メインコンテンツに移動
ユーザーアカウントメニュー
ログイン
Toggle navigation
Main navigation
ホーム
コレクション
お知らせ
規約について
お問い合わせ
利用ガイド
全資源タイプ
機関紙誌
教団史
動画
音声
写真
法話(テキスト)
貴重書
検索
すべて
メタデータ検索
全文検索
リセット
表示件数
18
30
60
90
120
並び順
関連度
作成日 昇順
作成日 降順
タイトルヨミ 昇順
タイトルヨミ 降順
詳細検索
コレクション
- すべて -
『庭野日鑛会長のこころ』~つれづれに想うこと~
『庭野日鑛会長のこころ』~書初めから~
法話選集
年頭法話
庭野日敬法話映像作品集(平和への願い)
心に生きる開祖さま
庭野日敬法話映像作品集(仏教三大行事と釈尊伝)
心が変われば世界が変わる
仏教者のことば
経典のことば
法華三部経の要点
庭野日敬法話映像作品集(教団史)
人間釈尊
お会式
スポーツ
立正佼成会映像作品集
らしんばん
e-story
- すべて -
庭野日敬の世界
資源タイプ
- すべて -
Text
Image
MovingImage
Sound
タイトル名
作成者
公開責任部署
- すべて -
アーカイブズ課
伝道メディアグループ
開祖顕彰資料室
佼成図書館
作成日(西暦 or 和暦)
地理空間情報
ヘルプページ
81 件中の 1 件目~ 18 件目を表示
リスト
サムネイル
南無妙法蓮華經
【教団史】
南無妙法蓮華經
【教団史】
交成1955年11月号お会式
【機関紙誌】
『交成』1955年11月号お会式特集
旧本部 本会発祥の地修養道場
【写真】
法華三部経の要点43
【機関紙誌】
生かされるままに生きる
法華三部経の要点43
生かされるままに生きる
1
...法華三部経の要点 ◇◇43 立正佼成会会長 庭野日敬 生かされるままに生きる 世界はバランスで成り立つ では、もう一度『三草二木の譬え』にもどって、ごく身近な問題について再考し、この品のしめくくりとしましょう。 「一雲の雨(ふ)らす所、其の種性に称(かの)うて生長することを得て、華果敷(ひら)け実なる。一地の所生・一雨の所潤なりと雖も、而も諸の草木各差別あるが如し」 前にも述べましたように、この世の万物万象はその姿・形は千差万別であるけれども、その本質においてはすべて宇宙の大生命ともいうべき久遠本仏の現れであります。その分身であり、それに生かされているのです。 この経文には植物を例にとって説いてあります。大きな木も小さな木も、同じ雨の恵みを受けて生長するのだけれども、その姿・形も、性質も千差万別である。亭々たる大木もあれば、小さい木でも香り高い花を咲かせるものもあり、小さい草でも美しい花をひらくのもあれば、地味な存在ながら貴重な成分を持つ薬草もある……というのです。 そうした千差万別の植物がバランスよく存在してこそ野山は美しく、健全に成り立っているのであって、もし地球上の植物が杉なら杉、ススキならススキ一色だったとしたら、想像するだけで恐ろしいことです。 植物の世界に限らず、この世の中のすべてがそのとおりなのです。 すべての仕事が大切 植物や、人間以外の動物は、自然のままに生きています。久遠本仏に生かされるままに生きています。そして、自然の摂理のままに死にます。ですから、人間のような貪欲によるところの悩みもなく、また大自然をそこなうこともありません。 ところが人間は、なまじ発達した頭脳を持つばかりに、自分のあり方に不満を覚えたり、ひとの存在を羨(うらや)み妬(ねた)んだり、それが高じては憎悪や怒りを生じ、自身が苦しみ悩むばかりか、他を苦しめたり害したりするのです。それがどんなに愚かなことか、ここでよくよく考えてみましょう。 人間の身体は小宇宙だといわれていますが、まさにそのとおりです。六十兆もの細胞が、それ自身のための働きをしながら、同時に他の細胞の働きを助けつつ、整々とバランスよく活動しています。 一例として、消化器の活動を見てみましょう。食べ物を食べると、胃は自然に動き出し、それをドロドロにして小腸に送り、そこで栄養分が吸収され、残りカスが大腸に送られる……これが目立った大筋ですね。 ところが、その前に十二指腸という短い管があって、そこで、ちょっとわき道にある膵臓(すいぞう)から出る膵液や胆のうから出る胆汁が加わって小腸へ送られるのです。その胆のうとか、膵臓とかいう目立たない存在がなければ、消化という働きは絶対に成立しないのです。 社会における人間一人一人のあり方もこれと同じです。大通りとか表通りといってもいい職業や地位にいる目立った存在もあれば、路地裏のような目立たない仕事で働く人もあります。しかし、――社会に害悪を流すような仕事はもちろん例外として――どんな職業・地位でも世の中の大切な歯車の一つにほかなりません。さきにあげた胆のうや膵臓のように、それがなくては社会の機能が完全に回転しないのです。 電車に乗った時のことを考えると、もっとわかりやすいかもしれません。私たちの目に止まるのは運転士さんや車掌さんだけです。ところが、電車がちゃんと動くには、送電に携わる人、線路に異常がないかを常に見守る人、あるいは電車が時刻通りに運行されるようにと管理する人など、私たちの目にふれないところで活躍されている方々が、大勢おられるのです。 毎日毎日を黙々として勤労されている方々に申し上げます。あなた方がいなければ社会は成り立っていかないのです。どうかそのことを自覚してください。それが久遠の仏さまに生かされるままに生きるための尊い自覚なのであります。 ...
法華三部経の要点44
【機関紙誌】
仏に近づく現実的な道は
法華三部経の要点44
仏に近づく現実的な道は
1
...法華三部経の要点 ◇◇44 立正佼成会会長 庭野日敬 仏に近づく現実的な道は 仏とは完全な自由人である 授記品に入ります。「法華経は授記経である」といわれているぐらい、この授記ということは法華経の大眼目であります。これは、お釈迦さまが弟子たちに対して「そなたはたしかに仏になりうる」という保証を与えられることです。ただし、それには、この品の摩訶迦葉への授記のお言葉に「(そなたは)未来世に於て当に三百万億の諸仏世尊を奉覲(ぶごん=尊いお方にお目にかかること)して、供養・恭敬・尊重・讃歎し、広く諸仏の無量の大法を宣(の)ぶることを得べし。最後身に於て仏になることを得ん」とあるように――こののち数えきれないほどの生まれ変わり(輪廻)をくりかえしながらこういう行いを続ければ――という難しい条件がつけられているのです。 すべての人間には仏性(仏となりうる素質)があるのですから、修行次第では最後身(人間として修行する最後の身で、生死輪廻の最終段階)において必ず仏となりうるわけです。 といっても、現在ふつうの人間としてセチガライこの世で生活しているあなたは「とても自分なんぞは……」と、まるで違う世界の夢物語のように思うでしょう。しかし、あながちそうではないのです。 右に述べられているような「仏」とは、輪廻を解脱し、究極の悟りを完成された方のことですが、それはまずさておいて、いわゆる「仏さま」とはどんな人かといえば、一口に言って「完全な自由人」と定義していいでしょう。 こだわりがなければ自由 人間の歴史は「自由の欲求」の歴史だといってもいいのです。原始時代からこのかた、飢えからの自由・自然の脅威からの自由・疾病からの自由等々を求めて生きてきました。さらに、だんだん文化が進むにつれて、貧困からの自由・圧制からの自由・言論の自由等々、人間社会に新しく生じてきた不条理や圧迫からの解放をも望んで工夫と努力を重ねてきたのです。 ところが、現象的な意味においては完全な自由はありえないのです。早い話が、どこへでも自由に楽々と行きたいとして発明された自動車でしたが、半面、それは排ガスによる大気汚染や騒音公害につながり、渋滞という現象に束縛されることが多々あるではありませんか。また、労働の苦から解放されようとして開発されたさまざまな生産機器や化学物質が、一方ではさまざまな環境破壊を引き起こして、われわれに新たな苦を強いているではありませんか。 それならば、完全な自由はどこにあるのでしょうか。それは心にあるのです。現象にとらわれれば束縛が付きものですが、心がそれにこだわらなければ、束縛はあっても無きに等しく、そこにこそ真の自由があるのです。身近な例を引けば、「人は歩道を歩け」というルールがありますが、その束縛をこだわりなく守っておれば安心して道を歩くことができます。そこに自由があるのです。もしかりに「天下の公道だ。どこでも歩く自由があるんだ」といって車道を歩いたとしたらどうなるか、言わずと知れたことでしょう。 お釈迦さまは「心の自由」を完全に達成したお方でした。本稿の第三十二回に紹介した盤珪禅師の言葉のように「お釈迦さまは心に一物も持っておられなんだによって、三界はわがものと、世の中の主になられたのじゃ。どこでも自由に寝起きされたのじゃ」といったお方だったのです。この「一物」とは「我(が)へのこだわり」にほかなりません。 ですから、「究極の悟り」という最高の目標は、きちんと持っているべきですが、この世において仏に近づく第一歩としては「応身仏」であるお釈迦さまを見習って「心のこだわりをなくすること」なのです。「我に執着しないこと」です。「道理に対して素直になること」です。 ...
法華三部経の要点45
【機関紙誌】
授記とは人生の方向づけである
法華三部経の要点45
授記とは人生の方向づけである
1
...法華三部経の要点 ◇◇45 立正佼成会会長 庭野日敬 授記とは人生の方向づけである 歴劫修行とはどんなことか 仏となることを保証される授記の条件の随一は歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)ということです。何百ぺん何千ぺんと生まれ変わりを繰り返しながら仏性を磨く修行をすることです。 仏教では、人間には生まれ変わりがあることを最初から認めています。『スッタニパータ』にもこうあります。 「(一五二)諸々の邪(よこし)まな見解にとらわれず、戒めをたもち、知見を具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることはないであろう」(中村元訳『ブッダの言葉』岩波文庫) これを裏返せば、そこまでいたっていない人は、再びある母胎に宿ってこの世に生まれ変わり、修行を続けねばならない――ということになります。 法華経に至っては、序品に、文殊菩薩が弥勒菩薩に向かって「今のわたしは過去世の妙光菩薩の生まれ変わりであり、そなたはわたしの弟子だった求名の生まれ変わりなのだ」と告げたのを皮切りに、最後の章の勧発品に「この人(法華経の実践者)は死んだのち忉利天(とうりてん)に生まれるであろう」といわれるくだりに至るまで、全巻――人間とはこの世限りのものではない――という真実に貫かれているのです。ですから、歴劫修行を抜きにしては法華経は文字通り骨抜きになってしまうのです。 進歩こそ本然のあり方 仏教では、この世での修行の総仕上げをして完全に解脱した(とらわれから離れた)人はただちに浄土(仏界)に赴き、反対に、行いも心も濁りきったままの人は直通で地獄に行くものとされています。そのどちらでもない普通の人は、中有の身としてしばらく時を過ごし、その間に、その人のそれまでの業(行為の蓄積)によって、六道もしくは仏界のうちのどこかに生まれ変わるとされています。 ですから、この「中有」にある間に、われわれが真心からなる追善供養として『経典』を読誦することが大事なこととなってくるのです。また、地獄、餓鬼、畜生などの悪趣に生まれ変わった場合はもちろん、第四十一回にも書きましたように、幸い天上界に赴かれた人も、まだ「仏」となられたわけではありませんから、われわれが読誦する経典の功徳をそういう方々へ回し向け、一刻も早く成仏されるよう念ずるわけです。 一方、現世に生きるわれわれもいつかは必ず死ななければなりません。しかし、さきほどから申し上げているように、われわれはけっしてこの世限りのものではありません。とすれば、死んだ後のことも考えておかねばなりません。はるかな未来世へと続く自分自身の生き方を心に決めておかねばなりません。 この世でも目先の本能や欲望の満足ばかりを追ってアクセクと人生を送り、死んでから幸いにもまた人間に生まれ変わったとしても、やはり同じような人生を送り、永遠にそれを繰り返すとしたら、何という無意義な生き方でしょうか。人間は「完全な自由」を目指して絶えず進歩していくことが本然のあり方なのですから、右のような生き方の人は天の摂理に反する最低の存在といわざるを得ません。 ですから法華経は、この世に生きているうちは完全な自由人である「仏」となることを目指し、そのような「人生」を重ねて「最後身」において究極の悟りを得た「仏」となることを目標として人生を送れ、と教えているのです。 「授記」というのは、そのような人生の軌道に乗ったと認められる弟子たちに、お釈迦さまが与えられた保証なのですが、後世の凡夫であるわれわれとしては「このような境地を目指すのがほんとうの生き方であるぞ」という、人生の方向づけにほかならないと知るべきです。 ...
新日本宗教団体連合会・インド仏跡参拝の旅 金剛宝座の前で読経供養
【写真】
新日本宗教団体連合会・インド仏跡参拝の旅 サルナートのストゥーパを参拝
【写真】
新日本宗教団体連合会・インド仏跡参拝の旅 早朝のガンジス川
【写真】
新日本宗教団体連合会・インド仏跡参拝の旅 パリニッバーナ寺院
【写真】
新日本宗教団体連合会・インド仏跡参拝の旅 霊鷲山
【写真】
佼成新聞 1990年2月16日 日鑛先生、インド仏跡参拝へ
【機関紙誌】
法華三部経の要点46
【機関紙誌】
言葉の力の偉大さを知ろう
法華三部経の要点46
言葉の力の偉大さを知ろう
1
...法華三部経の要点 ◇◇46 立正佼成会会長 庭野日敬 言葉の力の偉大さを知ろう 「大王の膳」の譬え この授記品でまず摩訶迦葉が仏と成る保証を与えられました。すると、目連・須菩提・迦旃延らが偈(げ=詩)を頌(じゅ)して「世尊、どうぞわたくしどもにも仏となる保証をお授けくださいませ」とお願いしました。 その偈にはいわゆる「大王の膳(ぜん)」の譬えが説かれています。すなわち「飢えたる国より来って 忽ちに大王の膳に遇わんに 心猶お疑懼を懐いて 未だ敢て即便ち食せず 若し復王の教を得ば 然して後に乃ち敢て食せんが如く 我等も亦是の如し」というのです。 ――これまで長いあいだ自分たちが仏に成りうるなどとは思ってもいなかったのに、この法華経の説法において世尊は突然そのようなことをおおせいだされた。そして、まず舎利弗がその保証を与えられ、次にここで摩訶迦葉もその保証を頂いた。飢餓の国からはるばる来て、大王から最高のごちそうを頂いたようなものである。われわれの前にもそのごちそうが出されている。頂いていいものとはわかっているけれども、やはり一抹の不安がある。大王が「食べていいぞ」と一言いわれれば安心して頂戴(ちょうだい)できるのだが――という心持ちです。 三人の微妙な心理がよく描かれています。目連は「神通第一」、須菩提は「解空(空をよく理解している)第一」、迦旃延は「論議(教えの要点を論ずること)第一」というお釈迦さまのお墨付きをもらっている教団中の逸材です。とはいえ、自分たちはもろもろの菩薩たちとは異質の、一段低い信仰者だと思い込んでいたのでした。ところが、この法華経の方便品以降の説法で自分たちも仏と成る軌道の上にいることがわかり、しかも、現に舎利弗・大迦葉という声聞仲間が授記されたのですから、自分たちもその資格があるぞと躍り上がりたい気持ちになっているのです。しかし、お釈迦さまから実際に成仏の保証のお言葉を頂かないうちは、一抹の不安がまだ心の隅にあるのです。上の「大王の膳」の譬えはその気持ちを率直に表白しているわけです。 言葉は神であり仏である 言葉というものはそれほど大切なものです。 われわれ立正佼成会会員が朝夕読誦する経典の開経偈にも「色相の文字は即ち是れ応身なり」とあります。「法華経に説かれている言葉、それを表している文字は、とりもなおさずお釈迦さまのおん身そのものなのである」というのです。 キリスト教でも同じようなことを言っています。聖書のヨハネ伝の最初に「太初(はじめ)に言(ことば)ありき。言は神と共にあり、言は神なりき」とあります。 言葉は仏であり、神であるというのです。善い言葉には神仏のお力が宿ります。人の運命を変えるばかりか、環境をも変える偉大なはたらきをもするのです。道元禅師の名言のように「愛語よく回天の力あり」なのです。 逆に、よくない言葉を吐くことは、仏を汚し、神を冒涜(ぼうとく)する行為です。そして、人をおとしめ、傷つけ、不幸にします。 われわれ布教者は、とりわけ言葉を大切にしなければなりません。われわれの一言一言が人を幸せにし、世の中を変えていくのです。愛の言葉、思いやりの言葉、慰めの言葉、励ましの言葉、それがわれわれの言葉でなくてはなりません。 場合によっては折伏(しゃくぶく=相手を強く責めて回心させる)も必要ですけれども、それを用いるのはよほどの徳を具えている人でないと逆効果の危険があります。やはり摂受(しょうじゅ=相手を柔らかに抱き取りおだやかに説得する)が本筋であると心得るべきです。 いずれにしても、お導きや手どりをする人、あるいは人の上に立つ人の言葉は思いがけないほどの力を持つものです。大切の上にも大切にしましょう。 ...
ページ送り
カレントページ
1
Page
2
Page
3
Page
4
Page
5
次ページ
››
最終ページ
»