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法華三部経の要点107
【機関紙誌】
法華経は実践によって完成する
法華経は実践によって完成する
1
...法華三部経の要点 ◇◇107 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経は実践によって完成する 最後に登場の普賢菩薩 妙法蓮華経の最終章である普賢菩薩勧発品に入ります。この品は、東方の宝威徳上王仏の国から法華経を聞きにやってきた普賢菩薩がその教えに感激し、「のちの世にこの教えを受持する者があれば必ずそれを守護しましょう」と申し上げますと、お釈迦さまも「普賢菩薩と同じような行をなす者をわたしも守護しよう」とおおせられ、末世の法華経行者を励まされる章です。 法華経の初めのほうでは、菩薩の主役は「智」の文殊菩薩でした。中ほどでは「慈」の弥勒菩薩でした。そして、最後の結びで普賢菩薩が登場するのはなぜかといえば、真理を知る智慧にしても、一切の生きものに対する慈悲にしても、それを現実の生活に実践して初めてそれが救いとなり、幸せをもたらすのです。そこで、法華経のしめくくりとして「行(ぎょう)」の普賢菩薩が登場するわけです。 普賢菩薩は、六本の牙(きば)を持つ白い象に乗って出現されます。それはどんな意味を持つかといえば、象は目的地に向かって歩くとき、ゆくてをさえぎる樹木があればそれを押し倒し、岩石があれば足で転がし、まっしぐらに進んで行きます。 また、六本の牙というのは六波羅蜜を象徴しているのです。ですから、法華経行者が六波羅蜜を行ずるときに現れるさまざまな邪魔や障害をものともせず不退転の勇気をもってそれを乗り切っていかねばならないことを、この象の姿が象徴しているわけです。 法華経行者に守護を といえば、普賢菩薩はいかにも実践を要求する「力」の象徴だけのように考えられるかもしれませんが、と同時に、たいへん慈悲深い菩薩でもあるのです。普賢菩薩を梵語ではサマンタバドラといいます。サマンタは「あまねく一切に」という意味、バドラは「幸福な」という意味です。それで、中国語には「遍吉(へんきつ=あまねく一切のものに吉祥を与える)」と訳されています。つまり、われわれを力づけ励まし、法の実践を勧めることによって、幸福をもたらしてくださる菩薩なのです。 その普賢菩薩がはるか東方の宝威徳上王仏の国から霊鷲山に来至して、如来の滅後においてはどうすれば法華経を身につけることができるのでしょうかとお尋ねしました。すると、お釈迦さまは、諸仏に護念せられ、もろもろの徳本を植え、正定聚(しょうじょうじゅ=正しい信仰に心を定めた仲間)に入り、一切衆生を救う心を起こすことであるとお答えになりました。これを「四法成就」の法門といい、非常に大切な教えですから、次回以降に詳しく解説しましょう。 そこで普賢菩薩は、「後の五百歳の末法の世にこの経典を受持する者があれば、わたくしはその者を守護し、修行を妨げる者をしりぞけ、また一句一偈でも忘れた所があればそれを思い起こさせてあげましょううんぬん」とお誓いするのです。普賢菩薩のすぐれた神通力で守護されたむかしの法華経行者の話は、さまざまな古典に述べられています。 ...
法華三部経の要点108
【機関紙誌】
法華経のしめくくりは四法成就(一)
法華経のしめくくりは四法成就(一)
1
...法華三部経の要点 ◇◇108 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経のしめくくりは四法成就(一) 護られているという確信 普賢菩薩勧発品最大の要点は、「四法成就」ということです。経文にはこうあります。 「仏、普賢菩薩に告げたまわく、若し善男子・善女人、四法を成就せば如来の滅後に於て当に是の法華経を得べし。一には諸仏に護念せらるることを為(え)、二には諸の徳本を植え、三には正定聚に入り、四には一切衆生を救うの心を発(おこ)せるなり。善男子・善女人、是の如く四法を成就せば、如来の滅後に於て必ず是の経を得ん」 この場合の「法華経を得る」というのは、法華経に遇うという意味よりも、法華経をほんとうに自分のものにし、ほんとうの功徳を得るという意味のほうが強いのです。そして、そのための条件が次の四つのことがらだというのです。 一、自分はもろもろの仏さまに護られ、たいせつに念(おも)われているのだという確固たる信念を持つこと。 これは、一言にしていえば、信仰の確立です。それがなければ、どんなに教理的に法華経を理解しても、大安心の境地に生きることはできません。順調なときは心配なく暮らしていても、何かトラブルが起こったり、逆境に陥ったりした場合、ともすればあわてふためいたり、挫折してしまったりします。つねに自分は諸仏に護念されているのだという確信を持っている人は、「これも仏さまのおぼしめしによる試練だ」と、あるいは「反省の機会を与えられたのだ」というふうに受け取り、前向きに対処しますから、マイナスをプラスに転ずることができるのです。 善い行いを積み重ねる 二、日常生活のうえにいろいろな善い行いを積み重ねること。 徳本というのは、徳を持つようになる本(もと)となるものという意味で、善い心です。その善い心を植えるというのは、つまり善い行いをすることにほかなりません。 普通には、善い心があってこそ善い行いができるのだと考えられていますが、そうとは限りません。人まねですることもあるし、周囲からの影響であまり気が進まないながらすることもあります。 もう一つ大事なことは、第一条にある「諸仏に護念されている」という信念を持っていますと、「仏さまが見ていらっしゃるのだから」という意識によって自分を励ましつつ善い行為ができるようになることも多いのです。 ところが、善い行いをすると、あとでなんともいえないような快い気持ちになります。そういう経験をたびたび味わっていますと、だんだんと自ら善い行いをするようになるのです。つまり、善い行いから善い心が育つわけです。 善い心が育てば、ひとりでに善い行いをするようになり、善い行いをすればますます善い心が育つというわけで、そこに素晴らしい循環が生まれ、その循環が無数にくりかえされるうちに、人格完成という理想の境地に近づいていけるのです。そのことを、法華経の終章であるこの品で「諸の徳本を植え」という一語にしめくくってあるわけです。 ...
開祖 (19911115A) 法燈継承式
【音声】
1
...法話コード=開祖-1991-11-15-A 先生名=庭野日敬開祖 行事名=法燈継承式 日 時=1991(平成3)年11月15日 録音分=26分 場 所=大聖堂 出席者=庭野日敬開祖 掲 載=『』 見出等 ...
2
...〇司会者 それでは続きまして、開祖さまにご登壇をいただきまして、親しくご法話を賜りたいと存じます。 開祖さま、お願い申し上げます。(一同 拍手) ○庭野開祖 (一同 拍手)(咳払い)皆さま、本日は誠におめでとう存じます。(一同 拍手) えー、85歳という年を迎えまして、ま、おかげさまで極めて健康でございますので、えー、何よりこれはわたくしの、おー、ほんとの持ち分として、神さま仏さまからちょうだいしている、何ものでもない自分の宝でございますが、えー、いままた、えー、2代目会長が、皆さまに、自分の信じている法華経観を、極めてわかりやすく説明をしておることを、これまた陰で聞かしていただいて、えー、有り難いことだと心から感謝を致しております。(一同 拍手) (咳払い)またこの、わたくしの誕生日と併せて、法燈の継承の儀をこのように行わしていただきますということに対しまして、皆さまから、えー、陰に陽に、物心両面の、おー、ご芳志をいただいて、皆さまからたくさんのお祝いをちょうだい致しまして、盛大にこういう行事ができるということは、たいへんなことなのでありまするが、これ何事もないような顔をしているほど、皆さんはおかげさまで、えー、知らないうちに菩薩さまになっちゃっている。 ですから、普通ではちょっとできないようなことが、皆さまからたくさんのお祝いをちょうだい致して、えー、誠にもったいない話だと思うわけでありますが、えー、そしてまた、これ見ておりますると、気持ちよく仏さまの説法を聞いているんだなというように、その、皆さんのご芳志がちっとも苦にならないでやってなさる方、たくさんのお布施をなさるような方は、どういうふうかと思って見ておりますると、とても、いつ見ても、美しい顔をして、えー、お釈迦さまはそんなことをおっしゃってます。前世に功徳をたくさん積んだ人は、美人に生まれているだろう。(一同 笑) ま、そういうのかなと思うほど、(一同 笑)功徳を積める人は、どんどん救われていってしまうんですね。えー、何とかかんとか文句いってぶすぶすいっている人は、なかなか楽にならない。 そういうところをこう考えてみますると、わたしどものこの会の始まった時分の脇祖になってくだすったあの妙佼先生。えー、信者が、物のない時分であります。えー、昭和13年に会を立てて、えー、16年からもう大東亜戦争始まってきたわけですから、えー、皆さんがその、生活は苦しい。なかなか十分に物がまわってこない。そういうなかにあって、何かというと妙佼先生は、自分のうちの米びつを持ってきて、えー、米のない人が来ると与えてやると。...
3
...そういう状態ですから、えー、岡島という、わたくしがいつも皆さんに申し上げる、あの岡島さんという人は、佼成会の幹部という名前を付けたのが、幹事長という名前を付けてしたのはその岡島という人がいちばん初代なんだ。その人が、えー、わたくしに、もうびっくりしるような、何でも惜しげなしに皆さんに持ってきて、妙佼先生は施してしまう。そのことを非常におもしろい表現をされた。 えー、わたくしに対しては、自分はその、岡島っていう人は、肺病で入会してきた人ですが、その、肺病だから仕方がないから自分では信仰してると、ま、こういう説法の仕方がなかなかおもしろい人であります。会長のように体が丈夫で家族が皆健康で、自分も家族も病人なんかいないというこの健康のこの状態を見ると、こんな条件であったらわたしはとても拝むことはできないと。えー、しかるに、自分が丈夫で、家族がみんな丈夫で、それで一生懸命に寝るめも寝ないで拝めるっていうんだから、これは会長というより仕方がないわと。(一同 笑) こういう人間だというんで、わたしの人間像をそういう説明でみんなに、こういうふうにできれば、会長になれるんだと、いうようのことをいわれたことを覚えてますが。 ま、そのように、妙佼先生は施すことのまずお手本を示してくだすった。そういう、まあ、あの、ことで、今日(こんにち)まで来てしまったわけでありまするが、えー、こうして、53年を数えますると、とにかくローマの法王さまから、メッセージがちょうだいできる。えー、こくせ、国連の事務総長のメッセージを、事務総長、次長、事務次長さんの明石先生がわざわざその、国連の事務総長さまのそれを代読してくださるようにおいでを、お出ましをいただくと。まあこのように、世界中から、いちばんお忙しい、たいへんなお役の方が、わざわざこの、わたくしどもの法燈継承の式典をするというときにお祝いがちょうだいできたということは、これはもう皆さんのおかげなんですよ。それは、どんな素晴らしい人であっても、一人や二人では目につかない。ところが佼成会の皆さんが本当に人さまのためにというこの菩薩行を真剣にとらえて、修行しなければならない、仏さまのみ教えのごとく生活をしなければならない、そのように生きなければならないと。そういうことが佼成会の人には、十分に、この外から見ておってもわかるほど、本当に信仰して幸せの人だなあと、いうふうに見えてきたと。こう申し上げていいと思うんであります。えー、ローマの教皇さまからも、こうしてメッセージをちょうだいできたと。 先般も、わたくしども、おー、ネパールへ平和会議に行ってまいりました。...
4
...そこでも、ネパールで、もうどこからどういうふうに聞いているのか知りませんが、佼成会の人は、わたくしがいまお話をしたような、非常によく施す人たちで、菩薩のような人であるという意味のことを、あらゆるところで耳にすることができました。 ま、やっぱりこれは、大勢の方が、精進をいただかなければ、一人や二人では目につかないことなんですが、もう世界中にそういうふうに、ご覧になっていただけるほど、皆さんが一生懸命にこの菩薩道に精進してくだすってる。その菩薩道に精進できてるっていうことは、本化の菩薩さまと、やっぱり行をしているんですから、えー、日蓮聖人のお言葉のように、それこさもう、百千万劫にもあい難いこの法を、地涌(じゆ)の菩薩にあらずんば唱え難き題目。ですから何でもなさそうで、題目を唱えるぐらいは何でもなさそうに思いますが、地涌の菩薩でなければ唱え難いんだと、いわれるその、お題目を皆さんは、自分で唱えると同時に、えー、人さまにも唱えてもらうべく、唱える心を起こさせるような、いまだ発心せざる者に菩提心をおこさしめ、と、無量義経にありますように、菩提心を起こして、本当に菩薩行を精進しようという、そういう方をどんどんつくってくだすって、そして今日(こんにち)になってきたと。 まあ、こういう順序次第で、きょうはまた、理事長さんが、たいへん素晴らしい、えー、詩をつくられたなんということで、ま、そのように、皆さんが、いつのあいだにそういう心境になられたかと思うような素晴らしいことが発表できる。これはやっぱり、四法成就せば、という、に、このー、二十八番目のお経文のなかにありますように、「諸仏に護念せらるることを為(「う」と発音)」、一には諸仏に守られることが得られる、ということをいわれる。二には諸の徳本を植える、と。「三には正定聚に入り」と。そういうところまで行くと、4番目には「一切衆生を救うの心を発せるなり」。これ極めて簡単なようでありまするが、この、四法成就しておれば、諸仏、し、諸仏諸天善神にご加護をいただけると。 ご加護をいただけるといま申し上げましたように、功徳を積むことが喜ばしくなってくる。喜んで施しができる。ですから「諸の徳本を植える、と。そうすると今度は、一人で徳本を植えても、一人のもう限界がある。えー、一人より二人、二人より3人、皆さんがお導きを一人をしなさいというと、えー、一人できればその人にまた導きのお子さんができて、二人にもなると。 その、体験をすると、お経の有り難みがはっきりとわかってじっとしていられない。不幸の人を見ると声をかけて、何とか幸せになっていただきたいという気持ちがのり出してくる。...
5
...ですから、仏さまはそのことの順序を四法成就という形で、あの勧発品の中でおっしゃっているんだと思いますが、えー、「一には諸仏に護念せらるることを為(「う」と発音)、二には諸の徳本を植え、三には正定聚に入り」、そこまで行きますると、今度は自分で幸せだけでは満足できなくて、「一切衆生を救うの心を発せるなり」と、最後の4番目になっております。生きとし生けるすべてのものをみな生かしたいというような気持ちまで出てくると、いうように、仏さまは勧発品の中ではお示しになっております。 ま、そのように、やってみないとわかりませんが、やってみて、ご法門の功徳は、歴然としてることを体験しますと、これはどうしても自分でやらざるを得ない。 まあ、きょう、うー、佼成会の2代目の会長という、これがまた、えー、不思議のことに、ことしという年は、えー、九紫火星の年でありまするから、えー、わたしがホテルへ行きましても、えー、不思議に、うー、二百何十何号というようなことで、えー、その番号を見まするというと、2と7(なな)という数字がある番号のところの部屋にことしはどこに行っても泊めてもらう。えー、これがちょうど2代目というのが、その九紫の年の数(すう)なんでありますが、九紫の数(すう)というのは、2とか、幼数では2であって、老数では7(ひち)になるわけです。それから5たすと7(ひち)になります。5ひけば2になりますが、そのように、2代目がこう決まるという、ようのこと、そういう、年の回り合わせがそういうふうな年の回り合わせ。そんなことがあるのかなと思っていると、うー、まだわからないか、まだわからないかというので、行くとこ行くとこにそういう、えー、同じ部屋の番号でも、えー、217号とか、というようの部屋に泊めてもらう。ですから、うっかり歩いているようですけれども、歩まされている。ここまでわかってきますと、四法成就の諸仏に守られてるんだということがわかってくると、じっとしていられなくて、諸(もろもろ)の徳本を植えなくちゃならないと思い、そうなると、お導きをさしていただいて、サンガの数(かず)を増やさなければならない、幸せの人を増やさなくちゃならないというのが、この菩薩の役であります。 で、そういうことになりますると、自然とそういう動きが出てくる。ま、そういうことを、これは、修行してみますると、不思議にちゃんと当てはまっておる。次から次へと出てくる。数字にまで出てくる。そういうことでお互いさまに、導きのお子さんが、どういう方法、方法で、どういうことをしてなさるか、ということを見ておりますると、いま申し上げましたような、やっぱり諸(もろもろ)の徳本を植えるという、施しを喜んでするというような人には、どんどん幸せが寄ってくる。...
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...えー、ま、そういう、この、菩薩行というのは生きている。 えー、知らずのうちに、口をかけておいた人が訪ねてきたと。そしてその方がお導きを始めたら、どんどんやると。妙佼先生なども「信仰して病気が治るならば」っていうようなことをいって、お医者さんに見放されたといって46歳、7歳ぐらいの年に、たいへん、自分の気持ちを痛めておった。そしてわたしが導きに行って、導いた。それで導いてしまするというと、不思議に、「おれは、わたくしは天理教をやっているんだと。天理教をやっているんで、拝んで治るくらいならもうとうに治っているはずだけれども、いっこうに治らないで、お医者さんがもう手をやいているんだ」と。 天理教という天の理を司るのには、地の理をちゃんと歩まなけりゃならないんだと、ということをわたしがいいますると、「地の理とは何だ」という。地の理というのは、自分が生まれてきたのは、きょうも日鑛が縷々(るる)述べておられましたが、親から生まれてきたんだ。そのまた親は先祖さまだ。だから先祖供養を何でもないようですけれども、わたくしどもは毎日、朝な夕なに先祖供養を一生懸命でやっているというのは、地の理を誤らんように進もうとしているわけだ。 その、地の理というのは先祖の供養。「先祖の供養はどうすればいいんだ」という、いうから、先祖の、ちゃんとお戒名を、夫婦は、親子は1世、夫婦は2世という、その2世の契(ちぎ)りというんだから、夫婦になるのには、もう前世から因縁が決まっておったんだと。その因縁によって今世夫婦になっている。その2世の契(ちぎ)りのなかから子どもが生まれてくるんですから、この先祖からの順序次第を、地の理を完璧に歩まなけりゃならないんだと、という話をしましたら、それで自分でその気になって、自分の里、だんなさまの里、うー、うちへ、早速、埼玉県の自分の実家のほうへ、両ほうへお手紙を出して、そして戒名を集めて、信仰を、過去帳にのせて信仰を始めた。 そうしましたら、子宮内膜炎で出血をしている、胃下垂でもう腹が非常に苦しくてしょうがないという、そういう状態なのが、出血がもう1週間でぴったり止まった。そうしますると胃下垂も気分的に治ってしまった。そして有り難くて、地の理とは素晴らしいことだというので、え、来る人来る人に、自分でもう真剣になって話を聞かせる。そしてまた、さっきも申し上げましたように岡島さんじゃありませんが、惜しげなしにもう自分のある物は何でも、自分の、あしたはもうそれあげてしまったらなくなるなと思っても、思い切ってこう人さまに施しができる人。そういう人だったから、もうどんどんどんどん、わたし以上に妙佼先生の導きの数(かず)が増えていく。...
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...そしてなかなか要領がよくてですね、話が仏教の話ならその、できないと思う人には、聞かせなきゃならんと思うときには、3時になるといい先生が来る、というのはわたしのことをいっているわけ。(一同 笑) で、わたしが3時に回っていくと、大勢、話を聞きたい人を集めておるから、非常に能率的なんだ。(一同 笑) でそういう、要領でどんどんどんどん導いてくだすったから、佼成会が今日(こんにち)になったわけだ。 ですから会を始めたときには、わずか20人ぐらいの人であったんですが、それが、ま、今日(こんにち)に、600万とかいわれておりますが、ま、それだけの方が入会をしてくだすったというのは、もう、どんどんどんどん導くというような人がほうぼうにいなければ、とてもそんなには導けないわけなんですが、ま、そういうようのことをこう考えましても、え、本当に神さま仏さまがいらしって、本当に守護してくだすってんだなということは、体験を通すと、もう極めてわかりやすく、なんでございます。 えー、ずっとこう、お経を、ま、読んでみますると、方便品でも最後のところを見ますると「心に大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ」と。大歓喜、大喜びでこの道をちゃんと正しく行けば、必ず仏になれるんだという大歓喜をもって拝めば、その、必ず成仏するんだと、ということを仏さまは太鼓判を押しているわけであります。 でありまするから、えー、わたくしどもお互いさまに、無条件に、喜んで心から仏さまに感謝ができる。有り難いという本当の真心でご供養ができる。そうするとご先祖さまがお喜びになる。成仏をなさる。そうすると、その、ご先祖さまのその、力によって、というよりも、自分の信心の力によって、自分そのものが幸せになっていく。そして心に大歓喜をもって、ま、きょうも、こうして、えー、全国からして信者の方においでいただきたいというと、この統制して、まあかなり広い場所が、普門館など広い場所があるようなんですが、これがとにかく入りきれないで、よほど面倒をして、幾日(いっか)も、おー、会議をして、皆さんがこのちゃんと、式場に入れるように、説法を聞くのに座って聞けるようにということで、ま、一生懸命に努力をしているわけでありまするが、ま、そういうように、入るとこが狭くて困るほど集まってくるという性質をもっている。それには、やっぱり仏さまの仰せのとおりに大歓喜をもてといったら歓喜をもって法を行じれば、そのような形になってまいります。 ですから、まず皆さまの心構えをひとつ、えー、日鑛は、ま、会長という新しいひとつの役について、いまちょっとびっくりしているような状態であるかもしれませんが、しかし、(一同 笑)説法を聞いておりますると、皆さんとは、みなご縁があって親子なんだと、きょうだいなんだと、みな親せきなんだと、そういうやっぱり法縁によって、結ばれているんだと。...
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...そういうような考えをもって、皆さんを信じきって、えー、皆さんのお力によって、会長のお役を果たさしてもらいたいと、いう意味のことが、あの、話のなかをこう聞いておりますると、うー、そこのところへ気がついてきたなと。こう皆さんが、自分の親せきだと。本当のもう身内なんだと。切っても切れない、その、縁が深い、因縁の、これは集合なんだと。ということを考えますると、お互いさまに、力を出し合うこと、手をとり合うことが、何よりも楽しくて、そういう考えをもっていますると拡大していくというと、仏さまのお言葉のように「大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ」といわれた言葉が、本当に自分が大歓喜をもてば自分が仏になれるんだから、人がしてくれるのだと手が届かないかもわからないけど、自分がなるんだから、自分が大歓喜をもって精進すると、こういうことが大切だと思います。 えー、日鑛も、うー、会長はきょう初めてなんで、(一同 笑)1年生ですから、えー、皆さんのご指導ごべんたつを得て、えー、会長を立派な会長にひとつ仕上げていただきたいということを皆さまにお願い申し上げます。 きょうは、ま、こういう、皆さま方にお礼を申し上げるよりほかにもう道がないほど、あらゆることで功徳を積んでいただき、そしてまた、このように盛大な、この法燈継承式ができまして、誠にありがとうございました。(一同 拍手) あつく御(おん)礼を申し上げます。以上をもちましてきょうの説法を終わりとさしていただきます。ありがとうございました。(一同 拍手) 〇司会者 開祖さま、ありがとうございました。...
法燈継承式典
【写真】
法燈継承式典
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法華三部経の要点109
【機関紙誌】
法華経のしめくくりは四法成就(二)
法華経のしめくくりは四法成就(二)
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...法華三部経の要点 ◇◇109 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経のしめくくりは四法成就(二) 正しい信仰者の集団に入る 「四法成就」の法門をつづけます。 三、正しいことに決定(けつじょう)した者の集団に入ること。 仏法では、人間の集団を三つに分けて、正定聚(しょうじょうじゅ)・邪定聚(じゃじょうじゅ)・不定聚(ふじょうじゅ)としています。 正定聚というのは、正しい教えを信ずる人びとの団体をはじめ、いろいろな社会奉仕のボランティア団体などがそれです。邪定聚というのは、暴力団とか、犯罪者の仲間といった、悪いことを目的とした者の集まりです。極端な破壊思想を持つ者の集団もこれに当たります。不定聚というのは、以上の二つの集まりに入っていない普通の人びとをいいます。その人たちは、正定聚・邪定聚のどちらへもおもむく可能性を持っているわけです。 われわれ信仰者も正しい信仰者の団体に入らなければならないことを、この「正定聚に入り」という一条に明らかに示されています。なぜでしょうか。信仰というものは個人個人の心の中の問題であることは確かですが、しかし、ひとり孤立して信仰し、法を求めていますと、往々にして独善に陥ったり、疑惑を生じたり、懈怠の心が起こったりしがちです。 そんなとき、同じ信仰に決定している仲間がいますと、お互いに相談し合ったり、教え合ったり、励まし合ったりして、逸脱や退転の危機を逃れることができるからです。 また、そうした危機が生じなくても、いつも仲間が集まって一緒に法の話を聞いたり、それぞれの信仰体験を話し合っていると、お互いの心がしっかりと結び合って、信仰の力が二倍にも三倍にもなるからです。 ましてや、不定聚の人びとを正しい信仰に導くことによって、あまねくこの世を寂光土化していこうという活動、いわば「信仰の社会化」という展開になりますと、どうしても集団の力というものが不可欠になります。お釈迦さまが、阿難が「よい仲間を持つことは仏道の半ばぐらいの価値があると思いますが」と申し上げたのに対して「半ばではない。仏道の全部だ」と答えられたのは、おそらくそういった意味であったろうと思われます。 全人類と共に救われよう さて、最後に次の一条があります。 四、すべての人間を救おうという大きな志を持つこと。 自分ひとりが信仰によって救われても、社会全体がよくなり、人類全体がよい心を持つようにならなければ、結局は自分も幸せにはなれないのです。いつ強盗が押し入ってくるかわからない。いつ路上で暴漢に襲われるかわからない。 ですから、自分だけが悟り、自分だけが救われるというのでは、ほんとうの成道ではないのであって、自他共に救われることによってこの世に理想的な平和国土を建設するというのが、大乗仏教思想の根本なのです。 この「四法成就」の法門は、お釈迦さまのみ心を拝察するならば、「いままでいろいろ難しいことを説いたけれども、それを実践するにはつまりこれだけを心がけておればいいのだよ」と平易にまとめてくださったのであろうと思われます。法華経の教えの深遠さに少々たじろぎ気味だった人たちも、これをうかがって、なにか新しい勇気のわき起こる思いをすることでしょう。 ...
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