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...本部落成 一 昭和十六年、そのころは会員が千名ばかりになり、私も妙佼先生も、商売をしながら信者の世話をする生活はもはや限界に達していた。 ちょうど、氷屋にも企業整備があり、配給所という形になることになったので、それを機に、まず妙佼先生が店をやめて宗教活動一本に打ち込む決意をした。 ある夜、妙佼先生が夢知らせに神示を受けた。 「汝がこれより住居を定める地は和田本町である。住居とする家はすでにその地にある」 そして、一軒の平屋建ての家が畑の中にぽつんと建っており、玄関脇に石の観音さまがあるのを夢に見たのである。 翌朝そのことを聞いた私は、さっそく妙佼先生と一緒に家捜しに出かけた。今の京王バスの中野車庫(当時は京王バス寿営業所と言っていた)の付近にさしかかると、妙佼先生の家に出入りしていた左官屋さんに声をかけられた。 「どちらへお出かけで……」 「和田本町にいい家があるというので、見に来たんですよ」 と、妙佼先生が答えると、 「私が最近お仕事をさせてもらった新築の家がすぐそこにあるんですけど、ごらんになりますか?」 と言うのである。 話によると、持ち主が自分の息子に住まわせるために建てた家だが、ひょっとすると手放すかもしれない、と言うのである。 そして、いまの旧本部のある付近へ案内してくれた。あたり一帯は畑ばかりだった。その中に一軒の平屋が建っていた。それを見るなり妙佼先生は、「あっ、この家だ」と叫んだ。夢に見た家とそっくりだと言うのだ。 門をはいって見ると、すぐの所に観音さまの石像が立っているのだ。「まあ、観音さままで……まるで私のために造ってくれたみたいな家ね」と、妙佼先生は、中を見ないうちから気に入ってしまった。 間取りは八畳、六畳、四畳半、それに玄関の三畳というこぢんまりした造りだったが、なんとなく明るい雰囲気を持つ家だった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 本部落成 二 医師の相沢先生のお父さんが左官屋さんで、この人が壁塗りを請け負った家でした。「しっかりしたいい家だよ」と左官屋さんがいうのです。 古材屋が、大きな神社か何かの太い柱の悪い所を落として、真ん中の芯だけで造った家ですから、古くても木材はたいへんりっぱなものでした。 (昭和54年01月【速記録】) さっそく持ち主に会って交渉すると、話はとんとん拍子にすすんで、一万一千円で買い求めることができた。 その家の八畳に妙佼先生の守護神である虚空蔵菩薩を祀り、ここを信仰生活の本拠としたのである。これが現在旧本部にある教堂(妙佼殿)である。 しかし、その家も小さかった。まして、私の牛乳屋の二階にある本部は、狭くてどうにもならなくなっていた。本部の建物を建設することは、ぬきさしならぬ必要事となった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 本部落成 三 十一月五日、虚空蔵菩薩さまのご命日の日に、信者の中から「どうも牛乳屋の二階が本部じゃうまくないから、ひとつ道場を建ててくれ」という議が起こりました。みなさんに諮ったところ、満場一致で「建てよう」ということになりました。 そこで神さまのご降臨を願っておうかがいしますと「何をいまごろ、ぐずぐずしているのだ。早く手配をしないと建てられなくなるぞ。大至急品物を手配しなさい」という神さまのきついお言葉でした。そのころは、まだ自由になんでも買えた時代でした。 しかし神さまのご注意に従って「それ」というので、みんなに呼びかけましたところ、一万六千円集まりました。そのときの信者全員が真剣になって、財布の底をはたいて集めてくださった結果でした。 (昭和41年03月【速記録】) 本部落成 四 千円も出してくれた人がふたりもありました。いずれも重体の病人が治った家の人でした。 (昭和54年03月【速記録】) 千円出してくれた人のひとりは戸沢さんという人でした。この人は自動車を持っていて、仕事がつぎつぎにあり、ひじょうに豊かだということを、導き親の丸山さんが知っていて「本部を建てるのだから、お前、思い切って出してくれ」と、熱心にいったのです。 ところが金を貯めるような人は出したがらないものです。それを出させようと、しつこくいったものですから、怒って「これを持って行け」と、わずかな金をたたきつけたのです。丸山さんも短気な人でしたから「そんな金は要らない」と帰ってきてしまいました。 ところが、その後、戸沢さんの子が腎臓病になってしまったのです。おしっこが出なくなって身体がむくんでしまいました。医者も「どうしようもない」と思案し、「さあ、たいへんだ」ということになりました。 おしっこが出ないのは、そのころの立正佼成会の論法でいうと、出し渋っているというわけです。「渋って百円しか出さなかったためだ」と戸沢さんが懺悔をしたところ、とたんにおしっこが出るようになりました。戸沢さんはさらに千円、合わせて千百円を出したのです。 (昭和54年03月【速記録】) 鎌倉のすし屋さんも千円出してくれました。 そのすし屋は新橋にも店がありましたが、私どもは鎌倉まで出かけました。庭の広い家でした。 そこのおばあさんは熱心に法華をやった人でした。座敷から廊下でつながる六畳の部屋にご宝前がりっぱに祀ってあり、その部屋の屋根は銅で葺いて、御殿のようにしていました。 おばあさんは、まるで行者のような感じの威勢のいい人でした。 その人の孫が大病で、医者も見放した状態でしたので、どこからか立正佼成会のことを聞き、あそこへ行けば病気が治るということで頼みにきたのです。そこで妙佼先生とふたりで鎌倉まで行って、拝んであげました。 すると、たちまち病気が治ってしまったのです。そのとき千円の布施がありました。千円集めるには、鎌倉まで出かけて行って、拝んで病気を治してこなければ、なかなかできないことなのです。 一万六千円集めるにあたって、千円がふたり、佐野さんが自分で五百円出して、それに家族のおばあちゃんと奥さん、岡部さんがそれぞれ百円ずつで計八百円。細谷さんが、おばあちゃんの分など合わせて六百円。大口は大体それくらいで、あとは五円とか十円です。普通の勤め人の月給が三十五円くらいでしたから、一万六千円集めるのはたいへんな時代でした。 (昭和54年03月【速記録】) 本部落成 五 ちょうど、妙佼先生の新居の隣は空地になっていた。その土地を本部の敷地にしたいと考えて地主に交渉すると、これも話がとんとんとすすんで、十一月の八日には早くも地鎮祭を行なうことができた。 その前後のこと、また妙佼先生に神示があって、「建築資材だけは早く準備せよ」ということだった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 大急ぎで材木を買い集めて、一か月後の十二月八日には手斧初めをしたのです。それまでに吉野杉をはじめ、一応材木を揃えたのですから、ずいぶん急いだものです。 神さまのいうとおり、木は木材屋で買えたのですが、土台に使うセメント三俵ぐらいの配給がぜんぜんなく、作業が進みません。 鍋屋横町の千葉さんという砂利屋さんは神田川の寿橋近くの工事をしたときに、砂利がたくさん出て、自分の砂利をぜんぜん使わず、しかも、ほかへ売るほどだったので仕事が好調でした。それを知っていたので「なんとかしてくれないか」と千葉さんに頼んだところ、「配給の券があるなら」といって、セメントを間に合わせてくれました。 おかげでコンクリートを敷いて本部を建てられるようになったのです。 ところが、うちへセメントを貸したら、千葉さんのほうでは券はあるが配給ストップして、いっこうに現物がこなくなったのです。千葉さんが怒ること、怒ること。私は、平身低頭で何度も謝ったものです。 (昭和54年01月【速記録】) 配給切符はちゃんと来ているのに、軍隊のほうに優先してまわすので、民間にはなかなか現物がやってこない。(中略) あのころは、きびしい統制経済下で、ないとなったらまったくないのだ。(中略) しかし、その間にも、お互いの災難を材料として、いろいろ法を説いて聞かせてあげた。向こうは、何を言ってるのだとばかり、ますます怒り出す。こちらは、それこそ和顔愛語で、粘っこく話してあげる。 とうとう千葉さんは根負けして、あなたの弟子にしてくれと言い出した。怒り怒り信者になった人は、後にも先にも千葉さんひとりである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 本部落成 六 十二月八日に大工さんが入って、順調に普請が始まったのですが、そのとたん、ラジオで太平洋戦争勃発の放送があったのです。 えらいことになった。これは神さまのいったとおり、真剣に早くしないと、道場は建たなくなるというので一生懸命に工事を進めたわけです。 (昭和54年01月【速記録】) 諸物資の入手は極度にむずかしくなってきた。それでも、十二月いっぱいは金さえあればなんとか手に入れることができたので、とにかく有り金を全部建築資材にかえた。そして、暮れの二十日には、めでたく上棟式を行なうことができた。 年が明けて十七年になると、消費物資の統制が一段ときびしくなり、建築資材もいくら金を積んでも手にはいらなくなった。じつにすれすれのところだった。この本部が、ついにB29の大空襲にも焼けず、戦後の布教活動の本拠になったことと思い合わせてみると、どうしても神仏のお手配としか考えられないのである。 労働力の統制も、開戦と同時にひじょうに強化された。国民徴用令が改正され、大工ひとり、左官ひとり雇うにも、たいへんな困難がつきまとった。熱心な信者の人たちが、素人にもできる地ならしとか、木材運びとか、壁土練りなどの仕事を奉仕してくれていたけれども、大工の仕事だけは無理だった。しかし、無理というのは平時の考えで、非常時はそれではすまされない。とうとう素人の信者が大工までやるようになった。 じつに涙ぐましい働きだった。私がよく言うように、人間はときどき自分の能力の限界をとび越えてみる必要がある。そうすれば、思いがけない働きができるものである。これなどは、その尊い実例といえよう。 その工事の最中に、ノースアメリカン機による東京の初空襲があった。当局は大あわてにあわてて、防空演習や待避訓練に力を入れはじめた。そうした情勢下に、堂々として新しい木造家屋を建てていたのだから、よほど自信がなければできないことである。私たちには、不動の自信があった。絶対にこの家は焼けないと信じこんでいた。人間の小さな知恵では考えられぬ、不思議な自信であった。 たった二十五坪の家であったが、そうした悪条件下の建築だったので、落成まで百五十日もかかった。しかし、よくやったものだ。いま思い出しても感慨無量だ。私は毎日現場にいって指揮をとった。もちろん自分でも働いた。信者たちも、ほんとうに汗水たらして献身してくれた。妙佼先生は、乏しい食糧の中から奉仕者の食事やおやつに心を砕いてくれた。みんなの意気が溶け合った体当たりの作業だった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 本部落成 七 こうして和田本町の七〇九番地に、初めて二十五坪(八二・五平方メートル)の道場ができました。こんどは平屋でした。 (昭和40年03月【速記録】) 昭和十七年五月七日、よく晴れた初夏の日であった。新築のこの本部の門に、私が心をこめて大書した〈宗教結社 大日本立正佼成会〉という新しい板看板が掛けられ、感激の入仏式が行なわれた。お祝いの赤飯を炊く米がなかったので、故郷から長兄がモチ米二斗を持ってきてくれた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 道場ができて、その中に信者がいっぱい集まりました。 入仏式が済んでその晩、寄付をしてくれた人たちが残っていたところで、私は説法したのですが、みんなに怒られたのです。 じつはみんなを喜ばせるつもりだったのですが、分かってもらえなかったわけです。 私は、その説法の中で、 「とにかく『大日本立正佼成会』は道場を建てた。しかし、ご法からみると、こんなへっぽこ道場はまったく序の口で問題にならないが、一応道場ができたということは、まことにめでたいことです」 とあいさつをしたのです。 すると、幹部のかたたちは、おやじは道場を建てたら頭をやられたんじゃないかと怒りました。 みんながごそごそ始めたと思ったら、全員妙佼先生の家に引き揚げてしまって、だれもいなくなりました。どうしたのかと思っているうち、とりなしに行ってきた妙佼先生から「会長があんな説法するから、みんなが怒っている。一生懸命骨を折って建ててくれたのに、こんなへっぽこ道場で満足するご法じゃない、などとばかなことをいうものだから」と叱られたものです。 そこで私は、 「それはおかしな話だ。この道場で満足するご法なら建てる必要はない。牛乳屋の二階でもけっこう会の教えは弘まってきたのだ。こんなもので満足しているようだったら、神さまが道場を建てろといわれた真意にかなわないのではないか。これからも、第二、第三のもっと大きな道場を建てていくというご法があればこそ、小さくともこの道場に値打ちがあるのであって、これで満足しているような連中は役に立たない幹部だ」 と譲りません。 道場を建てたとたんに対立してしまったので、妙佼先生は困って「何しろばかになって幹部たちを一応なだめ、謝って、みんなにわかるように改めて説明してほしい」と言いました。 結局、私もしょうがなく、妙佼先生の家へ行って、 「言い方が悪かったかもしれないが、私のいう意味を取り違えないでほしい。やっと建てたこの道場だ。しかし一生涯このままいくようなご法であったなら、建てる必要はない。この道場は足場であって、いよいよこれから本格的な宗教活動に入るという心構えをみんなに発表したのであって、けっして君たちや道場をけなしたわけではない」 と、こんこんと説明したのです。ようやくお茶を飲んでもらい、お神酒を買って一杯やりまして、解散となったのでした。 翌日にはみんなが心から納得してくれて、おさまったのです。 (昭和54年01月【速記録】) それを機会に、私も牛乳屋を廃業し、住居をこの本部の中に移した。私としては、あくまでも宗教の専門家にはなりたくなかった。牛乳屋の主人でいたかった。それが本当の道だと信じていた。 しかし、信者の数がこうふえてきては、とうてい商売と指導と両立させることは不可能になったのだ。こうした大きな流れに逆らうのは不自然だ。素直にそれに従おう──こう決心したわけだ。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】)...
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...留置事件 一 昭和十八年に一大試練が訪れた。三月十三日のこと、とつぜん本部にヒゲづらのお巡りさんがやって来て、私と妙佼先生に「ちょっと警察に来てください」と言うのである。 何か聞かれるのだろう……ぐらいのかんたんな気持ちで、私はふだん着の和服のまま、妙佼先生も大島のちゃんちゃんこを着て、一緒に出かけた。すると、杉並警察署に連れて行かれて、すぐ留置場に入れられてしまった。理由は、妙佼先生の霊感指導が人心を惑わすというのである。 当時は治安維持法というものがあって、共産主義はもとよりだが、キリスト教や新興宗教に対しても官憲の弾圧がひどかったのである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 留置事件 二 全然取り調べをしないで留置場に入れたまま、一週間放置されました。私たちには、警察の取り調べを受けた経験はまったくないものですから、いったいどうなることかと不安でした。 (昭和54年01月【速記録】) 留置事件 三 一週間はぜんぜん何もしないで、続く八日間は、警視庁から特高が三人ぐらい交代できて、私を取り調べました。 (昭和54年01月【速記録】) 取り調べに当たった特高の係官は、「妙佼さんの信仰の指導のやり方がいかん、あんたが妙佼さんの導きの親だというのだから、間違っていたと素直に認めて、妙佼さんのやり方を改めさせろ」というわけなのです。 私の取り調べに当たったのは特高の刑事部長だったのですが、当時の特高の刑事は、思想関係の取り調べでは、とりわけ意地が悪くて、きびしかったのです。 「とにかく、おまえは牛乳屋をしていればいいんだ。他人の運命なんか、あれこれ言うから、警察にぶちこまれるようなことになるんだ」そして「立正佼成会なんていうちっぽけな会は、はやく潰してしまえばいいんだ」とおどすわけです。 しかし、私は負けていられません。 「あんたみたいに真理が分からん人は勝手なことを言えるから気楽でいいですが、私たちは仏さまのお使いとして人さまをお救いしなくてはならない責任があるんですからね。私にとって、牛乳屋をやって妻子を養っていくぐらいわけないことなんです。それをこんなに苦労して人助けしているのは、立正佼成会の信仰はどんな方向からみても間違いない。『法華経』はもちろんのこと、六曜、九星、姓名学のいずれに照らしても、私どもの指導原理は少しも間違っていない。そして、現に苦しんでいる人が救われているんですから……」 と、少しも譲らなかったのです。 警察としては、私が恐れ入って、少しでも妥協的な態度に出れば、すぐにでも釈放したい腹だったらしいのです。ところが、毎日、取り調べを受けても私が、がんとして「立正佼成会の指導原理は間違っていない」と言い張るものですから、向こうも弱ったらしい。出すわけにいかないので、私はとうとう十五日間も留置されてしまったのです。 (昭和53年03月【躍進】) 留置事件 四 刑事部長のほうが、「いくらか間違っていたって言ってくれよ」と言い出したのですが、もし私がそう言ったら、「立正佼成会なんて潰すんだ」という態度に出てくるわけですから、絶対に言えない。 「おまえの指導に絶対訂正しなければならんとこはないのか!」と何度念を押されても、「私の教えていることに絶対に間違いはありません!」と言い切りました。まだ、(中略)三十六歳のときだったから、その時分は、法を守ることにかけては自分でも不思議なくらい因業だったのです。 どんなに刑事に迫られても、私には、自分はだれに恥じるところはない。自分のためではなく人さまをお救いさせてもらっているのだから、という絶対の自信があったのですから、これは強いです。しかも病気や貧乏で苦しむ人びとが、教えのとおりに実行すると、奇跡のような現証を頂いて、つぎからつぎへ救われていく……そういった体験を数限りなく自分の目で見ているのですから。命にかえても、この教えを守らなくてはならない、という使命感が私を支えてくれていたのです。 (昭和53年03月【躍進】) 留置事件 五 警視庁から特高の刑事が入れ替わり立ち替わり私を取り調べにくるのですが、だんだん私のことが分かってきて、「おまえのやり方で、おれの鑑定をしてみろ」と言い出すようになったのです。そこで私は刑事たちの姓名鑑定をするのだけど、「あなたたちは、三年もすると、みんなクビになりますよ」などと、まず耳に痛いほうからビシッと言ってやる。 昭和十八年のことですから、三年後の二十一年には敗戦で、特高の人がみんなクビになった。その刑事部長が机さんという人で、戦後、特高をやめて区会議員になり、都会議員に出るとき、「先生、お願いします」とあいさつにこられたのです。因縁でしょう。 鑑定では私にいやなことを言われるのですけど、性格や家庭環境のことがズバズバ当たるものだから「あいつは警察をなめとる」と怒りながらも、刑事たちが聞きにくるのです。当時、私は神経をとぎすまして鑑定に打ち込んでいましたから、的中率はすばらしかったのです。 そうして私を取り調べている間に、なんとか立正佼成会の弱味をつかもうと、佐藤という刑事が、私が留置場に入っている間じゅう、信者の家庭はもとより退会した人たちの家庭まで詳しく調べて回ったのです。その刑事が私の顔を見て、「きみは、どうも天才的な宗教家かもしれない」と、しみじみ言うのです。 「ほかの宗教団体では、いったんやめてしまえば、その信仰を全部捨ててしまうのに、きみんとこの信者は、会をやめても、仏さまを祀って、お花をあげ、お水をあげて、ちゃんとお経をあげている。その点は、つくづく感心したよ」 そして、結局、何もとがめられることなく私と妙佼先生は釈放されたのですが、そうして留置場を出るとき、あれほど「立正佼成会なんか潰すんだ」といきまいていた刑事部長が「佼成会は潰しちゃいけないぞ」と言うのです。引っ張られた警察で「天才宗教家」とレッテルをはってもらい、「佼成会を発展させろ」と励まされたのですから、これはありがたいわけです。 (昭和53年03月【躍進】) 留置事件 六 後でわかったことだが、呼び出されるにはつぎのような経緯があったのである。 家内は私を自分のもとへ引き戻したくてたまらない。また、近所に住んでいる天狗不動の綱木梅野さんも、もと自分の弟子だった私が目と鼻の先に教団を立てて隆々と発展しているのだから、面白くなかっただろう。そこで、もと大家の高橋さんと、町会の長老の小島さんという幼稚園の園長さんたちの力を借り、妙佼先生の霊能による指導は人を迷わすものだと、警察に申し出たのである。しかし、警察では、証拠がないと言って取り合わなかった。 そこでこんどは、近辺の家々をまわって署名を集め、それを持って再び警察に行ったのである。それを見てようやく警察も動き始め、前記の始末となったわけだ。もちろん、連れて行かれた当時は、そんないきさつはぜんぜん知らなかったのである。 会の事実上の首脳ふたりが同時に留置されたのだから、残された人びとはまったくなすすべを知らなかった。それどころか、第一支部長の富樫昌代さんと第二支部長の森田育代さんを除く全支部長が、会に見切りをつけてやめて行ったのである。(中略) その後、やめていった支部長たちもつぎつぎに復帰してきた。私たちが喜んで迎えたことはもちろんである。それらの人びとは、会の最高幹部として法のために精進したのであった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 留置事件 七 この事件を、私どもの会では、だれが言い出したともなく、〈階段〉と呼んでいる。われわれの信仰が堅固さを加え、かつ高められていくためのありがたい階梯だったと観じているからである。私どもの会には独特の用語がいろいろあるが、この〈階段〉などはその中の傑作だと自負している。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 立正佼成会が真の信仰者の僧伽に高まっていくためには、僧伽の人びとの心が一つに結ばれていかなければならない。ひとりびとりが信仰を一段一段高めていかなくてはならないのです。 そのために、仏さまは試練の“階段”を授けてくださったのだと受けとって、このときの試練を“十八年の段階”と呼ぶようになったのです。 (昭和53年03月【躍進】)...
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...家族との別離 一 応召した会員の人たちが全部めでたく帰還したのに、終戦後七年たっても、八年たっても、自分の家へ帰れない一家族があった。ほかでもない、私の妻子たちである。(中略) 妙佼先生に下がった神示によって妻子を故郷の菅沼に送ったのは、昭和十九年八月十二日であった。数え年で長女知子が十四歳、次女羌子が十二歳、三女佳子が九歳、長男浩一が七歳、次男欽司郎が五歳、三男の皓司が二歳であった。 (昭和51年03月【庭野日敬自伝】) 家族との別離 二 お釈迦さまは、ラゴラという一子が生まれると、すぐ最愛の妻子を捨てて出家されるでしょう。そして六年間のきびしい苦行をされて悟りを開かれたのですが、自分が出家同様の生活をしてみまして、お釈迦さまが出家の道を選ばれたのが、いかに賢明であったか、しみじみ思い知られました。本当にそう思った。 そばに女房も子どももいなくなって、ひとりで『法華経』の勉強に没頭できるのですから。信者の導きも思う存分できるわけです。それはやはり、私を本物にしてくださるための試練だったのです。 家族と別れていた十年間は、夫として、父親としての役目より先に『法華経』の修行者としての道を究めさせてやろうという仏さまのお慈悲の年月だったのだと、今しみじみと、そう思うのです。 (昭和53年03月【躍進】) 家族との別離 三 十年間の別居が終わり、昭和二十九年の一月から三月にかけて、家族たちがつぎつぎに東京へ帰ってきたのは事実である。しかし、神示はまだほんとうの親子・夫婦にもどることを許さなかった。 それで、同じ家に住みながら別居生活が、さらに三年続いたのである。これは、菅沼と東京に住んでいるよりも、精神的にはもっと苦しかった。 階下の部屋に家内や子どもたちが寄り添っているのに、私は外から帰るとさっさと二階へ上がって行かねばならなかった。せっかく、「これでやっと父と暮らせる」と胸ふくらませて帰ってきたのに、やさしい言葉はおろか、風呂にも一緒にはいってやれなかったのである。食事も妻や子どもたちは下の食堂で食べ、私は二階でひとりで食べるという変則的な生活だった。 その禁が解かれた三年目のことについて、家内はこう話している。 「どんなに重い使命を持っているにしても、やはり自分の夫であるという気持ちはいっこうに抜け切れませんでした。ところが、やっとそれがすーっと抜けて、完全に『会長先生だ』という気持ちになったとたんにお許しが出たのでした」と。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 家族との別離 四 神さまの教えに才覚を捨てて自分の心を合わせていく修行を、私は二十年間やらせてもらってきたわけです。その中で、煩悩を捨て切るのが、どれほどたいせつであるか、何度も何度も体験させてもらいました。 いくら『法華経』を読んで学者のよう講義できても、この修行がないと本当に『法華経』を読んだことにならないのです。捨て切ることがどんなにたいせつか分からないと『法華経』は分からない。それを十年間の家族との別居で教えてもらったわけです。 (昭和53年03月【躍進】) ...
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...終戦 一 昭和二十年八月十五日がやってきた。その日は、本部にはいりきれないほど、たくさんの信者たちが集まった。そして、涙のうちに〈玉音放送〉を聞いた。それから、ご宝前で長い供養がいとなまれた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 当時、日本という国は世界一の国であるという誇りをみんながもっていました。軍国主義をあおり立て、自分たちは世界中でいちばん偉い人種だと思い込んでいました。国民の向かっている方向が一つで考え方もきわめて単純で安定していたといえましょう。 ところが、終戦です。太平洋戦争で敗けたことにより三千年来の歴史にきずがついたというので、みんな動転しました。 それまでは「日本は神国だから、絶対敗けない」「竹ヤリを持って待っていれば、B29は落ちてくる」といっていたのが、思いもかけず敗戦という結果になると、人間の罪を考えず、神仏の咎にしてしまって、こんどは「神も仏もあるものか」という風潮になってしまいました。それまでの戦争遂行という一つ所へ向いていた国民の気持ちが、一挙にばらばらになりました。みな本心に返って「さて、どうしょう」と考えたわけです。 ところが心の依り所がなくなり、ただ右往左往し、道義も退廃してしまったのです。 そういう状態ですから、病気も災難もない、財力にも恵まれている人でも、「この財産がいつまで持ちこたえられるか。かつおぶしをかじるように、いまの財産をかじって、やがてどうなるか」と、みなさんがひじょうに不安定な心理状態にありました。 こうして終戦後は、病気の悩みのほかに、精神面の問題で悩むかたがたが続々と入会してくることになりました。 現在、幹部になっているかたは、終戦のころまでに入会されたかたが多く、いろいろな尊い体験をされました。立正佼成会は在家仏教でございますから、専門の人はいないのです。 ですから一生懸命、商売をし、努力して時間をつくって、人さまの幸せのために歩いたのです。それは血の出るような日々でした。 戦争中は、焼夷弾の洗礼を受けながら、仏さまのみ教えを正しく守っているところには、「我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり」(法華経・如来寿量品第十六)とお経にあるのだから、絶対大丈夫だというので、東京を中心にしてがんばったのでした。上空から何回か焼夷弾の洗礼を受けたのですが、お経のとおりに立正佼成会の本部は被害がなく、町会も無事でした。 その間、幹部のかたがたもまた、いろいろの体験をされ、家の焼けたかたはありましたが、あの大戦災の中で、ただのひとりも、身体を傷めた人はなかったのです。 このように私どもは、仏さまから尊い、大慈悲の洗礼を受けたのであります。 (昭和32年04月【速記録】) 終戦 二 戦争中の体験を通しまして、いよいよ本当にこのご法は大丈夫だという確信をもったのです。まことに申しわけないことですが、ご法を自分の身体を通して試験させてもらったようなものです。法華経を試験管に入れて実験したといってもよいかもしれません。 その結果、絶対大丈夫だという確信を得た幹部が、千人ぐらいおりました。そのかたがたが、戦後の混乱期に右往左往している人びとに、本当の仏さまのお慈悲を伝えなければと、大活躍をされましたので、立正佼成会は、終戦後、一躍して、今日のような大教団になったわけでございます。 (昭和32年04月【速記録】)...
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...本尊勧請の神示 一 立正佼成会が昭和十三年三月五日に創立いたしまして、以来「修行中には法華経以外は絶対に雑誌も新聞も読んではいけない」という神さまのご指導により、私は昭和二十年まで、そのとおりの修行をさせられたわけです。 (昭和32年11月【速記録】) 本尊勧請の神示 二 昭和二十年のお釈迦さまの涅槃会の日、二月十五日に、突然、神さまがご降臨になり、「いよいよ日蓮聖人のご遺文を読んでもよい」というお言葉をはじめていただいたのです。 私どもが法華経を信奉いたしております関係上、いろいろのかたがたから、日蓮聖人の『立正安国論』や、『開目鈔』『観心本尊鈔』などの話を、いろいろとお聞きするのですが、それまではぜんぜん拝読したことがなく、何がなんだかよくわからなかったのです。しかし、尊いものには相違ないという、ひじょうな渇仰心をもっておりました。 まず『立正安国論』を第一番に、つぎつぎに五大部を読ませていただいたのでした。 (昭和32年11月【速記録】) 本尊勧請の神示 三 不思議なことですが昭和二十年、日蓮聖人のご入滅の日にあたる十月十三日に、神さまがご降臨になり、いよいよ「立正佼成会に久遠実成のお釈迦さまを勧請せよ」という言葉があったわけであります。 「十一月十五日、庭野、汝の誕生日に勧請せよ」ということでありました。 私はひじょうに喜びました。 そのご指導は「お釈迦さまは四十二年の間、方便を告げられ、その後の八年の間に法華経のご説法をなさった。しかし、立正佼成会はそれと反対に、今までの足かけ八年間は方便であった。これから、いよいよ真実に変わる時に、お釈迦さまを勧請せよ」ということでした。 「あと四十二年間、庭野が真の法華経を弘めなければならないぞ」という言葉をいただいたのであります。 私はありがたく敬服して、そのお言葉のとおり、十一月の十五日を期して勧請申し上げたのでございます。 (昭和32年11月【速記録】)...
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...宗教法人立正交成会の設立 一 終戦後、教勢はみるみる伸びていった。二十年末に千三百世帯だった信者は、二十二年末には、一万世帯にふくれ上がっていた。 二十三年八月十一日には、新しく制定された、宗教法人令によって〈宗教法人 立正交成会〉とし、同日付をもって登記を完了し、東京都知事に届け出た。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 宗教法人立正交成会の設立 二 宗教法人というのは、宗教団体に教義があって、儀式行事を行ない、さらにその教義を布教しているということです。この三つが宗教法人格になるための条件であります。 まず、どのような教えによるかという根本となる教義があり、その教義によって儀式を行ない、そして、信者を教化、、育成し、人びとに布教していくというのが、宗教法人の三つの条件であります。 (昭和31年05月【速記録】) 宗教法人立正交成会の設立 三 宗教法人の資格をよく考えてみますと、少しおかしなことに気づきます。自分では宗教法人だと思っている教団が、実は布教、教化、育成というようなことはまったくやらないで、死んだ人に引導を渡すだけでは、本当は宗教法人にはならないのであります。 生きている人を教化、育成するところに宗教といわれ、宗教法人になる資格があるわけであります。 また宗教法人には、この目的を達成するために公益事業を行なうことができる、とうたわれています。ですから宗教の目的からいえば、いま申し上げたような筋道がちゃんとあって、いろいろな公益事業に力を尽くすべきだと思うのです。 そういう意味で、立正佼成会では、病人に対しては、病院を建てて、そこで科学的な治療をする。子どもたちには保育所があり、学校があって、教育事業をやっています。 今日まで立正佼成会がやってきました活動は、すべて宗教法人法に適合し、宗教法人法の規定の本質を生かす活動であり、それ以外の何ものでもないわけでございます。 (昭和31年05月【速記録】)...
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...青年部の誕生 一 青年部の発足に当たって内容の細目ははなはだ漠然としていますが、具体的なことは逐次決めていったほうがよいだろうと思います。青年部のみなさんの精進いかんで、将来はすばらしい発展を遂げることと思います。 また、青年部のみなさんにとくにお願いすることは、物ごとすべてを善意に解釈することと、不退転の努力をなすことです。みなさんが若さに溢れた清新の気に満ちて大いに奮起して、本会青年部のりっぱな礎となることをお願いします。 (昭和30年08月【せせらぎ】) 青年部の誕生 二 年輩の指導者が魅力的な話をしないと、青年がついて来ません。それが青年部をつくった最大の理由です。 導きや手どりに行くとき、青年部員がおとなと一緒に相手の家について行き、おとなに聞かせる話はその日のおとながして、青年に対して聞かせる話は、青年部員にさせるという構想でした。 おとなが話をする中で、相手の青年に対して、青年部員が考えを述べるようにリードすれば、そこで青年が導ける。青年まで導いてくれば、祀り込みがすむと、たちまちその家は、親と子と一緒に活動が始まるのです。 青年を育てるためには、青年同士の話で、まずきっかけをつくり、「こういう仲間がいるのだから、おれも行ってみたい」という気持ちを起こさせることです。青年たちが出て来るような、そういう体制をつくってもらいたい、ということで青年部を発足させたのでした。 (昭和二十四年八月二十八日発足) (昭和24年6月【速記録】) 青年部の誕生 三 会員のかたがたはよくお悟りをいただいたと怒る怒る言っておりますが、それは刺激を与えていただくことにより、精進の糧となるものをいただくことを表わしたもの(中略)なのであります。 この意味から求道心に燃えている青年のかたがたが、なんのわだかまりもなく、喜んで毎日庭掃きや下足番を天分としてやるような気持ちになるのも、伝統のある教えをそのまま奉じているのですから、絶対に間違いなく批判の余地がないのであります。はっきりとしたあきらめをもって、涅槃の境地にはいらなければ、信仰は無駄になるのであります。 そして自分ばかりでなく、朝晩読経する喜びを人さまにお分けしなければならないと思います。方便品を拝読いたしますと、お釈迦さまは大勢のお弟子さんがたの中で、特に舎利弗尊者を選んで、「舎利弗よく聞け」とおっしゃいました。お弟子さんはたくさんいても、真の教えをきける人は少ないのです。 いつの時代にあっても、本当のご法を説いてきかせられるような人はなかなかいないのであります。 だからといってあなたがたが決して悲観するにはあたらないので、前途は遼遠な教えではあっても、ご法を真に悟ることができれば、地涌の菩薩のように、直々に仏さまからご法をうかがうことができるのでありますから、菩薩行を日々一歩一歩踏みしめていけばよろしいのです。 きょうは自分の金であっても明日は人のものというように、何ごとも移り変わる世の中にあって、すべてを超越した真理、絶対にあやまりない大法に掴ることができたのですから、私どもの刹那刹那の行ないはむずかしいのです。それを完全に掴えるには三法印、四諦、十二因縁、八正道などをよくかみしめないといろいろと迷うのであります。 青年の求道心に燃えている気持ちを真っ直ぐに引っぱっていき、真の道を求めて素直に、立正佼成会青年部として四年の年月ですが、最後の磨きをかける年と心がけてご法を正しく判断し、正しく信じて実行していただきたいのであります。 (昭和27年02月【佼成】) 青年部の誕生 四 戦争が終わったばかりのころは、食糧不足なので私が畑をつくり、おやつの時になると、トマトなどを四斗樽にいっぱいになるほどもいで来て、冷たい水に冷やしておいて、「さあ、食べなさい」と、若い人たちに持って行くと、みんな喜んでかじったものです。 しかし半病人のような人たちばかりでした。 (昭和54年06月【速記録】) 若い人たちは、ほとんど二代目でした。その人たちを見ていて、集団生活というのはおもしろいな、と思いました。 後からはいった人たちは、ちゃんと先輩を立てます。先輩はさすがにお役の手順をよく知っているわけです。ですから自分は十分に動けなくとも指示はできるのです。いろいろな雑用をしているうちに、みんながだんだん健康になってしまうのでした。 (昭和54年06月【速記録】) 百二十畳敷きの本部ができたときは、それまでの十二畳二間だけの道場から、急に広くなったのですから青年部の仕事もいろいろと増えました。 (昭和54年06月【速記録】) 庭に百畳以上もむしろを敷いたり、片づけたりするのですから、毎日十五人くらいいないとさばけません。わらのむしろですから、ごみも出ます。 現在の養成館の地所は、当初は集めたごみを処理する場所として買った土地でした。 (昭和54年06月【速記録】) 青年部の誕生 五 たしか昭和二十五年正月のことです。青年部活動を活発にするためには、本部に何をしてほしいか、その希望を聞いたところ、野球場を造ってほしいということでした。 (昭和54年06月【速記録】) それまでは病人のような青年部だったけれども、これからは健康な青年が育つ宗教活動にならなくてはならない、と少々みんなにハッパをかけたのです。 ところが話の勢いで、野球場がほしいというところまでいってしまったわけです。野球場は「五千坪(約一万六千五百平方メートル)ぐらいほしい」ということで、さっそく土地の購入を始めました。 (昭和54年06月【速記録】) ちょうど昭和二十七年に新宗連(新日本宗教団体連合会)ができました。よその教団にも青年部があり、野球大会をやろうということになりました。参加チームは六組ぐらいあったでしょう。 (昭和54年06月【速記録】) 青年部の誕生 六 青年部を創設したおかげで、会の中に新しい働きが出てまいりました。問題は指導者が青年の心の機微をつかみ、彼らをほんとうに躍動させて、信仰に導くことができるかどうか、ということでした。 (昭和54年06月【速記録】) 何かを調査するとか、伝達するとかいうことは、なかなか時間や手間のかかる仕事ですから、青年部にはうってつけの作業です。 青年部員たちは、仲間に組み入れられると、自信をもって育っていきます。役を付けると、たちまちできるようになります。 (昭和54年06月【速記録】) 青年部の誕生 七 若い人というのは活動力に恵まれています。教義の認識もさることながら、宗教は体験の世界だと、私はかねてから言っています。体験は活動の結果得られるものです。 いろいろなことをやってみろと言われて、やってみたらそのとおりであったという体験、さらに人を救っていく体験をしてくると、活動にひじょうに勢いが出てきます。 (昭和54年06月【速記録】) 「ご法に縁のない人はかなりいるはずだ。そういう人を連れてきて、自分が法座で聞いた話を聞かせてごらんなさい。するとその人は人間が変わったようになる」というような話をしますと、みずから青年を導いてきた部員も相当おりました。 (昭和54年06月【速記録】) 青年部の誕生 八 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩の中に、“雨にも風にも負けず、そして人にでくの坊だと言われても、ちっとも動じないような人になりたい”といった言葉がありますが、青年はすべからく、そういう気持ちになっていただきたいと思います。 (昭和31年01月【速記録】) 自分の青年時代のことを考えてみましても、青年というのは、たいへん妄想が多いものです。ですから「毎日来ていることがいいのだ」とか、「ただまじめに働けばいいのだ」といった、一つの型にはまったことだけを言っていると、青年たちはすぐに迷いを起こすものです。若い人たちは、前途にひじょうに大きな夢をもっているからです。 私たちは、青年の夢が大きいからこそ、頼もしく思っているのです。なんの夢もなく、ただ毎日、馬車馬のように言われたことだけやっているというだけでは、青年の青年らしさはないと思います。目の前にあらわれた問題を一つ一つ忠実に実行する点では、青年はひじょうに旺盛なエネルギーをもっていますから、その行動力に待つところが大きいわけです。 しかし、それが表面上のことでなく、本当に生きがいを感ずる生活を、いかにして築くかということが、青年にとって最もたいせつなことではないでしょうか。 公休が与えられた場合には、ちゃんと休むということはいっこうに差し支えないことです。せっかくの公休は、有効に生かし、勤めるときは、迷いがなく真剣でありたいものです。 勤めに出ながら、「年中無休で、のんべんだらりと勤めるんではいやになってしまう」といった気持ちが少しでも芽生えたら、けっして勤めに身が入りません。 公休日は映画を見るなり、山や川に行くなり、思う存分、自由自在に、青年らしい若々しい気持ちで時間を過ごし、休みが終われば心機一転して、本当に真心をもって勤めに精を出す。そういうふうに願いたいと思います。 自由時間は、本部へ来ることが何よりの楽しみだという境地になっていただければ、これは理想であります。 しかし、そこに行くまでの段階として、会では、ただただ、本部に来るだけのことを表彰したり、ほめたりもいたしません。そのところを、まちがった考えをしないように、一言ご注意申し上げておくわけです。 (昭和31年01月【速記録】) 青年部の誕生 九 若い人には意気がなくてはいけません。自尊心とか、正義感から燃え立つような、そういう力がないと向上しないものです。 たとえば、慈悲にいたしましても、平凡にただ気の毒だなというような気持ちで、ぼやっとしているのでは、けっして慈悲とはいえません。 気の毒な人を見た場合には、なんとかその人を救う道はないものか、どういう方法で導いたらいいか、と心をくだき、積極的に自分から踏み出していく気持ちがなくてはならないと思います。 ただ気の毒だなと見ているだけでは、気の毒な人はどうにもならないのです。自分もその人とともに泣くなり、苦しむなり、悲しむなりして、そしてまた、ともに幸せの喜びを分かち合えるような気持ちを、みなさんが持っていただくことが、本当の慈悲であります。異体同心の気持ちになって、これだけの青年たちが立ち上がったら、必ずや大きなことができると思います。 下には少年部ができ、上にはおとなの先輩のかたがたがたくさんいます。その間にあって、どう調和していくか、青年らしい活動を、どう進めていくか、そのためには、自分が無我になって、人さまに合掌するような気持ちになることがたいせつです。あたかも長い間の恋愛が実って結婚できたとか、ようやく事が成就できたとか、何か大功徳でもいただいて、仏さまの前で涙をこぼして、ありがとうございましたと合掌するような、ほんとうの真心のこもった気持ちで、後輩と先輩の間に立ち、真の調和を図らなければなりません。 異体同心の綱を、心のきずなを強くはらせるのは青年部であります。あなたがたの双肩には、こういう大きな使命がかかっている、と思うのであります。 (昭和31年01月【速記録】)...
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...機関誌「交成」発刊 一 戦後昭和二十三年八月に立正佼成会が宗教法人となったときの定款第一章に「社会浄化を図るため機関誌を発行する」と規定してあったのですが、これが実現して「交成」と名付けて機関誌の発刊を見たのは二十五年六月でした。 (昭和35年07月【速記録】) 機関誌「交成」発刊 二 昭和二十三年、旧本部拝殿ができたころ、すでに幹部の間から、何か記録のようなもの機関紙誌といったものを出したらどうか、という声が出ていました。 しかし、当時はまだなんとか生きていかなければと戦々恐々としていた時代でしたから、私はもう少し内容が充実してからでも遅くないと、時期尚早をとなえていました。余計なものを売りつけて、信者の重荷になるようではいけないと思ったのです。 霊友会時代、私が貧しかったころ、私と妙佼先生がふたりで信者の新聞を買い込み、配りましたが、会費と新聞代と両方の負担で、たいへんでした。そういう経験からみても、信者に苦労させてはいけない、ということで、機関紙誌の発刊はひかえていたのです。 (昭和44年02月【速記録】) 機関誌「交成」発刊 三 昭和二十五年、ようやく機運が熟し、このへんで機関紙誌を出してもよいだろうということになりました。教義や、本部のことを末端にまで正しく伝えるためにも必要だということでした。霊友会では当時、毎月一回新聞を出しておりました。 そのころ、身延山大学の教授で、立正大学にも講義に来られていた塩田義遜先生が、上京するたびに本部に立ち寄り、私の住んでいた旧本部の奥の部屋に泊まっておられました。たまたま先生に、機関紙誌発刊について相談しましたら、いろいろなアイデアを提供してくださいました。 はじめ、タブロイド判の新聞形式のものを出そうという意見もありましたが、塩田先生は「雑誌形式にすれば粗末にされないし、まして、ご法の話が載っているのだから、必ず保存する。また、そのとき読まなくても、とっておいて、いつでも読みたいときに読めるではないかという意味のことをおっしゃいました。 私も、どうせ出すのなら、途中でやめるようなことのないように、少しりっぱなものを作ったほうがよいという意見でした。塩田先生も、もし機関紙誌を出すのなら、私も原稿を書きましょう、と言ってくださいました。そんなわけで、機関誌づくりが始まったのであります。 (昭和44年02月【速記録】) 機関誌「交成」発刊 四 はじめは、いいものなら少しぐらい金がかかってもよい、みんなにあげてもよいという気持ちでした。法座中心の時代でしたから、信者に受け入れられないのではないかとも思いました。 そこで、あまり信者に負担にならないようにという配慮から、とりあえず三千部を非売品として刷ろうということになりました。 ところが創刊号からどんどんはけてしまったのです。やむをえず定価をつけて、三号、四号と発刊を重ねるうちに、赤字になると思っていたのが、十分採算が合うようになったのです。売れるから内容を良くする、内容を良くするから、また売れるという具合でした。 損得なしで始めたものが、信者の要求にぴったり合致し、自然に利益もあがっていったわけで、ここに“無我中道”が生きていたといえましょう。 信者の喜ばないものを出して、売りつけようとすることは感心できません。良いものを作り、信者に心の安らぎを与えるような、聖なる使命感に立たなくてはなりません。 (昭和44年02月【佼成】) 機関誌「交成」発刊 五 私は誇大宣伝はきらいです。宗教では、とくにそのことがいえます。はじめのうち、機関誌発行をひかえたのも、一つはそういう理由からでした。信仰が充実し本当の正直な信者の告白を、ありのままに出すことがもっともたいせつなことであります。 創刊当初、あまりに“結果現象”が誌上に出てくるものですから、世間では、あれはサクラじゃないのか、といった疑いの目で見ていたものもあったようでしたが、事実は事実なのだから、正直にありのままを告白し、表現していけばよいという立場をとってきたのです。 (昭和44年02月【速記録】) 機関誌「交成」発刊 六 創刊号をいま手に取って、つくづく見ますと、わずか三十六ページばかりの小冊子なのです。もちろん紙質も悪いし印刷も不鮮明です。 しかし中に書かれてある文章を読んでみますと、立正佼成会の創立以来一貫して流れてきたところの精神というものが、この「佼成」創刊号においてもすでにきわめて鮮明に汲み取られると思います。 (昭和35年07月【交成】)...
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...諸施設の充実 一 その年(昭和二十三年)の暮れには、信者数一万八千世帯となっていた。 わずか二十五坪の本部兼道場ではどうにもならなかった。(中略)毎日毎日庭にむしろを敷き、ヨシズを張って、できるだけのことをしてみたが、それで追いつくものではなかった。 そこで、保谷にあった、もと軍需工場の練成道場を買い取って、移築し、本部修養道場とした。 (昭和51年08月【自伝】) 戦時中の建物ですから、無傷の柱はほとんどなかった。それでみんな新しい柱にしました。終戦直後建ったものにしては上等です。天井だって三尺(約一メートル)の格天井です。仏さまの入るところですから。 (昭和35年09月【大法輪】) 諸施設の充実 二 二十五年度には(中略)総代会で図書館建設を満場一致で可決いたしたのですが、その話をしているうちに、雨や風にさらされている信者の受入れ態勢がどうにもならんというので、図書館を建てるよりも道場を建てようということに、ふたたびなりました。 そこで現在、公園になっているところに道場を建てる計画をいたしましたが、そのうちに現在の第二道場の土地を入手いたしましたので、あそこに建てることに決まりまして、当時三百坪(約九百九十平方メートル)もあればよかろうというのでしたが、三百坪の建坪では木造建築は許可になりませんので、鉄筋コンクリート建てに変更になりましたが、せっかく、鉄筋コンクリート建てにするのならば一階より二階建てのほうがよいということになったわけでございます。(中略)すべてが無計画のことでございますので、つねに信者の数に応ずる受け入れ態勢によって変更されてまいったのであります。 最初二階は図書館や講習会場にと思ったのが、とうてい信者をこれでは収容できないということになり、現在のように一階二階とも大広間にして一般信者の道場としているのでありますが、それでも時には屋上も屋外の庭にもむしろを敷いて法座を開いている次第でございます。 (昭和28年07月【佼成】) 諸施設の充実 三 みなさんが仏さまのご指示を素直に受けられ、私どもの希望いたしましたとおりに、いよいよ行学二道をはげもうということになりますと、無理なくきわめて自然に行学園の建築も実現したのであります。 (昭和29年05月【佼成】) 最初は建物をこれほど、きれいにということでなく、丈夫一点張りの図書館という考えでしたが、若い娘さんがたを多くお預かりしているんだから、結婚にすぐ役立つようにというので、お料理とか和洋裁とかいろいろの要望があり、地下室に料理のほうも指導する室を作ったり、初めは和洋裁の場所も別に予定しませんでしたが、現在では四階にこれをもっていかなくてはならないという状態で、一階の広間は結婚式場ということにいたしました。こういたしますと、けっきょく、教学に関するものは四階の研究室、図書館は三階というようなわずかの場所に制限されたようなわけであります。 (昭和28年07月【佼成】) 諸施設の充実 四 本部のこの近辺にいくら大きな道場を構えましても、全国のかたがたをここに全部収容することはとうていできないというので、昨年度から積極的に地方支部道場の建設を着々と実現しておるのであります。 (昭和29年05月【佼成】) 今年(昭和三十年)、立正佼成会で建てました施設を並べてみますと、三月八日に福井県の森田に森田連絡所を造りました。五月三日に横浜道場が落成しました。同じ月の十八日には甲府道場の落成式がありました。これは昨年中に、建物はできていたものです。 二十一日には新潟道場の落成式、七月の二十日には新潟の大河津道場の入仏式ができました。九月の十五日に、この第三道場ができ、二十七日には新潟の水原道場の入仏式がありました。 十一月二十一日には北多摩道場の入仏式、その月の二十二日には神戸道場の落成式、二十三日には平道場の上棟式をしています。二十九日には木更津道場の落成式がありました。私どもも各所に参りまして盛大な式典をあげることができました。 しかし、道場を建てるということだけに専念しておりましては、なかなかこういうふうにはいかないと思うのであります。 私どもは人間ずくで計画を立て、目先の自分の都合だけ考えて、「こうしたい、ああしたい」と、我のために飜弄されて迷うのでありますが、神さまのお手配にまかせて、ただただ、自分たちは日々夜々、現在、自分自身がなさねばならないことを、ひとつひとつ、まちがいなく実行していると、こういうすばらしい結果が生まれてくるものなのです。それがご法であります。なんの無理もなくすらすらと、このように進むということは、いかにこのご法に対する、諸天善神のご加護が甚大であるかということを、如実に物語っていると思うのでございます。 (昭和30年12月【速記録】) 諸施設の充実 五 とにかく、新興宗教は金がたくさんあって大規模の企業団体だというような世評を耳にいたしますが、私ども新興教団といたしましてはすべて信者の満足するような設備もできませんし、むりやりに現状維持の状態をつづけているのでございます。本日(昭和二十八年六月九日)も式典に参加するのに会員が屋外において陽にさらされている状態であります。 かように少々の設備ではとうてい間に合わないというので、(中略)なるべく地方の信者は本部に集めないように、東京近辺のかただけを集めるという方針をとりまして、かろうじて指導に差し支えない程度にやっているのでございます。 こういうことを、私どもは、つねに無計画に追われ追われてやっているような状態でございます。世間でうわさしているような、十分の経済力やら十分な大計画を立ててやるというような悠長なものでないのでございます。 しかし、私どものつねに信奉いたします仏教経典によりますところの指導は、まったく私どもの生活そのものが経典であり、経典そのものが私どもの生活の指針であります。行ずれば行ずるほど日々夜々に結果を得ることによりまして、集まる信者の受け入れ態勢に汲々とせざるを得ない状態を繰り返しているのであります。 (昭和28年07月【佼成】) これらの道場施設の全部を当てましても、月三回のご命日だけにとどまらず、大きな行事のときには、在京支部会員はもとより大勢の地方在住会員のかたがたまでは収容できず、いつも受け入れ態勢の点でひじょうに遺憾の点があったのであります。ことに天候の悪い場合などは、一万人も二万人ものかたがたを一か所に収容できる建物がなく、地方からわざわざ上京なさった会員のかたの不便を思い、(中略)昭和三十一年新春早々いよいよ大聖堂建設の計画をたて、今日にいたったのであります。 (昭和34年06月【佼成】) ...
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...会員激増 一 信者の少ないはじめのころは、一年一年が苦難の連続だったのです。しかもまた、その苦難が一面において信仰の法悦とでも申しますか、楽しい苦しみであったということもできたのです。 しいて言えば、私どもは創立当初においては、人間的考え方や常識をこえた神示と霊示による精神的修行を幾年か続けたのですが、それを信者の末端に、いかにして納得のいくように伝えるかということにいちばん苦心したのです。 (昭和35年03月【佼成】) 会員激増 二 世間では新興宗教といえば、戦後の思想混迷、経済生活の不安などを契機として盛んになったと見る向きもあるようですが、私どもは会の本尊にお釈迦さまを勧請申し上げて以来、あたかも神業のような具合に急速に雲の集まるがごとくに信者が集まってきたのであります。(中略) 立正佼成会ではただ会を大きくし、会員の数を増やそうとするよりも、集まってくる信者のかたがたとともに、この正しいご法を実践し合い、修業し合うという念願以外には他意がなく、ひたすらにみ仏にお示しになった教えのままに行じ、ひとりひとりの悩みを語り合い、お互いに精進してきたに過ぎないにもかかわらず、終戦後における教勢発展のテンポは宗教史上まれに見る結果となって現われているのであります。 (昭和32年12月【佼成】) 立正佼成会は今年(昭和三十四年)で創立二十二年を迎えたとはいえ、一つの教団の歴史としては必ずしも古いとは申されません。しかしその比較的短い年月の間に二〇〇万を超える会員を擁する教団に発展したのであります。 これとても私どもは計画的に会員の数を増やしたのではなく、ただ気の毒な人、病気で苦しんでいる人、経済的に悩んでいる人びと、また家庭不和の人びとに対して、精神的にどうしたら救ってあげることができるか、という熱情以外にはなかったのであります。それはまた、根本にさかのぼれば、妙佼先生とともどもに恩師新井先生から法華経の講義を聞いて、ひたすらに信行をつづけているうちに、私どもは自分の生活も忘れて無我夢中でお導きをして歩くようになったので、今日のもとを成しているのであります。 甚深微妙の法華経に遇い奉り、その尊いみ教えを確信し体験した私どもは、爾来世間のいかなる誹謗にも堪え、苦難の道を黙々として歩み、及ばずながらもご法の実践につとめたばかりでなく、ご法の縁につながるみなさまの、つねに強盛な信仰心の結集した結果が今日の教勢の確立をもたらしたのであります。 (昭和34年06月【佼成】) 会員激増 三 現在、いわゆる新宗教団体の数は相当にのぼるのでありますが、宗教の真のあり方を説いているものはきわめて少ない。ありがたいお釈迦さまの教えや観音さまのご利益があっても、人類史上いちばんたいせつな時機が到来しているのに、三昧に入ってしまわれて口を結んで説かれないというようなことでは、この危機ともいうべき現代に必要な、生きた宗教ではないと思うのであります。 おそらく立正佼成会の教えがいちばん手きびしいと思います。したがって、それだけに、ややもすると理屈だけ言う人はいられなくなって逃げ出す結果ともなるのであります。 しかし、今年(昭和三十年)も立正佼成会の二十九年度の歩みを、統計数字やグラフで現わした年鑑ができましたが、これを見ますると、これまではお導きがあっても、会をやめる人が相当にあったのが、落ちる人がひじょうに少なくなっているのであります。信仰に余り熱心でない人も入ってきているので、以前よりも余計にやめるのかと思って統計を見ますと、新入会者数とやめる人の比率によりまして、やめる人が少なくなって結局全体的に会員の数がひじょうに増えていくのであります。 このことは一体どういう意味かと申しますと、従来立正佼成会に関心をもたなかった一般の人でも、立正佼成会の教えが、人さまの本当の腹の中をえぐるようなことを言っているのに共鳴したというか、心を直してくれるという宗教がやはり今日のような時代に必要だということが、第三者の眼にも認められてきたのではないかと思われるのであります。 (昭和30年02月【佼成】) 会員激増 四 私ども立正佼成会がうぶ声をあげた昭和十三年当時と、今日をくらべると、わずか十八年の間ですが、お導きをするのがひじょうに楽になったのであります。これはみなさんがお導きの順序をお考えになればよく分かると思います。 最近では世界中に、宗教の本質に向かって、我執や、こだわり、偏狭の心を捨てて、本当の真理を求めていこうという動きが、あらわれてきたのであります。 私どもは幸いにして、未来も変わらない、普遍の教えをいただいています。どなたと話しても、妥協ではなく、「なるほどそのとおりだ。そういかなくてはならぬ」と理解してもらえることがはっきりしているのであります。 (昭和30年12月【速記録】) 私どもは、仏さまという存在がわかり、国が栄え、自分もまた幸せになる大法をいただいて、その法を行じている僧でございます。 僧というと、とかくお坊さんを指すのですが、仏教の本義からいうと、お坊さんという職業ではけっしてなく、仏教を本当に行ずる人の集まりを指しているのであります。ふたり以上集まらなければ僧伽にならないわけです。ただひとり、自分だけ偉がっていたのでは、それは僧ではないのです。 本当のご法であるならば、そのご法を聞いた人をすみやかに教化し、また、その回りにいた人もそれを聞いて賛同するわけであります。 “仏法僧”の三宝に帰依する縁ができる人は、過去世から縁のある人でなければなりません。私どもは業障といいながらも、この尊いご法に遇えたのです。遇えない人にくらべると、たいへん仏さまに縁が近いわけであります。 縁に近い者から、縁の遠い人びとに呼びかけて、目ざめていただく。それが、その娑婆に生まれ出た私どもの役目なのであります。私どもの本当の生きがいなのであります。 (昭和31年01月【速記録】)...
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...地方布教 一 地方布教と名がつくほどのものは、昭和二十二年の茨城の野崎支部が最初で、その後、静岡・千葉・埼玉・神奈川・山梨・長野などがそれに次ぐ。 それも、現在のような計画的な布教ではなく、支部の発会式とか、道場の地鎮祭や落成式などにでかけたのを機会に、付近の信者たちに集まってもらい、説法をしたり、幹部指導をしたりしたものだった。 もっとも、二十二年以前にも埼玉の妙佼先生のご実家のほうへは私も出かけて法の話をしたことはあるが、“地方布教”と呼ぶのは茨城が最初と言ってもいいだろう。 妙佼先生に神が下がり、どこそこの支部で信者が泣いているから行くように……とのお告げがあって、にわかに決まることもあった。また、先方から手紙などで、ぜひこのことについてご指導願いたいなどと言ってくれば、すぐ「だれか行ってこい」ということになったりした。 なにしろ、まだまだ教線は関東一円ぐらいにしか伸びていなかったし、万事かんたんなものだった。主事の岡野禎司郎さん、第一支部長の長沼広至さんなど、よくそういうときに気軽に出かけていったものだ。茨城へ昼ごろから行って三か所ぐらいまわり、最終列車で帰ってくる。帰り着くのは夜中の一時か二時。そんなこともずいぶんあった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 地方布教 二 昭和二十四年か二十五年にドイツ製のカベラーという七、八人乗りの大型車を買い、それで計画的な地方布教をするようになった。本部からは権田理事や、支部長、それに事情の許す幹部たちが、交替交替で布教班を編成して出かけた。半月も、一か月もの予定を組んで、ずいぶん遠くまで出かけたものだ。鹿児島まで行ったこともある。 そのころは、旅館に泊まることはなく、全部信者の家に泊めてもらった。それも、本当に一夜の宿をお借りするだけで、風呂にはいる間もないことがしょっちゅうだった。下着など洗濯をさせてもらっても、それが乾かないうちに出発しなければならず、自動車で走りながら乾かして行ったものだ。 そして、つぎの場所に行っても、お茶ひとつ飲まずにすぐご供養をし、法座を始めるという具合で、じつに真剣だった。待っている信者たちも熱心そのもので、夜遅く到着するようなことがあっても、大勢詰めかけて待っていた。これでは布教班も張り切らざるをえない。 そのころの会場は、おおむね支部か連絡所だったが、大勢の場合は神社やお寺を借りてやったこともずいぶんあった。先方から、「ぜひうちの境内を使ってください」という申し出があり、ありがたく貸していただいたこともある。神社の境内で立正佼成会の法座を開くなど、当時から宗教協力の実がひとりでに上がっていたのであった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 地方布教 三 私や妙佼先生を迎える地方の信者たちの熱狂ぶりはたいへんなものだった。泣かんばかりだった。妙佼先生の霊能力がおおかたの信者の帰依の的だったころだから、「妙佼先生っ」という叫びがあちこちから起こった。事実、そう叫んだだけで病気が治る人が、一か所で二、三人は必ず出たものだ。(中略) 西洋医学万能論者は一笑に付すかもしれないが、事実は事実だから仕方がない。 とにかく、信者たちは一途だった。地方からたまに東京の本部へ当番を務めにくる人たちにも、その姿がよく見られた。当時は系統別の支部だったから、たとえば第二支部の当番だと第二支部系統の人が栃木県や福島県から来たり、第三十九支部当番というと、その支部に所属している京都あたりの連絡所から泊まり込みで来たりしたわけだ。そういう人たちは、そんな遠くから本部へ来ても、ゆっくり休むひまなどなく、荷物の置場もろくにないというありさまだった。 それでも不平一つ言わず、懸命に修行した。幹部からがみがみおこられても、それがまたありがたいというふうだった。支部長にさんざん叱られた人が、「支部長さんから直接お言葉をいただけた」と、感激して帰っていったのである。 ましてや、たまたま遠くから妙佼先生のお姿を見たり、何かの拍子に言葉をかけてもらったりしたら、まったく卒倒せんばかりだった。 実際にこういう例がある。妙佼先生を仏さまとばかり信じ込んでいた人が、妙佼先生が生きた人間として壇上にのぼって説法を始められると、驚きのあまり卒倒してしまったのだった。 これは極端な例だが、たいていの人がそれに近い感情を懐いていたのである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 地方布教 四 地方布教に行って泊めていただく信者の家でも、新しく布団を作ってくれたり、漁師さんの家で魚の洗い場の隅を仕切って風呂場を設けてくれたり、素朴ながら心のこもったもてなしをしてくださった。 その風呂場など、都会住まいの者から見ればまことに粗末なもので、風呂釜があるだけで洗う場所もなく、寒い風のすーすーはいってくる所だったが、それだけやってくださる気持ちだけでありがたいと思ったものだ。 地方布教に出かけたのは私たち教団幹部ばかりではない。支部幹部や末端の信者までが東北や北海道、あるいは四国、九州まで親類、知人を導きに、または手取りに町や村々をまわって布教に歩いたのだ。しかも布教先ではお茶や座布団も固辞してなんとしてもこの人を救うのだ、と熱心に法を説いたのだ。 家庭を犠牲にし、生活を切りつめ、交通費をつくり、文字どおり手弁当で布教の第一線に立ったのである。その〈激しい布教〉と〈慈悲かけ〉は、とても私の筆では書き表わせないほど、すさまじいものだった。その結果が、やがて連絡所、法座所、道場にと発展して、全国津々浦々にまで法灯がひろがっていったのである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 地方布教 五 支部の結成というのは、表面的にはもとの支部から分かれて、新しい支部が増えることのように見えますが、本質を考えますと、立正佼成会の教えを、本部と同じ指導方法を、末端まで徹底するという意図から行なわれるのです。 一方からいうと、分かれるのですが、真の考え方は統一を意味するのです。支部結成の使命は、教義を統一指導するということにあるのです。 支部が分かれると、ややもすると新しい支部長さんはやかましいおしゅうとさんから離れたような気がし、また、もとの支部長さんは、どこまでももとの支部長だという支部長風を吹かせて、新しい支部の独立性を無視した行動をとるというようなことが、今日まで多々あったようです。 しかし、これは新しい支部長が親支部長に甘える気持ち、また新しい支部として離れても、まだわが子のように面倒をみてやる親支部長の親心、慈悲の心ともいえると思うのであります。 そういう意味におきまして、多少の行き過ぎや、いろいろのことがありましょうが、とにかく新しい支部長はご法を行じる支部長である以上、お導きを受け、ご指導をいただいた親支部長に対し、心から感謝し、親支部長から永遠にご指導をいただきたい、という心があるのでなくてはならないと思うのであります。そしてお互いに法華経の精神、すなわち菩薩道を末端まで徹底させるというのが、支部結成の意義でなくなはならないと存じます。 新支部長になられるかたがたは、とくに一大決心をしていただきたい。今までは親支部に寄りかかって、ある程度責任をのがれていたことも、今後はそうはまいりません。 支部長のすべての行動が、支部員に反映するのです。その責任は重大であります。 かねて申し上げておりますように、「支部長というのは、支部員に小言を言う役だ」というような考え方は、たいへんな間違いであります。むしろ、妙佼先生から手きびしい小言をいただく役になったのです。支部のかたがたの気持ちをまっすぐに育て、真の個性を完全に生かしてやる産婆役をしていかねばならないのです。支部長というお役は、やってみますとたいへんなお役でございます。 支部の分離で会員の心の置きどころがひじょうに複雑になってくることを恐れ、私は「支部をあまり増やさぬほうがいい」と考え、長い間支部を分離しないことにしておりました。 ところが、各支部ともだんだん会員が増え、とくに会員数四千、五千というような大支部になりますと、支部長の心が、なかなか末端のほうまで通らなくなって、指導が徹底しないことになります。そこでどうしても、支部の分離結成という必要に迫られたのでございます。 (昭和28年08月【速記録】) 地方布教 六 過ぎし二十年を振り返ってみますと、布教や指導の面で必ずしも完全であるとは言い切れぬものもあったと思います。それに教団が大きくなりますと、いつの間にか、その教団独特の色が出てくるのであります。これは教団を構成する人間同士の色で、たとえば教団の幹部にひじょうに総率力があって余りに強引過ぎるとか、高圧的であるとか、何かそこに教団としての色がついてくるものなのであります。これはどの教団にもあることでございますけれども、この点を私どもはつねに反省しなければならません。 つまり大教団になった以上布教も積極化し、教勢が発展すればするほど内省して、謙虚になって教団の色をできるだけなくし、本尊に対しては豪も恥ずかしくないように心を清浄にすることを怠ってはならないと思います。いったん立正佼成会に入会したのに脱会する人の中には、その人の機根の至らないことや、ご法精進の足りないことに原因はありますけれども、ややもすると教団の色が強過ぎたがために、それがいやでやめる場合があると思うのであります。 しかし、そういうかたがたでも教えそのものが忘れられなくて、会をやめてからでも教えのとおりやっている人があることも事実であります。立正佼成会創立以来二十年間に入会したかたを合わせると優に二百万、いな三百万ぐらいになると思います。 そこで、現在立正佼成会の枢軸になっている会員のかたがたがもう一度反省をいたしまして、この教団の色というものを失くすことに努力いたされ、正しい法華経に照らして恥ずかしくない真のご法を身につけるならば、三百万の信者は立正佼成会にみちみちることと信ずるものであります。 (昭和32年04月【佼成】) 地方布教 七 今日のこのような時代では、明るく、のびのびとした幸せな境界は、ちょっとやそっとのことでは、いただけません。 仏さまの遺された法華経というご法門をいただく功徳によりまして、私どもはお互いに合掌し合い、和の心ですべての人の幸福を、日夜念じさせていただいているのです。このように多くのかたが、ご法の道場にお集まりいただくようなお手配を頂戴しているのでございます。 (昭和31年01月【速記録】)...
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...公益事業 一 新しい宗教といえば、世間の人びとのうちには、なんでも批判的に見たがるかたがあり、ややもすると新興宗教は現世利益を看板に掲げて、信者の数だけを増やそうとしているというように非難するのでありますが、私どもはつねづねみなさまに申し上げておりますとおり、立正佼成会の信仰はけっして病気治しや金儲けのための信仰ではないということであります。 むしろ精進の程度に従って、仏教というものの本質を認識していただくように、みなさまを指導しているつもりでありまして、朝に夕にお経をあげて道場の法座に座ったからとて、病気が必ず治るとか経済的にも恵まれた生活ができるようになるとお思いになっては困るのであります。すなわち、身体に疾患のある人は早くお医者さんにかかっていただくようにと、立正佼成会におきましては、すでに昭和二十七年以来佼成病院の経営に当たっていることはみなさまもご承知のとおりであります。そこではあらゆる近代医学をもちまして患者の診療に当たっているのであります。 しかし、一方におきまして内面的な精神的の悩みは、仏教の教えによって解決するよう努めておるのであります。佼成新聞に連載された“釈尊物語”をお読みのかたはご存じと思いますが、釈尊は名医ギバをお呼びになって、「自分は人間の心の病患を治してやるが、あなたは人間の肉体的な病を治してください」とおっしゃったのであります。 人はだれでも、お釈迦さまの教えを素直に実行いたしますれば必ず精神的苦悩から救われ、つまり霊的にも救済されるのでありますが、肉体的疾患は医学の力にまつべきであるというのがお釈迦さまのお言葉だったようであります。 しかしながら、近年になりまして欧米、とくにアメリカの進んだ医学界では、精神身体医学という新しい分野をとても熱心に研究している医学者も多くなっているということであります。これは結局、人間の肉体的疾患も、精神的状態のいかんにひじょうに影響を受けるということが実証されたためであると思います。 構成病院の例でみましても、正しい信仰をもっている患者のかたは、無信仰の人よりも治療しやすく、結果が良いということであります。 (昭和34年05月【佼成】) 公益事業 二 立正佼成会は創立二十二年にしてすでに教団そのものの諸施設はもとより、教育事業としての佼成学園男女高等学校・中学校、佼成図書館、保育施設として佼成幼稚園、佼成育子園などを運営し、また社会施設としては佼成病院、佼成養老園、佼成霊園などがあるように、仏教社会事業の理想を着々実行に移しているのであります。 私どもは大乗仏教の根本理念を会員のみなさまに徹底させるとともに、社会事業ないし社会福祉施設を拡充することによって、いささかでも国家社会に貢献してゆきたいと考えているものであります。 (昭和34年05月【佼成】) 公益事業 三 私どもは科学と宗教は、けっして対立するものでないと思っているものであります。ただ、科学はいかに進歩発達いたしましても、それだけでは安心が得られないことも事実であります。(中略) 立正佼成会では科学と信仰と相携えていくためには百の理屈よりも一つの実行として、すでに昭和二十七年夏以来、公益事業の一環として病院を経営していることにご理解をいただけるものと信じておるものであります。教団所属の病院というと、患者に信仰を強要するとか、何か特別な療法でもあるかのように憶測する向きもあるように思いますけれども、(中略)他の一般病院と同様に最新の医療設備をもって診療に当たっていることはみなさまもご承知のとおりであります。 (昭和32年06月【佼成】) 私のところで病院を作るときに、教勢がにぶるのではないかと忠告してくれたかたがたが、たくさんありました。同じ金をかけるのなら他の社会事業をやったほうがよい。───病気治しが一枚看板でやってきていると見ていた人が多いのですから、そこへ病院を建てて医学で病気を治してしまえば、それだけ信者が減るのではないかと心配したわけです。 もちろん病気は心の悩みから出ているものもたくさんありますから、道場へ来て話を聞いているうちに、医者にかかって三年も四年も患って不治の病だと思ったものが、自分の心を教えのとおりに整えて転換したというキッカケで、病気が治った例もたくさんあります。 そうした喜びをもって人を導いて連れてきたり、またその事実をみて入会しようと思う人も出てくるわけですから、要するに病気治しの形になってもおりますけれども、それがけっして眼目ではない。本質に持っていく方便としては否定しないが、病気治しが教団の目的ではないということです。 (昭和34年08月【佼成】) 病院を作ってから三年ぐらいは、いろいろ教団のかたの病気治しの面と接触して摩擦もありました。私のところに医者が苦情を言ってきたりしたのですが、最近では医者自身も心の病気というか、(中略)「医者が治せる病気以外の種類の病気」という点についても理解し、自分たちとしてもまだ力の足りない点もあるし、何パーセントかは心の問題が原因して起こる病気もあるのだということを認めまして、ひじょうになごやかになって、よくなりました。 (昭和34年08月【佼成】) 公益事業 四 昭和二十四年には育子園を建てた。これは、社会事業としての意義と、幼児教育に対する私の理想を活かしたい気持ちからつくったものである。小さいときから宗教的雰囲気の中で育つことが、人間形成のうえにどんなにたいせつであるかを、自分の体で知っているからである。 その気持ちが発展したのが、佼成学園の中学校・高校である。私は、幼年期から少年期までがいちばんたいせつな時期だと信じている。だから、大学をつくる意志はない。大学をつくるなら、小学校をつくる。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 立正佼成会の保育所を、妙佼成先生の元の家(現・妙佼殿)があったところに建てるために、地所をなんとか手に入れたいというので盛んに運動をしたことがございます。 その当時、地主さんは「あなたの言うとおりにいたしましょう」と言われたのですが、地上権をもっているかたによって、反対されました。反対したかたは、むしろ私どもに土地を貸したほうが得をする条件にあったのですが、その条件をのんでいただけなかったのです。 そのときは、あまりよい気分はしなかったものの、あとになってみますと、そのおかげで、現在の場所を買わせていただき、二十四年に育子園が完成したわけです。 また、私どもは町の人びとに信用していただいていないという反省に立ちまして、いろいろの角度からもっと町のために真剣に尽くさなければならないという心になったわけであります。 育子園が現在の場所になったことは、結局的には、子どもたちがどんなに騒いでも、本部の行事に少しもさしさわりがないようになったのです。 (昭和37年03月【会長先生の御指導】) 公益事業 五 昭和二十九年初めて手をつけた教育事業は、立正佼成会にとって最も意義深いものの一つなのでありまして、これは当時まだご存命中の妙佼先生とともに、会としては百年の大計をたてるために、首脳部の衆知をあつめ、練りに練って着手されたものでした。私どもの帰依するご法というものの真価を永遠に生かすためには、教育事業が最も適切であると思ったからです。 すなわち次代を担うべき若い世代に、法華経の中に教えてあるところの菩薩行の精神を植えつけ、完全円満なる人格完成の目的を体得させ、知、情、意の調和のとれた人格形成を建学の理想としたのです。したがって会員の子弟はもとより、非会員の子弟でも、この趣旨に賛同するかたは喜んで迎えたのです。 私どもはそれ以来この建学の理想と目的に一歩一歩近づくためには知育偏重を戒め、できるだけ徳育の比重を高めて清浄な宗教的雰囲気の中に子弟を教育することに努めてきたのです。 (昭和34年10月【佼成】) 公益事業 六 まず昭和三十年の初めには長い伝統のある岩佐学園と合併が成り、名誉学園長に妙佼先生を頂き、まず佼成学園女子部として実際に新発足をみたのでした。これに引き続いて翌昭和三十一年四月には、新校舎の落成とともに男子部の開設となったのです。 ご承知のように、古い伝統をもちました女子部に新たに本会会員の子弟が加わったために、初期においてはその運営に多少の困難はありましたが、予想以上に順調な結果を得たことは、諸仏諸天善神のご加護はもとより、校長先生以下教職員ならびに関係当事者の異体同心、不惜身命の精神を発露したものと信ずるものです。 その結果、女子部高校卒業生の就職はきわめて良好で、また都内有名商社、銀行などに就職するものも年々増加の一途をたどっているのです。事実、佼成学園女子部は学業の面はもちろん、スポーツ、書道、音楽の面でも優雅な成績をもって、都内の有名私立学校に伍していることはあえて偶然ではないと思います。 女子部よりも一年おくれて発足した男子部も、本年四月にはすでに第一回卒業生を世に送り、開校当時中学一年に入学した生徒は現在、高校一年であり、あと二年すれば佼成学園男子部六年間一貫教育の生え抜きの卒業生として、社会に、また上級学校に出てゆくわけですが、宗教的雰囲気のうちに長い間つちかわれた効果は、次第に真価を発揮していくものと信じます。 本年男子部の卒業生の中でも、学校当局者の眼から見れば、それほどりっぱな人材とは思えなかった者でさえも、その卒業生が社会に、また上級学校に進学しますと、他校の卒業生と比較したときに、ひじょうにりっぱな人物であったので、来年度もまた、自分の会社に卒業生を送ってもらいたいと申し込まれたことを聞いて、私はたいへんうれしく思ったのです。まして今後は、入学者も厳選して、優秀な人材を集める予定であり、今後の学園に対する期待と希望に私どもは胸をふくらませているしだいです。 さらに私立学校として本学園ほど、高潔なる人格者であり、かつまた豊富なる教養をもたれた諸先生を擁している学校は、ひじょうに少ないのでありますから、今後の発展は期して待つべきものがあることと自負いたすものです。 本会が、かかる教育事業に着手したことは、未曽有の敗戦によりまして、人心の動揺、社会道義の低下、教育制度の変革等々の、非常事態のために、有為なる青少年諸君が、前途を誤って不良過激の徒の群に陥るのを憂えて、諸仏諸天善神が本会にこの大使命を与えたもうたものと確信しているしだいです。 (昭和34年10月【佼成】)...
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...読売事件 一 最近、立正佼成会の発展をいろいろの眼でごらんになるかたがございまして、痛烈な批判──というよりりも攻撃せんがための攻撃を二か月余りも続けた大新聞もございます。 しかし、そのほとんどが的外れの批判であり、攻撃でありまして、立正佼成会の核心を衝いた本質的なものはないのであります。このようにたくさん頂戴したご批判の中に、あるいは二、三は何かそこに立正佼成会として行き過ぎの点があったのではないかと反省もしてみたのであります。 しかしながら、百五十万、二百万というかたをいちいち何か事にしようとアラを拾えば、一つや二つ多少の言葉の行き過ぎもありましょうし、感情の食い違いということも出てくると思います。私どもは凡夫でありまして、仏さまを信ずるところの信者であり、法華経を行ずるところの行者でありまして、また仏さまや神さまではないのであります。 そういう意味から私どもはその仏さまに恋慕渇仰して一生懸命に精進いたしまして、仏身を成就させたいというのが念願でございます。立正佼成会がこれだけあらゆる方面から、何か欠点がないかというのでご批判をいただいたのはありがたくお受けするものでありますが、そのほとんどがウソで、わずか二つ三つが現在流行しております人権侵害などという言葉に、幾分か当てはまるかどうかスレスレという程度です。 これは一面、信者に対する幹部の日々の指導が、いかに正しく末端まで浸透しているかという証左として、私どもはむしろ感謝をしているしだいです。 (昭和31年06月【佼成】) 読売事件 二 過日「サンデー毎日」に評論家の阿部真之助先生が、立正佼成会と読売の問題をいろいろと批評いたしまして、読売紙の記事がウソであるならば立正佼成会が起ち上がって告訴でもすべきではないかと、多少アジるように書いてございますが、立正佼成会はいやしくも宗教団体でありますので、そういう報復的な考えは持っていないのであります。ただ私は、衆議院の法務委員会の席上におきましても読売新聞の報道の誤っている点を、二、三の例を挙げて猪俣委員に申し上げましたところ、ウソのあることは認めているのでございます。 現在、日本の三大新聞の一つと言われる新聞が、故意に誤った報道をしておるのでありますが、私どもは今日まで批判されるには、そこに因があるのではないか、われわれが善意に基づいてしたことでも、大勢の人のことであるから、まれには間違ったこともあったかもしれない、これは大いに反省懺悔をしなければならないというので、幹部とも隠忍自重を誓い合いまして、すべてのことを自分たちの懺悔としてきたのでありますが、ますます言論の暴力ぶりを発揮いたしまして、ついには根も葉もないことを書き立てました。とくに妙佼先生の経歴に関する記事に至っては、聞くに堪えない悪質なものでありました。埼玉県の狭い場所に生まれ、現在妙佼先生のご実家の近所には支部が三つも出来て、その上、また妙佼先生より年上のかたもたくさんおるのであります。 妙佼先生がどういう生い立ちであるのか、どういう血統の家に生まれたかということは、これまでそれほど深くは考えておらなかったようでありますけれど、たまたま今回数学研究室の鴨宮成介氏(現・顧問)が急に妙佼先生のご先祖を調べたいというので、調査をすすめました結果、四十何代ものご先祖が連綿と続いていることが分かったのであります。また初めに結婚をなさった相手のかたも、やはり同じ土地の旧家の出で、今日では立正佼成会の信者として、妙佼先生のみ弟子として、一生懸命に精進しているのであります。 こういう経緯がハッキリとしている今日は、余りにもデタラメの報道をそのままにしておきますと、立正佼成会の歴史にも傷をつけますので、私は法務委員会にまいりましたときに、あえてこのことにも触れましたが、だれひとりとして委員の中にもこの事実を突きとめて言えなかったのであります。しかも、こちらには最初に結婚なすったかたも証人に立つとまで言っているくらいでありますけれど、私どもは宗教家として、人と争うことを欲しないからというので、押えているのであります。 また、妙佼先生が甲府で重病人を踏み殺したというようなデマ記事も、私のほうで別に予期したわけではなかったのですが、読売紙の問題にした当の青柳さとさんの連れ合いのかたが、自分の家内に油揚げや天プラばかり食べさせて、医者にもかけなかったというような読売の報道に憤慨して、告訴しようとまで言っているのであります。 この問題につきましては、私どもの呼ばれたその前の法務委員会で、参考人に呼ばれた青柳保さんの弟さんである樋口米蔵さんというかたが、読売紙の記者に会ったこともなければ、またその記事が誤報であることもハッキリと答弁しているのであります。 (昭和31年06月【佼成】) 読売事件 三 なんでも悪いことは立正佼成会攻撃の材料にしておるのでありますけれど、私どもはどこまでも宗教家という襟度において、絶対にそういうものを取り合わないという態度をとっておったのであります。法務委員会は公平な国家の機関としまして、委員のかたがたが立正佼成会を被告扱いにしているわけではないのであります。 たとえば委員長さんの最初の挨拶を聞きますると、本日は当委員会に、ひじょうにご多用中のところを参考人としてお出でをいただきまして、立正佼成会の人権侵害に関する件につきまして、みなさまのご意見をおうかがいいたすことになったわけでありますが、どうぞご協力お願いいたしますと、こういう挨拶に始まり、最後には、本日の法務委員会におきまして、熱心にご協力をいただきましてまことにありがとうございますという順序でありまして、これは法務委員会として当然で、法律的にいったい人権の侵害が成り立つものかどうか検討するわけでしょう。 またこの日、同じ法務委員会に参考人に呼ばれておりました人は、昭和二十九年に、立正佼成会は邪教であるから解散を要求するというので提訴をしている人で、そのかたがちょうど午前の法務委員会に呼ばれておったわけでありますが、私は午後の法務委員会に呼ばれて出るのでありましたが、少し時間を早目に出かけてまいりましたので、幸いにもその答弁を聞くことができたのであります。 その答弁は結論的に申しますと、立正佼成会は法華経を唱える日蓮の教義を奉じながら、日蓮宗と合わないから解散を要求するというのでありまして、これはまことに奇妙な話であります。 それは、いつぞや真宗の坊さんが立正佼成会の第二道場を見学にお出でになりました際に、二階応接間で私は立正佼成会の信仰状態は親鸞、教義は日蓮、所作は道元であるというような意味のことを話したことがありますが、その後にNHKの討論会でもこの問題にふれたことがありました。それを評論家で詩人のかたが、「中外日報」という新聞紙上で書きまして、庭野はいよいよカクテルマのような信仰を暴露した、と述べたことがあるのであります。そういうところから私の言ったその言葉じりがたいへんに大きく取り上げられたわけであります。 (昭和31年06月【佼成】) 読売事件 四 いつでも私は楽観主義で、世間の批判などあまり気にしません。それは、ご法に対して確信をもっていなくてはいけない、と考えるからであります。 とかく人間は、事が起こりますと、そのほうにだけ神経をとられて汲々とし、本質的なものを忘れてしまうものです。これがわれわれ凡人の常であります。 ところで、歴史を振り返りましても、永遠につながる普遍的な教え、大法として永く用いられるような正しい宗教が起こったときには、いつも大きな法難があるということが、古今東西の世を通じての鉄則であります。キリストしかり、釈迦に九横の大難あり、日蓮に四大法難がありました。 そう考えると、現在の立正佼成会に対する批判につきましても、その問題が起こった根本をたずねますと、やはりはっきりいたします。立正佼成会の宗教活動はひじょうに活発であり、しかもみなさんの説くご法が、あまりにも人びとの心に的中して、腹の中をえぐられるような気がするほど、本当のことを言い当てられてしまう。どうしても、ありのままの自分の姿を、かくすことができず、はっきりと現わされてしまう。 ところが、一般には、そういう自分をなんとかごまかして生きているのが人間でございます。 そうした中で私どもは、この地上に天国をつくろう、寂光土にしよう、仏国土を建設しよう、としているのです。そのために、人びとの悪いところを、徹底的に反省懺悔させ、過去の罪障をたちどころに消滅させて、各々が幸せになるよう指導し、ひいては多くのかたがたに、このご法の尊さを知っていただくよう、お勧めしているのであります。 数多くのかたがたが、私どもと同じ思想にならないことには、今日の戦争の状態はなくなりません。口では平和、平和といいながら、戦争の状態がだんだん色濃くなっているのが実情です。平和の戦いという言葉があります。平和外交を進めるといいながら、その実、軍備を拡張しているのが、現在の世界の情勢であります。 その中にあって私どもは、絶対平和の仏教思想を弘め、欲を捨てた清い気持ちの人間をつくろうというのです。このようなことは、なまやさしい、批判もされないような宗教にできるはずはないのです。 ラムネの気の抜けたような宗教で、布教力もない、ただ形だけを保っている状態であれば、批判されることもないでしょう。その代わり、同時に人びとの心を直す力もないわけです。 ところが、五濁悪世の心の底の腐ったものを、黒いものは黒い、白いものは白いとはっきり指摘して、徹底的にたたき直しをしようと思えば、鍛冶屋さんで花火が散るように、ご法に火花が散るのであります。その火花が現在、社会の批判の的になっているのではないでしょうか。 目下、批判の出どころは読売新聞ではありますが、一般社会のみなさんの目が、大体読売新聞のような考え方で立正佼成会に向けられているのだと、このように考えても間違いではないと私は思うのです。 私はあえて申し上げます。立正佼成会が、布教する必要もない、人間改造の必要もない、ただお題目さえ唱えていればいいというなら、道場の必要はありません。 お題目を唱える日蓮宗もありますし、法華宗もあります。お寺も相当たくさん、ほうぼうにあるのですが、その宗教が今日の五濁悪世をたたき直し、人間改造を目指す活動をしていないからこそ、私どもは、やむにやまれず立ち上がって布教しているのであります。 (昭和31年04月【速記録】) 読売事件 五 いくら外部の新聞などがとやかく言っても、立正佼成会をつぶすこともできなければ、また会のこれまでのやり方を訂正する必要もありません。私どもは濁悪の世の中で堂々と正法を掲げて、大いに努力しなければならない責任があるのです。 そのためには各々ひとりひとりの心構え、日々の行動が、本当にご法にかなって、人に遠慮したり、非難されたりすることのない、神さまがごらんになって、なるほどよくやったとおっしゃるような行ないをすることを、みなさんとともに誓わなければなりません。 私どもは法華経の信者という言葉を使いますが、日蓮聖人は、行者という言葉を使っておられます。行者とは何かというと、行なう人でございます。本当にご法を行ずる人をいうのです。 私どもは、日蓮聖人のご遺文の中にありますように、いよいよ一般大衆に向かって、法華経行者としての実践をしなければなりません。 私どもの中には、弟子として毎日来られる人と、檀那として家業にいそしみながら、しっかり先祖のご供養をし、法華経の教えを認識して、法活動をする人とあります。そういう体制をとらなければならない、そういう心の転換をしなけれはならない時期でもあると思うのであります。 そういう意味で、立正佼成会の未来永劫へ向けての大計という点から考えますと、そのための社会批判は、きわめてありがたいわけであります。 われわれは批判に対してなんら躊躇する必要はないし、むしろ私どもに足りない所があるなら、もっともっと新聞に書いて、諫めていただきたいくらいです。 衷心から感謝申し上げると同時に、私どもはいつでも多くのかたの批判をありがたく頂戴し、自分に至らないところがあれば、即座に直すだけの寛容さがなければなりません。そうでなければ、法華経行者とはいえないのであります。 この五濁のときに、末法を救う法華経を弘める使命が、また、日蓮聖人が亡くなられて七百年、その精神を、本当にありのままに、今日の世に生かさなくてはならない使命が、立正佼成会にあるならば、社会の批難が、日蓮聖人の時代と同様に、あらゆる方面から起こるのは当然でございます。 そう考えますと、このように批判されることがひじょうに喜びになってまいります。いよいよ真剣にならなくてはならない。異体同心で結束して、日本に、この娑婆に寂光土を建設しなければならない。われわれはその先駆者である、という決意を新たにしたしだいいでございます。 (昭和31年04月【速記録】)...
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...機関紙「交成新聞」発刊 一 現代は言論時代とか、マスコミュニケーション時代とか言いまして、ある場合には、報道によりまして人びとの気持ちをひじょうに間違った方向へ持って行けると同時に、正しい世論を喚起して大衆を啓蒙することもできるのであります。 これは、みなさんがすでに本年一月下旬以来新聞というものに対しまして、経験なすったことと思います。約三か月にわたる読売新聞の立正佼成会に対する誹謗攻撃によりまして、みなさんの布教活動やその他すべてのことに無理が生じ、おのずから制約されることがいかに多かったかという点をお察しいたしておるものでございま。 私どもは現在まで機関誌「佼成」を通じて本部の方針またはみなさんの信仰体験や布教活動の一班を発表しておったのでありますが、こんどは機関新聞によりまして、さらに迅速にみなさんのお手もとに、末端の信者のかたにも本部の方針ならびに会員のみなさまの動勢なりをお知らせできることとなったのであります。これは必要に迫られて、六月十五日をもって創刊号を出すことになったのであります。 しかし、一方、機関誌とか機関新聞のような形のものを新たに出すことになりますと、幹部のみなさまにとっては、それを配布するためにひじょうにご苦労をおかけすることになるのでありまして、私どもといたしても心苦しく存ずるのであります。 「佼成」誌など末端まで完全に配布できますのは、発行後約半月位かかるように思いますが、その間にこんどはさらに新聞が三度も出るということになりますと、ご苦労が一段と増すのでありますけれども、新聞の目的使命というものは、なるべくすみやかに末端までニュースをお知らせすることにありますから、その点でみなさんはこれをいろいろの角度からご検討をしていただき、末端のかたがたでも多くみなさまに読んでいただき、啓蒙に資するようにご協力をお願いいたし、「佼成」誌とあわせて新聞発行をますます有意義にしたいと念願するものであります。 今後は佼成新聞を通じましても、いろいろの修行方法や、本部のあり方を絶えずお知らせることができると思います。 (昭和31年07月【佼成】) 機関紙「交成新聞」発刊 二 立正佼成が昭和十三年に創立されて今年(昭和三十一年)で十九年になります。最初の立教の趣旨は「迷っているもの、悩んでいるもの、貧乏で苦しんでいるもの、病で苦しむもの、こんな人たちの手をとって、苦しみや悩みの解決に努力したい」というところにありました。 「法華経の教えを噛みくだいて説明し、法則論を分かりやすく人びとに浸透させていこう。師匠とか弟子とかいった関係としてではなく、みんなが平等な人間として仏さまの慈悲にふれていきたい。そして毎日を生きがいのある生活にしていこう」私たちの気持ちは、こんなところにあったのです。 これが広く社会の人びとに共感をもって迎えられ、会は急激な発展を続けてまいりました。 ところが会が大きくなるにつれて、今度は布教の面で大きな壁にぶつかってきました。私たちの気持ちや、本部の指導方針が末端の会員に届かないのです。これでは困る。本当に二千五百年前のお釈迦さまの教えや近くは日蓮聖人の教えを実践すれば、必ず住みよい世の中ができるのだという確信があっても、私たちの気持ちや、本部の指導が届かないのではいかんともならない。 仏さまの教えが世の中に徹底すれば、小は人間個々の苦しみ悩みから、大は国家の政治、経済の安定に至るまで解決のつかない問題はけっしてない。しかし、そのための第一歩ともいうべき会員の教化育成が徹底しないとあっては、せっかくの理想がいたずらに空回りするばかりでしかない。 昨今の立正佼成会に対する世間のご批判も、じつはこんなところに向けられていたのです。問題は本会の布教活動自体に根ざしていたのです。 これは、私たちが十分に反省懺悔しなければならない。不徳のいたすところだ──といって安閑としておっては、せっかく立正佼成会に批判のお慈悲をくださった世間のかたがたに対してすまないし、何よりも仏さまのお弟子として申しわけないことだ。 私は、ここでひとつ発会当時の気持ち、ひとりひとりの手をとって導いたときの気持ちに返って、立教の本旨を徹底していこうと考えたのです。批判に対して萎縮してはならない。世間の批判を大きなお慈悲として私たちはさらに一歩、大きく前進しなければならない。これこそが世間の批判にこたえる私たちの道であり、仏さまのお気持ちにそう唯一の道だと考えたのです。 ここで私は、その実践の第一歩を「佼成新聞」の発刊に求めました。立教当時の気持ちに立ち返るといっても、これだけの大きな会になった現在では、末端の会員のひとりひとりの手をとって導くということはまったく不可能です。どうしても「言論」による布教の徹底に道を求める以外に手段はありません。 よく教えの規範にそった内容の新聞、会の指導方針をだれにでも分かるように解明した新聞、全国の会員の声や、経験が正しく取り上げられる新聞、そして会員以外の一般の人が読んでも、立正佼成会のあり方がただちに理解できるような新聞、さらに、よく編集された見よい新聞──そのような新聞は、会の方針や指導精神を、正確にすみやかに末端まで普及徹底させることができるでしょうし、北海道の会員は九州の会員の精進を知り、自分の信仰生活の糧とすることができるでしょう。 「佼成新聞」はまた、山間へき地の会員の生活や、本部ご命日の説法をも紹介するでしょう。国際、国内問題の週間解説など、一般の教養を身につけるためにも役に立つことでしょう。「佼成新聞」はそのような新聞でなければならないのです。 みなさんの力でりっぱな「佼成新聞」に育ててくださることを望みます。 (昭和31年06月【佼成新聞】)...
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...続く試練 一 私の妻子が帰京して来た二十九年ころから、会の上層部に変な動きが目立つようになった。もっとも、このような空気はだいぶ前からあったのだが、第二の階段がどうやら収拾されたころから激しく表面化してきたのである。妙佼先生の住居(通称「お山」)の六畳間に毎日のように集まり、何事か相談しているようすだった。 そして、私をお山に入れようとしなかった。玄関からはいって行こうとすると、人が前に立ちはだかって入れてくれなかった。それからは、表門が閉じられてしまい、潜り戸だけが開いていた。 朝、本部道場にはいって行くと、そこに詰めていた戒名当番の人たちがパタパタと立って、どこかへ行ってしまう。第二道場に行っても、幹部クラスの人はスーッといなくなってしまうのである。 どういうわけか、いっこうに分からない。孤独感がヒシヒシと胸にきた。時には腹も立つ。 ある道場のご命日に、ただひとり、半日がかりで行ったことがある。着いてみたら、留守番のお婆さんがひとりいるだけで、道場ばガランとしている。 聞いてみると、期日より一日早く、昨日盛大に執り行なわれたというのである。人気のない道場で参拝し、お婆さんとお茶を飲んで世間話をして引き揚げたが、じつに寂しい気持ちだった。 しかし、私は「これも修行だ」と受け止めた。そして、大勢集まっている信者には、いつものとおり説法した。信者のみなさんに相対していると、心が和み、自然とニコニコ顔になる。だから、一般の信者は、上層部に不穏な空気があるなど、知る由もなかった。 もちろん、支部長クラスの人たちは、だれも私の話を聞きに来ない。「会長の話を聞くと謗法罪になるぞ」と、上層の人たちから禁ぜられていたのである。 私は人を疑ったり、揣摩憶測をたくましゅうしたりすることがめんどう臭い人間で、このような空気についても、「排斥されているのだな」と感じ取るだけで、それ以上深く考えようとしなかった。 しかし、排斥されていることは、重大問題に違いない。それに対処する道は何か。教団内をどう見まわしてみても、自分と同等かそれ以上に法に明るく、法を説き得る人はひとりも見当たらない。自分には自分でなければ果たせぬお役があるのだ。千万人といえども我往かん……そんな気持ちになった。 ギリギリの場合はここを去ってまた一からやり直そう……と考えたこともあった。しかし、それは世間に対して、いかにもみっともない話だし、自分が抜けた後の教団は、ますます仏道の本筋から逸脱していくこと必至である。 妙佼先生の霊能はじつに素晴らしいものだったが、あらゆる機根の大衆に向かって自由自在に話をするといった能弁家ではなかった。支部長たちに、 「私はどうも座布団にすわっていることができないのですよ。何かして働いているときが、いちばん気が楽です。説教しろと会長先生に言われてみても、私みたいなバカな女が人に説くなんて……と思うと、足が震えてくることもあるんですよ」 と語ったこともあった。また、行事などに際して説法をすることが決まると、二、三日前に私に向かって、 「私に変な説法をさせると、会長先生の値打ちが下がるんですよ。信者さんたちはがっかりするし、子不孝というものですよ」 と、冗談まじりに“脅迫”されたものだった。それでいろいろと話をして、説法の下地をつくってあげたものだった。 打ち明けて言えばそう言ったざっくばらんな間柄だったので、一時の感情に走ったり、血気にはやったりしてはならないと……思い直した。そして、これはもう仏さまにおまかせするよりほかに道はない、そう腹をすえていた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 続く試練 二 八月になって、周囲のもやもやした空気が、ようやくはっきりした形をとって現われてきた。全幹部・全支部長が連署した誓約書なるものが、私の手許に提出されたのである。 その要点はつぎの一節に絞られるものと言ってもよかった。 「率直に申し上げますならば、妙佼先生の慈悲の鞭、これに全幅の信頼と精進をちかって参りました。然し今日の会長先生の言動に於ては一貫した強固なる意志の一片すらなき観があり、大乗的と言う美名のもとにしばしば私達の信仰の方向に暗影を投ずる感が御座いまして、会長先生に対する信頼感が喪失せざるを得ない現在の心境であります」 妙佼先生は、ここに〈慈悲の鞭〉という言葉が使われているように、ひじょうにきびしく、歯に衣を着せずびしびしものを言う人で、一面においては怖い人であったが、心服している人たちにとってはその〈怖さ〉に〈頼もしさ〉が同居していて、なんとも言えぬ魅力を覚えていたのである。 それにくらべて、私はどうものんびりした性質で、人に対しても大まかであるために、一部の人びとに歯痒い感じを与えていたようだ。 もともと仏教という教えの性格が柔軟で、包容的なものである。それは開祖の釈尊ご自身の姿勢に源を発している。(中略)ともあれ私は、生来の性格もそうだったろうが、仏教の持つこういう柔軟な姿勢にならって、することなすことが大まかで、人をビシリと裁くことをしないのである。 それが〈慈悲の鞭〉に頼もしさを覚えている人の眼から見れば、いかにも優柔不断で、頼りなく感じられたことだろう。そこで、「会長頼むにたらず」ということになったのだろう。 これが主因であったと、私は信じている。それにつぎの二つの誘因が加わって、この挙となったもののようである。 その一つは、読売事件後、会のあり方を向上させる目的をもって、外部の学識経験者をも加えて諮問委員会というものを置いたことである。というより、その中に、立正佼成会は邪教であるとして解散要求の提訴をしている人がいたことが、カチンときたらしいのだ。 私はいわゆる“大乗的な”気持ちをもってその人をも加えたのだが、会の上層部の人たちにとっては容赦できぬことだったらしい。まことに無理もなかったと、今では思っている。 もう一つは、例によって私の家内に対する反感である。提婆視である。これについては前にくわしく書いたが、それがまだ尾を引いていたわけだ。 そこで、その誓約書はこう結んであった。 一、会発足の主旨及び因縁にもとづき常に両先生は一体であるべきこと。 二、内部抗争の惹起の恐れある会長夫人の介入は全面的に許さざること。 三、諮問委員会の内、外部より参加した委員は会の諸行事に出席する場合は支部長の総意によること。 右誓約致します 以上 昭和三十一年八月 とあり、私が署名すべき空白を置いて、妙佼先生の署名捺印があった。つぎのページをめくると、長沼理事長をはじめ、私の実弟の林理事に至るまで、十一名の役員全部の署名捺印があり、それに続いて百二十五名の全支部長がひとり残らず連判しているのであった。 あとで聞くと、たいていの支部長が「これに署名して判を押せ」と言われ、何のことかいっこうに分からずにそのとおりしたとのことだったが、これを示された時点においては、全幹部の総意としか見えない。そして、この三箇条にも別に反対すべき理由はなかったので、「そうか、そうか」と言って、私も署名捺印した。 ところが、事態はこの文面に現われているような簡単なものではなかった。その直後、鴨宮成介数学研究室長(現・顧問)が私を訪れ、「妙佼先生を〈教祖〉とし、庭野先生を〈会長〉とする」という案を示された。私は即座にそれを拒否した。 たしかにそのころは、妙佼先生に下がった神示を私がみんなに解釈して聞かせるのが常だったので、いかにも妙佼先生が〈教祖〉らしい形が存在していた。しかし、法華経を信奉する教団である限り、教祖はほかならぬ釈尊であり、また狭い意味においても、立正佼成会で〈教え〉を指導するのはこの私なのである。 妙佼先生はたしかにすぐれた霊能者ではあるけれども、導きや教義の面においても私の弟子である。だから〈教祖〉と称するのは筋が通らない。このようなきわめて初歩的な矛盾を許すことはできなかった。 しかし、それでもみんなは諦めなかったらしい。私の実弟林子之蔵理事が岡野庫太郎(禎司郎)理事に呼ばれ、ぜひこの線を認めてほしいと談判されたというので、阿佐ヶ谷の自宅へやって来た。もちろん、それも一言のもとに突っぱねた。それが動因となったのかどうか知らないが、妙佼先生を擁して独立するという動きが具体化し、血判の連判状まで作成されたということだった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 続く試練 三 さて、このリーダーがだれだれであったかは、ついにしかとは判明しなかった。うすうすは察せられたけれども、私はあえて事の次第をほじくり返したり、追究したりはしなかった。 あの誓約書の文面に関する限りは、明らかに会のためを思ってのことであり、独立の動きにしても、悪意や野心があったようには思われず、ただひたすらな妙佼先生への帰依と忠誠心という純粋な動機によるものとしか考えられなかったからである。 私はその人たちを、ひとりとして首を切ったり、左遷したりしなかった。それまでと変わりなく重用した。(中略) それにしても、分派・独立の動きがあったことは、やはり重大な事実であり、のちのちのためにもその原因は明らかにしておかねばなるまい。 私の側にある原因、これは私自身よく承知し、反省もしている。問題は、分派・独立しようとした人びとの心理はどんなものだったのだろうか……ということである。(中略) 何度も書いたように、妙佼先生はすばらしい霊能の持ち主で、あくまでも教義とか法則とかに随順する私よりも、はるかに魅力があった。人柄のうえでも、観世音菩薩のような優しさがある反面、不動明王のようなきびしさがあり、とにかく常識を超えたなにものかを持った人だった。 それで、上層部の人たちは、つねに尊敬と畏怖の入り交じった感情をもって接し、指導を受けていた。(中略) また、当時は霊能とか神秘性とかが、指導的立場にある人の資格のように思われていたので、支部長たちは、神さまを見たとか、霊と感応したとか、よく言ったものだ。そういう神秘体験がなければ、支部長としての“顔”が立たない、といった風潮があったわけだ。 側近にいた人の話では、妙佼先生は〈人の心を試す〉ことをよくしたという。その人の信仰は本物かどうか、僧伽に対して本当に忠実であるかどうか、そんなことを試すために、心にもないことを言ったり、わざと冷淡な態度をとったり、そんなことがよくあったというのである。それも修行の一つといえばいえるかもしれないが……。 独立事件の起こるころ、妙佼先生は幹部の人たちに「会長先生ってほんとに仕方がないわねえ」と、よく言ったそうだ。 最近この話を聞いて、なるほど……と納得するところがあった。 妙佼先生はつねづね「会長先生は法華経をこの世にひろめる役目を持って娑婆につかわされた人です。私はその証明役として生まれてきた人間です」と言っていた。そういう神示を受けられたのであるから、固くそう信じていた。 だから、妙佼先生の「仕方がないわねえ」は、そのような役目を持つ人間としての基準から見た「仕方がないわねえ」であり、「もっとしっかりしなければ、神さまの付託に添えないじゃないか」という批判だったらしいのである。 ところが、それを聞く人はストレートに、普通の意味の「仕方がない」と受け取るのである。そして、そこからもやもやしたものが生じてくる。“仕方がない”会長から離反することによって、妙佼先生の意に添いたい……というような気持ちになってくるのである。その子持ちがだんだん高まり、ついに形ある行動として現われてきたものと、私は推察している。 そうなると、いちばん困った立場に立たれたのは妙佼先生である。自分に心服し、自分を押し立てて、衆生済度の道に新しい旗上げをしようと意気ごんでいる人びとに、むげに「やめなさい」とはなかなか言い切れなかったらしい。かといって、長年の求道の友である私に背いて別派を開くなど、とてもおいそれと踏み切れるものではない。 そうした板挾みにあって、ひじょうに心を痛められたようである。その心痛がいかばかりであったかは、その直後からにわかに健康が衰え、寝込んでしまうことが多くなり、ついに起つ能わざる結果となったことでも分かると思う。 これも、一つの大きな〈階段〉であった。しかし、払った犠牲も大きい〈階段〉だったのである。 私自身にとっても、やはり七十年の人生での最大の試練だった。自分ではよく気がつかなくても、心のどこかに懈怠と増上慢がでていた私に、仏さまが与えてくださった“修行”だったのだ。 なお、右の誓約書は、妙佼先生の建墓式のとき、私が手ずから墓前にお供えして霊を慰め、その後で燃やしてしまった。その煙が天空に消えていったと同じように、私の胸からもこの事件はさらりと消え失せ、今日までいささかのこだわりも残していない。 「雨降って地固まる」という言葉があるが、この事件があってから会の上層部のまとまりはとみによくなり、現在の磐石のような態勢の基礎はこのときに固まったと言ってもよい。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 続く試練 四 将来、この会をになっていく幹部のかたに考えてもらいたいことは、自分に不利なことがあっても、それを功徳だと思い、逆縁を善縁と解釈できるようにならないと、宗教家にはなれないということです。 このことだけは必ず心に銘じておいていただきたい。私はそういう考え方で、すべてのことに対処しております。 (昭和55年02月【速記録】)...
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...果たされたお役 一 私どもは会長、副会長としてご法一途に足りないながらもこの二十年間、みなさまのご協力によって精進もでき、今日の教勢を見ることかできたのですが、現在のような教団としての秩序が備わったことの第一の原因は、妙佼先生が終始一貫、一歩下がって私のような者を会長として立ててくださり、ご自分は陰になってお慈悲をかけてくださったからにほかなりません。 (昭和32年04月【佼成】) 家庭にたとえて、私がお父さんの役割を与えていただいたとします。 お父さんは楽観主義、楽天家なので「ご法というものはこういうものだ」と、大道を示す役があります。「このように大道が決まっているのだから、あとはいろいろと細かいことを言わなくとも、みんなが正しい法を理解し、悟れば、一生懸命やるだろう」と考えております。 ところが妙佼先生は、自分の腹を痛めて生んだ子ども以上に、みなさんのことが心配なのです。「それじゃ困る。これじゃいけない」と、ちょうどわが子の躾をするお母さんのように、お辞儀の仕方から、朝起きたらまず家の掃除、ご飯を食べたら後片付け、他人さまが来たらどういうふうに付き合わなくてはならないかというようなことまで、いちいちきびしく大勢の幹部さんの手を取り、一日一日の生活そのものに心をこめ、りっぱな子を育てようと、努力されているのです。 (昭和29年03月【速記録】) 果たされたお役 二 妙佼先生は、「法を弘めるお役ある者が、今この世に出ているのだから、どうしてもその使命を果たすために、会の団結をはかり、ひとりひとりの役割をきちんとしなければならない」というお考えで、たいへんきびしいご指導があったわけです。 ある人に言わせると「どうも妙佼先生は怖い。なんでもお見通しで、腹の中に描いたことがみんな分かってしまう」と怖がったものです。それは、妙佼先生がきれいな気持ちで、なんの野心もなく、ただただ自分がこのご法によって救われたのだから、人さまにもこのご法を行じさせて幸せにしたいという、その一心であったからです。 来る人来る人が、みんな妙佼先生に心を見すかされてしまって、「こうすればいい」「ああすればいい」と言われるとおりに実行すると、たちまちに結果が出てくるということで、どんどん導きができたわけであります。 (昭和51年04月【求道】) 果たされたお役 三 芋屋のおばさんに牛乳屋のおやじが親方になって会が発足したのですから、世間の人からごらんになると「なんだ。あんなところへものを聞きに行って、いったいどうなるんだ」と、そういう状態だったのであります。 ですから、本部においでになる人を、どういうふうに導くかが問題でした。妙佼先生はひじょうに損な役をみずから買って出たのです。 妙佼先生は人びとに、「とにかく立正佼成会に行って会長の話を聞きなさい。その話が矛盾していて納得がいかなかったら、いつやめても結構です。会長のところへ行って話を聞けば分かるのだから、一応会長のところへ行ってください」と言って勧めました。その態度は徹底しておりました。 そこでおいでになるかたは、信仰団体の本部へ行くというので、敬虔な気持ちでいらっしゃいます。 本部に崇高な感じのご宝前か、現在のご本尊さまのようなものが祀ってあれば、問題ないのですが、なんと本部のある二階に上がってみると、六畳と四畳半の部屋に、幅三尺(約九〇センチ)高さ五尺五、六寸(一六五〜八センチ)ぐらいの仏壇があるだけです。 しかも白木の仏壇で、ラッカーを少し塗ったようなものです。大したものは何もありません。ただお曼茶羅を掲げて、ご守護尊神さまのお宮があり、前のほうに過去帳が置いてあります。 おまけに当時は私も若かったのです。満で三十一歳そこそこでした。「この小僧が会長で、連れてきたおばさんはというと、四十七、八歳の芋屋のかみさんじゃないか」。こういうことで、ありがたいという実感が出ないらしいのです。 しかし、言うことはズバズバっと言いました。その人が今日までやってきたことや、心の中に描いたことなどいろいろな問題を、片っ端から取り上げて、本人にぶつけてみるのです。すると、言われたほうはびっくり仰天して、「恐れ入りました。救われるならば、ひとつ入会させてもらいましょう」ということになるのでした。 (昭和41年03月【速記録】) 当時は宗教団体の会長だといっても、たかが牛乳屋のおやじじゃないかという気持ちが、世間一般に強かったわけです。それを会長先生などと言わせるようにするのは、これはたいへんなことでした。男馬に子を産ませるほどの苦労であったわけです。 (昭和51年04月【求道】) 果たされたお役 四 まず初対面からどぎもを抜いて、それからあなたはこういう考えをしているだろうと、説き進めていかなければ、なかなか信仰に入ってくださる人がいない時代であったのです。 ですから、手きびしく、人のいちばん痛いところに、まず爆弾を落としてしまうような指導をやっていたわけであります。 そして、妙佼先生は、何ごとも足らないところの多い会長を、なんとかものにしなくてはならない。「会長は絶対の人なんだ」という気持ちに、みんなをもっていかなければならないと、損な役を全部自分で引き受けました。信者のみなさんの耳の痛いことは、自分が片っ端から引き受けて言うのです。「そら、根性が足りない」とか、やれ「朝寝坊がいけない」とか、「欲がいけない」「その色情がいけない」というようなことで、人びとの本当の肚の中を見通して、ずばりと指導したものであります。 そうした状態で、妙佼先生にお骨折りをいただいたので、みなさんは一生懸命に修行をする。修行をしているうちに、自分で自分の心を直して幸せになるんだということが分かるようになる。そしていっそう、真剣に修行をすることになりました。 しかも妙佼先生は小言もすごく言うが、小言を言うそばから細かい心くばりをされるかたでした。当時は、病気などして、ひじょうに経済的に困っているような信者がほとんどでした。 小言をさんざん言われ、頭にきてしまったなと思うような人がいると、妙佼先生はその人の帰りぎわに、ちゃんと何かを持たしてやるというふうでした。信者からもらったものではありません。そのころ、妙佼先生の家はたいへん商売繁盛していて、物質的には恵まれていました。 ですから、帰りには子どもにみやげを持たしてやるとか、この人はもう小遣いがないんだな、と思うと、知らぬ顔をして紙にお金を包んで、頭にきているその奥さんのたもとの中へそっと入れてやる。すると、腹を立てて本部を飛び出して来たけれど、さっき妙佼先生がふところにさわったようだなと思って、帰り道で手を入れてみると、紙包みが入っている。 お金がなくて困っているところですから、「ああ申しわけなかった」と気がつく。あまり小言を言われるので腹立ちまぎれに、もうやめてしまおうかと思ったけれど、妙佼先生は私が可愛くて小言を言ってくださるのだなと悟れ、また思い直して、修行の道を続けた。そういうかたがいらっしゃると思うのであります。 (昭和41年03月【速記録】) 果たされたお役 五 ご存じのように「方等経典は為れ慈悲の主なり」(仏説観普賢菩薩行法経)といわれますとおり、慈悲がいちばん根本であります。ですから、感謝の気持ちが欠けていると、強い言葉となって出たり、その人が救われ、幸せになってもらうために、いろいろのお小言もあったわけです。 この小言のことを、妙佼先生ご在世中から、立正佼成会では「ご功徳」という合言葉で呼んでいます。小言をいただくと、一般の社会では、不足を言ったり、不平になったりするのですが、立正佼成会では、小言を言われることを、ご功徳をいただくと言っているのです。 これはひじょうに素晴らしいことだと思います。とかく人間は、自分のためになる痛いことを言われると、面白くないものです。素直に耳を傾けることができないというのが、人の常であります。そのことを妙佼先生は「人間の皮をかぶっているうちは、どんな人でも間違いだらけなんだ」ともおっしゃっていました。 ですから、毎日毎日間違いだらけの自分が、どのようなことをしたら神さま仏さまのみ心にかなうのであろうか、と考える懺悔反省の生活であったわけです。そういう妙佼先生のお慈悲に培われて、今日こうして私どもの幸せがあるのです。 (昭和48年10月【求道】) 果たされたお役 六 事実、立正佼成会が年々大きくなればなるほど、妙佼先生の陰のお役、陰の実践というものがいかに偉大なものであったかを感ぜずにはいられません。妙佼先生はいついかなる場合でも人を立て、自分はあくまでも目立たぬように努められ、しかもつねに陰徳を積まれ、宗教家の本領を遺憾なく発揮されたのであります。 (昭和32年10月【佼成】) 教団そのものの秩序も支部の統制もすべてその陰の人(たとえば家庭では主婦、支部では副支部長)がたいせつであるということを妙佼先生は身をもって垂範されて、こういうことが末端まで徹底しているからこそ、立正佼成会の基礎がいかなる事態に遭遇いたしても微動だにしないと確信するものであります。 (昭和32年04月【佼成】)...
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...神々の降臨 一 霊友会では、降神して啓示を聞くことを、重要な行としていた。私も、妙佼先生も、新井先生から系統的な指導を受けていた。それが、立正佼成会を創立して一年ぐらいたったころから、ひじょうに強く現われるようになった。朝から晩まで〈神〉に引きまわされた。下がってくる〈神〉は、不動明王、八幡大菩薩、毘沙門天、七面大明神、日蓮大菩薩が主だった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 妙佼先生に始終神さまが下がったのは、創立から、七、八年のころです。止めようと思っても止まらない勢いでした。 (昭和47年10月【求道】) 神々の降臨 二 立正佼成会では、お経の一節が終わると三遍お題目をあげ、お経の最後に十回唱えます。日蓮宗のお寺さんですと、ひじょうにたくさんお題目を唱えるのですが、あまり果てしもなく唱えるというのでは、在家仏教では続きませんので、制限いたしまして、十回ということに決めたのであります。 その最後の十回のお題目を唱えているうちに、神さまがご降臨になって、いろいろのことを言われるのです。それも、われわれが想像も及ばないことを、つぎからつぎへと言われるのです。 (昭和41年03月【速記録】) 「自分たちで結社をこしらえて、立正佼成会と名前をつけ、政府に届けて認可を得たから、立正佼成会があるんだと、おまえたちは思っているのだろう」「しかし、それは大間違いだ。神さまがちゃんとつくった会だぞ。それを忘れちゃいかん」と神さまが言うわけなのです。 私どもにしますと、自分たちでつくった会のような気がいたします。しかし、そういう考えではいけない。神さまのご守護をいただくのには、神さまのおつくりになった会に、どのように仕えたら、そのみ心にかなうことができるのでしょうかと、こうした謙虚な気持ちでなければだめだと、強く言われるのです。 病気をされ、年をとられた妙佼先生は、神がかりになると、ひじょうに身体に無理がいくのです。五分もたったら、汗びっしょりになってしまいます。それも毎日のように神がかりになって、いろいろのお告げをするのですから、たいへんな体力の消耗です。 そのうえ、もともと胃が悪かったり、医者に見放されるような持病があったのです。食事はなんでもいただけるという人ではありません。そういう弱い身体で続けたのですから、身体にご無理があったのは当然です。 ところが、ご無理をしながら身体が丈夫になって、みなさんの陣頭指揮に立たれ、それこそ「われの後について来い」ということでした。神さまに仕えるのは、こういうふうにするのだ、ということを口で言わずに、後ろ姿で導いてこられた。そういう妙佼先生なのであります。 (昭和51年10月【求道】) 神々の降臨 三 妙佼先生は、微に入り細にわたって、ひじょうに頭の働いたかたであります。 ただたんに、霊感があって何か神秘的なことが現われるというようなかたは、数知れずございます。しかし、妙佼先生のように霊感がぴったりと現われ、しかも知的な問題を軽んじないという人は、まったくないといっていいほどであります。 知的な問題というのは、たとえば教学です。私の今日まで研究しましたいろいろな問題をお話ししますと、じつに謙虚な態度で聞かれ、一つ一つ敢然と守られたのであります。 (昭和33年01月【速記録】) 神々の降臨 四 重大な神示は、たいてい私に関することでしたが、なかでもいちばん重大だったと思われるのは、昭和十三年に「汝は法華経を世に弘める役をもってこの世に出たのである。今は他の書物を読むときではない。まず法華経だけに精通せよ」という神示です。新聞・雑誌にも目を通すことを禁じられたのです。 (昭和48年09月【佼成】) 神さまがご降臨になって、妙佼先生の口からこういうことを言われたのでございます。 「お前に法華経以外のものを読んではいけないといったのは、どんな文献を一生懸命読んで勉強しても、地球上開闢以来、かつてないことが起こってくるのだから、どんな文献にもない、想像だに及ばないことが出てくるのだから、そんなものは勉強する必要はないんだ。お前には神さまがついていて、ちゃんと指導するから、神の言うことを聞け。だれも聞かなくてもいいから、お前だけは聞け」 というわけなのです。私としてはどうしようもありません。神さまがご降臨になると、「みんな表へ出ろ」と、人払いになります。そうして私ひとりだけに、ああだ、こうだと言われるわけです。 (昭和41年03月【速記録】) みんなに聞かせなくてはならないことは、「みんなを集めてこい」と言われて、一同で聞くこともありましたが、大事なことになると人払いする、そういう状態でした。 (昭和54年02月【速記録】) 神々の降臨 五 神さまのご降臨が終わったあと、私は妙佼先生に徐々に人間的な話をし、「あなた、そうは言っても現実はそのとおりにはいかない。世間の人に、そんなことを言ったら、みんな疑惑を持ってしまうじゃないか」というふうに、いろいろ、こんこんと説くと、「会長の言うとおりだね」と、それには少しも逆らわないのです。 ところがいったん、神さまがご降臨になると、まったく人間が変わってしまうのです。それは妙佼先生が言っているのでなく、神さまがご降臨になって言っているのですから当然なことです。 ほうぼうの信者さんのところを歩いていると、中にはひじょうに勉強しているかたがあって、日蓮聖人の『立正安国論』にこういう言葉があるとか、『観心本尊鈔』や『報恩鈔』あるいは『撰時鈔』にこういうことがある──と、いろいろご妙判(ご遺文)にあることを言われます。 ところが、私は一度も見たことがない。いったい日蓮聖人は何を書いておられるのか、一度見たいものだと思うのですが、それができない。ご遺文にはふれないようにして、法華経の話だけにし、ただ現象界をとらえていろいろの話をしていたのですが、どうも自分としては安心できない気持ちでいたわけです。 そういう信者のところから帰ってきた夜は、床に入っても寝つかれないで、なんとかして日蓮聖人のご遺文を読んでみたい、と考えていたものでした。 つぎの朝、牛乳の配達に出て、お得意先を回って妙佼先生の家まで来ますと、妙佼先生は、私の顔を見るなり、「会長、またゆうべ妄想を描いたね」と、前の晩別れたときとはまるで違った怖い顔でにらみつけるのです。私のほうは、ご遺文のことを言っているのだな、と分かっているのですが、そ知らぬ顔で「何のことですか」と尋ねると「また日蓮聖人のご遺文を読もうと思ったでしょう」と言われてしまいます。 ──おかしいな。家内にも話をしたわけでもなければ、だれにも言っていないはずなのに──と思っていると、「ゆうべ神さまから、会長がまた妄想を描いている、とお知らせがあったよ。今そんなものを読む時期じゃない」といわれる。弱ったな、と思いながら「あなたは副会長だから、そんな無責任なことを言っているが、私はやせても枯れても会長だから、そうはいかない。あなたは私の陰に隠れて、会長の言うことは間違いない、などといっていればいいかもしれない。しかし、だんだんに、いろいろの人が入会をしてくると、そういう人をみんな説得するためには勉強もしないでいて、無責任なことはできない」と、理屈づめにしますと、「それじゃ、神さまにうかがってみるから……」と、ご宝前でおうかがいが始まる。そうすると、私は神さまに頭からどやされ、こっぱみじん、こてんこてんにやっつけられてしまうのです。 (昭和41年03月【速記録】) 神々の降臨 六 だが、私は、《法華経》の教えの本筋からはずれるような〈神示〉には、絶対に服さなかった。いわゆる〈教祖〉によくある「ぱっと新しい真理を悟った」というような啓示を通用させなかった。あくまでも《法華経》の教義が中心であり、霊能による啓示は、その教えの理解の助けになるようなものか、もしくはその教えをより偉大ならしめるようなものでなければ、承服しなかった。あくまでも〈法〉を尊んだ。〈法〉にはずれると判断したものは、〈神〉のお告げであろうが、絶対に受けつけなかった。 だから、〈神〉と論争したことが何十回あったかしれない。最高幹部一同も同席しているところで、妙佼先生に〈神〉が下がる。それがそうとう飛躍したことがらであっても、納得のゆくことなら、みんなに解説して聞かせる。 ところが、常識はずれの、とうてい納得のいかないことだと、それはだめです、とはっきり断わるのである。すると〈神〉は怒って、叱りつける。 「庭野、これを聞かないと、お前の身体はそのままにはしておかぬぞ」 と、言われたことさえある。私は、 「どうか命でも何でも取ってください。どうせ私の命は投げ出してあるのですから」 と、答えて、屈服しなかった。 私が今日まで健在でいるところをみると、私のほうが正しかったものとみえる。いや、私が正しかったのではない。〈法〉が厳然として正しかったのである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 神々の降臨 七 終戦の年の二月十五日、お釈迦さまの涅槃会の日に神さまがご降臨になって、この日に初めて「会長はいよいよ日蓮聖人のご遺文だけ読んでもいい」というお許しが出たのです。 それからご遺文を初めて拝読したわけですが、さあ、読み出すと、もう感激で、夜も寝つかれないほどでした。まったく、日蓮聖人は法華経を分かりやすく、しかも現実の世界に照らしてお説きになっている。お釈迦さまの本懐として示された法門を、今、脈々と生きている教えを、そして自分が悩み苦しんでどうにもならないジレンマに陥っていたそのすべてを、日蓮聖人はすでに明らかにしてお書きになっているのです。 私は幾晩も寝ずに読みふけったものです。それは文字どおり、跳び上がるほどの喜びで、私はまるで夢中でした。 (昭和41年03月【速記録】) 神々の降臨 八 当時は私どもはただ神示に従い信じてきただけでありますが、妙佼先生とともども修行してきた過去二十年のことを振り返ってみますると、法華経を拝読すればするほど、日蓮聖人のご遺文に接すれば接するほど、不思議なほどに立正佼成会は法華経の教えのとおりになり、むしろ法華経の本義を立正佼成会によって行じなければならないという確信がもてるのであります。 このようにすべて神示によるご指導に従い、いろいろの角度から一つ一つ修行を重ねてまいったのであります。 (昭和32年12月【佼成】)...
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...証明役として 一 妙佼先生は、長く病身で、また精神面の悩みがあり、明けても暮れてもせいせいした気持ちになれなかったかたです。それが、信仰の道に入り、一転して幸福になってみなさんの前に立ち現われたのです。 そして「私を手本にしなさい。この法華経を持った者はかくのごとく幸せになる。商売も繁盛する。病気も治って健康になる」と、事実を端的に示し、なんの意味も分からない者にも、法華経の功徳をみずから実証されたのであります。 ですから、私が法則を説き、妙佼先生が、みずから体験したことを力強くみなさんの前に証す。そういうことで立正佼成会の基礎ができたわけであります。 (昭和40年11月【速記録】) 証明役として 二 妙佼先生は「せっかく信仰するのだから、幸せになってもらわなければなりません。そのためには、私を手本にしなさい。手本にしなさいというと、さも私が偉そうに聞こえるかもしれませんが、そうではなくて、私はなんにも分からない人間だけれども、仏教というものを教えてもらい、そのとおりに修行をしたことによって、現在の私があるのです。ですから、みなさんが幸せになるのには、仏さまの教えをしっかりと実行することが第一でございます」と言っておられます。 (昭和50年10月【求道】) 妙佼先生は医者から「あまり無理せんほうがいいですよ。もう年をとっているんだから」と言われておりました。説法が終わって陰に入ると、疲れてしまい、フーフーいって横になり、身体を休めるような状態でした。 それでも妙佼先生は、私がいちばんいい証拠だ。こういう身体の弱い者が、こんなに幸せになっている事実を訴えて、みんなに幸せになってもらおう。私の体験によって悟ってもらおうと、そういう大慈大悲から説法をされたのです。 妙佼先生は、身体が弱っていても、みなさんにあれほどの叫びをしたわけです。 (昭和50年10月【求道】) 証明役として 三 法門がここに厳然とあるということを証明するために、妙佼先生は二十年余も寿命の増益をされ、その役を果たしてくださったのです。ですから、妙佼先生の修行はじつにきびしいものでありました。 (昭和45年09月【速記録】) 相手がどんなに学問のある、知識の深い人でも、仮借するところはありませんでした。昭和二十六年ごろのことでしょうか、こんなことがありました。 当時の身延支部長は、波木井山の住持で、身延山祖山専門学校の教授を十五年もされた岩田日成上人の奥さんでした。ご主人はたしか昭和二十三年に会の顧問になっておられたと思いますが、その偉い上人が、ある朝の夢に、まだ自分が学生の身で試験に苦しみ、ついに白紙の答案を出した──そんな光景を見た話をし、妙佼先生に結んでいただきたいと言われました。 すると妙佼先生は、 「そのとおりではないですか。今のあなたは学生でしょう。これまでは波木井山のご前さまだったか知らないが、立正佼成会の会員になったからには、会長先生の指導を受けて、立正佼成会の規範に乗らなければならないでしょう。ところが、まだ学生になりきれないでいる。それが現在のあなたの心境なんですよ。その夢は、高ぶった心を捨ててしまって、学生の心になりきれ、と仏さまが教えてくださったんですよ。人間はどこまでもバカになって、下がれるだけ下がっていなければいけませんよ」 と結ばれたのでした。 これには、そばにいた鴨宮さん(現・顧問)のほうが、冷たい水を頭から掛けられたようにゾーっとしてしまった──と述懐しています。 じつに妙佼先生は、公平無私な、そして心の誤りは正さなくてはおかぬという、不動明王的なきびしさを持った人でありました。 (昭和51年09月【佼成新聞】) 他に対してきびしかっただけではありません。ご自分に対してはもっともっと容赦がなかったのです。病気で寝込んだりされると、どんな心がけが原因だったのかと、あれこれ細かく反省され、全快されると必ず会員のみなさんの前で懺悔されました。 また、日常のホンの“ささいなこと”をも反省のよすがとされるのでした。 ある朝突然、こんなことを言い出されたことがあります。 「会長先生、私はお経をあげる資格がないのでしょうか。お経あげると痰がつまってお経があげられないんですよ。『提婆達多品』や『勧持品』や『懺悔経』をあげると、涙が出てお経が読めなくなるんです。何ごともないときはそんなことはないのですが、何かあるときには心にビンビンこたえて、泣けて泣けてしょうがないんです。どうしたわけでしょう」 あれほど修行を積んだかたが、「私はお経をあげる資格がないんでしょうか」という信仰者としての基底に迫る悲痛な反省をされるとは、なんたる純粋なおかたであろうか、と私は深く感激したものでした。 それだけに、日ごろの修行ぶりもじつに激しかったのです。重大な行事や神示を請われる前などは、真冬でも七日ないし二十一日も水をかぶり、夜遅くまで唱題・読経をされました。手どり、お導き、地方布教等々の活動は、立正佼成会創立以来、最後の床につかれるまで、ほとんど寧日もなく続けられました。(中略) 一時、白内障を患われ、失明寸前までいかれたことがありますが、だれにもそれを打ち明けず、勧請式とかご命日には必ず出席されました。三部経をあげるにしても、いつものようにお経本のページを繰りながら、スラスラとよどみなく読誦されますので、そばにいる私さえ、まさか文字が読めないほど目を患われているとは思いもしませんでした。 妙佼先生は、三部経を何千回、何万回となく読誦し、全巻の一字一字まですべて暗記しておられたのです。今も残っている妙佼先生のお経本は、ページ数の印刷してある箇所が手ずれと手あかでボロボロになっています。 妙佼先生が利他行とともに、いかに自行にも精進されていたかがマザマザとうかがわれるのです。 (昭和51年09月【佼成新聞】) 証明役として 四 妙佼先生が私どもに教えてくださったことの中で、いちばん大きなことは、徹底的に自分の心の中にあることをいっさい懺悔しなければ救われない、ということでした。経文にも「滅罪懺悔」とあり、罪をなくそうとするには、懺悔しなければならないということは教わっておりますが、妙佼先生はその真の懺悔を自分の身をもって、私どもに教えてくださった、とこう申し上げて過言ではないと思います。 (昭和33年03月【速記録】) 妙佼先生は国立東京第一病院に入院(昭和三十二年三月)当時、病魔に襲われ、毎日脂汗をかくような苦境におちいりました。やがてお山(妙佼先生の住居の呼び名)に帰られましてから、それまでの自分のわがままや、勝手なことを言ったことなど、過去、自分のしてきた一切のことについて根底から懺悔されました。それは、涙を流して子どものようになって、懺悔をされたのでした。 それから後はぜんぜん、苦しみがなくなり、大往生されるまでの二か月間というものは毎日、笑って暮らされたのです。病気の状態からすれば、だんだん苦しくなるのが当然なのですが、ぜんぜん苦しまれなくなりました。 これは、懺悔というものがいかに尊いものであるかということを、身をもって妙佼先生が最後に私どもに教えてくださったと思うのであります。 (昭和33年3月【速記録】) 証明役として 五 私は、立正佼成会発祥からこのかた二十数年来、苦しみも悲しみも、また喜びもともにしてきた過去を振り返ってみますると、妙佼先生がいかに反省懺悔に徹した真の仏道実践者であられたかということを、今さらのようにしみじみと思うのであります。そして自分を下げ人を立てることにいかに努められたかが分かるのであります。 法華経の「見宝塔品」というお経を拝読しますと、多宝如来が宝塔の中から大きな声で、お釈迦さまの説法を讃歎して、法華経の真実であることを証明したので、大衆はいずれも歎声をあげて礼拝した。 そこで大楽説菩薩はお釈迦さまに向かってそのわけを聞きますと、お釈迦さまは「塔の中におられる多宝如来は、宝浄という東方無量百千万億の彼方の国で、一つの願を立て、もし自分が成仏して後に、どこの国においても法華経を説く者があったならば、それを聞くために自分の舎利塔を出現して、法華経の真実を証明し讃歎しようと言われた」とお答えになった。 虚空会の説法が開始されたくだりでは「誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり。如来久しからずして当に涅槃に入るべし。仏、此の妙法華経を以て付属して在ることあらしめんと欲す」とあります。 私はこのお経を拝読しまして、また本会創立当時において、屡々神示によって得られた体験をもって、妙佼先生は“自分は真の法華経行者を育てるための、多宝如来のような陰のお役で、一仏乗の教えを証明する大きな使命を担わせていただくのだ”という意味のことをおっしゃったのを思い出すのであります。 (昭和32年10月【佼成】)...
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