理屈では人は救われぬ
──すべての宗教に共通する点──本日は妙佼先生の十九回目の祥月命日を迎えまして、先ほどは妙佼先生のお説法の声も聞かせていただき、またただいまは、新宿教会長さんが、当時のことを話されました。もう三十七年も前のことを、また思い出したわけでございます。
佼成会をたてようという前、霊友会の当時から、新宿教会長さんのお母さんは、同じお医者さんに通う友だちであったそうです。
それと、いつかも申し上げましたように、豊島教会長さん──このお二人は霊友会のときにお導きをされて、佼成会にずっと移行したわけであります。でありまするから、一番妙佼先生の直接の導きでもあり、また三重野さんは向台というところのご近所に住んでいたわけでありまして、一番いろいろのことをたくさん聞いておるわけであります。
先ほど新宿教会長さんがお話になりましたように、三重野さんの家は大人ばかりで、親子三人ですから、妙佼先生のいろいろの指導が案外楽に受けられる境涯であったわけです。ですから、まあ雑誌を読んで、細切れのような説法をたくさんまとめて、りっぱな言葉をずっと並べることもできたし、いろいろぜいたくもできたわけであります。
ところが一方、豊島支部長さんの方は、後から後から、二、三年たつとお腹がふくれて、また子供が産まれたと。(笑声)産むのと手の少ないのと両方ですから、豊島さんの方はなかなか修行がたいへんでございました。変化が非常に多いわけであります。ですから非常にご苦労をされて、そしてまた遠方であるということであります。保谷まで距離が非常に離れておるんですから、遠方であったということです。そういうことで、同じ兄弟弟子でもご苦労の程度といったら、それは大変な差があったと思うんであります。
細谷さんはご承知のように、いまは細谷さんですが、三重野早苗というのですから、三重野でも陰陽に入った十五画の名前なんです。細谷さんにいっても同じことでありますが、十五画の名前の人を皆さんごらんになっていただけば分りますように、私はよく「大ばさみであろうが、まき直しであろうが、十五画という名前はとにかく腐っても鯛だ」と、そういう悪口を言っておるわけです。十五画の名前をもっておれば、いろいろのことが自分の意のごとくになるという、そういう天性をもって、生まれながらに非常に得に生まれておるわけなんです。ですからどうしても、わがままが出てしまう。理屈では人は救われぬ
──すべての宗教に共通する点──本日は妙佼先生の十九回目の祥月命日を迎えまして、先ほどは妙佼先生のお説法の声も聞かせていただき、またただいまは、新宿教会長さんが、当時のことを話されました。もう三十七年も前のことを、また思い出したわけでございます。
佼成会をたてようという前、霊友会の当時から、新宿教会長さんのお母さんは、同じお医者さんに通う友だちであったそうです。
それと、いつかも申し上げましたように、豊島教会長さん──このお二人は霊友会のときにお導きをされて、佼成会にずっと移行したわけであります。でありまするから、一番妙佼先生の直接の導きでもあり、また三重野さんは向台というところのご近所に住んでいたわけでありまして、一番いろいろのことをたくさん聞いておるわけであります。
先ほど新宿教会長さんがお話になりましたように、三重野さんの家は大人ばかりで、親子三人ですから、妙佼先生のいろいろの指導が案外楽に受けられる境涯であったわけです。ですから、まあ雑誌を読んで、細切れのような説法をたくさんまとめて、りっぱな言葉をずっと並べることもできたし、いろいろぜいたくもできたわけであります。
ところが一方、豊島支部長さんの方は、後から後から、二、三年たつとお腹がふくれて、また子供が産まれたと。(笑声)産むのと手の少ないのと両方ですから、豊島さんの方はなかなか修行がたいへんでございました。変化が非常に多いわけであります。ですから非常にご苦労をされて、そしてまた遠方であるということであります。保谷まで距離が非常に離れておるんですから、遠方であったということです。そういうことで、同じ兄弟弟子でもご苦労の程度といったら、それは大変な差があったと思うんであります。
細谷さんはご承知のように、いまは細谷さんですが、三重野早苗というのですから、三重野でも陰陽に入った十五画の名前なんです。細谷さんにいっても同じことでありますが、十五画の名前の人を皆さんごらんになっていただけば分りますように、私はよく「大ばさみであろうが、まき直しであろうが、十五画という名前はとにかく腐っても鯛だ」と、そういう悪口を言っておるわけです。十五画の名前をもっておれば、いろいろのことが自分の意のごとくになるという、そういう天性をもって、生まれながらに非常に得に生まれておるわけなんです。ですからどうしても、わがままが出てしまう。先ほどのお話のように、廊下へうじ虫が出てくるというような、まことにきれい好きな人のところへうじ虫が出てくるんですから、皮肉な話ですけれども、仏さまの方からごらんになると、そういうしあわせな人には、なかなかほんとうのことが悟れないわけであります。ですから意地悪く、どこから出てきたのか知りませんが、一週間に一度ずつ大掃除をするというようなご家庭に、出る必要もなさそうなものが出てくる。そういう不思議があったわけであります。
佼成会の創立当時は、先ほど妙佼先生も「お前たちは自分で勝手に姓名学上の名前をつけて、そして会を発会したと思ってるだろうが、神さまがつくった会なんだよ」と、こういうことをおっしゃっている。いつも、こういう調子で、神さまのご降臨になられたときに言われたことであります。
私がいつも、三月の創立記念日になると、宗教の創立の意義というものを考えなければいけない──「創立の意義」。たとえば仏教というものが生まれたという意義、キリスト教が生まれたという意義ですね。そういうことをよく考えてみようと思うと、われわれの佼成会もそこに誕生したという、創立をしたという意義がなくてはならんわけなんです。そこのところをはっきりしませんと、何ということもなく、ただごちゃごちゃやっておるだけということになるわけです。これではいかんのじゃないかと思うのであります。
妙佼先生が亡くなられて、もう十九年でありますが、神さまがご降臨になってのご指導ということになりますと、もう三十七、八年たつ。その年月の中でだんだんと創立当初の神さまのご指導、ご神示にあらわれた言葉が一つ一つ実現しているわけです。
先ほど妙佼先生がいわれたことですが、これは、はからずも先般私がカナダへ参りまして、私どもが仲間に入っております、国際自由宗教連盟(IARF)の総会があった──大会というのが三年に一度ずつあるわけなんです──ちょうど六年前の京都会議の前の年に、準備会で私がニューヨークへ参りまして、そしてボストンにおいて、その大会のあるところへお招きをいただいた。私がそこへ行きますと、「君は、このIARFの趣旨に同じ考えであるから、とにかく入会しなさい。」というので強引に入会させられたわけなんです。
その入会させられるときに、どうして入会させられたかを考えてみますと、それはある意味では、皆さんの前でお説法もいただいたことのある、今岡信一良さんという大先輩、九十二歳ですが、この先生が日本にいらっしゃる。この先生が私に、もう十年も前にそういうことについてのお話があったのです。
しかしその頃は、自分の教団というものが、まだ世界というようなところで──まあ神さまは世界万国に弘まるなんておっしゃっても、自分自体がまだ十分でありませんので、そういうことを考える余裕もなく、ただ毎日を送っておったわけであります。先ほどのお話のように、廊下へうじ虫が出てくるというような、まことにきれい好きな人のところへうじ虫が出てくるんですから、皮肉な話ですけれども、仏さまの方からごらんになると、そういうしあわせな人には、なかなかほんとうのことが悟れないわけであります。ですから意地悪く、どこから出てきたのか知りませんが、一週間に一度ずつ大掃除をするというようなご家庭に、出る必要もなさそうなものが出てくる。そういう不思議があったわけであります。
佼成会の創立当時は、先ほど妙佼先生も「お前たちは自分で勝手に姓名学上の名前をつけて、そして会を発会したと思ってるだろうが、神さまがつくった会なんだよ」と、こういうことをおっしゃっている。いつも、こういう調子で、神さまのご降臨になられたときに言われたことであります。
私がいつも、三月の創立記念日になると、宗教の創立の意義というものを考えなければいけない──「創立の意義」。たとえば仏教というものが生まれたという意義、キリスト教が生まれたという意義ですね。そういうことをよく考えてみようと思うと、われわれの佼成会もそこに誕生したという、創立をしたという意義がなくてはならんわけなんです。そこのところをはっきりしませんと、何ということもなく、ただごちゃごちゃやっておるだけということになるわけです。これではいかんのじゃないかと思うのであります。
妙佼先生が亡くなられて、もう十九年でありますが、神さまがご降臨になってのご指導ということになりますと、もう三十七、八年たつ。その年月の中でだんだんと創立当初の神さまのご指導、ご神示にあらわれた言葉が一つ一つ実現しているわけです。
先ほど妙佼先生がいわれたことですが、これは、はからずも先般私がカナダへ参りまして、私どもが仲間に入っております、国際自由宗教連盟(IARF)の総会があった──大会というのが三年に一度ずつあるわけなんです──ちょうど六年前の京都会議の前の年に、準備会で私がニューヨークへ参りまして、そしてボストンにおいて、その大会のあるところへお招きをいただいた。私がそこへ行きますと、「君は、このIARFの趣旨に同じ考えであるから、とにかく入会しなさい。」というので強引に入会させられたわけなんです。
その入会させられるときに、どうして入会させられたかを考えてみますと、それはある意味では、皆さんの前でお説法もいただいたことのある、今岡信一良さんという大先輩、九十二歳ですが、この先生が日本にいらっしゃる。この先生が私に、もう十年も前にそういうことについてのお話があったのです。
しかしその頃は、自分の教団というものが、まだ世界というようなところで──まあ神さまは世界万国に弘まるなんておっしゃっても、自分自体がまだ十分でありませんので、そういうことを考える余裕もなく、ただ毎日を送っておったわけであります。ところがたまたま、そのIARFの仲間に、大会に呼び出されて、入会をしろということですから「まあ入会しましょうということで、入会を約束いたしました。これは二千人集まっておったのでありますが、ボストンで大会にお招きをいただいて、皆さんに入会を許したという報告がありました。入会を許されると同時に、その紹介がまたふるっているんですね。いままでIARFの六十何年の歴史のなかで、これだけの大教団が入ったことは初めてなんだと──第二十回です。六十何年の歴史の中で、三年に一度ずつ二十回目の大会だったわけです──その大会に、この中で一番大きな教団が入ってきた。それが立正佼成会だと。こういう紹介を受けたのであります。私はキリスト教の方々は、非常に立派な人が来ているわけで、総員で二千人も集まっておったわけですから、その中で一番大きな教団といわれても、ちょっと何ですか拍子抜けをしたような感じで入会をしたわけであります。
それから六年間、その間に一回あって、今度は二回目の大会があったわけであります。そして第一回目のその明くる年が一九七〇年になりますから、京都会議と、さらに七四年にルーベンの会議と、この二回の会議を通じて、向こうの方がずーっと佼成会の動きをごらんになっていた。そして、これは会が大きいだけではなくて、本当に神さまのみ心を体してやっている教団だということを、国際自由宗教の皆さんがごらんになって、このような考えになったのであります。
そして今度の会議では、冒頭から佼成会の会長にあいさつをしろというようなことで、私が仲間入りの一番新米なんですから、まことにどうも申しわけありませんねというので、私は恐縮しながらごあいさつを申し上げるということになったわけです。
会議に入りますと、まるで佼成会オンリーになってしまって、「法座をひらいて欲しい」ということで、佼成会の法座をその中でひらいたわけです。その法座の中では──もう少し分りやすく話をしなければならんのですけれど──やっぱり学林の生徒が中心になった法座ですから、中ででる問題が、きょうの妙佼先生のお話に比べると、たいへんに理論的にうまく組み立てられて、つくった法座だから、なかなか上手にできておりますけれども、ほんとうにそこで即座に救われるかというと、これはちょっと不可能ですね。その中では、非常に上手に、社会問題やいろいろのことを討議して、取り上げておりますから、耳ざわりはよろしいんです。ところがたまたま、そのIARFの仲間に、大会に呼び出されて、入会をしろということですから「まあ入会しましょうということで、入会を約束いたしました。これは二千人集まっておったのでありますが、ボストンで大会にお招きをいただいて、皆さんに入会を許したという報告がありました。入会を許されると同時に、その紹介がまたふるっているんですね。いままでIARFの六十何年の歴史のなかで、これだけの大教団が入ったことは初めてなんだと──第二十回です。六十何年の歴史の中で、三年に一度ずつ二十回目の大会だったわけです──その大会に、この中で一番大きな教団が入ってきた。それが立正佼成会だと。こういう紹介を受けたのであります。私はキリスト教の方々は、非常に立派な人が来ているわけで、総員で二千人も集まっておったわけですから、その中で一番大きな教団といわれても、ちょっと何ですか拍子抜けをしたような感じで入会をしたわけであります。
それから六年間、その間に一回あって、今度は二回目の大会があったわけであります。そして第一回目のその明くる年が一九七〇年になりますから、京都会議と、さらに七四年にルーベンの会議と、この二回の会議を通じて、向こうの方がずーっと佼成会の動きをごらんになっていた。そして、これは会が大きいだけではなくて、本当に神さまのみ心を体してやっている教団だということを、国際自由宗教の皆さんがごらんになって、このような考えになったのであります。
そして今度の会議では、冒頭から佼成会の会長にあいさつをしろというようなことで、私が仲間入りの一番新米なんですから、まことにどうも申しわけありませんねというので、私は恐縮しながらごあいさつを申し上げるということになったわけです。
会議に入りますと、まるで佼成会オンリーになってしまって、「法座をひらいて欲しい」ということで、佼成会の法座をその中でひらいたわけです。その法座の中では──もう少し分りやすく話をしなければならんのですけれど──やっぱり学林の生徒が中心になった法座ですから、中ででる問題が、きょうの妙佼先生のお話に比べると、たいへんに理論的にうまく組み立てられて、つくった法座だから、なかなか上手にできておりますけれども、ほんとうにそこで即座に救われるかというと、これはちょっと不可能ですね。その中では、非常に上手に、社会問題やいろいろのことを討議して、取り上げておりますから、耳ざわりはよろしいんです。ところが先ほど妙佼先生のあのお言葉を聞いて、私ハッと思ったのですが、それは──皆さんがせっかく信仰するんだから、しあわせになってもらわなければならない。そのためには、私を手本にしなさい。しかし、手本にしろというと、私がさも偉そうに聞えるかもしれませんが、そうではなくて、私は何にも分らない人間だけれども、仏教というものを教えてもらって、そのとおりに修行をしたことによって、私はこうなっておるのでございます。皆さんが信仰して、しあわせになるのには、仏さまの教えというものをちゃんと実行することが第一なんだと──こういうふうに、先生がちゃんと言っております。
その点、どうもあの宗教、この宗教と、国際宗教ということですから、いろいろな宗教が混っておりますが、どうもその点がぴしっといかんわけですね。ですから、宗教はたくさんあって、立派な人は大ぜいいるんですけれども、なかなかこの……何といいますか、ピーンとこう筋の通ったところがないという気がするわけであります。ところが先ほど妙佼先生のあのお言葉を聞いて、私ハッと思ったのですが、それは──皆さんがせっかく信仰するんだから、しあわせになってもらわなければならない。そのためには、私を手本にしなさい。しかし、手本にしろというと、私がさも偉そうに聞えるかもしれませんが、そうではなくて、私は何にも分らない人間だけれども、仏教というものを教えてもらって、そのとおりに修行をしたことによって、私はこうなっておるのでございます。皆さんが信仰して、しあわせになるのには、仏さまの教えというものをちゃんと実行することが第一なんだと──こういうふうに、先生がちゃんと言っております。
その点、どうもあの宗教、この宗教と、国際宗教ということですから、いろいろな宗教が混っておりますが、どうもその点がぴしっといかんわけですね。ですから、宗教はたくさんあって、立派な人は大ぜいいるんですけれども、なかなかこの……何といいますか、ピーンとこう筋の通ったところがないという気がするわけであります。仏教のカナメ
私がたまたま、その法座をひらいたあとで、学林生や皆さんとお夕飯を一緒に食べて、皆さんにごちそうしたわけです。講評しようということで、皆さんを集めてお夕飯を一緒に食べたわけです。
前の晩に、どうも時差の関係で神経がいら立っているせいか、ちょっと一眠りすると、朝の三時ごろ目が覚めちゃって眠れないわけです。きょうはこういうことで、ああいうことでと順々に一日を忙しくまわっておる。そういうことで三時頃目を覚まして、どんなふうに説明したら、この留学したり、また日本から来た学林生などに、法座の効果というものを、すぐ端的に分るように、また自分も認識ができて、人にも説明ができるようにするには、どんなことを言ったらいいかと思って、私はもうその朝の三時頃から考えていたんです。
そして朝大急ぎで書いて、みんなに──君たち、キリスト教の方がこんなに一生懸命で、仏教を学ぼうとしているのに、仏教とはどういうもんだということを、ズバリ一口で分るように言わんことには意味がないと──そのためには、ひとつこれを君たちよく分るように説明しろ。仏教語で言えばこういうことなんだよということで、ちょっと八つばかりの項目を書いて、そして渡して、説明をして、こういう方法で説けということを申し入れたのです。それはこういうことです──。
私どもは何の気なしにやってるんですけれども──私もあまり今までこういうことを言わなかったのですけれども──「万教同根」ということを、まずはっきりと意識しなさい。
そしてきょうは、ちょうど妙佼先生がはからずも言われた。それは「以道受楽」ということなんです。道を以って楽を受ける──仏教というものを行ずることによって、自分がしあわせをいただけるんです。この仏道は聞いていい話で、それに加えて自分でいろいろと、雑誌や何かに出ていたいい言葉をくっつけて、それで立派な言葉にして話をしても、それでは救われないんだ。道を行ずるか、行じないか──自分がほんとうに道にはまって、仏道のとおりに行じて、はじめて楽をいただける。だから「以道受楽」ということなんです。こういうことを、私は学林生に言って聞かせたのです。
中国へ行ったら、同じことをいっていたんです──「国土荘厳」と──国がきれいになる。これは、みんながちゃんと道を行ずれば、その国はきれいになります。そして国土荘厳のところには「衆生利益」──一切衆生がみんな利益をいただけるわけです。国土をきれいにし、正しい行いを行じていくと、こうやれば衆生利益、ちゃんと国土荘厳はお経にも出ておりますが、皆さんが毎日、会員綱領で唱えている「寂光土の建設」──菩薩道を行じて、寂光土を建設するという──世界平和境の建設ということをいっているわけです。仏教のカナメ
私がたまたま、その法座をひらいたあとで、学林生や皆さんとお夕飯を一緒に食べて、皆さんにごちそうしたわけです。講評しようということで、皆さんを集めてお夕飯を一緒に食べたわけです。
前の晩に、どうも時差の関係で神経がいら立っているせいか、ちょっと一眠りすると、朝の三時ごろ目が覚めちゃって眠れないわけです。きょうはこういうことで、ああいうことでと順々に一日を忙しくまわっておる。そういうことで三時頃目を覚まして、どんなふうに説明したら、この留学したり、また日本から来た学林生などに、法座の効果というものを、すぐ端的に分るように、また自分も認識ができて、人にも説明ができるようにするには、どんなことを言ったらいいかと思って、私はもうその朝の三時頃から考えていたんです。
そして朝大急ぎで書いて、みんなに──君たち、キリスト教の方がこんなに一生懸命で、仏教を学ぼうとしているのに、仏教とはどういうもんだということを、ズバリ一口で分るように言わんことには意味がないと──そのためには、ひとつこれを君たちよく分るように説明しろ。仏教語で言えばこういうことなんだよということで、ちょっと八つばかりの項目を書いて、そして渡して、説明をして、こういう方法で説けということを申し入れたのです。それはこういうことです──。
私どもは何の気なしにやってるんですけれども──私もあまり今までこういうことを言わなかったのですけれども──「万教同根」ということを、まずはっきりと意識しなさい。
そしてきょうは、ちょうど妙佼先生がはからずも言われた。それは「以道受楽」ということなんです。道を以って楽を受ける──仏教というものを行ずることによって、自分がしあわせをいただけるんです。この仏道は聞いていい話で、それに加えて自分でいろいろと、雑誌や何かに出ていたいい言葉をくっつけて、それで立派な言葉にして話をしても、それでは救われないんだ。道を行ずるか、行じないか──自分がほんとうに道にはまって、仏道のとおりに行じて、はじめて楽をいただける。だから「以道受楽」ということなんです。こういうことを、私は学林生に言って聞かせたのです。
中国へ行ったら、同じことをいっていたんです──「国土荘厳」と──国がきれいになる。これは、みんながちゃんと道を行ずれば、その国はきれいになります。そして国土荘厳のところには「衆生利益」──一切衆生がみんな利益をいただけるわけです。国土をきれいにし、正しい行いを行じていくと、こうやれば衆生利益、ちゃんと国土荘厳はお経にも出ておりますが、皆さんが毎日、会員綱領で唱えている「寂光土の建設」──菩薩道を行じて、寂光土を建設するという──世界平和境の建設ということをいっているわけです。これが全部その線で「万教同根」、「以道受楽」ということから出てくるご利益として、国土が荘厳になり、衆生利益になる。それをことしのスローガンにもってくると「平等大慧」であって「仏性開顕」ということになる。「平等大慧、教菩薩法、仏所護念と名付くるを説きたもう」ということが、見宝塔品第十一にありますが、平等ということは、ミソもクソも平等というのではなくて、平等であるから差別がある。その人の因縁所生という実相によって平等なんです。ですから悪いことをしても平等、いいことをしても平等、そんなことはないんです。「以道受楽」という、このなかには「善因は善果、悪因は悪果」ということがちゃんと出ている。それをちゃんとしたのが「平等大慧」ということなんです。
そしてことし「仏性開顕」ということをいったのは、いま私が思いついて、今年「仏性開顕」の年としたなんて思っていると、何か佼成会に入ったために、よけいなことを考えなければならないと思う向きもある。そうじゃない。これはお釈迦さまが「一切衆生悉有仏性」で、みんな仏性をもっているとおっしゃっておる。そしたら「仏の子である」という自覚にたたなければ、この「以道受楽」も成り立たないわけです。ほんとうに修行しなきゃならんということは、仏さまの仰せの如くで、過去・現在・未来を通じたわれわれの深い因縁によって、平等に、自分にいろいろの問題が出てきておるわけなんです。
しかし、仏さまの方からごらんになると、一切衆生をみんな仏の子である。仏性をみんなもっていると、こういっておるんだから、この「仏性開顕」という仏さまの言葉を、われわれが仏教徒であるならば、いまはっきりと意識して、仏性を開顕しなければならん。こういうことをいっているのであります。
ですから、よその教団の人に分らせるためには、この八項目──「万教同根」・「以道受楽」・「国土荘厳」・「衆生利益」・「平等大慧」・「仏性開顕」、そして仏さまの言葉を借りれば「一切衆生悉有仏性」と──こうすると、もうこれで佼成会の教えの基本が全部含まれていることになる。
君たち、これを英語に直して、外国の人がちゃんと認識できるように説明しなさい。わざわざシカゴまで来て、神学校へ行って勉強しているのは、博士号をとるというだけが道じゃなくて、問題はこのことをみんなに分るように説明するために、君たちは勉強してるんだぞと──こう学林生に言って聞かせたわけです。
みんな分ったような顔をしていましたけれども、分ったのか分らないのか、これは後になって、数字によってあらわれてくる。まあこれははっきりしたことだから、よく分っていただけたと思います。これが全部その線で「万教同根」、「以道受楽」ということから出てくるご利益として、国土が荘厳になり、衆生利益になる。それをことしのスローガンにもってくると「平等大慧」であって「仏性開顕」ということになる。「平等大慧、教菩薩法、仏所護念と名付くるを説きたもう」ということが、見宝塔品第十一にありますが、平等ということは、ミソもクソも平等というのではなくて、平等であるから差別がある。その人の因縁所生という実相によって平等なんです。ですから悪いことをしても平等、いいことをしても平等、そんなことはないんです。「以道受楽」という、このなかには「善因は善果、悪因は悪果」ということがちゃんと出ている。それをちゃんとしたのが「平等大慧」ということなんです。
そしてことし「仏性開顕」ということをいったのは、いま私が思いついて、今年「仏性開顕」の年としたなんて思っていると、何か佼成会に入ったために、よけいなことを考えなければならないと思う向きもある。そうじゃない。これはお釈迦さまが「一切衆生悉有仏性」で、みんな仏性をもっているとおっしゃっておる。そしたら「仏の子である」という自覚にたたなければ、この「以道受楽」も成り立たないわけです。ほんとうに修行しなきゃならんということは、仏さまの仰せの如くで、過去・現在・未来を通じたわれわれの深い因縁によって、平等に、自分にいろいろの問題が出てきておるわけなんです。
しかし、仏さまの方からごらんになると、一切衆生をみんな仏の子である。仏性をみんなもっていると、こういっておるんだから、この「仏性開顕」という仏さまの言葉を、われわれが仏教徒であるならば、いまはっきりと意識して、仏性を開顕しなければならん。こういうことをいっているのであります。
ですから、よその教団の人に分らせるためには、この八項目──「万教同根」・「以道受楽」・「国土荘厳」・「衆生利益」・「平等大慧」・「仏性開顕」、そして仏さまの言葉を借りれば「一切衆生悉有仏性」と──こうすると、もうこれで佼成会の教えの基本が全部含まれていることになる。
君たち、これを英語に直して、外国の人がちゃんと認識できるように説明しなさい。わざわざシカゴまで来て、神学校へ行って勉強しているのは、博士号をとるというだけが道じゃなくて、問題はこのことをみんなに分るように説明するために、君たちは勉強してるんだぞと──こう学林生に言って聞かせたわけです。
みんな分ったような顔をしていましたけれども、分ったのか分らないのか、これは後になって、数字によってあらわれてくる。まあこれははっきりしたことだから、よく分っていただけたと思います。弘法の三軌
これを今度は、広めるためにはどうするかというと、これがまた不思議に私が話したことを、先般入神式の時に、うちの伜が一生懸命で「弘法の三軌」をしゃべってました。ああやっぱり……でも、あんなこと分ってきたのかなあと思って、私は聞いたんです。これはお経に書いてあるわけですけれども、基本の「万教同根」「以道受楽」によって、国土は荘厳となり、衆生に利益を与える。すべての人には平等で、善因は善果、悪因は悪果である。こういうことが分って、さてそれでは、それをどのような心構えで広めていったらいいのかということになる。そうすると広めるのには三つの軌道がある。「弘法の三軌」といって法を広めるための三つの道がある。
第一番目は──妙佼先生の一生を書いた「慈悲の生涯」という本があります、あの中を読んでみると、まったく「如来の室」に入らなければ、仏さまの教えの中に入ってしまわなければだめなんです。「如来の室に入る」というのはどういうことかというと、「大慈悲心これなり」。大慈悲心がなければだめなんだ。これは理屈をいくら並べてもだめなんですね。人をみんな同じように救ってやろうという大慈大悲の気持にならないと、これはどうにもならんことなんです。
第二番目は何かというと、「如来の衣を着る」ということで、その衣は何かというと、フワフワした黄色い衣……それじゃないんですね。衣というのは「柔和忍辱の心是れなり」で、人さまにイヤな顔して、苦虫嚙みつぶしたような顔をして法を説いていたんじゃ、人は喜んで入らないんだ。どなたが見ても、あの人はほんとうに柔い感じ、ほのぼのとするような、心の暖い人らしい顔をしてなさる。これはやっぱり、心があらわれるんですから、どうにもしょうがありませんね。どんなうまいことを言ったって、腹の中に一物あると、やっぱり顔にあらわれてしまう。
ですから心がほんとうに柔和の気持になって、どんなつらいことでも忍んでいくという、その人が救われるまで慈悲をかけるという忍辱心、この柔和忍辱の心がないと、如来の衣を着たことにはならないというわけなんです。
あの人は佼成会員だな、ずいぶん親切な人だ──と見えるのは柔和忍辱の衣を着て、私たちがこう一致したから、国際宗教の中で認められて、皆さんが佼成会の教えを聞きたいと、そういう気持になったわけです。弘法の三軌
これを今度は、広めるためにはどうするかというと、これがまた不思議に私が話したことを、先般入神式の時に、うちの伜が一生懸命で「弘法の三軌」をしゃべってました。ああやっぱり……でも、あんなこと分ってきたのかなあと思って、私は聞いたんです。これはお経に書いてあるわけですけれども、基本の「万教同根」「以道受楽」によって、国土は荘厳となり、衆生に利益を与える。すべての人には平等で、善因は善果、悪因は悪果である。こういうことが分って、さてそれでは、それをどのような心構えで広めていったらいいのかということになる。そうすると広めるのには三つの軌道がある。「弘法の三軌」といって法を広めるための三つの道がある。
第一番目は──妙佼先生の一生を書いた「慈悲の生涯」という本があります、あの中を読んでみると、まったく「如来の室」に入らなければ、仏さまの教えの中に入ってしまわなければだめなんです。「如来の室に入る」というのはどういうことかというと、「大慈悲心これなり」。大慈悲心がなければだめなんだ。これは理屈をいくら並べてもだめなんですね。人をみんな同じように救ってやろうという大慈大悲の気持にならないと、これはどうにもならんことなんです。
第二番目は何かというと、「如来の衣を着る」ということで、その衣は何かというと、フワフワした黄色い衣……それじゃないんですね。衣というのは「柔和忍辱の心是れなり」で、人さまにイヤな顔して、苦虫嚙みつぶしたような顔をして法を説いていたんじゃ、人は喜んで入らないんだ。どなたが見ても、あの人はほんとうに柔い感じ、ほのぼのとするような、心の暖い人らしい顔をしてなさる。これはやっぱり、心があらわれるんですから、どうにもしょうがありませんね。どんなうまいことを言ったって、腹の中に一物あると、やっぱり顔にあらわれてしまう。
ですから心がほんとうに柔和の気持になって、どんなつらいことでも忍んでいくという、その人が救われるまで慈悲をかけるという忍辱心、この柔和忍辱の心がないと、如来の衣を着たことにはならないというわけなんです。
あの人は佼成会員だな、ずいぶん親切な人だ──と見えるのは柔和忍辱の衣を着て、私たちがこう一致したから、国際宗教の中で認められて、皆さんが佼成会の教えを聞きたいと、そういう気持になったわけです。そこまできたら、今度は「如来の座」に座さなくちゃならない、これからが問題なんです。「諸法空を座とする」──一切諸法皆空であるという──この精神があれば、また本に返って「万教同根」ということの成り立ちの本は「一切皆空」の思想からこなければ、これはとてもほんとうにはいかんのです。あれはあの法、これはこの法、こっちの方は神秘的で、えらい救いがあるとか、いやこっちの方は理論的だけれども救いがないとか、こういう差別をしているんではだめなんですね。根本は一切皆空の思想から出て、万教は同根であると──こういう考え方になるのが、一切法空是れなりという、三軌の一番の決め手はそこなんです。
人間というものは、みな平等に生まれているんだという、そこから出発しないとうまくいかんわけです。妙佼先生のきょうの録音構成を伺っていると、そのことを三十七年前にもうちゃんとすべて言っているわけなんです。
いろいろの言葉でいっているけれども、「以道受楽」ということも、法華経の中では、薬草諭品の中にあるんです。ですから道を以って行ずれば、草木が分に応じた功徳をいただけるように、仏さまのご功徳は誰にもみんな満足するだけいただけるのです。仏さまの方では、あんたのところは少ししか慈悲をやらんよなんて、そんなことはしない。みんなに──大雲の雨をもって草木を潤すごとくに──仏さまの方からは慈悲をどんどん降らしているんだけれども、こちらの方がそれを受ける態勢になっているかいないかということは、われわれが、道を歩んでいるかいないかということなんだと──こうお経にちゃんと書いてあるんですから、これはどうしようもないわけなんですね。佼成会の規範は法華経によってあるわけだから、法華経を行ずる者の願いのかなわぬことはないといってもいいほど、何ごとでもちゃんと出てくるわけなんです。
ですから救われてもらいたいという大慈大悲の気持で、如来の室に入れる。佼成会の信者にしてしまう。佼成会の信者にならない人にも同じように慈悲をかけるんですけれども、とかく放しておくと、どうもうまくいかんのですね。さっき申し上げた三重野さんと、豊島の保谷さんですね。あのお二人さんだって、かまわんでおけばいまどんなふうになっているか分りゃせんのだ。(笑声)しかし、如来の室に入って、もう何とかかんとか、だましたりすかしたり、おどかしたりしてね(笑声)それで引っぱってきたもんだから、いまは立派な教会長さんになっているんですね。
あんな人がどこから生まれたかと思って、親の顔を見たくなるような思いがする人もあると思うんです。けれども、親から生まれたままでは、ああいうふうにはならないんだね。やっぱり如来の室に入れて、そして柔和忍辱の衣を着せて、諸法空の法の座にいるから、値打ちがあって、きれいに見えるんですよ。そこまできたら、今度は「如来の座」に座さなくちゃならない、これからが問題なんです。「諸法空を座とする」──一切諸法皆空であるという──この精神があれば、また本に返って「万教同根」ということの成り立ちの本は「一切皆空」の思想からこなければ、これはとてもほんとうにはいかんのです。あれはあの法、これはこの法、こっちの方は神秘的で、えらい救いがあるとか、いやこっちの方は理論的だけれども救いがないとか、こういう差別をしているんではだめなんですね。根本は一切皆空の思想から出て、万教は同根であると──こういう考え方になるのが、一切法空是れなりという、三軌の一番の決め手はそこなんです。
人間というものは、みな平等に生まれているんだという、そこから出発しないとうまくいかんわけです。妙佼先生のきょうの録音構成を伺っていると、そのことを三十七年前にもうちゃんとすべて言っているわけなんです。
いろいろの言葉でいっているけれども、「以道受楽」ということも、法華経の中では、薬草諭品の中にあるんです。ですから道を以って行ずれば、草木が分に応じた功徳をいただけるように、仏さまのご功徳は誰にもみんな満足するだけいただけるのです。仏さまの方では、あんたのところは少ししか慈悲をやらんよなんて、そんなことはしない。みんなに──大雲の雨をもって草木を潤すごとくに──仏さまの方からは慈悲をどんどん降らしているんだけれども、こちらの方がそれを受ける態勢になっているかいないかということは、われわれが、道を歩んでいるかいないかということなんだと──こうお経にちゃんと書いてあるんですから、これはどうしようもないわけなんですね。佼成会の規範は法華経によってあるわけだから、法華経を行ずる者の願いのかなわぬことはないといってもいいほど、何ごとでもちゃんと出てくるわけなんです。
ですから救われてもらいたいという大慈大悲の気持で、如来の室に入れる。佼成会の信者にしてしまう。佼成会の信者にならない人にも同じように慈悲をかけるんですけれども、とかく放しておくと、どうもうまくいかんのですね。さっき申し上げた三重野さんと、豊島の保谷さんですね。あのお二人さんだって、かまわんでおけばいまどんなふうになっているか分りゃせんのだ。(笑声)しかし、如来の室に入って、もう何とかかんとか、だましたりすかしたり、おどかしたりしてね(笑声)それで引っぱってきたもんだから、いまは立派な教会長さんになっているんですね。
あんな人がどこから生まれたかと思って、親の顔を見たくなるような思いがする人もあると思うんです。けれども、親から生まれたままでは、ああいうふうにはならないんだね。やっぱり如来の室に入れて、そして柔和忍辱の衣を着せて、諸法空の法の座にいるから、値打ちがあって、きれいに見えるんですよ。それからお互いさまにご功徳をいただきたいという気持で──ご功徳をいただきたいというと、ちょっとけちくさいような気がして、何か新興宗教は功徳を売りものにしていると──こういうことを言う人がある。どうも功徳ということを口にすると、既成教団に軽蔑されることがあるんです。なかでも一番印象に残っておるのは、何といっても仏教の一番の都、京都の仏教会の人が新聞にまで出して軽蔑したことがある。それで私、京都で大会を開いて、わざとその書いた新聞社の社長を呼んできて、そこで説法をしたことがあるんです。その説法の中で、この以道受楽の意味を説いたわけですよ。道を得て、ちゃんと行じて、結果の出ないような宗教なら、そんなものは役に立たん宗教だとね。(拍手)
それはちゃんと二十八番のお経の中には「現の果報を得べし」とね。現世において、現の果報を得べしと──こう書いてあるんだ。功徳が出ないなんて、そんな宗教はつぶれてしまった方がいいと、こう言って私が京都で説法をしたところが、帰りに、その新聞社の社長はこたえたと見えまして、京都の駅まで送ってきて、そうして「いやぁ、きょうの説法は恐れ入りました。言われてみると確かにそうだ。現世利益を説く新興宗教は愚かなものだなんていう考えは、これは間違いでしたね」ということで、以来その新聞社の社長と仲良しになりました。
そういうことで、皆さんきょうは妙佼先生のご命日です。妙佼先生のあの、皆さんに救われてもらいたいというお気持──もう信仰に入った方はみんな救われて、ほんとうにおしあわせになってもらいたい──この気持が如来の室に入ってもらう所以なんです。
ですから、お導きのお子さんにほんとうに大慈大悲の気持で手取りをすれば、必ずその人がおしあわせになる。そうするとその方が如来の衣を着て、そこいらを歩いて、一生懸命で法を広めるようになります。
きょうは妙佼先生が亡くなられて、もう十九年ですか──妙佼先生はお医者さんに見放されたような弱い身体で、内臓はどこもいいところはなかったというような方です。お医者さまからは「あまり無理せん方がいいですよ。もう年とったんだから」と言われておった。あの録音はおそらく亡くなる一、二年前のものかと思うんであります。話が終わると、もう疲れてしまって、陰に入るとフーフー言って、横になって身体を休めるような状態であった。それでも──私が一番いい証拠だと、こういう身体の弱い者がこんなにしあわせになってるんだ。この事実をみんなに訴えて、そしてしあわせになってもらおう。みんなにこの体験によって悟ってもらおうと──そういう大慈大悲から、こういう説法をされた。身体がもう弱っておっても、皆さんにあれだけの叫びをしたわけです。それからお互いさまにご功徳をいただきたいという気持で──ご功徳をいただきたいというと、ちょっとけちくさいような気がして、何か新興宗教は功徳を売りものにしていると──こういうことを言う人がある。どうも功徳ということを口にすると、既成教団に軽蔑されることがあるんです。なかでも一番印象に残っておるのは、何といっても仏教の一番の都、京都の仏教会の人が新聞にまで出して軽蔑したことがある。それで私、京都で大会を開いて、わざとその書いた新聞社の社長を呼んできて、そこで説法をしたことがあるんです。その説法の中で、この以道受楽の意味を説いたわけですよ。道を得て、ちゃんと行じて、結果の出ないような宗教なら、そんなものは役に立たん宗教だとね。(拍手)
それはちゃんと二十八番のお経の中には「現の果報を得べし」とね。現世において、現の果報を得べしと──こう書いてあるんだ。功徳が出ないなんて、そんな宗教はつぶれてしまった方がいいと、こう言って私が京都で説法をしたところが、帰りに、その新聞社の社長はこたえたと見えまして、京都の駅まで送ってきて、そうして「いやぁ、きょうの説法は恐れ入りました。言われてみると確かにそうだ。現世利益を説く新興宗教は愚かなものだなんていう考えは、これは間違いでしたね」ということで、以来その新聞社の社長と仲良しになりました。
そういうことで、皆さんきょうは妙佼先生のご命日です。妙佼先生のあの、皆さんに救われてもらいたいというお気持──もう信仰に入った方はみんな救われて、ほんとうにおしあわせになってもらいたい──この気持が如来の室に入ってもらう所以なんです。
ですから、お導きのお子さんにほんとうに大慈大悲の気持で手取りをすれば、必ずその人がおしあわせになる。そうするとその方が如来の衣を着て、そこいらを歩いて、一生懸命で法を広めるようになります。
きょうは妙佼先生が亡くなられて、もう十九年ですか──妙佼先生はお医者さんに見放されたような弱い身体で、内臓はどこもいいところはなかったというような方です。お医者さまからは「あまり無理せん方がいいですよ。もう年とったんだから」と言われておった。あの録音はおそらく亡くなる一、二年前のものかと思うんであります。話が終わると、もう疲れてしまって、陰に入るとフーフー言って、横になって身体を休めるような状態であった。それでも──私が一番いい証拠だと、こういう身体の弱い者がこんなにしあわせになってるんだ。この事実をみんなに訴えて、そしてしあわせになってもらおう。みんなにこの体験によって悟ってもらおうと──そういう大慈大悲から、こういう説法をされた。身体がもう弱っておっても、皆さんにあれだけの叫びをしたわけです。ですから、私どもが妙佼先生のご供養を申し上げるならば、妙佼先生のみ心を継いで、如来の室によって多くの人をお導きして、その人に如来の衣を着せて、そして諸法空のこの仏教の本義というものを分らせてあげる──これが大切なんです。
ですから、私どもが妙佼先生のご供養を申し上げるならば、妙佼先生のみ心を継いで、如来の室によって多くの人をお導きして、その人に如来の衣を着せて、そして諸法空のこの仏教の本義というものを分らせてあげる──これが大切なんです。
一切皆空の思想一仏乗の精神を根本としたい
仏さまが説法したことに対して、多宝如来が「善哉善哉……釈迦牟尼世尊諸説の如きは皆是れ真実なり」と。その真実とは何ぞやというと「平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以って大衆の為に説きたもう」と、こういっておるわけです。これは佼成会の綱領を読むというと、そのことがちゃんと出ているわけなんです。自分自身の修行をして、自分で一生懸命で人格完成に向って精進をする。この菩薩行というものを通じて国土をきれいにする。
国土といっても、この国という字の意味──いまでは世界中がみんな独立をするような状態になった。しかし戦国時代の話を聞きますと、山形県の上杉鷹山の話が先般出ましたが、三十万石が十五万石に減らされても、鷹山はちっともそんなことは苦にせずに、堂々とやはり国というものを荘厳ならしめるということをいっている。
国というそのときの国は山形県を指しているわけです。ところがいま国というのは、日本の一国というよりも、むしろ世界という地球という、一仏乗という宇宙の中の地球という一つの乗り物。仏さまと一緒に乗っている乗り物。一仏乗の国ということで解釈をしなければ、ほんとうの宗教的な解釈にならんと思うんです。
そのような時代ですから、これからは私どももさることながら、仏教を求めている外国の方々にこの一仏乗の思想──一切の法の根本は空であるという、万教が同根であるというこの理念を、仏教徒が一丸となって、世界に証明して、行じて見せなければ、世界を救うことはできないと思うんであります。
そういう意味で一番お膝元の、その一番の本であるぞと──こう神さまがいったということを、妙佼先生がきょうも言っておりましたが、佼成会を本としてということは、ほんとうにこの一切皆空の思想をちゃんとものにしていく──そういう基本姿勢のできた宗教──それはとりもなおさず、法華経をほんとうに生かしていこうという、そういう同志でなければ、このことはできないんだと。その同志の集ったところであるから、佼成会が本となって世界万国に法華経が広まると──こういっておるわけであります。
地下の妙佼先生は肉体はもう滅せられて、身体は空になっておりますから、百何十万世帯という皆さん方のおうちへ、どこへでも、妙佼先生のお気持は自由に行けるようになってるわけであります。ですから、私どもがほんとうに妙佼先生のご供養をしようとするならば、この弘法の三軌を心得て、そしてこの大慈大悲のはたらきをし、柔和忍辱の衣を着て、いつも優しいにこにこした暖かい笑顔をしていられるようになる。そして一切皆空の思想でものに執らわれない、こだわらない、狭い了見を起こさない。自他一体だという、世界が一つだという、そういう気持になることが、ほんとうの妙佼先生に対してのご供養だと思うわけであります。一切皆空の思想一仏乗の精神を根本としたい
仏さまが説法したことに対して、多宝如来が「善哉善哉……釈迦牟尼世尊諸説の如きは皆是れ真実なり」と。その真実とは何ぞやというと「平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以って大衆の為に説きたもう」と、こういっておるわけです。これは佼成会の綱領を読むというと、そのことがちゃんと出ているわけなんです。自分自身の修行をして、自分で一生懸命で人格完成に向って精進をする。この菩薩行というものを通じて国土をきれいにする。
国土といっても、この国という字の意味──いまでは世界中がみんな独立をするような状態になった。しかし戦国時代の話を聞きますと、山形県の上杉鷹山の話が先般出ましたが、三十万石が十五万石に減らされても、鷹山はちっともそんなことは苦にせずに、堂々とやはり国というものを荘厳ならしめるということをいっている。
国というそのときの国は山形県を指しているわけです。ところがいま国というのは、日本の一国というよりも、むしろ世界という地球という、一仏乗という宇宙の中の地球という一つの乗り物。仏さまと一緒に乗っている乗り物。一仏乗の国ということで解釈をしなければ、ほんとうの宗教的な解釈にならんと思うんです。
そのような時代ですから、これからは私どももさることながら、仏教を求めている外国の方々にこの一仏乗の思想──一切の法の根本は空であるという、万教が同根であるというこの理念を、仏教徒が一丸となって、世界に証明して、行じて見せなければ、世界を救うことはできないと思うんであります。
そういう意味で一番お膝元の、その一番の本であるぞと──こう神さまがいったということを、妙佼先生がきょうも言っておりましたが、佼成会を本としてということは、ほんとうにこの一切皆空の思想をちゃんとものにしていく──そういう基本姿勢のできた宗教──それはとりもなおさず、法華経をほんとうに生かしていこうという、そういう同志でなければ、このことはできないんだと。その同志の集ったところであるから、佼成会が本となって世界万国に法華経が広まると──こういっておるわけであります。
地下の妙佼先生は肉体はもう滅せられて、身体は空になっておりますから、百何十万世帯という皆さん方のおうちへ、どこへでも、妙佼先生のお気持は自由に行けるようになってるわけであります。ですから、私どもがほんとうに妙佼先生のご供養をしようとするならば、この弘法の三軌を心得て、そしてこの大慈大悲のはたらきをし、柔和忍辱の衣を着て、いつも優しいにこにこした暖かい笑顔をしていられるようになる。そして一切皆空の思想でものに執らわれない、こだわらない、狭い了見を起こさない。自他一体だという、世界が一つだという、そういう気持になることが、ほんとうの妙佼先生に対してのご供養だと思うわけであります。きょうお参り下さいました皆さま方は、もう申し上げなくともお分りでありましょうけれども、さっき申し上げたように、豊島の教会長も、新宿の教会長も、百万遍言って聞かせて、やっとああいうふうになったんですから、皆さんも何遍も何遍もこの仏教の精神というものを、耳にタコができるほど言って聞かせないと、うっかりしておると怠ける心が出て、少し楽をしたいなんていうことになります。習い性となるで、もう何回も何回も繰り返して、どうか皆さま方がこのことを叫んでいただきまして、日本の国民をまず一切皆空の思想でもってしっかりと導く。そうしたならば、もう外国の方から佼成会を通じて習いに行きたいというので、是非学生をとってほしいということになる。習いに行きたいという国が、もう方々にできたわけであります。そういう方々を導いて、また世界に送り返してやる。こういう仕事が佼成会に課せられておるのでありまして、まさに創立当初のご神示がそのままにあらわれているということでございます。
私きょう不思議に思いましたことは、この考え方をこういうかたちで申し上げるというのが、ちょうど九月の十日でございましてね。そして来月の十三日は、日蓮さまがちょうど妙佼先生と同じような考えで説法をなさって、六十年の生涯を閉じられた。日蓮の慈悲広大ならば……天台伝教にも超えておると──それはなぜかというと、法華経というものに全部集中して、如来のほんとうの神力、そして仏さまの本事をあらわした如来寿量品というものの精神を、ほんとうに貫いたのが法華経である。その法華経なるがゆえに、三世諸仏のすべてがご守護下さるに決まっておると──そういう意味で、日蓮の慈悲広大なりということを自からおっしゃっているわけであります。
慈悲の権化といわれる方のご命日が、九月は十日であり、十月は十三日であるわけでございます。どうか本日をお会式の前座として、前ぶれとして、しっかりと決定していただくことをお願い致しまして、本日の説法を終りと致します。ありがとうございました。(拍手)きょうお参り下さいました皆さま方は、もう申し上げなくともお分りでありましょうけれども、さっき申し上げたように、豊島の教会長も、新宿の教会長も、百万遍言って聞かせて、やっとああいうふうになったんですから、皆さんも何遍も何遍もこの仏教の精神というものを、耳にタコができるほど言って聞かせないと、うっかりしておると怠ける心が出て、少し楽をしたいなんていうことになります。習い性となるで、もう何回も何回も繰り返して、どうか皆さま方がこのことを叫んでいただきまして、日本の国民をまず一切皆空の思想でもってしっかりと導く。そうしたならば、もう外国の方から佼成会を通じて習いに行きたいというので、是非学生をとってほしいということになる。習いに行きたいという国が、もう方々にできたわけであります。そういう方々を導いて、また世界に送り返してやる。こういう仕事が佼成会に課せられておるのでありまして、まさに創立当初のご神示がそのままにあらわれているということでございます。
私きょう不思議に思いましたことは、この考え方をこういうかたちで申し上げるというのが、ちょうど九月の十日でございましてね。そして来月の十三日は、日蓮さまがちょうど妙佼先生と同じような考えで説法をなさって、六十年の生涯を閉じられた。日蓮の慈悲広大ならば……天台伝教にも超えておると──それはなぜかというと、法華経というものに全部集中して、如来のほんとうの神力、そして仏さまの本事をあらわした如来寿量品というものの精神を、ほんとうに貫いたのが法華経である。その法華経なるがゆえに、三世諸仏のすべてがご守護下さるに決まっておると──そういう意味で、日蓮の慈悲広大なりということを自からおっしゃっているわけであります。
慈悲の権化といわれる方のご命日が、九月は十日であり、十月は十三日であるわけでございます。どうか本日をお会式の前座として、前ぶれとして、しっかりと決定していただくことをお願い致しまして、本日の説法を終りと致します。ありがとうございました。(拍手)