法華三部経の要点 ◇◇110
立正佼成会会長 庭野日敬
懺悔なくして宗教なし
同信の人への懺悔の尊さ
仏説観普賢菩薩行法経に入ります。このお経は、お釈迦さまが法華経をお説きになったのち、ビシャリ国の大林精舎で説法されたもので、懺悔(サンゲ)ということが徹底して説かれているために一名「懺悔経」とも呼ばれています。
懺悔とは、自分の心の罪や行いの過ちを「ああ悪かった」と反省し、それを告白することを言います。それには二つの段階があります。一つは、同信の人や指導者に対し、言葉に表して告白することです。もう一つは、目に見えぬ神仏に向かって、自らの至らなさを悔い、心身の行いを改めることを誓うことです。
このお経には、おおむね第二の懺悔について説かれていますが、第一の懺悔もたいへん大切なことです。現実の問題として、初信の人にとっては、目に見えぬ神仏に向かって懺悔しても心が洗われたように清まる実感はなかなか得られません。それに対して、生きた人間に己の罪や過ちを思い切って打ち明ければ、心に溜っていた醜いものが洗いざらい排出されたような、なんともいえない清々しさを覚えるものです。
その気持ちこそが尊いのです。その清々しさは、心から「我」がすっかり吐き出されて空(から)っぽになった状態です。そうして空っぽになればこそ、そこへ真理がどんどん入りこむことができるのです。また、神や仏に帰依する真心もそのあとを埋めることができるのです。醜いものが充満しておれば、そのような尊いものは入って来られませんから。
「懺悔なくして宗教なし」という言葉は、そこのところを喝破しているわけです。
普賢菩薩を観ずるとは
さて、このお経は、題名の通り、普賢菩薩を観ずることがその大部分を占めています。観というのは、精神を統一し、智慧をいっぱいに働かせて、仏や、法や、そのほか宇宙・人生のさまざまな事象を観察し、思索し、そして悟りを開くことに努めることをいうのです。
といっても、そういうことは一般のわれわれにはたいへん難しいことですので、仏教では普通の人間にもできる方法(観法という)を教えています。それは、具体的ななにものかに心を集中し、それを見つめ、一心に念ずることです。普賢菩薩を観ずるというのも、そういった観法の一つです。
普賢菩薩は、理・定(じょう)・行をつかさどる菩薩とされていますが、表面的には「行」を象徴する菩薩です。われわれ在家の信仰は「行の菩薩」と観ればそれで十分だと思います。
われわれは法華経を学び終えて、宇宙と人生の実相を知り、新しい勇気をもって再出発しようとしています。しかし、日常生活の実情はどうかといいますと、往々にして汚い欲や悪い念を抑えきれぬこともあり、自己本位に陥って、法華経の神髄である「他を幸せにする行い」を怠りがちになります。
ですから、ここで普賢菩薩を観ずることによって懺悔の心を起こし、改めて心を清め、動揺を静め、徳を積む行いの実践へとおもむかなければならないのです。法華経の結経(けつぎょう=結びの経)としてこのお経が説かれたのは、そういう理由によるものであります。
立正佼成会会長 庭野日敬
懺悔なくして宗教なし
同信の人への懺悔の尊さ
仏説観普賢菩薩行法経に入ります。このお経は、お釈迦さまが法華経をお説きになったのち、ビシャリ国の大林精舎で説法されたもので、懺悔(サンゲ)ということが徹底して説かれているために一名「懺悔経」とも呼ばれています。
懺悔とは、自分の心の罪や行いの過ちを「ああ悪かった」と反省し、それを告白することを言います。それには二つの段階があります。一つは、同信の人や指導者に対し、言葉に表して告白することです。もう一つは、目に見えぬ神仏に向かって、自らの至らなさを悔い、心身の行いを改めることを誓うことです。
このお経には、おおむね第二の懺悔について説かれていますが、第一の懺悔もたいへん大切なことです。現実の問題として、初信の人にとっては、目に見えぬ神仏に向かって懺悔しても心が洗われたように清まる実感はなかなか得られません。それに対して、生きた人間に己の罪や過ちを思い切って打ち明ければ、心に溜っていた醜いものが洗いざらい排出されたような、なんともいえない清々しさを覚えるものです。
その気持ちこそが尊いのです。その清々しさは、心から「我」がすっかり吐き出されて空(から)っぽになった状態です。そうして空っぽになればこそ、そこへ真理がどんどん入りこむことができるのです。また、神や仏に帰依する真心もそのあとを埋めることができるのです。醜いものが充満しておれば、そのような尊いものは入って来られませんから。
「懺悔なくして宗教なし」という言葉は、そこのところを喝破しているわけです。
普賢菩薩を観ずるとは
さて、このお経は、題名の通り、普賢菩薩を観ずることがその大部分を占めています。観というのは、精神を統一し、智慧をいっぱいに働かせて、仏や、法や、そのほか宇宙・人生のさまざまな事象を観察し、思索し、そして悟りを開くことに努めることをいうのです。
といっても、そういうことは一般のわれわれにはたいへん難しいことですので、仏教では普通の人間にもできる方法(観法という)を教えています。それは、具体的ななにものかに心を集中し、それを見つめ、一心に念ずることです。普賢菩薩を観ずるというのも、そういった観法の一つです。
普賢菩薩は、理・定(じょう)・行をつかさどる菩薩とされていますが、表面的には「行」を象徴する菩薩です。われわれ在家の信仰は「行の菩薩」と観ればそれで十分だと思います。
われわれは法華経を学び終えて、宇宙と人生の実相を知り、新しい勇気をもって再出発しようとしています。しかし、日常生活の実情はどうかといいますと、往々にして汚い欲や悪い念を抑えきれぬこともあり、自己本位に陥って、法華経の神髄である「他を幸せにする行い」を怠りがちになります。
ですから、ここで普賢菩薩を観ずることによって懺悔の心を起こし、改めて心を清め、動揺を静め、徳を積む行いの実践へとおもむかなければならないのです。法華経の結経(けつぎょう=結びの経)としてこのお経が説かれたのは、そういう理由によるものであります。