法の通りの実践にこそ功徳が
さて今日の世相というものを見ますと、世の中の変化動揺などいろいろのことがございまして、何もかも信じられないような世の中だといわれております。
ところが、仏さまの教えを本当に信じて行じている人にしてみれば、たいへん結構な世の中で、正しいことを堂々とおくめんなしに天下に向かって叫んでも、当時のように島流しにあうこともございませんし、刀で首を切られるようなこともないのであります。
ですから、いまこそ正法を本当に叫ばれるとき、そして、叫んでもそれに対して弊害が伴なうようなときでなく、むしろ大衆が護らなければ、当時のように殺されるということでなく、人類が滅亡する方向へいきかねないという、そのような条件が出てきたのです。そういう間違った条件を正す意味からも、正法を護持することは、いかにむずかしいことであるかということであります。
きょうのお会式への参加、またお参りを一つの基点といたしまして、法華経に対する信心を強くおこし、信心の強いところには救いがある。自分が絶対安心であることを自からの手でつかんでいただきたいと思います。
信じられない人はああじゃないか、こうじゃないかと苦労が多いわけであります。信心のある人は動揺がなく、大安心をもっていられるわけであります。
日蓮聖人は、竜の口の牢屋において首切りの座にのぼっても、「これ程の喜びを笑えぞかし」といって日朗上人を諌められたのです。そしてあした朝だと見ぐるしいから夜のうちに早く首を刎ねなさいと、自分のほうから請求されたのです。
さらに、法華経のおんために命を捨てるならば、海辺の砂と小判を交換するようなものである。黄金(こがね)にいさごをあきなうようなものであり、法華経のためには命なんていうようなものは何でもないと、このくらい命を捨てて正法にかけておられたわけであります。
ですから、日蓮聖人はどんな難が幾度こようとも何の心配もなく、六十年の生涯を阿弥陀さまのお迎えを受けて、堂々と大往生をされたわけであります。
お釈迦さまのご入滅は沙羅隻樹のもとですが、これがお悟りを開いて法を説かれたところから丑寅の方向へいって、八十年の生涯を遂げられ大往生されましたが、日蓮聖人もその儀式に従って、知ってか知らずにかわかりませんが、身廷から池上へと丑寅の方向へお歩きになって、池上で大往生されたのであります。
これはお経の中にありますように、三世諸仏の説法の儀式によって三乗を説くというような言葉がありますが、如来の入滅もそのような一つの儀式があるといわれております。その儀式をとろうという気持ちであったかなかったか、本来は日立のお湯─温泉─へいって少し養生しようという目的でお出ましになったのですが、如来の法則に従って池上において六十年の生涯を閉じられたのであります。