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心が変われば世界が変わる21

一念三千とは何か

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(21)  立正佼成会会長 庭野日敬 一念三千とは何か 大本は空の理に発する  これまでに、心が変われば体も変わる、健康も変わる、顔つきも変わる、人生も変わることについて、いろいろお話ししてきましたが、ここで、なぜそうなるかという真理の大本になる大原理について説明しておきたいと思います。  仏教では、われわれが住んでいるこの世のあらゆる現象(諸法)は、宇宙の唯一の実在である(空(科学的に言えば根源のエネルギー、宗教的に見れば、宇宙の大生命))の発現であると説きます。  ただ、仏教で、そう説いているというだけでなく、二十世紀に発達した原子物理学や理論物理学などからしても、それが、まさしく真理であることが裏づけられつつあるのです。(ここで、それを詳しく紹介する余裕はありませんが、志ある方は、たとえば、山本洋一工学博士著『根本道理の書』・大法輪門発行とか、世界的理論物理学者の松下真一氏著『法華経と原子物理学』・光文社発行などを、ひもといてみられるのも面白いでしょう)  この真理によれば、われわれのまわりに広がっている万物・万象は、一見、別別の存在のように見えますけれども、本来は、ただ一つの宇宙の大生命であり、その大生命は宇宙全体にスキマもなく、満ち充ちている実在なのですから、万物・万象は、本質的には密接につながっており、お互いに関係し合い、融通し合っているわけです。したがって、同じ大生命の発現である物も心も別々の存在ではなく、渾然(こんぜん)として一体のものなのであります。このことを仏教では、(色心不二・しきしんふに)(物心一如・ぶっしんいちにょ)と申します。  こう考えてきますと、(心を変えれば、物も、健康も、境遇も変えることができる)ということは、理論的に確かに成り立つのであります。 一念の中に全宇宙がある  今から約千四百年前に、(小釈迦)といわれた中国の名僧天台大師が、表現の仕方こそ違え、法華経の真理にもとづいて、これと同じような世界観・人間観を説かれたのが、ほかならぬ一念三千の法門なのです。それは、大師が法華経の精神と、教義と、実践方法とを体系的に説かれた三大著『摩訶止観』・『法華玄義』・『法華文句』の中の『摩訶止観』巻五上にあるもので、主文は次の通りです。  夫れ一心に十法界を具し、一法界に又十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千は一念の心に在り。若し心無くんば巳みなん。介爾(けに)も心有らば即ち三千を具す。 この(一心)とか(一念)とかには、ほかに深い意味もありますが、ひとまず(われわれ人間の一瞬の心)と解しておいてください。また、三千種の世間というのは――なぜ三千という数字ができるのかはあとで説明しますが――つまり宇宙全体ということです。そこで「此の三千は一念の心に在り。若し心無くんば巳みなん。介爾も心有らば即ち三千を具す」というのは、現代語に意訳すれば、「この無限大の世界は、人間の一瞬の心の中にある。もし心がなければ、無いのと同然であろう。たとえ極微、一瞬のものであろうとも、そこに心がある限り、その中には宇宙全体が具わっているのである」ということになります。 心と物とどちらが先か  この文章から見ますと、「まず心があってこそ物の世界も存在する」つまり「心が主であって物は従である」と説いておられるように見えますが、そうではないのです。それは続いて説かれている次の文でも明らかです。  亦一心前(さき)に在り、一切の法(万物・万象)後に在りと言わず、亦一切の法前に在り、一心後に在りと言わず。  「心が在ってこそ、物も存在するのだ」という唯心論でもなく、「物が先にあるからこそ、心もそれを感じたり、それについて考えたりするのだ」という唯物論でもないというのです。どっちが先でもあとでもなく、主でも従でもなく、心と物とは一如であり、相即するものだというのです。  たいへん難しい理論のようですけれども、冒頭に述べた(空)の理を思い出してみれば、容易に理解できることと思います。石でも、鉄でも、人間でも、すべての現象はただ一つの実在である宇宙の大生命が造り出したものであり、それも、それぞれの理由があればこそ造り出したわけですから、それぞれの存在には宇宙の大生命の意志がこめられているわけです。  石にも、鉄にも、人間にも、宇宙意志という(心)がこめられているのです。ですから、物が先とか心が先とかいうのでなく、全く(物心一如)なのであります。(つづく)  幼児の布施部分(ガンダーラ出土)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる22

人間の心に入り乱れるもの

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(22)  立正佼成会会長 庭野日敬 人間の心に入り乱れるもの  さてそれでは(三千)という数字がどうしてできるかを説明しましょう。数学をひと通り学んだ人は、もう知っておられるでしょうが、読者の中には初心の人もおられることと思いますので、煩を厭(いと)わず解説していくことにします。通達している人も、復習のつもりで読んでいってください。 「一心に十法界を具す」とは  まず「一心に十法界を具し」とありますが、この十法界とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏という十の世界を言います。前の六つは迷いの世界で、六道・六趣または六凡と言います。普通の人間は、この六つの世界をグルグル回りながら生きているわけで、それを(六道輪廻(りんね))と言います。後の四つは悟りの世界で、四聖と言います。人間のほんとうの幸福は六道輪廻から離れて、この四聖の世界へ入ってこそ得られるものとし、仏教とはつまるところ、六道から四聖へ上昇する道を教えるものと考えていいのです。 心の中にある四つの悪趣  さて、その六道とはどんな世界か。  (地獄)とは、心が怒りに占領されている状態を言います。怒り狂っている時は、すべての人が敵に見え、すべての人に迫害を受けているような錯覚を覚えます。そこで、前後の見境いもなく自らの怒りを周囲にぶっつけ、人を傷つけ、事態をますます悪化させます。たとえ怒りをこらえていても、ガンガン頭痛がし、手足はブルブル震え、精神的にも肉体的にもたいへんな苦痛を覚えます。いずれにしても、怒りは、自他を共に不幸へ陥れるものです。このような状態が(地獄)なのです。  (餓鬼)とは、貪り欲する心がとめどもなく起こってくる状態です。貪る心が強ければ、仮に欲しいものが得られても、もっとたくさん欲しい、もっと上のものが欲しいと、止まることがないのです。お金や物質だけではありません。名誉に対する貪欲もあれば、権力に対する貪欲もあります。他人の愛情や奉仕をむやみに求める貪欲もあります。こういう人は、満足するということがありませんから、いつも心の中は欲求不満でイライラし、しかも一言一行が賎しくなり、恥も外聞もなくなります。この状態を(餓鬼)というのです。  (畜生)というのは、ただ本能のおもむくままに、衝動的に、やりたいことをやる、人間としての知性のない愚かな状態です。人間以外の動物は、自分の生命を維持し、自分の種族を残すためには、他から奪ったり、他を殺したりしても平気です。人間にも、衝動的に悪事を犯したり、しかもなんら反省の色もなく平然としている人がいますが、その点ではトリやケモノと同様で、人間として全く情けない状態と言わなければなりません。これを(畜生)というのです。  (修羅)というのは、利己的な闘争心です。何事も自分本位に考え、それを押し通すためにはどんな無理でもする、という気持です。人間同士がみんなそういう気持になれば、必ず対立が生じ、衝突が起こります。その最大のものが戦争です。戦争こそ、人間にとって最も不幸な、悲惨な、愚かしい状態ですが、これはもともとエゴとエゴとの角突き合いから起こることを、再認識したいものです。 人間界に在ることの有難さ  (人間)というのは、以上の四つの悪心をある程度もってはいるけれども、自制心によって、それをほどほどに抑え、バランスのとれた生き方をしている状態です。だから(平正(びょうしょう))という別名があります。この(人間)という言葉は、法華経から出たもので、たんなる(人)という意味ではなく、もともとは(人の住む所)(世間)という意味でした。人は孤立して生きているのでなく、人と人との間に生きるものだ、という真実が、この語の中に深く込められているのです。  (天上)というのは、歓喜の世界です。歓喜といっても、信仰によって得られるような魂の喜びではなく、物質や肉体に即した感情の喜びです。つまり、迷いの上に一時的に出現した仮の喜びですから、何かイヤなことが起こったり、何かのきっかけで悪心を起こしたりすれば、たちまち地獄道へでも修羅道へも落ちこむ可能性があるわけです。  しかも凡夫の六道から四聖の世界へ上るには、天上界からではなく、人間界からであるとされているのです。その意味は、考えればすぐわかることです。  物質や肉体に即した歓喜の状態にある時は自己反省もなく、向上心もなく、いわゆる有頂天の状態にあるからです。それに対して、苦悩や失意や挫折感のある人間界では、「これでいいのか」「ここから脱け出すにはどうすればいいか」といった反省・解脱・向上の心がわいてきますから、かえって真の幸福と真の歓喜をつかむチャンスがあるわけです。  ですからわれわれは、いま人間界に在ることを心からありがたく思い、いまのこの人生を大切に、魂の修行に励まなければならないのであります。 (つづく)  仏頭(ガンダーラ出土)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる23

四聖も別世界ではない

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(23)  立正佼成会会長 庭野日敬 四聖も別世界ではない われわれも声聞・縁覚  今度はいよいよ(四聖)の世界に入りましょう。(聖)といえば、何かわれわれ凡夫とはかけ離れた存在のように感じられますが、そうではなく、たとえ凡夫の身でも、信仰心を起こして仏の教えを求めるようになれば、もう(聖)の仲間入りをしたことになるのです。この記事を熱心に読んでおられるあなたは、少なくとも今の瞬間においては立派な(声聞・しょうもん)なのであります。  (声聞)というのは、梵語シュラヴァカの訳で、文字通り((仏の)声を聞く人)という意味です。もともとは、釈尊のお弟子として直接その教えを聞いた人々を指したのですが、後世になってからは、仏の教えを学ぶことによって煩悩から解脱しようと努力する修行者を指すようになりました。現在では、書籍などによって仏の教えを学ぼうとしている人も、やはり声聞といっていいのです。いわば(学習主義の仏教者)が声聞なのです。  (縁覚・えんがく)は、梵語のプラティエーカーブッダ(音写して辟支仏・びゃくしぶつともいう)を訳したものですが、(独覚)と訳した方が正しいという説が有力です。つまり、自らの精神生活の体験によって悟りを開こうとする修行者で、昔のインドには独り林間に籠って苦行したり、瞑想したりする人がたくさんありました。(縁覚)という言葉は、そのような修行者は、身辺のさまざまな変化(例えば、木の葉が秋風に散ったというような)を縁として覚る……というところからつけられたといわれています。いずれにしても、縁覚とは(体験主義の修行者)と言っていいでしょう。われわれが静かに座って瞑想したり、一心に読経したりして、我のない澄み切った心境になった時、少なくともそのひと時においては、われわれもまさしく縁覚なのであります。 菩薩は行動と奉仕の仏教者  (菩薩)というのは、梵語のボディサットヴァの略で、(悟りを求める人)という意味です。といえば、声聞も縁覚も悟りを求める人なのに……という疑問もわきましょうが、もともと菩薩というのは、釈尊の前世の身の呼称として用いられ、またその連続として、悉達多(シッダールタ)太子が出家されてから仏の悟りを得られるまでの修行中の身をこうお呼びしたのです。ところが、いわゆる大乗仏教が興起してから、その派の人たちが「われわれも仏と成りうる身だ」という信念から、自分たちの通称として用い始めたのが(菩薩)という言葉だったわけです。  同じく悟りを求めるにしても、声聞や縁覚は自分自身の解脱が目標です。ところが菩薩にとっては「仏となって一切衆生を救おう」というのが目標です。こういう心を菩提心というのですが、声聞や縁覚とはここが違うのです。従って、この修行方法も、声聞が主として聞法・学習であり、縁覚が主として瞑想・座禅であるのに対して、菩薩は、そのような修行に加えて、世間の人々の救済と教化に挺身するのです。実際に人々を教化しつつ、救済しつつ、そうした行動を通じて自らの悟りをも深めていくわけです。いわば(行動主義の修行者)であります。(奉仕主義の仏教者)といってもいいでしょう。  ですから、もしわれわれが悩み苦しんでいる人に「仏さまの教えに入ってごらんなさい」と手引をしたり、自分が理解している限りにおいて仏の教えを説いてあげたり、あるいは自らの財物や時間や労力を割いて、その場その場の苦しみを救ってあげたり、または多くの人々の福祉や社会の向上のために奉仕したりする時、われわれは間違いなく菩薩なのです。ですから、菩薩といっても、決して凡夫とかけ離れた存在ではありません。ただ違うのは、「仏となって一切衆生を救おう」という菩提心が確立しているか否か、そして、人々への教化・救済の行動が徹底・一貫しているか否か、そこのところだけなのです。 法身の菩薩とはどんな方か  なお、観世音菩薩・普賢菩薩、虚空蔵菩薩・地蔵菩薩などのように、ほとんど仏と同様に帰依・尊崇されている菩薩方がおられます。これら諸菩薩は、すでに仏の悟りを得、仏の資格を具えておられるのに、自ら仏と成ることを拒否して菩薩の地位に留まり、自由自在に娑婆世界に現れて衆生済度に活動される、いわば奉仕主義の権化であると申し上げてもいいでしょう。実際にこの世に出られた方を、行基菩薩とか日蓮大菩薩などと尊称するのも、同じような意味からであると考えていいでしょう。                    (つづく)  仏の頭部(ハッタ出土)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる24

仏とはどのような存在か

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(24)  立正佼成会会長 庭野日敬 仏とはどのような存在か 人間としての仏陀は一人  (仏(ぶつ))というのは、梵語のブッダの音写である仏陀の略で、元の意味は(悟った人)ということです。宇宙のギリギリの実相を見極め、天地の法則を悟り、その真理に即して「人間はどう生きねばならないか」という大道を発見した方をいうのです。  こういう意味の仏陀は、過去世にもたくさんおられたのだ、と釈尊はお説きになっておられます。ご自身も前世において多くの仏に仕えて法を聞いたとおおせられ、例えば法華経の常不軽菩薩品にご自身のことを「諸の善根を種え、後に復千万億の仏に値いたてまつり、亦諸仏の法の中に於いて是の経典を説いて、功徳成就して当に作仏することを得たり」とあります。しかし、われわれ現世の人間から見れば、歴史上実在の人物としての仏陀は、釈尊がただおひとりです。そして、その教えだけが今も残っているのです。ですから、人間として仏となられた方(応身の仏)といえば、お釈迦さまのことだと考えてさしつかえないわけです。 釈迦牟尼如来は今もいます  そのお釈迦さまは、二千五百年も前に入滅なさいました。一部の仏教学者は、「人間は死んだらまったく空に帰し、何物も残らない。霊魂も残らない」と説きます。しかし、われわれ法華経の信奉者は、如来寿量品で「而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く」とおおせられていることを信じます。釈迦牟尼の身も魂もまったくは消滅して空に帰し、如来残っているのは、その完全な人格への追慕と尊い教えへの帰依だけであるとはどうしても考えられません。  それでは、今はどのような身になっておられるのでしょうか。それを考えて考えて考え詰めていきますと、どうしても「尊い霊的存在としてこの三界に遍満しておられるのだ」という結論に達せざるをえません。霊的存在として常住しておられればこそ、「時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず」ることもあれば、「諸のあらゆる功徳を修し 柔和質直なる者は 即ち皆我が身 此にあって法を説くと見る」こともあるのです。  われわれは学者ではありません。信仰者です。人間の形として想像できる霊的存在のお釈迦さまが、今も確かにいらっしゃり、いつでもわれわれを見守っていてくださることを信じます。そう信じればこそ、「悪いことはできない」と身を慎しんだり、事あるごとに「どうすれば仏さまのみ心にかなうだろうか」と真剣に考えたり、切羽詰まったときは「み心のままになさってください。お任せいたします」と我を投げ出すことによって、救いを覚えたりするのです。われわれの心と声が必ず仏さまに届くと信じればこそ、「南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」とお唱えするのです。  これは、阿弥陀如来を信ずる人も、観世音菩薩を信ずる人も、イエス・キリストを信ずる人も、聖母マリアを信ずる人も、みんな同様です。信仰は理くつではありません。霊的存在としてそのような方が必ずわれわれの周囲に実在されると信じればこそ、信仰は成り立ち、そして救われるのです。  なお、仏教では、そのような尊い霊的存在は、法華経如来寿量品に「慧光照すこと無量に 寿命無数却 久しく業を修して得る所なり」とあるように、長い長いあいだ修行を積まれ、無数の人びとを救われた功徳の報いとしてそのような身となられたのですから、これを(報身の仏)と申し上げます。 根源の仏は宇宙の大生命  仏さまの身には、これまでに述べてきた(応身の仏)と、(報身の仏)と、もう一つ(法身の仏)という考え方があります。これは人間としてお生まれになった身でもなく、人間の形として思い浮かべることのできる霊的存在でもなく、その根源である宇宙の大生命をいうのです。万物・万象を造り、生かし、働かせている大いなるいのちです。もちろん目には見えません。形もありません。始めもなく、終わりもなく、大いなる光明体・生命体として万物を存在させておられるので、仏教では(久遠実成の本仏)とも申します。  これが万物・万象の根源であるからには、人間の根源も(久遠実成の本仏)です。人間は間違いなく本仏の分身なのです。ですから、われわれも本来は純粋で、清浄で、光り輝くようないのちそのものなのです。ところが、それが具象化して形体をもつ生命体となってから(とくに人間に進化してから)自ら生み出したさまざまな煩悩によって、その本来の姿(これを仏性という)を覆いかくし、そのために苦しんだり悩んだりしているわけです。  お釈迦さまは、人間として生まれながら、こうしたもろもろの煩悩を断ち切り、仏性を完全に顕現された方です。そして、無数の人をお救いになり、尊い数えを万世にお残しになりました。したがって、入滅されて霊界に入られるや、根源の大生命と合致する一大心霊となられたはずですが、しかし、衆生済度の本願のために、今でも報身仏として娑婆世界のわれわれのまわりにいてくださっているのです。ありがたいことです。  こういうわけで、仏さまの身を応身仏・報身仏・法身仏と三つに分けて説明してきましたが、元をただせば一体であることは言うまでもありません。このことを(三身一体)というのです。(つづく)  伎芸天立像頭部(秋篠寺)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる25

仏を見たいという願い

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(25)  立正佼成会会長 庭野日敬 仏を見たいという願い 対象の実在を信じなければ  私共素朴な信仰者としては、霊的存在としての仏さまが、確かにわれわれの身の回りにいらっしゃることを信ずる……と前回に書きました。こうした確信がなければ、仏教も単なる哲学であり、あるいは道徳の教えに過ぎず、われわれの魂を根底から揺り動かし、人生を変える強い力とはならないでしょう。  竹中信常博士(大正大学教授)も、その近著『仏教―心理と儀礼―』の(見仏の心理)という章の中で、次のように述べておられます。  「いかなる宗教といえども、それが宗教であるためには、そこに信仰対象として何等かの形での神的存在がなければならず、信仰度の深まりは信仰対象の実在性を強める」  「古来、仏教は理性の宗教と呼ばれているが、その半面に実在論的な信仰をもつことは、そのこと自体、仏教が生きた信仰実質を尊重したからであり、またそれゆえにこそ、生活経験と密着した宗教としての生命を持続したのである」  「このように、信仰対象の実在ということは、宗教にあっては至重の事柄であり、哲学的証明による実在の把握より、自己の生々しい体験として感覚的にこれをとらえることが、信仰教化にどれだけ有効であるか論を要しない」(傍点庭野) 仏を見んと欲する篤信者  古来の熱心な信仰者は、この最後の引用文にあるように、信仰対象の実在を自己の生々しい体験として感覚的にとらえることを一つの念願としていました。それは、法華経寿量品の「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜まず」、観普賢経の「普賢菩薩の色身を見んと楽(ねが)わん者、多宝仏の塔を見たてまつらんと楽わん者、釈迦牟尼仏及び分身の諸仏を見たてまつらんと楽わん者云々」等、仏典の至る所に無数に見ることができます。  現在でも天台宗の行者は、それを自らの信仰の証(あかし)の一つとして願っているようで、作家の瀬戸内寂聴さんが出家して六十日間の行を終えたあと『文芸春秋』(昭和48・8)に寄せられた(荒行の比叡をおりて)という文章の中にも、そのことが明らかに記されています。「音にきこえた三千仏の礼拝は無我夢中のうちにやりとげてしまった。過去仏千体、現在仏千体、未来仏千体の名をとなえながら、五体投地礼を三千回するのである。朝の五時から夕方の六時過ぎまで続けて、ようやく終る頃、仏が見えると聞いていたが……」瀬戸内さんはついに見ることができなかったそうです。 見なくても起こる信とは  しかし、その瀬戸内さんも、六十日目には次のような体験をされたのでした。「いよいよ結願の日最後の護摩火が、いきおいよく火の粉をはじきながら天井をめがけて火竜のようにかけのぼったとき、思わず胴震いして涙がふきこぼれてきた。二ヵ月の行中、私はついに仏を見ることはなかったが、その一瞬、我身即本尊、本尊即我身の観想が炎の中に凝縮し、火炎を背負った青黒(しょうこく)の不動明王の中にわが身がすいこまれて行く経験をした」。  これも非常に尊いことで、神人合一というか、仏とわれとの合体というか、そういう境地を感覚的に生々しい体験されたわけです。信仰というものは理屈ではなく、体験の世界であることが、こういう告白からもよく納得されることと思います。そして、修行した人ならば、「なるほど、そういうこともあり得るだろう」と、素直にうなずけるはずです。  前記の竹中博士の著書の中に、明治初年の有名な思想家・綱島梁川(りょうせん)の次のような言葉が引用されています。難しい文語体なので口語に意訳しますと、  「われわれが神を信ずるといいながらも、内心を顧みて、どことなくその信念が充実していないように感ずることがあるのは、目(ま)のあたり神を見たことがないからではあるまいか」……まことに、その通りだと思います。いわゆるインテリ信仰者の心の底にある嘆きでありましょう。次に、  「まだ神を見たことはなくても(信)は起こる。しかし、そうした(信)も、幾分か見たものが根底となっているのではなかろうか」とあります。見ないものを信ずるその(信)も、見たに準ずる心的経験を根底としているのだ……という意味だと思います。瀬戸内寂聴さんの結願の日の体験もそうでしょうし、親鸞上人が、たとえ師のおおせに従って念仏して地獄に落ちようともかまわない……というほど法燃上人を信じ切ったのも、やはり、師の中に間接的に仏を見たからにほかならないといえましょう。(つづく)  仏の頭部(パキスタン)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる26

仏を見、神を見る

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(26)  立正佼成会会長 庭野日敬 仏を見、神を見る 錦戸新観師の尊い体験  目(ま)の当たり神仏のお姿を拝したり、お声を聞いたりしたという体験は、古往今来無数に伝えられています。どの時代にも、どの民族にも、どの宗教の信仰者にも、いや、格別の信仰をもたない者にも、共通して同じようなことが起こるということは、否定し難い客観性をもつものだと思います。よく言われるように、自己暗示による幻覚などばかりでないことは、私の身辺に起こった数多くの事実によっても、自信をもって断言できます。それらの事実は(庭野日敬自伝)にいろいろ述べましたので、ここで繰り返すのをやめ、他の方々の体験を二、三紹介することにしましょう。  私共の会の大聖堂に祀られている本尊(久遠実成釈迦牟尼世尊像)や、同じく法輪閣に安置されている(十一面千手観音像)を謹刻された錦戸新観師は、たんなる彫刻家ではなく、ほんとうの意味の信仰をもった方でありますが、その錦戸師は次のような尊い経験をもっておられます。  昭和二十四年三月、不動明王像を制作して日展に出品することを発表された師は、「不動尊は無相の法身、虚空同体」とお経に説かれているその意味を体得しようと思い立ち、出家修行にも等しい荒行を始められました。毎朝午前三時に起床、水を浴びて身を清め、(般若心経)百遍、(不動経)を百遍読誦されました。また、毎月十五日には、栃木県栃木市出流町にある出流山満願寺に参拝し、その境内にある(大悲の滝)に打たれて祈念されました。 真っ白い姿の不動明王が…  こうして三ヵ月が過ぎた六月の十五日、滝に打たれる荒行のあと、本堂でご本尊の千手観音の前に端座・瞑目して、(般若心経)と(観音経)を読誦されました。すると、お数珠をサラサラと揉んだとたんに、どうしたことか、まだ新しいお数珠がパッと切れて、玉があたりに飛び散ったのでした。師は「滝に打たれたため糸が弱くなったのだろうか」と思ったり、「わたしの願いが間違っているというお示しなのか」と不安になったりされましたが、そういう気持を振り切ってふたたび瞑目して読経を続けられました。  そのうち、読経をしながらフト目を開けると、すぐ前に灯されているロウソクが、風もないのにフッと消えてしまったのです。「まるで刀で切り払ったような感じでした」と師は語っておられます。またまた言い知れぬ不安が生じ、身の細るような感じに迫られましたが、そうした弱い心を抑えつけ、勇気を奮い立たせて読経を続けられました。そのうち邪念が消え、三昧の境地に入って行ったある瞬間、一秒の何分の一かの一刹那に、真っ白い姿の不動明王が、まるで電光のように師の全身をつらぬいたのでした。師は「ああ、ありがたい。これが感得というものか」と、何ともいえぬ法悦に打たれ、全身が明るく輝き立つ思いがした、ということです。  こうして、二年後に不動明王像は完成しましたが、芸術的な美のみを対象とする日展当局者は、師の信仰一途の制作を完全に理解することができませんでした。師は、それを機に(鑑賞のための仏)を制作することをスッパリとやめ、(信仰するための仏)の謹刻に生涯を捧げる決意をされたのでした。 何気なく拝んでいた神仏が  格別の信仰をもたなかった人の見仏・見神の例を、それもごく最近の生々しい体験を紹介しましょう。カンボジアの外交官夫人だった内藤泰子さんが、革命政権の大虐殺の地獄の中から脱出しようとし、途中で、夫と二人の子を失い、ボロボロになりながらも奇跡的に生還されたのは、周知の通りです。  泰子さんは、きょうは死ぬか、あすは殺されるか、という極限状況の中で、何とか生き残って日本に帰りたい、そして亡き夫や愛児のお弔いをしたいと、日夜神や仏に救いを求め続けられたといいます。すると、優しいお顔をされた観音さまが、白い雲に乗って何度となく夢の中に現れ、絶望の底から救ってくださったというのです。内藤さんを救出に行ったNHKの取材班島村矩生記者にもこう語っておられます。「地獄としか言えない生活でしたから、自分でも奇跡だと思います。神を信じない方にはわからないでしょうが、今度という今度は神があると思いました」。  そして、その手記『カンボジア わが愛』に、こう書かれています。「成田に着いた翌日、浅草の観音さま、人形町の道了さま、巣鴨の地蔵さまにお礼参りした。信心をしたことのない私なのに、観音さまは夢に何度が出てきて私に力づけてくださった。道了さまと地蔵さまは、小さいころ母に連れられてお参りしたことがある。本当に苦しいとき、知らず知らず私は手を合わせ、お願いをしていた。そして無事に生きることができた」。  「苦しい時の神頼み」でも、その願いがひたすらであり、一心こめたものであれば、よくよく噛みしめてみる必要があると思います。(つづく)  仏頭(アフガニスタン)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる27

仏の霊光に救われた話

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(27)  立正佼成会会長 庭野日敬 仏の霊光に救われた話 七面山の女神に呼ばれる  神や仏が実際に顕現される場合は、たいていの場合一瞬の出来事です。長くても数秒、数十秒という短い時間です。ですから、それを信じない人々から、幻覚とか錯覚とかで片づけられてしまうのです。ところが、ここに、少なくとも数十分のあいだ、仏の霊光に導かれて七面山の登山を成し遂げた。という希有な実例がありますので、紹介させて頂きます。  京都の小原弘万(おはら・ひろかず)さんという方は、般若心経を昭和五十二年八月までに百六十万遍も読誦し、また心経の豆本を作っては無料で配布され、そうした自行と利他行の功徳によってさまざまな神力(じんりき)を身につけられた現代の尊者ですが、その著『心経ひとすじ』に次のような体験を発表しておられます。  小原さんがまだ若いころ、ある発明に没頭しておられた時、その行程中に発する毒ガスに当てられて倒れ、長い間病臥する身となられました。高熱の続いたある日、妙な夢を見ました。白衣で白い鉢巻きをされた女神が、燃え盛る火をちぎっては投げ、ちぎっては投げておられるのです。不思議なことに、夢が覚めたその日から、長い間の高熱が下がってしまったのです。  ところが、ちょうどそれに符節を合わせたように、久しく会わなかった心経一筋の老行者が突然来訪され、「小原を連れて七面山へ来い」という神のお告げを受けたと言われるのです。小原さんも、じつは私もこんな夢を見たと話されると、それならばどうしても行かねばならぬということになりました。その行者さんは何十日かの断食行を終えたばかりのフラフラの状態、小原さんも高熱が下がったばかりの身、しかも、二人ともまだ七面山には登ったことがなかったのです。二人とも般若心経の信仰者でこそあれ、日蓮宗とは何の関係もなかったのです。それなのに、吉祥天女の権現であり、身延山久遠寺の守護神である七面大明神の神示を受けたのですから、初めから不思議なことだったわけです。 暗黒の足元を照らす霊光  早速二人は出発したのですが、身延は激しい雨でした。しかも、フラフラの老行者さんの腰を、これも病気上がりの小原さんが押しながら登るのですから、道はなかなかはかどりません。『般若心経ひとすじ』にはこう書かれています。  「お題目を唱えることの大きらいなこの行者さん、『南無妙』だけを唱え、あとは私に唱えろ、と命ずるのである。『ナムミョ』と、もたれ掛かって行者、『ホーレンゲーキョ』と押す私。奇妙なコンビの歩みは遅々として進まず、遂に日はトップリと暮れてしまった。もちろん夕刻までには完全に登れる予定だったが、休み休みのフラフラ二人。足元は暗くなり、やがて寸前も見えなくなった。登るに登れず、下るに下れず、激しい雨はパンツまでビッショリである」  まさに進退きわまる、その時でした。驚くべき不思議が起こったのです。暗黒の足もとが、直径一メートルぐらいの円形に、鈍(にぶ)い光ではあるが、小石が見えるくらいに照らし出されたのです。二人は抱き合って喜びました。期せずしてほとばしり出たのは、般若心経でした。声は声とならず、泣きじゃくりながら唱え終わりましたが、行者は続いて「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と、初めて声高らかに唱え続けたのでした。小原さんも、もちろんそれに和されたのでした。 霊光はずっとついて回った  ところが、その光は、一瞬だけの現象ではなかったのです。原文には、こう書かれています。  「足元の円形の光は、進むに従って付いて回った。これが信じてもらえるだろうか。しかもこの光には暖かさがあった」「心経と題目を交互に唱えつつ、遂に目的の地に着いた。この光は一体何だったのかしら」  その疑問は、後日、般若心経百万遍を読誦し終わってから、解決されたのだそうです。それについて次のように書かれています。  「この光こそみ仏の霊光なのである。私自身、日々献燈を忘れず、神社仏閣にお参りした時、まず献燈を心掛けており、来客に対しても献燈させ、また勧めているが、私はこの献燈の光が、死後暗黒の世界を通る時、『再現して足元を照らす』と信じているのである」  法華に凝り固まっている人は、ともすれば法華三部経以外のお経を排除する傾向がありますが、それが誤りであることは、このエピソードによっても明らかでありましょう。般若心経一筋のお二人が、そろって七面大明神に呼び寄せられ、このような霊験を頂かれたのです。み仏は一つ、み仏の八万四千の教えも、巻き戻せば一つに収まるのです。(つづく)  東大寺・広目天像  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる28

十界互具が一念三千の中心

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(28)  立正佼成会会長 庭野日敬 十界互具が一念三千の中心 悪人にも菩薩心はある  さて、ここで(一念三千)の本文にもどりましょう。  「夫れ一心に十法界を具し、一法界に又十法界を具す、百法界なり」とあります。われわれの日常の心の在り方を省みてみますと、地獄(怒り)・餓鬼(貪欲)・畜生(愚癡)・修羅(闘争)の心が、次から次へと湧いてきます。しかしそれを何とか自制し、コントロールしておおむね人間(平正)らしく生活しています。また、時には歓喜に満たされ、得意の状態(天上)になることもあります。声聞以上の(聖)の境地に上るひと時もあることについては、その項で説明した通りです。ここまでは、まずわかりやすい論理でしょう。  ところが「一法界に又十法界を具す」となると難しくなります。右の十界の一つ一つに、それぞれ十界が具わっているというのです。今、地獄界にいる人も完全に地獄界にいるのではなく、仏心もあれば菩薩心もあるというのです。それは何となくわかります。人殺しの大悪人でも、わが子は無性に可愛く、子のためなら自分の身はどうなってもいい……という気持になります。無償の愛、つまり仏の慈悲を心のどこかに具えている証拠です。 仏にも悪の因子はある  ここまではわかりますが、仏界にも地獄その他の十界が全部具わっているとなると、ちょっと問題です。仏に地獄・修羅・餓鬼・畜生の心があるとなれば、お釈迦さまの尊い人格を傷つけるものとして憤激する人もありましょう。ところが天台大師は、法華経をつらぬく精神の上に立って、これまでの仏教者が考え及ばなかった、あるいは考えても言うをはばかったであろう、この真実を断固として喝破したのです。  法華経の基本となる精神は(人間平等)ということです。あらゆる人間は、その根源においては平等な存在だというのです。しかし、現実においては、下は極悪人から上は仏まで、千差万別の人間像が見られます。なぜそのような違いがあるのか。これに対する答えを天台大師は(摩訶止観)巻五に簡明直截に説いておられます。  闡提(せんだい)は修善を断じ、但(ただ)性善(しょうぜん)の在るあり、如来は修悪(しゅあく)を断じ、但性悪の在るあり  闡提というのは、ひと口に言えば最低・最悪の人間のことですが、「その闡提も性質としては善はもっているのだ。ただ善を修する(行う)ことが全くないだけのことなのだ。仏は性質としての悪はもっておられるのだが、その悪を行われることが全然ないのだ」というのです。  実に理性に徹した達見です。感情的に闡提を排撃することもなく、仏(応身の仏)を神格化して絶対視することもない平等な人間観です。これによって、われわれ凡夫も性質としてもっている善を行動化しさえすれば、菩薩にも仏にもなれるのだ、ということがハッキリとわかり、明るい希望をもつことができるのです。  また「如来にも性悪は在る」というのも、ありがたいことです。もしお釈迦さまの心に悪の因子が全然なかったとしたら、悪というものはどんなものかおわかりにならず、人間のもつ悪の種々相に対する理解もありえなかったでしょう。したがって、それらの悪を断ずる方途も考えられなかったはずです。ところが、ありがたいことに、お釈迦さまはそうではなかったのです。その徳と慈悲は、赤ん坊のような天真らんまんなものではなく、すべての悪や煩悩をも手にとるように承知された上で、それらを包容しながら人間を善へ導いていくという、大きな智慧の働きにほかならなかったのです。 どの世界へも行ける可能性  お釈迦さまは、妻もめとり、子も成し、凡夫としての体験を豊富にもっておられます。そうした一人の凡夫が修悪を断じて仏となられた、その血のにじむような長い歩みは、そのままわれわれにとって生きた手本になります。そして、その教えも、通りいっぺんの概念的なものではなく、一つ一つに体験の汗と膏(あぶら)がしみこんだ教えなのです。だからこそ、その通りに行じていけば、万が一にも間違いはないのです。安心して随順していけるのです。  さて、地獄から仏までの十の世界に、それぞれ地獄から仏までの十の世界がお互いに具わっているというこの真実を(十界互具)といい、十掛ける十は百で(百法界)というわけです。これが(一念三千)の中心となる思想です。すなわち「人間はどの世界へもおもむく可能性をもっている」という断定なのです。自分にもこのような可能性があることをシミジミと思えば、地獄・修羅・餓鬼・畜生道へ落ちないように自制自重する心がひとりでに生じ、また、菩薩界・仏界にでも必ず上れるのだという希望と勇気が、油(ゆう)然と湧いてくるのを覚えるではありませんか。(つづく)  興福寺・五部浄像  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる29

万物・万象はどう変化するか

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(29)  立正佼成会会長 庭野日敬 万物・万象はどう変化するか 十如是は現象の実相を解明  十界の中にそれぞれ十界が具わっているという(十界互具)については、前回までに説明しましたが、それらの心と物の相即した世界は片時として固定してあるものではなく、諸行無常の理の通り、常に変化してやまないものであります。では、それらの世界はどのようにして在り、どのように変化するかという(諸法の実相)を解明したのが、法華経方便品に出てくる(十如是)の法門です。  如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等。  現代語に意訳しますと、「すべての現象には、それぞれもちまえの姿・形(相)があり、もちまえの性質(性)があり、もちまえの構造―空の集まり方―(体)があり、もちまえの潜在エネルギー(力)があり、その潜在エネルギーが発現して作用(作)を起こすときは、然るべき原因(因)と、その原因を助長する条件、(縁)とによって、然るべき結果(果)を生み、それは周囲に然るべき影響(報)を残すものである。それらの変化は、見かけは千差万別に見えるけれども、実相においては、初め(本)から終わり(末)まで一貫して等しく宇宙意志にもとづく宇宙法則につらぬかれているのである。(本末究竟等)」ということになります。 物心一如は生化学からも  このままでは難しそうな理論ですので、わかりやすい卑近な例を引いて説明しましょう。  朝顔は赤・白・青・紫などのラッパ型の花を咲かせます。これが朝顔のもちまえの相です(如是相)。相のあるものには、その相を現す本になるもちまえの性質(如是性)があります。ある朝顔には白い花を、ある朝顔には赤い花を咲かせる性質があります。  ところが性質というものは、そのものの本体から生じたものです。本体といっても元はただひといろの(空)なのですが、宇宙意志があるものを造り出すときは、(空)にそのもの特有の構造を与えます。朝顔の種子を割ってみても、なんら赤い色素も青い色素もありませんが、それぞれの種子には赤なら赤、青なら青の花を咲かせる遺伝子がちゃんと存在しているのです。  その遺伝子の本体が、DNA(デオキシリボ核酸)という螺旋状の高分子構造をもつ極微の存在であることは、今日ではもはや常識となっています。このDNAは(物)であるとも言えますが、自分自身にちゃんと記憶をもち、その記憶にもとづいて命令を発して蛋白質を合成させるというのですから、(心)であるとも言えるわけです。仏教でいう(物心一如)が、こうした現代の生化学からも裏づけられようとしているのです。ともあれ、ものの性質(性)は、宇宙の大生命がそのものを造り出す時に与えた特有の構成にもとづくものであって、この構成を(如是体)というわけです。  次に、(体)のあるものは必ずもちまえの潜在エネルギーをもっています。朝顔の種子には、発芽して成長する力を秘めています。これが(如是力)です。(力)は、機会があれば発現していろいろな作用を起こします。朝顔の種子に潜む(力)は、発芽して、つるを伸ばし、葉をつけ、花を咲かせます。こうしたもちまえの作用を(如是作)というのです。 一貫して宇宙意志による  そういう作用を起こさせるのは、元の元を探れば宇宙の大生命の意志による、ある原因であります。これを(如是因)と言います。ところが、宇宙の物象は一つとして独立しているものはなく、必ず他の物象と複雑に関係し合って存在し、変化するもので、ある原因にそれを助長する周囲の条件が加わってこそ、ある結果を生ずるのです。朝顔の種子について言えば、適当な土壌と、水分と、温度等です。このような条件を(如是縁)というのです。このような(縁)の助長によってそれにふさわしい発芽という結果が生ずるわけです。これを(如是果)と言います。また、結果は、たんにそれが生じたということだけでなく、他に対する何らかの影響を残すものです。たとえば、朝顔の花が咲いたのを見て人々が「美しいな」と感ずることなどがそれです。ある結果にふさわしいその影響を(如是報)というのです。  ところで、これまでに見てきた変化は現実世界では複雑微妙にからみ合っていて、人間の智慧では判別し難い面も多々あるのですが、その実相においてはハッキリしており、初め(本)から終わり(末)まで一貫して、宇宙の大生命の意志とその法則にもとづくものであることに変わりはありません。このことを(本末究竟等)というのです。  さきに(十界互具)であるから十掛ける十で(百法界)であることを言いましたが、その百法界はいま述べた(十如是)の法則によって変化しますので、百掛ける十は千で、千種類の世界が展開することになります。これを(百界千如)と言います。もう一息で三千ということになりますが、それは次回に説明いたしましょう。(つづく)  仏頭(アフガニスタン)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる30

事の一念三千でなければ

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(30)  立正佼成会会長 庭野日敬 事の一念三千でなければ 百界千如が三世間に展開  物と心の相即する世界が一千種に変化するところまで前回に述べました。その一千種の世界は、衆生世間・国土世間(器世間)・五蘊(ごうん)世間という三つの世界に展開するから、千掛ける三は三千となり、いよいよ三千という数字に到達するわけです。  (衆生世間)とは、いろいろな生命体が寄り集まって造っている世界、つまり(もろもろの生命体が持ちつ持たれつして存在する関係の場)と解釈していいでしょう。  (国土世間)とは、それらの生命体の住む場所、つまり地球上の自然界および全宇宙を指します。  (五蘊世間)というのは、人間のからだと心がすべての存在を把握する五つの仕方をいいます。(蘊)というのは集まりという意味で、五蘊とは色・受・想・行・識を言います。その(色(しき))というのは(物の集まり)を言います。人間で言えば、肉体を指します。(受)というのは、(感覚の集まり)です。見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触ったりする、そうした感覚をひっくるめたものです。(想)というのは、(判断の集まり)です。感覚したものを「これは美しい」、「これはうまい」といったふうに判断して受け取る心作用を言います。(行(ぎょう))というのは、(意志の集まり)です。判断したものを行為に移す心の働きです。美しいと感じたらジッと眺めていたいと思い、うまいと感じたらもっと食べたいと意欲する、そうした意欲によって行為を生ずるのですから、(行)というのです。(識)というのは(経験と知識の集まり)です。と言っても、人間としてこの世に生まれてからの経験と知識ばかりでなく、はるかな過去世、前世からの記憶が潜在意識に残っているのまでも含む、そしてわれわれのあらゆる生きざまを決定し、動かしていく複雑な記憶の集まりをいうのです。ひっくるめて(五蘊世間)とは、(物と心とがかかわり合う場)と解していいでしょう。  こういう三つの世間に、一念の中の千種の世界が展開するので、(一念三千)というわけです。 一に全体があり全体は一  こうして(一念三千)の理論が出来上がったわけですが、田村芳朗文学博士はその著(仏教の思想第五巻)の中で、次のように結論づけられています。  「一念と三千の関係はただ『心は是れ一切の法、一切の法は是れ心』といわれるものである。具体的に言えば、極微の一念に三千の宇宙万有が包含され、みなぎり、三千の宇宙万有に極微の一念が透徹し、みなぎるということである。天地万物が一つになって一物の中に存し、また一物の力がひろがって、天地万物の中に存するということである。宇宙一切物は一物に関係し、一物は一切物に関係している」  たいへん難しい理論のようですが、つまり、人間を含めたこの世の万物・万象は、一見別々の存在のように見えても本は一つであり、密接につながっており、したがってわれわれの一念の中には宇宙全体がチャンとあるわけです。これが一念三千の理論であり、いわゆる(理の一念三千)であります。 (事)でなければ救われぬ  ところが、このような高邁な世界観を聞いても、ただそれを理論として知り得ただけではほとんど何の役にも立ちません。その理論を自分の心のもち方や実際の生きざまに当てはめ、行為に生かしてこそ真の価値が発揮されるのです。しかも、自分自身から始めて、家庭・社会・国家・人類の在り方へと及ぼしていってこそ、己の運命をも変え、人類の運命をも修正していくことができるのです。一念三千のそうしたはたらきを(事の一念三千)と言います。(理)の抽象性や普遍性に対して、(事)というのはそれを実際に生かす具体性と、それぞれの事態に即した特殊性を言うのです。  では、実際問題として、一念三千の理をどのようにして実人生に生かせばいいのか……ということが最後の課題となります。  ところが、一念と言っても、喜び・怒り・悲しみ・楽しみ・恨み・妬み・羨望・侮蔑といった(表面の心)ばかりではありません。その奥にかくれた広大な潜在意識・深層心理という世界があり、われわれが表面の心を善くしようと一生懸命に努力しても、このような(かくれた心)が深い所からいろいろな悪作用を及ぼしますので、なかなか思うようになりません。ただ信仰のみがそれを清めることができると私は信じているものですが、次回からはこの(かくれた心)とはどんなものか、なぜ信仰がそれを清めることができるのか、ということをつぶさに研究していくことにしましょう。(つづく)  誕生仏頭部(東大寺)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる31

無意識の世界とは

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(31)  立正佼成会会長 庭野日敬 無意識の世界とは 自分では気づかぬ心がある  元巨人軍の名監督・川上哲治さんが、よくベンチで貧乏揺すりをしていたことは有名です。たいてい自軍の戦いぶりが思わしくない時でした。私共も、何かイライラすることがあると、われ知らず手を振り動かしたり、指で机をトントン叩いたり、無意味な行動をします。また、ひどく恥ずかしいことがあると、思わず顔を赤くします。なぜでしょうか。  目のすぐ前に小さな虫が飛んで来ると一瞬目をつぶります。生まれてから今まで目に虫が入って痛い思いをしたことなど一度もないのに、思わず目をつぶります。なぜでしょうか。  赤ちゃんに乳の飲み方をだれも教えはしません。それなのに、生まれたばかりの赤ちゃんがチャンとお母さんの乳首をくわえ、それを舌で巻き込むようにして上手に乳を吸い出します。どうしてそれができるのでしょうか。  トカゲや、サンショウウオや、アオダイショウや、ヤマカガシなどは、毒もなければ噛みつきもしないのに、見るからに気味が悪く、いやらしく感じます。「何も害はしないから大丈夫だよ」と自分自身に言い聞かせてみても、近寄るのがなんとなく怖いものです。なぜでしょうか。 無意識の世界は底無し  われわれが、物事をハッキリと感じたり、知ったり、考えたりする心、すなわち自分でとらえることができ、自分で左右することのできる心(表面の心)を(顕在意識)もしくは単に(意識)と言いますが、その意識の奥に、われわれが自分でとらえることのできない、自分では気のつかない心(かくれた心)の世界があり、これを心理学では、(潜在意識)とか(無意識)とか呼んでいます。  今あげたいくつかの例のように、自分では意識しない行動を思わず知らずやってしまったり、だれにも教わらぬことができたり、表面の心では「怖がることはないのだ」と知っていても、やはりヘビやトカゲが怖い等々は、すべてこの(無意識)のはたらきなのです。  なにしろ、この(無意識)は広大無辺な心の世界であって、自分がこの世に生まれてから経験したことを残らず覚えているばかりでなく、先祖代々の人々が経験したことまで、そこに沈んでいるのです。もっとさかのぼって考えますと、人間がまだムシとかサカナのような生物だったころから、だんだん進化して哺乳類になり、ついに人間になるまでの長い長い間に経験したことも、すべて、この無意識という心の奥に蓄積されているというのです。ですから、学者に言わせると、現在のわれわれがヘビやトカゲなどを気味悪く、恐ろしく感じるのは、何万年も前にそういったハチュウ類の巨大なものが地球上にはびこっていて、人間の祖先がそれらにいじめられた記憶が、無意識の奥に残っているからなのです。 無意識まで清めなければ  この無意識という不思議な心は、心の奥の奥に溜ってジッとしているのではなく、時に応じて表面の心へ浮かび上がってくるのです。それも、良い記憶や、快い経験などが浮び上がってくるのだったら、われわれの感情を美しくし、善い行動を起こさせ、あるいは立派な芸術作品を生み出す原動力になったりするのですが、反対に、暗い、残虐な、あるいは恐怖の記憶などが浮かび上がってくると、われわれの表面の心を濁らせ、かき乱し、あるいは悪い行為へと走らせてしまいます。  ムシでも、サカナでも、トリでも、ケモノでも、自分が生きていくためには、また自分の種族を維持するためには、どんなわがままでも、どんな残忍なことでも平気でやります。他のものの食物を横取りしたり、雌を奪い合って闘争したり、あげくの果ては相手を殺したり、仲間を食ったりします。ホトトギスなどのように、ウグイスの卵を巣からけ落として、そこへ自分の卵を産み、ウグイスの親に育てさせるといった、悪賢いことさえするのです。  われわれも、人間に進化するまでの長い長い間、ずっとそうしたことをやってきたのです。人間にまで進化し、だんだん文化が進み、秩序ある社会を営むようになると、そんな利己一本やりのことばかりやってはおられませんので、法律その他の規則をつくり、また倫理・道徳といった共通の戒めも自然にでき、意識してわがままな欲望や悪の衝動を抑えるようになってきました。  しかし、心の底にある無意識の世界では、相変わらず我執と利己心が大きな勢力を占め、それが時に応じてウゴメき出してきますので、人間世界にはやはり紛争や苦悩が絶えません。ですから、人間が本当に救われるためには、どうしてもこの無意識の世界まで清めなければならないのです。そのためにはどうすればよいか。次回からそのことについて考えていくことにしましょう。(つづく)  仏頭(唐時代)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる32

無意識の世界を清めるには

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(32)  立正佼成会会長 庭野日敬 無意識の世界を清めるには まず表面の心を清める  意識の世界(表面の心)と無意識の世界(かくれた心)との間には、いつも往来があります。特に、その境目とされている識閾(しきいき)のすぐ下あたり、つまり無意識の浅い部分との交流は激しくもあり、容易でもあります。青少年時代によく歌った歌は、何十年来すっかり忘れていても、何かのキッカケですぐ思い出して歌えるのも、そういったはたらきです。  ですから、無意識の世界を清めるには表面の心を清めるのが、第一の方法です。生きものを殺生せず、正しくものごとを考え、寛容と、謙虚と、ありのままということを本位として生活することです。さらに積極的に、良い書を読み、美しい音楽や美術を鑑賞し、人に親切を尽くし、些細なことでもいいから多数の人のために奉仕することです。そうした良い経験は、確実に無意識の世界に刻みつけられますから、かくれた心も浅い部分から次第に清められていくわけです。かくれた心の浅い部分が美しくなってくれば、時に応じて表面の心に浮かび上がってくる思いも、美しいものが多くなってくるわけです。普通に(人格の向上)というのは、これをいうわけです。 降魔から成道への過程  ところが、無意識の深い部分となると、そう簡単には清められません。前回にも述べましたように、人間がまだ下等な生物だった時代からこのかたの、まったく自己中心の、わがままな、残忍な心がドロドロと沈んでいるのですから、そこまで清めるためには、どうしても宗教の力が必要なのです。  仏教に即して言えば、まず人間の本質は光り輝く(仏性)である。宇宙の大生命と同体の聖なる存在であることを知ることです。そして、その(仏性)の結晶である仏さまを朝夕礼拝し、お経をあげ、それを毎日毎日続けることによって、聖なる心を大量に、繰り返して、無意識の世界に浸み込ませることです。  坐禅も有力な、直接的な手段です。前(第十六回)にも申しましたように、禅の修行の最大の眼目は(父母未生以前における本来の面目を知る)ことですが、それはつまり、自分の本質が仏性であることを、たんに頭の上で知るのでなしに、魂の底にしっかりとつかむことなのです。しかし、そこまで到達するのがなかなか容易でなく、うっかりすると無意識の底にウゴメク魔性に惑わされてとんでもないことになりかねません。ですから、坐禅は必ずいい指導者の下でしなければならないのです。  成道寸前のお釈迦さま(厳密に言えば菩薩)が、坐禅をなさっている最中に魔の大軍に襲われたことは、仏伝に明らかです。初めに若く美しい女たちがやってきて、誘惑をこころみましたが、菩薩はやさしく諭(さと)して引き返させました。次はさまざまな怪物の軍勢がやってきて、脅迫と暴力で屈服させようとしましたが、慈悲に満ちた菩薩の徳には敵しかね、スゴスゴと退散しました。最後に魔王がやってきて、問答のペテンにかけて頭脳を混乱させようとしましたけれども、菩薩は正しい理によってそれを論破してしまいました。  こうしてスガスガしい精神的勝利を得た菩薩は、ふたたび深い禅定に入り、明星のキラメく十二月八日の明け方、ついに仏の悟りを得られたのでありました。 懺悔の効用はここにも  この魔の大軍というのは、じつは無意識の底に沈んでいる悪心の群れだったと言われます。菩薩だったからこそ、それらをすべて克服されたのですけれども、普通の人だったら気が狂ったかもしれません。(だから坐禅・催眠・その他直接無意識の世界にはたらきかける行は、よい指導と正しい方法によらねばならないのです)。ところで、渡辺照宏博士の(新釈尊伝)によりますと、魔軍の方から襲ってきたのではなく、菩薩がわざわざそれを魔界から呼び出されたのだそうです。しかも、やって来た魔軍を力ずくで屈服せしめたのでなく、慈悲と智慧によって無力化せしめたわけです。これは、非常に重大なことで、ここに宗教のはたらきの典型があると思います。  私ども凡夫は、自分の無意識界の奥に潜む魔軍を自らの意志で呼び出すなどという霊力はもち合わせておりません。ただ、それに近いことは私共でもできます。それは懺悔ということです。これまでに積んできたもろもろの悪業や、心に起こした数々の悪心を、可能な限り思い出し、仏さまの前に、あるいは信頼する指導者の前に、洗いざらいさらけ出すのです。  そうすれば、表面の心ばかりでなく、無意識の世界もある程度まで洗い清めることができるのです。懺悔したあと、他では味わうことのできぬスガスガしさを覚えるのは、そのせいなのです。  そこで、ひとりでにわき上がる歓喜の思いに乗って、仏さまを礼拝し、賛嘆し、お経をたくさんあげ、唱題を繰り返し唱え、説法を一心に聞き、仏書をも熱読するといった宗教的な行を続けていくならば、無意識の世界がますます清まっていくのは必至です。これこそが、宗教ならではのはたらきなのであります。 (つづく)  ギリシャ人の仏供養者(パキスタン)  絵 増谷直樹 ...

心が変われば世界が変わる33

最深部の無意識は人類共通

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(33)  立正佼成会会長 庭野日敬 最深部の無意識は人類共通 仏教で説く心の構造  これまでは、主として無意識の底に沈む暗い心を取り上げてきました。これは仏教でいう末那識(まなしき)に当たるものです。仏教では心の世界の構造をどう見ているかといいますと、代表的なのは(八識)という考え方です。八識というのは眼(げん)・耳(に)・鼻・舌・身・意の六識に、末那識・阿頼耶識(あらやしき)を加えた八つの心のはたらきです(大乗仏教では、第九識として阿摩羅識を加えますが、これは真如・仏性そのものですから、ここでは触れません)。  はじめの五識は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚によって外界のものごとを感じ取るはたらきであり、意というのは、感じ取ったものごとを「美しい」とか、「好きだ」とか判断したり、「これをやろう」とか「これはやるまい」などと意志したりする心のはたらきをいいます。以上の六識は、われわれがハッキリ意識することのできる心で、いわゆる表面の心です。  末那識・阿頼耶識は、無意識の世界です。まず末那識ですが、仏教では、これが一切衆生妄惑の根本であると説かれているのです。すべての生きものは、もともとは宇宙の大生命であり、清らかな光明そのものだったのですが、これが一定のからだを持つ生命体となってこの世に現れたとたんに、自分のからだにとらわれ、そのからだを保ち、殖やすことに懸命になってしまったのです。そのためには、前(三十一回)にも述べたように、どんなわがままでも、残忍なことでもやってきました。この自己中心の無意識的な心が末那識です。人間のいわゆる煩悩もここから起こり、ここにしみついているわけです。 阿頼耶識は万有の根源  阿頼耶識というのは、(一切万法顕現の原因としての潜勢力)と定義づけた人もおられるように、宇宙万物の存在の根源をなしている宇宙意志ともいうべき心をいうのです。万有を蔵するというので(蔵識)とも名づけられ、万有発生の種子であるとして、(種子識・しゅうじしき)とも呼ばれます。  心の世界はおよそつかみ難いものですが、この阿頼耶識ともなれば、いよいよ難しく、説明しようにも的確な仕方がなく、それをつかまえる方法も軽々には述べられません。ただ、次の二つの事例をつなぎ合わせると、なんとなく領得できるように思います。  発明王エジソンが、死ぬ少し前に、次のような言葉を残しています。  「着想は宇宙空間から来る。途方もなく、信じられない……と思うかもしれないが、それは事実だ。考えは空間から浮かび出るのだ」  文化勲章受賞の数学者・岡潔博士は、その名著(春宵十話)に次のように書いておられます(他の著書にも何度か引用しましたが、あまりにも貴重な体験だけに、経典の金言と同様、何十回繰り返し、引用してもよいと信じます)。  「七、八番目の論文は戦争中に考えていたが、どうもひとところうまくゆかなかった。ところが、終戦の翌年宗教に入り、なむあみだぶつをとなえて木魚をたたく生活をしばらく続けた。こうした或る日、おつとめのあとで考えが或る方向へ向いて、わかってしまった。この時のわかり方は、以前のものと大きくちがっており、牛乳に酸を入れたように、いちめんにあったものが固まりになって分れてしまったふうだった。それは宗教によって境地が進んだ結果、物が非常に見やすくなったという感じだった」  発明とか数学とかいえば、まったく理性のみの所産だと考えられがちです。表面の心で理詰めに詰めていって、ある結果に到達するもの、と考えるのが普通です。ところがそうではなく、理詰めの前や後に、あるいはその中間にポッカリあいた無意識のエアポケットがあって、そこから貴重なアイデアがひらめいてくるものだということは、お二人の証言によって明らかだと思うのです。 阿頼耶識によき形を与える  スイスの有名な心理学者・ユングは、無意識の世界を分けて、個人的無意識と普遍的無意識としています。普遍的無意識というのは、ある家族にはみんなに共通する潜在意識があり、ある文化圏に属する人間(たとえば、東洋文化の中にいるアジア人)にも共通の潜在意識があり、もっと深く探れば、人類全体に共通の潜在意識があるというのです。  この普遍的無意識ということは、すでに世界の学者の間に認められている説ですが、これを阿頼耶識と同様に解釈している学者もいます。たとえば、アメリカのE・ホルムス博士は、普遍的潜在意識は、抽象的で、形のない状態における(心)であり、それは潜在的エネルギーであって、形をもつものに形づくられるように身がまえているのだ……と説明しています(西岡旻佐子訳(心の科学)2による)。この(身がまえている)という表現は、まことに説得力があります。エジソンや岡博士は、この身がまえていた普遍的無意識を素直に飛び出させ、それによき形を与える、なにものかをもっておられたのでありましょう。(つづく)  婦女形(法隆寺五重塔塑像)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる34

心の通じ合いの不思議

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(34)  立正佼成会会長 庭野日敬 心の通じ合いの不思議 だれにもある心の通じ合い  きょうはあの叔母さんが遊びに来られるような気がする……なんとなくそんな思いが念頭をかすめた。すると、案の定ヒョイと訪ねてこられた……そのような経験は、だれにもあるでしょう。二、三人で、ある人のことを話し合っているとき、当の本人がフラリと現れて、「噂をすれば影だなあ」と笑ってしまう……そんなこともよくあります。永年の夫婦仲ならば、夫が「今夜あたりスキヤキで一杯やりたいな」と考えながら帰宅してみると、チャンとその用意ができていた、というような経験もあるはずです。  たいていの人は「偶然の一致さ」と軽く一蹴してしまいますが、少しでも(心)の問題に関心のある人だと、「いや、何かあるぞ」という疑問を起こすはずです。正しい疑問です。確かに「何かある」のです。むかしはこのようなはたらきを(虫の知らせ)とか(以心伝心)という言葉で片付けていましたが、現代になってから学問的に研究され、そうしたはたらきの実在が証明され、テレパシー(遠隔感応)と名づけられました。  最初の実験者はアメリカのデューク大学にいたライン博士夫妻で、+≋☆□○の五つの図形を書いたカード(ESPカードという)を用意し、実験者がそのカードを一枚ずつ取り上げて図形を見ると、意識に与えられたその刺激を、別室にいる被実験者が心に感じ取って図形を言い当てるという実験です。これを何千回と繰り返すことによって、その的中の確率の上から、偶然ばかりでなく、遠隔感応という心のはたらきがあることを証明したのでした。 心は肉体を離れて活動できる  これが始まりで、音声とか、言葉とか、表情とか、といったようなものを通さず、冥々のうちに人と人との間に心の伝達が行われること、心霊が肉体とは独立に活動することが科学的に実証され、こんな問題には懐疑的な学者でさえ、それを承認するようになりました。  現在では、宇宙船と地上との交信にテレパシーを利用しようという研究さえ始まっているそうです。聞くところによりますと、超能力研究の盛んなソ連で、約三千五百キロ離れたモスクワとシベリアのノボシビルスクの間でESPカードを使ってテレパシーの実験をしたところ、ある超能力は二十枚全部を言い当てたといいます。  私はなにもこのような超能力を称揚したり、奨励したりするつもりはありません。ただ、人間にはだれにも、強弱の差こそあれ、このような能力をもっていることを知ってもらいたいのです。心を変えることによって人を変え、境遇を変える(一念三千)の理も、このような能力があればこそ成り立つのです。  冒頭にあげた心の通じ合いの事例は、あなたにもそんな覚えがあるでしょう。ということは、あなたにもそのような能力がある証拠です。その能力を少しでも強め、善い方向へ使うようにすれば、あなたの周囲の人々の幸せを増し、あなた自身をも高めることができるのです。  (善い方向へ使う)とわざわざ言ったのは、世の中にはときたま強い念力をもつ人がいて、そんな人が「あんな奴死んじまえ」などと人を呪う心をもてば、てきめんに相手が不幸に陥るという実例があるからです。  (善い方向へ使う)というのは、人の幸せを念ずることです。もちろん言葉や行動によってその不幸から救ってあげようとする努力も大切です。しかし、実際問題として、言葉や行動によってその不幸から救ってあげようとする努力も大切です。しかし、実際問題として、言葉や行動だけでは及びもつかぬ場合がしばしばあります。また、頑固な人はかえってそれに反発し、寄せつけぬこともあります。  そんなときは、「仏さま、どうかあの人を幸せの道へ導いてください」と心から祈ってあげるほかありません。そうした祈りは、一念三千の理によって必ず通ずるのです。もし、通じなければ、あなたの(心の力)がまだ微弱であるからなのです。 念力は(行)によって強まる  言論や実際行動によって人を救い、世を明るくする努力は信仰者でなくてもできます。そうした表面に現れる努力の底に、祈りの力、心霊の力が加わってこそ、信仰者と言えるのです。その意味で、(心の力=念力)を強めることはやはり大切なのです。  それならば、心の力を強めるにはどうしたらいいのか。行(ぎょう)よりほかに方法はありません。  無心になって唱題する。読経三昧に入る。さらに進んでは、水垢離をとる。滝に打たれる。あるいは、端坐して一心に仏を念ずる、そうした行を積めば積むほど、念力というものは強まっていくものです。  むかしから、聖者と言われる人は今で言う超能力者でした。お釈迦さまも、イエス・キリストもそうでした。しかし、一般の信仰者はそこまで行かなくてもいいのです。ただ、心の力を少しでも強くし、人を幸せにしてあげたいという祈りが相手に通じ、相手を動かすことができるように努力することは、大乗の信仰者としては不可欠の条件でありましょう。(つづく)  ガンダーラ仏  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる35

虫にも植物にも心は通ずる

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(35)  立正佼成会会長 庭野日敬 虫にも植物にも心は通ずる 生物は電気的霊気を発散  エール大学のH・S・バー博士を中心とする研究者たちが、十二年間さまざまな実験を繰り返した結果、次のような結論を得、一九四四年に発表されました。  「すべての生物は、からだの周辺に電気的な霊気を発散し、それに包まれている。そして、生命力は宇宙の全構成と連絡している」  からだの周辺に電気的な霊気を発散しているという事実からして、非常に霊力の強い聖者の絵像などに見られる後光・円光も、お釈迦さまの額の白毫(びゃくごう)から発した光明も、絵そらごとではないことがわかります。そして、そうした電気的な霊気が宇宙を構成するすべてのものと連絡しているということから、遠く離れている人と人との間の心の通じ合いも説明できますし、また一念が三千を変えるという天台の教えも納得がいきます。 羽アリを動かしたお九字  三千とは宇宙の全構成をいうのですから、単に人間と人間のつながりばかりでなく、他の動物とも、植物とも、無生物とも心の連絡があり、人間の精神力によって相手を変えることができる……という理論が成り立ちます。犬やネコのペットをかわいがっている人や、牛・馬を手塩にかけて育てている人などは、こちらの意思や感情がそうした動物たちによく伝わることを確認しているはずです。  下等動物といわれる生きものになればなるほど、そのような伝達は難しくなります。しかし、念力の強い人は、虫のようなものでさえ動かすことができるのです。わたしどもの会の脇祖・故長沼妙佼先生は霊能の強い方でしたが、ある夏、こんなことがありました。当時、妙佼先生はお店をやっておられましたが、家の土台にシロアリが巣食い、成虫となった羽アリがわき、一メートル幅ぐらいの列をつくって、座敷へゾロゾロ入ってきたのです。一生懸命に掃き出しても、あとからあとから入ってきます。  それを見て、店の若い衆の一人が「おばさんがどんなに大した信仰者だって、この羽アリをどうすることもできないでしょう」とからかいました。この若い衆は、いつも信仰というものをケナしてばかりいる男でしたので、妙佼先生は「よし、それではいま、いなくしてみよう」と言い、ご宝前の前に座り、一心にお願いされました。「この男に信仰のありがたいことを悟らせるために、どうぞ不思議をお見せください」。こうお願いして、羽アリの列に向かって、エイッ、エイッとお九字を切りました。すると、羽アリはクルリと向きを変えて、ゾロゾロ出て行ったのです。これには、その若い衆もびっくりし、以後、ピタリと悪口を言わなくなりました。 憎むなかれ罵るなかれ  それならば、植物にも心はあるのか、あるならば人間の心が通ずるはずだが……という疑問が当然起こってくるでしょう。ところが、確かにあるのです。一番顕著な実例は、ニューヨークのクライブ・バクスター氏の実験で、これは日本でもいろいろ新聞・雑誌に報道されましたのでご承知かもしれませんが、事のついでに紹介しておきましょう。  バクスター氏は嘘発見検査官養成学校の校長ですが、フト思いついて、ドラセナという観葉植物について嘘発見器をセットしてみました。そして何かドラセナに刺激を与えなくてはと考え、「よし、火をつけてやろう」と考えたそうです。するとそのとたんに、なんとメーターの針がピクリと動いたのです。瞬間、バクスター氏は「植物にも心がある」ことを直感し、それから積極的に研究し始めました。  例えば、部屋の中にあるいろいろな植物を、一人の男に棒でビシビシたたいて回らせました。それから、数人の人を一人ずつその部屋に入らせ、最後にくだんの男を入らせました。すると、他の人が入ったときは、メーターの針は少しも動かなかったのに、さんざんにたたいた男が入ってくると、針はものすごく揺れ動いたのでした。憎しみか恐れかわかりませんが、植物たちはその男に対して敏感な反応を示したのでした。  アメリカ人は、物質万能主義とばかり片付けてはならないのであって、精神とか心霊とかに深い関心をもつ人は案外多いのです。農業者でも、例えば、野菜・草花・苗木などを精神力で見事に生育させる実験をやっている人がたくさんあります。例えば、トマトの苗を二列に分けて植え、一方には毎日愛の言葉をかけてやり、一方には「バカヤロウ」などと罵りつづけていると、前者はいきいきと育って立派な実をつけ、後者はいじけた茎葉になって実も小さく、味も悪くなるそうです。  このように、虫にも、植物にも心があり、人間の心はそれに通ずるのです。ましてや人間同士に通じないことは絶対にありません。ですから、かりそめにも人をひどく憎んだり、罵ったりしてはなりません。それは一種の殺生です。間接的な、緩慢な殺生です。直接殺さなくても、これはやはり殺性の罪なのです。(つづく)  童子の頭部(浄瑠璃寺)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる36

愛語よく廻天の力あり

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(36)  立正佼成会会長 庭野日敬 愛語よく廻天の力あり 生きものにはハゲミをつけよ  前回に、植物にも心があるということを書きました。その実例をもう少し紹介してみましょう。  かつてアメリカでベストセラーになったクラウド・プリストルという人の著(信念の魔術)(日本訳はダイヤモンド社発行)に、あるスイス人の庭師のことが書かれています。  「彼は小さい苗木を植え、根に土をかぶせるとき、その都度、なにかおまじないをぶつぶつと口の中で言っていました。私は不思議に思ってわけを聞くと、彼は言いました。『あなたにはおわかりにならないかもしれませんが、私はこの木が栄えて、りっぱに花を咲かせるように話をしてきかせているんです。私が子供のころ、生国のスイスで、師匠に教わったのです。なんでも生きものにはハゲミをつけてやらなければならない……というのです』」  「なんでもいきものにはハゲミをつけてやらなければならない」とは、じつに素晴しい名言だと思います。 「くされ」と「美しく」の差  一昨年の三月三十日発行の(中外日報)に、北川陽光さんという方が、次のような実験報告をしておられます。  「今年(昭和五十二年)五月二十五日、夏みかんを五個買ってきました。二個を仏壇に供え、三個は私が頂きました。一週間ほど過ぎて仏壇の二個を下げました。一個にたいしては『くされ、くされ、くさる、くさる』と念じました。他の一個には『美しく、美しく、そのままで、そのままで』と念じました。そして二階に上がるたびに同じように念じ続けました。  四ヵ月近く過ぎた九月半ばごろ、マイナスに念じた方が黒くなりかけていました。『私の願いを聞いてくれてありがとう』とお礼を言いました。それから一ヵ月あまり過ぎた十月二十一日に二個をならべて写真を撮りました。プラスに念じた方は五ヵ月前の美しい姿そのままです。私は今もなお二個の夏みかんを見守っています」  これは普通人よりすぐれた念力をもつ方の実験例だと思いますが、いずれにしても、植物にも心があり、人間の心がそれに通ずることは間違いないようです。 理解を示す言葉をほどこす  仏教に(和顔愛語)という言葉があります。「人には和やかな優しい顔で対し、愛情ある言葉をかけるように心掛けよ」という教えです。その愛語について、道元禅師は(正法眼蔵)の中でくわしく解説しておられます。  「愛語というは、衆生を見るにまず慈愛の心をおこし、顧愛(こあい)の言語をほどこすなり。おおよそ暴悪の言語なきなり。(中略)衆生を慈念すること、猶、赤子の如し、おもいをたくわえて言語するは、愛語なり」  どんな人に対しても、自分の子のようにいとおしい思いを抱いて言葉をかける、これが愛語だというのです。しかし、実際問題として、凡夫のわれわれにとって、どんな人をもわが子のように思うというのは難事中の難事です。そこでわたしは、方便として、この慈愛という言葉の代わりに(理解)という言葉を置き換えたらどうかと考えるのです。  どんな人も、この世に生まれてきているかぎり、ある(存在価値)をもっています。その人なりの(分)があり、(立場)をもっています。その存在価値・分・立場というものを理解しようと思えばわれわれ凡夫にもできます。そうした理解を示す言葉をほどこすこともできます。だれでも、「自分が理解されている、認められている」と思えば、こんなうれしいことはありません。どうかすると、「愛されている」と知るよりも、もっとうれしいかもしれません。そこで、道元禅師のつづいての言葉も生きてくると思うのです。  「むかいて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。むかわずして愛語をきくは、肝に銘じ魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり、ただ能を賞するのみにあらず」  面と向かって愛情ある言葉を聞くのもうれしいが、人づてに「あの人は君のことをこう賞めていたよ」などと聞けば、理解された喜びはなおさら深く魂に刻まれるのです。「愛心は慈心を種子とせり」とありますが、心とは一切のものを等しくいつくしむ仏の心ですけれども、仏ならぬ凡夫にとっては(一切のものを理解しようとする心)と考えていいと思います。  そして、あらゆる人に理解を示す言葉を施せば、理解された人の魂は必ず喜びます。そのようにして、愛の言葉とそれを聞く喜びが無限に広がっていけば、この世はこのまま浄土と化するのです。それが「愛語よく廻天のちからあり」にほかなりません。(つづく)  仏頭(山田寺)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる37

理解から生まれる真の愛情

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(37)  立正佼成会会長 庭野日敬 理解から生まれる真の愛情 愛さなくても理解はできる  前回引き続き、(愛)と(理解)ということについて、もう少し考えていってみましょう。  人間の心の理想の境地は、一切のものを等しく愛することでありましょうけれども、実際問題として、仏ならぬ凡夫にとってはなかなか難しいことです。自分の子供や、気の合う友人や、慕わしい異性などは、「愛せよ」と言われなくても愛する気持になります。しかし、暴力団員や、汚職する役人や、自分に圧迫をかけてくる敵対者などは、いくら「等しく愛せよ」と言われても、なかなかそんな気持になれないのが普通です。  ところが、暴力団員にせよ、汚職役人にせよ、それらの人たちがどんな因縁でそうなったかを思いめぐらして、「気の毒な人だなあ」と理解することはできます。敵対者に対しても、心を静めて客観的に観察し、相手にもそれなりの立場があることを理解することはできます。  普通人は、蝶やトンボを愛しますが、汚らしい蠅や、刺して血を吸う蚊は憎みます。ところが、俳人・一茶は「やれ打つな蠅が手をする足をする」と歌っています。密林の聖者・シュバイツアー博士は、蠅や蚊一匹殺さなかったそうです。一茶の場合は、不遇と流離のどん底生活にはぐくまれた弱者への立場の理解から発した声でしょうし、シュバイツアー博士の場合はハッキリと「いかなるものにも生きる権利はある」とその理由を述べておられます。いずれにしても、理解から生まれた愛情だと思います。 不変の愛情は理解から  自然発生的な愛情は「愛はきまぐれ」という言葉どおり、熱烈に愛していた異性が、フトしたキッカケでいやでいやでたまらなくなることもあります。「可愛さ余って憎さが百倍」というケースもしばしばあります。それに対して、理解から発した愛情は、静かではあるが永続性があります。不変性があります。大乗仏教で説く慈悲とは、そのような愛情だとわたしは思うのです。  その証拠には、在家の信仰者である菩薩のために説かれた六波羅蜜は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六ヵ条で、慈悲という徳目はありません。これについて、わたしは次のように解釈しています(この六ヵ条は別々の徳目としても成り立ちますが、人間向上のための一連の修養過程と考えるほうがより適切だと思います)。  在家の普通人には、いきなり「人に対して愛情をもて」と説いても無理なので「人間らしい人間になるためには、まず人さまのために尽くしてみなさい」と、行動から入ることを勧めるのです。素直な心でそれを受け取って、とにもかくにも人のために尽くしてみますと、必ずその分だけ心がきれいになります。そして、みっともないことができなくなります。身を慎む気持が生じます。それが持戒です。身を慎む気持があると、感情を爆発させず、万事によく耐え忍ぶようになります。それが忍辱です。耐え忍ぶ習慣ができますと、正しい道に一心に努め励むことができるようになります。それが精進です。正しい道に一心に励んでいると、心がそれに集中するようになり、従って、物事に動揺しない静かな深い心をもち得るようになります。それが禅定です。心が静まり、深まってきますと、自然と世の中の実相が見えてき、本当の生き方とは何かということもわかってきます。それが智慧にほかなりません。  そうした智慧が身につきますと、慈悲という徳はひとりでに生じてくるのです。なぜならば、この世の中の実相は、すべてのものが相依相関した大調和の世界だ、ということがしっかり理解されますので、どの人を見ても、どの動物・植物を見ても、「一緒に生きている仲間だ」という友情を抱かざるをえなくなるからです。そのような友情をこそ慈悲といい、そのような友情こそ永続性のある、不変の愛情なのです。 理解されたという感銘こそ  理解から生じた愛情とは、このように深く、そして広い愛情です。ですから、そのような愛情を受ける人は、単にベタベタ愛されるのとは違った、深い感銘を受けるのです。わたしのある知人が、少年のころ、尊敬する叔父さんにひどく叱られたときのことを語ってくれました。その叔父さんは「頭のいいお前が、なぜそんなバカなことをしたんだ」と言ったそうです。なぜ叱られたのかといういきさつも、叱責の言葉も、すっかり忘れてしまったのに、「頭のいいお前が……」という一語だけは、強烈に心に刻まれて忘れられないというのです。そして、その後の何十年の人生において、何かに挫折感を覚えたり、前途に不安を覚えたりしたとき、必ずその一語がよみがえってきて、「おれは頭がいいはずだ、よし……」と気を取り直すことができた……という述懐でした。  これは、実にいい話だと思います。理解を示す言葉こそ愛の言葉です。あなたも、子供を叱ったり、友人を励ましたりするとき、必ず相手に対する理解の言葉を添えることを忘れないで欲しいものです。「愛語よく廻天のちからあり」とはこのことなのです。(つづく)  鑑真大和上像頭部(唐招提寺)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる38

先祖の霊との心の通じ合い

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(38)  立正佼成会会長 庭野日敬 先祖の霊との心の通じ合い 法華経に見る生まれ変わり  人間同士および動物・植物など目に見える存在との心の通じ合いと同時に、目に見えぬ存在との心の通じ合いが、これまた非常に大事なことです。目に見えぬ存在といえば、神・仏から先祖の精霊にいたるまでの心霊でありますが、ここではまず先祖の精霊について考えていくことにしましょう。その前提として、霊魂とか魂とか言われるものについて、考えを確立しておくことが大切だと思います。  法華経の神髄は(すべての人が仏になれる)ということです。そして、お釈迦さまはたくさんのお弟子たちに「そなたも必ず仏になれる」という保証を与えられています。これを授記と言います。その授記に際しては、必ず、何度も生まれ変わり、多くの仏のみもとで修行した後に……という条件がつけられます。お釈迦さまご自身も、提婆達多品では「はるかなむかし仙人のしもべとなって教えを聞いた国王は、じつはわたしの前世の身である」とお語りになり、常不軽菩薩品でも「往昔の常不軽菩薩こそは、現在のわたしである」とおおせられています。  ということはつまり、(肉体は死んでも人間の魂は不滅であり、その世でなしたすべての行為(心でなした行為をも含む)の累積によって、次の世にはそれにふさわしい生を受ける)ということであり、言い換えれば、(人生は魂の修行の場であり、魂の浄化のためになんどでも地上に生まれ変わって修行を繰り返さなければならない(これを輪廻という))ということです。  そして、真理(宇宙の根本法則)を悟り、真理の道を行ずることによって、ほとんど完全に魂の浄化のできた者は、浄土の人となります。これを出離といい、仏の境地へはまだまだ距離があるとはいえ、魂の進化の一応のステップなのであります。 霊魂の有無について  霊魂の有無がよく問題になりますが、(空)の理から考えていけば、すぐ明快な答えが出ます。人間の肉体は現実にチャンとここにあるようですけれども、実はこれも(空)がつくり現しているものであって、われわれが知覚するとおりの姿で実在するものではありません。現代の原子物理学は、すべての物質はいろいろな原子からできており、その原子は幾種類かの素粒子からできていることをつきとめています。その素粒子たるや、顕微鏡でさえ見ることのできぬモノなのですから、つまり原子物理学からしても、われわれの肉体は知覚するとおりの姿で実在するものではないのです。  (空)もしくは原子物理学の理によって「肉体はない」と否定するのなら、同じ理によって「霊魂はない」と否定することもできましょう。しかし、この肉体をわれわれが現実的に「ある」と見ているのと同じ意味からすれば、霊魂もやはり「ある」のです。  心霊学者たちの一致した意見によれば、人間が死んだら、肉体をつくっていた構成要素(厳密にいえば(空))が、肉体よりもっと精妙な、半物質ともいうべき体(幽体)をつくり、死んだ肉体から遊離し、魂はその幽体の中に宿って存続するものと言われています。 先祖供養の意義と功徳  いずれにしても、われわれは霊魂の存続を確信しております。さればこそ、わが会では先祖供養ということを日々の大事な行としているのです。入会したらまず最初に、その家の先祖の総戒名をお祀りいたします。総戒名には、先祖の血を受け継いだ現在の子孫たちが、人格を向上して自ら仏法にかなった人間になることが、とりもなおさず先祖への回向であるという意味が教えられています。そのことは、朝夕のご供養の最初に唱える次の(回向唱)にも明記されています。  先祖代々過去帳一切の精霊、別しては今日命日に当る精霊、志す所の諸精霊等に回向し、併せて我等おのおの心得違い、思い違い、知らず識らずに犯したる罪咎を懺悔し奉る。  仰ぎ願くば読誦し奉る大乗経典甚深の妙義により菩提心を発さしめ給え。  そうした本質的な回向と同時に、現在のいのちを与えてくださった先祖の恩に感謝し、その成仏を祈る願いがこめられることは、言うまでもありません。  このように、先祖代々の諸精霊に直接呼びかけ、心を通じ合うのが先祖供養であります。そうして、読誦するお経の経力によって先祖代々の諸精霊は、安らぎを得、成仏へと向かわれます。しかも、現世のわれわれと霊界の先祖の霊とは別々の存在ではなく、無限のいのちの糸に繋がれた一連の存在なのです。こういう心の交流こそが、宗教をイデオロギーとしてだけ捉えていては得られない、いわゆる信仰ならではのありがたさではないでしょうか。(つづく)  楊柳観音立像頭部(大安寺)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる39

生まれ変わりは確かにある

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(39)  立正佼成会会長 庭野日敬 生まれ変わりは確かにある 釈尊は転生を見通された  法華経は、序品の「彼の仏の滅度の後、懈怠なりし者は汝是れなり。妙光法師は、今即ち我が身是れなり」に始まって、第二十八品の「若し但書写せんは、是の人、命終して当に当に忉利天上に生ずべし」に至るまで、わずか二、三品を除いて(生まれ変わり)に関する文言のない品はありません。ましてや、歴劫修行(何度も生まれ変わって修行を続けること)によって、仏の境地に達するという思想は全巻に満ち満ちています。  これを教化のための方便と見る向きが現代人には多いようですが、そうではありません。人間のいのちは永遠不滅であり、従って生まれ変わりも確かにあるのです。お釈迦さまが、ご自身やお弟子たちの前世の身について語られるのも、やはり単なる方便ではなかったのです。無量義経に、世尊は六通(六種類の神通力)を具えたお方であったことが出ていますが、その一つの宿命通(しゅくみょうつう)というのは、人間の過去世のありさまを明らかに見通す超能力を言うのです。  お釈迦さまの言行を比較的忠実に収録したと言われる南伝の経典にも、方々にそのことが見受けられます。例えば、長部経典の大般涅槃経に、阿難が那提迦という村の信者たちが死後どうなったかを世尊にお尋ねしたのに対し、これこれの者は天に生じ、これこれの者は一度だけ生まれ変わって苦の人生を体験し、それを最後に浄土の人となった……などと、一々について詳しく答えられたことが出ています。  また、同じく迦葉獅子吼経には、異教の行者迦葉の質問に答えられて、「迦葉よ、我、清浄にして超人的なる天眼を以て或る弊穢生活の苦行者が、身壊命終の後、悪生・悪趣・悪処・地獄に生ぜるを見る云々」とハッキリおおせられています。世尊が卓越した力によって人間の転生の過去・現在・未来を見通しておられたことが、これらの事例でもわかります。 現代の精密な調査の結果も  無理に信ぜよなどとは申しませんが、現代になって、生まれ変わりが確かにあることが、学者たちの研究発表などを報じた記事でよく見かけます。最も有名なのは、アメリカのバージニア大学教授イアン・スティブンスン博士の研究で(世界各国から生まれ変わりの事例を集めたところ、一九六六年には六百件集まり、一九七三年には二千件に達した)、その中の二百件について博士は同僚研究者と共に直接調査しました。もちろん本人にもインタビューし、周囲の人々にも会い、前世の身が生活していたという場所にも行き、そこの住民たちの話も聞き、細大漏らさず調査したのです。  その結果、証拠が十分で疑う余地のほとんどないものが四十件あり、博士はその中の二十件をアメリカ心霊調査協会会報に発表したところ、科学者たちからも高く評価されました。それからさらに追跡調査を続け、八年後に改訂版を(前世を記憶する二十人の子供)という書名でバージニア大学出版局から刊行し、日本語訳も叢文社から出ています。参考のために、二、三の事例を紹介しましょう。 現存の人物が実証した事例  インドのチャタラプール地方大学の●〔植〕物学講師として現存するスワーンラタ・ミシュラ女史がまだ三歳半の時、教育者であった父に連れられて当時住んでいた町から遠く離れた大都市へ遊びに行きました。その途中、カトニ市という町に入った時、その幼児は突然、運転手に「あたしの家の方へ行って!」と言い出しました。また、その市内で休憩してお茶を飲みましたが、その時にも彼女は「あたしの家に行けば、もっとおいしいお茶が飲めるのに」と残念そうに言うのでした。  それがきっかけでスワーンラタは、変なことを口走るようになりました。自分は、前世ではカトニ市のパサク家の娘で、名前はビヤと言った。結婚して息子が二人いた……と言い、その名もはっきり告げるのでした。また、パサク家は白色の建物でドアは黒、ドアには鉄のかんぬきがしてあった。フロント・フロアには石板が敷き詰めてあり、家の後ろに女学校があって、すぐ近くに石灰工場と鉄道線路が見えた。わたしはノドに病気があって、ジャバルプールのナピ町のS・G・バブラット医師の手術を受けた……などと語るのでした。  それを伝え聞いた心霊研究家のバナージーという人が調査を始め、「鉄道線路と石灰工場が見え、近くに女学校のある白い建物」という言葉を頼りにパサク家を探し当てました。ところが、家の内外の様子はスワーンラタの言と全く符合し、当主のプラサド氏に会っていろいろ話を聞いたところ、その姉だったビヤの生涯がこれまたピッタリだったのです。ただ違うところは、病気が心臓病だったことと、医師の名がバブラットではなく、バラットであったということだけだったと言います。それは霊魂の些細な記憶違いだったろうとされています。(つづく)  仏立像頭部(タンジョール出土)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる40

業の法則を実証する転生

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(40)  立正佼成会会長 庭野日敬 業の法則を実証する転生 生まれ変わりの経過は  では、生まれ変わりはどういう経過で行われるのでしょうか。人間が死んで肉体は分解しても、魂は肉体から離れて存在し続けると言われています。そしてもしそれが未純化であり、再び人間として修行をする必要のある魂ならば、その進化の状態にふさわしい夫婦の肉体を借りて母の胎内に宿り、新しい苦の人生を体験しつつ魂の進化を続けるものとされています。ですから、肉体のいのちは父母および先祖代々から受け継ぐのですけれども、魂ははるかな前世から自分のものであり、未来永劫に至るまで自分のものであるわけです。自分のものというよりは、自分自身そのものなのです。  仏教で説く業の思想もこれから出たものである。法華経の歴劫修行(何度も何度も生まれ変わって修行を続けること)によって、人格の完成へ向かうという思想も、やはりここから出ているのであります。  文化勲章受章の電子工学の世界的先駆者岡部金治郎博士は、科学者の目をもって魂の問題と生まれ変わりを研究している方ですが、その著(人間死んだらどうなるか)に、こう述べておられます。「……子供の魂は両親のそれらにはまったく関係のない外来のものであって、ある時期に宿ったことになる。その時期はよくわからないが、おそらく胎児になるかならないかのとき、すなわち、受精卵が胎児になろうとするころではないかと思われる」  また、その改訂版(人間死んだらこうなるだろう)には、次のように結論づけておられます。  「人間を含むすべての動物の主体は、魂であって、肉体は、魂が、その精神的機能を発揮するのに必要なものではあるが、主体ではない。魂から見れば、肉体は、新陳代謝によって絶えず変化している流れ者であり、またよそものであるといえよう」「人間死ねば肉体はもちろん滅亡してしまうが、しかし主体である魂の核は、単に状態が変わるだけである。すなわち活性状態から非活性状態に変わるだけであって、魂の核は生き通しのものであろう」 法華経に説かれる業報  法華経の譬諭品や勧発品に、この経を信ずる人を嘲笑したり、憎んだりする者が次の世でどんな業報を受けるかがさまざまに説かれています。人間に生まれ変わっても、諸根暗鈍であるとか、もろもろの悪重病をもって生まれる等々とあります。反対に、この経を素直に信受し、法の如くに行い、広く人に説くような人は、後の世にも善処に生じ、道を以て楽を受け、人間に生まれても利根にして智慧あり、人相も円満具足しているであろう……等々と、薬草諭品、随喜功徳品その他にいろいろと説かれています。  これらを、たいていの人は、戒めのための方便のように受け取ります。もっと悪意をもって、我が田に水を引く言葉だとか、脅迫的言辞だとか言う人もあります。それは、いずれも短見であって、業の法則・転生ということからすれば、まことにそうあるべきことなのであります。  一八七七年にアメリカのケンタッキーで生まれたエドガー・ケーシーという人は、ふとしたことから催眠状態に入って人々の前世の姿を透視する能力を得、それによって病気を治すいろいろな指示を与え、多くの人を救いました。ケーシーが透視した生まれ変わりの例は、二千五百件に及び、心理学者のジナ・サーミナラ女史がその転生例から、病気、結婚運、職業能力、家族構成等の前世的原因を分析して(超心理学が解明する転生の秘密)という著書にまとめ、全米的に評判となり、日本語訳も(たま出版)から出ています。  その本を読みますと、右に引いたような法華経の文言がなるほどと納得できる例がたくさんあります。 前世で人を水に浸した報い  例えば二歳の時から毎晩寝小便をする子がいました。母親は普通の医者から精神科医にまでかかって手を尽くしましたが、いっこうによくならず、とうとう十歳を迎えました。たまたまエドガー・ケーシーの評判を聞いた両親は、相談に行きました。ケーシーが催眠に入って透視したところ、その少年の前生は、アメリカ初期の清教徒時代、つまり魔女裁判がよく行われていたころの福音伝道師で、魔女の容疑を受けた者を椅子に縛りつけて池に沈める刑を積極的にした人であることがわかりました。人を水浸しにしたその報いが夜尿症となって現れ、自分が毎晩水浸しになったわけです。  ケーシーは、(椅子浸し)などという刑があったことなど全然知らなかったのですが、百科事典を引いてみて、自分が透視した事柄の意味を知り、少年が眠りに入る前にある暗示を与えるように両親に指示しました。その指示のとおり、母親は子供のベッドのそばに座って、低い単調な声でこう話しかけたのでした。「あなたは親切で立派な人です。あなたは多くの人を幸福にするでしょう。あなたはつき合うすべての人を助けるでしょう。あたなは親切な立派な人です」。同じ意味のことをいろいろな言い方で五分から十分ぐらい、子供が眠りかけたとき繰り返しました。  すると、その晩、九年越しの寝小便のくせはピタリとやんだのです。それから数ヵ月間、母親はその暗示を続け、その間一度も寝小便をせず、次第に一週に一回の暗示ですむようになり、遂にその必要もなくなったというのです。サーミナラ女史は、この暗示について、大切なのは「寝小便ををしてはいけない」という肉体的意識に呼びかける暗示ではなく、霊的意識ともいうべきものに暗示が向けられたことである……と述べています。  もちろん現実の生活はいろいろな要素が錯綜していますから、直ちにそのまま現れないことが多いものです。だからといって、タカをくくっていてはいけないのであって、魂には善因も悪因もそのままピシリと記録されるものと知らねばなりません。(つづく)  侍者像・婦女形(法隆寺)  絵 増谷直樹...