本日は妙佼先生がお亡くなりになって二十年目を迎えたわけでございます。妙佼先生が私どもに身をもって指導をしていただきましたのは、ちょうど二十年間でした。本日は全国から代表の方々が大ぜいご参拝をくださいまして、先ほど来、真心からなる皆さま方の二十回忌の法要、そしてまた、いま杉山さんから妙佼先生をしのんでのありし日の思い出の言葉があったわけであります。
妙佼先生の精進ぶりというのは、それはすさまじいというほど、あの体からどうしてあのような迫力が出るかと思うほど、すばらしい力を持っておったわけであります。今日、立正佼成会はこのように発展をしましたけれども、全然その当時のことを知らない人が大部分であります。しかしながらまだ幸いなことに、ずっといまの杉山さんもそうでありますが、幹部の皆さま方は一度や二度はおしかりを受けた方がまだいらっしゃる。教会長さんの中でも、昨晩もお逮夜で、理事さんのお宅へ私ども大ぜいの人がお招きをいただいたわけであります。そこでも、これはごく側近といいますか、直接ご指導をいただいた者ばかりでありましたが、大変にしかられた人とあまりしかられなかった人と、二種類あるわけであります。同じしかられても、口汚く頭からどやされるようなしかり方をされる人と、遠回しに真綿でくくるようにしぼられる人と、昨晩はいろいろの角度から、ありし日の妙佼先生をしのんでの話し合いがあったわけであります。
先ほどの妙佼先生の録音を聞いてもわかりますように、もうなんにもほかのことは考えない人で、ただひたすらに人さまが幸せになってもらいたい、そして幸せになってもらうためには自分はどのようなことをしなければならないかと。ちょうどこれは佼成会員を見るというと、妙佼先生の気持ちをいまお察ししますれば、お母さんであります。一家で子供さんが何人あっても、お母さんというのは子供に対して、あれは憎いやつだとか、この子はもう見たくないなんていうことはないはずであります。もう全部自分の子供というものに対しては親は命をもかける。女性は弱し、母は強しなんていうようなことを言われるように、母となるとこれはすばらしく強くなるわけであります。それはもう佼成会員を見た場合には、妙佼先生の目から見るとみんなわが子である。本当の自分の腹を痛めた子は亡くなってしまっていないのであります。ですからこのご法の子供が本当の子供だとそういうふうに思っておるのであります。