そこまできたら、今度は「如来の座」に座さなくちゃならない、これからが問題なんです。「諸法空を座とする」──一切諸法皆空であるという──この精神があれば、また本に返って「万教同根」ということの成り立ちの本は「一切皆空」の思想からこなければ、これはとてもほんとうにはいかんのです。あれはあの法、これはこの法、こっちの方は神秘的で、えらい救いがあるとか、いやこっちの方は理論的だけれども救いがないとか、こういう差別をしているんではだめなんですね。根本は一切皆空の思想から出て、万教は同根であると──こういう考え方になるのが、一切法空是れなりという、三軌の一番の決め手はそこなんです。
人間というものは、みな平等に生まれているんだという、そこから出発しないとうまくいかんわけです。妙佼先生のきょうの録音構成を伺っていると、そのことを三十七年前にもうちゃんとすべて言っているわけなんです。
いろいろの言葉でいっているけれども、「以道受楽」ということも、法華経の中では、薬草諭品の中にあるんです。ですから道を以って行ずれば、草木が分に応じた功徳をいただけるように、仏さまのご功徳は誰にもみんな満足するだけいただけるのです。仏さまの方では、あんたのところは少ししか慈悲をやらんよなんて、そんなことはしない。みんなに──大雲の雨をもって草木を潤すごとくに──仏さまの方からは慈悲をどんどん降らしているんだけれども、こちらの方がそれを受ける態勢になっているかいないかということは、われわれが、道を歩んでいるかいないかということなんだと──こうお経にちゃんと書いてあるんですから、これはどうしようもないわけなんですね。佼成会の規範は法華経によってあるわけだから、法華経を行ずる者の願いのかなわぬことはないといってもいいほど、何ごとでもちゃんと出てくるわけなんです。
ですから救われてもらいたいという大慈大悲の気持で、如来の室に入れる。佼成会の信者にしてしまう。佼成会の信者にならない人にも同じように慈悲をかけるんですけれども、とかく放しておくと、どうもうまくいかんのですね。さっき申し上げた三重野さんと、豊島の保谷さんですね。あのお二人さんだって、かまわんでおけばいまどんなふうになっているか分りゃせんのだ。(笑声)しかし、如来の室に入って、もう何とかかんとか、だましたりすかしたり、おどかしたりしてね(笑声)それで引っぱってきたもんだから、いまは立派な教会長さんになっているんですね。
あんな人がどこから生まれたかと思って、親の顔を見たくなるような思いがする人もあると思うんです。けれども、親から生まれたままでは、ああいうふうにはならないんだね。やっぱり如来の室に入れて、そして柔和忍辱の衣を着せて、諸法空の法の座にいるから、値打ちがあって、きれいに見えるんですよ。