ヨハネ・パウロ二世の不幸な事件に対して、私はお見舞の電報を打ちました処、教皇庁から〝たしかに悲しむべき事件ではあったが、そういう事件が起る時代であればこそ、愛と平和が必要であり、それを渇望する世界のためにも、私たち宗教者は努力しなければならない〞という意味の礼状を頂戴致しました。まさしく今日が憂うべき時代であるだけに、私たち宗教者は如何に在らねばならないか、ということを改めて考え直してみる必要がありましょう。
先程から、私は憂うべき時代ということを申しておりますが、しかし、このような時代が今突然に、生まれてきたわけではございません。
西洋を中心に申しますが、暗黒の中世が終って、近代を迎えた。その一番の特徴は、ルネッサンスによって人間中心のヒューマニズムが誕生したことであります。極論すれば、神を追放し、人間の目でものを見、ものごとを考える時代になったわけであります。いわゆる、ニーチェのいう〝神は死んだ〞という時代であります。それ以来、なくなった神に代って、資本主義や社会主義といったいろいろなイデオロギーが入れ代わり、立ち代わり、その神の座に坐ってまいりました。換言すれば、物質が神の座に祀られたというか、物欲に取りつかれた人間が神の座に坐ったといっても良いでありましょう。つまり、近代は〝傲慢な人間の時代〞になったわけであります。傲慢な人間同士ですから、当然そこに対立抗争と混乱が生じます。それが今日であります。従って、今日の危機をもたらしたものは、近代的な人間自身であるといっても過言ではありません。トインビーの歴史観の底に流れるものも又、〝人間は文明を築く、そして築き上げた力で自ら崩壊する〞というものであり、従って、より高度の宗教が生まれて来なければならないというものであったと思います。
更に、近代に至って、人間が自分自身の力と価値に目覚めたことは評価されるにしても、その自信がエゴイズムに、さらに拍車をかけて今日の危険を深めていることも事実であります。〝神の死〞という言い方に対して、〝いや人間が神を見失ったのだ〞という人もおりますが、私どもが所依の経典とする法華経において仏陀は、〝我常に此に住すれども諸の神通力を以て顚倒の衆生をして、近しと雖も而も見ざらしむ〞と申されるとともに、〝質直にして心柔輭に一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず〞──という信仰をうながしておられます。
実に仏陀は、私どもに容易で形式的な信仰を戒め、不惜身命の心を起こさせるために姿を消すこともあるが、それもまた慈悲の故であると教えられているわけであります。まさしく現代がその時であり、神仏が私ども宗教者に形だけの信仰に堕していないかどうかの反省を迫られている時と解すべきでありましょう。
タイトル名
別巻_00_00_第二十四回国際自由宗教連盟(IARF)世界大会〈オランダ〉記念講演〈プリンストン〉開会合同礼拝式の挨拶-0004
タイトルヨミ
ベッカン_00_00_ダイニジュウヨンカイコクサイジユウシュウキョウレンメイ(IARF)セカイタイカイ〈オランダ〉キネンコウエン〈プリンストン〉カイカイゴウドウライハイシキノアイサツ-0004
作成者
佼成出版社
(
コウセイシュッパンシャ
)
作成日
1982-11-15
和暦
昭和57年11月15日
言語
jpn
ボリュームタイトル
庭野日敬法話選集
ボリューム
別巻_第0章_第0節
人物キーワード
庭野日敬,開祖さま
内容
別巻_第二十四回国際自由宗教連盟(IARF)世界大会〈オランダ〉記念講演〈プリンストン〉開会合同礼拝式の挨拶