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別巻_00_00_第二十四回国際自由宗教連盟(IARF)世界大会〈オランダ〉記念講演〈プリンストン〉開会合同礼拝式の挨拶-0004

  • 第二十四回国際自由宗教連盟(IARF)世界大会「オランダ」記念講演
    国際自由宗教連盟副会長 庭野日敬
     私に講演の機会を与えて下さった議長、並びに皆様に対して心からお礼を申し上げます。
     本日、私に与えられましたテーマは〝宗教は世界人類に平和をもたらし得るか〞というものでございます。結論から申しますならば、宗教でなければ世界人類に真の平和をもたらすことは出来ないと私は確信致しております。
     宗教の歴史をつぶさに眺めますと、たしかに宗教の興隆した時期もあれば、衰退した時期もございます。とくに今日は、宗教にとって危機の時代であり、宗教の真価が問われている時代であります。人びとは物質中心主義に毒され、人びとから宗教心が失われ、暴力が至る処で横行しております。レーガン大統領が狙撃され、続いてローマ教皇までが痛ましい事件に見舞われるというように、この二つの事件だけを似てしても、私たちは世を憂えざるを得ないのであります。状況はますます悪くなりつつある──これが多くの人びとの等しく抱くところの思いでありましょう。
     この美しいオランダのライデンにおいて、IARFの総会が開かれましたので、私はかつてライデン大学の総長をされた著名な学者、ホイジンガの言葉を引用させて頂きたいと思います。彼は〝中世の人間より近代の人間の方が利口だと思っているようだが、それは疑わしい〞と言っております。彼が、この言葉をはいた一九三〇年代というものは、ラジオの全盛時代でありました。ラジオの影響によって、人びとの頭は表面的な浅い知識でいっぱいになった代わりに、人びとは確たる生活体験もない根無し草のような人間になってしまったことを、ホイジンガは指摘したかったわけでありましょう。つまり、彼によれば、中世の農夫や漁夫は世界のことについては何も知らなかったかも知れないが、自分でしっかりと大地に足をおろして生きていたので、その生活体験をふまえて、自分や自分の周囲のものごとに対して肥えた眼で見つめ、そして考えることが出来たというのであります。
     このホイジンガが心配していた当時よりも、今日の人びとの知識は、情報洪水という言葉が示すように、遙かに豊富になっております。テレビの普及、交通の発達によって、私たちは世界中のことを速やかに知ることが出来ますし、月世界のことまで知っております。知ってはおりますが、それは頭の中だけのことで、とりわけ厳しい人生体験をもっているわけではありませんから、自分の存在とか、人生の意義について考えることも、知ることもありません。それでいて、たくさんの情報によって物知りの立派な人間だと自ら思い込み、理屈や主張だけが達者になっております。つまりホイジンガが憂えた時代以上の憂うべき時代が今であると言えるわけであります。

  •  ヨハネ・パウロ二世の不幸な事件に対して、私はお見舞の電報を打ちました処、教皇庁から〝たしかに悲しむべき事件ではあったが、そういう事件が起る時代であればこそ、愛と平和が必要であり、それを渇望する世界のためにも、私たち宗教者は努力しなければならない〞という意味の礼状を頂戴致しました。まさしく今日が憂うべき時代であるだけに、私たち宗教者は如何に在らねばならないか、ということを改めて考え直してみる必要がありましょう。
     先程から、私は憂うべき時代ということを申しておりますが、しかし、このような時代が今突然に、生まれてきたわけではございません。
     西洋を中心に申しますが、暗黒の中世が終って、近代を迎えた。その一番の特徴は、ルネッサンスによって人間中心のヒューマニズムが誕生したことであります。極論すれば、神を追放し、人間の目でものを見、ものごとを考える時代になったわけであります。いわゆる、ニーチェのいう〝神は死んだ〞という時代であります。それ以来、なくなった神に代って、資本主義や社会主義といったいろいろなイデオロギーが入れ代わり、立ち代わり、その神の座に坐ってまいりました。換言すれば、物質が神の座に祀られたというか、物欲に取りつかれた人間が神の座に坐ったといっても良いでありましょう。つまり、近代は〝傲慢な人間の時代〞になったわけであります。傲慢な人間同士ですから、当然そこに対立抗争と混乱が生じます。それが今日であります。従って、今日の危機をもたらしたものは、近代的な人間自身であるといっても過言ではありません。トインビーの歴史観の底に流れるものも又、〝人間は文明を築く、そして築き上げた力で自ら崩壊する〞というものであり、従って、より高度の宗教が生まれて来なければならないというものであったと思います。
     更に、近代に至って、人間が自分自身の力と価値に目覚めたことは評価されるにしても、その自信がエゴイズムに、さらに拍車をかけて今日の危険を深めていることも事実であります。〝神の死〞という言い方に対して、〝いや人間が神を見失ったのだ〞という人もおりますが、私どもが所依の経典とする法華経において仏陀は、〝我常に此に住すれども諸の神通力を以て顚倒の衆生をして、近しと雖も而も見ざらしむ〞と申されるとともに、〝質直にして心柔輭に一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず〞──という信仰をうながしておられます。
     実に仏陀は、私どもに容易で形式的な信仰を戒め、不惜身命の心を起こさせるために姿を消すこともあるが、それもまた慈悲の故であると教えられているわけであります。まさしく現代がその時であり、神仏が私ども宗教者に形だけの信仰に堕していないかどうかの反省を迫られている時と解すべきでありましょう。

  •  冒頭から私は、今日を憂うべき時代と申しておりますが、かかる時代に生まれ合わせたことを私どもは喜ぶべきであります。闇の中から出て来たものでないと光の有難さがわからないように、不確実で激変する今日であればこそ、私たちは神仏の御心が那辺にあるかを真剣に求めることが出来るのではないでしょうか。
     私は過去数回にわたるIARFの総会に出席する度に、仏教の諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の真理についてお話をしてまいりました。と、申しますのは、この二つの真理を把握することなしには見失った神仏を心に見ることが出来ないからであります。
     諸行無常とは、すべてのものは必ず変化し、同じ状態がいつまでも続くものではないということであります。即ち、無常なるものを恒常なるものとして執着し、欲がみたされないと愚痴を言うことの愚かさを戒しめているわけです。
     そして諸行無常とは、一切のものは互いに関連し合い、支え合うものであって、他から孤立して存在するものは一つもないということであります。
     しかし、前にもふれましたように、近代の傲慢なる人間は、このことを忘れ、あたかも自分ひとりでも生きられると思い込んでおりますから、そうした人間が集まれば、そこに対立が生ずるのは当然であります。従って私たちは、この諸法無我を徹底して噛みしめる必要があると存じます。そうすると、人間とは他の犠牲と協力に支えられ、そして恩恵を蒙って、初めて生きることが出来る存在だということが、心から理解され、理解されることによって真に人間らしい謙虚さを取り戻すことが出来るのであります。この謙虚さがなければ、争いや怒りを克服することはできませんし、他の痛みを理解することも、互いに拝み合う姿勢も生まれては来ないのです。従って、この諸法無我を心底から理解しない限り、〝人間は一人では生きられない。しかし、二人以上が集まると争いになる〞という皮肉は諺は、いつまでたってもなくすことはできないでありましょう。
     以上、お話し致しました通り、諸行無常、諸法無我の教えを把握することによって、人間の心から貪りと怒りと愚痴を除いた時、そこに初めて涅槃寂静の状態が生まれるのであります。涅槃とは梵語のニルバーナ、いわゆる煩悩の炎が吹き消された状態を申すのでありまして、仏教では、平和のための外面的な諸制度を整えることよりも、更に深く、貪・瞋・痴の三毒を滅しない限り、涅槃寂静、即ち〝完全なる平和〞はあり得ないとするのであります。

  •  さて、いま私は諸行無常、すなわち、一切のものは変化することが真理だと申しましたが、私たち宗教者もまた変わらなければならぬことを認める勇気が必要です。あたかも傲慢な人間が、その傲慢な自分を否定し懺悔しなければ救われないように、宗教者自身もまた、否定しなければならぬものは何かについて謙虚に反省してみなければなりません。
     では一体、その否定しなければならぬものは何か、それはドグマであり、宗教者のエゴイズムであります。これに宗教者が捉われている限り、宗教協力も、従って人類に平和をもたらすこともできないのであります。私たち宗教者が単なる伝統と偏見に固執し、諸行無常と諸法無我の真理に背を向けている間に、世界の現実はどんどん変化しております。
     四十年前の第二次世界大戦が始まった時に較べて、人口は約二倍の四十二億、そして国の数は三倍の約百六十を数え、東西両陣営間の問題に更に南北問題が加わって複雑化しております。いや、宗教の世界においてさえ著しい変化が現われております。欧米の諸大学では、東洋思想すなわち中国哲学、インド哲学、日本の仏教とくに禅、そしてイスラムに関する講義が行われるようになっております。
     イスラム教は砂漠の国々だけの宗教ではなくなって来ております。ヒンズー教も印度だけのものではなく、いろいろな形をとって世界の国々に輸出されております。日本のIARFのメンバーである椿神社にもアメリカの青年が神道の勉強に来ております。仏教においても又然りであります。私どもの立正佼成会でも、アメリカにいくつかの教会を建てておりますが、しかし私たちは、アメリカが神道や仏教の国になるなどとは毛頭考えてはおりません。キリスト教が世界を支配するということもまた、あり得ないでありましょう。そこで、いろいろな宗教が存在するということは、真理を具現化するために相互に補完し合い、助け合うためであるという認識が大切になってまいります。
     いみじくも日本の伝教大師は〝一目の網は鳥を得ること能わず〞と申されております。大師は今を去る千年以上も前の方でありますが、これを今日的に解釈いたしますならば、網の目が一つしかない網では一羽の鳥も得ることができないように、諸宗教も又、協力という網の目を密にしなければ人類に応答することは出来ないということであります。中世から近代になって、私たち宗教者も又、ドグマによる傲慢とエゴイズムのとりこになっていたことを反省したいものであります。そして、漸く互いの宗教を尊重しつつ、諸宗教の背後にある真の宗教とは何かを模索している段階が来ているわけであります。私は、その先駆者的集団であるIARFの皆様の先見性と英知に讃辞を惜しまないものであります。

  •  いまや世界共同体の建設は人類の目標となっております。それは世界政治と経済の仕組みの大きな変革だけを意味するものではありません。究極的には、人間の精神の改革をぬきにして、世界共同体の建設は絶対に達成されるものではありません。たしかに人間の心を改革しない限り、世界の平和は達成できないということは事実であります。そして、その人間の心を変えることこそ、私たち宗教者の使命であります。
     しかし、人びとは〝人間の心を変えるなどということは簡単に出来るものではない〞と申します。しかし、人間の心を変えることは、物を変えるより易しいと言えるのではないでしょうか。
     ここに一本の材木があると致します。これを鉄に変えるようにと言われても、貴方にはそれが出来るでしょうか。これに対して〝貴方の心を占領している争いの気持ちや貪欲を捨てなさい〞と言われたならば、貴方は〝絶対に不可能である〞とは言われない筈です。恐らく、誰もが〝やれば出来るかもしれない〞と感じられるに違いありません。しかも、心を変えることは一瞬にして出来るケースは多々ございます。仏教でいう〝娑婆即寂光士〞とは、そのことを指しているわけであります。
     私どもの立正佼成会が、そして、皆様方が懸命に布教に取り組んできたのも、人間の心は改造することが出来るという可能性を信じているからに他なりません。心を変えることによって幸せになった人々をたくさん私は見て来ましたし、皆様も又、そうでありましょう。
     スモッグによって都会に住む私たちが、空の星を見ることが出来なくなったように、現代の人びともエゴイズムと合理主義と物質によって神仏を見失ってしまったことは否定できません。なればこそ、先ず私たち宗教者自身がエゴを克服し、互いに研鑽し合い、全ての宗教と人びとを包み込む、新しい宗教に脱皮した時に初めて、宗教は世界と人類に平和をもたらし得ると私は申し上げたいのであります。その開拓者こそがIARFであり、その意味で私は、IARFの繁栄を心から祈念致しまして、私のご挨拶とさせて頂きます。
     ご清聴まことに有り難うございました。
    昭和五十六年七月二十六日 (ラィデン、ノートヴェッカーハウト・レーベンホルスト会議場チャペルで)