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法華三部経の要点 ◇◇100
立正佼成会会長 庭野日敬

あなたも観世音菩薩になれる

三十三身に示現の観世音

 法華経は努力主義の経典です。仏さまを供養し、その教えを学び、修行を重ね、それと同時に世の多くの人々の幸せのために菩薩行を実践することを信条としています。
 ところが、二十五番の観世音菩薩普門品だけはまったく趣が異なります。観世音菩薩のみ名を唱えただけでもさまざまな世間の苦から救われると説かれています。一見、絶対他力の法門のように思われます。
 しかし、絶対他力の思想ではないのです。あとのほうに、観世音菩薩は、あるいは大王の身となり、あるいは一庶民の身となり、婦女子の身ともなり、子供の身ともなり、三十三の身を現じて人々を救われるのだ、とあるように、われわれの住んでいる現実の社会に即して考えるとき、結局は仏法の根本法である縁起、そして諸法無我の真理にもとづく「持ちつ持たれつ」の思想に落ちつくものなのであります。
 つまり、「世間にはいたる所に観世音菩薩がおられるのだ。また自分自身も観世音菩薩になろう」ということです。このことは、この品を学び進んでいくうちによく納得できるはずです。

智慧と慈悲を兼ね具えて

 観世音菩薩はどのような徳を持った菩薩でしょうか。そのみ名によく表れています。観世音というのは「世の中の音を明らかに観(み)る」という意味です。音を聞くというのでなく、音を観察するとなっているところにたいへん奥深い意義があるのです。
 音というのはものが振動するときに出るものですから、世音というのは世の中の揺れ動きということです。また、人間の発する音でいちばん重大なのは声であり、言葉でありますから、人間の声や言葉には心の揺れ動きが如実に表れるのです。つまり観世音菩薩は、世の中がどういう原因で揺れ動いているか、人間の心が何に悩んでいるか、苦しんでいるか、何を願っているか、祈っているかを明らかに見通されるお方なのです。
 もちろんただ見通してジッとしておられるのではありません。ずっとあとの偈に「真観・清浄観 広大智慧観 悲観及び慈観あり」とあるように、現実の世界をありのままに観察し、それも澄み切った見方で観、そこから生ずる広大無辺な世界観を持ち、そうした世界観を持てばおのずから湧(わ)いてくる慈心(すべての衆生を幸せにしてやりたいという心)と悲心(衆生の苦しみを抜いてやろうとする心)の持ち主が観世音菩薩なのですから、社会の混迷や人間の苦しみを見ればその救済のためにただちに発動される、それが観世音菩薩のお徳にほかなりません。
 このことは、われわれの実生活のうえに置き換えて考えてみるとよくわかるはずです。 
一家の父または母として子供たちを立派に育てていくには、子供たちの心や体の中に入りこんだように、その状態を見通さなければなりません。この子の体には何の栄養が不足しているか。この子の体力はどこが足りないか。この子はどんな天性を持っているか。この子は何を苦しみ、何を求めているか。そういう声なき声をよく聞き分けて、それに応じた食事をつくってあげる。生活指導をする。精神指導をする。しつけをする。しかも親らしい親ならば、自分に必要な時間や労力などを犠牲にしても、その子の幸せのために尽くすでしょう。これが観世音菩薩の精神にほかなりません。
 職場やその他の団体において、長と名のつく立場にいる人でも同じです。部下の性格・能力だけでなく、それぞれの人の声や、声なき声を聞き分けて、それにふさわしい指導をすれば、その一人一人が幸せになるばかりでなく、仕事全体も順調に発展していくでしょう。こういう上司も観世音菩薩にほかならないのです。


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