それからお互いさまにご功徳をいただきたいという気持で──ご功徳をいただきたいというと、ちょっとけちくさいような気がして、何か新興宗教は功徳を売りものにしていると──こういうことを言う人がある。どうも功徳ということを口にすると、既成教団に軽蔑されることがあるんです。なかでも一番印象に残っておるのは、何といっても仏教の一番の都、京都の仏教会の人が新聞にまで出して軽蔑したことがある。それで私、京都で大会を開いて、わざとその書いた新聞社の社長を呼んできて、そこで説法をしたことがあるんです。その説法の中で、この以道受楽の意味を説いたわけですよ。道を得て、ちゃんと行じて、結果の出ないような宗教なら、そんなものは役に立たん宗教だとね。(拍手)
それはちゃんと二十八番のお経の中には「現の果報を得べし」とね。現世において、現の果報を得べしと──こう書いてあるんだ。功徳が出ないなんて、そんな宗教はつぶれてしまった方がいいと、こう言って私が京都で説法をしたところが、帰りに、その新聞社の社長はこたえたと見えまして、京都の駅まで送ってきて、そうして「いやぁ、きょうの説法は恐れ入りました。言われてみると確かにそうだ。現世利益を説く新興宗教は愚かなものだなんていう考えは、これは間違いでしたね」ということで、以来その新聞社の社長と仲良しになりました。
そういうことで、皆さんきょうは妙佼先生のご命日です。妙佼先生のあの、皆さんに救われてもらいたいというお気持──もう信仰に入った方はみんな救われて、ほんとうにおしあわせになってもらいたい──この気持が如来の室に入ってもらう所以なんです。
ですから、お導きのお子さんにほんとうに大慈大悲の気持で手取りをすれば、必ずその人がおしあわせになる。そうするとその方が如来の衣を着て、そこいらを歩いて、一生懸命で法を広めるようになります。
きょうは妙佼先生が亡くなられて、もう十九年ですか──妙佼先生はお医者さんに見放されたような弱い身体で、内臓はどこもいいところはなかったというような方です。お医者さまからは「あまり無理せん方がいいですよ。もう年とったんだから」と言われておった。あの録音はおそらく亡くなる一、二年前のものかと思うんであります。話が終わると、もう疲れてしまって、陰に入るとフーフー言って、横になって身体を休めるような状態であった。それでも──私が一番いい証拠だと、こういう身体の弱い者がこんなにしあわせになってるんだ。この事実をみんなに訴えて、そしてしあわせになってもらおう。みんなにこの体験によって悟ってもらおうと──そういう大慈大悲から、こういう説法をされた。身体がもう弱っておっても、皆さんにあれだけの叫びをしたわけです。