開祖さまご法話テキスト『求道』 1970年
普門館観世音菩薩像勧請式
皆さま、本日はまことにおめでとう存じます。待ちに待ちました観音さまのご尊像が、きょうここに勧請申しあげるお手配になりました。
ただいま錦戸先生のお話を伺いますと、私どもの想像もおよばないご苦労があったようでございますが、はからずも観音像が完成した八月十八日が、くしくも大聖堂のご本尊の製作に着手した日でございます。そういう仏さまのお手配がありました。
私どもは何事でもそうでありますが、私は「佼成会は無策の策だ」と、いつも申しております。われわれ人間がはからって、はからえるものではなく、すべてが神さま、仏さまのおはからいによって、一つ一つ完成をしていくのであります。
したがいまして、建設をお願い、いたします銭高組さんにしましても、また錦戸先生にしましても、皆、これ神さまからさずけられました建築家であり、ご尊像の製作者でございます。観世音菩薩像を勧請する心構えが整った
皆さまもご承知のように「序品第一」を拝読しますと、いろいろな神さま、さまざまな階層の人、あらゆる順逆のものが集りまして、いよいよ説法がはじまるというくだりがございます。あの状態を考えてみますと――。
智慧第一といわれる舎利弗尊者が、お釈迦さまに「ご法を説いていただきたい」と、お願いしますと、お釈迦さまは「説くべからず」――「このことを説けばみんな疑惑を持つであろう」――こうおっしゃってなかなかお説きにならない。再三再四お願いする。
そして、われわれがきょうの観世音菩薩像の勧請を待ち奉るように、瞻仰して待ち奉る。そのような心構えがすっかり整えられますと、はじめてお釈迦さまは「それでは舎利弗。一切世間のものは疑惑を持つであろうが、お前のために説こう」といわれ、そこで法華経の説法がはじまるわけであります。
そのように、このご尊像が姿をあらわすまでには、それ相当の次第があるわけであります。慈悲の象徴
八月に勧請することになりましたのは、普門館で国際自由宗教連盟の方々が、八月二十六日に会議を開く予定がございますので、ことばも、国柄も違いますが宗教協力ということで今日まで活動を続けてきた方たちに、その日までに勧請して、仏さまのお姿をみていただこう、ということで勧請申しあげたわけであります。
私も、きょう初めてお顔を拝したのでありますが、皆さんご覧になっていただきますと、錦戸先生がどんなにご苦労なさったかが、よくおわかりだと思います。
いまは、ほとんどの人が楽をして栄養を取りすぎて肥って困っています。現代の人を救うには、皆さんの心の中に描いている理想の像でならなければならないとなりますと、この聖観世音菩薩さまだ、と思うのであります。
なんとスマートな像ではありませんか。おそらく外国の人がみえましたら、手は届きませんが、ハシゴをかけてもさわってみたいと思うでありましょう。
正面玄関をお入りいただけば、すぐにこの仏さまの慈悲の象徴として、われわれ凡夫に手をかしてくださるかのようでございます。
そのスマートな仏さまのお姿が拝めるということになりますれば、信仰に一段と拍車がかかるものと、私は拝察するわけであります。普門の心
何事をやるにも、われわれは最善の努力をいたしますが、終局の決めどころは、やはり神さま、仏さまにお任せすることです。
「供養品」の中にも、自力、他力ということがでておりますが、むかしの人はとかく自分の宗教を説明するのに「多少どこか違ってなければ存在価値がない」と、いうことで向こうが自力といえば、こちらは他力という。向こうが他力といえば、こちらは自力で行こう、という。それが人間でございます。
根本は変らないものを変わったもののように説明してきたのが、過去の宗教家でございます。
そういうことはもう通りません。これは何がなんでも慈悲でなくてはならない、智慧でなくてはならない、というような論をするような時期ではありません。私どもは、人間本然の人と人との間の関係を円満に、他人の幸せを喜び、お互いに仲よく、お互いの繁栄を願うことが――。
陰で悪口をいってどこかで暴露しないか、と心配するようなことではなく、人さまをほんとうに尊敬し、敬愛して、人さまも自分のように信頼してくれるだろう、と安心することになるわけであります。
それが、神さま、仏さまのみ心であって、その神さま、仏さまのみ心を体して世の中へあらわれたのが人間でございます。
それをいろいろな形で、過去の業によってあっちへ曲り、こっちのほうに解釈を違え、ややこしくなり今日の末法をつくりだしているのです。
末法になりますと、人類ことごとく自分たちの帰趨を失なって、どうにもならなくなってくる。その時になりますと「いろいろの法門がたくさんあるけれど、その法門も、せんじつめれば二もなく三もなく、皆一つなんだ。その一なる本義によってみんな救われる」――このように仏さまはお説きになっております。
そういうことを統一するには、なんとしても大衆がほんとうに慕うような、願っているようなことを受け入れられるお姿をあらわして迎え入れないと、なかなか入ってこられません。
そこで普く門ということで「普門館」の名称をつけたわけでございます。
普く門ですから、心の面からいえば「どこからでも入ってきなさい。なんの宗教でも結構でございます。どんなイデオロギーでも結構でございます。この門を開いて中へ入れば、観世音菩薩さまの三十三身を現じて衆生を済度する」と、いうことでございます。
三十三ということは、三十三の数をいうのではなく、あらゆる姿ということです。
どんな人でも、観世音菩薩さまのお慈悲の中にとけ込んで、そこに成仏の道を示し前進できる――こういうわけであります。
そういう観世音菩薩さまを正面に勧請申しあげましたのが本日でございます。先ほど十八日ということを申しましたが、本日二十四日という日は、八の三掛でございます。
私どもあのつごう、このつごうと、みんなのつごうを考えた結果、こうして勧請申しあげることは不思議な因縁だと思います。仏さまに近づく修行を
そういう意味で、私どもは決してどの宗教がいいとか、悪いとかのせんさくよりも、問題は、まず仏教精神を根本において、自分が仏になるにはどうしたらよいか、どんな修行をすればよいか、どういう道を歩むべきかを静かに考え、偏見のない寛容の精神で、しかも神さま、仏さまの前では謙虚に、天真らんまん、正直な人間にならなければなりません。それでなければ、神さま、仏さまに近づけないわけであります。
佼成会の布教は、久遠実成のお釈迦さまのみ心を第一に、普門の精神で、あらゆる門を開いて、どんな業障の人でも皆ここに招いて成仏しないものは一人もいない、という教えです。それが、仏教の理想でもあるわけです。
どうか、そういう意味で、本日ここに勧請されました観世音菩薩さまのお姿を拝して、自分もこのようになんの邪気もなく、スマートでやさしい、どなたがおいでになってもほれぼれするような、よその教団にうらやましがられるよう、観世音菩薩さまのみ心に、私どももあやからしていただくことをあらためてここに誓願したいと思います。どうも本日はおめでとうございました。ありがとうございます。