お会式の意義を体し真心の灯明を
この仏教というものは、いろいろの問題がございまして、例えて申し上げますと、方便力ということになりますれば、観音経にありますように、三十三身を現じて法を説くというので、私どもの目の前に現われたところのすべての現象界は、皆仏さまの説法であるというふうに、受けとれるようにならなければならないということであります。そのように問題はたいへん広汎でありますけど、率直にそのまま拝読し正直にそのまま受けとれば、もうはっきりと救われて安心が得られる、信じられる。そういう問題がたくさんあるわけであります。
仏さまを自分の真の親であるという。この主・師・親の三徳を具えたお釈迦さま以外に、自分の本当の主とも師とも親ともいえるものはない。そういうことを日蓮聖人は非常に強くおおせになっておられます。
そして、いろいろの仏さまは、お釈迦さまの説法の中に生きているのであって、この娑婆に生まれ出たお釈迦さまのお説法に間違いがないのである。ということを身をもって一つ一つ現証をもってお説法なさっているわけでございます。
そして、六十年の生涯において、自分のやってきたことに一分のあやまりもないという、自信たっぷりのお気持ちで過ごされたのであります。しかしながら、当時は本当にたいへんなときであったわけでして、日蓮聖人のように正直な表現をする者は仏法の敵だというので、島流しにされたり首切りの座にのせられたのであります。
大聖人は大難四箇度、小難数知れずと、いつ殺されるかわからないように狙われたことが、数知れずあったわけであります。そのようなことがありましても、一向にとん着なく、堂々と自分の主張を声高らかに揚げられて、池上の本門寺において六十年の生涯を終え、大往生されたのであります。
ですから、法華経を本当に行じているものは長生の実を得る。という大往生を約束されているという大信念があればこそ、これだけの大業ができたものと思うのであります。
きょうは、お互いさまにこのことをしっかりとかみしめて、ご法門というものは口先きだけではだめだ。法華経は身を張って行じ、自分の行為に表わさなければだめだ。仏法というものは自分で体験したことを、自分でちゃんと言葉に表わして表現しなければ救われないんだ。ということを教えていただいているわけであります。