Founder Dharma Guidance Text "Gudo" 1973 Nichiren Shonin the Otaiya service

  •  ご承知のように、ことしは日蓮大聖人ご生誕七百五十年目にあたります。そして聖人は六十年の生涯をご法のために捧げられてご入滅されたのでありまして、そのご遺徳をしのぶきょうのお会式。この行事といたしましては六百九十二回目だということであります。私どもお互いさまに、この行事をお祝い申し上げるといっても、本来はご入滅の日でありまするから、情の上から申しますと、お逮夜であり、涙を流して迎える日ではないかと思うのであります。
     しかし、日蓮聖人とかいろいろの聖者といわれるような方々は、生身のからだ─肉体─が亡くなられて、ご入滅ということになりましても、魂はいよいよ永遠の魂に生まれ変わるということでございます。
     ご入滅ということの大きな問題は、逆に永遠に生きるという「生」に変わっていくことでして、ある意味では不変の魂・不変の働きということでありまして、そういう意味からいいますと、おめでたいともいえないわけでもないわけであります。しかし、ご入滅のお逮夜ということでありまするから、手放しでおめでたいというわけにはいかないと思うわけであります。
     いつも申し上げますように、正法を護る─正しい法を堅持するということは、たいへんむずかしいことであります。それを日蓮聖人はまっこうから、正法護持という問題を掲げられたのであります。このようにおくめんなしに自分の信ずるところを発表されました日蓮聖人は、たいへん正直な方であったと申し上げてもよろしいかと思います。
     過日も、バイブルの中のお話し─増谷文雄先生の講演からをちょっと申し上げましたように、人間というものが、本当に信ずるところに、その信というものから義が表われる、義というものは信から表われる。その表われてくる義というものを今度は人さまにいい表わすことによって救いとなると、そういう言葉がバイブルにもあるということです。
     いい表わすということでありますが、日蓮聖人のいい表わし方は非常に痛烈でありまして、時の執権に対しても、「汝信仰の寸心を改めて速かに実乗の一善に帰せよ」と、こういうふうに命令をされるような強い語気であります。信仰の寸心を改めなければだめであるということを、七百年前におっしゃられたわけでございます。

  •  ご承知のように、ことしは日蓮大聖人ご生誕七百五十年目にあたります。そして聖人は六十年の生涯をご法のために捧げられてご入滅されたのでありまして、そのご遺徳をしのぶきょうのお会式。この行事といたしましては六百九十二回目だということであります。私どもお互いさまに、この行事をお祝い申し上げるといっても、本来はご入滅の日でありまするから、情の上から申しますと、お逮夜であり、涙を流して迎える日ではないかと思うのであります。
     しかし、日蓮聖人とかいろいろの聖者といわれるような方々は、生身のからだ─肉体─が亡くなられて、ご入滅ということになりましても、魂はいよいよ永遠の魂に生まれ変わるということでございます。
     ご入滅ということの大きな問題は、逆に永遠に生きるという「生」に変わっていくことでして、ある意味では不変の魂・不変の働きということでありまして、そういう意味からいいますと、おめでたいともいえないわけでもないわけであります。しかし、ご入滅のお逮夜ということでありまするから、手放しでおめでたいというわけにはいかないと思うわけであります。
     いつも申し上げますように、正法を護る─正しい法を堅持するということは、たいへんむずかしいことであります。それを日蓮聖人はまっこうから、正法護持という問題を掲げられたのであります。このようにおくめんなしに自分の信ずるところを発表されました日蓮聖人は、たいへん正直な方であったと申し上げてもよろしいかと思います。
     過日も、バイブルの中のお話し─増谷文雄先生の講演からをちょっと申し上げましたように、人間というものが、本当に信ずるところに、その信というものから義が表われる、義というものは信から表われる。その表われてくる義というものを今度は人さまにいい表わすことによって救いとなると、そういう言葉がバイブルにもあるということです。
     いい表わすということでありますが、日蓮聖人のいい表わし方は非常に痛烈でありまして、時の執権に対しても、「汝信仰の寸心を改めて速かに実乗の一善に帰せよ」と、こういうふうに命令をされるような強い語気であります。信仰の寸心を改めなければだめであるということを、七百年前におっしゃられたわけでございます。

  • "    力強い信念で人類救済に立ち向かおう

     人類はたいへんに進歩いたしました。科学的な問題は長足の進歩を遂げまして、日本でもそのお陰さまで人びとは長生きができ寿命はたいへんに伸びてまいりました。
     そういう一面があるかと思うと、たいへんに危険性が身の周り、足元にまで来ているともいえるのであります。たとえば風のない日になりますと、光化学スモッグが発生して、何か息がつまるようでございます。
     折角学校の生徒が体育祭を始めておりましても、直ちに活動を止めなければならないというような、まことにありがたくない、何かもう胸がつまるような問題がおこってきています。ですからここでいよいよ日蓮聖人のお言葉をもう一ぺん思い起こしてみなければならない。そういう時代になってきていると思うのであります。
     日蓮聖人は一人ひとりの信心を強盛にしてということをおっしゃっているのでありますが、いつも時の執権に向かって、信仰の寸心を改めろといわれるのと同じように、天下万民衆生一仏乗となって、というような言葉で、妙法が一人繁昌するときに、万民一同に「南無妙法蓮華経と唱えたてまつれば、吹く風枝を鳴らさず」というようなことをおっしゃっていらっしゃる。
     すべての自然というものも、お題目を唱えるということから決まっていくのだというように、天下万民に呼びかけておるわけであります。
     いままた、この世界中の人類がここで信仰の寸心を改めて、本当の信じられるものをはっきりと、ごまかしのない、これはこの通りであるという、この通り歩まなければならぬ、この通り行じなければならぬ。そういうものをはっきりとつかまなければならないときであります。そして日蓮聖人のおっしゃられたような大号令が必要であり、万民が心得ていて、何か本当の救いというものはないかと、求めるような時代になってきたのであります。
     そういうことになりますと、過去の日本のお祖師さまといわれる方の中で、真言宗の方にすれば弘法大師がお祖師さまだし、浄土真宗にすれば親鸞上人であり、念仏宗にすれば法然上人ということになるんですが、ふしぎにただお祖師さまというと、万民が等しく日蓮聖人をお祖師さまと、こう思うというのであります。
     このようにどの宗の方もみんなそう思ってしまうという、それ程の祖師の力をもっている日蓮聖人。どうしてそんなに力があるのかと考えてみますと、非常に正直に信じ、また正直にいい表わしておったからだと思うのであります。
     ご法というものをまもれば、すべてのものがかなわないことがないというような強い言葉で、法華経行者のかなわぬことはない、という強い言葉でおっしゃるのです。"

  • "    力強い信念で人類救済に立ち向かおう

     人類はたいへんに進歩いたしました。科学的な問題は長足の進歩を遂げまして、日本でもそのお陰さまで人びとは長生きができ寿命はたいへんに伸びてまいりました。
     そういう一面があるかと思うと、たいへんに危険性が身の周り、足元にまで来ているともいえるのであります。たとえば風のない日になりますと、光化学スモッグが発生して、何か息がつまるようでございます。
     折角学校の生徒が体育祭を始めておりましても、直ちに活動を止めなければならないというような、まことにありがたくない、何かもう胸がつまるような問題がおこってきています。ですからここでいよいよ日蓮聖人のお言葉をもう一ぺん思い起こしてみなければならない。そういう時代になってきていると思うのであります。
     日蓮聖人は一人ひとりの信心を強盛にしてということをおっしゃっているのでありますが、いつも時の執権に向かって、信仰の寸心を改めろといわれるのと同じように、天下万民衆生一仏乗となって、というような言葉で、妙法が一人繁昌するときに、万民一同に「南無妙法蓮華経と唱えたてまつれば、吹く風枝を鳴らさず」というようなことをおっしゃっていらっしゃる。
     すべての自然というものも、お題目を唱えるということから決まっていくのだというように、天下万民に呼びかけておるわけであります。
     いままた、この世界中の人類がここで信仰の寸心を改めて、本当の信じられるものをはっきりと、ごまかしのない、これはこの通りであるという、この通り歩まなければならぬ、この通り行じなければならぬ。そういうものをはっきりとつかまなければならないときであります。そして日蓮聖人のおっしゃられたような大号令が必要であり、万民が心得ていて、何か本当の救いというものはないかと、求めるような時代になってきたのであります。
     そういうことになりますと、過去の日本のお祖師さまといわれる方の中で、真言宗の方にすれば弘法大師がお祖師さまだし、浄土真宗にすれば親鸞上人であり、念仏宗にすれば法然上人ということになるんですが、ふしぎにただお祖師さまというと、万民が等しく日蓮聖人をお祖師さまと、こう思うというのであります。
     このようにどの宗の方もみんなそう思ってしまうという、それ程の祖師の力をもっている日蓮聖人。どうしてそんなに力があるのかと考えてみますと、非常に正直に信じ、また正直にいい表わしておったからだと思うのであります。
     ご法というものをまもれば、すべてのものがかなわないことがないというような強い言葉で、法華経行者のかなわぬことはない、という強い言葉でおっしゃるのです。"

  •  また、万民が一同にお題目を唱えれば、吹く風も枝を鳴らさずというように、すべてのことがそれによって決まる。人間の長生きの術もそこから始まってくる。というようなすばらしい言葉で教えているわけであります。そういう正直な、また信じたことを本当にまっこうから表現され、そこに救いがあると思うのであります。
     日蓮聖人は、たくさんの言葉が残されておりますが、ほかのお祖師さまはだいたい話されたものを書きまとめたものです。例えば真宗の歎異抄も親鸞上人が話されたことを、後で書いたものであるといわれています。日蓮聖人のご遺文は自分でお書きになったもので、それがいまもなお、厳然と五百余編も残されてあるわけです。
     ですから、誰が聞いて書いたというようなものではないわけです。それはどちらがどちらでなければならんということもないわけでありますけれども、皆さんもお聞きになっておると思うんですが。きのうときょうの人生読本で、「如是我聞」という問題についてお話しがありました。その如是我聞─私は仏さまのお言葉をこのように承りました。ということからお経が始まるわけです。そのように、どなたかがお説法をされてるときに、確実にそのまま書いておいて残してあれば、それでも一向にさしつかえがないわけであり、自分で書かなくちゃならんということはないのです。
     けれども、日蓮聖人のご遺文だけは、自分でお書きになって残されておりますから、例えば後から真似してつけ加えてもどうにもならない。お聖人さまの筆跡がそのままに厳然として残っているわけであります。
     こういうお祖師さまは、どこのお祖師さまにも勝ったすばらしい方であり。なさったことは厳然として実録となって残っているわけでございます。
     私どもは法華経を所依の経典とさせていただいているのであります。法華経のありがたいということは、聖徳太子以来伝教大師もおっしゃっておりますし、たくさんの方々が法華経に帰依されたわけでありますが、この日蓮大聖人ほどはっきりと力強く、この通りいけば間違いないというような、この力強い息吹きを与えてくださった方はないと思うのであります。
     きょうは、その日蓮聖人のご入滅のお逮夜ということでして、私どもはこうして年間の大行事の一つにしているわけであります。

  •  また、万民が一同にお題目を唱えれば、吹く風も枝を鳴らさずというように、すべてのことがそれによって決まる。人間の長生きの術もそこから始まってくる。というようなすばらしい言葉で教えているわけであります。そういう正直な、また信じたことを本当にまっこうから表現され、そこに救いがあると思うのであります。
     日蓮聖人は、たくさんの言葉が残されておりますが、ほかのお祖師さまはだいたい話されたものを書きまとめたものです。例えば真宗の歎異抄も親鸞上人が話されたことを、後で書いたものであるといわれています。日蓮聖人のご遺文は自分でお書きになったもので、それがいまもなお、厳然と五百余編も残されてあるわけです。
     ですから、誰が聞いて書いたというようなものではないわけです。それはどちらがどちらでなければならんということもないわけでありますけれども、皆さんもお聞きになっておると思うんですが。きのうときょうの人生読本で、「如是我聞」という問題についてお話しがありました。その如是我聞─私は仏さまのお言葉をこのように承りました。ということからお経が始まるわけです。そのように、どなたかがお説法をされてるときに、確実にそのまま書いておいて残してあれば、それでも一向にさしつかえがないわけであり、自分で書かなくちゃならんということはないのです。
     けれども、日蓮聖人のご遺文だけは、自分でお書きになって残されておりますから、例えば後から真似してつけ加えてもどうにもならない。お聖人さまの筆跡がそのままに厳然として残っているわけであります。
     こういうお祖師さまは、どこのお祖師さまにも勝ったすばらしい方であり。なさったことは厳然として実録となって残っているわけでございます。
     私どもは法華経を所依の経典とさせていただいているのであります。法華経のありがたいということは、聖徳太子以来伝教大師もおっしゃっておりますし、たくさんの方々が法華経に帰依されたわけでありますが、この日蓮大聖人ほどはっきりと力強く、この通りいけば間違いないというような、この力強い息吹きを与えてくださった方はないと思うのであります。
     きょうは、その日蓮聖人のご入滅のお逮夜ということでして、私どもはこうして年間の大行事の一つにしているわけであります。

  •    お会式の意義を体し真心の灯明を

     この仏教というものは、いろいろの問題がございまして、例えて申し上げますと、方便力ということになりますれば、観音経にありますように、三十三身を現じて法を説くというので、私どもの目の前に現われたところのすべての現象界は、皆仏さまの説法であるというふうに、受けとれるようにならなければならないということであります。そのように問題はたいへん広汎でありますけど、率直にそのまま拝読し正直にそのまま受けとれば、もうはっきりと救われて安心が得られる、信じられる。そういう問題がたくさんあるわけであります。
     仏さまを自分の真の親であるという。この主・師・親の三徳を具えたお釈迦さま以外に、自分の本当の主とも師とも親ともいえるものはない。そういうことを日蓮聖人は非常に強くおおせになっておられます。
     そして、いろいろの仏さまは、お釈迦さまの説法の中に生きているのであって、この娑婆に生まれ出たお釈迦さまのお説法に間違いがないのである。ということを身をもって一つ一つ現証をもってお説法なさっているわけでございます。
     そして、六十年の生涯において、自分のやってきたことに一分のあやまりもないという、自信たっぷりのお気持ちで過ごされたのであります。しかしながら、当時は本当にたいへんなときであったわけでして、日蓮聖人のように正直な表現をする者は仏法の敵だというので、島流しにされたり首切りの座にのせられたのであります。
     大聖人は大難四箇度、小難数知れずと、いつ殺されるかわからないように狙われたことが、数知れずあったわけであります。そのようなことがありましても、一向にとん着なく、堂々と自分の主張を声高らかに揚げられて、池上の本門寺において六十年の生涯を終え、大往生されたのであります。
     ですから、法華経を本当に行じているものは長生の実を得る。という大往生を約束されているという大信念があればこそ、これだけの大業ができたものと思うのであります。
     きょうは、お互いさまにこのことをしっかりとかみしめて、ご法門というものは口先きだけではだめだ。法華経は身を張って行じ、自分の行為に表わさなければだめだ。仏法というものは自分で体験したことを、自分でちゃんと言葉に表わして表現しなければ救われないんだ。ということを教えていただいているわけであります。

  •    お会式の意義を体し真心の灯明を

     この仏教というものは、いろいろの問題がございまして、例えて申し上げますと、方便力ということになりますれば、観音経にありますように、三十三身を現じて法を説くというので、私どもの目の前に現われたところのすべての現象界は、皆仏さまの説法であるというふうに、受けとれるようにならなければならないということであります。そのように問題はたいへん広汎でありますけど、率直にそのまま拝読し正直にそのまま受けとれば、もうはっきりと救われて安心が得られる、信じられる。そういう問題がたくさんあるわけであります。
     仏さまを自分の真の親であるという。この主・師・親の三徳を具えたお釈迦さま以外に、自分の本当の主とも師とも親ともいえるものはない。そういうことを日蓮聖人は非常に強くおおせになっておられます。
     そして、いろいろの仏さまは、お釈迦さまの説法の中に生きているのであって、この娑婆に生まれ出たお釈迦さまのお説法に間違いがないのである。ということを身をもって一つ一つ現証をもってお説法なさっているわけでございます。
     そして、六十年の生涯において、自分のやってきたことに一分のあやまりもないという、自信たっぷりのお気持ちで過ごされたのであります。しかしながら、当時は本当にたいへんなときであったわけでして、日蓮聖人のように正直な表現をする者は仏法の敵だというので、島流しにされたり首切りの座にのせられたのであります。
     大聖人は大難四箇度、小難数知れずと、いつ殺されるかわからないように狙われたことが、数知れずあったわけであります。そのようなことがありましても、一向にとん着なく、堂々と自分の主張を声高らかに揚げられて、池上の本門寺において六十年の生涯を終え、大往生されたのであります。
     ですから、法華経を本当に行じているものは長生の実を得る。という大往生を約束されているという大信念があればこそ、これだけの大業ができたものと思うのであります。
     きょうは、お互いさまにこのことをしっかりとかみしめて、ご法門というものは口先きだけではだめだ。法華経は身を張って行じ、自分の行為に表わさなければだめだ。仏法というものは自分で体験したことを、自分でちゃんと言葉に表わして表現しなければ救われないんだ。ということを教えていただいているわけであります。

  •  この万灯行列は皆さんご承知のように、お金持ちの立派な万灯と、貧者の一灯─貧乏ではあるけれども自分の頭の毛を売ってまで、お釈迦さまの説法に歩きなさる足元を照らそうとする真心の灯火、その真心をお釈迦さまはお喜びになりおほめになられました。
     風が吹いたら立派な万灯の灯火は消えたけれども、貧者の真心であげたところの灯火は、どんな風にも消されなかったという諺も残っております。そのように私どもの真心の灯火というものは、格好よく立派に大げさなことをすることだけが、決して喜こばしいことではないのです。
     私どもといたしましては、このご法を説くお釈迦さまの足元をよく照らして、どこまでもこのご法が弘まるようにという意味が、きょうの万灯行列にあるわけであります。
     法の弘まるところ、法の弘める場所を明らかにしておくということは、そういう大きな一つの信念・信心から出てくるところの、身をもっての布施が一番大事である。こういうことも含めた万灯行列になるわけであります。どうかきょうは、そういうことをもう一ぺん思いおこして、法華経を弘める役目というものがいかに大事なものであるか、そしてその役目を果そうというところに真の救いがあるということを信じて、行じていただきたいと思います。

  •  この万灯行列は皆さんご承知のように、お金持ちの立派な万灯と、貧者の一灯─貧乏ではあるけれども自分の頭の毛を売ってまで、お釈迦さまの説法に歩きなさる足元を照らそうとする真心の灯火、その真心をお釈迦さまはお喜びになりおほめになられました。
     風が吹いたら立派な万灯の灯火は消えたけれども、貧者の真心であげたところの灯火は、どんな風にも消されなかったという諺も残っております。そのように私どもの真心の灯火というものは、格好よく立派に大げさなことをすることだけが、決して喜こばしいことではないのです。
     私どもといたしましては、このご法を説くお釈迦さまの足元をよく照らして、どこまでもこのご法が弘まるようにという意味が、きょうの万灯行列にあるわけであります。
     法の弘まるところ、法の弘める場所を明らかにしておくということは、そういう大きな一つの信念・信心から出てくるところの、身をもっての布施が一番大事である。こういうことも含めた万灯行列になるわけであります。どうかきょうは、そういうことをもう一ぺん思いおこして、法華経を弘める役目というものがいかに大事なものであるか、そしてその役目を果そうというところに真の救いがあるということを信じて、行じていただきたいと思います。

  •    法の通りの実践にこそ功徳が

     さて今日の世相というものを見ますと、世の中の変化動揺などいろいろのことがございまして、何もかも信じられないような世の中だといわれております。
     ところが、仏さまの教えを本当に信じて行じている人にしてみれば、たいへん結構な世の中で、正しいことを堂々とおくめんなしに天下に向かって叫んでも、当時のように島流しにあうこともございませんし、刀で首を切られるようなこともないのであります。
     ですから、いまこそ正法を本当に叫ばれるとき、そして、叫んでもそれに対して弊害が伴なうようなときでなく、むしろ大衆が護らなければ、当時のように殺されるということでなく、人類が滅亡する方向へいきかねないという、そのような条件が出てきたのです。そういう間違った条件を正す意味からも、正法を護持することは、いかにむずかしいことであるかということであります。
     きょうのお会式への参加、またお参りを一つの基点といたしまして、法華経に対する信心を強くおこし、信心の強いところには救いがある。自分が絶対安心であることを自からの手でつかんでいただきたいと思います。
     信じられない人はああじゃないか、こうじゃないかと苦労が多いわけであります。信心のある人は動揺がなく、大安心をもっていられるわけであります。
     日蓮聖人は、竜の口の牢屋において首切りの座にのぼっても、「これ程の喜びを笑えぞかし」といって日朗上人を諌められたのです。そしてあした朝だと見ぐるしいから夜のうちに早く首を刎ねなさいと、自分のほうから請求されたのです。
     さらに、法華経のおんために命を捨てるならば、海辺の砂と小判を交換するようなものである。黄金(こがね)にいさごをあきなうようなものであり、法華経のためには命なんていうようなものは何でもないと、このくらい命を捨てて正法にかけておられたわけであります。
     ですから、日蓮聖人はどんな難が幾度こようとも何の心配もなく、六十年の生涯を阿弥陀さまのお迎えを受けて、堂々と大往生をされたわけであります。
     お釈迦さまのご入滅は沙羅隻樹のもとですが、これがお悟りを開いて法を説かれたところから丑寅の方向へいって、八十年の生涯を遂げられ大往生されましたが、日蓮聖人もその儀式に従って、知ってか知らずにかわかりませんが、身廷から池上へと丑寅の方向へお歩きになって、池上で大往生されたのであります。
     これはお経の中にありますように、三世諸仏の説法の儀式によって三乗を説くというような言葉がありますが、如来の入滅もそのような一つの儀式があるといわれております。その儀式をとろうという気持ちであったかなかったか、本来は日立のお湯─温泉─へいって少し養生しようという目的でお出ましになったのですが、如来の法則に従って池上において六十年の生涯を閉じられたのであります。

  •    法の通りの実践にこそ功徳が

     さて今日の世相というものを見ますと、世の中の変化動揺などいろいろのことがございまして、何もかも信じられないような世の中だといわれております。
     ところが、仏さまの教えを本当に信じて行じている人にしてみれば、たいへん結構な世の中で、正しいことを堂々とおくめんなしに天下に向かって叫んでも、当時のように島流しにあうこともございませんし、刀で首を切られるようなこともないのであります。
     ですから、いまこそ正法を本当に叫ばれるとき、そして、叫んでもそれに対して弊害が伴なうようなときでなく、むしろ大衆が護らなければ、当時のように殺されるということでなく、人類が滅亡する方向へいきかねないという、そのような条件が出てきたのです。そういう間違った条件を正す意味からも、正法を護持することは、いかにむずかしいことであるかということであります。
     きょうのお会式への参加、またお参りを一つの基点といたしまして、法華経に対する信心を強くおこし、信心の強いところには救いがある。自分が絶対安心であることを自からの手でつかんでいただきたいと思います。
     信じられない人はああじゃないか、こうじゃないかと苦労が多いわけであります。信心のある人は動揺がなく、大安心をもっていられるわけであります。
     日蓮聖人は、竜の口の牢屋において首切りの座にのぼっても、「これ程の喜びを笑えぞかし」といって日朗上人を諌められたのです。そしてあした朝だと見ぐるしいから夜のうちに早く首を刎ねなさいと、自分のほうから請求されたのです。
     さらに、法華経のおんために命を捨てるならば、海辺の砂と小判を交換するようなものである。黄金(こがね)にいさごをあきなうようなものであり、法華経のためには命なんていうようなものは何でもないと、このくらい命を捨てて正法にかけておられたわけであります。
     ですから、日蓮聖人はどんな難が幾度こようとも何の心配もなく、六十年の生涯を阿弥陀さまのお迎えを受けて、堂々と大往生をされたわけであります。
     お釈迦さまのご入滅は沙羅隻樹のもとですが、これがお悟りを開いて法を説かれたところから丑寅の方向へいって、八十年の生涯を遂げられ大往生されましたが、日蓮聖人もその儀式に従って、知ってか知らずにかわかりませんが、身廷から池上へと丑寅の方向へお歩きになって、池上で大往生されたのであります。
     これはお経の中にありますように、三世諸仏の説法の儀式によって三乗を説くというような言葉がありますが、如来の入滅もそのような一つの儀式があるといわれております。その儀式をとろうという気持ちであったかなかったか、本来は日立のお湯─温泉─へいって少し養生しようという目的でお出ましになったのですが、如来の法則に従って池上において六十年の生涯を閉じられたのであります。

  •  こういうことも、いかにご法の通りの歩みをされておったか、その歩みの通りに歩んでおればこそ、そのように危険の場所がどんなにあっても最後にはちゃんと大自然の天寿を完うして、非業の死でなく堂々と大往生を遂げられるという大功徳をいただいたのであります。おおせのように、法華経行者のかなわぬことはない。また臨終の事を習うて他事を習うべしと叫ばれた言葉通り、臨終のときにはお弟子さんがみんな枕元に揃って、本尊を飾りお題目を唱えながら大往生されたのであります。
     まことに一代がそのように法華経のためにめでたく大往生されたという意味から、ある意味からいっておめでとうという言葉もそこに当はまると思うのであります。
     どうかそういう意味をかみしめて、このお会式を通じてまた一だんと大聖人のみあとを慕いて、二陣、三陣とつづけぞかしと号令された大聖人のお言葉のように、一人でも多くの人に呼びかけて、一人が一人を導くというこの仏国土の建設、仏さまの本願成就という大誓願のもとに、皆さま方の今後のご精進をお願い申し上げます。

  •  こういうことも、いかにご法の通りの歩みをされておったか、その歩みの通りに歩んでおればこそ、そのように危険の場所がどんなにあっても最後にはちゃんと大自然の天寿を完うして、非業の死でなく堂々と大往生を遂げられるという大功徳をいただいたのであります。おおせのように、法華経行者のかなわぬことはない。また臨終の事を習うて他事を習うべしと叫ばれた言葉通り、臨終のときにはお弟子さんがみんな枕元に揃って、本尊を飾りお題目を唱えながら大往生されたのであります。
     まことに一代がそのように法華経のためにめでたく大往生されたという意味から、ある意味からいっておめでとうという言葉もそこに当はまると思うのであります。
     どうかそういう意味をかみしめて、このお会式を通じてまた一だんと大聖人のみあとを慕いて、二陣、三陣とつづけぞかしと号令された大聖人のお言葉のように、一人でも多くの人に呼びかけて、一人が一人を導くというこの仏国土の建設、仏さまの本願成就という大誓願のもとに、皆さま方の今後のご精進をお願い申し上げます。