普門の心
何事をやるにも、われわれは最善の努力をいたしますが、終局の決めどころは、やはり神さま、仏さまにお任せすることです。
「供養品」の中にも、自力、他力ということがでておりますが、むかしの人はとかく自分の宗教を説明するのに「多少どこか違ってなければ存在価値がない」と、いうことで向こうが自力といえば、こちらは他力という。向こうが他力といえば、こちらは自力で行こう、という。それが人間でございます。
根本は変らないものを変わったもののように説明してきたのが、過去の宗教家でございます。
そういうことはもう通りません。これは何がなんでも慈悲でなくてはならない、智慧でなくてはならない、というような論をするような時期ではありません。私どもは、人間本然の人と人との間の関係を円満に、他人の幸せを喜び、お互いに仲よく、お互いの繁栄を願うことが――。
陰で悪口をいってどこかで暴露しないか、と心配するようなことではなく、人さまをほんとうに尊敬し、敬愛して、人さまも自分のように信頼してくれるだろう、と安心することになるわけであります。
それが、神さま、仏さまのみ心であって、その神さま、仏さまのみ心を体して世の中へあらわれたのが人間でございます。
それをいろいろな形で、過去の業によってあっちへ曲り、こっちのほうに解釈を違え、ややこしくなり今日の末法をつくりだしているのです。
末法になりますと、人類ことごとく自分たちの帰趨を失なって、どうにもならなくなってくる。その時になりますと「いろいろの法門がたくさんあるけれど、その法門も、せんじつめれば二もなく三もなく、皆一つなんだ。その一なる本義によってみんな救われる」――このように仏さまはお説きになっております。
そういうことを統一するには、なんとしても大衆がほんとうに慕うような、願っているようなことを受け入れられるお姿をあらわして迎え入れないと、なかなか入ってこられません。
そこで普く門ということで「普門館」の名称をつけたわけでございます。
普く門ですから、心の面からいえば「どこからでも入ってきなさい。なんの宗教でも結構でございます。どんなイデオロギーでも結構でございます。この門を開いて中へ入れば、観世音菩薩さまの三十三身を現じて衆生を済度する」と、いうことでございます。
三十三ということは、三十三の数をいうのではなく、あらゆる姿ということです。
どんな人でも、観世音菩薩さまのお慈悲の中にとけ込んで、そこに成仏の道を示し前進できる――こういうわけであります。
そういう観世音菩薩さまを正面に勧請申しあげましたのが本日でございます。先ほど十八日ということを申しましたが、本日二十四日という日は、八の三掛でございます。
私どもあのつごう、このつごうと、みんなのつごうを考えた結果、こうして勧請申しあげることは不思議な因縁だと思います。