そういう意味で――。
きょう、私は大聖堂へきてみますと、たくさんのバスがきておりました。「きょうは皆さんが大勢、妙佼先生のご命日にお参りしてくださった」と、思いまして感謝をしながらはいってきました。
そして、大聖堂いっぱいにはいっているかと思ってみますと、前のほうに少し、各階にも多少はいますが、そんなにいっぱいではありません。それでも回向文を読みあげるころには大聖堂もいっぱいになりましたが。
私は、皆さんの動作をみながら、これを妙佼先生はどのようにごらんになっているだろうか――そういうことを考えながらご供養をさせていただきました。
妙佼先生のご在世中は、まだ大聖堂もできておりませんでしたから、ご命日になりますと、道場の中だけではとても人がおさまらず、外にムシロを敷いて坐ってもらわなくてはなりませんでした。炎天下にあっても、子どもさんも騒がず、みんなきちんとしていたものでございます。
そうした当時のことを考えますと――。
最近、非常に会員数もふえましたし、皆さんは生活にも恵まれ、りっぱな着物を着ているし、栄養もたっぷりのようでございます。
ところが、信仰のほうは、と申しますと――。
建物は建ち、冷暖房まで完備して、朝の六時から温度を調整してお待ち申しあげているのですが、おいでになる人は九時のご供養にも間にあわない。そして、皆さんお昼近くとことこやってきて、いろいろと談じていらっしゃる。
これは、皆さん幸せになっているのですから、別に何も申しあげる必要はない、といえばいえないわけもないのでありますが、皆さん、もう少し「これだけ幸せになった」と、いうことをご法の面にあらわし、せめてご命日ぐらいはご供養に遅れずにくるぐらいの心構えができなくてはならない、と思います。
私、皆さんにグチをいうわけではありませんが、もし、妙佼先生がおいででございましたら、皆さんの今日の足なみをみて、苦々しく思われ、「そんなことで法華経行者といわれるか!」と、大喝一声されるのではないか、と思います。