開祖さまご法話テキスト『一心』 1981年 「盂蘭盆会」式典
皆さま、本日は盂蘭盆会、まことにおめでとうございます。早いもので、ことしも半年余りが過ぎてしまいました。
お盆がまいりますと、いつも目連尊者のことが心に浮かんできます。
この目連尊者のお母さんは、自分の子供を立派にしようとなさった、そういう立派な方が地獄の一劫で苦しんでおられたというのは、これは、まことに悲劇であります。しかし、これはよく考えてみますと、人間を本当に幸せにしてあげたいと願われ、また、人間というものが、幸せをつくりだすことのできるものであるということをよくご存じの仏さまが、十大弟子の一人、神通第一という目連尊者にこと寄せて、ご指導をくださったということになると思うのです。
これは、佼成会でいう〝結び〟ということになるのですが、仏さまの結び方というのは、「夏の安居(あんご)に大勢のお坊さんが集まっておられる、ちょうどその時をねらって、この方たちが皆さんそろって、ありがたいお経を真剣に読誦し、供養なさることによって、霊界の方の成仏も可能である」と、このことを現証として、はっきり示すために、目連尊者のお母さんを引き合いに出された、こういうことであろうと思います。無量の義は〝一〟
そこできょうは、法華経の順序次第に従ってご供養についてお話をしようと思います。
法華経の序品第一に入る前に、無量義経の徳行品、説法品、十功徳品の三品があります。
この無量義経をずっと読んでいきますと〝義は無量であるから、仏さまのお説きになるご法門もまた、たくさん、いろいろな方向から説明しなければならない〟ということが言われています。
しかも、その無量の義というものが、一つの義(法)から起こっている。つまり〝一の義(法)より百千万の義が生ず。また百千万の義を縮めて一となす〟というように、その無量の義を縮めると一つになると言われています。
この一つというのは、私は、一人一人の心というところへもってこなくてはならない、と思います。
佼成会では、皆さん「自分が変われば相手が変わる」と、合言葉のように言いますが、これは仏教の奥義を端的に表した素晴しい言葉だと思います。
あまり義がたくさんあるので、どうしたらいいだろう、どの義をとらえたらいいかわからない、ということになりがちですが、たった一つ、自分の心を仏さまのみ心の方向に変えればいいわけです。
これが、いわゆる〝仏性の開顕〟、自分の仏性に目覚めるということです。
無量義経というのは、そういう意味で法華経二十八品のお経に入る前の心構えとして、第一義をちゃんとおさえていなくてはならない、ということでお説きくださっているわけで、一つ一つ順序に従って階段を上がるように、いかにして皆にわからせようかという、ご苦心のほどが見えるわけです。皆さま、本日は盂蘭盆会、まことにおめでとうございます。早いもので、ことしも半年余りが過ぎてしまいました。
お盆がまいりますと、いつも目連尊者のことが心に浮かんできます。
この目連尊者のお母さんは、自分の子供を立派にしようとなさった、そういう立派な方が地獄の一劫で苦しんでおられたというのは、これは、まことに悲劇であります。しかし、これはよく考えてみますと、人間を本当に幸せにしてあげたいと願われ、また、人間というものが、幸せをつくりだすことのできるものであるということをよくご存じの仏さまが、十大弟子の一人、神通第一という目連尊者にこと寄せて、ご指導をくださったということになると思うのです。
これは、佼成会でいう〝結び〟ということになるのですが、仏さまの結び方というのは、「夏の安居(あんご)に大勢のお坊さんが集まっておられる、ちょうどその時をねらって、この方たちが皆さんそろって、ありがたいお経を真剣に読誦し、供養なさることによって、霊界の方の成仏も可能である」と、このことを現証として、はっきり示すために、目連尊者のお母さんを引き合いに出された、こういうことであろうと思います。無量の義は〝一〟
そこできょうは、法華経の順序次第に従ってご供養についてお話をしようと思います。
法華経の序品第一に入る前に、無量義経の徳行品、説法品、十功徳品の三品があります。
この無量義経をずっと読んでいきますと〝義は無量であるから、仏さまのお説きになるご法門もまた、たくさん、いろいろな方向から説明しなければならない〟ということが言われています。
しかも、その無量の義というものが、一つの義(法)から起こっている。つまり〝一の義(法)より百千万の義が生ず。また百千万の義を縮めて一となす〟というように、その無量の義を縮めると一つになると言われています。
この一つというのは、私は、一人一人の心というところへもってこなくてはならない、と思います。
佼成会では、皆さん「自分が変われば相手が変わる」と、合言葉のように言いますが、これは仏教の奥義を端的に表した素晴しい言葉だと思います。
あまり義がたくさんあるので、どうしたらいいだろう、どの義をとらえたらいいかわからない、ということになりがちですが、たった一つ、自分の心を仏さまのみ心の方向に変えればいいわけです。
これが、いわゆる〝仏性の開顕〟、自分の仏性に目覚めるということです。
無量義経というのは、そういう意味で法華経二十八品のお経に入る前の心構えとして、第一義をちゃんとおさえていなくてはならない、ということでお説きくださっているわけで、一つ一つ順序に従って階段を上がるように、いかにして皆にわからせようかという、ご苦心のほどが見えるわけです。弥勒菩薩の慈悲
さて、法華経の序品第一になると、まず智慧第一という文殊菩薩が登場しています。これは、法華経をわかろうとするには仏の智慧が必要だということです。
譬諭品第三で、お釈迦さまが『斯の法華経は 深智の為に説く 浅識は之を聞いて 迷惑して解らず 一切の声聞 及び辟支仏は 此の経の中に於て 力及ばざる所なり』と言っておられるように、高い知識がないと、お経を読んでも意味がよくわからないのです。
人間というものは、ひねくれたところがあって〝聞け、聞け〟と言われると、まともに聞こうとしません。ところが、〝説くべからず〟とピシッと言われると、どんな不思議なことがあるのか、聞いてみたいという気になるものです。
ですから、序品第一でも、お釈迦さまは三昧に入って、なかなか口を開こうとなさいません。しかも、地が六種に振動したり、蓮の花が上からお舞い降りたり、いろいろと不思議があって、いったい何事だろうという気になった、そこで弥勒菩薩が文殊菩薩に質問をします。その質問に答えて文殊菩薩が、日月灯明仏の故事によって、仏さまの説法の儀式を明らかにしております。
こういう順序次第によって、その場の人たちが皆、仏さまが一大事出生本懐の義をあかそうとなさっているということをわからせてもらって、真剣に聞こうという心構えができたわけです。
これは、やはり法座の中でも大事なことなのです。布教区長さんとか、教会長さん、あるいは支部長さんが話をされる時に、本当のことを言わねばならないような条件をそこにつくらなければなりません。皆さんの精進ぶり、心構え、そして言われたとおり必ず実行する決意というような、気合の入った空気をつくっておかないと、せっかくのお話も、意味が通じないことになります。
そういう意味で、方便品第二から始まる仏さまのご説法を聞く心構えというものが、文殊菩薩の智慧によってつくられているのですが、その文殊菩薩の話を引き出したのは、よくわからない人のために、自らが愚かな者の代表となって質問された弥勒菩薩の慈悲なのです。
如来寿量品第十六で、仏さまは「阿逸多」と呼びかけておられますが、これは弥勒菩薩の別名です。慈悲を中心に説かれた寿量品が、弥勒菩薩を対告衆として説かれているのを見ても、弥勒菩薩の慈悲の深さがよくわかるわけです。弥勒菩薩の慈悲
さて、法華経の序品第一になると、まず智慧第一という文殊菩薩が登場しています。これは、法華経をわかろうとするには仏の智慧が必要だということです。
譬諭品第三で、お釈迦さまが『斯の法華経は 深智の為に説く 浅識は之を聞いて 迷惑して解らず 一切の声聞 及び辟支仏は 此の経の中に於て 力及ばざる所なり』と言っておられるように、高い知識がないと、お経を読んでも意味がよくわからないのです。
人間というものは、ひねくれたところがあって〝聞け、聞け〟と言われると、まともに聞こうとしません。ところが、〝説くべからず〟とピシッと言われると、どんな不思議なことがあるのか、聞いてみたいという気になるものです。
ですから、序品第一でも、お釈迦さまは三昧に入って、なかなか口を開こうとなさいません。しかも、地が六種に振動したり、蓮の花が上からお舞い降りたり、いろいろと不思議があって、いったい何事だろうという気になった、そこで弥勒菩薩が文殊菩薩に質問をします。その質問に答えて文殊菩薩が、日月灯明仏の故事によって、仏さまの説法の儀式を明らかにしております。
こういう順序次第によって、その場の人たちが皆、仏さまが一大事出生本懐の義をあかそうとなさっているということをわからせてもらって、真剣に聞こうという心構えができたわけです。
これは、やはり法座の中でも大事なことなのです。布教区長さんとか、教会長さん、あるいは支部長さんが話をされる時に、本当のことを言わねばならないような条件をそこにつくらなければなりません。皆さんの精進ぶり、心構え、そして言われたとおり必ず実行する決意というような、気合の入った空気をつくっておかないと、せっかくのお話も、意味が通じないことになります。
そういう意味で、方便品第二から始まる仏さまのご説法を聞く心構えというものが、文殊菩薩の智慧によってつくられているのですが、その文殊菩薩の話を引き出したのは、よくわからない人のために、自らが愚かな者の代表となって質問された弥勒菩薩の慈悲なのです。
如来寿量品第十六で、仏さまは「阿逸多」と呼びかけておられますが、これは弥勒菩薩の別名です。慈悲を中心に説かれた寿量品が、弥勒菩薩を対告衆として説かれているのを見ても、弥勒菩薩の慈悲の深さがよくわかるわけです。三つの〝供養〟
ところで、今度は最後の二十八番になると、普賢菩薩勧発品ということで、普賢菩薩さまがおでになります。
大聖堂正面の階段を上がったところにある漆絵には、獅子に乗った文殊菩薩、牛に乗った弥勒菩薩と並んで、象に乗った普賢菩薩が描かれてあります。
この普賢菩薩は、この法華経を読誦、受持、書写、解説する人――まことに至らないけれども、法華経を依りどころとして、その教えに従って生活を改めようと志している私ども信仰者を供養するために、六牙の白象に乗って娑婆に現れると、お経に書いております。
私どもが仏さまのお慈悲にあずかり、ご先祖さまのご供養も徹底して行い、読誦修行もキチンとでき、常にご法を保っているならば、今度は普賢菩薩さまの方から、逆に私どもを供養するために、そこに出現するというのです。
供養と言いますと、お花、お香、お灯明を上げたり、ご飯を供えたり、さらには山海の珍味を作って仏さまにさし上げたりする利供養が第一、これが続くためには、その次の、篤く仏法僧の三宝を敬うという敬供養がなくてはなりません。
そして最後に、行供養です。人さまから救われるだけでなく、身を以って、あの人も、この人も幸せになってもらうために信仰に入ってもらおうと、手どり、お導きという行供養です。三つの〝供養〟
ところで、今度は最後の二十八番になると、普賢菩薩勧発品ということで、普賢菩薩さまがおでになります。
大聖堂正面の階段を上がったところにある漆絵には、獅子に乗った文殊菩薩、牛に乗った弥勒菩薩と並んで、象に乗った普賢菩薩が描かれてあります。
この普賢菩薩は、この法華経を読誦、受持、書写、解説する人――まことに至らないけれども、法華経を依りどころとして、その教えに従って生活を改めようと志している私ども信仰者を供養するために、六牙の白象に乗って娑婆に現れると、お経に書いております。
私どもが仏さまのお慈悲にあずかり、ご先祖さまのご供養も徹底して行い、読誦修行もキチンとでき、常にご法を保っているならば、今度は普賢菩薩さまの方から、逆に私どもを供養するために、そこに出現するというのです。
供養と言いますと、お花、お香、お灯明を上げたり、ご飯を供えたり、さらには山海の珍味を作って仏さまにさし上げたりする利供養が第一、これが続くためには、その次の、篤く仏法僧の三宝を敬うという敬供養がなくてはなりません。
そして最後に、行供養です。人さまから救われるだけでなく、身を以って、あの人も、この人も幸せになってもらうために信仰に入ってもらおうと、手どり、お導きという行供養です。大勢で供養を…
こうしたご供養というものについて、もう一度、盂蘭盆会に戻ってお話しますと、ちょうど雨季の安居がすんで、お釈迦さまのお弟子の僧侶方が、三千人も集まっているところでした。
神通力によって、お母さんが地獄の一劫で苦しんでいることを知った目連尊者は、仏さまに結んでいただいた言葉を信じて、山海の珍味をもって、この三千人の方にご供養申し上げ、同時に皆さんに読経をしていただきました。
こうして三千人ものお坊さんが、真剣に成仏を願って読経三昧に入られると、その経力によって、地獄の一劫で苦しんでおられたお母さんが、スーッと修行の場に出てこられ、成仏の方向に向かったという、こういうことから、この盂蘭盆会というものが起こってきたわけです。
ですから、皆さんも祈願供養の場合、一人より二人、二人より三人と、多いほうがよいのです。
年一回、八月十九日に私どももお招きいただく波木井山の川施餓鬼にしても、塔婆にたくさん戒名をお書きになり、お坊さんがお経を上げられると、道場いっぱいの参加者が一緒になって読経をしてくださるのです。一度にあれだけの人が一斉にお経を上げ、ご先祖さまの成仏を願うというのは、これは、なかなか他所ではできることではありません。
佼成会でも、きょうは全国で盂蘭盆会のご供養が行われているはずで、ご先祖さまも、さぞかしお喜びと存じます。
前にも申しましたが、文殊菩薩が言われたように、久遠の昔から、三千年に一度ぐらい、次々と二万人もの仏さまが衆生を憐むがゆえに世にお出ましになり法華経をお説きになったという、こういうことが繰り返されてきた順序次第から、過去世とのつながりを教えられているわけです。
そしてまた、目連尊者のお母さんにしても、神通第一と言われる人の母ですから、もちろん立派な人で、別に悪いことをしたわけではありません。ただ自分の子を非常に大事にするあまり、他人の子との間に差別があった。今の教育熱心な母親が、自分の子だけは試験に合格させたいと一生懸命になっているのと似ていますが、そこに、ほんの少し仏さまのみ心とは違うところができて、地獄の一劫で苦しまねばならない罪障ができてしまったわけです。しかし、そういう罪障も、その子の目連尊者の切なる願いと信仰心、さらに三千人の僧侶方にお願いする機会に恵まれたことによって救われるという、このことから、今日の時代の私どものご先祖さまも救われる方法を教えていただいているわけです。
ですから、私どもはご先祖さまとのつながり、そして親子の関係というものを、この盂蘭盆会を機に、深くかみしめねばならないと思います。大勢で供養を…
こうしたご供養というものについて、もう一度、盂蘭盆会に戻ってお話しますと、ちょうど雨季の安居がすんで、お釈迦さまのお弟子の僧侶方が、三千人も集まっているところでした。
神通力によって、お母さんが地獄の一劫で苦しんでいることを知った目連尊者は、仏さまに結んでいただいた言葉を信じて、山海の珍味をもって、この三千人の方にご供養申し上げ、同時に皆さんに読経をしていただきました。
こうして三千人ものお坊さんが、真剣に成仏を願って読経三昧に入られると、その経力によって、地獄の一劫で苦しんでおられたお母さんが、スーッと修行の場に出てこられ、成仏の方向に向かったという、こういうことから、この盂蘭盆会というものが起こってきたわけです。
ですから、皆さんも祈願供養の場合、一人より二人、二人より三人と、多いほうがよいのです。
年一回、八月十九日に私どももお招きいただく波木井山の川施餓鬼にしても、塔婆にたくさん戒名をお書きになり、お坊さんがお経を上げられると、道場いっぱいの参加者が一緒になって読経をしてくださるのです。一度にあれだけの人が一斉にお経を上げ、ご先祖さまの成仏を願うというのは、これは、なかなか他所ではできることではありません。
佼成会でも、きょうは全国で盂蘭盆会のご供養が行われているはずで、ご先祖さまも、さぞかしお喜びと存じます。
前にも申しましたが、文殊菩薩が言われたように、久遠の昔から、三千年に一度ぐらい、次々と二万人もの仏さまが衆生を憐むがゆえに世にお出ましになり法華経をお説きになったという、こういうことが繰り返されてきた順序次第から、過去世とのつながりを教えられているわけです。
そしてまた、目連尊者のお母さんにしても、神通第一と言われる人の母ですから、もちろん立派な人で、別に悪いことをしたわけではありません。ただ自分の子を非常に大事にするあまり、他人の子との間に差別があった。今の教育熱心な母親が、自分の子だけは試験に合格させたいと一生懸命になっているのと似ていますが、そこに、ほんの少し仏さまのみ心とは違うところができて、地獄の一劫で苦しまねばならない罪障ができてしまったわけです。しかし、そういう罪障も、その子の目連尊者の切なる願いと信仰心、さらに三千人の僧侶方にお願いする機会に恵まれたことによって救われるという、このことから、今日の時代の私どものご先祖さまも救われる方法を教えていただいているわけです。
ですから、私どもはご先祖さまとのつながり、そして親子の関係というものを、この盂蘭盆会を機に、深くかみしめねばならないと思います。新たな決意の日
私どものご先祖さまは、戒名もちゃんと過去帳に記され、この盂蘭盆会ばかりでなく、毎月一回は必ず自分の命日がきて、私どものささやかな供養を受けておられます。けれども信仰をもたない人のご先祖さまは、戒名もついておらず、過去帳にも載っていないわけです。こういうお宅が、全国には、まだどのくらいあるかわかりません。
こういう方々が、私どもの姿を見て、やはり、あのようにしなければならないといって寄ってこられるような、そういう信仰を身につけたいものです。
この法を正しく受持していると、雲のごとく信者が集まってくる、とお経の中に書いてあります。
普賢菩薩から供養していただけるような、そして、ご先祖さまに喜んで守っていただけるような修行によって、お導きも楽々とできるという功徳も頂だいできるわけです。
どうか皆さん、そのような状態にまでご精進くださるよう、きょうは、その決意を新たにしていただきたいということをお願い申し上げて、きょうの説法の終わりといたします。(文責在記者)
新たな決意の日
私どものご先祖さまは、戒名もちゃんと過去帳に記され、この盂蘭盆会ばかりでなく、毎月一回は必ず自分の命日がきて、私どものささやかな供養を受けておられます。けれども信仰をもたない人のご先祖さまは、戒名もついておらず、過去帳にも載っていないわけです。こういうお宅が、全国には、まだどのくらいあるかわかりません。
こういう方々が、私どもの姿を見て、やはり、あのようにしなければならないといって寄ってこられるような、そういう信仰を身につけたいものです。
この法を正しく受持していると、雲のごとく信者が集まってくる、とお経の中に書いてあります。
普賢菩薩から供養していただけるような、そして、ご先祖さまに喜んで守っていただけるような修行によって、お導きも楽々とできるという功徳も頂だいできるわけです。
どうか皆さん、そのような状態にまでご精進くださるよう、きょうは、その決意を新たにしていただきたいということをお願い申し上げて、きょうの説法の終わりといたします。(文責在記者)