弥勒菩薩の慈悲
さて、法華経の序品第一になると、まず智慧第一という文殊菩薩が登場しています。これは、法華経をわかろうとするには仏の智慧が必要だということです。
譬諭品第三で、お釈迦さまが『斯の法華経は 深智の為に説く 浅識は之を聞いて 迷惑して解らず 一切の声聞 及び辟支仏は 此の経の中に於て 力及ばざる所なり』と言っておられるように、高い知識がないと、お経を読んでも意味がよくわからないのです。
人間というものは、ひねくれたところがあって〝聞け、聞け〟と言われると、まともに聞こうとしません。ところが、〝説くべからず〟とピシッと言われると、どんな不思議なことがあるのか、聞いてみたいという気になるものです。
ですから、序品第一でも、お釈迦さまは三昧に入って、なかなか口を開こうとなさいません。しかも、地が六種に振動したり、蓮の花が上からお舞い降りたり、いろいろと不思議があって、いったい何事だろうという気になった、そこで弥勒菩薩が文殊菩薩に質問をします。その質問に答えて文殊菩薩が、日月灯明仏の故事によって、仏さまの説法の儀式を明らかにしております。
こういう順序次第によって、その場の人たちが皆、仏さまが一大事出生本懐の義をあかそうとなさっているということをわからせてもらって、真剣に聞こうという心構えができたわけです。
これは、やはり法座の中でも大事なことなのです。布教区長さんとか、教会長さん、あるいは支部長さんが話をされる時に、本当のことを言わねばならないような条件をそこにつくらなければなりません。皆さんの精進ぶり、心構え、そして言われたとおり必ず実行する決意というような、気合の入った空気をつくっておかないと、せっかくのお話も、意味が通じないことになります。
そういう意味で、方便品第二から始まる仏さまのご説法を聞く心構えというものが、文殊菩薩の智慧によってつくられているのですが、その文殊菩薩の話を引き出したのは、よくわからない人のために、自らが愚かな者の代表となって質問された弥勒菩薩の慈悲なのです。
如来寿量品第十六で、仏さまは「阿逸多」と呼びかけておられますが、これは弥勒菩薩の別名です。慈悲を中心に説かれた寿量品が、弥勒菩薩を対告衆として説かれているのを見ても、弥勒菩薩の慈悲の深さがよくわかるわけです。