法華三部経の要点 ◇◇74
立正佼成会会長 庭野日敬
我身命を愛せず但無上道を惜む
仏に生かされていればこそ
勧持品の後半は、多くの菩薩たちが「世尊の滅後に法華経の教えを説きひろめます」とお誓いする力強い言葉に終始しています。まず、こう申し上げます。
「世尊、我等如来の滅後に於て、十方世界に周旋往返(しゅせんおうへん)して、能く衆生をして此の経を書写し、受持し、読誦し、其の義を解説し、法の如く修行し、正憶念せしめん、皆是れ仏の威力ならん。唯願わくは世尊、他方に在(ましま)すとも遙かに守護せられよ」
この一節に、後世の法華経行者のなすべきことが尽くされています。そして、われわれ立正佼成会会員はそのとおりのことを実践しているという自負と自信を持っていいと思います。とくに「十方世界に周旋往返し(この世のあらゆる場所に何べんも行き来して)」というくだりは、立正佼成会が国中のあらゆる所ばかりでなく諸外国へも実質的な広宣流布を行っていることを宣(の)べているものと言ってもいいでしょう。
もう一つここのくだりで注目すべきは「皆是れ仏の威力ならん」という一句です。法華経は「自力」を重んずる努力主義の教えだといわれています。たしかにそれに違いありませんが、しかし、一面では、すべての衆生が仏さまに生かされていることを強調し、仏さまに帰依し恋慕渇仰(れんぼかつごう)することによってそのご加護を受けることをも力説しているのです。いや、宗教の信仰であるかぎり、神仏の存在を無視した「自力」のみの教えがあるはずはなく、「自力」の最右翼である禅宗でも、道元禅師などは「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえ(家)になげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき云々」と言っておられます。
法華経でも、ここにあるとおり、われわれがなすあらゆる菩薩行は自分でやっているようでも、すべて仏さまのお力によるものだと説いているのです。
これぞ法華経行者の合言葉
この品の後半にある偈は、「勧持品二十行の偈」といわれ、日蓮聖人がここに述べられていることがひとつ残らず自分の身の上に現れてきたことによって「自分こそ末法の世に法華経を説きひろめる使命を持って生まれてきた者だ」という自覚を得られたということでも有名です。その中に次の一句があります。法華経にある数々の名句中の名句といってもいいでしょう。
我身命(しんみょう)を愛せず 但(ただ)無上道を惜む
「わたくしどもは命さえ惜しいとは思いません。ただ仏さまのお説きになったこの無上の教えに触れることのできない人がひとりでもいることが何より惜しいのでございます」
法華経に生き、法華経に死ぬ者の烈々たる心情です。人間よほど長生きしてみたところで百歳そこそこです。その一生を、ただ利己の欲のため、名誉のため、快楽のため、権勢のためにあくせくして過ごしてしまうのは、なんというもったいないことでしょう。
たとえただ一人でもいい、仏道に導いて幸せにしてあげる。ただ身のまわりの一隅でもいい、世の中を明るくし平和にする。それこそが、この世に生まれてきたことの真の意義です。ましてや、仏さまのお使いであるという意識をハッキリ持てば、一人でもこの教えに触れぬ人がいるかぎりジッとしてはおれぬという烈々たる意欲がわいてくるはずです。その意欲をそのまま実行に移して完全燃焼させることこそ、人間として最高の生き方と言っていいでしょう。
「我身命を愛せず 但無上道を惜む」。一日に何度でも、思い出すごとに口ずさむべき、法華経行者の合言葉であります。
立正佼成会会長 庭野日敬
我身命を愛せず但無上道を惜む
仏に生かされていればこそ
勧持品の後半は、多くの菩薩たちが「世尊の滅後に法華経の教えを説きひろめます」とお誓いする力強い言葉に終始しています。まず、こう申し上げます。
「世尊、我等如来の滅後に於て、十方世界に周旋往返(しゅせんおうへん)して、能く衆生をして此の経を書写し、受持し、読誦し、其の義を解説し、法の如く修行し、正憶念せしめん、皆是れ仏の威力ならん。唯願わくは世尊、他方に在(ましま)すとも遙かに守護せられよ」
この一節に、後世の法華経行者のなすべきことが尽くされています。そして、われわれ立正佼成会会員はそのとおりのことを実践しているという自負と自信を持っていいと思います。とくに「十方世界に周旋往返し(この世のあらゆる場所に何べんも行き来して)」というくだりは、立正佼成会が国中のあらゆる所ばかりでなく諸外国へも実質的な広宣流布を行っていることを宣(の)べているものと言ってもいいでしょう。
もう一つここのくだりで注目すべきは「皆是れ仏の威力ならん」という一句です。法華経は「自力」を重んずる努力主義の教えだといわれています。たしかにそれに違いありませんが、しかし、一面では、すべての衆生が仏さまに生かされていることを強調し、仏さまに帰依し恋慕渇仰(れんぼかつごう)することによってそのご加護を受けることをも力説しているのです。いや、宗教の信仰であるかぎり、神仏の存在を無視した「自力」のみの教えがあるはずはなく、「自力」の最右翼である禅宗でも、道元禅師などは「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえ(家)になげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき云々」と言っておられます。
法華経でも、ここにあるとおり、われわれがなすあらゆる菩薩行は自分でやっているようでも、すべて仏さまのお力によるものだと説いているのです。
これぞ法華経行者の合言葉
この品の後半にある偈は、「勧持品二十行の偈」といわれ、日蓮聖人がここに述べられていることがひとつ残らず自分の身の上に現れてきたことによって「自分こそ末法の世に法華経を説きひろめる使命を持って生まれてきた者だ」という自覚を得られたということでも有名です。その中に次の一句があります。法華経にある数々の名句中の名句といってもいいでしょう。
我身命(しんみょう)を愛せず 但(ただ)無上道を惜む
「わたくしどもは命さえ惜しいとは思いません。ただ仏さまのお説きになったこの無上の教えに触れることのできない人がひとりでもいることが何より惜しいのでございます」
法華経に生き、法華経に死ぬ者の烈々たる心情です。人間よほど長生きしてみたところで百歳そこそこです。その一生を、ただ利己の欲のため、名誉のため、快楽のため、権勢のためにあくせくして過ごしてしまうのは、なんというもったいないことでしょう。
たとえただ一人でもいい、仏道に導いて幸せにしてあげる。ただ身のまわりの一隅でもいい、世の中を明るくし平和にする。それこそが、この世に生まれてきたことの真の意義です。ましてや、仏さまのお使いであるという意識をハッキリ持てば、一人でもこの教えに触れぬ人がいるかぎりジッとしてはおれぬという烈々たる意欲がわいてくるはずです。その意欲をそのまま実行に移して完全燃焼させることこそ、人間として最高の生き方と言っていいでしょう。
「我身命を愛せず 但無上道を惜む」。一日に何度でも、思い出すごとに口ずさむべき、法華経行者の合言葉であります。