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仏教者のことば52

この世の人は  だれも煩悩にしばられている  この世の煩悩を解き放そうと  あなたは長い間慈悲にしばられていた  生死流転のおそろしさを知ってはいるが  慈悲の心にとめられて あなたはやはり …

1 ...仏教者のことば(52) 立正佼成会会長 庭野日敬  この世の人は  だれも煩悩にしばられている  この世の煩悩を解き放そうと  あなたは長い間慈悲にしばられていた  生死流転のおそろしさを知ってはいるが  慈悲の心にとめられて あなたはやはり この世にとどまっていたあなたと大慈悲とどちらへ先にお拝をしようか。  マートリチェータ・インド(百五十讃) 長い間慈悲に縛られて  マートリチェータは、およそ二世紀ごろに出たと推定される仏教詩人です。この「百五十讃』は釈尊のお徳を百五十の短詩によってたたえたもので、当時の人々が好んで誦した讃仏歌です。ここに掲げたのは、その五八・五九詩です。  人間は、肉体と頭脳と魂によって構成されていて、死ねば肉体と頭脳は消滅し、魂だけが広い意味の霊界へ行くといわれています。完全に浄化された魂は、その霊界でも上部のいわゆる浄土に行き、苦に満ちたこの世には再び帰って来ないとされていますが、釈尊の前世の身である菩薩は、数知れぬ徳行を積み、とうのむかしに浄土の人となるべきなのに、自ら進んで何度もこの現世にお生まれになりました。「釈迦従来八千遍」といわれるほどです。  それはなぜか。もちろん、苦の衆生を救うためです。さまざまな煩悩に縛られ、追いまくられて自ら苦を作っている人間たちを、なんとかその煩悩から解脱させようという大慈悲からです。そのことを「あなたは長い間慈悲にしばられていた」と表現してあるのが胸を打ちます。  仏陀は自由自在の人です。その自由自在な人が縛られていた。やむにやまれぬ慈悲心のために縛られていた。一寸先はどうなるか分からぬ生死流転の娑婆世界に慈悲の心に止められてとどまっていた。そういうあなた(仏陀)と、あなたの大慈悲と、どちらを先に礼拝しようか……とマートリチェータは賛嘆しているのです。この素朴な賛嘆、この純粋な帰依、これこそが信仰の原点であると思います。 自分自身には無慈悲  ついでに、とくに現代のわれわれの胸にこたえる、いくつかの詩を選んで紹介しましょう。  一一 親切に動機はなく   愛情に理由もない   あなたは友なき人の友   身内なき人の身内だった。  世の孤独な人たちは、どうかこの詩を常に口ずさんで頂きたい。あなたにも仏という友、仏という身内がおられるのです。  二〇 為し難い行為を為さずに   得がたい境地は得られぬ   だからこそ 自分のことはかまわずに   あなたは努力をつづけてきた。  『無量義経・徳行品』の結びに「能く諸(もろもろ)の勤め難きを勤めたまえるに帰依したてまつる」とあるのを思い出します。われわれ凡夫も、楽ばかりしていては価値あるなにものをも生み出すことはできますまい。心に銘刻すべき言葉だと思います。  六四 あなたの身体に住む慈悲は   他人を恵むが自分の身体を恵まなかった   主よ あなたの慈悲は   あなた自身には無慈悲だった。  まことにそのとおりで、王子の身として生まれながら、死ぬか生きるかの修行をなさり、悟りを開かれてからも、四十五年間あの酷熱のインド亜大陸をハダシで歩いて布教されたのでした。八十歳になって老いさらぼえても、絶え間ない背痛に堪えつつ布教の旅を続けられました。そしてついに、家族に囲まれた憩いのわが家では死なれなかったのです。これが拝さずにおられましょうか。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば53

有情非情とは、まず大方にもうけたる分際(ぶんざい)なり。一切の物に情なきにてはあるべからず。情のかわりたるを以て、なしといえるにや。  沢庵禅師・日本(玲瓏集)

1 ...仏教者のことば(53) 立正佼成会会長 庭野日敬  有情非情とは、まず大方にもうけたる分際(ぶんざい)なり。一切の物に情なきにてはあるべからず。情のかわりたるを以て、なしといえるにや。  沢庵禅師・日本(玲瓏集) 一切のものに心がある  沢庵禅師は、純粋で、硬骨で、しかも思いやりの深い人でした。京都大徳寺の住持であったとき、幕府の無理な統制に屈しなかったために、今の山形県の上山に流罪となり、そこで三年間を過ごしました。将軍秀忠が死んだとき三代将軍家光は大赦(たいしゃ)を行い、禅師も許されて江戸にとどまっていましたが、家光はその高徳に心から傾倒し、品川に東海寺を創建せしめました。  家光は禅師が遷化されるまでの間に七十五回も同寺を訪れ、法の話を聞き、簡素な食事を共にするのを楽しみにしていました。その食事に出された「貯(たくわ)え漬け」という漬物がたいへん気に入り、城内に持ち帰って諸大名に披露し、「これは貯え漬ではなく沢庵漬じゃ」と言ったので、それがたちまち全国にひろまったといわれています。今では沢庵漬にその名が残っているばかりで、右に掲げた言葉に代表されるようなスバラシイ思想を知らない人が多いのは残念なことだと思います。  さて、有情(うじょう)というのは、意識や感情を有するものという意味で、人間をはじめとする一切の動物を指します。非情というのは、そういった「心」のない(と一般に思われている)植物や無生物を言います。従って、右の言葉を現代語に訳しますと、「有情・非情というのは、いわば大ざっぱに万物を分けて見たものである。しかし、一切の物に心がないはずはない。心のありようが違っているために、ないように見えるので、非情と言ったのであろうか」ということになります。 一切衆生に愛と思いやりを  禅師が言われたように、万物にはすべて心があるのです。植物にもちゃんとあります。前(第三十八回)に、ニューヨークのバクスター氏の実験について紹介しましたが、アメリカは物質万能主義の国と誤解されていますけれども、意外に精神とか、心霊とか、超能力とかに深い関心をもつ人が多いのです。とりわけ超能力については国家機関としての研究所ができているほどです(ただし、それが軍事目的だということは残念至極ですが……)。  平和目的のために心の力を利用している人は民間にたくさんあります。例えば、農業者で、野菜・草花・苗木などを精神力で普通以上に立派に成育させているという実例も報道されています。ある人は、トマトの苗を二列に植えて、一方には毎日「お前はかわいい元気な苗だ」と愛の言葉をかけてやり、一方には「バカヤロウ、弱虫め」などと罵(ののし)りつづけるという実験をしました。すると、前者は生き生きと育ち、大きくておいしい実をつけ、後者はいじけた茎葉になって、実も小さく、味も悪くなったそうです。  無生物にはまさか心などないだろう……と考える人が一般でしょうが、じつはそうではないのです。土でも、空気でも、水でも、宇宙がそれを存在せしめている以上は、そこに宇宙意志という心が籠(こ)められているのです。ただ、禅師が言われるように、心のありようが違うので無いように見えるだけのことです。  ですから、われわれは、人間同士はもちろんのこと、草木に対しても、大地や山河に対しても、愛情と思いやりをもち、仲よく共存していくよう心がけねばなりますまい。そうしてこそ、ほんとうの意味の平和世界が現出するのです。禅師も、つまりはそこのところを教えていられるのでしょう。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば54

 一心を二心に致さぬがようござる。  盤珪禅師・日本(盤珪禅師語録)

1 ...仏教者のことば(54) 立正佼成会会長 庭野日敬  一心を二心に致さぬがようござる。  盤珪禅師・日本(盤珪禅師語録) 一日に三十分位は無我に  近ごろ職場や日常生活にいわゆるストレスを受ける機会が充満しています。そのために精神を痛め、精神的に落ち込み、そればかりか、いろいろ肉体的な病気を引き起こす人も多く、その防止や治療のために、座禅をしたり、ヨガを行じたりする人が増えました。たいへん結構なことだと思います。つまり、心身共に健康になり、りっぱな仕事をするためには、一日のうちにせめて三十分か一時間ぐらいは、心を静めて動揺させぬ境地にはいることが必要であることが、いま再認識されつつあるわけです。  ところが、座禅とか瞑想とかは、無我になるということを眼目としているのですけれども、普通の生活をしている一般人にとっては、無我とか無心になるというのは非常に難しいことなのです。ですから禅の修行でも、入門としては数息観ということをします。静かに息を吸いながら「一(ひと)――」と数え次に静かに息を吐きながら「――つ」と数え、こうして一から百まで数えてそれを繰り返すわけです。つまり、無心になるのでなく、「数える」ということに一心になるわけです。  われわれ在家仏教者が朝夕お仏前で読経をするのも、もちろん先祖供養という意義もありますけれども、と同時に、読経に一心になるということによって自然と無我の境地にはいれるという功徳もあるわけです。 雑念を気にするな  ところが、実際問題として、読経なら読経の最中にフト雑念がわいてくることがあります。仕事のことが頭に浮かんできたり、主婦ならば今夜のおかずは何にしようかなどと考えたりするものです。そんな時の大事な心がけが、右に掲げた言葉です。この場合の一心というのは、一つの雑念という意味です。一つの雑念が浮かんだとき、それを取り去ろうと考えるのを二心と言ってあるのです。取り去ろうと努力すると、かえってそのことに心が執らわれて、いよいよ雑念のとりこになってしまう。だから雑念など気にするな。ほうっておけばそれは自然に消えてしまうものだ……というのです。  盤珪禅師がこの言葉を言われたのは、じつは日常生活に起こる悪念についてであって、大略つぎのように説いておられるのです。  「怒りや、惜しむ心や貪りの気持ちが起こるのを止めようと思って努力すれば、一心が二心になる。走る者を追っかけるようなもので、フトわいた心と、それを止めようと思う心が闘って、かえって止まらないものだ。悪念などを気にせず、それに執着したり、育てたりしなければいいのだ。人間の本質は不生不滅の仏心なんだということを思い出し、それを信じさえすれば、悪念はいつしか向こうから消えていってしまうものだから、くれぐれも一心を二心にしないことだ」と。  普通の道徳の教えでは、悪念が起こったら努力して抑えよと説きます。それも間違いではありません。しかし、それでは意識下の自己までは清まりません。従って、一時は抑えてもいつかまた悪念が浮かんでくるのです。  そこに宗教の信仰の価値があるわけです。「自分は表面は凡夫だが、底にある本質は光り輝く仏性なのだ」という真実を絶えず自分に言い聞かせていると、それが次第に潜在意識にまで浸み込んでいき、悪念が起こってもすぐ消えるようになり、ついには自由自在な、解放された心になるのです。  ともあれ、この「一心を二心に致さぬ」というのは、じつに深い、そして広い意味を持つ言葉であると知るべきです。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば55

たよりになるのは  くらかけつづきの雪ばかり  野はらもはやしも  ぽしやぽしやしたり黝(くす)んだりして  すこしもあてにならないので  ほんたうにそんな酵母のふうの  朧ろなふぶきですけれども  ほのかなのぞみを送るのは  …

1 ...仏教者のことば(55) 立正佼成会会長 庭野日敬  たよりになるのは  くらかけつづきの雪ばかり  野はらもはやしも  ぽしやぽしやしたり黝(くす)んだりして  すこしもあてにならないので  ほんたうにそんな酵母のふうの  朧ろなふぶきですけれども  ほのかなのぞみを送るのは  くらかけ山の雪ばかり  (ひとつの古風な信仰です)  宮沢賢治・日本(宮沢賢治全集第二巻) 苦渋に満ちた生活の中で  周知のとおり、宮沢賢治は法華経の熱心な信奉者でありました。純粋でいちずな魂の持ち主でしたけれども、現実の生活は波乱に満ちたものでした。妹トシが病気になったので上京し、その看護にあたりながら、模造真珠の製造販売を計画しましたが、父の許しが得られず失望したこともありました。浄土真宗の檀家であった一家の改宗を父に迫って激論したり、日蓮宗の信仰団体である国柱会に入会し、無断上京してあて名書きや校正などの仕事をしながら自活し、街頭布教に精を出したこともありました。  帰郷してからも、酸性土壌の中和剤を改良して東北四県を宣伝して歩いたり、農学校の教師となったり、世俗的な生活にもずいぶん苦労したのです。その間、農民の稲作指導や農民芸術運動を興すかたわら、詩や童話をたくさん作りました。そうしているうちに、かわいがっていた妹が死に、自分も肋膜炎を患うなど、思うに任せぬ暮らしが続いていました。そんな時に書いたのが、前掲の詩なのです。 頼りになるのはただ一つ  「野はらもはやしも ぽしやぽしやしたり黝んだりして すこしもあてにならないので」というのは、この現実世界がつねに不安定で、苦渋(くじゅう)に満ち、確かな心の依りどころのないことを表現しているのです。  そこには酵母のような、白っぽくて、おぼろげで、頼りなさそうな吹雪が降っています。そんな吹雪ではありますが、それがはるか向こうのくらかけの山に積もりますと、清らかに輝く峰のすがたとなります。そのくらかけ山の峰の白雪ばかりが心の依りどころであり、あこがれであり、勇気を与えてくれるただ一つの存在だというのです。  紀野一義師は、これを「十界互具」の思想の影響のあらわれだと解釈しておられますが、わたしもそれに賛成です。「十界互具」については第四十九回にくわしく書きましたのでここには説明を省きますが、賢治も自分はまったくの凡夫で、欲もあれば、怒りもあり、愚痴もあれば、修羅もある、あの吹雪の中の野原や林のようにぽしゃぽしゃしたり、くすんだりして、われながら歯がゆく、頼りない……と思っているのです。  しかし、そのような自分にも、一つの希望はある。自分の中には仏性というものがたしかにあるのだ。仏の世界はあのくらかけ山のようにたいへん遠く、あそこまでは行けそうもないけれども、あの清らかな雪の峰を眺め仰いでほのかな望みを覚えるということは、仏性がある証拠なのだ……と感じているのです。  この詩を繰り返し繰り返し読んでいますと、賢治と同じような心象風景がわたくしどもの胸にも広がってきます。迷いに満ちたどうしようもないような自分ではあるけれども、仏の世界のあこがれは持っている。それがいいんだ。そのあこがれを持ちつづけ、もっともっと強くしていけば、くらかけの山はずんずん近くに寄ってくるのだ……こう思っただけでも、明るい希望がほのぼのとわいてくるではありませんか。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば56

仏道は、初発心のときも仏道なり、成正覚のときも仏道なり、初中後ともに仏道なり。たとえば万里をゆくものの、一歩も千里のうちなり、千歩も千里のうちなり、初一歩と千歩とことなれども、千里のおなじきがごとし。  道元禅師・日本(正法眼蔵・説心説性)

1 ...仏教者のことば(56) 立正佼成会会長 庭野日敬  仏道は、初発心のときも仏道なり、成正覚のときも仏道なり、初中後ともに仏道なり。たとえば万里をゆくものの、一歩も千里のうちなり、千歩も千里のうちなり、初一歩と千歩とことなれども、千里のおなじきがごとし。  道元禅師・日本(正法眼蔵・説心説性) 仏道とはいのちを生かす道  仏道はいのちの道です。この世のすべてのものが、そのいのちをあるがままに生かすための心のありかた、生活のありようを求め、知り、教える道です。  しかし、最初から「すべてのものを生かす」といった高邁(こうまい)な考えをいだいてその道に入るという人はまずありますまい。初めは、失意や挫折感を何か高度な思想によって克服したいとか、事業に失敗してこの世に望みを失い、わらにでもすがる気持ちで救いを求めるとか、あるいはそのような切迫した動機はなくても、精神的によりすがる何物かが欲しいという気持ちで仏教を学んでみようか……という人もありましょう。  そうした初発心(しょほっしん)も、本人は意識していなくてもその心の奥を深く吟味してみますと、つまりはいのちを生かす道を求めているのです。そこが尊いのです。絶望にも陥らず、自暴自棄になって悪へ走ることもなく、おのれのいのちをより良く生かそうと、あがき、手探りする、そこが立派なのです。  成正覚(じょうしょうがく=究極の真理を覚る)などということは、はるか山のかなたにあって自分など到底達しられるものではない……とだれでも思いましょう。たしかにそのとおりです。大聖釈尊のような覚りにわれわれ凡人が到達するのは至難なことかもしれません。  しかし、それでもいいのです。それに向かって一歩でも踏み出せば、その一歩がすなわち仏道なのです。第一歩(初)も、中間の千歩(中)も、ゴールへの到達(後)も、すべて仏道なのです。 夢・決意・努力  世俗のどんな道でも同じです。学問の道でも、芸術の道でも技能の道でも、みんな同じです。理想の境地に向かって一歩踏み出せば、間違いなくその境地へ一歩近づいたことになります。焦ることはありません。ただ大事なことは、初一念を忘れないことです。  自動車王といわれたヘンリー・フォードは、少年のとき父親と一緒に馬車に乗ってデトロイトの街へ出て、初めて蒸気車を見ました。「お父さん、馬車を止めて……」と叫んだ彼は、止まっている蒸気車の所へ走り寄ってシゲシゲと見回し、運転手に走る仕組みを聞きました。帰ってきた少年は、「馬がいなくても動く車なんてスバラシイなあ、ぼく大きくなったらあんなのを造るんだ」と言いました。  十二歳のとき母親を亡くしましたが、病気が急変して命が危ないとなったとき、彼は馬を走らせて町まで医者を呼びに行きました。しかし、医者が着いたときはすでに母親は息を引き取っていました。彼は母親の遺体にすがって「馬より早く走れる物があったら、お母さんは助かっていただろうに……」と嘆き、その瞬間、これからの進むべき道を固く決意したのです。  彼は努力に努力を重ねてその決意をつらぬき、万人のための大衆車といわれたフォードを完成したのですが、その成功にもやはり「初」があり「中」があったのです。初めは夢であり、それが決意に変わりました。そして努力がそれを成就したのでした。  道元禅師のこの言葉は、現代のわれわれにとってもつねに身近に生きていると知るべきでしょう。仏道とは特別な道ではなく、人間のいのちを生かし伸ばす道にほかならないのですから。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば57

生死即涅槃と体するを名づけて定となし、  煩悩即菩提に達するを慧となす。  天台大師・中国(法華玄義九)

1 ...仏教者のことば(57) 立正佼成会会長 庭野日敬  生死即涅槃と体するを名づけて定となし、  煩悩即菩提に達するを慧となす。  天台大師・中国(法華玄義九) 「即」には「至る」の意あり  生死(しょうじ)というのは、第一義としては文字どおり生と死を指すのですが、仏教ではこの世のすべてのものが移り変わる流転(るてん)の姿を言うことが多いのです。涅槃(ねはん)というのは差し当たり「真理を悟って心の安らぎを得た状態」と考えてよく、定(じょう)というのは、周囲の影響によって動揺することのない定まった心を言います。  また、煩悩(ぼんのう)というのは、人間のさまざまな欲望に基づく迷いのことであり、菩提(ぼだい)というのはその迷いから抜け出した悟りの境地を言います。  ところで、この「即」という語に問題があります。普通にはすなわちと読んでそのままという意味に解しますが、それでは「煩悩がそのまま悟りである」というとんでもない誤解が生じます。即時とか即決とかいう言葉がありますが、すぐさまと言っても、問題が提示されてから決定するまでには当事者の心の強い動きがあることは否定できません。「即」には「近づく」とか「至る」という意味がありますので、右の言葉の「即」はけっしてそのままではなく、むしろ「そこに至るための起動力」と解するのが適当かと思われます。 煩悩を積極的に活用せよ  そこで、右の言葉を現代語に意訳しますと、「すべてのものごとは移り変わるものだと知り、その変化に驚いたりあわてたりしない安定した境地を体得していることを不動心と言い、すべての欲望から生ずる迷いを起動力としてよりよい生活へと活用する悟りを人生の智慧だと考えるべきである」ということになると思います。  人生に変化はつきものです。第一に、生・老・病・死という重大変化があります。これは絶対に逃れえない流転の姿です。また、境遇の上にも、仕事の上にも家庭の事情にも、大なり小なりの変化がつきまといます。それがあるのが自然の姿であると達観して、つねにどっしりしている人こそが人生の達人だと言えましょう。  釈尊も、ご臨終の際、お弟子たちに「すべてのものは移り変わるものである。怠らず努めるがよい」と遺言されました。この「怠らず努めるがよい」というお言葉に千鈞の重みがあると思います。どんな変化があろうと、その時点時点においてベストを尽くせばよいのです。そういう心がけと行動力さえあれば、けっして変化にあわてふためくことはないのです。右に掲げた第一句も、こういうことを教えていると思うのです。  次に第二句についてですが、釈尊のような大聖は別として、普通の生活者だれしも煩悩を持たぬ人はありません。煩悩があることが生きている証拠だと言ってもいいでしょう。煩悩はいわばカビのようなものです。カビは食物を腐らせたり、病気を引き起こしたりしますけれども、それをいい方へ用いれば、みそ・しょうゆ・カツオブシのような生活必需品を作り出すことができます。ペニシリンとか、ストレプトマイシンとかいう、すでに何千万人もの生命を救った抗生物質も、もともとはカビにほかならないのです。  煩悩もそれと同じです。もちろん、煩悩に引きずられたり、おぼれたりしては身の破滅となりますから、ある程度の抑制は必要ですが、もっと積極的にそれをいい方向へ向ける智慧をはたらかすべきでしょう。そうすると、煩悩がかえってよき人生への起動力となり、進歩のエネルギーとなることは必至です。それが「煩悩即菩提」の意義であると信じます。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば58

 親によき物を与えんと思いて、せめてやるものなくば、一日に二三度笑みて向え。  日蓮聖人・日本(上野殿御消息)

1 ...仏教者のことば(58) 立正佼成会会長 庭野日敬  親によき物を与えんと思いて、せめてやるものなくば、一日に二三度笑みて向え。  日蓮聖人・日本(上野殿御消息) 老人問題への示唆と  これはもちろん親孝行の教えです。苦しい境遇にあって、親に何かおいしい食べ物とか、暖かい着物とか、見て楽しめる盆栽とか、そういった物を親にあげて喜んでもらおうと思ってもそれのできない人は、せめて一日に二度でも三度でも笑顔を見せてあげなさい、それが大きな孝行なのですよ……というのです。いかにも日蓮聖人らしい、深い人間愛に満ちた言葉です。  ところで、わたしは、これを単に親に対する子のあり方のみでなく、老人問題に関する現代人へのアドバイスとしても受け取りたいと思うのです。  病気で寝たきりの老人、世話する人もない独り暮らしの老人など、これらは老齢化社会がいよいよ進行しつつある現在および近い将来においては、国家や地方自治体が真剣に考え、善処しなければならない問題ではありますけれども、しかし、家族や、隣人や、一般の個々人も、これをないがしろにしては人道にも天道にも反することになると思うのです。  人間、年を取って老いるのは、きわめて自然の成り行きです。老いて来れば、特別の人は別として、体力も気力も薄れ、日常生活の楽しみも次第に失われてきます。しょっちゅう孤独感に襲われます。  そうなってからいちばんうれしいのは、人の情けです。家族や隣人の優しい思いやり、特にここに掲げた日蓮聖人の言葉にもある親しみをこめた笑顔、これらがどれぐらい慰めになるかは、若い世代が想像する以上のものがあるのです。 いま光る無財の七施  雑宝蔵経というお経の中で、「無財の七施」ということが教えられています。金もなく、暇もなく、地位もない人でもできる、つまりどんな境遇にある人でもできる布施ということです。それは眼施(げんせ)・和顔悦色施(わげんえつしきせ)・言辞施(げんじせ)・身施(しんせ)・心施(しんせ)・牀座施(しょうざせ)・房舎施(ぼうじゃせ)の七つです。  眼施というのは、優しいまなざしで人を見ることです。  和顔悦色施というのは、和やかな笑顔で人に明るい感じを与えることです。  言辞施というのは、理解のある、優しい言葉をかけてあげることです。  身施というのは、身体を使っての親切行です。  心施というのは、心から相手の幸せを祈ってさしあげることです。つまり、善念の布施です。  牀座施とは、座席を譲ってあげることです。  房舎施とは、一時的にもせよ、雨露しのぐ場所を提供してあげることです。  この七つは、一般のどんな人に対しても大切なことですが、とりわけ老人に対してピッタリの布施だと思うのです。日蓮聖人の前掲の言葉が「和顔悦色施」に当たることはいうまでもありません。  諸橋・大漢和辞典によりますと「孝」という字の「耂」は「老」の省略だそうです。ですから、子が親に仕えるとか養うとかという意味はもちろんですが、もっと敷衍(ふえん)して、一般の人が老人を大切にするという意味に考えてもいいのではないでしょうか。  いずれにしても、現代はあまりにも金、金、金の時代です。物、物、物の時代です。このような世相の中にあって、右の日蓮聖人の言葉は、温かくも香(かぐわ)しい一陣の風を吹き送るものではないでしょうか。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば59

唯一の権利--そしてこれは仏教徒にとって同時に義務でもある--は、仏陀が覚りに達するために歩めと教えた道(中略)、そして自分で歩んでみて真理であることに気づいた道を、万人の前に提供することに外(ほか)ならない。  C・ハンフレーズ・英国…

1 ...仏教者のことば(59) 立正佼成会会長 庭野日敬  唯一の権利――そしてこれは仏教徒にとって同時に義務でもある――は、仏陀が覚りに達するために歩めと教えた道(中略)、そして自分で歩んでみて真理であることに気づいた道を、万人の前に提供することに外(ほか)ならない。  C・ハンフレーズ・英国(『仏教』・原島進訳) 権利とは菩薩の自覚  ハンフレーズ氏とその著『仏教』については第二十二回に紹介しましたが、これは同書の中の「仏教は最初から伝道の宗教であった」ことを述べた一節にある文章です。  この文の前に「教えを宣布するということは、気のすすまない聴衆に一つの観念を押しつけて改宗させることではなく、ましてや自分の見解に服する信者を獲得せんがために圧力を加えることではない」とあり、この後に「もちろん、播かれた種子のうちにいくつかは、不毛の岩石の上に落ちるであろう。しかしいくつかはやがて豊かに生い繁る樹林になることであろう。「真理の贈り物はどんな贈り物よりもすぐれている」のである」と続けてあります。  この一連の文章は仏教の伝道・布教の精神と態度を、短文の中に、正しくそして過不足なく述べてある点において、世にすぐれたものであると思います。ただ一つ奇異に感ずるのは「唯一の権利」という言葉です。布教が仏教者の義務だというのは常識ですが、それが「権利」だと述べた人は浅学にしてほかに聞いたことがありません。しかし、よく考えてみますと、これは菩薩としての堂々たる自覚を示すものであり、布教者の内心の誇りを言い表したものだと思われるのです。勃勃(ぼつぼつ)たる勇気を奮い起こさせられる言葉ではありませんか。 真理の配達人こそ  日本人は、とくに仏教徒は、おおむね謙虚です。りっぱな布教者でありながら、たとえば宮沢賢治のように、「わたしの行く道は、このでこぼこの雪の道、行く先は向うの縮れた亜鉛色の雲なのだ。そこへ行かなきやならないんだ。陰気な郵便脚夫のように」といった表現をします。  この郵便配達員は、もちろん法華経の信仰を配達する役目を持っており、それは絶対になし遂げねばならない努めです。そういう使命を自覚していながら、死を前にしていたせいもありましょうが、「陰気な郵便脚夫」と自らを呼んでいます。  配達といえば、ガンで亡くなった作家の高見順氏は、病が重くなってから「何かを配達しているつもりで、今日まで生きてきたのだが、人びとの心に何かを配達するのがおれの仕事なのだが、この少年(筆者注・新聞配達の少年)のように、ひたむきに、おれは何を配達しているのだろうか」と書いています。  まことに価値ある人間とは、何かよきものを人びとに配達する役目を自らに課し、それに生きがいを感じている人です。その数ある配達人の中で最も価値あるのは真理の配達人でありましょう。「真理の贈り物はどんな贈り物よりもすぐれている」からです。(この言葉は法句経三五四からの引用)  したがって、仏教の布教者はこの世で最も価値ある人間だと自覚しても、けっして増上慢ではありません。尊い菩薩の自覚です。ですから、むやみに謙虚になる必要はなく、ハンフレーズ氏が述べたように「唯一の権利」と、堂々と胸を張って配達して歩いていいと思うのです。  もちろん、岩石の上に落ちた種子のように、受け取りを拒否する人もありましょう。しかし、その手紙はその人の潜在意識に深くはいり込んで、いつかは幸せの芽を吹くでしょう。大賀博士が発見した二千年前の蓮の種子が見事に発芽し、開花したように。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば60

 一切ノ法ハタダ道理トイウニ文字ガモツナリ。其外ニハナニモナキ也。ヒガコトノ道理ナルヲ、シリワカツコトノキワマレル大事ニテアルナリ。  慈円大僧正・日本(愚管抄巻七)

1 ...仏教者のことば(60) 立正佼成会会長 庭野日敬  一切ノ法ハタダ道理トイウニ文字ガモツナリ。其外ニハナニモナキ也。ヒガコトノ道理ナルヲ、シリワカツコトノキワマレル大事ニテアルナリ。  慈円大僧正・日本(愚管抄巻七) ヒガコトにも原因あり  愚管抄はわが国最初の歴史哲学書として、高校の歴史教科書にも必ずといってよいほど収載されている名著です。神武天皇から順徳天皇までの歴史を述べながら、一切の事象は道理によって、生滅することを述べたもので、したがって、巻七にある前掲の一節は愚管抄全体のエキスといってもよいのです。  さて、この道理ということですが、これは倫理・道徳的な意味の道理ではなく仏法でいう因縁・因果の法則を指すのだと知らなければ、この後段の意味には首をかしげてしまうでしょう。念のために現代文に意訳してみますと……「一切のものごとは、ただ因果の法則によって存在するのである。その法則にはずれるものは一つもない。一般にいう道理に反したこと(ヒガコト)もやはり因果の理によって起こることを知り分けることが、決定的な(キワマレル)大事なのである」。  この後段の「道理に反した、曲がったことも、それなりの原因があって起こることだと知るべきだ」ということは、仏教者ならでは言い得ない、透徹した史観です。  この書は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を計画されていることを未然に知り、そうした武力行使をおいさめする意図で著わされたものといいます。そのために、戦前では学校の教材としては敬遠され、戦後になって大いにその価値が認められるようになりましたが、時の権力者に対する宗教者の態度として、現代のわれわれも大いに学ぶべきものがあると思います。 末法ながら希望もある  今の世にはヒガコトが多過ぎます。小は家庭内暴力・少年の非行・性の乱れから、大は軍備競争・核戦力拡大化・超大国が操る代理戦争まで……。これからいったいどうなっていくだろうかと、心配でなりません。  愚管抄の中にも、世の中がだんだん悪くなっていくことを嘆き、同じ巻七に次のように書かれています。(原文は難解ですので、現代語訳だけを掲げましょう)  「人というものは、究極においては、似た者同志が友となるものである。それが、世も末になると、悪い人びとが同心合力して国の政治をわがもののように動かしてしまう。よい人びとも同じように一体同心になればいいはずなのに、そんな人がいないからどうにもならない。じつに悲しいことで、もはや神仏のご処置を仰ぐほかはないという心境である」  いつの世にも似たようなことがあるものだ……と、うなずかざるをえません。しかし、わたしは思うのですが、十二世紀半ばから十三世紀初頭にかけての当時と現代とでは、同じ末法の世でも様子がずいぶん違います。思想と、言論と、行動の自由がはるかに進んだ今日では「よいことに一体同心となり、合力する人」もたくさん出てきています。  明るい社会づくり運動に協力する人びと、地域の緑化にてい身する人びと、開発途上国の福祉向上に献身する人びと、核の廃絶・世界平和のために不惜身命の働きをする人びと等々、こういう人たちの存在を考えれば、まだまだ希望があります。  慈円大僧正も言われるように、この世には因果の法則のほかはないのです。よい因をつくれば必ずよい果が生まれます。そういう積極的な方向に、心と行動を向けていきたいものです。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば61

他力ということ、易行(いぎょう)などともいうが、実は容易なことではない。他力といったら、自分は微塵もなしに、全部あなたまかせに、まかせなければならない。  沢木興道・日本(禅とは何か)

1 ...仏教者のことば(61) 立正佼成会会長 庭野日敬  他力ということ、易行(いぎょう)などともいうが、実は容易なことではない。他力といったら、自分は微塵もなしに、全部あなたまかせに、まかせなければならない。  沢木興道・日本(禅とは何か) わが国での他力の教え  わが国に仏教が伝わってから平安朝の終わりごろまでは、おおむね国家と貴族のための仏教で、一般庶民とはほとんど無関係でした。当時の庶民は、うち続く飢きんや疫病や戦乱のために苦しんでいましたが、その苦しみに耐えかねて宗教にすがろうとしても、寺も僧侶も上流階級の占有物で、近寄ることができませんでした。  そういう時勢の中で興ってきたのが念仏の教えです。最初にそれをひろめたのは空也上人で、この諸国行脚の僧が京都に来て街頭に立ち、「ただひたすらに阿弥陀仏を念じなさい。そうすれば必ず救われるのだ」と説きました。心のよりどころに飢えていた民衆は非常に喜び、その教えに帰依しました。  その教えは、恵心(えしん)僧都や良忍上人という方々の努力でしだいにひろまり、鎌倉時代に入って法然上人や親鸞上人がそれを大成されたのは周知の通りです。念仏を唱えさえすれば救われるというこの他力の教えは、座禅とか、水垢離とか、菩薩行といった努力を必要としないやさしさ(易行)のゆえもあって、みるみる民衆の間にひろまり、生活に密着し、今日におよんでいます。 おまかせにも段階あり  さて、ここに掲げた言葉は、他力の教えを批判したものではありませんが、徹底的におまかせすることは実際には、じつに難しいものだということを喝破されたものです。浄土真宗の歴史に残る妙好人は、その難しい境地に到達したまれに見る人びとですが、そういう人ですら、次の話の磯七に見られるような悩みがあったのです。  石見(いわみ)の国に住んでいた善太郎という妙好人が磯七という同信者に送ったある手紙は、半紙四枚に初めから終わりまで「おありがたや、おありがたや」で埋め尽くされていましたが、磯七から来た返事はこれまた初めから終わりまで「おはずかしや、おはずかしや」の連続だった、というのです。善太郎が全的に仏さまにおまかせしているのに対して、磯七はおそらくその境地に達していない自分を恥じ、懺悔したのでありましょう。  これはこれなりに尊い話だと思います。およそ宗教というものは「信仰」と「懺悔」によって成り立っているからです。神なり仏なりを信ずる心と、その神仏のみ心に添い得ない己を反省する心と、この二つが綯(な)いまざって人間的に向上していくのが宗教のはたらきであるからです。  ところで、心の上だけで、全的におまかせするというのは、興道老師も言われるように、なかなか容易なことではなく、何かそれを形の上や行動の上に表して、初めて安心を得るというのが人間の性(さが)です。  前述の恵心僧都は、臨終に際して来迎仏の絵像を掛け、阿弥陀仏のおん手から糸を引き、その端を握って息を引き取られ、法然上人は慈覚大師が用いられたという袈裟を着けて念仏を唱えながら往生されたそうです。ところが、親鸞上人は「来迎など必要はない。死がいは鴨川に流して魚に食わせよ」と遺言して亡くなったといいます。おまかせにもいろいろな段階があることが、この三偉人の臨終によっても知られます。  ついでにわたしの信念を申しますと、法華経を日々の生活に受持するわたしは仏さまのみ心に添うような自力の行を積み重ね、人事を尽くしたあとは「全的におまかせする」という態度で生きたいと思っております。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば62

ここに縁あって来た人は、縁くらい恐ろしいものはないのですから、どうぞひとつこれからさきざき、三日でも竜沢寺の飯を食っておった、あああの人は違うというように、すべてやっていただかねばならん。お願い申すことはそれよりない。  山本玄峰老師・…

1 ...仏教者のことば(62) 立正佼成会会長 庭野日敬  ここに縁があって来た人は、縁くらい恐ろしいものはないのですから、どうぞひとつこれからさきざき、三日でも竜沢寺の飯を食っておった、あああの人は違うというように、すべてやっていただかねばならん。お願い申すことはそれよりない。  山本玄峰老師・日本(無門関提唱・あとがき) 信ぜられる人となれ  山本玄峰老師は、現代の仏教界にそびえ立つ富士山のような最高峰でありました。赤ん坊のとき、紀州熊野の寒風の中に捨て子されていたのを情け深い人に拾われ、育てられたのです。養父母に仕えてけんめいに働きましたが、十九歳のとき眼病をわずらい、ほとんど全盲に近くなりましたので、四国遍路に出かけ、七回もハダシで巡礼したのでした。  二十五歳のとき、三十三番札所雪蹊寺(せっけいじ)の門前に行き倒れていたのを住職に助けられ、それが縁となって出家したのですが、それからの修行はたいへんなものでした。自ら「学校というものは三日も行きやせん。行っていたら、こんなことしておりはせんかもしれん」と話しておられるように、いわゆる学校教育は受けていないのに、師を求めては全国を歩き、努力に努力を重ね、ついには妙心寺派の管長にまでなった方です。  最後は三島の竜沢寺に住しておられましたが、九十歳を過ぎても視力の衰えた目を経典にくっつけるようにして、終日読誦を怠らなかったという精進をつづけながら、一方では豪放闊達な性格をむき出しにして、数多くの立派な仏教者を育てられました。  さて、右に掲げた文章は、昭和三十年一月から四年間にわたって行われた『無門関』の講義が一冊の大著となって大法輪閣から刊行されたときに書かれた「あとがき」の一部です。そして、この後を「ああいう人ならどんな相談をしてもいいと、人からいわれて、信ぜられた上にも信ぜられるようになっていただくということが、わたしの願いじゃ。ほかに何もありません。どうぞそういうつもりで」と結んでおられます。 信は人も世も引き緊める  「三日でも竜沢寺の飯を食っておった、あああの人は違うというように」……じつに重みのある言葉だと思います。大小と種類とを問わず、世の中の「団体」と名のつくものが、この言葉に合致するようになったら、日本は生まれ変わったようになるでしょう。「あの会社の人は違う」「あの学校を出た人は違う」「あの会に属する人は違う」と世間も信用し、当人たちもそれを自戒の糧(かて)とし、ひそかな誇りとして生きていく、活動していく……何という引き緊(し)まった、しかも、すがすがしい美しさに満ちた人間のあり方でしょう。  むかしの日本にはこういう気風が濃く存在していました。最も小さな団体である「家」にしても「あの家の人なら信用できる」と言われ、またごく小さな店でも、「あの店の品物なら間違いない」というようなことがよく言われました。こうした「信用」というものが、人々の欲張りやしたい放題な気持ちを引き緊める、おのずからなる手綱となっていたのでした。  現在も、この基本には変わりはないと思います。ただ、自由というものをわがままと思い違いし、また、信用は宣伝によって作り得るものだという軽はずみな考えもあって、大事な手綱が弛(ゆる)んできた感じは免れません。  世の中がどう変わろうと、人と人との間のほんとうの「信」に変わりはありません。ここいらで、そのような「信」をしっかりと思い直したいものです。右の言葉は、平易な表現ながら、そういった意味でじつに大きな重みを持つものだと思います。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば63

克己の人には人格の深みがあり、さらに人格の深みから品位が生ずる。品位から光輝が生じ、またその光輝から威信が生ずる。  ナーガールジュナ・インド(ラトナーヴァリー)

1 ...仏教者のことば(63) 立正佼成会会長 庭野日敬  克己の人には人格の深みがあり、さらに人格の深みから品位が生ずる。品位から光輝が生じ、またその光輝から威信が生ずる。  ナーガールジュナ・インド(ラトナーヴァリー) 克己はすべての聖者の教え  これはナーガールジュナ(龍樹菩薩)が南インドのある王のために書簡体で説いた約五百項目にわたるぼう大な教え(漢訳『宝行王正論』)の中の一節です。  克己というのは、文字通り、己に克つことです。人間の想念・欲望・行為というものは、ほうっておけばエゴのおもむくままにどこへ突っ走っていくかわかりません。怒り・妬み・貪り・偽り・虚栄・権勢・享楽……おもむく方向はいくらでもあります。  もし、己の心のままにそれらを突っ走らせるならば、第一に自分を堕落させ、第二に人を傷つけ、第三に社会の秩序を乱します。いいことは一つもありません。それゆえ、あらゆる聖賢は、何よりもまずそういったエゴの抑制ということを教えます。  釈尊は「治水者は水を導き、矢作りは矢を矯(た)め直し、木工は木を調え、賢者は自己を調御する」と説き、セネカ(古代ローマの哲人)は「己れを制する者は最も強し」と叫び、スコット(イギリスの文豪)は「克己を教えよ。これを行うを愉快とせよ」と言っています。  この「これを行うを愉快とせよ」と言う言葉は、人間の心理をよくつかんだ、そしてこの難事に立ち向かう勇気を鼓舞する名言だと思います。この難事には、取り組むに値する大きな意義があるのであって、その意義をナーガールジュナの言葉は余すところなく説き明かしているのです。 輝きを持つ身となろう  まず、克己の人々は人格に深みが生ずるということですが、これは、あなたの知友や職場の上司などを見回してみればすぐ納得できることでしょう。なにも聖人・君子でなくてもよい。陽気でざっくばらんな人でもいい。しかし、「あの人はどんなことがあってもこれだけは絶対にしないなあ」というなにものかを持(じ)している人があるでしょう。  その人と、出たとこ勝負で嘘はつく、ゴマはする、小さな裏切りはする、ちょっとした迷惑はかける……そして割合、平然としているような人と比べ合わせてみれば、人格の差が歴然とするでしょう。前者は何か一本背骨が通っている感じ。後者はいかにも崩れた感じ。極端な例を挙げましたが、とにかく己に克つ精神を持つ人とそれのない人では、いわゆるひと味違うものです。  人格に深みがあると、そこから品位が生じます。政治家などでも、非常に力があり、権勢をほしいままにしている人でも、どことなく品のない人があります。品がないというのは、上に立つ人間として大きな欠陥なのです。なにも一国の政治を左右する人ばかりではありません。会社でも、その他の団体でも、すくなくとも人の上に立つ者には、ある種の品位がなくてはならないのです。品位があってこそ、自然と人がついてくるのです。  なぜそうなるのか。ナーガールジュナは、「品位があれば光輝が生じ、またその光輝から威信が生ずる」と言っています。仏陀や、菩薩や、キリストや、その弟子の聖者たちの画像を見ますと、体から後光が差したり、頭上に円光が描かれています。あれは絵そらごとではないのです。そういう人たちほど偉くなくても、人柄に品位のある人はなんとなく輝くように見えるものです。そして、そういう人格の輝きからほんとうの威信が生ずる……というのです。  われわれ普通の人間でも原理は同じであり、その大本は「己に克つ」という努力にあることを胸に刻んでおきたいものです。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば64

返す返すも今に忘れぬ事は、頸切られんとせし時、殿は供して馬の口に付きて泣き悲しみ給いしをば、いかなる世にも忘れ難し。たとい殿の罪深くして地獄に入り給わば、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏のこしらえさせ給うとも、用い参らせ候べからず。…

1 ...仏教者のことば(64) 立正佼成会会長 庭野日敬  返す返すも今に忘れぬ事は、頸切られんとせし時、殿は供して馬の口に付きて泣き悲しみ給いしをば、いかなる世にも忘れ難し。たとい殿の罪深くして地獄に入り給わば、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏のこしらえさせ給うとも、用い参らせ候べからず。同じく地獄なるべし。  日蓮聖人・日本(崇峻天皇御書) 共に地獄へ行っても  いわゆる「龍の口の御難」で、平頼綱のひきいる一団の兵が松葉ヶ谷の草庵に押し寄せ、聖人を馬上に縛り上げて引き回し、龍の口で斬首することになりました。  それを聞いて駆けつけた四条金吾頼基と三人の兄弟は長谷で一行に追いつき、頼基は「ご聖人がお首を召されるなら、わたくしもご一緒に切腹、殉死いたします」と、馬の口を取って離れず、刑場まで行きました。そして、いよいよという時になると、「ああ、お命もただいま……」と、声をあげて泣くのでした。  そのとき日蓮聖人は「なんという考え違いですか。法華経の行者が法難に遭って死ぬのは覚悟の上であって、法悦です。かねてそのことは約束してあったではありませんか。笑って見送るのですぞ」ときびしく申されました。  しかし、そのときの四条金吾の真情は、深く深く聖人のみ心に刻みこまれて離れなかったのでありましょう。後日、宮仕えの身の金吾の深い苦悩に対して、短慮を戒め、自重を勧められた前掲のお手紙の一節に、そのことがまざまざと表されています。  とりわけ、「日蓮を仏になるよう釈迦牟尼仏がどんなにお誘いになっても(こしらえさせ給うとも)、それには隨いますまい。そなたと同じく地獄に行きましょう」というくだりには、聖人の烈々たる師弟愛といいますか、友情といいますか、とにかく人間としての最高の価値である「魂」の尊さが、ひしひしと胸に伝わってくるのを覚えます。 人間関係の冷え込み  最近、人と人との間が急速に冷えてきつつあります。教師と生徒の間、親と子の間、夫と妻の間などに、寒ざむとした透き間風が吹き抜けつつあります。何より悲しいことです。このまま進めば、人間世界は砂をかむようなものになり、ほんとうの喜びも、幸せもない世界になってしまうのではないでしょうか。  なぜこういうことになったかをつらつら観じてみますと、人生のすべてを計算づくで考える風潮が人びとの心にしみ渡ったせいではないか。欲得抜きで何かを好きになる――俗な言葉でいえばとことん惚れこむ――そういう純粋さをおろそかにする気持ちがはびこってきたせいではないかと思われるのです。  私事にわたって恐縮ですが、わたしが恩師新井助信先生に法華経の講義を聞いたとき、わたしは法華経に魂まで吸い込まれる思いでした。その気持ちが伝わったのでしょう。受講者がわたし一人になっても、新井先生は喜んで一対一で講義してくださいました。お互い、正月の元日さえも休みませんでした。奥さまもあきれておいででした。こういう師弟関係を持ちえたことは、わたしの一生の幸せだったと思っています。  慶応義塾大学の塾長だった小泉信三博士は何かの本に「わたしがもう一度生まれ変わっても、また家内と夫婦になりたい」と書いておられましたが、これがほんとうの夫婦というものでしょう。  いずれにしても、日蓮聖人のこのお言葉には、こうした人間関係のギリギリ最高の境地が何の飾りけもなく表白されていると、感に打たれざるを得ません。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば65

「お坊さま、このお経の教えは、つまりわたくしも観音さまになれということでございますね」  二宮金次郎・日本(『二宮尊徳』)

1 ...仏教者のことば(65) 立正佼成会会長 庭野日敬  「お坊さま、このお経の教えは、つまりわたくしも観音さまになれということでございますね」  二宮金次郎・日本(『二宮尊徳』) いま蘇る勤労哲学  二宮金次郎は相模国(今の神奈川県)足柄郡柏山の生まれですが、十四歳のとき父を、十五歳のとき母を失い、一人で田畑を耕して家を守りました。そうした苦しい生活の間にも、寸暇を惜しんで勉強しました。戦前は全国の小学校の門の傍らに、まきを背負って本を読む金次郎の像が建っていたものですが、戦後その像はおおかた撤去されました。  ところが、ごく最近になって、外国の識者の間で「日本の現在の繁栄は、むかしから庶民の胸中に確立していた勤労哲学がもたらしたものである」と説く人が多くなり、その勤労哲学の最大の唱道者である二宮金次郎尊徳翁の業績がふたたび認識されるようになりました。  金次郎が学んだのは仏教と儒教でした。たんに学んだだけでなく、その精神を厳しく自身の生活に実践し、後年、藩から荒廃した村々の立て直しを委嘱されてからも、その精神を徹底的に実践させることによって、多くの人びとを飢えから救い、幸せを得せしめたのでありました。アーノルド・トインビー博士は、「今後の世界人類を救うのは、仏教と儒教といった東洋の思想であろう」と言われましたが、それが金次郎の勉学と、思想と、その実践にぴったり合致することを思い合わせますと、あらためて深い感銘を覚えるのであります。 確かに観世音となった  その金次郎が十四歳の時、飯泉村の観音さまにお参りして黙とうしておりますと、一人の旅僧がお参りに来てお経を読誦しました。そのお経の内容がよく分かり、たいへん有り難く感じられましたので、読経を終えた旅僧に「何というお経ですか」と尋ねたところ、「観音経というお経じゃ」との答えです。  観音経ならばそれまでに菩提寺の和尚さまの読まれるのを何度も聞いたのですが、何のことか全然分かりませんでしたので、そのことを申しますと、旅僧は「普通は漢文で書いてあるのをそのまま音読するから分からないのじゃが、わたしはそれをわが国の言葉に訳して読んだのじゃ」という答えでした。  金次郎は持ち合わせの二百文をお布施として差し上げ、すみませんがもう一度お読みくださいませんかとお願いしました。旅僧は快く再び観音経を読誦しました。読誦が終わってから、金次郎はポツリとこう言ったのです。「お坊さま、このお経の教えは、つまりわたくしも観音さまになれということでございますね」。  旅僧は驚いて少年の顔をマジマジとみつめていましたが、ややあって言いました。「えらいッ。わたしは長いあいだ修行してようやくそのことが分かったのにそなたは二度聞いただけで悟ってしまった!」  あとで金次郎が菩提寺の和尚さまにそのことを話しましたところ、和尚さまは感激して「どうだ、わしの弟子になって、この寺を継いではくれないか」と申し出ました。しかし、金次郎は「わたしは百姓でございますから、一生を百姓で終わります」と答えました。  その言のとおり、金次郎は農民としての観世音菩薩となり、多くの村々を疲弊から救い、しかも昭和の今日まで尊い影響を残しているのです。その勤労哲学を一言にしていえば「天地万物・万人から受ける徳に対して、徳を以て報いる」ということです。しかも何より偉いのは、その哲学を実践によってつらぬき通したということです。自ら観世音菩薩になりきったということであります。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば66

「わたしは貴僧に招待されて来たのではなく、ヤソ教に招待されて来たのですから、その悪口は言えません」  山崎辨栄上人・日本(仏教布教大系第十九巻)

1 ...仏教者のことば(66) 立正佼成会会長 庭野日敬  「わたしは貴僧に招待されて来たのではなく、ヤソ教に招待されて来たのですから、その悪口は言えません」  山崎辨栄上人・日本(仏教布教大系第十九巻) 他教排斥への痛烈な戒め  山崎辨栄上人については第四十七回にも書きましたが、「宇宙の万物はすべて如来という一大心霊の変現したものである」という仏教の世界観に透徹した方だけあって、他の宗教についても広い心を持っておられました。  明治時代のこと、岐阜県下の一寺院で、いつもは布教などしないお寺だったのに、その土地にヤソ教(キリスト教)がはいったのを追い出そうと考えた住職が、天下に有名な辨栄上人を招いて三日間の大説法をお願いしました。  ところが、三日間の説法はすべて仏教のことばかりで、キリスト教に対する批判などは一言もなかったのです。たまりかねて住職が不満の意を述べますと、上人は「わたしは貴僧に招待されて来たのではなく、ヤソ教に招待されて来たのですから、その悪口はいえません」と答えられました。  ヤソ教に招待されたというのは、その住職がキリスト教排斥というチッポケな了見で招待したことに対する痛烈な戒めだったのです。そして、「他教の悪口を言うよりも、自分の信ずる宗教の布教に努めることに専念しなさい」と、懇々と説き聞かされたといいます。 豚が食えば豚肉に  とかく人間は、末端の小さな違いにこだわって、大本を忘れてしまいがちです。国の政治でも、その大本は「国民のすべてが幸せに暮らせるようにする」ことにあるのですけれども、与党も野党も政策論争のほうにとらわれ、国民不在などと言われていることは、みなさんよくご存じのとおりです。  宗教というものは、どの宗教・宗派にしても、その大本は宇宙の背後にある見えざる絶対的存在に根ざしており、その目的はすべての人間に心の安らぎを与え魂の浄化をはかるものなのに、いまだに地球上には宗教の違いによる紛争が絶えないのは、ほんとうに残念なことです。  臨済宗天龍寺派の管長、関牧翁老師が、その著『魔禅』の中にこう書いておられます。「これは私の持論だが、宗教も世界的にならねばダメだと思っている。先日から浄土門の宗祖大遠忌で賑わっていたが、われわれの立場から見ると、禅宗の布教の届かぬところを浄土門各宗でお手伝いして下さるのだと思っている。人間、了見の狭いことをいっちゃいかん。豚が食えば何でも豚肉になり、牛が食えばことごとく牛肉になる」。  他宗の盛大な催し事をむしろ有り難く受け取っておられる、そのひろびろした心に頭が下がりました。とくにおもしろいと思ったのは「豚が食えば何でも豚肉になり、牛が食えばことごとく牛肉になる」という言葉です。  本は同じお釈迦さまの教えでも、天台大師がそれを消化すれば天台宗となり、達磨大師がそれを消化すれば禅宗となり、日蓮聖人がそれを消化すれば日蓮宗となるわけです。それなのに、末にこだわって本を忘れるために、宗派同士の反目などが起こるのです。  いや、もっと本の本をただせば、あらゆる宗教の根源は同じなのです。山崎辨栄上人の言葉を借りれば、宇宙の一大心霊から発したものなのです。わたしも、まったく同じ信念を持っています。さればこそ、「世界宗教者平和会議」や「国際自由宗教連盟」や「明るい社会づくり運動」などに打ち込んでいるのです。  関老師も言われるとおり、「人間、了見の狭いことをいっちゃいかん」のです。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば67

一切世間の治生産業、ことごとく取り用いて我が実相智印となす。  慈雲尊者・日本(『人と為る道』)

1 ...仏教者のことば(67) 立正佼成会会長 庭野日敬  一切世間の治生産業、ことごとく取り用いて我が実相智印となす。  慈雲尊者・日本(『人と為る道』) 仏法と生活とは密着す  慈雲尊者飲光(おんこう)は徳川時代中期の高僧です。釈尊がご在世のとき説かれた正法そのままを学び、広めようと発願して、梵語(サンスクリット)を研究し、『梵学津粱』一千巻の著があるほどです。そして、真言宗正法律の開祖となりました。  さて、ここに掲げた言葉は、真言宗の立場をよく物語っているものですが、もっと広い目で見れば大乗仏教全体の考え方を代表していると言っていいでしょう。すなわち、仏法の智慧と現実生活とはけっして遊離したものではなく、つねに密着しているものだ……ということです。  治生というのは、生活に役立つものごとです。産業というのは、読んで字のとおりです。実相というのは、一般に「事件の真相」などと言われている意味よりもっと深い、あらゆる物象の奥にある、目に見えぬ真実の相(すがた)をいうのです。  「印」はしるしという語ですが、印象などというように心に深く刻み込まれたものごとで、仏教では悟りの内容を言います。それも、その悟りを外部の人に伝えるための標章を指すことが多く、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を三法印といい、それに一切皆苦を加えて四法印というのがその例です。そこで、この言葉の意味は、「すべての生活活動・生産活動そのものの中に、究極の真実を知る素因が存在するのであって、わたしはそれを吸収して智慧を養うことに心がけている」ということになります。 興味を持ちしっかり考える  これについて思い出すのは、吉川英治さんの「わたし以外のすべての人はわたしの師である」という言葉です。吉川さんは小学校も卒業しておられないのに、数々の名作を残し、国民的文豪と呼ばれる身となられました。  それというのも、十二歳のとき没落した一家を支えるために印刷所に住み込んだのを手始めに、役所づとめ・商店員・労務者・船具工など・収入のよい仕事を求めて転々としながら、そういった仕事とそのまわりの人びとからさまざまなものを吸収し、慈雲尊者の言葉にあるように、すべての治生・産業(じしょう・さんごう)の中にものごとの奥にある真実を発見していかれた……その体験の積み重ねが、あの多くの名作となって結晶したのです。  ここで見逃してはならないのは、ただ漫然といろいろな体験をしたというのではなく、その中から何物かを吸い取ろという積極的な心構えをつねに持っておられたということです。その積極性とは具体的に言ってどういうことかといいますと、次の二つの要点があると思います。  まず第一に、何事にも好奇心を持つということです。未知の物に対して、目を輝かし、興味をもって見る……そういう態度が大切です。中年になっても、年を取っても、そういった少年のような態度でものごとに対すれば、いつまでも若々しく、どこまでも自己をふくらませていくことができるのです。  第二に、ものごとをしっかり見ることです。しっかりと見れば印象が深くなり印象が深くなれば、自然とそのことをじっくり考えるようになります。その考えるということが、奥にある実相を悟る大事な要因となるわけです。  この二つを心がけておれば、一切世間の治生産業がことごとく実相の悟りへと誘(いざな)ってくれるのであります。ともあれ、この言葉はじつにスバラシイ人生訓だと思います。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば68

アクのあるのを愛という。アクのないのを慈悲という。慈悲は平等であって、愛の方は区別がある。こっちが愛したかて、向こうが愛してくれなかったら、これは成立しない。けど、向こうがどうであろうが、言うこと聞いても聞かいでも、…

1 ...仏教者のことば(68) 立正佼成会会長 庭野日敬  アクのあるのを愛という。アクのないのを慈悲という。慈悲は平等であって、愛の方は区別がある。こっちが愛したかて、向こうが愛してくれなかったら、これは成立しない。けど、向こうがどうであろうが、言うこと聞いても聞かいでも、かわいいというのが慈悲なの。  大西良慶・日本(坐禅和讃講話・『大法輪』五十五・九) 良慶師の懐かしい思い出  昨年(昭和五十八年)二月十五日に百七歳で大往生を遂げられた大西良慶師は、わたしの最も尊敬する仏教者の一人で、師にお目にかかるのは何とも言えぬ楽しみでした。  たしかわたしが古希を迎えた年だったと記憶しますが、関西のあちこちを回りましたとき、京都に着くとまずお訪ねしたのが清水寺でした。その時は百一歳でしたが、じつにかくしゃくたるもので、わたし自身ちょっと年を取ったかな……と時々思っていましたところ、それを見すかすように、「これからは庭野さんのような若い方に先頭に立ってもらわねば……」と言われ、返す言葉もありませんでした。  約一時間ほどお話しいたしましたが、――世界宗教者平和会議に力を尽くし、現実にたくさんの衆生を済度してくれている。また、難しい仏典をやさしい現代語に直して多くの人に分かるようにしてくれて有り難いと思う――などと、過分の褒め言葉を頂き、恐縮しました。お暇しようとしますと、「ちょっとお待ちを……あなたに差し上げようと思って書いておいたのですが、拙筆ですけれども……」と、一幅の書をくださいました。  「青山聳天表(せいざんてんぴょうにそびゆ)」と雄渾(ゆうこん)な筆勢で書かれてありました。その品格の重さには、いつものことながら敬服に耐えず、有り難く頂戴した次第でした。 慈悲は無条件・無償  追慕の念やみ難く、つい私事を書いてしまいましたが、師はほんとうに悟りを開いた方でした。そして、普通ならば反駁や非難への思惑から「と言われている」とか「と思われる」とかいった逃げ道をつくって発言することを、何のためらいもなく、ズバリと断言する方でした。  霊界とか転生とかについても、たとえば、「弥勒(みろく)さんがいま兜率天(とそつてん・高い霊界の一つ)にいられる。弘法大師も伝教大師も皆ここでいま勉強していられる。それで今度弥勒さんの下生(げしょう)のときにその一座の人が皆人間の世界へ下ってきて、この弥勒さんの法を手伝われる(法華経自我偈講話『大法輪』五十七・二)と言い切るといったふうでした。あのお年になられると、やはり神通力が生じて、天界のことをも見通しておられたのかもしれません。  さて、愛と慈悲についての前掲の言葉、これはもう解説の必要もないことと思いますが、アクの有る無しに譬えられたのがじつにぴったりだと思います。愛も、人と人とのかかわり合いになくてはならぬスバラシイものですけれども、それには多かれ少なかれ煩悩がつきまといます。「こうあってくれればうれしいのだが……」とか、「この愛情を受け取ってくれるかどうか心配だ」といった気持ちがあって、心がほんとうにスッキリしません。それがアクです。  ところが、慈悲となるとそれがないのです。なんの条件もなくかわいいと思う、なんらの報いも望むことなくしあわせであってほしいと思う。まことにおおらかで、まじりけのない思いやり、それが慈悲というものです。まことに難しい境地ですが、仏教でいう慈悲とはそんなものだとだけは心得ていたいものです。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば69

手は熱く足はなゆれど  われはこれ塔建つるもの  宮沢賢治・日本(宮沢賢治全集5)

1 ...仏教者のことば(69) 立正佼成会会長 庭野日敬  手は熱く足はなゆれど  われはこれ塔建つるもの  宮沢賢治・日本(宮沢賢治全集5) 死を前にした充実感  宮沢賢治の文学は、法華経の宇宙観・人間観から発していることは前にも書いたとおりです。有名な「雨ニモマケズ」の詩にしても、「西ニツカレタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ」というのは菩薩行の実践であり、「南ニ死ニサウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイイトイヒ」というのは観世音菩薩の施無畏です。  そして、この詩の結びに「ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ ク(苦)ニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と書いています。つまり賢治は、世間的には目立たないところで、実質的に、コツコツと菩薩行を積んでゆきたいという謙虚な心の持ち主だったようです。  事実、教師の職を辞してから「羅須地人協会」を設立し、故郷一帯の稲作指導を行う一方で、農民芸術を語って、地方農民への献身的な生活をつづけたのでした。その文学作品も生前はあまり認められず、死後、高村光太郎氏や草野心平氏の紹介で世に注目されるようになったのであって、「雨ニモマケズ」の詩にしても後にその手帳から発見された、下書きのようなものだったのです。  前掲の詩(一部)は、重篤な病の床で書いたものですが、さすがに死に直面しては、自分の後半生が法華経精神につらぬかれたものだという充実感がこみ上げてきたものらしく、「われはこれ塔建つるもの」という一句にもそうした自覚が満ちあふれています。 貪欲な男にも仏性を  では、この後に続く全詩句を見てみましょう。  滑り来し時間の軸の  をちこちに美(は)ゆくも成りて  燦々と暗をてらせる  その塔のすがたかしこし  むさぼりて厭(あ)かぬ渠(かれ)ゆゑ  いざここに一基を成さん  正しくて愛(は)しきひとゆゑ  いざさらに一を加へん  高熱のために手はほてり、足は萎(な)えているけれども、思えば自分は仏性の塔を建てるためにこの世に生まれてきたもののようだ。過去をふりかえってみると、遠い所にも、近い所にも、暗の中にさんさんと光を放っているその塔が、有り難く見えてくる。  貪欲なあの人のためにも、さあここにもう一基の塔を建てよう。正しくて美しいあの人のためにも、さあ、もう一つ塔を立てよう……  すべての人に仏性を見ているのです。法華経そのもののような詩です。世間に発表するために書かれたものではなく、自分の内心の叫びを書き留めておいたものでしょう。それだけに、いよいよ尊い詩だと思います。  わずかに三十八年の一生でしたけれども、賢治はたしかに多くの塔を建てました。しかし、死に直面するまでは、自分のことを「修羅」と呼んだり、「はてなき業の児」と見たりしてきました。そして、デクノボウになりたいと願っていました。  しかし、いよいよわが命はここに極まるというときに、「このわれは仏性の塔を建てる者だ」という光り輝くような自覚が魂の底からわき上がってきたのでありましょう。願わくは、われわれも、臨終の床でこうした自覚を持てるような一生を送りたいものです。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば70

合掌。私の全生涯の仕事はこの経をあなたのお手許に届け、そしてその中にある仏意にふれて、あなたが無上道に入られんことをお願いする外ありません。  昭和八年九月二十一日  臨終の日に於て  宮沢賢治・日本

1 ...仏教者のことば(70) 立正佼成会会長 庭野日敬  合掌。私の全生涯の仕事はこの経をあなたのお手許に届け、そしてその中にある仏意にふれて、あなたが無上道に入られんことをお願いする外ありません。  昭和八年九月二十一日  臨終の日に於て  宮沢賢治・日本 子に改宗させられた父  これは宮沢賢治の遺言状です。父の政次郎氏に花巻の方言で口述したのを、政次郎氏が文章にしたものです。  賢治は二十歳のとき、島地大等師の国訳法華経を読んで、身震いするような感動を覚え、それからの一生を法華経の世界観・人間観に忠実に生きようと努力し、見事にそれを貫いた人でした。  父政次郎氏は立派な人物で、浄土真宗の熱心な信者でしたが、賢治はこの父を法華経の教えに改宗させようとして、夜どおし大激論を交わしたこともありました。父はなかなか承知しませんでしたが、いつしか法華経に引かれるようになり、心の中では改宗していたもののようです。  この遺言口述の前後のありさまについて、盛岡市史編纂委員で賢治の研究家でもある森荘己池氏が書かれた『賢治と法華経の関係』という文章により、要約して述べてみましょう。 その美しい臨終  二十一日の午前十一時半、二階の賢治の寝ている部屋から、力強い唱題の声が聞こえてきました。家中の人びとがハッとして、急いで階段を上がってみますと、賢治は床の上に端座して合掌し、「南無妙法蓮華経」と繰り返し唱えていたのでした。父も、母も、弟も、妹も、いよいよいけないな……と思いました。  父は賢治に、「賢治、今になって何の迷いもないだろうな」と呼びかけました。賢治は、「もう決まっております」と、きっぱり答えました。「何か、言い残したいことはないか、書くから……だれかすずり箱を持ってくるように……」と父が言えば、母は「いま急いでそんなことをしなくても……」と止めようとしました。「いいや、そんなものではない」と父は決然と言い、すずり箱を持って来させました。  巻き紙と筆を持った父に、賢治は静かにゆっくりと、「国訳の法華経を千部印刷して、知己友人にわけて下さい。校正は北向さんにお願いして下さい。本の表紙は赤に――。お経のうしろに、『私の一生のしごとは、このお経をあなたのお手もとにお届けすることでした。あなたが、仏さまの心にふれて、この世で最高の正しい道に入られますように』ということを書いて下さい」と、花巻弁で言いました。  父は、そのことばを前掲のような文章にし、読んで聞かせると、「それでけっこうです」と賢治は答えました。  父は、「戸棚の中のあのたくさんの原稿は、どうするつもりか」と尋ねました。賢治は、「あれは、みんな、迷いのあとですから、よいようにして下さい」と答えました。すると父は「おまえのことは、いままで、一ぺんもほめたことがなかった。こんどだけは、ほめよう、立派だ」と言いました。  賢治は、あとで弟の清六氏に「お父さんに、とうとうほめられた」とうれしそうに言ったそうです。そのしばらく後に、賢治は安らかに息を引き取ったのでした。  わたしは、賢治の書いたたくさんの原稿が「迷いのあと」であるとはけっして思いません。とくにあの「雨ニモマケズ」の詩が、どれぐらい多くの人に深い感銘を与えたか……それはじつに計り知れないものがあると思います。それにしても、この遺言状はまた尊いものです。まことに法華経を生き抜いた人にふさわしいものでした。(なお、その遺言は父の手でりっぱに果たされました) 題字 田岡正堂...

仏教者のことば71

我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ。  日蓮聖人・日本(『開目抄・下』)

1 ...仏教者のことば(71) 立正佼成会会長 庭野日敬  我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ。  日蓮聖人・日本(『開目抄・下』) 鎌倉中期の日本は今の世界  日蓮聖人が活動されたころの日本ほど内憂外患がこもごも起こったことはありません。一二五六年には暴風雨や洪水のために東国には死者が多く、作物が大被害を受けました。翌年には鎌倉に大地震があり、多くの人家が倒壊し、その翌年には鎌倉に今度は大洪水があり、多数の人びとが死にました。その翌年には全国的に飢きんが起こり、その間に疫病も流行して、聖人が『立正安国論』に書かれたように「牛馬巷(ちまた)に斃(たお)れ、骸骨路に充てり」というありさまでした。  また、諸国に盗賊が横行し、民家から略奪をほしいままにし、旅人を襲って殺傷しました。そういう中で役人たちは、何かと理由をつけては領民から規定以外の税金をやたらに徴収しました。そうした国内の混乱に加えて、日本とは比べものにならぬほどの強国である蒙古の元(げん)が、二度も大軍を送って攻めてきたのです。幸いにも、二度とも暴風雨のために敵の艦船が沈没・漂流して占領をまぬがれましたが、まことに危機一髪だったのです。  今の世界全体をつらつら眺めてみますと、鎌倉中期の日本にそっくりです。ある国では熱波のために作物が半減するかと思うと、ある国では大洪水によって多くの家々が流され、うち続く戦乱のために何十万という難民が出る地方があるかと見れば、はなはだしきは食糧不足で何百万という人が餓死にひんしている地方もあります。  そうした中で、恐るべき超大国が次々と弱小の国を脅かし、思想的に侵略し、不幸の種をまき散らしています。その超大国に対抗するもう一つの超大国が着々と核戦力を増大しつつあり、国際的テロ行為も続発していますから、いつボタン一つが押されることによって世界中に火の雨が降り、何億という人間が黒焦げとなってもだえ死ぬかわからぬという、危機寸前の状態にあるのです。 われ世界の柱とならん  日蓮聖人は当時の危機に際して、それらはすべて信仰の誤りによって生じたものと断じ、日本人すべてを正しい信仰へ向かわせようとして不惜身命の努力をされました。その決意のほどを言い表されたのが右の言葉です。「われこそは日本を支える柱となろう。日本人の精神の要(かなめ)となろう」という烈々たる意気であります。  今の世界の混乱と危機を「信仰の誤り」の故と決めつけることはできませんが、しかし、「心の誤り」であることは確かです。近年著しくなった異常気象も、干ばつも、単なる天災ではないと言われています。森林の乱伐による地球の砂漠化の進行や、石油燃料の乱費が大気の組成を変えつつあることも大きな原因になっているというのです。ましてや、各地に起こっている民族間の反目、宗教の相違による戦争やテロ行為においてをやです。そうした心の誤りの頂点にあるのが、核戦力の増大です。  われわれは、一日もうかうかしてはおれないのです。表面の、一時的な、そして一部的な繁栄を楽しんではおられないのです。心ある人が「われ世界の柱とならん、われ世界の眼目とならん」という決意をもって立ち上がり、人類の、とりわけ先進諸国の人間の心のあり方を百八十度転回させるようにあらゆる努力を尽くさねばなりません。  それも、一人より二人、十人より百人、千人より万人と、多くの「心ある人」の結集が大切なのです。お互いさま、人類永遠の幸福のために、敢然と立ち上がろうではありませんか。 題字 田岡正堂 =おわり= ...