう、という願いを一生懸命にもっているならば、からだを惜しまない、ということです。
     仏さまを見たてまつらないと、信仰にはいっても意味がありません。それが私どもの願いであり、また仏さまの本願でございます。
     仏さまの本願――それはわれわれのほうでも誓願をたてて努力しておりますが、「われと等しくして異なることなかれ」と、いって業障な者を「仏にしよう。みんななれるんだ。なってほしい」――これが仏さまの本願でございます。

  •  ところが、当時はなかなかまっすぐに聞けない人が多いものですから、妙佼先生のことばが痛く聞こえるのです。痛く聞こえるのですが、真実ですから、いわれたとおり実行すると結果がでます。
     そのように、妙佼先生のご法は、いまのように、ゆうちょうな朝寝坊したために時間に間にあわないなどはありませんでした。
     私の現在の住まいは阿佐ヶ谷でございますが、当時、岩船さんの家は鷺の宮で、私の住まいより八町か十町ぐらい離れておりました。そこから朝早く電車がとおらないうちに、現在の旧本部まで歩いてくるのです。
     いま、皆さんは乗物ばかり当てにしているから混んでいてこられなかった、とおっしゃるが、当時は決められた時間に行こう、という人は朝早く起きて、寒修行には五時にきましたし、ご命日の九時のご供養に時間に遅れてくる幹部はおりませんでした。そういう修行をすることを、どうでしょう。
     『如来寿量品』に「一心欲見仏。不自惜身命」と、いうことばがございます。「一心に仏を見たてまつらんと欲して。自ら身命を惜しまず」――仏さまを見よう、という願いを一生懸命にもっているならば、からだを惜しまない、ということです。
     仏さまを見たてまつらないと、信仰にはいっても意味がありません。それが私どもの願いであり、また仏さまの本願でございます。
     仏さまの本願――それはわれわれのほうでも誓願をたてて努力しておりますが、「われと等しくして異なることなかれ」と、いって業障な者を「仏にしよう。みんななれるんだ。なってほしい」――これが仏さまの本願でございます。

  •    われわれの努力でご神示が実現へ

     われわれは、七つのたとえにあるように仏さまからみれば『信解品』に書かれている窮子のように、二十年間も仏さまと親子の名のりができないでいるのです。
     また『五百弟子受記品』に――。
     ある人が友人の家に行き、寝ている間に友人が公用があってでかけるので、その人の衣のえりの裏に無価の宝珠をつけてでて行きました。ところが、その人はそんなことをしらずコジキをして毎日食べるだけにきゅうきゅうとしていたわけです。
     そして何年間たって友人が、その人にあってみましたら、まだもとのままえりの裏に宝珠がある。それをみて友人は「あなたの衣の裏をごらんなさい」と、えりの裏に無価の宝珠があることを教えてあげるのです。
     この宝珠を与えたのは仏さまで、公用があってでかけた、ということは、ほかにもまだ救ってあげなければならない人が大勢いるので、そちらへ行ったわけであります。そして再びあってみると、まだコジキをしている。これがわれわれの状態でございます。
     そういう法門がここに厳然とあることを証明するために、妙佼先生は二十年間寿命を増益して、その役を果たしてくださったわけであります。ですから、妙佼先生は実にきびしかったのです。
     きびしいということは、お互いさまにいまも同じでありますが、当時の人は、いま以上にもっと業障だったかもしれません。そういう人たちに目ざめさせようとするのですから、並みたいていの修行では目ざめられません。
     ですから、いろいろとあとからあとから仏さまのお告げでやかましいことをいわれる。そのうちに「佼成会がもとになって、世界万国に法華経の思想が弘まる」と、いうご神示がありました。

  •    われわれの努力でご神示が実現へ

     われわれは、七つのたとえにあるように仏さまからみれば『信解品』に書かれている窮子のように、二十年間も仏さまと親子の名のりができないでいるのです。
     また『五百弟子受記品』に――。
     ある人が友人の家に行き、寝ている間に友人が公用があってでかけるので、その人の衣のえりの裏に無価の宝珠をつけてでて行きました。ところが、その人はそんなことをしらずコジキをして毎日食べるだけにきゅうきゅうとしていたわけです。
     そして何年間たって友人が、その人にあってみましたら、まだもとのままえりの裏に宝珠がある。それをみて友人は「あなたの衣の裏をごらんなさい」と、えりの裏に無価の宝珠があることを教えてあげるのです。
     この宝珠を与えたのは仏さまで、公用があってでかけた、ということは、ほかにもまだ救ってあげなければならない人が大勢いるので、そちらへ行ったわけであります。そして再びあってみると、まだコジキをしている。これがわれわれの状態でございます。
     そういう法門がここに厳然とあることを証明するために、妙佼先生は二十年間寿命を増益して、その役を果たしてくださったわけであります。ですから、妙佼先生は実にきびしかったのです。
     きびしいということは、お互いさまにいまも同じでありますが、当時の人は、いま以上にもっと業障だったかもしれません。そういう人たちに目ざめさせようとするのですから、並みたいていの修行では目ざめられません。
     ですから、いろいろとあとからあとから仏さまのお告げでやかましいことをいわれる。そのうちに「佼成会がもとになって、世界万国に法華経の思想が弘まる」と、いうご神示がありました。

  •  私のほうでは、「仏さまがインドでお説きになってから二千五百年もたっています。どうしてそんなことがありましょう」と、考えます。それがわれわれ凡夫の考えで、仏さまからみれば「本物がなくても、即是道場で真の法を保つところが根本道場である」と、いうことなんです。しかし、そういうことは皆さんは一向にわかりませんでした。私でさえも、そのときは「どうも仏さまは、少し頭がおかしいのではないか」と、思ったのであります。
     とにかく、仏教がインドからシナヘ渡り日本にはいってきました。天台宗に五時八教の教判があって、そういうものからいろいろの分派ができて、今日、日蓮宗だとか、禅宗だとか、念仏宗などといっておりますが、それもみんなインドから伝わってきたお釈迦さまのお説きになったものではないか。それがいまごろになって、日本がもとになって世界中に弘まるというのは、話がおかしい。妙佼先生は歴史を知らないからあんなことをいっている――こう思っておりました。
     ところが、妙佼先生はそんなことにとんちゃくなく、神さまのお告げでいっているだけなんです。しかし、それが、いまになってみますと妙なことになってきました。
     世界の先進国といわれる国のほとんどがキリスト教で、発展途上国といわれる国は仏教なんです。日本が代表してアジアの一角からようやく先進国の仲間入りをしましたが。
     それが、最近になって世の中がだんだんおかしくなってきました。その原因はどこにあるかといえば、物の追求ばかりしている考えから追いつめられ、七十年代にはいってから、どうしようもない状態がだんだんとあらわれてきました。
     そのあらわれが、公害という形になってでてきたり、先進国の人たちが幼稚園のときにはキリストを信じていたのに、大学へ行くとサッパリ信心がなくなってしまう、という傾向が強くなり、この先はいったいどうなるのだろう、という宗教のゆき詰まりをきたしてきたのです。
     そして、知らず知らずのうちに、いろいろの宗教、宗派があるけれど、法華経にあるように「二もなく三もなく一仏乗である」と、いう仏さまの声明のように、一つの仏さまの教えの乗物に、みんなが乗らなければ、世の中は幸せにならない、という時代がきたのでございます。

  •  私のほうでは、「仏さまがインドでお説きになってから二千五百年もたっています。どうしてそんなことがありましょう」と、考えます。それがわれわれ凡夫の考えで、仏さまからみれば「本物がなくても、即是道場で真の法を保つところが根本道場である」と、いうことなんです。しかし、そういうことは皆さんは一向にわかりませんでした。私でさえも、そのときは「どうも仏さまは、少し頭がおかしいのではないか」と、思ったのであります。
     とにかく、仏教がインドからシナヘ渡り日本にはいってきました。天台宗に五時八教の教判があって、そういうものからいろいろの分派ができて、今日、日蓮宗だとか、禅宗だとか、念仏宗などといっておりますが、それもみんなインドから伝わってきたお釈迦さまのお説きになったものではないか。それがいまごろになって、日本がもとになって世界中に弘まるというのは、話がおかしい。妙佼先生は歴史を知らないからあんなことをいっている――こう思っておりました。
     ところが、妙佼先生はそんなことにとんちゃくなく、神さまのお告げでいっているだけなんです。しかし、それが、いまになってみますと妙なことになってきました。
     世界の先進国といわれる国のほとんどがキリスト教で、発展途上国といわれる国は仏教なんです。日本が代表してアジアの一角からようやく先進国の仲間入りをしましたが。
     それが、最近になって世の中がだんだんおかしくなってきました。その原因はどこにあるかといえば、物の追求ばかりしている考えから追いつめられ、七十年代にはいってから、どうしようもない状態がだんだんとあらわれてきました。
     そのあらわれが、公害という形になってでてきたり、先進国の人たちが幼稚園のときにはキリストを信じていたのに、大学へ行くとサッパリ信心がなくなってしまう、という傾向が強くなり、この先はいったいどうなるのだろう、という宗教のゆき詰まりをきたしてきたのです。
     そして、知らず知らずのうちに、いろいろの宗教、宗派があるけれど、法華経にあるように「二もなく三もなく一仏乗である」と、いう仏さまの声明のように、一つの仏さまの教えの乗物に、みんなが乗らなければ、世の中は幸せにならない、という時代がきたのでございます。

  •  いままでは、世界中の人が私どもが提唱したことに耳をかして「相談してみよう。話し合ってみよう」と、いうことはありませんでしたが、第二次世界大戦が終わり、日本中焼土と化し、広島や長崎で何十万という人間がいっぺんに損害を受け、そして戦争をしない憲法をつくり、平和に徹して一生懸命にがんばってきました。
     そういうわれわれの素直な努力。平和に徹した国民が二十五年間で、こんなに豊かになりました。そうしたことを外国の人がごらんになって、宗教家も、やはり日本の宗教家のいうことも一理ある――こうなりまして耳を傾けはじめたわけであります。
     まだ、とても世界万国をこの法華経によって……ということではございませんが、皆さんが一つの原動力になって、お互いにかみしもをぬいで、一介の人間になって「宗教の本義とはなんぞや」を、謙虚な気持ちで、神さま、仏さまの前で、しっかりと考え直してみようではないか、というのでそもそもはじまった世界会議ですから、これは、妙佼先生に神さまがご降臨になってお告げくださいましたことが、少しずつ実現の一途をたどりつつあることは事実だと私は思うのであります。
     いよいよそうなってまいりますと、皆さんあまり甘えて「お役が重荷になって大変だ」と、いわれないと思います。これが難信難解のところです。
     仏さまのお説のとおりに実行すれば、仕方がないほど幸せになるのです。そのとおりお役を果たさないと、法華経の経力はあらわれません。
     ですから、われわれが「一心に仏を見たてまつらんと欲して。自ら身命を惜しまず。寸暇もたいせつに、仏さまのみ心を体して、仏さまの本願成就のために働かせていただきます。尽くさせていただきます」――この誓願を私どものほうでたてなければ、できないことでございます。
     それら、いろいろの問題を考え合わせますと、凡夫が想像もつかない神さまのおはからいを、妙佼先生のからだを通じて私どもにくださったのであります。
     そして、私どもに課せられた世界万国に対して法を弘める、という使命を命令されて遷化されたわけであります。

  •  いままでは、世界中の人が私どもが提唱したことに耳をかして「相談してみよう。話し合ってみよう」と、いうことはありませんでしたが、第二次世界大戦が終わり、日本中焼土と化し、広島や長崎で何十万という人間がいっぺんに損害を受け、そして戦争をしない憲法をつくり、平和に徹して一生懸命にがんばってきました。
     そういうわれわれの素直な努力。平和に徹した国民が二十五年間で、こんなに豊かになりました。そうしたことを外国の人がごらんになって、宗教家も、やはり日本の宗教家のいうことも一理ある――こうなりまして耳を傾けはじめたわけであります。
     まだ、とても世界万国をこの法華経によって……ということではございませんが、皆さんが一つの原動力になって、お互いにかみしもをぬいで、一介の人間になって「宗教の本義とはなんぞや」を、謙虚な気持ちで、神さま、仏さまの前で、しっかりと考え直してみようではないか、というのでそもそもはじまった世界会議ですから、これは、妙佼先生に神さまがご降臨になってお告げくださいましたことが、少しずつ実現の一途をたどりつつあることは事実だと私は思うのであります。
     いよいよそうなってまいりますと、皆さんあまり甘えて「お役が重荷になって大変だ」と、いわれないと思います。これが難信難解のところです。
     仏さまのお説のとおりに実行すれば、仕方がないほど幸せになるのです。そのとおりお役を果たさないと、法華経の経力はあらわれません。
     ですから、われわれが「一心に仏を見たてまつらんと欲して。自ら身命を惜しまず。寸暇もたいせつに、仏さまのみ心を体して、仏さまの本願成就のために働かせていただきます。尽くさせていただきます」――この誓願を私どものほうでたてなければ、できないことでございます。
     それら、いろいろの問題を考え合わせますと、凡夫が想像もつかない神さまのおはからいを、妙佼先生のからだを通じて私どもにくださったのであります。
     そして、私どもに課せられた世界万国に対して法を弘める、という使命を命令されて遷化されたわけであります。

  •    真の法華経行者になろう

     その後、満十三年。きょう十四回忌を迎えたわけでございます。その十四回忌を迎えまして、日鑛が少し緊張しまして、回向文で自分の名前を読みあげる際にコウイチ……ニチコウと口ごもりました。
     これは、一面から申しますと、妙佼先生が「あなたは日鑛になれましたか」と、浩一のときの修行がどうであったかを、あやかったのかも知れません。そのように妙佼先生は不思議な人でした。
     きょうは、妙佼先生の御前に皆さんお役の人が集まっているはずでございますので、先ほども申しましたように、十万億の供養をした仏さまの子として、福徳淳厚なる者が、過去の約束を守るために今世生まれてきて、佼成会に入会している、という解釈のできる人は手をたたいていただきたいと思います。(拍手)
     きょうおいでになった方が全員、手をたたいてくださいましたので、これで一万人ぐらいの人が自覚できたわけであります。これが八ヶ所に集まりますと、八万の大士が一応勢ぞろいすることになるのでございます。
     せっかくお参りして、まわりのふんい気に手をたたいてみたけれど、どうもご法がわからない。帰る途中でグチがはじまる、というようなことではダメです。
     しかし、これも一面から申しますと、あまり一直線に進んでしまいますと、きのう、きょう入会した人が、幹部を置いて行くかもしれません。そういう意味で、多少のジクザク行動もいいのかもしれません。
     が、願わくは、仏さまの本願のごとく。皆さんがしっかりと法華経行者になっていただくことを、妙佼先生は願っていると思うのであります。
     で、あればこそ、妙佼先生が予言なされたことが、次から次へと実現しているわけであります。
     どうか、そういう意味で、皆さま、この妙佼先生のお写真に心から誓願をたてて「しっかり行じます」――そうした決じょうを新たにしてお帰りいただきまして、ご精進くだされば、必ず「法華経の経力はいかなることもかなわぬことはない」と、いわれるように幸せになることは明らかでございますので、一生懸命にご精進ください。
     そして、きょう代表として説法された渋沢教会長さんのように、一人残らずの人が、ほんとうに幸せになって「どうぞ、妙佼先生安らかにお休みください」と、いう心境になっていただきたいことをお願い申しあげまして、本日のご説法にかえたいと思います。ありがとうございました。

  •    真の法華経行者になろう

     その後、満十三年。きょう十四回忌を迎えたわけでございます。その十四回忌を迎えまして、日鑛が少し緊張しまして、回向文で自分の名前を読みあげる際にコウイチ……ニチコウと口ごもりました。
     これは、一面から申しますと、妙佼先生が「あなたは日鑛になれましたか」と、浩一のときの修行がどうであったかを、あやかったのかも知れません。そのように妙佼先生は不思議な人でした。
     きょうは、妙佼先生の御前に皆さんお役の人が集まっているはずでございますので、先ほども申しましたように、十万億の供養をした仏さまの子として、福徳淳厚なる者が、過去の約束を守るために今世生まれてきて、佼成会に入会している、という解釈のできる人は手をたたいていただきたいと思います。(拍手)
     きょうおいでになった方が全員、手をたたいてくださいましたので、これで一万人ぐらいの人が自覚できたわけであります。これが八ヶ所に集まりますと、八万の大士が一応勢ぞろいすることになるのでございます。
     せっかくお参りして、まわりのふんい気に手をたたいてみたけれど、どうもご法がわからない。帰る途中でグチがはじまる、というようなことではダメです。
     しかし、これも一面から申しますと、あまり一直線に進んでしまいますと、きのう、きょう入会した人が、幹部を置いて行くかもしれません。そういう意味で、多少のジクザク行動もいいのかもしれません。
     が、願わくは、仏さまの本願のごとく。皆さんがしっかりと法華経行者になっていただくことを、妙佼先生は願っていると思うのであります。
     で、あればこそ、妙佼先生が予言なされたことが、次から次へと実現しているわけであります。
     どうか、そういう意味で、皆さま、この妙佼先生のお写真に心から誓願をたてて「しっかり行じます」――そうした決じょうを新たにしてお帰りいただきまして、ご精進くだされば、必ず「法華経の経力はいかなることもかなわぬことはない」と、いわれるように幸せになることは明らかでございますので、一生懸命にご精進ください。
     そして、きょう代表として説法された渋沢教会長さんのように、一人残らずの人が、ほんとうに幸せになって「どうぞ、妙佼先生安らかにお休みください」と、いう心境になっていただきたいことをお願い申しあげまして、本日のご説法にかえたいと思います。ありがとうございました。