ところがそれが方便力なんですね。本音はそこにあるわけなんです。この人に本当のことを言わせようと思う。私に本当のことを勉強させようと思っているんだけれども、口では──いまの教育ママのように点数かせぎをさせようというようなことを言ったら、私もいまの怠け者の不良少年になったかもわからない。ところが点数かせぎじゃないわけなんです。非常にやかましい。いつまでも一緒に飲んでいる。そうすると後になって文句を百万だら言われるわけなんです。ところがその言われるときはどうしてそういうふうになったかというと、後から後から新しい料理をこしらえて出すからお客さまはいつになっても帰りゃしない。帰れないんですね。そうしておいて、私が悪いとこう言うんだよ、まあ。これはなかなか逆手なんですね。
それがなかなか生きているうちは、妙佼先生の本音が読めないで、何言ってるんだというような気持ちも多少動いた。しかし私はまた法門を聞くということが何より好きだから、それこそ青春も恋愛もみんな忘れてそっちばかり夢中になっていた。ですからもう何のことはない。お坊さんと話をして得意になって、いい気になって、まあ自分では一生懸命で勉強させてもらってありがたいと思っているんだけれども、帰るが早いかもう噛んで吐き出したように文句言われるとね、少々おもしろくない。おもしろくないけれども、一方にはいいものを注入させてもらったという感謝の気持ちはあったわけです。
そういうようなですね、皆さんもこれからいよいよ妙佼先生の年代にもうなった人は──妙佼先生は四十八歳で入会したんですかな。そして二十年、六十八歳まで精進をしたわけですが、そういう二重人格になれというんじゃないですよ。やっぱり心にもないようなことでも方便力をもって人を本物にするという、にせものでない本物にすると。そういう慈悲で導かなければ本当の信者はできないと思います。そういうことを言いたいわけなんです。