冒頭から私は、今日を憂うべき時代と申しておりますが、かかる時代に生まれ合わせたことを私どもは喜ぶべきであります。闇の中から出て来たものでないと光の有難さがわからないように、不確実で激変する今日であればこそ、私たちは神仏の御心が那辺にあるかを真剣に求めることが出来るのではないでしょうか。
私は過去数回にわたるIARFの総会に出席する度に、仏教の諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の真理についてお話をしてまいりました。と、申しますのは、この二つの真理を把握することなしには見失った神仏を心に見ることが出来ないからであります。
諸行無常とは、すべてのものは必ず変化し、同じ状態がいつまでも続くものではないということであります。即ち、無常なるものを恒常なるものとして執着し、欲がみたされないと愚痴を言うことの愚かさを戒しめているわけです。
そして諸行無常とは、一切のものは互いに関連し合い、支え合うものであって、他から孤立して存在するものは一つもないということであります。
しかし、前にもふれましたように、近代の傲慢なる人間は、このことを忘れ、あたかも自分ひとりでも生きられると思い込んでおりますから、そうした人間が集まれば、そこに対立が生ずるのは当然であります。従って私たちは、この諸法無我を徹底して噛みしめる必要があると存じます。そうすると、人間とは他の犠牲と協力に支えられ、そして恩恵を蒙って、初めて生きることが出来る存在だということが、心から理解され、理解されることによって真に人間らしい謙虚さを取り戻すことが出来るのであります。この謙虚さがなければ、争いや怒りを克服することはできませんし、他の痛みを理解することも、互いに拝み合う姿勢も生まれては来ないのです。従って、この諸法無我を心底から理解しない限り、〝人間は一人では生きられない。しかし、二人以上が集まると争いになる〞という皮肉は諺は、いつまでたってもなくすことはできないでありましょう。
以上、お話し致しました通り、諸行無常、諸法無我の教えを把握することによって、人間の心から貪りと怒りと愚痴を除いた時、そこに初めて涅槃寂静の状態が生まれるのであります。涅槃とは梵語のニルバーナ、いわゆる煩悩の炎が吹き消された状態を申すのでありまして、仏教では、平和のための外面的な諸制度を整えることよりも、更に深く、貪・瞋・痴の三毒を滅しない限り、涅槃寂静、即ち〝完全なる平和〞はあり得ないとするのであります。
タイトル名
別巻_00_00_第二十四回国際自由宗教連盟(IARF)世界大会〈オランダ〉記念講演〈プリンストン〉開会合同礼拝式の挨拶-0004
タイトルヨミ
ベッカン_00_00_ダイニジュウヨンカイコクサイジユウシュウキョウレンメイ(IARF)セカイタイカイ〈オランダ〉キネンコウエン〈プリンストン〉カイカイゴウドウライハイシキノアイサツ-0004
作成者
佼成出版社
(
コウセイシュッパンシャ
)
作成日
1982-11-15
和暦
昭和57年11月15日
言語
jpn
ボリュームタイトル
庭野日敬法話選集
ボリューム
別巻_第0章_第0節
人物キーワード
庭野日敬,開祖さま
内容
別巻_第二十四回国際自由宗教連盟(IARF)世界大会〈オランダ〉記念講演〈プリンストン〉開会合同礼拝式の挨拶