これは信と解とどっちも大事なんで、片一方じゃだめなんです。ですけれども信解品とこう四番目にあるように、信の方が先にですね──まあ佼成会の皆さんの教学が非常によかったということですが、半面昨今の教学をやっている人がどうもちょっと弱いというのはそこだなと思うんです。いまの人はみんな解信の方に入っている。信解品じゃない、解信品に読んじゃってる。解釈の方を先に聞いて、理屈を先に聞いてそれから、理屈が通るからおれも信じようかなというんですから、信の方がちょっとどっかへ行っちゃっている。ところが昔は、解釈なんていうものはむだだと。信ずればいいというんで、その言葉が「陰を信じろ」という。陰というんだが、陰なんてものはないんですな、本当は。本体があるから陰があるんだけれども、それを本体なんか見ないで陰を信じろというような言葉で、「陰を信じろ」と言ったんです。
そこなんですね。この、陰を信じるという──神仏は目に見えない、手にも取れないけれども、その無相のところに相がある。そういうことで、信じられるということになって信じておるけれども、「無明増長す」で、信だけでは、信ありて解なくば無明増長すで迷いがなくならない。そこで解釈と。これは昭和三十三年に真実顕現を発表いたしましてから、解というものがはっきりしてきた。そこで無明が消えたわけですね。
ところがその、前の信の方をたたき込んだ、そういう修行をしないでいきなり解の方だけやってしまうというと都合がいい。解の方へ入っちゃうと、そうするともう信の方をちょっと軽く見ちゃってそっちのけにやってしまう。そうすると、「我見を増長す」というのは、ご法をやっている人が何でああいうことができるだろう、何であんなに怠けられるだろう、とこういうことだね。
これはさっきのことにも通じるんですが、皆さんの出て来る時間でも、本当に信を持って陰を信じておれば、もうご命日の九時には道場がいっぱいになっているのが本当だと思うんです。東京にとにかく信者はたくさんいるんです。早く行かないと座れないというんで皆さんがもう入り口の、拝殿に入って来る所の石段までいっぱいいるくらい来るのが、私は東京の信者の数からいうとほんとうだと思うんです。ところがみんな解信になっちゃって、信解品でなくて解信品になっちゃってるから、「私はもう教学の勉強をしてわかってるんだから、お経はうちで上げたし、ご命日のお経をわざわざ本尊の前へ行って上げたって上げなくたっておんなじじゃないか」という解釈をしているんじゃないかと思うんです。だからなかなか集まって来ない。