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新日本宗教団体連合会・インド仏跡参拝の旅 金剛宝座の前で読経供養
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新日本宗教団体連合会・インド仏跡参拝の旅 サルナートのストゥーパを参拝
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新日本宗教団体連合会・インド仏跡参拝の旅 早朝のガンジス川
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新日本宗教団体連合会・インド仏跡参拝の旅 パリニッバーナ寺院
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新日本宗教団体連合会・インド仏跡参拝の旅 霊鷲山
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佼成新聞 1990年2月16日 日鑛先生、インド仏跡参拝へ
【機関紙誌】
法華三部経の要点46
【機関紙誌】
言葉の力の偉大さを知ろう
法華三部経の要点46
言葉の力の偉大さを知ろう
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...法華三部経の要点 ◇◇46 立正佼成会会長 庭野日敬 言葉の力の偉大さを知ろう 「大王の膳」の譬え この授記品でまず摩訶迦葉が仏と成る保証を与えられました。すると、目連・須菩提・迦旃延らが偈(げ=詩)を頌(じゅ)して「世尊、どうぞわたくしどもにも仏となる保証をお授けくださいませ」とお願いしました。 その偈にはいわゆる「大王の膳(ぜん)」の譬えが説かれています。すなわち「飢えたる国より来って 忽ちに大王の膳に遇わんに 心猶お疑懼を懐いて 未だ敢て即便ち食せず 若し復王の教を得ば 然して後に乃ち敢て食せんが如く 我等も亦是の如し」というのです。 ――これまで長いあいだ自分たちが仏に成りうるなどとは思ってもいなかったのに、この法華経の説法において世尊は突然そのようなことをおおせいだされた。そして、まず舎利弗がその保証を与えられ、次にここで摩訶迦葉もその保証を頂いた。飢餓の国からはるばる来て、大王から最高のごちそうを頂いたようなものである。われわれの前にもそのごちそうが出されている。頂いていいものとはわかっているけれども、やはり一抹の不安がある。大王が「食べていいぞ」と一言いわれれば安心して頂戴(ちょうだい)できるのだが――という心持ちです。 三人の微妙な心理がよく描かれています。目連は「神通第一」、須菩提は「解空(空をよく理解している)第一」、迦旃延は「論議(教えの要点を論ずること)第一」というお釈迦さまのお墨付きをもらっている教団中の逸材です。とはいえ、自分たちはもろもろの菩薩たちとは異質の、一段低い信仰者だと思い込んでいたのでした。ところが、この法華経の方便品以降の説法で自分たちも仏と成る軌道の上にいることがわかり、しかも、現に舎利弗・大迦葉という声聞仲間が授記されたのですから、自分たちもその資格があるぞと躍り上がりたい気持ちになっているのです。しかし、お釈迦さまから実際に成仏の保証のお言葉を頂かないうちは、一抹の不安がまだ心の隅にあるのです。上の「大王の膳」の譬えはその気持ちを率直に表白しているわけです。 言葉は神であり仏である 言葉というものはそれほど大切なものです。 われわれ立正佼成会会員が朝夕読誦する経典の開経偈にも「色相の文字は即ち是れ応身なり」とあります。「法華経に説かれている言葉、それを表している文字は、とりもなおさずお釈迦さまのおん身そのものなのである」というのです。 キリスト教でも同じようなことを言っています。聖書のヨハネ伝の最初に「太初(はじめ)に言(ことば)ありき。言は神と共にあり、言は神なりき」とあります。 言葉は仏であり、神であるというのです。善い言葉には神仏のお力が宿ります。人の運命を変えるばかりか、環境をも変える偉大なはたらきをもするのです。道元禅師の名言のように「愛語よく回天の力あり」なのです。 逆に、よくない言葉を吐くことは、仏を汚し、神を冒涜(ぼうとく)する行為です。そして、人をおとしめ、傷つけ、不幸にします。 われわれ布教者は、とりわけ言葉を大切にしなければなりません。われわれの一言一言が人を幸せにし、世の中を変えていくのです。愛の言葉、思いやりの言葉、慰めの言葉、励ましの言葉、それがわれわれの言葉でなくてはなりません。 場合によっては折伏(しゃくぶく=相手を強く責めて回心させる)も必要ですけれども、それを用いるのはよほどの徳を具えている人でないと逆効果の危険があります。やはり摂受(しょうじゅ=相手を柔らかに抱き取りおだやかに説得する)が本筋であると心得るべきです。 いずれにしても、お導きや手どりをする人、あるいは人の上に立つ人の言葉は思いがけないほどの力を持つものです。大切の上にも大切にしましょう。 ...
法華三部経の要点47
【機関紙誌】
魔をも向上のエネルギーに変える
法華三部経の要点47
魔をも向上のエネルギーに変える
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...法華三部経の要点 ◇◇47 立正佼成会会長 庭野日敬 魔をも向上のエネルギーに変える 魔には二種類ある お釈迦さまは摩訶迦葉への授記のお言葉の中で「魔事あることなけん。魔及び魔民ありと雖(いえど)も皆仏法を護らん」とおおせられています。はるか未来の後の理想社会のこととも受けとれましょうが、しかし、これをわれわれはいま現実に生きる世界の真実と受けとめることが大切だと思います。 魔というのは、ひっくるめていえば、正しい道を妨害する邪(よこし)まな存在で、「邪魔」という日常語もそこから出ているのです。この魔には二種類があります。一つは外から襲ってくるもので「身外の魔」といい、もう一つは自分自身の内に潜むもので、これを「身内の魔」といいます。 お釈迦さまが菩提樹の下で最終的な禅定に入られたとき、魔やその手先たちが入り代わり立ち代わりやってきてお悟りの邪魔をしました。その魔の正体については二説があります。一つは、実際にそうした悪霊がいたという説。すなわち身外の魔です。もう一つは、人間の潜在意識に巣くっている悪い経験の集積(身内の魔)だという説です。この後者のほうがより現実的だと思いますので、それについて吟味してみましょう。 現在でも、すぐれた指導者のもとでなく独りで座禅などをしていた人がそうした潜在意識の表面化に襲われて異常な状態になった例もあるようです。しかしお釈迦さまは、たぐいなき精神力と、また諸天善神の加護によって、そのような危機を見事に乗り切り、悟りをひらかれたわけです。 人間は、原始的な生物だった時代からこのかた、自身の生命の維持と種族の保存のためにさまざまなエゴの行為をしつづけてきました。残虐な殺りくをもあえてしました。そうした経験がすべて潜在意識の底に沈んでいてなかなか消え去らないのです。 ですから、倫理・道徳の教える道を精いっぱい守っていても、その潜在意識からつき上げてくる悪念にそそのかされて、ついよくない行為をし、自分をも不幸にし、ひとをも傷つけ、社会にも害悪を流してしまうわけです。 そうした深層意識がつくる「罪」を防ぐものは宗教の信仰しかありません。宗教の信仰は、まず顕在意識(表面の心)を清めます。さらに、潜在意識までも清めますので、心奥から突き上げてくる悪念をも抑止するのです。こんなはたらきをするものは、ほかにはないのです。 「魔があっても魔事がない」 さらに、大乗仏教の教義に即していえば、信仰がさらに進めば潜在意識に潜む悪をも大きく包容してしまいますので、悪が悪のはたらきをしなくなるのです。かつてわたしが本紙の『会長随感(平成1・10・13)』に「人間の体は五十兆もの細胞の働きで保たれているのですが、その二倍もの細菌が体の中で共存しています。それが、間違った生活で体力が落ちると、よくない菌がどんどん増えてバランスが崩れてくる。これが病気です」と書きました。 それと同じで、潜在意識に潜む悪菌をも「やはり自分の一部なんだ」と包容しますと、それらが全人格のバランスをつくる一員となりますから、わるさなどをしなくなるのです。これが「魔があっても魔事がない」ということにほかなりません。 それどころか、そういった悪菌が自分に試練を与えて精神を鍛えてくれるエネルギーとなるのです。大乗仏教でいう「煩悩即菩提」というのはそのことなのです。お釈迦さまが、前世の物語にことよせて「わたしが正覚を成じたのは提婆達多という善知識(よき友)のおかげである」とおっしゃったのも、そのことにほかなりません。提婆という「悪」をも包容してしまわれたればこそ、あの比類なき大人格が形成されたのです。 ...
法華三部経の要点48
【機関紙誌】
魔に護らせるのが仏法
法華三部経の要点48
魔に護らせるのが仏法
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...法華三部経の要点 ◇◇48 立正佼成会会長 庭野日敬 魔に護らせるのが仏法 悪を知る者が悪を除きうる 前回に、ご成道直前のお釈迦さまを襲った魔ものは潜在意識に潜む過去の経験の表面化だったという説を紹介しましたが、「お釈迦さまほどの人格者がなぜ?」という疑問を持たれる人もあろうかと思われますので、そのことについて説明しておきましょう。 潜在意識の底に沈んでいるものは、前回にも書きましたように、人間がまだ原始的な生物だったころからの経験の積み重ねであって、なかなか簡単に消えるものではありません。 天台大師も、一念三千の法門の大事な骨格である「十界互具」において、仏界にも地獄・餓鬼・畜生・修羅等々の各界が併存しているのだと説いています。これを狭く、人間の深層意識の考察だと考えても、じつにすばらしい洞察だと思います。と同時に、地獄に落ちる人にも仏に成る種子がちゃんとあるのだと言っていますから、われわれ凡夫にとっては大いなる救いです。 そして大師は、『観音玄義』の中で「仏は修悪(しゅあく)を断じ尽くして、但(ただ)性悪(しょうあく)あり」と言っています。「仏は悪を行うことを断じ尽くしておられるが、性(素質)としての悪はやはり持っておられるのだ」というのです。ということは、逆に見て、素質としての悪を具有していながらも悪を行われることがまったくないところが、仏さまがたぐいなき人格者であられるゆえんだ……ということになりましょう。 さらに『観音玄義』に「仏は性悪を断ぜずと雖も、而も能く悪に達す。悪に達するを以て悪に於いて自在なり。(中略)自在を以ての故に、広く諸悪の法門を用いて衆生を化度(けど)す」ともあります。「仏さまは悪というものによく通達しておられるからこそ、悪に染まっている衆生を教化することがおできになるのだ」というのです。まことにそのとおりで、悪のいろいろな姿を知っていなければそれを除く方法も心に浮かんでくるはずがありません。このことは、仏法の広宣流布にたずさわるわれわれもよくよく心得ていなければならないことだと思います。 日本の進むべき道もここに もう一つ、「なぜ魔が仏法を護るのだろうか」という疑問を持つ人もあるでしょう。 大乗仏教、特に法華経は悪を大きく包容する教えです。提婆達多品にそれがよく表れていますが、陀羅尼品においても、もと凶悪な鬼女でお釈迦さまに教化されて善神となった鬼子母(きしも)をはじめとする恐ろしげな鬼女たちが「わたくしどもは誓って説法者をお護りします」と申し上げ、仏さまは「善哉、善哉」とお褒めになっておられます。 現実の世の中から悪が完全になくなることは考えられません。ですから、仏教は、悪をも包容し、あるいは自らの精神を鍛えるために活用し、あるいはそれを教化することによって社会に役立たせようと図るのです。 前回に引用した『会長随感』に、宇宙飛行士が無重力状態で二百日も暮らすと、ふくらはぎの肉が三〇%も落ちるという事実を紹介しましたが、精神もそれと同様で、あまりにも抵抗のない、いわば無重力や無菌室の中にいるような状態が続きますと、向上進歩のエネルギーが衰弱してしまいます。いわゆる「青白き善人」となってしまう のです。 これはたんに個人にとってばかりでなく、大小の団体にとっても、あるいは国家にとっても、大事なポイントだと思います。特にこれからの日本はいろいろな意味で世界のリーダーとなるべき使命を背負っていますが、世界にはめんどうな国があることは否めません。それらを避けて通ったり、背を向けたりすることなく、お釈迦さまの包容力を見習って、そのめんどうさを良いエネルギーに変える縁となり、世界平和に寄与してもらうよう努力することこそ、日本が真のリーダーになるために歩むべき道でありましょう。 このように「魔をも仏法を護るよう導く」これが仏法の偉大なところなのです。 ...
法華三部経の要点49
【機関紙誌】
われわれは久遠本仏と一体
法華三部経の要点49
われわれは久遠本仏と一体
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...法華三部経の要点 ◇◇49 立正佼成会会長 庭野日敬 われわれは久遠本仏と一体 宇宙はどのように誕生したか 化城諭品では、お釈迦さまと、われわれの宿世の因縁が説かれますので、最初から最後まで神秘的な、不可思議な叙述に満ちています。しかし、それらはすべてわれわれの信仰や実生活にとって非常に大切なことが象徴的に述べられているのですから、そのつもりで学んでいくことにしましょう。 まず、お釈迦さまは弟子たちにこう問いかけられます。「この世界全体の土を砕いて細かい粉にし、それを持って虚空へ飛び出し、千の世界を通り過ぎるごとにその粉を一粒ずつ落としていって、全部の粉がなくなるまで行ったとしたら、どれほどの国土を通ったことになるか、それがわかるか」。 弟子たちが茫然となって「わかりません」と答えると、お釈迦さまは、「大昔に大通智勝如来という仏がおられたが、その時代から今日までには、いま言った国土の数よりもっと多い年月がたっているのだ」とおおせられます。 このことは「宇宙の大生命ともいえる仏は、宇宙が出来たときから、いやその以前から存在しておられたのだ」という真実を象徴的に述べられたものです。この仏さまを、後世の仏教者は「法身仏」または「久遠実成の本仏」とお呼びしているわけです。 現代の科学では、百五十億年(一説では二百億年)前に濃密なエネルギーの塊があってそれがとつぜん大爆発を起こし、ものすごい熱と放射線を放出した(これをビッグバンという)、それが宇宙生成の始まりだとしています。 では、どうしてそのビッグバンが起こったのかということになると、まったく不可解なのです。文藝春秋(昭五七・九)に、小尾信弥東大教授と、宇宙論を深く研究していた赤塚不二夫氏との対談が載っていますが、その中で赤塚氏が「ビッグバンの前にはヤル気だけがあった」と言いだしたところ、小尾教授もそれを肯定し、「ということは、結局この宇宙は神さまがつくったということなんですよ。だから、ヤル気があったという表現は、神さまがつくったというのと同じことなんですね」と答えておられます。 久遠本仏に生かされている 『広辞苑』によれば、「意志」とは「こころざし。思慮・選択・決心して実行する能力」とあります。ですから、ビッグバンを起こしたヤル気とは「宇宙意志」と言い換えることもできましょうし、「宇宙の大生命」と名づけることもできましょう。それをわれわれ仏教徒は「久遠実成の本仏」とお呼びするわけです。 こう見てきますと、われわれ人間というものもハッキリしてきます。『躍進』の『法華経讃歌』(平1・12)に紀野一義先生がこう書いておられます。 「一九八七年二月二十四日に、大マゼラン星雲の中に超新星が生まれたことがわかり、この超新星一九八七Aの光の分析をしたところ、その元素の配列が、人間の体を構成している元素の構成比と全く同じであることがわかった。これによって人間は『星のかけら』であることがわかり、宇宙と密接に結びついて生きていることがわかったのである」 つまり、ビッグバンを起こしたヤル気あるいは「宇宙意志」のことを、われわれ仏教徒は「久遠実成の本仏」とお呼びしていると説明しましたが、それと、この紀野先生の「人間は『星のかけら』であり、宇宙と密接に結びついて生きている」ということを合わせて考えてみますと、「われわれすべてのいのちは、久遠本仏に包摂され、そして生かされているのだ」ということがよくわかるのです。そして、より本質的に見れば「われわれ人間と久遠本仏とは一体である」ということもわかります。これは、たんなる信仰者としての思い込みではなく、以上紹介してきたことのように、宇宙と人間との結びつきに静かに思いめぐらしてみれば、決して非科学的なことでなく、確かな現実であることが実感できましょう。 ...
法華三部経の要点50
【機関紙誌】
人の本質を見れば一体感が生ずる
法華三部経の要点50
人の本質を見れば一体感が生ずる
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...法華三部経の要点 ◇◇50 立正佼成会会長 庭野日敬 人の本質を見れば一体感が生ずる 真の意味の「人間発見」 化城諭品には、深い意味を美しい情景に象徴させた表現がたくさんあります。その随一は次の一節でしょう。 「大通智勝仏阿耨多羅三藐三菩提を得たまいし時、十方各五百万億の諸仏世界六種に震動し、其の国の中間幽冥の処、日月の威光も照すこと能わざる所、而も皆大に明らかなり。其の中の衆生各相見ることを得て、咸(ことごと)く是の言を作(な)さく、此の中に云何(いかん)ぞ忽ちに衆生を生ぜる」 現代語に抄訳しますと、こういうことです。――大通智勝仏が無上の悟りを得られたとき、十方世界の諸仏の世界が感動にうち震い、それらの世界の中間にある日月の光も届かない暗やみの場所が急に明るくなった。そこにいた人間たちは、自分のまわりに大勢の仲間がいることを発見して、「おや、どうしてこんなに大勢の人間が急に生じたのだろう」と言い合った―― われわれは、身の回りに多くの人間を見ています。それはたいてい姿・形を見ているだけで、その本質を見ていません。すべての人間が宇宙の大生命ともいうべき久遠実成の仏の子であるという本質を見ていないのです。ですから、見ているようで、ほんとうは見ていないのです。そうした心の状態を「幽冥の処、日月の威光も照すこと能わざる所」と言ってあるわけです。 ところが、大通智勝仏が仏の悟りを得られると、にわかにそのやみの世界が明るくなった。そして、まわりにだれもいないと思っていたのに急に大勢の人間仲間がいることが見えてきた。その意味はもはや説明の要もないでしょう。 「縁」というものを見直そう いまの日本には、ここに説かれている「幽冥の処」にいる状態にある人がたくさんいるのではないでしょうか。一緒に住んでいながら、親が子を見ていない。子にも親が見えない。夫には妻が見えず、妻も夫が見えない。見ようともしない。だから、一日じゅう口をきかない親子が生まれ、帰宅拒否の夫が生まれ、離婚願望の妻が生まれるのです。 こういう人たちにこそ仏法を説いてあげたいものです。せめて仏教でつよく教える「縁」ということをじっくりと話してあげたいものです。 「袖(そで)すり合うも他生(たしょう)の縁」という言葉があります。道で見知らぬ人とすれ違い、袖と袖とが触れ合った。それも前世からの因縁によるものだというのです。「他生」でなく「多生」だという説もあります。何十ぺん・何百ぺんも死に変わり生まれ変わりながらつくりあげてきた縁があってこそ、袖を触れ合ったのだというのです。 ただ一瞬、袖を触れ合っただけでもそうなのですから、ましてや、親子・夫婦となった縁がどれぐらい深いものか、それを考えてほしいものです。 いまこの地球上には五十億の人間が生きています。あなた方夫婦はその中の二人です。「五十億分の二」という考えられぬほどの希少な確率で結び合わされた二人です。親子ともなれば、結び合いどころではない。もともと血を分けた仲なのです。同じ細胞から分かれた細胞を持ち、共通の遺伝子を持つ間柄なのです。 こういう深い深い「縁」というものに思いを致し、それをしみじみとかみしめれば、相手に対する「愛(いと)しい」という感情が湧(わ)いて来ざるを得ないはずです。「愛しい」という感情が湧けば、心の表面を去来する反目とか疎隔といった気持ちはたちまち解消してしまいます。なぜならば、その瞬間に相手との一体感が生ずるからです。この一体感こそが、相手と自分をほんとうに結び合わせるものなのです。 そして、この一体感を夫婦・親子といった身近なものから、隣人、そして世界中の人々へと少しずつでも拡大していくことです。「此の中に云何ぞ忽ちに衆生を生ぜる」といううれしい驚きも、ここまで深まってこそ、ほんとうの幸せに到達するものと知るべきでしょう。 ...
法華三部経の要点51
【機関紙誌】
天人でさえ修行が大切なのだ
法華三部経の要点51
天人でさえ修行が大切なのだ
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...法華三部経の要点 ◇◇51 立正佼成会会長 庭野日敬 天人でさえ修行が大切なのだ 人間界と天上界との交流 化城諭品には天上界における出来事が、まるで目に見えるように描写されています。天上界とは、薬草諭品(本紙41回)のところでも述べましたように、仏法を聞いて実践した人が死後就くことのできる「善処」です。お釈迦さまの言行を比較的忠実に伝えているという『スッタニパータ』四〇四にもこう説かれています。「法(に従って得た)財を以て父母を養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように暮している在家者は、(死後に)『みずから光を放つ』という名の神々のもと(天上界=六欲天の総称)に生まれるであろう」 (中村元先生訳岩波文庫』による)。 つまり仏教は、たんに現世のみを対象にした倫理・道徳の教えにとどまらず、「来世までをも念頭において正しい生活をせよ」という教えにほかならないのです。ですから、「輪廻」ということを信じないかぎり、仏教(とくに法華経)の信仰は成り立たないのです。 安楽な暮らしをお返しする さて、化城諭品には、大通智勝仏が悟りを開かれると、人間界ばかりでなく、もろもろの天上界の宮殿までが輝き出した、とあります。この宮殿というのは、天上界における安楽な暮らしを意味しているのです。天人は何の苦しみも悩みもなく、安らかに暮らしています。しかし、そういう暮らしが永久に続くとなれば、いったいどんな気持ちになるでしょうか。よほど怠け好きなものでないかぎり、退屈で退屈でたまらなくなるはずです。 そこへ、何か知らぬが新しい光が差してきた。新鮮で、はつらつたる力のみなぎった不思議な光明です。天人たちは寄り集まって「いったいこれはどうしたわけだろう」と話し合いました。その結果「どうやら地上にすばらしい仏さまが出現されたに違いない」という結論に達しました。 そこで地上をあまねく探してみると、大通智勝仏が菩提樹の下で大光明を発していらっしゃるのが見えてきました。天人たちは自分の住んでいる宮殿ごと虚空を飛んで行って大通智勝仏のみもとに参り「この宮殿を世尊に奉ります。どうぞお受けくださいませ。その功徳によってわたくしどもも仏道を成じ、またその功徳を一切衆生に及ぼし、みんな一緒に仏道を成じたいと願っております。どうかわたくしどもにも仏さまの教えを、わかりやすくお説きくださいませ」とお願いしたのです。 天上界といえども、まだ仏界ではありません。そこでの安楽な生活に慣れきって本質的な修行を怠っておれば下界へ墜落する運命が待っていることを、お釈迦迦さまは「天人の五衰」(本稿41回参照)ということで教えられています。 では、どのような修行をしなければならないのか。自らも菩提心(仏の悟りを得たいという志)を起こし、その修行のために他の人にも菩提心を起こさせる努力(菩薩行)をすること、これが随一最高の修行なのです。 化城諭品の天人たちもそのような決意を起こし、仏さまから頂いていた安楽な暮らし(宮殿)を仏さまにお返しして、自ら苦労を求めて衆生教化に献身しようとしているわけです。 現実の世界である「娑婆」に生きるわれわれにとっても同じことが言えます。われわれがどんなに物質的に恵まれ、安楽な暮らしをしていても、それにおぼれて酔生夢死することなく、真の「成仏」を求め、その修行のために「他の人びとを同じ仏道へみちびく苦労にチャレンジすること」が最高の生き方なのです。 仏道修行とはそうした努力に尽きるといっても言い過ぎではないでしょう。ですから、この化城諭品の「願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と 皆共に仏道を成ぜん(願以此功徳=がんにしくどく・普及於一切=ふぎゅうおいっさい・我等与衆生=がとうよしゅじょう・皆共成仏道=かいぐじょうぶつどう)」は普回向(ふえこう)の偈といって、法華経系の宗派ばかりでなく、日本の各宗どちらでも、仏さまへのお誓いのことばとして唱えているのであります。 ...
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